ヘンリー・ソーローの省エネ労働観


                                             1998/8/15.


      


     「もし私もたいていの人々のように午前も午後も社会に売るというようなことになれば、

    人生は私にとってもはやなんの生きがいもないものとなるにちがいない」

     これは『森の生活』(岩波文庫)という本を書いたヘンリー・ソーローの言葉だ。


     ヘンリー・ソーロー『森の生活』 岩波文庫 



     現代のわれわれはこれとまったく正反対の生き方をしている。

     午前も午後もあるいは深夜まで社会に自分を売り、それは生涯にわたってつづく。

     まったく自分のための時間、人生がない。


     ソーローはそんな人生を投げ打って自給自足の生活やフリー・アルバイターの道を選んだ。

     定職をもたず、さまざまな職業に従事した。

     教師や測量士、庭師、農夫、ペンキ屋、大工、石工、日雇い労働者など。

     ソーローの言葉を借りるなら「わたし自身としては日雇い労働者の仕事がいちばん

    独立的であるということを知った」――なぜなら「彼の雇い主は何ヶ月にもわたって

    思案をめぐらし一年のはじめからおわりにいたるまで息を抜くひまがない」からだ。

     かれの生涯は自分の好きなことに自由に没頭できることはまず不可能だろう。


     現代のサラリーマン社会は自分のために生きるということがまずできない。

     生活の糧を得るために一年中あるいは生涯にわたって企業に拘束される。


     こうなった原因はソーローによると現代人は多くの物を手に入れようとするからだという。

     「いくつかの要りもしないてかてかの靴だの、雨傘だの、空っぽなお客のための

    空っぽな客間だの、家具だの」、そういったものを手に入れようとするため、

    「人は道具のための道具になってしまった」とソーローはいう。


     「諸君が目の利く人間ならば、人に会ったとき、その人が彼の背後に所有している

    すべての物――さよう、彼が自分のものでないような顔をする多くの物まで――

    台所道具や彼がとっておいて焼きすてようとしない安ぴか物にいたるまでを見、

    そして彼はそれにくびきをかけられ何とかして前に進もうともがいているように見えるだろう」


     ソーローはこのような状態に対して「わたしは自分の罠を引きずらなければならないのなら、

    それが軽いものであり、わたしの急所を挟まないものであるように気をつけるべきだ。

    だが、はじめからそれに手を出さないほうがいちばんかしこいだろう」といっている。


     けっきょくのところ、われわれは多くの物を手に入れようとして、

    逆にその道具の奴隷になってしまっているのである。

     ソーローはこのような状況をバカらしいと思い、自由が奪われる罠だとして、

    できるだけ簡素な生活をこころがけ、社会の従属を拒否し、精神の自由をもとめた。


     旅行に関してもいちばん早い旅行者は徒歩で行く人間だといっている。

     なぜなら鉄道を使えば、運賃を稼ぐための労働に費やす時間が必要になり、

    しかるべき運賃を稼いだ後でないと目的地に着けない。

     これは人生に関してもおなじことがいえる。

     楽しみを将来にとっておいて、そのあいだ働きつづけていると、

    ようやく余裕ができたころにはもう楽しむだけの弾力と欲望を失っていることだろう。

     カネで得る楽しみとはそのような愚かな結果がついて廻るのだ。


     わたしがこのようなソーローの考え方に出会ったのは二十代の半ばころ、

    フリーターから社員の仕事を探そうとして購入した転職情報誌の書評からだった。

     木原武一の『続大人のための偉人伝』(新潮選書)という本にソーローの紹介が

    なされていたのだが、サラリーマンや会社人間の拘束感、束縛感にかなりの不快感を

    もっていたわたしはたちまちこのソーローの考え方に影響を受けた。

     そうだ、そんなに物を欲しがらなければ、そんなに働く必要はないんだと思い、

    自分の時間をできるだけ確保できるように努めた。

     だけど現代では生活費を稼ぐためにはふつうのサラリーマンなみの労働時間を

    費やさなければ生活できないし、また社会保障とか将来の心配も積み重なって、

    こういう生活はワリが合わないと感じるようになった。


     正社員とかふつうのサラリーマンとか社会保障とか、世間一般がよいとする人物像

    から遠ざかることにもやはり不安や心配も積み重なる。

     カネがなければ結婚もできないし、妻子を養うなんてことはとてもムリだ。

     そういうことでわたしはソーローのように割り切ってこれらのすべてを捨てるようなことは

    とてもできそうにもないし、そこまでの勇気も自信もない。

     そんなに反発しないである程度世間に迎合してもいいんじゃないかと最近は思う。

     自分はどうやらそこまで強い人間ではないということがよくわかってきたんである。


     ただあまり多くの物を欲しがったり、多く欲望は抱かないようにするべきであると

    思うのはいまでも変わらない。

     世間でもちょうどあまり欲しい物がない時代に突入している。

     消費やレジャーの見せびらかし優越競争をしているより、

    先行き不安の心配のほうがもっと深刻でせっぱ詰まった関心だからだ。


     これまでの世間というのは、中流階級という「広告費」がひじょうにかかった時代だった。

     まじめなサラリーマンという広告も多大な費用を必要とした。

     人生を捨てるほどまでして、われわれは中流階級というイメージを世間一般や

    郊外住宅の近所の人たちに広告して廻らなければならなかったのである。

     マイホームという中流ステータスの広告費は30年ローンもの莫大な費用がかかったし、

    マイカーという宣伝塔、幸福な家庭の演出料、大学出の証明料、一流企業に属するための

    会員費など、さまざまな中流階級の広告費がわれわれに必要だった。

