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 2002年全断想集


 頭の中の「私」を超えて 2002/1/2.
 頭の中の私は存在しない/他者にとっての自己の価値観/宗教が嫌われる深層の理由/大いなる一の世界観/

 020113断想集 2002/1/20.
 チャネリングはどこまで採り入れることができるか/自我と空想の死/宗教否定論および機能論/抵抗とは相手を強めることである/

 顔が苦しい! 2002/2/10.
 顔がくり抜かれた男の姿/顔について問う/防壁としての顔の緊張/筋肉で苦しみはこらえられない/顔はだれのためにある?/顔が「私」なのか?/

 顔と肉体を解き放つ 2002/3/3.
 感情を抑える文化における顔/顔を消す、心を消す/肉体の恐れを解き放つ/人間は肉体ではないとどうして言えるのだろう?/視覚・時間・物質/

 物質否定の知覚観・肉体観 02/3/24.
 日本人の魂、あの世、神々について/セスの知覚観・物質観/ラムサの物質観・肉体観/ハイキングの山、死者の山/

 無心・投影・崇り 02/4/19.
 無心とは非情のことなのか/思考を捨てることの倫理性/仲間に入ることの拒絶/嫌いな他人を自分自身だと認めること/霊と崇りの心理学/

 筋肉から感情は解けるか 02/5/13.
 身体から感情は解きほぐせるか/身体とは心のことである/筋肉感情論リサーチ中/腹と胸、背中の筋肉感覚に鋭くなる/利他心に一滴の利己心も混じってはならない?/

 筋肉から感情を解きほぐす 02/6/2.
 ストレッチは筋肉だけではなく、心も伸ばす/しぐさに現われる心と体/依存のよい面を見つける/頑固な首、こらえるアゴ、恐れる眼/心理学はなぜ身体を無視するんだろう/

 020611断想集 02/6/20.
 緊張に自分で気づけない、自分で解けない/なぜ感情の身体変化に気づけない?/100円ショップと価格・ワールドカップと暴動・騒音の基準/<いま・ここ>の瞬間の拒否/

 精神活動としての筋肉 02/7/24.
 内臓は身体から鍛えられる?/病気とは心の象徴である/今回のドラマ評 『天国への階段』ほか/心臓の喜び、肺の悲しみ、肝臓の怒り/精神活動としての筋肉/感情にまつわる筋肉のナゾ/

 020725断想集 02/8/21.
 落伍者のポジティヴな意味を掘り起こせ/エゴを落とすということ/心身医学はどこにいったんだろう?/恋愛と労働の至上主義はどのようにつくられたのか?/フリーターに社会保障はなぜないのか?/尊大な自己とみじめな仕事/

 020824断想集 02/9/21
 作家のマーケティング論/物語りに価値と意義はあるのか?/宇多田ヒカルは儲けた金を何に使うか/売れる人間になるだけが人生か/近代化と精神主義/労働の幸福論/


 020930断想集 2002/11/3
 私が文学を読めないワケ/文学はいろいろ読んでみたけれど/SF映画『マトリックス』は神秘思想ではないのか/35's BLUE/なぜ仕事についての本は少ないのか/生活費はいくらかかる?/

 021123断想集 02/12/15
 社会の入り口とひきこもり/帰って寝るだけの生活/ホームレスになる自由がもどってきた時代/2002年、ことし考えてきたこと/『ダ・ヴィンチ』のブック・オブ・ザ・イヤー2002について/35歳、年をとるということ/

 021221断想集 2003/1/1
 心は結果ではなく、原因/仕事は学力か、社交性か/哲学趣味は人に話していいものか/若者の没落と守られた中高年/無縁社会とホームレス/


011223断想集
頭の中の「私」を超えて




   頭の中の「私」は存在しない    01/12/23.


 たとえば、私たちは人から拒絶されたり、仲間外れにされたりしたら、悲しみや怒りを感じる。そこで必死に守ろうとしているのは、頭の中の「私」である。

 頭の中の「私」というのは、言葉や想像力によって捉えられた「像」や「イメージ」にすぎない。それは「概念」であり、「観念」であり、多くの場合は人間関係における「シミュレーション」の集積にすぎない。

 頭の中で想像された「私像」を、私たちは必死に守るのである。たいがいは人間関係において軽くとりあつかわれたり、蔑まれたりしたときに、強く怒りや悲しみがわきあがる。

 「自我」はそうやって力を増す。頭の中の「私」が低く見られたり、価値観がおとしめられたとき、「私」は優越や認知、称賛をとりかえす方法を頭の中で話しつづけたり、あるいはそれをめざして行動する。

 そうして頭の中の「私」はますます重要になり、それのみに同一化してしまい、もはや「私」はこれ以外の存在ではありえないと思い込むようになる。

 私というのは頭の中だけの存在ではない。やっぱり身体がある。私という存在のあり方は、頭の中だけで捉え切れる存在ではない。そもそも頭の中に捉え切ることはできない。人間のあり方とはそういうものである。

 われわれは頭の中の「私」を私のすべてだと思いこみ、そこから世界をも全部とりこもうとする。これらは全部、「概念」や「観念」、「イメージ」にすぎないのである。だから「私」は存在しないといえるし、頭の中の「私」をすべてないものだと見なすことができる。

 頭の中の「私」はその価値観を守ろうとして、いつも悲しみや怒り、恐れに襲われる原因になるものだ。「想像」され、「観念」された「私」は、いつも他人や外部の出来事に、傷つけられ、痛めつけられ、恐れさせられる。

 なぜなら自我は自分の価値観をおとしめられることに我慢ならないし、それは人間関係における自己の価値観を維持することが自我の発育要因であったからだと思われるし、また想像力によって生まれた「自我」はそれゆえに想像力による恐怖や怒りを倍加させるからである。

 私たちは想像上の「私」のあり方やとりあつかわれ方に悲しんだり、怒ったりするわけである。なるほど古来の賢者が自我の執着をやめさせようとしたり、自我を捨てさせようとした意味がよくわかる。

 でも、そもそも頭の中の「私」など実在の存在ではない。「観念」であり、「概念」であり、「空っぽ」である。頭を抜き去ったものが本来の私のすがたである。

 あとにはなにが残るか。なにも残らないし、頭の中の「私」を守ったり、それによって怒りや悲しみをもつことはないし、あとはもはや言葉や概念を使うことには意味がない。





   他者にとっての自分の価値観が重要になりすぎている     01/12/24.


 われわれは他人が自分がどう見ているか、どうあつかったか、どんな言動をしたかということに、しじゅう頭を悩まされている。思い出しては傷つき、思い出しては腹を立て、ときには喜びに満ちあふれる。そんなくり返しに一日の大半のエネルギーが浪費される。

 われわれは恐ろしいのである、他人に拒絶されたり、嫌われたり、無視されたり、蔑視されたりすることが。だからいちいち過去を再点検してみないと気がすまないし、とりつかれたように他人の一挙一動を思い出さなければ安心できないのである。

 そしてたいていは悲しみや恐れに襲われ、怒りや腹立ちにとらわれ、最悪な気分になるのである。そんな最悪な気分から救われるために、われわれは心の中で自分の正しさや他人がいかに悪いか、まちがった行いをしたか、どんな傷つく言葉をいったか、自分はどんな優秀で優れているか、等々話しまくるのである。

 「自我」は自己の価値観をおとしめられることに我慢ならない。なぜなら頭の中で「想像上」の自分の価値観を守ることが、自我の生まれた理由であり、自我の存続する唯一の目的だからである。

 われわれは子どものころに想像された「自己像」というものを頭の中につくりだす。これは行動や言動の「シミュレーション」であり、頭の中の「予行練習」であり、「マニュアル」であり、他者との対話であり、自己と思われるものの「模造」であり、頭の中の「小人」である。

 他人との衝突や社会とのあつれきの回避から、頭の中でわれわれは行動や言動のシミュレーションをしてからじっさいの行動にうつる必要があるわけである。そしてそのうちに頭の中の自我が「唯一の私」、「全存在」となってしまい、この「想像上の私」の価値観を守るためにわれわれは必死になるのである。

 この自我にとっていちばん重要なことは、他者にとっての自分の価値観を高めることである。まずは親から拒絶されることは生命の危機であるから親にとっての自己の価値観を高めることが必要であったからだろうし、学校でも同じように居場所を保持するためには友人に認められる必要があったからだろう。会社や社会も同じことである。

 こうして自我にとって他者から拒絶されたり、無視されたり、蔑視されたり、劣悪視されたりすることがいちばん恐ろしく、回避される重要なことになる。だから自我は他者の行動、言動のチェックに余念がない。自我のほとんどの活動はこれがすべてといってもいいかもしれず、われわれはこの考慮にほとんど「同一化」しているわけである。

