生活保障という恐れが
        未来の牢獄をつくりだす


                                               1998/8/4.



     学生たちは自分たちの決まりきった将来を考えて、心底ぞーっとする。

     一生ひとつの会社に釘付られるしか仕方がない自分の人生に恐れをなす。

     夢も希望もないし、偶然や自由、冒険や歓びの入る隙間もない。


     これほどまでに自分の人生が決められ、拘束されているのはなぜなのか。

     これほどまでにつまらない将来の人生しか、選択の余地がないのはなぜなのか。


     わたしが思うには、親や世間が口々にいう「安定」への渇望があるからだ。

     安定や生活保証をもとめるコインの裏側には、拘束され隷属する人生が刻み込まれている。

     だれもが生活安定をもとめ、危険やリスクを避ける社会の帰結は、

    人生の歓びやおもしろさを徹底的に削ぎとる社会でもあるのだ。

     さもないと生活安定の人生は提供されない。


     皮肉なものである。

     だれだって生活は安定していてほしいだろうし、生活保障も得たいだろうし、

    老後の生活だってばっちりと保障されていたいと思うだろう。

     戦後社会はみんながみんなそれをもとめた。

     戦後まもないころの飢餓や貧困、生活苦の経験と記憶がある世代には、

    生活安定、生活保障という社会保障は光り輝いて見えたことだろう。

     人間はたいてい現在の状況の反対項をもとめる。

     生活が苦しいときには生活安定を、病気のときには健康をといった具合だ。

     貧乏や生活苦が当たり前だったこれまでの世代が安定や生活保証をもとめるのは

    とうぜんのことでもある。


     また世界の流れとして福祉国家、社会主義化という思潮があった。

     国家や政府が、資本主義の荒廃や破綻から人々を守るという政策が、

    20世紀の先進国を洗っていった。

     政府が「ゆりかごから墓場」まで保障する社会制度ができあがった。

     ドラッカーがいうには欧米の世界制覇は、機械、資本、武器の卓越性よりも、

    「社会による救済」の約束によっていたというくらいだ。

     それだけ生活への保障は全世界的に求められていたわけだ。


     現在、老齢年金や健康保険、雇用保険、あるいは終身雇用や退職金、

    といった社会保障がわれわれに与えられている。

     あらゆる社会保障が政府や企業から与えられており、われわれの生活は

    たくさんの保険や援助によって守られている。

     しかしその代わりにわれわれはどんな代償を支払わなければならなかったのか。


     社会保障はわれわれから自由な生、生き方を奪い去ってしまった。

     安定や保障はわれわれの人生を拘束し、閉じ込め、隷属させる。

     それらを得るためにわれわれはどんな負担を強いられる羽目に陥ったか。

     学歴競争や会社人間化、会社絶対主義、個人生活や家庭の犠牲、

    といった外面的な社会現象のみならず、心の空虚さや精神の崩壊といった

    莫大なツケまで支払わなければならなくなった。

     人生のコースが決まっており、老後にいたるまでの会社拘束が生涯に渡っておれば、

    人生に早々と見切りをつけてしまうしかないし、希望や夢も見出せない。

     80年代にはサブカルチャーやファッション、レジャーに希望や夢が託されたが、

    はたして人生の空虚さや精神のむなしさの空隙を埋めるにはいたらなかった。

     そして90年代にはどこにも行く当ても目標も見当たらず、ただ惰性でつづいているだけで、

    政治や官僚が悪いといったマスコミのヤジが叫ばれているだけで、

    われわれの人生コースや計画人生の拘束から脱出する道はどこからも提示されない。

     行き場のないガスの溜まり場のような状態にこの日本社会はなっている。

     学生たちが討論の話題になることは多いが、かれらの感覚は鋭いと思うのだが、

    不満の元凶や原因をどれだけ言葉や説明にできるかはむずかしいところだ。


     結局のところ、安定や生活保障は牢獄の人生をもたらしてしまう。

     保障のためにわれわれは微塵たりとも身動きできず、生涯にわたって拘束され、

    自由や好みや歓びといった基本的な感情が満たされないまま、

    がんじがらめにされた人生を終えなければならない。

     つまるところ安定や保障はわれわれを「奴隷」にしてしまう。

     「賃金奴隷」の上に「保障奴隷」という二重のクサリに絡みとられてしまう。


     皮肉なことであるが、われわれ若い世代にはそういう気持ち、気分が強い。

     貧乏な時代の苦労が刻印されている世代には、生活保障と安定のどこが悪いんだ、

    すばらしいことじゃないか、と押しつけるかもしれないが、それはまったくの死角だ。

     大企業や公務員などの親がすすめる安定した生き方も同じことだ。

     親たちには生活保障という安心は光り輝く望みであるのかもしれないが、

    若者たちにとってはそれは将来の拘束と隷属、牢獄しか意味しない。

     まるで奴隷になるのがいちばんの安心だと聞かされているようだし、

    親といっしょに墓場に入るのがいちばんの安全だと招き入れられるようなものだ。

     好奇心に満ちた若者はまだまだ冒険とチャレンジを欲している。

