上からの制度化と自分から変わろうとしない日本人


                                               1998/7/21.




     日本人は自分から変わろう、自分たちから変えてゆこうという意識をまずもたない。

     いつも上から与えられるだけで、その枠組みに拘束されたままでなんの文句もいわない。

     制度が不合理で時代遅れになっていても、みずから変えようとも思わない。


     与えられたものになんの疑問も抱かないのが日本人である。

     そしてそれをそのまま受け入れるのが日本人である。


     これでは西洋から輸入された民主主義とか人権が根づくわけがない。

     このような制度は自分たちから変えよう、変わろうと思う人たちに満たされた社会では

    有効に働く仕組みなのかもしれないが、自分たちが変えられるわけがないと

    思い込んでいる社会ではただの借りモノにとどまる。


     日本人には世界を支配し、制御しようとする意志があまり強くない。

     与えられた制度や慣習をそのまま受容、適応しようとする。

     抗おうとか、コントロールしようという意志や全能感がはじめから欠落している。

     西洋近代社会は神に変わって、世界を人間がコントロールしようとしたときに

    誕生したのではないのか。

     日本人は与えられた世界をそのまま受け入れる。


     制度や慣習は自分と関わりのないところで誕生し、自分の手にも及ばないもの――

    日本人のたいがいの人は思っているのではないか。

     日本人にとっての世界とはまだ呪術的段階、神話的世界にとどまっているように思える。

     制度や慣習は人間の手によってつくりだされたものと考えるよりか、

    世界にもともと存在する「超自然的」なものと思っているようにさえ感じられる。

     与えられた制度をそのまま受け入れる日本人はまさにその結果だ。

     だから制度や慣習を変えようとも露とも思わない。


     たしかにマスコミや新聞では批判や改善の声は多く聞かれるし、

    政治への声高な主張をおこなっている人たちもいる。

     だけどそんな人たちはごく一部であって、わたしのまわりを見渡しても、

    世の中を変えようといきり立っている人なんてまずひとりも見たことがない。

     みんな社会や世間のありようにそのまま適応してゆくだけだ。

     そもそも自分の意識すら変えてゆこうとも、あるいは社会や制度のありかたに

    疑問をもつことなんてまずないようだ。

     世間や政治にモノを激しく叫んでいるのは一部のインテリや利益団体だけであって、

    一般のたいがいの日本人は偉大な沈黙の民だ。

     世界は神々がつくりたもうたもので、触らぬ神にタタリなしが日本人の行動様式だ。

     これでは時の権力者や支配者に都合よく操られるボウフラの民になるのは当然だ。


     わたしはべつに政治的な改革や変革を期待しているのではない。

     もっと日常的なことを語っている。

     社会的な意識や生き方などをみずからが切り開いてゆく気概くらい、

    もってほしいと思っている。

     みずからがみずからの意志と好みで自分の人生・生き方を生きていってほしいと

    思うのだが、日本人のたいていの人は政府が決めた制度や仕組み、マスコミから

    与えられた情報や指針によってあまりにも自分の方向を決め過ぎる。

     制度に与えられたお仕着せの生きかたではなく、みずからの自立的な生き方を

    推し開いていってほしいと考えている。


     毎度毎度の提言で申し訳ないが、世間や会社に与えられた仕事や労働だけの

    人生ではなく、もっとほかの生きがいややりがい、人生のあり方をみずから

    切り開いていってほしいものだ。

     会社から与えられた人生しか日本人には選択の幅がない。

     みずからが人生を律しようとする意志がまるで存在しない。

     これでは自分の人生ではなく、会社や国家から与えられた人生にしか、

    過ぎなくなってしまうではないか。

     わたしの人生は「借りモノ」のままでいいのか。

     「お仕着せ」の人生だけで、満足していてもいいのか。

     「MAID IN カイシャ」の人生ではなく、「MAID IN ME」の人生だ。


     女性でもそうだ。

     政府が決めた主婦のパートタイムの税金の上限とか、

