人間を知りたいという漠然とした試み
                 ――ベストセラーからみる知の欲求

                                             1999/3/24.    

 



  1 残酷と猟奇をめぐる人間心理


     書店をめぐっていると最近、「残酷な童話」もののブームであるようだ。

     火付け役がなんだったのか、なぜいま売れているのか、よくわからない。

     子どものころ無邪気に楽しんでいただれもが知っている童話がじつはものすごくザンコク

    であった、もともとのストーリーはこうであったと知らされるのはなかなか興味深い。

     このようなバクロ本(?)がブームになるというのは、童話の従来の牧歌的な読み方は

    信用されなくなったということだ。子どものころ聞かされた平和的な童話なんか

    信じられないということで、読み方の断続がおこっている。つまり従来の<人間観>では

    人は満足しなくなったということだ。


     バクロ本が出るのは芸能界ではそのタレントの高潔とか清潔のイメージで人は

    満足しなくなった、退屈するようになった、信じられないというときに出て、

    タレントの「化けの皮」をはがす。ひとつのイメージの側面だけでは満足できなくなったとき、

    信用されなくなったとき、その人格バクロによって認識の平衡がもたらされる。

     政治家の人格バクロは何十年も前からあり、理想や公約の政治家イメージは払拭され、

    汚濁と欺瞞に満ちた政治家イメージがわれわれに完全に定着している。


     一面的な人間の見方だけではどうもおかしい、ほかの側面があるはずだ、

    という疑いが暴露ブームをうみだし、人間観のバランスがとりもどされる。

     それは漠然とした人間を知りたいという欲求として表われる。

     明確な人間観の「ひきはがし」が求められているというよりか、なにか人間について

    知りたい、探りたいという気持ちとしてわれわれに現れてくる。

     従来の人間観ではどうもしっくりとこない、世の中やっていけない、と人々が感じだしたとき、

    漠然と人間について知りたいという気持ちがおこる。

     人間観の整合性が失われたとき、その隙間に人間を知ろうという気持ちが入ってくる。


     こういう人間観の読み替えはこの十年間の本のブームにところどころ表われてきた。

     人間の<残酷さ>をあぶり出そうとしたブームは現在の童話ブームだけではなく、

    ひところ「殺人犯の心理分析」といったブームに表われていた。

     映画の『羊たちの沈黙』とか『FBI心理分析官』とかの猟奇殺人犯の心理を探る本が流行り、

    そのような類の本が書店に山積みにされていた。

     なぜこんなエグイものに人は魅かれるのか、それも読者層は女性が多いということで、

    不思議に思っていたのだが、そこには人間の心を知りたいという気持ちと、牧歌的な

    人間観だけでは満足できなくなった心理が働いていたのだろう。


     猟奇殺人犯は極端であるが、そのために人間の無意識の心のありよう、

    理性ではふたをされない本当の心のすがたがあらわされる。そういった意味で、

    心理や人間を知りたくなった人はこのような極端な心理に人間の真の姿を見出そうと

    したのだろう。

     女性たちが読者の多くであったということは、彼女たちがこれまでの人間観では

    満足できなくなった、なにかにつきあたっているということを表わしている。

     残酷や猟奇的な心理をのぞこうとするのは、これまで女性たちにそのような認識が

    欠けていた、もっと牧歌的な人間観をもっていたということになる。

     女性たちにきれいな、美しいイメージかこれまで押しつけられていたのは周知の事実である。

     彼女たちは無意識にそのような女性像をかなぐり捨てようとしているのだろうか。

     子どもらしい童話がじつはものすごく残酷であったという話は象徴的である。




  2 心の認識の転換


     春山茂雄の『脳内革命』は400万部(?)ほど売れた。プラス志向は脳によい、

    といった自己啓発ではふつうの本だが、この時期になぜこのような本が戦後最大の

    ベストセラーに近づくほど売れたのか。

     リチャード・カールソンの『小さいことにくよくよするな!』という本もアメリカで700万部、

    日本でも100万部突破したそうだが、これらの本に共通することは、物事や外側を

    変えようとするのではなく、心のありよう自体を変えようという試みをもっていることである。

