会社に縛られる毎日はツライ!


                                                  1999/3/11.




    だるいだるいだるいだるいだるいだるいだるいだるいだるい、

   会社に縛られる毎日はほんとうにだるい!

    身体の底からうめきをあげそうな一週間だ。

    一週間がようやく終わり、心身ともに解放された想いに駆られる休日もあっという間に去り、

   またチョー疲れた心身とともに会社に行かなければならない。

    疲労感は一向に抜き去られず、たまる一方だ。


    この疲労感がたまらず、社会に出てからのほぼ十年間のわたしは、

   この束縛感からの逃れるためのタタカイと方策に費やされてきた。

    束縛感から分断されるための退職と、なにものからも解放された貯金で食いつなぐ失業期間は、

   このままではクセになりそうな至福の境地になりかかっている。(ヤバイ!)


    わたしは怠け者であるが、知能犯的な怠け者だ。

    会社や学校に毎日行く根拠があまり認められないから怠け者になったのか、

   根が怠け者だからこのような理屈をこねあげたのか、どちらなのかよくわからない。

    小学校のときから「太陽がのぼるからガッコーに行く」みたいな論理がバカらしくなり、

   テキトーに学校をサボりだしたのが、わたしの知能犯的怠け者のはじまりだ。

    なんのために毎日学校に行くのかという根拠がかなりグラついている。

    気づいている人は気づいているし、気づいていない人はウドの大木のように、

   いまだに「無遅刻無欠勤」を誇りに思っていたりする。(表彰してあげよう!)