 はっきりいってこの状態は地獄である。悲しみや恐れにとらわれ、怒りや腹立ちに心安まるときはない。われわれはこの恐れから逃れうるために他者の称賛や尊敬を勝ち得ればよいと思いがちだが、成功も栄光もここからの完全な離脱を許してくれない。なぜなら他者の行動や言動、思考や感情などが一定して自分を称賛してくれることなんて絶対にあり得ないことだからだ。

 この「自我の悪夢」から逃れるただひとつの道は他者の拒絶や無視、無価値、蔑視の恐怖を受け入れることである。それをはねのけようとすると自我はますます強化されるだけである。

 われわれは他者の拒絶や蔑視が「虚構」の出来事に属することを知らなければならない。われわれが守ろうとしているのは「想像上の私」、「頭の中の私」にすぎないことを知らなければならない。これらはすべて頭で描いた「解釈」「現実」にすぎないのである。

 すべては存在しない、「実体」のない、「絵空事」なのである。これらは消し去ればいい。捨て去ればいいのである。そんなものは元からなかったものなのだ。そのことを実感できたのなら、われわれは「自我の悪夢」から解放されるのだろう。





  宗教が嫌われる深層の理由      01/12/29.


 私もみんなが「教育」されたと同じように宗教は嫌いである。神や仏に盲従する姿勢が我慢ならないし、魂やあの世の存在など信じられない。

 しかし自我が幻想であるということや、われわれの思考や世界が虚構であるという知識を教えてくれるのは西洋心理学ではなく、そのいかがわしい宗教や神秘思想しかないのである。外面的なものではなく、宗教の核心部分は認識論的・心理学的にますます学ぶべきものがあると私は感じている。

 ではなぜ宗教は遠ざけられるのだろうか。まずひとつめはわれわれの社会は民主政治だからである。民主制は民衆が社会を支配するシステムであり、権力者が上から民衆を支配するシステムではない。したがって権力者――宗教者や国王、軍隊などが専有的に民衆を支配する形態は徹底的に嫌われるのである。

 科学はときの権力に奉仕しているにすぎない。科学は世界観や物理観を提示はできるが、人生観や人生の意味は提示できない。宗教はどちらかといえば後者のことを語っており、科学とあまり衝突するものではない。科学は目に見えない、実証できないものは語れないのである。

 宗教が遠ざけられるもうひとつは、この理由が密かに大きいのだろうが、社会や文化は人の心を安定させたくはないのである。社会は人を不安や恐怖に釘づけておいたほうがはるかに支配しやすく、統御しやすい。子どものとき、われわれは親に不安や恐怖を利用されて従わされた経験を何度も思い出すことができるだろう。

 宗教というのは、その核心部分は、社会や文化にいくえにも塗り固められた不安や恐怖をはぎとってゆくプロセスである。心の安定や自由というのは、これらの心的要素を拭い去ったところにあるものなのである。

 社会は人々の不安や恐怖を煽ることによって、いまある社会権力や社会形態に奉仕するように仕向けてゆく。大人になると社会の禁止コードに近づくだけで、かれは恐怖に駆られるようになる。たとえば「貧困」「仲間外れ」「孤独」「異常者」「失敗者」など。そして社会の「優等生」や「成功者」、「正常者」になることを完璧にマスターするようになるというわけだ。恐怖に対するパブロフの犬みたいなものだ。

 したがって心が自由になるためにはこれらの不安や恐怖の条件づけから解放されることが必要になる。これはある意味では社会の圧力を超越することであり、社会の常識や見解をうけいれないことであり、社会の不安や恐怖を見破るということであり、社会の既成勢力にとっては恐ろしいことである。これは社会に反抗することではなくて、心の条件づけをとりはずすということである。宗教が嫌われるのは故なきことではない。

 しかし社会の既成勢力はまず心配することはないのだろう。人は容易に心の自由を手に入れようとは思わないし、ましてやそれに気づくこともほとんどないし、形骸化した宗教はちゃんと支配の条件づけシステムを十分に発達させてきた。人々はこれまでどおり不安と恐怖に駆られてしっかりと社会に奉仕しつづけるだろう。

 しかし人の心が安心したり安定してはならない社会というのはなんということなんだろう? 人の心が不安や恐怖で支配されるのではなくて、自由や安定があったほうがよほどよい社会や人々のおこないが得られると思うのだが。恐怖によって支配したものは恐怖によって報いられる。





  「大いなる一」の世界観      2002/1/2.


 神秘思想や宗教的伝統ではたいがいあなたは肉体でも精神でもないという。肉体と精神はほんらいの自分の全体性のなかのほんのひとかけらにすぎないという。

 では、ほんとうの私とは何かというと、「大いなる一」であり、「大いなる叡智」であるという。それは過去や未来を超えて宇宙に広がり充満しているという。あなたの頭は星々のあいだにあり、足は宇宙空間のかなたに下りている広大無辺な存在であるという。

 ひじょうに魅惑的な世界観であるが、肉体や精神が自己そのものの限界と思っているわれわれには信じがたい話である。宗教もなかなかこういう世界観をあからさまにはしないが、修行者がめざしてきた世界とはこのようなものだったのだろう。

 われわれはもちろん五感や肉体を超えた世界を知らない。それ以外の世界は当然のことに信じられない。五感や肉体を超えた世界をどうやって知り得るというのだろうか。

 われわれはふつう「頭の中の私」や「言葉の世界」を現実のものや実体あるものとして暮らしている。この幻想から解き放たれるのがまず最初だろう。そして肉体や五感も幻影であること、それを消すことによってこの世界から離脱できるようだが、私は体験的にそれを知らない。

 「対象と見られるものは自己ではない」と賢者たちがいってきたが、そうするとたしかに心や肉体は対象として見られるものである。対象として見られないものがほんらいの自己だとするのなら、それは永遠に見られないというパラドックスにぶちあたる。

 「「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることができない。なぜなら「存在のすべて」――あるのはそれだけで、ほかには何もないから」――これはニール・ドナルド・ウォルシュの『神との対話』(サンマーク出版)の一節である。

 存在のすべては自らを体験したいと思ったが、比較対照するものがないと自らを体験できない。自らを分割し、その部分から全体を振り返れば、そのすばらしさを知ることができるだろう。こうして人間である霊がつくられたのは神自身を知るためだったという。

 物質的な宇宙で自らを体験するために霊は自らの記憶を捨てた。忘れることで自らが何者であるかを知ることができるからだ。だからこの世界で人間の仕事は自分が何者かであることを学ぶのではなく、思い出すことであるという。

 よく仏教的な世界観で物質界になんども転生するのではなく、早く解脱することが人生の目的だという話があるが、これで理解をつなげることができた。

 もちろん私はこれらの世界観を頭から信じるわけにはゆかない。懐疑精神と批判精神はたえずもつべきだと思っているし、私は宗教の信者でもない。ま、いちおう、こういう世界観があり、神秘思想や伝統的宗教はこういう境地をめざしてきたという理解でとどめておきたいと思う。

 一部では魅惑的であり、精神に同一化する愚かさを教えてくれたのはこれらの知識であるが、五感や肉体を超えた世界の体験を知り得ないがゆえにこれらの世界観をかんたんに信用するわけにもゆかない。でもこれらのアブナイ世界観をもうすこし検証はしてみたいと思う。




■020113断想集





  チャネリングはどこまで採り入れられるか     2002/1/13.

