平成不況について思うこと


                                                  1998/6/20.




    円安、株安、債券安のデフレ・スパイラル懸念がつづいている。

    失業率は4パーセントを超え、倒産はひっきりなしだ。

    不況はもう6、7年もの長いあいだづついており、景気が回復する兆しはいっこうになく、

   悪循環的に悪いほうに落ちてゆくばかりだ。

    こんなに長く深刻な不況は戦後日本にはなかったのではないか。


    ただこの不況のふしぎなところは、街中になかなか壮絶な様相が現われないことだ。

    不況不況といわれていても、失業者がどっと街にあふれ出すとか、ホームレスが目に見えて

   増加したとか、そういった目に見える変化はあまり見受けられないように感じる。

    テレビや新聞、雑誌は深刻な不況の様子を伝えるが、街中を見ているだけでは、

   いつもどおりの生活や商売がつづいており、なにも変わらないように見える。

    飢えや家を追い出されるといったような深刻な不況は、

   豊かになった平成の世の中にはもう存在しないのか。

    ちょっとの不況(どころではないが)くらいではこの日本はびくともしないほど、豊かなのか。


    マスコミで伝えられる深刻な不況と、街角でのギャップはどう解釈すればよいのか。

    6、7年つづいている不況でも豊かになった国では、壮絶な飢えは無縁なのだろうか。

    豊かな国の不況とはそんなに深刻にならないものなのだろうか。

    インドネシアの暴動は発展途上国特有の現象にとどまるものなのか。


    それとも後からじわじわと目に見える形で不況は深刻になってゆくのだろうか。

    強盗の数や自殺者の増加が目立っているが、社会秩序の崩壊にまではいたっていない。

    今月からゆとりローン返済が倍に跳ね上がるそうだが、破産者の噂もあまり聞かない。

    いまのところまだみんな貯金があったりしてなんとかしのげているだけなのか。

    1200兆円もの資産があるのなら、ちょっとくらいの長い冬ではびくともしないのか。

    でもこの資産は少数の金持ちがおおよそを占めており(あるいは老人)、

   大勢の人(とくに若年層)はそんなにもっていないものだと思うが。


    有効求人倍率は0.5を下回ったそうである。

    求職者の2人に1人は就職できない計算だ。

    お恥ずかしながらわたしは去年と今年ハローワークに通っていたが、

   今年のほうがはるかに目に見えるかたちで失業者の数は増加したのがわかった。

    統計どおり若者の数は多いが、転職市場の狭い中高年者もわりあい多かった。


    失業率は4パーセントを超えたそうだが、統計よりもっと多いはずである。

    転職情報誌が何冊も出ているのだから、ハローワークに届け出る人はもっと少ないはずだ。


    転職情報誌などの年齢制限はほとんど20代までであり、中高年の受け皿がない。

    転職市場は年功序列や終身雇用が崩壊する時代といわれていてもこの状況であり、

   年功序列あるいは年齢差別的な意識がつよく、中高年の転職はかなり難しい。

    根強く残っている年功賃金が行くあてのない中高年を生み出している。

    また衰退産業からの転職者は知識や技能、年齢、あるいは年功序列のせいで、

   新しい産業に容易に移ることができなく、ミスマッチがおこっている。

    コンピュータ関係の求人は多いのだが、製造関係などに勤めていた中高年の人たちが、

   その業界になんか転職はできない。

    転職市場がぜんぜん開けていないことが、不況や倒産で放り出される人たちの受け皿を

   シャットアウトしている。


    皮肉なことに中高年にはおトクな年功賃金がみずからの転職市場を閉ざしている。

    右肩上がりの経済成長時代にできあがった年功序列体系が、

   中高年の失業が増加する新しい時代にほとんど対応していないのだ。

    いまだに社内失業者が100万200万人ともいわれており、これから放り出されるのが

   本番だとするのなら、企業は中高年の受入体制は整えられるだろうか。

    年功序列意識が残っていたり、若年層だけを求人対象にしつづけるなら、

   行くあてのない中高年が大量に生み出されることになる。

    企業は中高年の役割や貢献を考えなおすべきだし、

   中高年の人自身も年功賃金や高い給料をあきらめるしかないのかもしれない。


