戦後の序列順位と幸福


                                               1999/4/11.





    いまさら言うまでもないことだが、戦後の日本は金持ちや出世すること、モノをたくさんもつこと、

   そういったことに価値がおかれてきた。その至上価値は無条件に「スゴイ」ことであり、

   「すばらしい」ことであり、「だれもがめざすべきもの」であった。こういった風潮に疑問や意義を

   投げかける人はいつの時代でもいたのだろうが、現在から見ると、決して功を奏していない。

   そのような価値観は人々の心の奥底まで染みついている。


    その価値観に順位づけられた序列で、思わず人を測ってしまう心の習性がわれわれに

   巣食っている。金持ちは「エライ」のであり、成功した人は「ウラヤマシイ」のであり、われわれは

   反射的にそう思う。逆に貧乏は「みじめ」であり、失敗した人は「あわれ」なのである。

   そこに価値判断が働いているという意識はとうぜんない。無条件に富は善であり、貧は

   悪なのである。恐ろしいほどまでにこの価値判断は絶対的なものになっている。


    新しい価値基準は残念ながら日本には芽生えなかった。なぜなんだろうかと思うが、やっぱり

   時代の圧倒的な趨勢というものなんだろう。われわれは金ピカの先進アメリカ消費社会に

   魂を抜かれて、狐憑き状態になったわけだ。これほどまでに単一目的を追求する社会体制、

   国家体制というのはある状態でしかなしえない。つまり戦争状態だ。国家を単一目的に緊縛

   できる状態というのはよほどの緊急事態のみである。貧困に対する危機意識がそうとう

   駆り立てられたのだろう。日本人はこの呪縛からまったく抜け出せなかった。


    80年代に日本は経済大国としての成功を世界に知らしめたが、成功は同時に目的の終わりを

   も告げた。金持ちになるという国家プロジェクトは見事に終わり、人々はそのプロジェクトから

   解放されたわけだが、まるで定年退職したサラリーマンのように途方に暮れるしかなかった。

   ロシアでも約70年ぶりに社会主義から市場主義に移行して人々はとまどっているそうだが、

   日本の場合は明治からのプロジェクトも足すと約120年ぶりの自由な状態に放り出されたわけだ。

   「洗脳」の度合いはロシアなみではない。


    われわれの認識というのは恐ろしいほどまでに単一の価値観によって順位づけられている。

    金持ちか貧乏かというモノサシだけでしか人や物事を測ることができなくなってしまっている。

    成功したり、有名になったり、ブランド品をたくさんもったり、一流会社に属したり、

   そういったモノサシでしか人を測れない。すべてカネという単一価値に収斂してしまうのである。

   いまさらそんなことをわざわざ言うまでもないことだし、道徳的に善人ヅラして非難する気もない。

   これは圧倒的な「社会的現実」としてわれわれの前にある。


    ただわれわれにはこんな成金志向の価値観だけでいいのかという気持ちがあるし、カネや

   社会的上昇の夢だけでは幸福になれないことも知っている。しょせんはちっぽけな夢だし、

   卑小で貪欲な醜悪さをさらけ出すだけし、社会的上昇の可能性の幻想も薄れてきた。

   金ピカのメッキは親たちの世代よりはるかにハゲている。


    それでもわれわれは従来どおりの価値観で生きることを余儀なくされている。

    おそらくわれわれは戦後の金ピカの序列順位しか知らないし、そのモノサシによる劣位を

   怖れたり憐れんだりする感情が条件反射的になってしまっているからではないかと思う。

   序列の劣位を恐れてしまうと見事にその価値序列に呪縛されてしまうわけだ。

   社会的上昇の夢はかなり薄れているが、社会的劣位への降格の怖れは依然として強固にある。

   おかげで戦後金ピカ価値観の呪縛から抜け出せないというわけだ。それを怖れる心には

   たったひとつのハシゴしか用意されていない――もちろん戦後特製の金ピカ・ハシゴだ。


    結局のところ、戦後の序列順位から脱け出し、自由な生きかたや多様な価値観を生み出す

   には、そういった怖れる心をつき破らなければはじまらない。戦後の50年間、虐げられ、

   貶められてきた価値観の再評価・再検討が必要だというわけだ。金ピカの価値観がたいした

   ものではないとわかったのなら、その劣位である貧困もたいして恐ろしくないものであると

   いうことにはならないだろうか。優越が「まやかし」であったのなら、劣等もたいして変わりはない。

   どっちもどっちだということだ。


    それともうひとつ、序列順位によって幸福を測ってきた戦後日本人というのは、

   ただ他人から評価されることばかりを幸福と思い込んできたわけだ。他人のまなざしに

   みずからの幸福をあずけてきたわけだ。そして幸福感も他人によって判断されるというわけだ。

   だからわれわれは車とか豪邸とかブランド品とかの金ピカなものを見せびらかして、

   「優越の判断」を――あるいは「幸福の認定」を人々に訴えて回ったのである。


    人から評価されたり、価値あると思われたりすることの願望や競争はなにもいまはじまった

   ばかりではなくて、人類の歴史をつき動かしてきた原動力であったと思われるのだが、

   西洋化された人間はさまざまな国からもたらされる「モノ」にその認知のモノサシを求めてきた。

   フランスのワインがよいだとか、ドイツの車であるとか、イタリアのファッションであるとか、

   そういったモノによって優越や幸福の記号は承認されてきたのである。


    モノによる優越と幸福の判定というのは、あのうんざりする80年代とバブルにより、