 
 ほんとうの自己というのは、精神でも身体でもなく、それは知覚でも感覚でもわからないものだと神秘思想家はいう。知覚でも感覚でもわからないものをどうやって知り得るというのだろうか。神秘思想家や宗教者はその方法は教えてくれるが、その先の世界については多くを語らない。

 そこで宇宙の存在や霊、神などなどのかなり怪しいチャネリングの本を読んでみた。多くのチャネリングの本は読むに耐えないワードがならんでいるのだが、いくらかは鋭い心理学的考察や意識の拡大をもたらしてくれるものもあった。つまらない個人的制約をかんたんに飛び越えてくれるよさもある。

 少ない本しか読んでいないが、チャネリングはどうも人間は霊魂であるという説を共通して唱えているようだ。人間は霊魂であり、宇宙や神と一体であり、同一の存在であり、人間の中に神が宿り、そして魂は人間の肉体を借りて何度も輪廻転生するといっている。つまり古来の宗教となんら変わりはないことをいっている。

 私としては神秘思想の癒しの要素だけをとりいれたいのであり、こういうオカルト的な世界観はできれば無視して通りたかった。神秘思想や宗教というのは、その心理学的要素だけをピックアップすれば、じつに深い利用価値をもつものだと思うが、神や霊の世界観になると現代人としてはこれはタブーだという気もちになる。

 禅や仏教修行、神秘思想などは心理学的な方法だけをのべ、神秘体験以後のことはあまり語らないことが多い。これなら安心して読める。私はその先の世界は暗黙のうちに無視してきた。しかしどうもめざす先が霊魂の世界らしいことに私はかなりとまどっている。

 私はもちろん霊魂も霊界も輪廻転生も信じてこなかった。そんなものは科学で否定されてきたし、世間もマスコミもそんなのを信じるのは病気か変人だけだと告げてきた。だから私はちゃんと世間のいうとおり、いっさい信じていない。

 いぜん、たまたまブライアン・ワイスの『前世療法』を読んで、輪廻というのは、「物語り」としてはものすごくおもしろいと思ったが、やっぱり信じるわけにはゆかない。それから何冊か西欧の科学的といわれる輪廻転生の本を読んでみたが、結論としては、私個人に判断をすることはまったく不可能であるとしかいいようがないと思った。

 神秘思想や仏教は心理的な苦悩からの解決法を破格に教えてくれた。しかしその先のめざす世界が霊界や輪廻であるとしたのなら、私は進むべきか、とどまるべきかわからなくなる。

 これらの宇宙観は日常に縛られた狭い個人的制約や限界をたしかに破ってはくれる。われわれは大人になるに従って、どんなに狭い日常的常識や世俗的世界に制約され、縛られてゆくか、考えてみたらなさけなくなるほどだ。日常の世界はいっさいの非日常世界のことをタブーにしてゆく。

 宇宙の大きさから考えれば地球の地上なんかものすごく狭い世界なのに、われわれにとってはそれが宇宙のすべてなのである。宇宙の神秘のことを考えれば、かなり尋常でないことでも当たり前であると考えることもできる。

 ただ私は心理学だけをとりいれたい気もちが強い。霊魂や霊界の話になると、癒しの要素はあまりなくなってくる。そもそも言語で捉えることはすべて空想だ。またチャネリングの中にはまったく既成宗教と変わらないことをいっていることが多く、愛や自分を愛することを説く話が多くなってくる。

 禅や仏教では、言葉や空想、自我をとり去る方法がとられている。しかし愛を説く宗教――典型的にはキリスト教だが、この方法なら下手をしたら自我の拡大や空想の肥大ばかり招いてしまわないかと思う。

 また私たちは愛や思いやりなどの言葉がウソっぽくて拒絶反応を感ずるだろうし、鳥肌がたつ思いがすることだろう。私個人もほんとに愛という言葉に強い拒否感をもっている。でも愛ばかりを説く宗教的な内容の本を読んでいると、拒絶や利己心ばかりのエゴを溶かそうとしようとしているのがかすかにはわかる。

 愛という言葉に強い拒否感をもつ人ほど、エゴの牢獄に閉じ込められ、オリから出るためには愛という一体感の気もちが必要なんだろうと思う。ポジティヴ思考が嫌いな人ほど、より多く前向きな思考が欠如し、悲観主義が支配しているように。

 しかし愛を説く宗教の意味がわかるのは、エゴによる拒絶と悲観による痛みが極限まで達するときまでは、理解されることがないのだろう。人というのはいくら人にいわれても、自分で気づくまではわからないものだし、理解もしたくないものなのである。







    「自我」と「空想」の死       02/1/14.


 私は人のおしゃべりが白々しかったり、演技ぽかったりしてあまり好きではないのだが、どういうわけか、頭の中のおしゃべりは大好きである。一日中、頭の中でしゃべりつづけている。他人のおしゃべりのように自分の頭の中のおしゃべりも嫌いになれないものだろうか。沈黙を愛せないものだろうか。

 頭の中のおしゃべりはだいたいは他人に出来事をしゃべったり、他人に自分のことを理解されようとして、ずっと頭の中でしゃべりつづけている。つまり他人に自分の心を共有されたいと思っているわけである。

 これは同時に自分自身に自分を理解させるはたらきももっている。しかし自分自身が自分に理解されなければならないとはヘンな話である。頭の中に「理解させたい私」と「聞いている私」の二人が存在することになる。頭の中のおしゃべりとはいったいだれがだれに理解させようとしているのだろうか? 

 そもそも私は私自身に理解される必要があるということは、自分自身が自分を知らないということだ。そして言語によって「私」は構築される。私は他人に理解されるために私自身に理解されなければならない。

 頭の中のおしゃべりというのは他人の理解のために生まれたといえる。他人の理解を超越したところに、頭のおしゃべりはとまるのかもしれない。それは自分自身を理解させようという気持ちとパラレルである。はたして私は自分自身を理解しようとして、言語で私の「虚像」をつくる必要があるのだろうか。無や沈黙であれ。

 よく賢者は「いま」、「一瞬一瞬」に生きれば、頭の中のおしゃべりはなくなるという。でもそうはいっても、たいがいの人は「空想」の中にひきこまれている。空想というのは頭の中のおしゃべりであったり、過去を思い出したり、失敗や後悔をえんえんと考えるつづけることであり、私は心の活動はすべて空想だといってよいと思っている。

 なぜ空想にいつもひきずりこまれているかというと、やっぱり大人になればだれでも現在は新鮮でなくなり、空想の方が魅力的になるからだろう。子どものころの世界に対する驚嘆や新鮮さは影も形も身をひそめている。かわりに過去と言語という「空想」のとりこになっている。どうやってこの魅力に抗せるというのだろうか。

 私はせいぜい過去の悲嘆から逃れることでしか一瞬に向かえない。そう、私たちは空想によって悲嘆や苦痛を味わい、心にひきずりまわされ、心に傷めつけられる。そして心の奴隷ではなく、コントロール力を手に入れようとする。

 心というのはそれ自身の推進力と自動性をもっている。つまりそれ自身、べつの「生き物」みたいなものだ。それにひきずりまわされて、われわれは途方に暮れる。われわれにある力というのは、「選択」と「注目」のみである。思考は勝手に生まれるが、その中の選択権は自分にある。また注目はたとえそれが拒絶や抵抗であっても、それ自身の力を強める。この二つを使い分けて心を制しなければならない。

 しかし「自我」というものは手強い。いつの間にか自我が私たちの支配者になっている。自我は死を恐れる。自我にとっての死というのは「沈黙」や「無」になることである。頭のおしゃべりや空想のみがそれを生き長らえさせる。

 考えてみたら、われわれが恐れる肉体の死というのは、「思考」にすぎない。想像や空想によってしか肉体の死を捉えることはできない。われわれが死んでいるときにはすでに死んでいるのだから恐れる必要はない。恐れるのは想像や空想を生み出す「自我」のみである。

 足は死を恐れることはない。手は死を知らない。腹も死を知らないし、お尻も死を恐れない。自我のみが死を恐れる。私たちはこの自我に同一化してしまっているから、死を恐れるのである。

 自我の死というのは「沈黙」や「無」になることである。もし自我が無になれば、肉体は死を恐れないし、死を知ることもない。思考や想像力というのは問題を大きく、複雑なものにするばかりである。まったく「過剰で人騒がせな部分」である。自我が死んだところには静けさやと安らぎが待っているのだろう。よく「単純になれ」といわれるが、単純さはすばらしい。






   宗教否定論および機能論     02/1/15.


