変性意識状態とはなにか
                                             1999/2/20.







  1 変性意識状態 (Alterd States of Consciousness)



    気がつくと、わたしは炎のような雲に包まれていた。一瞬、火事かと思った。

   どこか近くが大火事になっているのかと思ったのだ。ところが、つぎの瞬間、燃えているのは

   自分の内側であることに気づいた。その直後、えもいわれぬ知的な光明をともなった極度の

   高揚感、歓喜の絶頂がやってきた。そして、宇宙が死せる物質によって構成されているので

   はなく、一つの「生ける」存在であることを知った。単にそう考えたわけではない。わたしは自らの

   永遠の生命を自覚した。永遠に生きるという確信をもったのではなく、自分に永遠の生命が

   あることを自覚したのだ。さらに、人類すべてが不死であることを知った。あらゆる物事が協力

   しあいながら、互いのためによかれと思って働いていること、あらゆる世界の根本原理が、

   いわゆる愛であること。そして、長期的に見れば、誰もが幸福になることは絶対に確実であること。

   宇宙の秩序とはそういうものであることを知ったのだ。

                      ――R.M.バック (ケン・ウィルバー『無境界』から)


     『無境界―自己成長のセラピー論』 ケン・ウィルバー 平河出版社 



    これが変性意識状態――つまり悟りとよばれる状態だ。(と推定される)

    あるいは古来、人々が神や仏といった人格として呼び習わしてきたものだ。(と私は解釈する)