   終焉をむかえたと思ったのだが、人間の性根というのはそうそう変わらない。最近では

   携帯電話という絶好の優越記号がお目見えになったし、ブランド熱もあいかわらずのようだ。

   ただいっときのような高級品狂奏曲のようなものは再燃はしていないが、モノによる人間の

   優越や幸福の認知という行いはこれからもつづいてゆくんだろうな……。


    他人の評価によって優越や満足を味わうという幸福感は、人間のひじょうに根源的な欲求

   であるけれども、浅はかであるし、「待ち」を食らった犬のようにブザマだし、人間の虚栄と見栄

   の部分だけ突出してしまうし、自分の心の幸福を他人任せにするというのはあまりにもリスクが

   大き過ぎるようにわたしには思える。といっても人間から他人の評価による優越や対等承認と

   いうのをすべて抜きとってしまうのはかなり難しいと思うし、そんなことが可能なのかも怪しい。

   中世の世をはかなむ世捨人や隠者だって、ちゃんと世間に詩や文章を残しているくらいなの

   だから。


    まあとにかくは他人の評価による優越感とか幸福感を、戦後のこれまでのように

   あまりにも重きをおく人生はやめておくべきだとわたしは思う。「他人の評価だけが人生だ」

   というのはあまりにもバカだ。みずから他人の思惑に首輪づけられているという点で「奴隷」

   以下だ。

    もちろん他人の思惑をそれほどまでに怖れるようになったのは、先ほどまでのべていたような

   戦後の価値序列があり、その劣位による不利益、実際的脅威とかがあったわけだが、

   必要以上に怖れ過ぎれば、他人の評価にふりまわされる猿回しでしかなくなる。

   金ピカ・ハシゴをやっきに昇りつめようとする衝動と同じことだ。


    でもこんなことを言わなくとも戦後50年働きつづけてきた現在の日本人はモノによる承認とか

   評価がたいしたものではないということにだいぶ気がついていると思う。家の中にいっぱい

   家電製品をつめこんでも家族関係はどんどん醒めてゆくばかりだし、子どもからは粗大ゴミ

   あつかいされてぼろクソにイジメられるし、きょうびではお慕い申しあげていた企業からは

   首斬りリストラだ。他人によいように、よい子として見られようとして生きてきたって、

   けっきょくはこのザマ、この仕打ちだ。このようなモデルを見せつけられても、まだ他人の評価

   による幸福や優越感を求めつづけようと思うだろうか。


    幸福のモノサシは他人の評価より自分の価値観にスライドさせたほうがいい。

    人から認められたり、承認されたりすることの喜びより、自分自身にとってうれしいこと、

   楽しいことのモノサシを優先すべきなのだ。

    そこにはとうぜん他人から評価されなかったり、侮蔑されたりする冷たい視線という試練が

   まず第一関門としてあるわけだが、しかしこれを恐れていたからこそ、われわれは他人の評価や

   思惑の奴隷になってきたということを思い出すべきだ。自分の価値観を追究して白い目を

   向けるような人にはあわれみをもって返してあげたらいい。かれらもそうやって他人の評価の

   奴隷に釘づけられるしかなかったのだから。


    他人の評価から逃れる方法はショーペンハウアーの『幸福について―人生論―』(新潮文庫)、

   第四章「人の与える印象について」でくわしくのべられているので参考にしてください。ただ

   ショーペンハウアーを読んであまり人嫌いになったり、厭世的になったりしないようにね。


    われわれはこの戦後の50年、他人から評価されたり、称賛されたりすること、および

   そのような地位につくこと、一流会社や大学に属することを、至上の価値においてきた。

   現在の社会もそのような現実と認識のもとに動いている。この現実は圧倒的であり、

   人々のあいだにおける「リアリティー」や信念はそうとう根深いものがある。


    若い世代にはこのような至上価値がつまらない、魅力のないものに堕しているはずなのに、

   社会はまるで変わろうともしないし、若い連中も社会に呑みこまれてゆく過程のなかで、

   すんなりとそのような価値体系の社会に中に消えていってしまう。


    どうしてなんだろうな、なんでなんだろうなと考えるなかで気がついたのが、最近のわたしの

   エッセーで追究している社会的劣位の怖れがあるのではないかということである。

   こういう怖れに呪縛されていたら、おそらく多様で自由な生きかたはまずできないだろうと

   気がついたのである。

    この立場に追い込まれたら、自分の個人的劣等感や失敗のせいにしてしまうことが、

   多くの人のパターンだと思う。だけどそういう反応は罠だ、社会的優位の価値観がたいしたもの

   ではないのなら、同じように劣位の価値観もたいしてことではないのではないか、というのが

   わたしのメッセージである。

    このような怖れから脱け出すことが、戦後価値観の呪縛から逃れるための――戦後経済主義

   社会から脱するための第一歩になるものだと思う。でないとこの社会はこのままずるずると

   時代遅れの価値観とシステムをひきずったまま、疲弊してゆくのみだと思う。


    われわれはもう戦後の金儲け・出世の序列順位なんか信奉していない。

    満足や幸福の価値基準と完全にズレている。それなのにこのような価値基準の世の中で

   生きてゆかなければならない。

    そのような認識から社会をもう一度再構築してみる必要があるのではないかということに、

   会社社会のオヤジたちや世の母親たちは気づくべきではないだろうか。





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