リチャード・カールソンの本が売れているそうだ


                                               1998/7/6.




    リチャード・カールソン『小さいことにくよくよするな!』(サンマーク出版)が売れている。

    ビジネス書の週間ベストセラー・ランキングで一位になっていたし、

   近所の中くらいの書店にも平積みになっていた。

    『小さいことにくよくよするな!』 サンマーク文庫 


    リチャード・カールソンの前著『楽天主義セラピー』という本は、わたしにとっては、

   心の革命をおこした本だが(わたしをブチのめした十冊の本にあげている)、

   世間的にはそんなに話題にならなく、そんなものかなと思っていたから、

   新著がベストセラーになったのはびっくりだ。


    春山茂雄『脳内革命』という戦後最大に迫るベストセラーを出した出版社から

   出ているから話題になったのか、それとも心理学のコーナーではなくて、

   ビジネス書のコーナーにおかれているから関心を集めたのだろうか。

    ベストセラーをあまり読んでいないから売れる理由はあまりわからないし、

   ベストセラーがどのような要因によって生まれるのかもわたしはよくわからない。

    「全米500万部突破の大ベストセラー」という帯のコピーが効いたのか。


    わたしにとっては、リチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』(春秋社)という本は、

   革命的な書だった。

    『楽天主義セラピー』 カールソン 春秋社 


    かんたんにいえば、考えることはよいという価値観を「そんなことはないんだよ」、

   とあっさりと論理的に否定してくれた、わたしにとってはひじょうに革新的な本だった。


    考えることは無条件によいことだと思い込んでいたわたしは、毎日毎日憂鬱な思いを

   抱えながら、それでも毎日考え込むうつうつとした日々を送っていた。

    かなり落ち込みがひどくなっていたから、否定的な思考は捨てればいいという、

   カールソンの『楽天主義セラピー』にはびっくりした。

    落ち込んでいるときだからこそ、その思考を捨てるという方法を試してみたら、

   その効果は抜群だった。


    かんたんにいえば、「くよくよ気にするな」ということなのだが、

   そういう言葉は日常、親や知人によくかけられるものだが、

   皮肉屋で懐疑的な者にとってはそういう言葉をかけられるとよけいに反発して

   ますます怒りや憂鬱に駆られるものだ。

    「わたしのほうがエライんだ」といわれたような気がしてよけいに腹がたつものだ。

    そういう反発を抱かずに、思考というものがどんな悪循環の鎖につながれているか、

   論理的にひじょうに納得できるかたちで説明してくれたのがこの本だ。

    ほんとうにかんたんなことなのだが、考えることはよいという前提をもっている自分や

   世間の風潮があるところでは、そんなかんたんなことも受け入れられない。

    そうして考えることをくりかえして、悔恨や後悔の毎日がずっとつづくことになる。


    まるで悩むことに愛着があるようであり、自分をメロドラマの主人公にしたがっているようだ。

    まあドラマとか映画が「うじうじ悩む毎日と生活はよい」といわんばかりのストーリー展開を

   くりひろげているから(でないと物語は成立しない)、これらの物語に影響されやすく、

   模倣したがるわれわれは、みごとにヒロイックな役にハマってしまうのだろう。


    世間には考えることはよいことだという前提や常識がある。

    だから「くよくよ気に病むな」というアドバイスをかけられても、

   思考することによって物事を解決するのがよい方法だと思い込んでいる者にとっては、

   思考を捨てるというテクニックはまず受け入れようがない。


    思考に価値がおかれているから、思考を捨てることは自我の消滅にも等しい、

   恐ろしいことにも思えてしまう。

    思考というのはわたしの一部でしかないのだが、思考に価値がおかれた社会では、

   思考だけがゆいいつの「わたし」になり、頭の中のわたしだけがすべてになってしまう。

    またそれは新興宗教のマインド・コントロールされた信者と同じではないか、

   と人は思い込んでしまうことになる。

    批判精神と思考を失ってしまったら、自分自身が自分でなくなると思っているわけだが、

   新興宗教をパッシングする人たちはマスメディアや経済社会という自分たちの社会への

   批判精神がとくべつ発達しているようにはまず見えないし、思考を捨てるというテクニックは

   自分を傷つけるさいにはそれを適宜使用したらいいのであって、

   すべてに適用する必要はないとわたしは考えている。


    思考に人はますますしがみつき、そしてその思考というのは、

   自分を傷つけたり、悲しませたり、はらわたを煮えくり返らしたりして、

   ますます物事を困難に複雑なものにする張本人でもあるのだ。

    思考に価値がおかれている社会では、思考のこのような悪い面に気づかずに、

   ますます鋭利に自分を傷つける思考の技を磨くことになる。


    カールソンのいっていることはこういう思考の悪い面に気をつけろということだ。

    思考は無条件によい結果ばかりを導く最高の能力ではない。

    ときには自分を傷つけ、過去と未来の苦しみと牢獄に閉じ込める張本人であり、

   究極的には存在しない虚構の不安や恐怖をつくりだす源でもあるのだ。

    だからときには頭を空っぽにして、過去も未来も捨てて、

   いまに生きることが肝心だとというのがカールソンのメッセージだ。