    会社についても同じだ。

    高度成長期を知らないわれわれはなんのために会社に行くかという根拠が、

   かなりじわじわと弱まっている。

    出世や給与の上昇なんて夢は恐ろしく卑小に感じられるし、仕事に充実感はてんで

   見出せないし、カネで買えるモノはしょせん、他人に見せびらかすものでしかない。

    こういう時代の空気は言葉の表現よりまず先に、身体の疲労感や徒労感とか、

   マスコミでとりあげられたりする病理現象として現れるのだろう。

    会社や学校という「容れ物」が問題なのではなく、その目標、目的が消滅しかかっているのだ

   ――いや、もうとっくに終わってしまったのだ。

    世界はもうすでに終わってしまったのにまだその世界はつづいていると思っている――

   それこそまさに現代の日本社会――ニッポンのオヤジたちがつくりあげた社会のなれの果てだ。


    「世界は終わったのだ、気づけ気づけがんがんオヤジたち」と必死にその身体の暴力性で

   訴えかけようとしているのが現在の学生たちの荒れようなのだろう。

    オヤジたちはもうすでに毎日の慣習の「反復運動」として機能しているに過ぎないから――、

   パブロフの犬として「反射運動器官」と化しているから、聞こえもしないのだろう。

    それに世界的にも新しい時代の気運というものが盛り上がってきていないし、

   芸術とか思想からもそのような兆しすら現れてきていないし、過去百年ものあいだ、

   近代ヨーロッパを模範にみずから考えることをしてこなかった日本人がとつぜん時代の

   先端の挑戦を受けても、その現実すらも読みとれないのは仕方がないかもしれない。

    ただそのしわよせが来るのは若い世代と子どもたちだけだ。


    仕事や会社よりもっと大事なものがあるという思潮がまったく盛り上がらない。

    ほんとうだったら日本人はもっと早く仕事以外の価値を探し出さなければならなかった。

    そのためにいまだに日本人は勤勉一本ばりの「労働生産機械」と化するほかないし、

   企業論理が圧倒的に個人を蹂躪する社会システムの修正がまったくおこなわれていない。

    企業論理を超越する人間の倫理や社会倫理がまるで育っていないのだ。

    われわれは目標も意味もなくなった労働の「永久反復」を無限につづけるしかない。

    社会学者の宮台真司はこれを「終わりなき日常」と名づけたが、まったくよい命名だ。

    われわれはこの意味も価値もない日常を「まったり」と生きるしかない。


    われわれ個人が否定や批判をしてもこの社会はなかなか変わらない。

    現実問題として、働いて稼いで、メシを食わなければならない。

    毎日通勤電車にゆられ、一日の大半と週のほとんどを会社労働に奪われ、

   休日にはその企業活動に貢献するべく消費活動にせっせと励むほかない。

    わたし個人はこの圧倒的な企業社会ではまったくの無力であるし、

   労働至上主義からの脱却を人々が意識するようになることをただ願うだけである。


    現時点では従来どおりの労働生活をつづけてゆくほかない。

    「現実」が変わらないのなら、みずからの心のありようを変えたほうが心の健康にはよい。

    現実社会にたいして反抗し、抗い、否を唱えても、苦しむのは自分だけだ。

    結果的には自分の毎日や「いま」を苦しめるものにしてしまうだけだ。

    社会の変化や批判を願っていても、毎日の生活には不満を抱えないようにしたほうが、

   個人生活をよいものにするための賢明な方策である。


    ただ、そうはいってもホンネとしてはこの企業社会に人生を奪われる毎日は耐えがたい。

    一日が仕事だけに費やされ、そのような一日一日が蓄積してゆくごとに不満も高まり、

   なんとかこんな毎日から、こんな一週間から逃れようという思いが積もってゆく。

    でもどこにも逃げ場がない。


    わたしが生み出した方策としてはできるだけカネを使わない生活にすれば、

   あまり働かないですむ、というヘンリー・ソーロー的な省エネ生活だ。

    この生活スタイルは働いてある程度カネが貯まると自由な失業期間を得るという方向に

   落ちてゆく傾向が――わたしのばあいには――ある。

    旅行好きな青年たちも旅をするためにカネを稼ぐという労私逆転の発想をもっている。

    これは「自由人」としてはよいが、雇用する企業側にとって、どこまで職業人として、

   信用されるのかという採用のさいの問題がある。

    企業側の採用条件というのはどこまでも企業所属と一体化した人を望むし、

   そのような人が当たり前でごろごろいるものだという前提がある。

    このような前時代的な終身雇用型人間が当たり前にいる労働市場では、

   仕事より私生活のほうをメインにした人間はかなり不利になるだろう。

    経営コンサルタントのトム・ピーターズは履歴書に空白のないやつは雇うな、

   スピリットがない、とまで言い切っているが、日本でそこまで進んだ会社はないだろう。

    日本にはそのような私生活至上主義というのがまるで企業社会に求められないから、

   情報社会は進展しないし、前時代的な工業社会とともに長期不況から抜け出せないのだろう。


    稼がない生活スタイルというのは自由であるけれども、家庭はまずもてないだろうし、