 さいきん私はチャネリングとか輪廻とか宗教的な本ばかり読んでいて、危うくその世界にずぶずぶとひきずりこまれそうなので、ここらでひとつ懐疑的な観点からも考察してみるべきだと思う。

 宗教といえば、死後の世界を思い浮かべるが、現代人の多くは死後の世界はないと思っている。死んでしまったらおしまいである。死は恐怖のなにものでもない。それに対して死後の世界を信じるものは死後の生を信じることができるので死後の恐怖は薄らぐ。

 宗教というのはその世界観の真偽にかかわりなく、人々に安らぎをもたらすという機能をもっている。その世界観が大ウソであろうと、機能的には大きなヒーリング効果をもっている。宗教とはこういう観点で見るべきなのかもしれない。つまり認知療法でいう悲しみや苦しみをもたらす思考でなく、安らぎや喜びをもたらす思考や世界観をもっているということである。

 人間の最大の恐怖は死である。もし死をまぬがれることができるのなら、だれだってそうありたいと願うものだろう。死後の世界は願望であるかもしれないが、生きている間はすくなくとも死の恐怖を味わわないですむ方法論を、宗教は世界観として呈示しているのである。

 死後の世界を証明するような臨死体験はたしかに脳内現象と考えることができる。臨死体験はかなりのリアリティをもつようだが、外界の感覚が遮断されて意識のみになったばあい、そのリアリティは夢のような迫真性をもつことは可能である。夢を見ているときにはその夢が事実そのものに思えるように。

 輪廻はさいきん催眠療法などでその確証性を高めているように思えるが、やはり幼少時代の卓越した記憶力や物語の創作能力と関わりがあるのかもしれない。人間は人間にとって測りしれない才能や技能をもつものである。

 輪廻という物語は人になにを与えたか。死の恐怖をとりのぞいたのはもちろんだが、これは人々に他者への感情移入の力を与えたのだと思う。あらゆる時代、あらゆる人々に生まれ変わるのなら、自分はどんな境遇の人にも生まれ変わることも考えられる。他者をわがことのように大切にするだろう。輪廻の物語はエゴに固まりがちなわれわれに他者を思いやる優れたレッスンをほどこしたのである。

 他者を愛せよという教えもむろんエゴから脱け出す方法だが、同時に自己中心的な観点からも利益になる話である。他者を憎んだり、怒ったりするということは自分を憎むことと同じである。他者というのは自分の心の中に属するからである。他者を思うということは自分の心の中のことであり、他者を自分の心の外部だと思っているようでは永遠に平安は訪れない。

 現代人にとって神という存在ほど信じられないものはない。人はなぜ神を信じ、神という存在しないものを創出したのだろうか。神という観点をもてば、われわれは思いのほか自己中心の観点から抜け出せる。われわれはこの自己中心の観点――自己を守り、自己を崇めるがゆえに外部の出来事や他人と衝突し、傷つき、苦しむことになる。

 神や天という自己から対照的な観点を想定し、それに同一化するのなら、われわれは自己中心の弊害からおおいに守られることだろう。われわれは自己中心主義から脱け出すためには神という実体化された偶像を必要としたわけである。神というのは脱=自己中心主義であり、それによってわれわれは自己を守るという苦しみや悲しみを体験しなくてすむのである。神というのは優れて認知療法だと思う。

 われわれはこういう仕組みを理解せずにただ宗教を批判する。神はあまりにも荘厳に神秘的に粉飾され、装飾されて、それだけでも近づく気になれないだろう。死後の世界や霊魂も科学によって否定された。宗教の政治システムも民主制から徹底的に批判され、われわれの宗教嫌いはたいがいこの宗教の政治システム面から来ている。われわれは宗教の支配システムが大嫌いなので、宗教のすべての面も同じようにしか見えないのである。

 宗教はあらゆる面から骨抜きにされているわけである。ただ宗教に代わる心理学的癒しの歴史はフロイトからせいぜい百年程度だ。心理学的知識や癒しの機能は二千年の歴史をもつ宗教にはとてもかなわない。機能的なヒーリング部分は宗教から学ぶべきなのである。

 さて宗教がめざしてきた世界との一体感や至福を感じる悟り・神秘体験というのは、脳内麻薬現象と考えることができるだろうか。宗教家というのはじっさいには神や宇宙と一体化したのではなく、ただ脳内麻薬によって最高の至福感を感じただけなのだろうか。たとえそうであったとしても、本人にはたえがたい至福感や幸福感を感じることができたので、それはそれでハッピーなことではないかと思う。事の真偽に関わりなく幸福感を維持できるのなら宗教の目的はかなったといえるのではないかと思う。

 宗教の世界観を批判的に考察してきたが、このように宗教には機能的なヒーリング部分が備わっていたと考えることができる。宗教の否定的な外殻ではなく、機能的な知恵には学ぶべきなのである。ただ、偽りを信じることにヒーリング効果があったとしても、それがウソとわかったときのショックはどうなるのかと思うが。たしかに現実とは選択できるひとつの解釈にしか過ぎないが。

 死後や霊魂、神を否定して考察してきたが、私の中には少しはこれらがほんとうにあるかもしれない、あったらいいのになという気もちもある。ときにはずぶずぶと信じる気もちにひきこまれてゆくときもある。というわけで思わずうたた寝にひきこまれないように宗教否定観をのべたしだいである。






   抵抗とは、相手を強めることである      01/1/20.


 まったく理解しにくいことだが、抵抗するということは相手を強めることである。抵抗すれば対象をなくしたり、弱いものにできると思い込んでいるが、これは無益なあがきを永久にくり返すことになるだけである。

 たとえば怒りや悲しみなどの感情をなくそうとするが、逆にそれは強める結果に終わってしまう。私たちの意識の内では感情をなくそうとすればそれは去るものだと思っているが、もう少し広い視野で見れば、これは「注目」と「エネルギー」をそそぎこむことと同じである。じっさいのところ、なくそうと努力することは意識の意図とは裏腹にそれを強めるだけなのである。

 このことには気づきにくい。なくそうとしたり、弱めようとすることが、逆にそれを強めるというメカニズムは、私たちにはそうとう理解しにくい。たぶんこれはモノや物体の性質から勘違いしているのだろう。物体は力を強めることで動かしたり、強力な力で破壊したりすることができる。しかし人間の心理となるとそうはいかない。物体がそうだからといって、人間の心も同じとはまったく限らない。

 心はなくそうとすれば、よけいに強まる。それは心を注目することであり、注目するということはその心を強めることである。ますますエネルギーがそそがれるだけである。心というのはじつは「実体」がないものである。はっきりといって、存在しないものといっていい。心は自分が考えたり、思ったりする時点において同時に「創造」されてゆくものである。

 この自分で創造している部分が自分で気づかれないがゆえに、心を「実体」のあるもの、「現実感」のあるものとして勘違いされてしまう。それは「虚構」と「空想」によって成り立っている。この「絵空事」である心を「実体」あるものと勘違いして、その結果である感情に逆らおうとすれば、「なにもないもの」に向って力を、ますます強い力を込めてゆくことになる。押しても押してもなくならないということは、その感情はとても強いものだと思い込んでしまう。

 原因と結果を見極めなければならない。感情は思考の結果であって、感情はなくしたり、追いやったりするものではない。もうすでに創り終えられたものなのである。原因というのは、思考である。思考というのは「虚構」であり、「空想」である。「なにもないもの」である。私たちはこの思考を選択したり、無視したり、流したりして、はじめて感情はコントロールできるものになるのである。この原因と結果をまちがえると、ドンキホーテよろしくなにもないものに戦いを挑んで、変なところに筋力を使ったりして疲労こんばいすることになる。

 社会とはいろいろな感情を統制するものである。怒りや憎悪、悲しみや恐れを表に出してはならない、感じてはならない、といった社会規制をはりめぐらすものである。私たちはあわてて感情を物体のように力でなくそうとするが、抵抗が強めるというメカニズムに囚われて、自分の感情の哀れな被害者になってしまうのである。私たちが統制すべきは思考であって、思考は選択もできるし、ただの「虚構」にすぎないことを知ることはとても大切だと思う。

 目を転じると、抵抗は相手を強めるというからくりは社会批判にも当てはまる。批判や反対しているものがますます強くなるという現象はいくらでも目にすることができる。たとえば学歴競争批判もそうだったし、働き過ぎ批判もそうであり、世のオカルト批判も、批判や反対すればするほど、それらは力を強めたものである。戦争批判や平和志向もじつはこういうカラクリに囚われているのかもしれない。

 なんでかなとずっと思ってきたが、たぶん反対すればするほど、その強力な力がうきぼりになり、賛同する人やなびく人が逆に増えるという結果に陥るのだと思う。抵抗され、注目されるということは、それだけ強大な力や魅力をもつということを衆目に知らしめることになる。反対が大きければ大きいほどその重要性を示すことになるのである。結果、抵抗は相手をますます強めるだけに終わってしまうのである。不思議なものである。

 これにはパラダイム変換みたいなものが必要になるのだろう。批判より、どこかべつのところにポジティヴな世界があることを示すことによって、長所による吸引力が、その批判形態を知らない間につき崩してゆく方法が必要なんだろう。

 これは日常の人々のいさかいやケンカにも当てはまり、批判や非難がますます相手の怒りや争いを誘い出す結果に陥ってしまうことはとてもよくあることだ。人を変えようとしたり、直したりしようとする試みは、対立や衝突をいっそう激しい、すさまじいものにしてゆくばかりなのである。

 この解決は、聖者たちがいったように人が変わるのではなく、自分の心を変えることによってしか解決できないのだろう。怒りや憎しみは人を変えることはできない。ますます相手の抵抗を強めるばかりである。「北風と太陽」という話は思い出すたびにとても感嘆するのだが、旅人は強い北風によってはコートを脱がず、あたたかい太陽だけがそれを脱がすことができるのである。理想論に響くかもしれないが、それしか方法はないのである。




020130断想集
顔が苦しい!