    これがアメリカなどでいわれている中流階級の没落というものだろうか。

    これまでの中流階級の経済基盤であった工業関係の仕事がどんどん値を落とし、

   あるいは必要がなくなっているのである。

    工業社会のシステムがその用途を終えようとしている。

    製造業や建設業などこれまでの雇用を吸収していた業界が地盤沈下をおこしており、

   これらの業界から放り出された人たちはなかなか容易には新しい業界にはうつれない。

    専門的な知識や技能が必要ではない新しい産業はあまりできあがっていない。

    工業社会の衰退とともにその担い手であった中流階級も没落してゆくのである。


    これまで工業社会を支えていた働きバチたちはこのような状況をどう思うのだろうか。

    かれらが支え、経済成長を担ってきた繁栄の時代が終わろうとしている。

    人生のすべてを捧げ、夢をたくしてきた経済はその絶頂期を下り落ちようとしている。

    栄光の時代は終わり、過大な夢はもはや過去のものだ。

    経済には地位や所得、権威といったいくつもの希望や夢が埋もれているように

   思えたのかもしれないが、もはやそのような希望の源泉は尽きた。

    経済はわれわれの夢や希望をかなえるフロンティアではもはやない。


    もっと早くからこのような状況ははじまっていたと思うが、日本人はそのような変化に

   対応しようとはせずに経済や会社への夢を追いつづけた。

    夢の源泉が枯渇しようとしているのにそこにしがみつづけようとした。

    方向転換できない人たちは経済没落の衝撃をモロにかぶる。

    夢の残りかすにしがみつき、泡のように消える夢に愕然とするばかりだ。

    経済が夢や希望のなんでもかんでも叶えてくれると思うのは幻想でしかない。

    経済に夢をたくす社会、あるいはそれを強制する社会は、

   その夢がついえた新しい時代にはまったくその空しさを露呈する。

    日本人は目を醒ます必要がある。

    経済ばかりに過剰な夢をたくすのは、たまたま戦後の成長期と重なったから

   可能になった偶然なのであり、もはやこれからはそのような希望は抱けない。

    経済に過剰な夢を捧げられるような時代ではない。


    とまあ、わたしは経済至上主義に過剰に傾く日本社会にたいして思うのだが、

   この不況の原因は経済フロンティアの消滅だけとは限られないかもしれない。

    大不況にあえぐ日本を尻目にアメリカは好況を謳歌しているからだ。

    経済先進国のアメリカが好況なら、日本にも希望がないわけではない。

    この不況は不良債権が片付かないことだけが原因なのかもしれない。

    不良債権が銀行の貸し渋りなどをひきおこし、カネの流れを阻害するから、

   経済全般が冷え切ってしまっているのだろうか。

    橋本政権の緊縮財政も経済を冷え込ませている。

    経済に夢を抱けないからだけではないかもしれない。


    ただやはり長期的にみてかつての経済成長はあまり見込まれないとわたしは

   予想していたから、アメリカの好況は意外だった。

    上がってゆく株価にバブルではないのかとはらはらしながら見ていた。

    最近はアメリカの株価はバブルだとかいわれているようだから、

   アメリカの好況はあんがい実のないものだったのかもしれない。

    世界の豊かな資金がアメリカに集まっただけではないのか。


    先進国はもう経済にあまり大きな夢を見出せなくなっている。

    車や家電、鉄道や建築といった20世紀半ばの繁栄をもたらした市場マーケットは

   もう成熟しており、未来にはそのような大ヒット群はあまり見当たらない。

    目新しい産業はインターネットやコンピューター、携帯電話といったものくらいしかない。

    先進国は新産業の枯渇という現象がおそいかかっている。


    日本はこの不況から脱することができるのだろうか。

    将来にたいする不安がかつてないほど強まっている。

    ひとつの会社にまじめに勤めていても中高年になればリストラでお払い箱に

   なるかもしれないし、倒産してしまうかもしれず、転職市場もあまり開けておらず、

   転職できたとしても年収ダウンで、将来が安心できない。

    また老齢年金も破綻してしまうかもしれない。

    先行きの不安がまたまた景気に冷や水を浴びせかける。


    生活安定を至上目的にした生活設計を立てられないことが、

   これまでの安定意識の強い日本のサラリーマンに恐怖に近い不安を抱かせる。