     逆に親たちは恐れと疲労から、安定と安心のみを渇望している。

     これは年齢上の感じ方の違いでもあるのだろう。


     この世代間ギャップは親と子の理解しがたい断絶をもたらしている。

     親は安定と生活保障は疑うこともできない至上の目的になってしまっているから、

    子どもが登校拒否になんかなったらおろおろする。

     かれら親たちはそうなると「古典的」にわが子のホームレス像を想像して脅える。

     現在では少々学歴が劣ってもメシを食える時代だし、フリースクールや大検などの

    ほかの進学コースも先達のおかげで現在では充実してきているわけだから、

    もうそういう恐れはかなり時代遅れだ。

     親たちはあいかわらず20年前の「現実」しか認識することができないのは、

    いつの時代でも変わらない真理のようだ。


     なによりも「将来のために現在を犠牲にする」という姿勢、発想自体がもう彼らにはない。

     そんな生き方は目の前の親のくだらない人生でもううんざりになっているからだ。

     現在を犠牲にしたらいつまでも楽しめないし、現在の苦しみが将来に補償されるなんて

    保証はまったくないわけだし、見返りが老人の余暇ではあまりにも損失が大きすぎる。

     また産業や広告でも助長されているのはいうまでもないことだ。


     安定や生活保障という人生計画は、感情や本能といった情動レベルを

    かぎりなく抑圧して達成されるものだ。

     知性や理性が最大限に活用され、情動が抹殺される。

     それが福祉国家や社会主義という知性万能主義がもたらした帰結である。

     楽しみや歓びまで抹殺して得られた安定や生活は、

    そこまでして手に入れるべきものなのか。


     戦後日本はそういう理想や目的を信じてやってきたわけだ。

     ある程度の豊かさが達成された現在、そういうやり方がもうガマンできないところまで

    きているのは当然の結果だ。

     けっきょく、自分の人生や楽しみを犠牲にして得られたものはなんだったのか。

     官僚や政府の利権や特権であり、企業の権力肥大だけではなかったのか。

     われわれ個人はなにも得ることがなく、ただ政府や企業を肥え太らせただけではないのか。

     企業や国家にたいする自己犠牲は永久に見返りがない。

     ただそれら自身の権力増大と利権の増大をもたらすだけなのだ。


     われわれの生活への恐れというとてつもない恐怖の堆積は、

    それをアテにした政府や企業というウジ虫の肥大化を許しただけではないのか。

     そして社会保障の財源はどんどん膨らみ、深刻な状況になりつつある。

     みんなで一定の額を出し合い、それを分配するという方法は、

    それに吸いつく利権者たちを生み出し、また内外状況の変化により財源は破綻してしまう。

     国家による社会保障という壮大な幻想はもはや不可能になりつつある。


     国民みんなが支え合って、国民ひとりひとりの生活を保障するという企ては、

    すばらしい理想に思えたかもしれない。

     病気のときや働けなくなったとき、老後のときに生活保障があれば、ほんと助かる。

     だけどそういう不安を前提にした計画はどこまでも要求が増大し、

    計画や資金は増大せざるを得ない。

     そしていつの間にやら生活不安からの解放といった当初の目的は、

    逆に自由な生の束縛と拘束、支配へと変わってゆく。

     新しい世代は生まれながらにして牢獄に閉じ込められることに終着する。


     たしかに安定や生活保障をだれもが求めるのは当たり前のことだ。

     しかしそれがある一点を越えると、逆に人生の自由を奪いとってしまう。

     不安や心配を出発点にしているから、それには切りがないし、

    際限なく要求は膨らみ、また依存と拘束への傾斜も強まってゆく。

     そして新しい世代は赤ん坊のときから借金ローンづけにされ、

    その返済のために不自由で束縛の多い人生を余儀なくされる。

     生活保障という恐れは新しい世代を自分たちの安心のために担保に入れるのだ。


     生活の恐れは切りがない。

     病気をしたらどうしよう、ケガをしたらどうよう、働けなくなったらどうしよう、

    と万が一のことばかり考える。

     その万が一のことばかりに人生の大半を費やされる愚かしさには気づかないで、

    生活保障への欲望は際限なく広がりつづける。

     恐れには切りがなく、とどまるところを知らない。

     人間の想像力は起こりもしない未来の不安を創作することにかけては天才的である。

     われわれ庶民の恐怖の創造力は、ゲーテもシェークスピアもまっさおだ。


     そういう恐れや不安の対処法を国家全体で制度化したのが福祉国家だ。

     そしてそれでも恐れはとまらないから、ますます安定志向と保守化が進展する。

     政府だけではなく、企業もそれに応え、終身雇用などの保障を与えてきた。

     国全体が豊かになればなるほど生活保障は充実させることができるし、

    なおかつそのためにますます保障を守るための恐怖が増大させられる。

     恐怖から防衛しようとすると、今度はその築いた壁が逆に崩壊しないかと

    また恐怖にさいなまされ、その循環は永久にくり返される。

     これはクリシュナムルティが指摘する心のカラクリだ。
    

