急激な凋落をもたらす日本的体質


                                                     1999/4/17.







     世界の経済大国という成功はほんのつかの間、夢かうたかたか、まぼろしのよう。

     この十年間のうちに日本的凋落のかずかずの兆候は噴出しつづけた。


     このような繁栄と没落のパターンは日本史上において何度もくり返されてきた。

     大正デモクラシーと敗戦、元禄と享保時代、室町時代と応仁の乱――。

     日本の繁栄というのはいつも急激な成長と極端な凋落のもと突然終わりを告げる。

     その成長と凋落はだいたい6〜70年周期でくり返されており、これは鎖国時代においては

    伊勢神宮への国民大移動という「お陰参り」の周期とぴったり重なっている。

     どうもこの70年周期の繁栄というパターンは日本社会にビルト・インされているようだ。

     (参考文献 中西輝政『なぜ国家は衰亡するのか』 PHP新書)


     3〜40年のうちにあっという間に頂点に昇りつめ、あっという間に奈落の底。

     敗戦から高度成長期、そしてバブル、そのあとの平成大不況。

     明治では日清、日露戦争の勝利、大正デモクラシー、そして昭和恐慌、太平洋戦争――。

     成功体験はある時点を境に見事に失敗体験にすりかわる。

     信じられていたエリートは腐敗の象徴に失墜し、国家保護による安定神話は崩壊し、

    それまでの成功者は落ちぶれた失敗者に変わる。


     これは生物界における大量発生した生物がとつぜん疫病で死滅する現象に似ているのか、

    それともポトラッチのような富の破壊なのか。日本人の集団というのは無意識のうちに

    このような富の蓄積と破壊を交互にくり返すのだろうか。なにかの役に立っているのか、

    それともなにかの動物的本能につき動かされているのだろうか。

     富の増加はとうぜん人口増加をももたらすわけだから、狩猟採集時代においては、

    食糧不足などによる大量死滅などの経験や危機感があり、それが日本人の無意識の記憶に

    組み込まれているのかもしれない。日本的風土による抑制装置というわけだ。

    3、40年、2世代くらいで人口増加の抑制は働くのである。


     たしかに戦争によって大量の人口抑制は働いた。しかしこれは救いがたい悲劇だ。

    こんな救いのない歴史はくり返してはならない。

     だけど、日本は戦後においてもまたもや同じような轍を踏んでいるように思えてならない。

    急激な成長と急激な凋落はまたもやくり返されてしまった。勃興期の戦争と経済という

    道具――表面的なものは違っているが、社会的体質はまったく同じものだ。日本の失敗は

    この急激な成功――早まり過ぎた成長が招いたものではないのか。


     日本はあまりにも単一目標に凝集しすぎるのだ。そしてそれがカタストロフィ(破滅)を招く。

    たとえ表面的な目標は違っていても、その単一目標へ全精力が結集される力は同じだ。

    その凝集力が逆に日本を破滅的状況に導き入れる。昭和の敗戦、そして今回の経済主義

    による第二の敗戦――とこれから起こるかもしれない惨劇も、この凝集力が招いたものだと

    わたしは信じている。


     経済一本槍の社会風土がかならずなんらかの報復をもたらすだろうとわたしはずっと前から

    思ってきた。これはわたしが受けてきた教育の戦前の戦争一本槍の教訓から感じとってきた

    ものだと思うのだが、そのような教訓を与える社会自身は、またもや単一目標(経済)を追究

    しているのである。似たようなカタストロフィを経験するしかないなと思った。日本社会はほんと

    に愚かだ。なぜこんなに愚かなんだろうか。


     日本人を画一化する勢力や能力があまりにも強すぎるのだ。画一化を強制する狭隘な

    社会的雰囲気があまりにも強すぎる。トインビーにいわせるとミメーシス(模倣)の力だ。

    このミメーシス(自動化)の力が強くなると、こんどは創造力の芽がまるで育たなくなる。


