1998/12/30

                                                



     人間は意識の中の世界が「世界そのもの」だと思っている。

     意識で捉えた自己を「自己そのもの」だと思っている。


     野口体操の野口三千三はこれに対して、

    非意識的自己こそが主体ではないかという説を考察している。

     意識的自己は生きものにとっては特殊な存在様式ではないのかといっている。


     意識的自己は非意識的自己がそれを必要なとき、使い利用するものだという。


     現代人は逆に意識的自己が主体であり、自己そのものであると思い込んでいる。


     しかし人間の意識がおこなえることはごくわずかだ。

     考えたり、思ったり、記憶したり、行動の判断を下したりするだけだ。

     あとのいっさいは意識が司っているものではない。


     たとえば身体である。


     身体を養っているのは意識ではない。

     心臓をつねに働かせているのは意識ではない。

     髪の毛を伸ばしているのは意識のはたらきではない。

     身体の手足を動かせるのは意識がなすからではない。

     ものが見えるのは意識のおかげではない。

     音が聞こえるのは意識のはたらきではない。


     おおよそ意識は身体の働きに関しては関わっていない。


     意識は理性、意志、思考といったものを用い身体のヌシのようなエラそうな顔をして

    ふんぞり返っているが、身体の毛や爪さえ成長させる力をもたない。


     意識のなせる事はほんの毛ほどのものであり、非意識的自己が主体であるという

    考えはしごくもっともなことである。


     では身体を養い、成長させ、たえず動かしている主体とはだれか、

    あるいはなんなのか。

     すでに述べたように頭のなかで考えている「わたし」ではない。

     身体自身がおのずから司っていると考えることにしよう。

     あるいは自然が為せるものである。


     意識は自分の為すことが微少で微弱であることに謙虚でなければならない。

     身体の働きに意識がしゃしゃり出てきたら、スムーズな身体の活動は妨げられる。

     武道でも運動でも行動でも、意識するがゆえにぎくしゃくしてしまうことがあるのは

    これまでの経験でだれでも一度は体験したことがあるだろう。


     身体――あるいは非意識的自己に任せ切ってしまうことが大切であるようである。

     そして意識には眠ってもらわなければならない。


     意識的世界・意識的自己に愛惜を感じ過ぎるのはあまりよくないようである。

     たいがいの宗教ではこれらをなくしたところに至福の境地を見出している。

     この意味するところは重要である。


     意識は創造する――苦悩や悲嘆や恐怖を。

     世界のどこにも存在しない空想をわざわざ自らによって創り上げるのである。

     不足や不満を見出してしまうがゆえに。

     それはいまここにない幸福や向上、進歩を求めるがゆえにである。


     意識を捨てたところに人間の最高の境地、最高の能力があるようである。

     しかしこれほどやっかいなことはない。


     われわれは意識の虜になっている。

     頭のなかの意識でしか毎日を送れなくなっている。

     意識的自己はまるで非意識的自己の座をのっとろうかとしているようである。


     人間は意識的自己つまり脳の発達をめざしたがゆえに

    非意識的自己の潜在能力をすっかり侮るようになってしまった。

     かずかずの宗教家や思想家が何度もその過ちを叫びつづけてきてもである。


     意識や思考がそれほどまでに魅惑的なんだな。


     身体がおいしい食べ物、きれいなもの、よい音を自然に求めるのと同じだ。

     かずかずの宗教家がそれは悲嘆にしか行き着かないと言いつづけてもだ。


     だいたい人々は意識を捨てる方法がわからない。

     意識にまといつかれて、いっときもそれを離れることができない。


     思考はつぎつぎへとやってきては意識的自己をたぶらかす。

     思考はもともと意識がつくりだすものではない。

     頭のなかにその端緒となる映像や言葉が脳裏に映し出されて、

    そこから思考の増殖、やりとりがおこなわれてゆく。

     あとは思考の連想や習慣となった回路によって思考のジェットコースターが延々につづく。


     わたし自身もこの意識からどうやって離れたらいいかいまだに暗中模索だ。

     せいぜい頭に感覚を集中させないで身体の感覚を集中させるような試みは

    たまにはおこなうが、やはり思考や意識の魅惑に負けている自分に気づくというありさまだ。


     ということでこのエッセーは非意識的自己がどれほど重要なものなのか、

    自分自身に再認識するための励ましということになるわけだ。


     身体のはたらきや成長には意識はほとんど関わっていない。

     非意識的自己が人間の主体であると考えるほうが妥当である。







    関連エッセー「思考は超えられるか」
     リチャード・カールソンのセラピーに刺激されて考察した思考の虚構性についてなど。

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