    ふつうわれわれは悟りの状態がどのようなものであるか、ほとんど耳にしない。

    仏教では悟りへ至る方法論や修行法はあちこちに説かれているのだが、

   はて、どのような状態をめざしているのかとなったら、そのような記述にはあまり出会わない。


    ケン・ウィルバーの『無境界』という本のこのような記述に出会って、はじめてわたしは、

   宗教とは「救い」や「依存」を求めているだけではなく、こういう意識の究極の状態を

   めざしているのだということを知った。


    世界や宇宙との一体感、全知全能感、強烈な幸福感といった、この世界の神秘と

   触れられるのならいちど触れてみたいと思うのはわたしだけではないだろう。



    変性意識状態にはつぎのような特徴があるとされている。


    1・表現不能性

    2・高揚した鮮明さと理解の感覚。

    3・変成した時空間の知覚

    4・宇宙の全体論的な合一的な統合性、および自分がそれと一体であることの感得。

    5・宇宙が完全だという感覚を含む、強烈な肯定的情緒。

                      ――ロジャー・ウォルシュほか『トランスパーソナル宣言』から



    こういう意識の究極の状態があるということはわれわれの日常意識からして

   考えられもしないことだが、数多くの宗教者たちの歴史が物語っているとおり、

   そのような状態が「現実」に存在すると思われてきたわけだ。


    最近では臨死体験を突破口に――というのはその体験のなかに変性意識状態と

   同じ体験がある――このような意識状態が注目されている。


    ほんとうにそんなものがあるのかないのかなんか、わたしにはわからない。

    ただもしそのような意識状態があるのなら一度は垣間見たいと思うし、

   もしそれがまったくハナから絵空事であるのなら先人たちは何千年もの月日をかけないと思う。


    あるいは死に恐れおののいてきた人類がつくりだした「死の虚妄」なのかもしれないが、

   どうもなんらかの通常意識とは違った意識がなにかあると見当をつけるのが妥当だと思う。


    ただわれわれの日常意識、通常意識のほかに違った意識状態があるというのは

   にわかには信じ難い。

    この日常意識のほかにどんな意識があるのだ、とだれだって思うだろう。

    視覚に囲まれ、音に囲まれ、においに囲まれ、触覚に囲まれ、

   頭の中でぶつぶつひとり言を言いつづけ過去を想起する思考に憩われる――

   このほかにどんな意識状態があるというのか。


    この日常意識こそ、サンサーラ(幻覚、幻)にほかならないと宗教者たちはいう。

    日常意識は夢を見ている状態と同じであるといい、この心は過去の過ちの習慣性から

   おこったのものであるという。

    仏教の覚者からすれば、われわれこそ「病者」の世界に生きていることになる。


    いろいろな意識の状態があることは西洋の心理学によって観察されてきた。

    しかし西洋の心理学者たちはそれをすべて「病的状態」としてあつかってきた。

    西洋心理学では「病者」を癒すまなざししかもたず、健康人あるいはそれ以上の意識レベル

   が存するのではないかという探求すらつい最近までおこなってこなかった。

    なぜなら精神異常を治す医者しか存在しなかったから――つまり医者は「病者」しか

   とりあつかえない、とどのつまりみんな病者に「規定」しないと商売にならないわけである。

    それ以上の意識レベルに関しての職業は皆無である。

    せいぜいは自己啓発くらいしかなく、かつての宗教が行なってきたような高次の意識レベル

   の向上や探究はだれも手をつけなくなってしまっていた。


    高次の意識レベルの探究はマズローとかケン・ウィルバーなどの自己実現の心理学、

   トランスパーソナル心理学によって途についたばかりである。

    西洋心理学、あるいは近代科学はこの変性意識状態をどのようにとりこめるだろうか。


    現代の日本の多くの人は宗教を信じない。

    ただ仏教がめざしてきた変性意識状態が西洋心理学あるいは科学の光のもとに

   さらされれば、現代人はその現象を新しい視点から見直すことだろう。

    宗教とはいかがわしく、あやしいものだと思っているわれわれでも、

   意識のなかには異なった次元の状態があるかもしれないと示唆されたとき、

   それは宗教の範疇に押し込めておかれなくなるのだろう。




  2 変性意識状態はなぜ起こるのか


    変性意識状態へといたる方法についてはさまざまな宗教がその方法を開示している。

    呼吸法であったり、瞑想であったり、ヨーガであったり、祈りや念仏であったり、

   死に直面するような荒行であったり、とにかくいろいろある。

    いろいろあるだけあって――つまり容易には達せられないということである。


    修行しなくてもただふつうにそのような状態になる人もいると思えば、

   何十年修行しても達せない人がいるし、死に直面して臨死体験というコワイ経験をして

   その世界を垣間見てくる人もいるし、ドラッグによってそれを得る人たちもいる。


    シャーマン的素質をもっているような人なら近い世界なのかもしれないが、

   わたしのような神秘的経験がまったく無縁のどぼとぼの日常の俗人にとって、

   高次の意識レベルなどまるで手が届かない。


    せいぜいこのような意識状態がなぜ起こるのかと問えるくらいだ。

    (ただし、これに答えるものをわたしはなにひとつもっておらず、以下の考察は

   ともかくやたらめったらな文章であることをまず始めにお断りしておきます。)


    この意識状態は日常の知覚とはまったく違う次元にある。

    ふつうの目や耳、鼻などの知覚を働かせていれば、この変性意識にはならない。

    心が内にもなく、物質に向かわないようにと坐禅ではすすめられる。

    心を空っぽにするわけであり、思考(言葉)では体験できるものではない。


    呼吸に集中することも説かれており、そうすることによって思考の増殖を食いとめ、

   身体がただ在るという状態にゆだねる。

    思考がなく、外界の知覚がなく、ただ身体にゆだねるという状態――。


    意識もなく、外界の知覚もない状態というのを思い浮かべられるだろうか。

    睡眠状態と同じではないか、あるいはそれに近い。

    でもそれだったらまったくなんの意識も自覚もないではないか!

    (はい、考察はこれでオシマイになりました!)


    「主は空いている容器を見つけのおり、ご自分の祝福をその中へお容れになる」

   というとおり、外界の知覚や通常意識がついえた地点からなにかが始まるのだろうか。

    通常の知覚や意識のほかにわれわれにはその他の認識の方法が備わっているのだろうか。

    直観や第六感と俗にいわれるものはそのようなものか。


    通常の知覚や意識が滅却したところに意識の変容があるようである。


    外界の知覚からとき放たれると心のエネルギーは内部へと向かう。

    そうすると無意識に眠っていたものを自覚できるようになるそうである。

    つまり瞑想は外界の知覚へと向かうエネルギーを深層意識へと向けるわけだ。

    夢で見ている同じものを目覚めている状態でも見れるようにするのである。


    この無意識の中に意識変容といわれるものがあるのだろうか。


    ふだんわれわれの意識はさまざまな外界の知覚に翻弄されている。

    あっちで音がなれば注意し、動くものを見つければ目は注目し、

   頭の中でひとり言や過去が想起され、われわれの意識はまるでサルのように落ち着きがない。

    このような知覚に翻弄されているから、われわれはみずからの深層意識に辿り着けない。

    瞑想はそのようなふらつきさまよう意識を無意識へとつなぎとめるわけだ。


    目覚めていながら、無意識の世界を見ればどのような世界がわきあがってくるのだろうか。


    われわれの日常意識とはたいてい視覚の感覚に集中している。

    見ている対象に対応した視覚の感覚に焦点を合せている。

    視覚は多くは思考を継起させ、思考は頭脳感覚への集中をうながし、

   頭部への感覚の埋没をひきおこす。

    つまり感覚のかたよりがおこり、からだ全体の感覚を喪失してしまう。

    感覚を全体として生きることに意識の変容があるといわれている。


    あるいは二つの方位があるとされている。(鎌田東二『身体の宇宙誌』)