    カールソンのいっているくわしい内容については、わたしのエッセーに書かれています。

    過去や未来を捨てるという心の習慣や、思考や過去というのは虚構である、

   という主張はひじょうに大事だと思いますので、ぜひ覚えておいてほしいものです。

    「思考は超えられるか」というエッセーにまとめていますので参考にしてください。


    参考にカールソンの本を読んでから、思考の否定的側面を探ろうとしたわたしは、

   ウェイン・W・ダイアーなどの自己啓発書や、アウレーリウスやエピクテトス、アランに

   そのような類を見つけ、またケン・ウィルバーやクリシュナムルティ、ラジニーシなどの

   トランスパーソナル心理学、大乗仏教などの書物をつづけて読みました。

    ストア哲学のアウレーリウスやエピクテトスには思考や判断力を捨てることの安らかさが

   うたわれており、仏教になるとその段階を超えて世界との一体感を目指しています。

    トランスパーソナル心理学というのはアメリカ心理学からの東洋宗教のリニューアルです。

    書評「トランスパーソナル心理学は恐怖や悲しみを終焉させることができるのか」で。

    思考を捨てる、思考は虚構であるという考えはこれらに見つけることができました。

    ボディワークやヨガにまで踏み込んだところで、この追求はとまっています。



    『小さいことにくよくよするな!』という本はこのような主張を系統的に説明するというよりか、

   いろいろな心のテクニックをコラム的に紹介するタイプの本だから、

   カールソンの思考を捨てろという方法はそんなに前面には押し出されていない。

    もちろん頭を空っぽにする効用は随所に織り込まれている。

    『楽天主義セラピー』のほうが思考の悪循環を系統的に説明していて、

   カールソンのまとまった主張を知るには、こちらのほうが全貌を知りやすいと思う。


    世界を変えるのではなく、心を変えることによって世界を変えるという本が、

   カールソンであれ、『脳内革命』であれ、自己啓発であれ、だいぶ売れるようになってきた。

    もちろんこんな考えは二千年前からローマでもインドでもあったわけだが(ストア哲学や仏教)、

   世界を変えようと躍起になってきた近代西洋の流れが一段落して、

   ふたたび世界より心を変えようという考えがふたたび盛り返してきたようだ。

    アメリカ60年代におこったヒッピー・カルチャーの実験的な流れが、

   90年代の不況の日本で花開こうとしているのか。


    戦後の経済成長期には世界より心を変えるというのは禁句だった。

    経済を成長させるためには心はたえず欲求不満と欲望にさいなまされていないと困る。

    心の不満が未来への経済成長への原動力になってきたからだ。

    あなたの不満は稼いで、電化製品や車、マイホームを買うことによって、

   解消しなければならない、というのが戦後社会が奉じた信念であり、

   あるいは強制された(?)因襲だった。

    心の不満は電化製品や車に転嫁された。


    それが90年代になってほしいモノはもうない、景気はどん底だという時代になって、

   『脳内革命』やカールソンの本のような、心を変える流れが顕著になってきた。

    かつての日本にとって精神や心の問題にふれることは、

   精神病院に直結するような、恐ろしいタブーの問題としてフタをされていた。

    心の不満はそれ自体が治されては困る、電化製品や車によって解消されなければならない、

   という経済社会の要請が、精神問題にフタをしていたのだろうか。

    つまり心の不満はそれ自体の問題として解消されては元も子もなかったのである。

    だから人は世界を変えることに躍起になった。


    いまは心を変えて幸福になるという考え方がどんどん勢力を増しつつある。

    これは心の不満を経済成長に転嫁しないという考え方である。

    日本人はこれからこのような道を選択するのだろうか。

    春山茂雄の『脳内革命』はそのような転換点のターニング・ポイントになるのだろうか。

    経済に夢が抱けなくなった時代には、心の中に夢と平穏をもとめようという気持ちが

   強くなるのは当然の流れだ。

    日本社会はこの転換点があまりにも遅すぎた感があるし、

   まだまだこの転換が飽和点にも達していないようだ。


    われわれは経済成長の夢を捨てて、心の平和を大事にする社会に転換するのだろうか。

    歴史をふりかえれば、仏教という心の平穏をめざした心の流れがある。

    もちろんいまの仏教はあまりにも観光産業や葬式産業に傾き過ぎている。

    アメリカからの心理学の成果、トランスパーソナル心理学などが、

   心の平穏の道を指し示してくれるかもしれない。


    いきなり宗教への世界に逆戻りするなんてことはないと思うが、

   (宗教には数々の愚行と腐敗の歴史が刻印づけられているから)、

   経済絶対社会から徐々に心を大事にする時代に変わってゆくのではないだろうか。


    世界を変えても心はいつも満たされない。

    「心を満たすのは、心自身しかない」ということに気づいたのが、

   経済成長期――あるいは近代化の終焉をむかえた豊かな国がたどりついた結論、

   なのではないのだろうか。

    モノカネに満たされて豊かになっても、いっこうに気持ちは晴れないからだ。

    この流れは読書界だけの流行に終わるのか、それとも社会意識の潮流を変えてゆくことに

   なるのか、もうすこし時がたってみないとわからない。






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