     物事を変えるのではなく、心の認識、物事の捉え方を変えようということである。


     わたしも斜に構えながらも自己啓発にお世話になった者であるが、わたしが

    そのような本を手にしなければならなかったのは、どうもこれまでの生き方、認識の方法

    だけでは不幸せ感や落ち込みを払拭できないと気づいたからだ。学校教育とかマスコミとか

    マンガであるとか、ごく自然に与えられる情報だけではどうも落ち込みとか悲しみとかが

    やってきても全然対処できない。それらのマスコミはまったく心理的な落ち込みに対して、

    なんの対処法を指し示さない、ものすごく無力なものなのである。


     ひがんでいるわたしは、マスコミとか消費にあおられるようなバカな大衆になりたくない、

    と手放しの享楽主義に身をゆだねられなかったから――つまりマスコミの「救い」には

    うまく乗れなかったため、個人的に落ち込みの心理面に対処しなければならなかった。

     精神分析や交流分析ではすぐ幼少期の心的外傷(トラウマ)に問題が求められるが、

    あまりにも廻りくどいし、事実かそうかでないかの区別もかなりむづかしい。

     最近のTVドラマでもたとえば『真昼の月』とか『イグアナの娘』といった番組で、

    トラウマが原因であるという説があつかわれていたが、『脳内革命』や『小さいことに

    くよくよするな!』というベストセラーは精神分析の見解をとらないことを意味する。

     「アダルト・チルドレン」という問題がクローズ・アップされたことがあったが、

    これは交流分析から出てきた話であると思うが、精神分析派の巻き返しなのか。


     認識や物事の説明スタイルを変えれば、落ち込みや悲しみなどの感情は払拭される、

    という認知療法や論理療法の方法はなるほどであり、こちらのほうが実際的である。

     『脳内革命』ではプラス思考、カールソンは思考の消去という方法が示唆されているが、

    幼少期の捉え直しより、「いま、ここ」での認識の転換のほうがよほど説得性がある。

     われわれの落ち込みや悲しみは思考の捉え方により起こり、その思考をプラスに

    置き換える、あるいは捨て去ることによって、マイナスの感情は去るというのは、

    しごく効果的であり、ちょっと考えてみたらごくふつうに人が行なっていることである。


     われわれはこういうごく当たり前の心の知恵すら知らなかったということだ。

     いったいなぜかとバカらしく思うが、戦後の社会は思考することに価値がおかれてきたし、

    思考することが知性だと信じ込んできたから、その手放し称賛の思考のなかには

    感情をめちゃくちゃにする要素があるのだということにはなかなか気づかなかったし、

    戦後の会社主義とかテレビ、消費主義社会は人々に群集的な画一行動をうながし、

    そのために孤立的な感情の落ち込みから防いでいたという面があったと思うのだが、

    昨今の個人主義や個性主義はそのような「群集的ゆりかご」から人々を抜け落とさせたし、

    消費主義や会社主義ではどうも心は満たされない、空虚だという思いが、認識の転換を

    もたらす『脳内革命』やカールソンのベストセラーにつながっていったのだと思う。


     カールソンの本はいまも売れつづけているようだが、読書の声とか読んでいると、

    どうも自己啓発の域を越えていないようだが、カールソンの本はそれだけではない。

     思考や認識の「虚構性」や「幻想性」を明らさまにする、読みようによっては衝撃的な本

    であるとわたしは思うのだが、残念ながらそのような読み方や気づかれ方は

    なされていないようだ。

     思考や認識がすべて虚構であることに気づくということは、けっこう衝撃的であり、

    さまざまな認識や世界観、歴史観の「リアリティー」や「実体感」の反省をうながすもので

    あるのだが、いまのところそのような読者の反応はないようで残念でもある。


     またカールソンの本は「精神世界」や「仏教」のジャンルとすれすれのところにある。

     著書のなかにラム・ダスの名があるとおり、カールソンはアメリカ60年代以降のヒッピー・

    ムーヴメントの影響下にあるし、トランスパーソナル心理学やアメリカにわたった日本の禅や

    東アジアの仏教、ヒンドゥー教の影響を色濃くうけている。

     ただそのジャンルにどっぷり浸からないのがカールソンのカウンセリングが受けた理由

    だろうし、こちら側に踏みとどまらなかったらこんなには読まれなかっただろう。


     際どいところなんだが、カールソンの本以上をめざした読者は果たして精神世界や

