98年 知の収穫ベスト10


                                           1998/12/23.






     ちまたでは一年をふりかえった読書特集があふれているので、

    わたしもこの一年の知の収穫についてふりかえってみます。


     今年読んだ本のベスト10です。

     あくまでも今年出た本ではなく、わたしが今年読んだ本のなかから選びます。




      中野孝次『清貧の思想』 文春文庫

      洪自誠『菜根譚』 岩波文庫

      『陶淵明全集』 岩波文庫

      藤原新也『全東洋街道』
 集英社文庫

      中川八洋『正統の哲学 異端の思想』 徳間書店

      竹内靖雄『日本の終わり』 日本経済新聞社

      高橋健司『空の名前』 光琳社出版

      村上龍『寂しい国の殺人』 シングルカット社

      ケネス・ラックス『アダム・スミスの失敗』 草思社

      石川英輔『大江戸生活事情』 講談社文庫




     とまあこんな具合になります。

     遅蒔きながら読んだ『清貧の思想』がいちばん影響を与えたことになります。

     秋以降その『清貧の思想』の影響のもと、わたしの読書傾向は漂泊や放浪、

    東洋的癒し、中国思想へとがらりと変わります。



  戦後近代化の誤り


     それまでは経済には道徳がないのではないかといった経済思想系のテーマ、

    これからの経済や生きかたといったテーマの本を探っていました。

     『アダム・スミスの失敗』は経済学にはなぜモラルがないのかを探った好著でした。
  

     竹内靖雄の『日本の終わり』は戦後日本の総決算ともよべる本です。

     けっきょく戦後の日本は「国家社会主義」をやってきてその閉塞感があらゆるところに

    噴出しているのが現在であると総括していえます。

     社会主義というのは会社や国家というオオヤケのために自己を犠牲にするという発想

    であり、その鬱積が逆に個人の自由や消費に噴出せざるを得なかった、

    なおかつその原動力が経済的繁栄をも導いたという因果な結果のオチがつきます。

     国が豊かで個人がある程度富んでも、個人は不幸せというのはこういうことです。


     生産が不幸だから消費に幸せが求められる、だけどそれは生産の不幸の代替であり、

    仕事の不幸は消費では補えないし、消費がゆきづまれば永遠の不幸です。

     会社のありかたや社会主義的な発想が検討されなければならないのは、

    いくらきらびやかな消費で不幸を隠し立てしても高が知れているということです。

     モトを断たなきゃニオイはなくならない。

     だからわたしは会社至上主義の世の中に対して異を唱えているのです。

     なんでみんなは会社のありかたや社会主義的な発想が、自分たちの不幸や閉塞感を

    もたらしているということに気づかないんだろうとわたしは不思議に思います。


     まあけっきょくはみんな退屈なんです。

     仕事以外にすることを失ってしまった。

     情熱をそそぎこむ対象も仕事以外の崇高な時間の過ごし方もわからなくなってしまった。

     だからみんな会社や仕事にしがみつく。


     村上龍はそれを「寂しい大人たち」と表現する。

     『寂しい国の殺人』は近代化の終焉という事態を明確に語っている記念碑的な著作だ。

     もう国家や会社のためにがむしゃらにガンバル時代は終わったのだ、

    そんな目標は空回りしかもたらさない、それが近代化の終わりというものだ。

     国家の幸せから個人の幸せをめざせ、

    それが近代化終焉のつぎのステップだと村上龍は唱えています。

     だけどこの国の寂しい大人たちは働きアリとして仕立て上げられ、それ以外の生きかたも、

    崇高な目的も情熱もまったく知りません。

     寂しさが募る一方です。

     かわいそうな大人たちですが、みずからの生きかたをみずからの信条によって律する

    ような生きかたをしてこなかった本人が悪いのであり、それはかれらのツケです。

     あとはせいぜい昔を復興しようとして人に迷惑をかけないよう願うばかりです。


     中川八洋『正統の哲学 異端の思想』は近代の平等思想、進歩思想が

    もしかして過ちでないのかと気づかせてくれた驚くべき本です。

     理想や正義と近代に信じられてきたものもじつは近代特有の禍をもたらしてきたという

    保守主義の思想はあまりそういう意見を聞かなかったわたしには驚きでした。

     学校で習った民主主義的理想を頭から信じて疑わない人には必要な書物でしょうね。




  漂泊と隠遁にもとめる心の安らかさ


     心が汚れてしまうので清い話に戻します。

     秋以降仕事があわただしく猛烈に忙しかったのでわたしはその荒ぶる心を鎮めようとして、

    ようやく『清貧の思想』を手にとってみました。

     清貧の思想といえば「ビンボーのススメ」と思われて敬遠した方もいると思いますが、

    これはビンボー自体が目的ではなく、心の幸福、心の平安はもたない生きかたにあるという

    考えから来ています。

     つまりモノをほしがったり、なにかを得ようとすれば、苦しみから逃れられない、

    その発想自体が苦しみを連れてくることであり、ゆえに心の豊かさには