   顔がくり抜かれた男の姿     02/1/23.


 どこかで顔がくり抜かれた男の姿の絵を見たことがある。もし心を無念無想にしたり、自我を無にしようとするさいには、この男の姿は「理想」としてイメージされるべきではないのかと思う。

 もし自己のイメージから顔を抜き去ると、自分にはなにが残るだろうか。「顔がない私」は想像できるだろうか。「顔がない私」ははたして「私」だといえるだろうか。そしてこれこそが人間ほんらいの姿ではないのではないかと思う。「顔なし顔」を自分の姿としてイメージできたとき、私は凝り固まった「自我の病」から脱却できるのではないだろうか。

 「顔がない自分の姿」は異様であると思う。不気味であると思う。恐ろしくもある。そもそも「自分らしさ」をそこに見出せるだろうか。自己の認識や個別性を識別することができるだろうか。おそらく自分は顔を失った体のみの存在としてイメージされ、自己は体や世界のなかに溶けてゆくだろう。自我を捨て去るとはこういうことではないだろうか。

 顔にはいろいろな意味がより集められている。「自分らしさ」や「個性」、「個別性」、「自我」、または「人間らしさ」といったものまで含まれているだろう。顔がなくなったら、そういった「人間らしさ」の総称はすべて葬り去られる。逆にいえば、私たちは顔に異様で過剰な意味づけや内容を与えており、「自分らしさ」や「人間らしさ」という意味や表象は、すべて顔につみ重ねられているのである。

 そしてこれは意外かもしれないが、これらはすべて頭の中の「空想」や「イメージ」にしか過ぎないという現実がある。つまり「絵空事」や「虚構」であるということだ。それらの「空想」はすべて「まやかし」であり、そしてすべて葬り去ることができる。われわれがあたたかく、大切に、重要な重みを与えてきた「自分らしさ」や「人間らしさ」といった表象=「空想」は、無残にもうち捨てられるのである。そのあとになにが残るだろうか。

 ただ、「自分なし」の世界が残るのみである。そしてこれがほんらい私たちが生まれてきた世界であり、幼児のころはこのような世界を知覚しており、われわれはこの顔の表象=空想を捨て去ったとき、この世界にふたたび還ることができるのだろうと思う。

 この方法を顔の感覚からもすすめてみよう。顔からの「脱同一化」である。私たちは一日のほとんどを顔の感覚に集中している。足や胴、腹や胸などの感覚に焦点を当てることはほとんどないといっていいだろう。「顔をなくす」というのはこの感覚集中を逸らすことである。

 私たちの多くの人は顔に感覚を集中させて、おそらく顔の筋肉を緊張させたり、こわばらせたり、つっぱらさせたりしている。表情を、心の中の思いを、外にもれないよう、出ても他人の機嫌を損ねたり、悪くとられないような表情をとりつくろうため、たえず顔の動きやありかたに注意を払い、監視し、統制し、支配しようとしている。そうして心の中がもれ出ないようにずっと気遣っているために、顔の筋肉はあちこちがずっと緊張したままだったり、こわばったりしたままだったりする。

 私たちは緊張の仕方をまちがっているのである。心の中の思いや感情、顔の表情などは顔の筋肉を緊張させることによって、ガードしたり、防御できるものだと無意識に思い込んでいる。しかし顔の緊張はただの筋肉の緊張にしか過ぎない。こわばった、緊張のとれない、重みが去らず、しなやかな表情のとれない、自由のない顔が生まれるだけである。

 顔が自由にしなやかに軽やかになるためには、顔を「くり抜か」なければならない。つまり無感覚、感覚のない状態にしたほうがいいのである。体の感覚というのは調子のよいところはまったく無感覚で、調子が悪くなったときにだけ、感覚が向かう。だから感覚がないほうが、より自然で自由な活動がおこなえるのである。

 顔の表情や感情は筋肉によって制御するのではなく、感覚をなくすことによってその自由さやしなやかさを手に入れられる。顔の感覚は、感覚の正体を見据えることによってしぼんでゆく。つまり感覚というのは「実体」のあるものではなく、「ない」、「存在しないもの」といっていい。「存在しないもの」と見なすことによって、感覚は陽炎のようにしぼんてゆくものである。

 これを筋肉によってむりやりなくそうとしたり、ある感情や表情をむりやりとりのぞこうとしたりしたら、顔の筋肉の緊張やこわばりはずっと継続したままになってしまう。「なにもないもの」をとりのぞこうとして、ただ筋肉の緊張のみが「虚空」にとり残されるのである。

 顔を、「無感覚」に、「無」にしてゆくにしたがって、われわれは顔の自然さや自由、安らぎを手に入れてゆくことができるのである。






    顔について問う      02/1/30.


 顔について問いたいのだけれど、意外や意外、顔を主題にあつかった本はかなり少ない。顔は哲学的にも、社会学的にも、心理学的にも深く鋭く問えるはずなのだが、昨今の書店にはほとんど見かけられない。ものすごく不満だ。心について語った本はたくさんあるのに、顔についての本はどうしてこう少ないんだろう。

 書物が頼りにならないのなら自分で考えるしかないのだが、顔について考えることはかなり難しい。どのような問いを発したらいいのかすらも、そもそもわからない。とりあえずは間違ったことをいう懸念はともかく、やみくもにはじめるしかない。

 私は顔を「消したい」と思っている。顔には「私」や「自分らしさ」、「人間らしさ」といった過剰で饒舌な意味が込められていると思う。この過剰な意味を――無意識的な思い込みを剥がしたいと思っている。人間の「幻想」の起源はここから始まっていると思うからだ。

 いわば顔を「異化」したいのである。あるいは「脱擬人化」したいのである。当たり前に思っている自分の顔を、異物を見るかのように、あるいは人間についての過剰な意味づけを葬り去りたいのである。顔には過剰な意味づけも、「私らしさ」も、「人間らしさ」も、もともとは備わっていないと思うのである。それらは後からつけられた「思いこみ」や「錯覚」に過ぎないのではないのか。

 人間は顔に「私」が宿ると思い込んでいるのではないだろうか。顔が「私」である。表情があらわれ、感情があらわれるところだからだ。しかし顔の筋肉の動きやひきつりが「私」であるわけがないし、感情や気分のみが「私」であるわけがない。

 「私」を主体的に思い浮かべるとき、だれもが自分の顔を思い浮かべるだろう。しかし顔は「私のすべて」ではなく、一部分であり、身体のひとつのパーツにすぎないはずである。そもそも意味すらない物体であったかもしれないのだ。

 たしかに顔は「心の窓」といわれるように感情や気分がもっともあらわれるところだし、視界や嗅覚、聴覚などの感覚器官も集まっているが、だからといってそこに「私」がいちばん集まっているとはいえない。視界の中心は目であり、顔だから、私の中心と感じやすいのかもしれない。しかし視界の中心が「私」というわけでもないだろう。

 顔は意味であり、情報であり、メッセージである。怒っていたり、悲しんでいたり、恐れていたりする表情をしていると他人がその意味を読みとる。顔は自分の思考や感情が図らずもあらわれるところである。本心や本音を悟られないように私はあわてて表情をとりつくろうとする。あるいは他人受けするように表情をつくろうとする。

 顔とは戦場である。自分が心の中で思っていることと、他人に読み取られたい思いや感情が拮抗する戦場である。本心のまま表情が現れたら社会上都合が悪い。顔を抑えつけようとする。感情を抑えつけようとする。微笑みや愛想笑いを心がけようとする。そして失敗する。顔はひきつり、緊張し、硬直する。顔をとりつくろうとすればするほど試みはドツボにはまってしまう。

 顔に本心が現われてしまうことはもう仕方がないことなのか。とりつくろうことは不可能なのか。思ったり、感じたままの表情で生きることもできるが、よほど度胸が座っているか、天真爛漫でないかぎり、社交上、あまり好ましい方法ではないだろう。表情の現れる元となった思考や感情を消してしまうという方法がある。なにも思っていない心には表情は現われないからだ。これもひとつの方法だろう。

 あとひとつ模索したいのが、心と表情のつながりを切ってしまうことだ。顔や表情の過剰な意味や情報を無化してしまうことにより、心と表情は断ち切れるのではないかと思う。表情というのは社会的な産物ではないのか。この社会的な意味づけを断ち切ってしまうことにより、表情はその役割や機能を失ってしまうことができるのではないかと思う。

 顔には過剰な意味や役割が集積されている。そのために顔はある人にとってはやっかいな、手に負えない代物に化してしまうこともある。そうしたときに顔の意味をひとつひとつ剥ぎ取ってゆくことは、顔からの解放と癒しにつながってゆくだろう。そのためには顔とはなにかを問わなければならないわけである。






   「防壁」としての顔の緊張      02/2/2.