   年金や社会保障などの将来的な計画もまずのぞむべくもない。

    自由とひきかえに、これまでよしされてきた中流階級的平均人のモデルを

   すべて捨て去らなけれぱならないのである。

    年金は近い将来破綻する可能性が強いからよしとしても、家庭をもてない人生は

   ちょっとつらいかもしれない。


    中流階級的モデルはこの社会を圧倒的におおっている。

    家庭をもち、郊外住宅地にマイホームをもち、マイカーをもち、勤勉な会社勤めと

   妻と子どもたちとともに暮らすというごく一般的な生き方だ。

    われわれはなぜかこういう生き方・ライフスタイルをしなければならないと思っている。

    そうするのがとうぜんのようにわれわれは会社に勤め、家庭をもち、

   子どもたちを学校に行かせる。

    でもここに人生の幸福と生きがいがあるかというと、多くの人はその毎日に疑問と

   満たされない空虚さを感ずるというのが実情ではないだろうか。


    仕事を一生懸命したところでこのような成果しか手に入れられない、幻滅してしまうだけだ。

    成果をべつにして、職業には職務を立派に果たすという充実感や使命感のようなものが

   あるわけだが、はたして人生を社会的役割の表面的なもので終わってしまってよいものか、

   という疑問がある。

    職業人として立派に生きることはそれなりによいことであるし、世間から認められるわけだが、

   これだけが人生の全目的というのはあまりにも貧困だ。

    職業というのは生計をたてるためのあくまでも「手段」であって、

   人生の「目的」にしてしまうのはあまりにもあわれである。

    そのつぎにめざすものは精神性の高さや人格の成長であってほしい。

    日本人は生計をたてるための職業に人生のウェイトをあまりにもかけすぎたために、

   ビジネスの性格である貪欲さと下劣さと、そして精神の貧困さが全人格を覆ってしまっている。

    あさましいだけである。


    不思議なことであるが、この日本社会にはそのような社会的意識がまるで盛り上がらない。

    だから企業社会はどこまでも個人の私生活を縛りつけるし、

   人生のすべてを剥奪してもなんの疑いももたれないし、さも当然という風に人々の人生の

   上に君臨しつづけている。

    時代の当然の流れとして、豊かになった結果として私生活の充実を望む人が

   多くなるのは当然であるはずなのだがそうならないのは、やはりこの国が不自然なまでに

   雇用の確保と生産者保護の社会主義的政策があるからだろう。

    これらを頑なに守り通そうとすれば、個人の自由さや私生活が犠牲にされてしまう。

    豊かさのつぎのヴァリエーションは雇用を守ることにあるのではなく――

   雇用を守ること自体が自由なライフスタイルをもろに強奪してしまう。

    雇用は生活の基盤であるけれども、人生の大半の時間を奪いとってしまう。

    雇用の確保は豊かな時間という人生の果実を与えない。

    この逆転の発想ができないと、日本人は豊かさの実感を感じられないまま、

   永久に貧しい時代の生き方に囚われつづけるだろう。


    ――ここまで書いてきて、じつのところわたしは自分の勤労態度を反省、

   もしくは会社の束縛感から解放されることをもくろんだ内容のものを書こうと思っていたのだが、

   ついついいつものクセで労働至上主義にたいする批判に筆がすべってしまっていた。

    けっきょく、わたし個人がどんなに否定したところでこの社会は変わらないし、

   わたしは生計の糧を得るために働かなければならない。

    労働否定的な態度を肯定するよりか、すこしは労働社会にたいする適応という面も

   考えなければならない――どっちみち、働かなければならないのだから。

    ということで会社の拘束感からの解放と、勤労態度の反省という方向で、

   なぜわたしはこんなに労働至上主義や勤勉を嫌うようになったのか、

   会社に縛られる拘束感を心理面からなくす方法はないのか、

   といったことを探ろうと思っていたのだが、例のごとく社会批判へと傾いてしまった。

    まだ機が熟していないということなのだろうか。


    インターネットの文章はあまり長くなり過ぎると読者はすぐ飽きてしまうという指摘を

   メールでいただいたこともあって、できるだけ文章の長さを抑制したいのだが、

   どうもわたしの文章は思考の停滞性のためにどこまで長引いてしまうきらいがあるようだ。

    とりあえずこのエッセーはこれで終わりにしたいが、自分の勤労態度の反省、

   もしくは会社の拘束感からの解放という面からも考えるエッセーを、

   もし機会があれば次回は展開したいと思う。


    でも、じつのところわたしは勤勉否定の態度をとりつづけて自分の怠けグセをかこち

   つづけたいだけかもしれないな……。

    わたしはこの勤勉社会に適応すべく自分の心理的反応を変更したほうがいいのだろうか。

    自分のこれまでの考え方にしがみつかなかったら、そうすることも可能である。

    うーん、どちらのほうがいいのかな……。





     会社生活がたまらないという方は。   ues@leo.interq.or.jp 



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