     日本の成功の――成長の理由はこのミメーシス能力にある。徹底的に創造力の芽を

    ぬきとり、そのおかげで急激な成長は可能になるが、同時にそのネメシス(復讐の神)の

    報復を受けるのである。創造力をつみとったツケはあまりにも大きい。


     ミメーシスの力はなぜこの社会で圧倒的に働くのか。国家教育の力はたしかにものすごく

    強い。自分で考えたり、新しい道を切り開く能力を育てることより、既成知識の吸収と暗記

    のみに費やされる教育期間は子どもたちの創造力を破壊するのには十分だろう。

     ただし、教育だけでそれほどまでの効果をあげるかは疑わしい。日本には生き方の自由が

    ない。その拘束力が創造力の破壊に多大の力をふるっていると思われる。生き方の自由が

    なければ、創造力も発揮できず、新たな発見や発明もなされず、ミメーシス能力だけが肥大

    する社会がつくられる。創造力を発揮する最大の土壌となる生き方の実験ができなければ、

    おそらく創造性は生まれないだろう。


     世間や社会のなかに「みんなと同じ生き方をしろ」という圧力・強制力がひじょうに強い。

    それは至上の「道徳」としてまかり通っている。みんなと同じ生き方が「道徳」になって

    しまっている。生き方が道徳の範型として押え込まれるのである。このような世間の強制力は

    必ずつぎの時代のための創造力を枯渇させるだろう。


     徹底的な「自動化」が社会の中に組み込まれるわけだ。ミメーシスと画一化の波のなかで

    それを至上の道徳と信じる人たちに満たされる。それによって急激な成長がもたらされる。

    ただし、その社会組織の完成により、次代の創造力はまったく息の根を止められる。

    そして成長の目標が終ったとき――つまり達せられたとき、次の時代の方向感覚と目標は

    まったく更地となっているというわけだ。あとはミメーシス人間による右往左往がつつぎ、

    破滅的状況へまっしぐらというわけだ。


     これである。日本社会の中において、急激な生き方の画一化が進められて、

    だれもかれもがその道徳の中から脱け出せなくなる。この生き方の画一化が単一目標への

    急激な成長をもたらすが、同時に次代の創造力と方向性を奪いとってしまうのである。

    社会目標の統一と生活の画一化が急激に完成する。そしてその息苦しい生活空間の中で、

    人々の精神・目標・規範は崩壊してゆき、その荒廃からも脱け出すことができなくなり、

    カタストロフィーを迎える。画一化・ミメーシスの力が極端に働くわけだ。


     なぜ画一化が進むのだろうか。富の蓄積は成功コースを生み出し、人々の生き方の

    範型をかたちづくってしまうことも一因ではないだろうか。そのような成功コースを社会が

    のぞみ、学校教育が与えれる。そしてそのコースにしたがったミメーシス人間が大量に

    生産され、ぞくぞくと成功コースを歩む。その先は地位・ポストのインフレであり、所得の

    インフレであり、創造性の枯渇である。


     固まった社会は固まった人生コースを強制し、急激に保守化し、冷めた社会に逆戻りする。

    急激に冷えた社会はなぜか生き方の画一化の強制が激しくなり、それが道徳の範型として

    強制されるようになる。なぜなんだろうか。

     ある程度固まった社会は人々の極端な優越や劣位を許さなくなる。上へも下へも行くな、

    平均的であれ、ミメーシス的な人間はそのようなルサンチマン(逆恨み)を抱くようになるの

    だろうか。これは政府や政治の力によって実現される。平均から外れる人間は仲間外れ

    として罰せられ、画一化・平準化の力はますます猛威を振るうようになる。こうして画一化

    した社会は完成し、ますます社会は冷めて、固まってゆく。人々のパワーはなくなり、

    エネルギーも失われてゆく。もうこうなれば、社会はその原動力となる熱い中心を失い、

    どんどん活力やバイタリティを失ってゆくのだろう。


     繁栄の頂点を迎える前から、アパシー(無気力)や既成の人生コースからドロップ・アウト