    副次的にビンボーが適うのだということです。

     まあ「知足安分」ということですが、われわれはそれをすっかり忘れている。


     中野孝次はそのような心の平穏をもとめた古来の日本人たちの系譜を示したわけです。

     良寛であるとか、兼好、蕪村、芭蕉、西行といった人たちを紹介しました。

     古典文学になるから読解は現代人にはむづかしいだろうし、

    なかなかその趣きは捉えにくいかもしれませんが、日本には伝統的に

    そのような清い人たちが実際にいたのだという話はなにか胸に迫るものがあります。

     「日本人の忘れ物」というものはあまりにも言葉がアメリカナイズされてしまったために

    日本古来の知恵を学ぶことができないという点にもあるのかなと思います。

     古来の日本人たちはなにも欲望に駆れられるだけに生きてきたのではなく、

    それを捨てることによって心の豊かさの境地に生きた人たちもいたのです。

     現代ではそういう人たちはまったく賞賛されもしないし、世間の表面にも浮かんでこない。


     われわれは欲望の馬にひきずり回されているが、

    かれらはそれを制御して心の平安を得ようとしたのです。

     清貧の生きかたというのはそういうもたない、捨てる生きかたのことです。


     わたしはこれらの日本人の系譜のなかから隠遁に生きた人たちを知りたくなりました。

     世間を捨てるという生きかたもあるということをすっかり忘れていたし、

    もしそんな生きかたもできるのならこの息苦しいサラリーマン社会から逃れることも

    できるかもしれないとかすかな希望を抱いたわけです。


     隠者の文学では吉田兼好の『徒然草』や鴨長明『方丈記』、与謝蕪村などが

    主なものですが、わたしはどうもこれらには興をそそられなかった。

     わたしは仕事の忙しさに荒ぶる心を鎮めたかったのですが、

    自分でもどんなものにいちばん心が癒されるのかわからない。

     隠遁でもない、では漂泊や旅にそれはあるかもしれないと思った。

     仏教者には西行や一遍、空也やら空海やら漂泊に生きた人には事欠かない。

     けれどもかれらの伝記を読んだところでぜんぜん心に響かないし、癒されもしない。

     そのへんの模索は読書録のなかに跡づけられるかもしれません。

     「98秋に読んだ本――漂泊と放浪への憧れ」


     仏教はちょうど一、二年前すこし読んだ。

     このときはリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』に影響をうけて、

    思考を捨てる、心を捨てるというテーマのみを追い求めた。

     思考を捨てれば、心を乱したり不快にするものはいっさいない、

    という考えは衝撃的でした。

     心の浄化だけを目的にラジニーシやクリシュナムルティ、ケン・ウィルバーなどの

    トランスパーソナル心理学などの本を追い求めていった。


     それから一年、今度は仏教者の捨てる生きかたというものを学ぼうとしたわけです。

     仏教というのはやはり先人たちの知恵が多くあるのかもしれません。


     ただじっさいの仏教僧は政治家たちと近しいこともあって、

    権力志向――あるいは権力そのものであったという幻滅は否めない。

     また極楽浄土や仏性、念仏などといった日本仏教の歴史は、

    浄土や神仏という物語をまるで信じられない現代人にとってはほとんど学ぶところが

    ないのが残念でもある。


     さて古来の日本のなかに癒しを求めていて気づいたことは、

    日本文化というのはけっこう癒しの要素があるかもしれないということです。

     古い絵巻きなんか見ていたら案外ほっとするようなところがある。



  自然と風景の癒し


     自然や風景にも癒しがあり、そのへんにもわたしは触手をのばしてみた。

     高橋健司の『空の名前』という天気図鑑の雲の写真はぼんやりとながめているだけで、

    心はほんのつかの間、雄大な空を思い浮かべて穏やかにほっとなる。

     この写真集は47万部売れたそうだが、日本人もこういう「無用」なものにやっと

    目を向ける余裕もできるようになったんだなと気づかされます。

     癒しは無用のもののなかにあるのであって、「有用」なものにはないのだろうな。


     風景写真や自然にも癒されるものがあります。

     雄大な山々の写真集とかに魅入ったり、ハイキングの写真集なんかをながめたりして、

    心の癒しをもとめた。

     自然の風景というのはある程度心が澄んでないとそのよさが味わえないんだと思う。

     澄んだ心をもつ人は自然のよさがわかるだろうし、自然の美しさを知る人は

    心も澄んでいるのだろう。

     いままで自然に美を感じなかったわたしはやはり心が濁っていたのだと思います。


     この時期に二作ほどフォト・エッセイをつくりました。

     藤原新也の『印度放浪』や『全東洋街道』という写真集をながめていて、

    どうしてもつくりたくなった。

     詩的な紀行文、人々のすさまじい生きかたをあらわにした写真――

    藤原新也の写真はとてもひきつけられるものがある。

     それでネイチャーフォトと随想の創作欲がわいてきた。