    息のつまりそうな専業主婦の生き方だけで満足していていいものか。

     自分の人生の可能性を限定せず、そしてだからといってすぐ政治に走るのではなく、

    まず自分の生き方や意識から変えてゆくべきだ。


     問題があるとすぐ政府や役人に文句を言う前にまず自分の意識や、

    社会の意識を変えてゆく努力をするべきだ。

     なんだか日本の場合はいつも政府にがみがみ文句ばかり言って、

    自分たちから変えてゆこうとは思わないみたいだ。

     社会のことを問題にしているのに政治だけに駆け込むのは、

    いちばん重要な社会という段階をすっとばしてしまっている。

     社会なき政治とはいったいなんなのか。

     まずは一般の人たちに向かってモノを言わなければならない。

     声をあげる人たちと政治だけがつながって、ほかの人たちは全然無視だ。

     なぜこんなヘンなことになっているのだろうか。

     サイレント・マジョリティはただの観客で、盲従の民と思っているからだろうか。

     政治が変えるのではなく、一般の人が変わらないと問題は解決しない。

     あまりにも一般大衆・中流階級が無意味な存在になり過ぎている。


     いつもだれかからの指示待ちで、自分の人生を切り開いてゆこうとしない。

     カイシャや学校、政府や政治家、官僚、マスコミの決めた人生だけを生きようとする。

     与えられた人生だけだ。

     画一化され、規格品のような人生や人間ばかりで世の中つまらなさ過ぎる。

     このような様相というのは、まさに自由のまったくない証拠ではないか。

     ぜんぜん人間らしくないし、ほんとうにこんな人生のままでいいのか疑問に思う。

     もっと自分なりの人生、自分の好きな生き方を率先しておこなえばいい。

     そのような社会をつくりだすことがこれからの日本の課題ではないのだろうか。


     明治以降の近代日本は国家・官僚主導型で西洋化をめざしてきたため、

    上からのお達しをそのまま受け入れる規格品の日本人を大量生産してきた。

     一般の日本人も国家のめざす方向とその志向が合致したためか、

    従順型の日本人を増殖させてきた。

     明治以降ではなく、西洋の啓蒙思想以降から、知識によって打ち立てられた理想を

    国家全体で追求する社会体制ができあがりはじめたのかもしれない。

     一般大衆が知識や理想をもつ専門家集団に率いられる社会が、

    最高の社会制度であると近代以降考えられるようになった。

     そうして産業化、植民地化、平等化などが国家主導でおこなわれるようになった。

     一般大衆はただ国家に率いられる従順な集団となった。


     だが現在のところ、国家や官僚が未来の大きなヴィジョンを提示できなくなった。

     これまでの理想であった社会主義や福祉国家もご破産になりかけている。

     もう国家や専門家の提示する夢やヴィジョンに依存していてもしかたがない。

     市場経済の進展により好みも嗜好も多様化し、おおくの大衆は専門家に提示される

    理想だけではとてもその欲求を満たしきれなくなった。

     もうだれかに頼るのではなく、自分ほんらいの好みや趣味によって生き方を決めるべきだ。


     専門家集団はわれわれの生をもう満足させてくれない。

     満足のみか、阻害・剥奪する段階に踏み入れているのかもしれない。

     中央集権は全国一律の規格化された人生をあいかわらず強制しつづけているし、

    このような人生は高度資本主義社会の現代においてもうその役割を終えている。

     われわれは自分自身の生き方を享受する段階に踏み入れたのではないのか。

     世間に容認された規格品の人生はこれからの幸福をもうもたらさないだろう。

     大量生産の工業社会はもう曲がり角に来ているのだから。


     自分たちから変わってゆかなければならない。

     だけど変わろうという気配はまるでないようである。

     こんなに長い不況で、しかも企業のリストラ・倒産が盛んなトンネルのような時代に、

    人々はそこからなんの教訓もひきださず、時代の変化の意味も読みとっていないようだ。

     ただ、だらだらと景気が上向きになるのを待っている、いつもどおり景気が

    よくなるのを待っているだけで、なにかを変えてゆこうとはまず思っていないようだ。