    東洋宗教の世界に踏み入れようとするだろうか。ちなみにわたしはカールソンの本に

    影響を受けてから、クリシュナムルティやラジニーシ(和尚)といった宗教者たちに

    かなり近いものを見出したし、ケン・ウィルバーのトランスパーソナル心理学にひじょうに

    インパクトを受けたし、大乗仏教にも学ぶべきものが多くあることを認識した。

     一般の読者たちははたしてこれらの世界にまで踏み入れようとするだろうか。

     『小さいことにくよくよするな!』の出版元であるサンマーク出版は文庫でエヴァ・シリーズ

    でそのような系統の本を出しているが、さして話題にはなっていないようだ。


     一般の読書たちにとってはかなり「アブナイ」世界だ。オウム真理教事件があった後なら、

    なおさらだ。これはまさしくオウム真理教がめざした世界でもあるからだ。

     でもわれわれはもうすでに精神世界行きのキップを手に入れてしまった。

     外界を変えるより、心の認識を変えるという方法はまさしく東洋宗教が何千年もかけて

    追究してきたものである。この方法のキーはもちろん東洋宗教のなかにある。

     人々はこの世界に入ってゆくのか。おそらく西洋心理学、科学的世界から如実に逸脱

    するようなものには手を出さないかもしれないが、じわじわとこの世界の知識に

    慣れ親しんでゆくことになるだろうと思う。認識の転換をめざしたい人が手に入れたいと

    思う知識が東洋宗教にはさすがに多く埋もれているからだ。


     ただやっぱり一般の読者たちは科学的世界観のパラダイムからは抜け出せないと思う。

     近所の人からうしろ指をさされたくない。

     そういうものである。



  3 ブームから人はなにを知ろうとしているか


     『ソフィーの世界』は哲学入門書であるが、100万部を越すベストセラーとなった。

     そのあと哲学ブームがおこると思われたが、哲学はブームにはならなかった。

     ブームにならなかった理由はおそらくプラトンとかカント、ヘーゲルなどの古典的哲学者

    を学んだって、なんの現実的利益も実際的な知識も身につかないからだったと思う。

     かれらはわれわれが知りたがっている問題とぜんぜん関係がない。

     なぜそんなことを考えなくてはならないのか、ということすらわからない、

    ヨーロッパ古典哲学はわれわれにはあまりにも縁遠いものだ。


     その前に『知の技法』という本がなぜだかわからないが突如として売れた。

     東大の権威に魅かれたという理由もあったが、人がなんとなく知に憧れ出した兆しでは

    なかったのかと思う。


     以上、これらのベストセラーやブームから人はなにを知りたがっているか、

    ということをのべてきたが、漠然と人間について知りたいという欲求がその底に

    横たわっているのではないかと思う。

     猟奇殺人犯の心理、心のプラス思考と思考の消去、哲学入門、残酷な童話、

    といった一連のブームをひとつにくくるのはむづかしいかもしれない。

     深層心理あるいは残酷な心を知ろうとする欲求があり、心を癒すための心理学があり、

    基本的な哲学古典への興味がある。

     なにかについて知りたいという触覚をのばしているのだが、なにか明確な目的がない、

    といった感を抱く。


     人間観の転換があり、心の認識の転換がある。

     そこには人間の残酷さについての知があり、心をコントロールするための知恵を得た。

     これらの本が売れたということは人々はその知識を知らなかったということであり、

    そういう知が求められる時代状況にあったということがいえる。


     わたしとしては大きな経済的な転換期にあるということで、げんざいの経済状況の

    転換がどのようなものであるか、そのような時代にわれわれはどのような生き方を

    していったらいいのかといった問題を考えるべきではないのかと思うのだが、

    どうも人々はこれまでどおりの会社主義と消費主義の世の中のままでよいようである。


     こんな生き方のままでいいのかとわたしはナゾに思うし、空虚感や無意味感は

    そのためにますます増大してゆく混沌とした世の中にあると思うのだが、どうも人々は

    こういうことを考えようともしないようだ。


     やっぱり人は「群集的ゆりかご」にとどまっているほうが心地よいようである。

    
    



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