     ネイチャーフォトを背景に詩や随想をのせるという類書はそんなにはよいものが

    なかったので、かなり実験的で模索的なものになった。

     癒しの写真や文章は見るよりつくったほうがより癒されるのかしもれませんね。



  中国的安らかさ


     癒しを古来にもとめる旅はまだつづきます。

     日本的伝統をもとめていれば、その元にはやはり中国がある。

     隠遁思想の起源をもとめれば、それも中国からおこっている。

     政局の危機を避けて山間に隠れ住んでいたものが、老荘思想と結びつき、

    山水をたのしむ方向へと変わってゆく。


     文学にも癒しがあるかもしれないとたまたま書店でめくってみた『陶淵明全集』の

    言葉言葉がみょうに気にかかり、気持ちよいし、心にぴったりくる。

     読んでみたらなおさらまたいい。

     脱俗や隠遁、名誉や栄達を避ける心、清貧をめざそうとする生きかた、自然を愛する気持ち、

    どれもこれもひじょうに心地よく心に染み込んできた。

     これはよい詩人と出会えたなと思います。


     ためしに杜甫は読んでみたけど、あまりわたしには合わないようだった。

     漢詩や唐詩がわたしの心に響くかはまだよくわかりません。


     洪自誠の『菜根譚』はものすごくよかった。

     これほどまでに人生に達観していて人生訓として優れているものはない。

     基本的には「知足安分」ということを語っていると思うのだが――

    つまり足りない部分を見るのではなく、足りている部分を見るという心の観点は、

    すべての物事に適用してしかるべきだと思う。

     この心の観点ほどすばらしい教えはないと思うのだが、

    人はえてしていちばんかんたんで気づきやすいものほど最も気づきにくいものだ。


     「思考を捨てる」というカールソンや仏教の教えはあまりにもかんたん過ぎることなのに、

    思考好きだったわたしはこんなかんたんな一点にまるで気づかずに、

    どんどんと苦痛や悲観を蓄積していった。

     「知足安分」も足りない部分ばかり見つめておればいつまでも満たされることはない、

    というしごく当たり前のことだが、その当たり前さが気づかれない。


     これらの知恵はふだんだれでも口にすることだが、逆にそれを論理的に

    説明することがなく、押しつけ的に発せられるために人はこの深遠な知恵を敬遠してしまう。

     論理的に説明されないためにこの言葉の有用性がなかなか気づかれない。

     カールソンの『小さいことにくよくよするな!』というベストセラーは、

    その当たり前の知恵を論理的に説明したから受け入れられたのだと思う。

     「気にするな」とか「くよくよするな」とか人はしょっちゅう口にするのだが、

    だれもそうすることの効用やそうしないことの損害を論理的に説明しなく、

    ただ押しつけてしまうがゆえに反発や無視をまねく。

     当たり前のことに気づかずにつまずく、というのがどうやら人間の性質のようある。


     西洋近代というのは知足安分や思考を捨てるという心の制御を捨てて、

    心のまま欲望のまま従うところにその発展をみた。

     科学技術文明の発達は心が賢明になっておればここまで進展しなかった。

     すぐに満足し不足を感じず、考えもしない愚かさをもっておれば、

    科学技術はもちろん発達しない。


     だけどかれら個人個人の心の中は幸せだったかは疑わしいところだ。

     不満や不足があるから技術は進歩したのであり、不満を抱えつづける人間が

    満たされているわけはない。


     まあ極端に傾かず、心の性質を知り、中庸であることが大切なようですね。


     右肩上がりの経済が終わり、現在の日本は行く先のない踊り場に立たされてます。

     「知足安分」を社会のシステムにした江戸時代に学ぶべきものがあります。

     石川英輔の『大江戸生活事情』はそのような江戸の知恵を教えてくれます。


     古来中国人の知恵や癒しを探る探究は現在もつづいています。

     今後は「老子」「荘子」を読み、「寒山拾得」も読むつもりです。

     もしなんらかの収穫があれば、この誌上でお目にかかれると思います。


     うーん、中国三千年の知恵はすごいものがあるな〜。




     ご意見お待ちしています。    ues@leo.interq.or.jp 





  98年に読んだ読書録です。


    「98冬の書物 東洋的心の平穏―中国人の達観」 (1998/12/20更新)

        無性に魅かれる日本的・東洋的な心の平穏をもたらす書物たち。

    「1998秋 放浪と漂泊への想い」 (98/10/29更新)

        清貧の思想、漂泊の人生といった本などを読んでいます。

    「1998夏 日本の正体―これからの生き方―民主主義」 (98/8/10更新)

        日本社会のほんとうの姿とはどのようなものだろうかなど探っています。

    98春 経済と道徳―経済思想史―社会規範」(約30冊)

        テーマは経済と道徳の関係はどうあるべきなのか、といったことなどです。



    |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|


inserted by FC2 system