     安定への望みが逆に若者の人生を拘束し、自由や挑戦のある精神を失い、

    産業や市場は停滞し、未来の先細りを招く。

     皮肉なもので安定や安心の過剰要求のあとには、市場の停滞がやってくる。

     当然といえば当然だが、安定の計画的人生のために好奇心やヨロコビ、楽しみ、

    といった情動が禁圧されるのだから、産業や市場は新しい創造ができずに停滞してしまう。

     安定や保障はいきいきとした人間精神を破壊してしまう。

     安定をもとめた途端、その結果はすでに出ていたのだろう。


     安定と生活保障という望みの代償はあまりにも大きい。

     なによりも計画的人生は若者の生きる意欲、生きる歓びを減退させてしまう。

     つまらない、拘束された、干からびた人生だけが待っている。

     これでは将来の人生に期待がもてず、絶望してしまうしかない。

     われわれの社会は、わたしの育ってきた実感として、

    20年前以上からこんなつまらない人生コースが重たくのしかかっていた。


     この生活保障や安定という望みがクセものなのだ。

     たしかに現実問題として生活安定はのどから手がでるくらい切実にのぞまれるものだ。

     だけどそれが臨回点を越えるところ――すなわち人生の歓びや楽しみ、好奇心を

    抹殺しても求められるようになると、それはみずからの首を絞めるように転化するのだろう。

     必要以上にもとめられると、今度は逆にそれが人生を支配し、拘束してしまう。

     こうなれば、後はひたすら人生の歓びの減退と衰退がはじまってしまう。

     変化は年とった人たちにはゆでガエルになっても気がつかないのかもしれないが、

    若い連中には一大事だ。

     人生の歓びや楽しみを抹殺した、干からびた人生を強制されるのはたまったものではない。

     安定への大合唱は逆に人生資源の枯渇化をもたらしたのである。


     しかし実際問題として毎日の生計のことを考えると安定はほしい。

     当然のことであるし、この目標はおおいに追い求めるべきだろうし、

    安定と保障をわたしは否定するつもりはない。


     ただし人生が恐ろしいほどまでにつまらなく、やりきれなくなるようなら、

    精神や感情の充実や歓びを求めるべきなのだろう。

     要はどこいらで歯止めをかけ、恐れに囚われないようにするかということだ。

     現在は行き過ぎた安定と保障をもとめた結果、人生が牢獄化してしまっている。

     恐ろしいほどつまらない人生コースしかわれわれには選択の自由がない。

     これでは生きている意味も歓びもない。


     これはもう安定への恐れを意識的に打ち破るしかないのだろう。

     安定志向をどこかで捨てなければならない。

     老後の生活保障なんて年をとっても働くことにしてチャラにしてしまえ。

     人口構成からいって年金はかなりヤバイし、われわれが年をとれば高齢化社会の

    到来であり、老齢になっても働くことが一般化しているかもしれないからだ。

     といってもわれわれの多くには安定志向が骨の髄まで染みついている。

     さまざまな生活保障を得られないことは、死活問題にまで感じられる。


     これは死生観にも関わってくるのだろう。

     現在のわれわれは長く生きよう生きよう、健康に大過なく生きようとする。

     個人の生を目いっぱいひきのばすことがわれわれの最大目標だ。

     100才以上生きた人が有名になったり、表彰されたりする。

     まるで腫れ物に触るように人生を守ろうとしている。


     そのために生活の不安をことごとく除去しようとする。

     若死にするかもしれないとか、太く短く充実した生をまっとうするだとか、

    風の吹かれるまま気ままに生きるとか、破滅的に野垂れ死にするような美学とか、

    まあそういった潔い人生観がなくなってしまった。

     人生を無菌室に入れることに熱中して、われわれの生はとてつもなく生まじめになった。

     そのような人生観もわれわれの人生をつまらなくする遠因にもなっているのだろう。


     TVの動物もののドキュメントなんか観ていたら、年老いたり、病気にかかったりした

    動物たちは野垂れ死にしたり、肉食獣に食べられたりして潔く死んでゆく。

     これが生命あるもののごく自然な姿であると思うのだが、

    こういう死生観を現代人はすこしはとりもどしたほうがよいのかもしれない。

     守りに守られた人生は無菌室の中で、危険はないかもしれないが、

    多くの歓びを知らずにその生を終えなければならなくなる。


     戦後50年、われわれは多くのセーフティネットに守られてきたが、

    そのために人生は多くの束縛や拘束に縛られ、つまらないものになってしまった。

     安定のカラをうち破ることが必要なのではないだろうか。

     安定の牢獄か、安定のない自由か、どちらを選ぶべきなのだろうか。


     自分の人生のなにに価値をおくか――

    そのことによって人生の選択は変わってくるようである。


     せめて若い人たちには安定の殻を破って、冒険とチャレンジの生き方を

    選択してもらいたいものだ。

     そうすれば、この閉塞日本もすこしは楽しいものになるかもしれないのだが。





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