 他人によからぬ思いを抱いたとする。もし私が自己によい人のイメージを抱いていたり、他者の悪意を抑圧する習慣をもっていたりすると、顔はなんとかしてその表情を読みとられまい、禁圧しようとする。しかし顔にできることは筋肉の緊張であり、顔のこわばりであり、ひきつりである。

 私たちは無意識に自分の感情を追い出そうとするとき、顔の筋肉を緊張させていないだろうか。顔を緊張させれば、その「不都合」な感情は防げると思っていないだろうか。

 人はなんとまあ自分の感情を禁圧することだろう。他人の軽蔑や怒りはともかく、恐れや悲しみすら禁圧しようとしているのではないだろうか。他人への配慮から、私たちはその場の雰囲気を悪くさせるような感情をいっさい漏らさまいとするのである。

 思いの最終局面はすぐに表情として現れるから、「不都合」な感情が現れるとたちまち、それをとりのぞき、あるいはガードしようとする顔の緊張が自動的に現れることになる。

 顔は感情の防壁として筋肉を瞬時に固めるのだが、やっかいなことに今度は顔の緊張が当人にとっては人前で見せたくないものになり、隠そうとし、そしてその隠そうとする気もちがまたまた緊張の注目とエネルギーの増強をもたらす悪循環に陥ってしまうのである。

 われわれはどこで感情の防御は顔の緊張で防ぐものだと覚えこんだのだろう。感情を物体のように力づくでなくすことができるといつ信じ込んだのだろう。われわれはほとんど無意識のうちに不都合な感情のガードには顔の筋肉の緊張を使うのである。

 感情はモノではない。思いは物体ではない。思ってしまったものはもうなくせない。「空気」や「虚空」のようなものだから、それを筋肉や力づくでなくそうとするのは不可能だ。思いが表情にすぐ現れるとしたら、それはもう防ぎようがないのだろう。

 他人に悪意をもつ人はもうあきらめて他人に自分の極悪ぶりを悟らせてありのままに生きるしかないし、悲しみや恐れのツラ構えでまわりを重い雰囲気にする人もそのままに生きるしかないだろう。

 そういう自分も受け入れて、許すしかないのである。本心のまま、本音のまま生きるのがよいのだろう。われわれは社会上、そういった自分の片面を受け入れることができないから、顔の緊張や身体のこわばりや痛みなどの「鎧」を身につけざるをえないのである。

 しかし表情ではなく、感情をなくす方法はある。感情というのは思いや思考によってつくられるものだから、それを消したり、無視したり、流したりすることによって、感情はなくすことができる。なにも考えず、なにも思わなかったら、なんの感情も生まれないのである。感情のガードというのは表情という「結果」ではなく、思考という原因から断たなければならないわけである。

 それからいくら筋肉を緊張させたって、怒りや恐れ、悲しみなどの感情は去らないと自分と自分の顔に言い聞かせることも必要なのだろう。ガードしての顔の緊張は拭いがたく私たちの自動回路として定着してしまっていると思う。

 顔の緊張はなにも防げないし、なにも隠すことができない。そのことを体でしっかりと覚えこんだとき、顔は「ほどかれ」、やわらぎと安堵の表情がわれわれの顔に戻ってくるのだろう。






   筋肉で苦しみはこらえられない     2002/2/4.


 なぜ、われわれは筋肉の緊張によって、苦しみや怖れなどの感情をこらえようとする間違いを犯すようになったのだろう? どうして筋肉の緊張が、感情を抑えこめると信じるようになったのだろう?

 「唯物論」の時代のせいなのか。世の中、「モノ」と「物体」しかないと思いこむ時代では、すべてモノと同じ力学をもつと思い込んでしまうのか。

 それとも単純な初歩的な過ちか。心や感情は「モノ」や「物体」ではないと知らなかったからだろうか。心や感情というのはモノでも物体でもなく、なんら「実体」のあるものではなく、「虚空」や「なにもないもの」なのである。

 子どもは泣くのをこらえようとするとき、アゴの筋肉を緊張させることによってこらえようとする。泣いてはいけないといわれると、子どもはあわててアゴの筋肉でこらえようとする。泣くことや悲しみの感情は、子どもにとってはモノや物体のように圧倒的な力をもつものに感じられ、それに抗するには筋肉の力しかないと思い込むのである。

 それは大人になっても変わらない。苦しみや悲しみを歯を食いしばることによって我慢しようとする。怒りは首や肩の筋肉を緊張させるといわれるが、この緊張だってもしかしたら怒りを抑えこもうとして力が入れられているかもしれない。

 この筋肉の緊張のやっかいなところは、自分で自分の筋肉を緊張させておきながら、無意識であり、なおかつ自分でなかなか解くことができないことである。不安や悲しみ、怒り、ストレスなどを抑え込もうとすると、知らず知らずのうちに緊張が継続し、自分でとれなくなってしまうのである。

 原始時代には獣や人間の敵と戦うときには筋肉の緊張は鎧となって身を守っただろう。しかし現代の敵というのは、なんら「実体」のあるものではなく、不安やストレスや怒りといった「虚空」のものである。そういった「すがたかたちのないもの」を筋肉の鎧によって戦おうとするのは完全に間違っている。筋肉の鎧は、じわじわと自分を絞めつけるばかりなのである。

 筋肉の緊張はなにも防げないことを知らなければならない。それは誤った方法なのである。緊張によって苦しみを抑え込もうとしたり、ストレスをなくそうとするのはおおよそ不可能であることをしっかりと理解することである。

 怖れや不安、怒りといったものは「なにもないもの」である。なんら「実体」のあるものではないし、目に見えるものでも、手に触れるものでも、すがたかたちのあるものでもない。こういうものには筋肉や力づくで抑え込むのはまったくムリであって、「空気」相手に闘いを挑んでいるようなものなのである。

 感情をなくすいちばん手っとり早い方法はもう頭を「空っぽ」にするしかないだろう。頭を「真っ白」にするしかない。考えや思いのみが、不安や怒りをつくるのであり、だからそれを消すしかないのである。

 そうやってどんどん思考を消していったところに緊張のゆるみがあり、緊張のほどきがあり、快適さとリラックスの証しである無感覚の状態がある。思考の消去の延長線上に筋肉の消去の感覚がある。

 思考を消すしか方法がないというのは、ものを考えるしか「自分らしさ」がないと思いこむ現代人にとっては、たいそう屈辱的で虚無的なことかもしれないが、筋肉の鎧兜を脱ぐにはその回路の元である思考を捨てるしかないのである。さもなければ、ずっと解けない筋肉の硬直と痛みとともに過ごさなければならなくなるだけである。







   顔はだれのためにある?    2002/2/6.


 顔は自分には見えない。表情も自分で見ることができない。身体のなかでいちばん重要な部位であるはずなのに、自分に見えないとはいったいどういうことだろう?

 顔は自分のためにあるのか、それとも他人のためにあるのか。自分には見えないということでは、まさしく他人のためにあるといえるだろう。

 顔も、表情も、他人に見られるためのものとして、他人に差し出すものとしてある。他人のためにあるものなのに、顔は自分にとってもものすごく大切な部所である。

 顔は「私」であり、「人格」であり、私の「個性」である。そのような精根こもった顔が自分に見えなく、他人に見せるためにあるとはどういうことだろう? 顔や表情という自分にとっていちばんこだわりや神経をそそぐ箇所が、他人に見られるためだけにあるとは、いったいどういうことだろう?