    頭部の集中による神や霊への接近、身体下部の集中による自然・大地化してゆく方法。

    前者はイメージ瞑想を主とするカバラや密教、神秘学、後者は初期仏教や禅。

    こういうふうにふたつの方法が提示されれば、どちらの方法がよく、

   身体になにがうながされるのかよくわからなくなる。


    脳内ではどのようになっているのだろうか。

    物質還元的な知識はあまりないのでよくわからないが、エンドルフィンとかよばれる

   快楽物質が過剰に放出された状態がそれに当たるのだろうか。

    恍惚感がずっとつづく躁病のような状態が悟りとよばれるものなのだろうか。

    ある種のドラッグは意識変容をおこさせるようだが、身体をあとあと蝕む。

    瞑想には睡眠やリラックスしたときに出る脳波が現れるそうだが、

   この状態も意識変容と関わりがあるのだろう。

    これらの脳内現象と変性意識は直接に関わっているのかわからないが、

   脳内現象のみに原因を求めてしまえば、宇宙の直観というものまでは説明し切れないと思う。


    神秘学や宗教では肉体のほかに異なる身体があるようなことをいっている。

    この身体を離れて霊や魂といったものがほんとうに存在するのだろうか。

    精神のありかを身体の働きに求める知識があまりにも当たり前になった現代人にとって、

   こういう考え方はまことに信じ難いことだが、逆にその医学知識自体を疑う必要もある。

    げんざい正当だと思われている知識もいつ覆されるかもしれないし、

   また、げんざい正当とされているから真とするのはどこかの宗教徒と同じく愚かな態度だ。

    だいたい知識なんて「権力」であり、「政治力学」なのであるから。


    基本的にわたしは霊や魂なんてものは死を恐れた人類たちの「慰め」の物語だと思っている。

    ただ、視覚や空間、時間を超えた意識形態というのはありうるのではないか、

   空間や時間――つまり視覚や思考――に拘束されない意識の在り方というのが

   あってもおかしくはないのではないかと考えている。

    空間や時間という「へだたり」があるのが当たり前だという常識を疑う必要があると思う。

    視覚による距離感や空間把握こそ、じつのところ「錯覚」の領域ではないのか。

    それは外界を把握するための知覚による創造ではないのか、わたしはこんな疑いをもっている。

    視覚という断絶があるから、われわれは誤った固着観念(ケン・ウィルバーによるところの

   境界の断片への同一化)を定着させてしまうのではないか。


    シェルドレイクという学者は科学者たちから「現代の焚書」とよばれる書の中で、

   全生命の記憶や学習したものを貯め込んでおく「形態形成場」というものがどこかにあって、

   われわれの脳はそこから発せられる情報を受信するにすぎないといっている(らしい)。

    身体や脳だけに意識や知の発生源を特定できないといっているわけだ。

    ユングだって「集合無意識」という領域を設けている。

    われわれは空間や時間という概念を超えた――あるいはそもそもそんなものは錯覚に

   過ぎない?――意識のありようをもっているのではないだろうか。

    「脳の中のどこにも心は存在しない」と大脳生理学者のペンフィールドはいっている。

    心や意識は脳や心のみの産物なのだろうか。


    いま、自分の意識を省みたらたしかに自分の意識はこの身体にあるようにしか思えない。

    どこかほかのところにあるとはとても思えない。

    ただそれはさまざまな境界をもうけ断片に同一化する通常意識のなせるものかもしれない。

    この意識を超えたところに世界との一体感を感ずる超越意識が潜んでいるのだろうか。


    変性意識状態はなぜ起こるのか、なぜ可能なのか、あるいはほんとうにあるのか。

    わたしにはよくわからない。

    もうあるとするのならそのような意識状態を一度は体験してみたいし、やはり魅かれる。

    仏教書であるとか神秘主義の本ではそのような方法はたくさん提示されている。

    あまりオカルトであるとかいかがわしい世界に行かない程度に――それなりの抑制を

   もって、わたしはこの変性意識状態とよばれる意識状態をさぐってゆきたいとおもっている。





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