     ソーローだったら、これらは自由を奪う罠に映ったことだろう。


     都会というのは隣の人がだれなのか、何者か、まるでわからない。

     ということでわたしはこういう者ですという広報が、マイホームやマイカー、

    ファッションや持ち物で広告される必要があった。

     企業がテレビや雑誌、新聞などでしょっちゅう広告しなければならなかったように、

    われわれ人間もかなりの広告費を費やさなければならなかったのである。


     他人や世間に広告するために生涯を費やす人生とはいったいなんなのだろうか。

     人間が人間の恐怖の源になってしまっている。

     貧乏でないことを広告しなければ許されない狭隘な雰囲気が世間を覆っている。

     人は隣人を信用していないのであり、その人そのものやその人のありのままが

    認められるということがまず不可能になってしまっている。

     そして劣等感に蹴飛ばされないために人は多大な広告費を家計から計上する。

     「わたしは〜ではないですよ」という悲痛な叫び声の広告があちこちから聞こえてくる。

     そして自分自身の楽しみ、自由な時間というのはますます削りとられてゆく。


     われわれは「貧乏」や「劣等」というイスとりゲームの鬼にならないために、

    自由を奪いとる世間体の罠から逃れられなくなっている。

     こういう競争と自分自身の楽しみや好きなことは、果たして同じものなんだろうか、

    と問う必要がある。

     自分自身の人生や好きなことを捨ててまで、莫大な広告費を支払わなければならないのか。

     世間への広告は一生をかけても終わりはないだろう。

     広告なんてものはわれわれの日常にあるように、たとえばダイレクトメールなんか

    すぐにゴミ箱行きだし、テレビCMも一ヶ月後には記憶の片隅にもない。

     あなたの世間向けの広告費も同じ運命になるにちがいないのだ。


     いまはちょうど中流階級の広告がさしてありがたがられるものではなくなった。 

     広告を指標にする歓びより、自分を指標にする歓びのほうが

    もっと大事なのではないだろうか。


     多くを求めるから、われわれは生涯を労働に奪われる。

     自分の人生というものが空っぽになってしまい、自由がなくなる。

     多くを求めず、簡素な生活を心がければ、自由な生活が送れるのではないだろうか。

     ただ現在のわれわれは物がもっと欲しいというよりか、生活の保障への恐れのほうが

    もっと大きくなり、囚われるもとになっている。

     ソーローの時代に比べて贅沢で高級すぎる心配なのだろうが、

    世間一般の人たちはいつも要らぬ心配の鎖につながれて生涯を送るものなのだろう。

     いかにこれらの心配事から解放されて生きるかが、従属しない自由な生を送れるか、

    平穏な心をたもちつづけられるかの分かれ目なのだろう。

     「安心のバーゲン」のような中世の免罪符のようなものが売りに出されれば、

    われわれは生活保障という幻想から目を醒ますことができるのかしれない。


     多くを求めなければ、自由な生を送れるかもしれない。

     だけどわれわれの経済社会は人々がもっともっとをもとめることによって、

    市場は回ってきた。

     みんなが多くを求めなくなれば、経済は縮小せざるをえない。

     だけど経済成長や景気がよいだけでほんとうに人間の幸福と直結するのかは

    おおいに疑問だ。

     金銭や交換できるもの以外のなにかを求めることによって、

    逆に人間の情緒的な幸福感は増すことだって考えられる。

     われわれの不幸は貨幣に換算できる交換できるものだけを求めてきたことに、

    その充足感の不足があったのかもしれない。


     経済的な交換価値だけで物事を考えていると、いつも見返りや報酬を求めることに

    なってしまうが、行為や活動それ自体の満足が報酬だっていうこともある。

     ボランティアや人助け、愛なんてものは、報酬をもとめてではなくて、

    それ自体から受ける満足が報酬なのである。

     交換的価値だけで物事を考えていると、そういう人間の情緒的な活動動機

    みたいなところが理解できなくなってしまう。

     これは満たされない不幸な心のはじまりだ。


     経済が縮小したって、景気がよくならなくてもかまわないではないか。

     みんなが物質的なモノ、交換できるモノを求めない社会は、

    情緒的な満足におのずから向かう――向かわざるを得なくなる社会ではないだろうか。

     それだったらハッピーじゃないか。

     カネもモノもないし、多くを求めない社会は、心の楽しみを工夫することになるだろう。

     思い出してほしいが、カネのなかった子供時代のほうがいろいろ工夫したりして、

    心に残る思い出も多かったのではないだろうか。


     カネで得られる楽しみは逆説的に労働に自分の人生を奪われてしまう。

     バカみたいである。

     ほしいモノのために一生を労働に奪われ、手に入れたときはカンオケの中だ。

     これじゃ、あまりにも浮かばれない。


     カネで買うほしいモノがたくさんある社会では、自分の自由な生、自分の時間を

    際限なく労働に費やさなければならない。

     維持費や管理費があまりにもかかるために目いっぱい働かなければならず、

    ぜんぜん乗る時間がない高級車と同じではないか。

     これではあまりにも逆立ちし過ぎている。


     消費社会というのは、逆説的に自分の時間をもてない。

     構築や維持、労働にあまりにも時間がとられ、人生の時間がなくなってしまう。

     このようなことに気づいた賢明なソーローはフリーアルバイターや自給自足の生活を送った。


     われわれはソーローのような信念をもてないかもしれないが、

    金銭的望みは逆に人生の時間を奪うというパラドックスを忘れないようにしたい。






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