 顔とは、通りに面した壁一面が開いている家のようなものである。思ったり、感じたりすることはすぐに顔に表われ、他人は容易にその表情を嗅ぎ分ける。見せたくない、隠したいものに限って、壁は大きく切り開かれているのである。トイレやシャワー室の壁に穴が開いているようなものである。

 顔とはひじょうにやっかいなものである。読み取られたくない思いも感情も、すべて壁の開いた部屋――表情として丸見えになってしまうものである。そもそも顔や表情は他人に見られるために存在しているのである。

 そんな穴の開いた壁のような顔なのに、われわれはさまざまな思いや感情を隠さなければならない。見せたくない。知られたくないのである。そうしてわれわれは筋肉の緊張を顔じゅうにはりめぐらせて思いや感情の露出を防げうとするのだが、こんどはその緊張がとれなくなり、その硬直した顔をさらに隠そうとするのである。

 顔というのは自分のためにあるというよりか、他人に秘密をバラすためにあるような裏切り者といっていいかもしれない。図らずも顔から秘密がぼろぼろと露呈してしまうのである。

 もし思いや感情が自分のためだけにあるとするのなら、顔や表情として外に表わす必要がない。顔も表情も必要ない。そうすれば秘密が外に漏れる心配はないし、思いや感情は自分のためだけに存在するといえるだろう。

 しかしわれわれの顔と表情はわれわれの秘密や不穏な感情をダイレクトに外に漏らしてしまう。まさに顔とは他人が私の弱みを握るために存在するようなものである。

 いっそ顔や表情がなければいいのにと思う。なぜわれわれには顔という心の漏洩装置があるのだろう。

 ところでカエルには感情はあるのだろうか? かれらは顔ひとつ変えない。表情がないということは、感情もないということなのだろうか? つまりわれわれの感情というのは、表情があるから存在するのか? 表情がなければ感情は存在しないのか?

 「表情=感情」とするのなら、感情も顔と同じく他人のためにあるということになる。自分の感情すら他人に見せたり、知らせたりするためだけに存在するのだろうか。自分のためにあると思っている感情や顔が、他人のための「伝達記号」にしか過ぎないとすると、われわれの「本質」や「核」となるものとはいったい何なのだろうかと猜疑心に襲われる。たんなる「伝達情報」を「自分」だと勘違いしているのか。

 われわれは顔をたいそう大切に自分の核となる中心だと思い込んでいる。しかしこれは「他人にとっての自分」を大切にすることである。つまり他人の評価や思惑を奉るということである。他人にどう思われるかということを気にしすぎると、私は他人の奴隷や哀れな被虐者にならざるをえなくなるし、自分の自由や好みを剥奪されてしまうということである。

 だから顔にあまり重要性や価値や意味をおいてはならない。顔に重みをおくということは、同時に他人の思惑や評価をどこまでも重要にするということである。顔の重要性を落としてゆくこと。「他人の見た目」という牢獄から解放されて、自由な境地を手に入れられることだろう。







   顔が「私」なのか?     2002/2/10.


 顔は自分のためにあるというか、他人のためにある「伝達記号」のようなものである。そういう顔を「私」だと思っている。他人に伝わる個性や表情がいちばん現れるところだからだ。

 しかしたとえば手のかたちや足のかたち、指紋の違いが「私」だといわれないように、顔のかたちや違いのみが「私」だというわけではないだろう。

 また、表情が「私」だというのはどうだろう? たしかに表情は私たちの心や感情をいちばんよく伝える。だが、まさかあいさつの手やOKの手のマーク、手旗信号などのジェスチャーが「私」だという人がいないように、表情もひとつの「伝達信号」にしかすぎないはずである。

 また、眉の上げ下げや目の開閉、口の上げ下げ、などといった個別の表情筋の動きが、「私」だということもできないだろう。

 腕の力こぶや筋肉隆々の体つき、胸や腹の筋肉が、とても「私」だとはいえないように、それはあくまでも、やっぱりひとつの筋肉の動きにしかすぎない。

 そういう物体や筋肉の動きにすぎないものに、われわれは思いや気もち、感情といった心の過剰な意味や価値をまとわりつかせて、そこに「私」が宿り込むと思いこむ。

 他人との関係に生きるわれわれにとって顔は重要である。しかしそれはあくまでも「伝達記号」にすぎないはずである。他人に見せる「看板」や「玄関」が、私たちにとっていちばん重要なもの、あるいは「私そのもの」になってしまっているのである。

 顔に過剰な重要性を与えるとやっぱり問題がいろいろ起こってくる。他人との関係の問題が集中的に、あるいは象徴的により集まってくるのである。顔は他者との関係の「修羅場」になる。

 ある人は自分の心が漏れるのを怖れ顔面を緊張させ、ある人は他人に嫌われる怖れを顔に集中させ、ある人は他人とうまくやれない関係を顔の表情に集中させたりするだろう。つまり、なんでもかんでも「顔のせい」にしてしまうのである。心の問題の「物体化」「肉体化」である。

 まったく顔の「脱中心化」が必要だと思う。顔の「脱私化」、「脱人格化」というものが、だから必要となってくると思うのである。顔の「重要性」や「価値」というものを降ろしてゆくこと。

 そうすれば顔という物体に集中させられていた心の問題がにわかに現われてくるかもしれないし、あるいは問題それ自体が消え去ってしまうかもしれない。「顔よ さらば!」である。





 ■パソコンにウィルスが感染してしまいました! メールに送った覚えもない相手から、「Re: 」という空の添付ファイルが送られてきて、たぶんそこから感染したのだと思います。それからパソコンを立ちあげると、勝手にメールに接続されるようになりました。

 親切にウィルスに感染したことを教えてくれる人がいて、「W32/Badtransの亜種」に感染しているということと、対処ソフトのアドレスまで教えてくれました。 http://www.ipa.go.jp/security/topics/newvirus/badtrans-b.html

 駆除ソフトを使ったのですが、でもなぜか駆除されませんでした。もういまはめんどくさいし、自動的なメール接続はこらちで止めることができるので、放ったらかしです。早く何とかしたいと思いますが、私のような技術オンチはめんどさくてたまりませ〜ん。。。(涙)


020211断想集
顔と肉体を解き放つ




   感情を抑える文化における顔     02/2/11.


 日本というのは感情を抑える文化だと思う。悲しみや怒りをあまりあからさまにしてはならない、人に見せてはならないという文化だと思う。

 どんなことでもたじろがず、不動心をたもつことが理想のオトナだと思われているところがある。演歌でも悲しみにぐっと耐える姿が日本人の涙を誘うのである。

 なぜこのような感情を抑える文化になったのだろう。和やみんなで仲良くがたいせつなこの国では、人と衝突したり、不和になるのはご法度であったから、感情を見せない習慣が根づいたのだろうか。

 感情を抑える文化はとうぜん顔を読まれないようにする技術が発達したことだろう。そうすれば顔を読む技術も発達する。日本人が人の気持ちを読みとる技術に長けているというのもこんなところにあるのだろう。ちなみに平安時代の女の人が眉を額の思いっきり上に描いたのは、感情がよく現われる眉を隠すためだったという説もある。

 日本人の祖先が中央アジアの寒冷適応したモンゴロイドだったとすると、その腫れぼったい顔からはなかなか感情が読みとれない。だから読顔術が発達したということも考えられるだろう。

 おかげでアメリカ人などからは日本人は能面のようで、なにを考えているかわからないといわれる。アメリカ人はもっと感情を現わす文化であり、自己表現しなければ生き残れない社会だから、日本人の無表情ぶりは理解不可能だろう。

 ヨーロッパではかつて貴族社会においては思っていることと顔に表わす表情はまったく違うことが当たり前であった。権謀策術のまかりとおる社会では当然だろう。それが市民社会になると、思っていることはそのまま顔に現われることが理想となり、つくられた表情は嫌われることになった。美しき魂は顔をとりつくろう必要もないのである。心が全面ガラス張りになった社会は、うかつに悪いことも考えられないのである。

 フロイト以降の精神分析によると感情を抑制することは重大な精神病理をもたらすことになっている。日本にもこのような感情を抑えるのはよくないという考え方が入ってきたと思うが、感情抑制の日本文化の低層でどのような衝突が起こっていることだろう。

 日本には古来仏教という伝統があり、仏教は無念無想を教え、それは感情の抑制やコントロール技術をもたらしてきたはずである。しかし現代になってこのような伝統は衰退し、感情コントロールの技術は世代間においても継承されなくってきていると思う。

 しかも学歴信仰や科学信仰により、思考や考えることの価値がますます高くなっている。仏教では思考は「妄念」だといわれて断たれてきたことが、現代では最高の価値になりつつある。

 思考に価値をおくと思考の世界に呑みこまれ、感情のコントロールを失う状態になってしまう。しかも日本は感情が抑制されることを暗黙に指示する社会である。

 仏教の感情コントロールの技術は失われ、感情を生む思考はますます価値を高められているのに、社会は感情を抑制する社会である。こういう狭間において、感情の現われる顔に問題が集中してこないかと心配である。

 感情をコントロールできない顔は人から隠したり、見せないようにするしかない。顔はますます難しくなっていると思う。コントロール技術の失われたところに、またつくり顔がよくないと思われているところに、感情の抑制が求められているのである。顔がコントロールの効かない「暴走特急」になりそうである。






   顔を消す、心を消す      02/2/13.