    この安定志向はかんたんには捨てられないだろう。

    世界的にも大恐慌の教訓いらい、福祉や保障などの安定志向が強烈に強まったわけだが、

   時代の転換期にはそのような安定は約束できない。

    この安定志向とどう折り合いをつけるかということが将来を決定するのだろう。

    もとめても得られないものを求めつづけるか、あるいはリスクに挑戦してゆくか。

    何十年もの長いあいだ安定意識が強まったわけだから、これはなかなかむづかしい。

    社会意識の転換のむずかしさが不況の足をひっぱっている。


    安定は過去にばかりしがみつく心性をつくりだし、未来をつくろうとはしない。

    われわれは既成産業の安定ばかりを目指し、新しい商売をはじめようだとか、

   ベンチャー精神だとか、そういった進取の精神がまるで欠落している。

    日本人には自営業者のスピリットといったものがまるでなくなっている。

    わずか50年前ほどは日本人のほとんどが農家の自営業者であったのだが。

    雇われサラリーマン根性が未来の枯渇を招くのである。

    でも組織の中で働く以上、無限責任は抱けないし、儲けた全部が収入になるわけでは

   ないから、自営業者のスピリットには歯止めがかかるのはとうぜんだ。


    社会全体がそのように教育してきて、また安定と世間体をそこで用意してきたのだから、

   とつぜん社会からその約束のご破産を告げられても、われわれは急に変われない。

    子ども時分から叩きこまれてきた安定意識は容易に抜け切らないだろう。

    安定の枠外は、生活苦や日雇いといった批判してきた暮らしなのだからとうぜんだ。

    新しい世代の人間はこれらのその日暮らし的な生き方に不安を覚えるよりか、

   挑戦や刺激の多い楽しい毎日だと思うほうがよいのではないだろうか。

    安定の毎日同じことのくり返し、終わらない日常、監獄のような毎日、

   といった生活よりかなり楽しい人生になるのではないだろうか。

    そういう意識の転換が、安定の約束できない時代には必要になるのではないだろうか。


    でも安定をもとめる意識はいぜん強い。

    先行きへの不安がサイフのひもをかたく閉めさせ、景気にますます冷や水を浴びせかける。

    すべてが悪材料ばかりで、悪循環的に悪いほうに落ちてゆく。


    この底なしの不況から脱することはできるのだろうか。

    これから不況は常態になってゆくのだろうか。

    景気というのはなにをきっかけに上向きになるのかわからない。

    自然といつの間にか景気回復がおこっているかもしれない。


    やはり不良債権の抜本的な解決が必要なのだろう。

    いつまでも手をこまねいて解決を先送りしていたら、ますます悪化するばかりだ。

    国鉄清算事業団のように赤字分を銀行からひきはなせばいいのだろうか。


    ただ長期的に見て右肩上がりの経済成長が終ったのはたしかで、

   新しい右肩下がりの時代に社会構造が対応できていないことが、

   われわれに先行き不安を抱かせる。

    安定した未来のかわりになにがあるのかわからないので、景気はますます冷える。

    このような新しい時代に適応した新しい社会意識が醸成されるまで、

   われわれは混乱やとまどいの時期を通り抜けなければならないのだろう。

    新しい時代への試練、もしくは鍛練といっていいかもしれない。

    この時期をくぐり抜けたら、社会は常識や意識を変えているのだろうか、

   それともべつだんの変化もなしにつづいているのだろうか。


    経済が右肩下がりしか見込まれないとしたら、経済にばかり入れ込むのではなく、

   日本人はもっとなにかほかの価値観を探すべきだとわたしは思う。

    経済がうまくゆかないのなら、もっとほかの楽しみや希望をみいだそうではないか。

    この長期不況は経済ばかりしか目が向かない日本人が必然的に陥る循環ではないのか。

    景気にしか一喜一憂できないのなら、不況期にはほかの希望や喜びがなく、

   悪いほうばかりに目が向いて悪循環的に落ちてゆくばかりだ。

    ほかの楽しみがあれば、経済が少々うまくいかなくなっても平然としていられる。

    多元的な価値観の要請が不況からつきつけられているのではないだろうか。






     |BACK99-97|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system