     あいかわらず日本人は与えられた人生を生きようとしている。

     景気も政治家まかせで、自分から変えてゆこうとはあまり思わないみたいだ。

     こんな元気のない個人がますます景気を冷やす。


     与えられた人生から脱出するには、懐疑や批判する精神が必要だ。

     なぜこんな生き方しかできないのか、なぜこんなに不自由なのか、

    なぜ自分の人生はぱっとしないのか、そういったことを懐疑することが必要だ。

     でないと与えられた人生をそのままくり返すことになる。


     日本人は原理的思考というのがまずできない。

     ものごとの原理・原則を考えてみようとはまず思わない。

     そんなことを考えるまでもなく、カイシャや国家がこれまでさまざまな役割や指針を

    与えてきてくれたから、人々は酒宴やパチンコに酔っていればよかった。


     しかしこれからはそうはいかない。

     もうだれかが人生の指針や幸福を与えてくれる時代ではない。

     もう国やカイシャはわれわれの幸福や安心を与えてくれるところではない。

     自分の不幸や悩みは国家やカイシャが解消してくれるのではなく、

    みずからがみずからの個別問題として解決してゆかなければならない。

     そのような目にあったとき、はじめて人はみずから考えようとするのだろう。

     ものごとの原理を考えてみないと解決しない問題が山積みになったとき、

    はじめて日本人は原理的思考というものをおこなってみるのだろう。


     日本人は原理的なことをまず考えてもみようとしなかった。

     経済大国になり、エコノミックアノマルと揶揄されるようになっても、

    「なんのための豊かさか」、「なんのために働くのか」、「なんのために生きているのか」、

    そういった懐疑がゼロのまま、経済至上主義で暴走してきた。

     わたしはこの生活や人生よりカイシャや仕事のほうが大事だという逆立ちした日本人を

    見てきてほとほとあきれ返っているのだが、やはり原理的思考の欠落にも

    原因があるのだろう。


     詰め込み教育の学校教育だけに問題があるとは思われないが、

    日本人はもっと原理的思考や批判的精神をつちかうことが必要だ。

     疑問や懐疑から開けてゆく知識の方法を身につけるべきだ。

     学校教育というのはすでにできあがった知識であり、だれかの頭によって考えられた

    知識なのであって、いわば完成品のパッケージされた商品と同じだ。

     既製品ばかり与えられていると、新商品を創造できなくなる。

     新しい現実の問題に対処するためには、新しくゼロから考えてみる必要がある。

     そのような原理的思考ができないと、いつまでも現在おこっている問題の

    根本的解決ができないままだ。

     日本人には「哲学」が必要だ。

     原理的な哲学がない人たちはいつまでも世界の荒波に翻弄されつづけるのみだ。

     自分の人生、自分のために生きることはまずムリだろう。

     そうして他人や権力に都合よく利用されたまま、人生を終えることだろう。



     現代の日本の不幸の大半は、自分の人生を生きられないことに

    起因しているのではないかとわたしは思う。

     与えられた人生、与えられた幸福、お仕着せの目標――そんな他人からの容れ物

    ばかりで、自分の自由な生き方、好きな人生といったものが送れない。

     もうこれまでの学校や会社、国家から与えられてきた目標や人生は、

    楽しみや幸福をもたらす容れ物ではまったくなくなっている。

     つまらないし、窮屈だし、さして希望や夢のある将来が待っているとはとても思えない。


     こんな時代には自分なりの生き方を創り出し、自分のための人生を生きるべきだ。

     国家や会社のために投げ打ってきた人生ははたして後続の世代に尊ばれ、

    ありがたがれるものだと信じることなんてだれができるというのか?

     将来、いまの会社人間も戦前の沖縄で崖から飛び降りた女性たちと同列に

    並べ立てられているようになっているかもしれない。


     上からの指示を待っていても、われわれはもう幸せにはなれない。

     それなら自分たちから変わってゆくべきだ。

     自分たち自身が創造してゆかなければならない。






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