    してゆく人が増えてゆく。これはだいたい新しい時代から40年目あたりに目立ってくる。

    そしてあとはカタストロフィまっしぐらという具合だ。


     このような明治・大正にもくり返された70年周期のパターンを日本は止めることができる

    だろうか。それには途方もないさまざまな要素が絡んでくると思われるので不可能のように

    思える。しかしこの急激な成長・繁栄と凋落というパターンを防ぐ、もしくは緩やかにすることは、

    下り坂の時代の息苦しさの不快感を体験してきたわたしにとってはぜひ願いたいことだ。

    こんな失敗を二度とはくり返してはならないし、歴史の教訓もあるわけだ。


     @それにはまずは社会のすべての人を統一してしまう目標を設定しないことだ。

    目標がひとつの集中されると社会の全勢力が総動員されるわけだから、これは必ず

    歪みをもたらす。ほかの価値観が抹殺されるということは、ほかの創造力の芽を抹殺すること

    である。目標の達成のさいにはすでにつぎの時代の活力と創造力は枯渇してしまっている。

     Aまた急激な社会成長を警戒することである。これは必ず反動をもたらす。社会目標は

    ひとつに統一されているわけだから、この成長は創造性の破壊の兆しでもあり、

    またミメーシス化の増大でもある。ゆるやかな成長が、その極端な凋落を防ぐという点でも

    必要だろう。

     B画一化・平準化の圧力にも十分注意すべきだ。これは創造性の死滅の兆候だ。

    この力が圧倒的になったとき、その社会はもはや下り坂を下る運命を決定されているのだろう。

    画一化の力をゆるめるということは、急激な成長や統一目標とも絡まっており、

    大事なことである。


     社会はあらゆる方向からこのような力を働かせ、活力減を死滅に追いやる。

    すでに息苦しさややりきれなさを社会の成員が感じるようになっていても、その進行を

    みずからの力で止めることができなくなってしまっている。そうならないために、あるいは

    ゆるやかな下り坂を降りるために、「統一目標・急成長・画一化」という社会の力には

    十分な警戒が必要だと思う。


     日本は近代において二度の過去の断絶をおこなって、急成長してきた。

    過去の全否定・全批判が特徴である。そのために急激な成長が可能になった。

     しかしそれは極端な成長とカタストロフィという経験を日本にもたらした。

    歴史や過去の全否定が目を見張る急成長をもたらしたのだが、同時に急激な破滅をも

    もたらした。過去の断絶は両刃の刃である。これも歴史のひとつの教訓である。

     過去の否定は過去のイノベーション・のりこえを可能にするが、伝統や歴史の叡智や知恵

    といった世代間につたわる暗黙知まで破壊してしまう。気分的にはわたしも過去の全破壊を

    のぞんできたほうなのだが、人間の知性は環境破壊のようにみずからのおこないがどのような

    結果を招来するか知り得ることができない。ここはひとつゆるやかな進展がのぞまれる。


     昭和の日本が急激な下り坂を経験したように、現在の日本もまたもや同じ体験を

    くり返そうとしている。まったく見事に「歴史はくり返す」である。カタストロフィは稲村博の

    80年周期によると2025年、70年周期では2015年に迎えるということになる。

     これからの日本がそうならないために、息を吹き返すために、画一化の強制力というもの

    を抑制することが求められているのではないだろうか。






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    参考文献

     中西輝政『なぜ国家は衰亡するのか』 PHP新書

     堺屋太一『峠から日本が見える』 新潮文庫

     稲村博『若者・アパシーの時代』 NHKブックス

     そのほかの文明論・歴史書は「歴史の中に、未来を見出すことができるか」



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