 ものを考えるとは顔を緊張させることである。心の活動とは目の緊張と口の緊張のことである。眼筋と発話筋が緊張することにより、心の視覚と言語はうまれる。

 ぎゃくにいうなら、目と口の緊張がなければ、心の活動はいっさいうまれないのである。

 私たちはものを思ったり、考えたりしているときには知らず知らずのうちにわずかに目と口の筋肉を緊張させているのである。そして私たちはいっときも考えることをやめないから、目と口の緊張は継続したままである。

 しかも顔は表情をつくるのに忙しい。表情とはむろん緊張のことである。さらにわれわれは怒りや悲しみを顔の筋肉でぐっとこらえたり、抑えたり、食いしばったりするので、なおさら顔の筋肉は緊張したままである。顔とは緊張の交差点、結束点みたいなものである。

 私たちは顔の緊張の解き方を知らない。自然にまかせたままなので、緊張は積もりに積もっていつしか自分で自分の緊張を解くことができなくなるのである。

 フランク・J・マクギーガンの『リラックスの科学』(講談社ブルーバックス)はそういった緊張のリラックス法を教えた驚きの書である。ただ実際のリラクセーションはめんどくさかったり、リラックスの感覚が自分でつかみにくかったりといろいろ難しいが、おそらくこの本は学ぶのにじゅうぶん価値のある本なのだと思う。

 目と口の緊張を解くにはまずそこを緊張させて緊張信号を感じてからリラックスさせる。リラックスさせるといっても感覚のわからない人はたぶん逆に力を入れてしまうのがオチである。

 私は感覚がなくなる感じをつかんでから、ようやく緊張の解き方がわかった。つまりリラックスが完全になされると、その身体の感覚がなくなるのである。身体というのは調子がいいときはその部位の存在を完全に感じないものである。緊張している部分もこのようにもっていったらいいのである。

 リラックスではなくて、「感覚がなくなること」「存在しないこと」「ない状態」「無感覚」をめざせばいいのである。これは仏教の修行でも瞑想が深くなると身体の感覚がなくなるといわれていることと同じである。『般若心経』の「感覚も、身体も、心もない」といっているのは何ら現実離れした絵空事ではないのである。

 目の緊張を解くにはまずその部位を緊張させる。額にしわを寄せたり、眉をひそめたり、まぶたをきつく閉じたり、目をつむったまま左右上下まっすぐに目を向けたりして、緊張信号を感じてからその緊張を解いてゆく。これらをそれぞれ三回おこなう。

 口はあごをかたく閉じたり、両あごを開けたり、歯を見せ、口をとがらせ、歯に舌を押しつけ、舌を上げ、緊張を感じてからそれを解いてゆく。

 緊張を完全にとりさってゆくと、心の活動もなくなってゆく。いやなこともつらいことも不安なことも悲しいことも、いっさいが消えてゆく。

 これは身体や緊張から心を消してゆく方法であり、身体を扱うのはいささか難しいものであるが、身体より心から消してゆく方がもっとパワフルで効果的なのは忘れるべきではない。緊張やこわばりというのはまず思考からうみだされているのである。思考とは緊張のことである







   肉体の恐れを解き放つ      02/2/17.


 肉体は精神がなくてもちゃんと機能する。むしろ精神があるほうが障害や故障がおこりやすい。精神は肉体にしがみついていないと不安のようである。

 眠っているときにはからだは完全に機能している。スポーツやなにかに熱中しているときは、ほとんど意識や身体の感覚すら忘れ去られている。からだは精神のないときのほうがちゃんと機能しているのである。

 そんな完全なからだに介入して障害をおこすのは、意識が一ヶ所に集中するときである。不快感や痛みを見つけると意識はそこにしがみつき、いっときも離れることなく、逆に不快感や痛みが増大されてしまう結果に陥ってしまう。まったく精神とはやっかいな代物である。

 武道や禅などでは、精神が一ヶ所にもとどまらず、身体全体に気がみなぎることが理想とされている。自分のかまえや勝つ意志、敵の動きなどの一ヶ所に気がとられてしまうと、スムースでなめらかな動きは妨げられてしまうのである。

 現代人はほとんど頭や目に感覚を集中させている。思考と視覚のみが「すべての私」であるかのようである。おそらくからだのスムースで自然な流れはここで分断され、欠如させられているのだろう。

 なぜこんなに頭と目に感覚を集中させているのだろう。たぶんそこに意識を集中させなければ不安だからだと思う。われわれはなぜか頭と目から意識が離れることを恐れるのである。

 ここで思い出すのは、近代に行き渡った理性と本能の考え方である。なにを仕出かすかわからない本能を制御するために頭はたえず重要な部位になったのではないかと思う。目はもちろん理性の賢明さをつけたす書物を読むために重要な器官になった。

 本能とは自然のことである。精神は自然が恐ろしいのである。そして自分の中の自然である肉体が恐ろしいのである。精神はだからたえず肉体を意識してなければならず、執着しなければならないのである。そしてその意識が自然の完全さを阻害し破壊してしまう。

 恐れが、ぎゃくに身体の自然な流れを阻害してしまうとはなんと皮肉なことか。精神が肉体にしがみつけばつくほど、肉体は調子をくずし、不調和をうみだすのである。

 手放させないのは、肉体への恐れのためである。そしてその心配や恐れが、ぎゃくに病気や障害をつくりだすのである。精神とは「結果」ではなく、「原因」であり、「創造」するものなのである。

 精神は一ヶ所にとどめないこと。恐れがあれば、なおさらそこにとどめないことが必要なのだろう。恐れは障害をつくりだす原因なのである。われわれは恐れを捨てて、精神をあちらこちらに行き渡らさせることが必要なのだろう。一ヶ所にしがみつく精神こそを警戒しなければならない。






   人間は肉体でないとどうして言えるのだろう?      02/2/23.


 神秘家や宗教家は、人間は肉体ではないという。とんでもない、明らかに人間は肉体でしかないと思うのがふつうの人の反応である。あえてここで人間は肉体ではないといえる理由を探しだしてみよう。

 まず最初に人間は肉体のみで生きられるわけではないことを考えてみる。魚が水から上がれば生きられないように、人間も空気のない真空では生きられない。だから空気と肉体とは不可分である。

 同様に水も食料も、地面も雲も雨も――地球上のあらゆるものがなければ肉体は生存することができない。つまり肉体のみの人間は存在することができないのである。人間は肉体のみであるは言い切れないだろう。

 だけど対象が私の肉体であるとは明らかに感じられないものである。どうしたって肉体が、水や空気や雲であるとは感じられないものである。

 ただ身体の感覚とは確固としたものではない。目で見ると常時あるのが当たり前に思える肉体だが、感覚としては常時消滅している。もの思いにふけっているとき、スポーツしたり、なにかに熱中したりするときはからだの感覚は消滅しているし、寝ているときにはさらに肉体や意識、私という感覚すら消えている。

 身体の感覚が消え去ってしまったとき、「私の肉体」はいったいどこに行ってしまったのだろう? 肉体は常時このような状態になる。肉体とはじつに希薄で、アヤシイ存在である。身体感覚が消え去ってしまったとき、私はいったい何者になるのだろうか? 人間をやめてしまうのだろうか。

 世界や身体はすべて「脳内現象」と考えることができる。眠っているときにはすべて脳に「収縮」されるのである。この世は脳の「夢」か、「まぼろし」かといったところか。

 これと反対の考え方になるのだが、聞こえるものも、見えるものも、私の身体の「外部」にある。私とはほとんど身体の「外部」であり、「環境」であるといえる。環境や外部世界のない肉体だけの私が存在できるわけがない。

 神秘体験では、肉体ではない「対象そのもの」になることができたり、空間を超越した体験ができるといわれている。肉体に完璧に同一化し、そのほかのありよう、知覚などいっさい信じられないわれわれには理解不可能の話である。

 観念的にはわれわれは「国家」や「家族」、「マイホーム」や「銀行通帳」「バッグ」などさまざまなものに「同一化」している。「私」は肉体ではない、さまざまな奇妙キテレツなものに同一化しているのである。しかしそれは神秘体験のような「対象そのもの」になっているわけではない。

 肉体や身体の五感を超えた体験はどうして可能になるのだろうか。神秘家にいわせると、世界から弧絶した肉体である私という信念にしがみついているから、肉体から離れられないということになるのだろうか。私は肉体のみではないと信じられるようになってから、私は肉体と五感の呪縛から解かれることができるのだろうか。それとも神秘家はただのマヤカシをいっているだけなのだろうか……。






   視覚・時間・物質     2002/3/3.


 人間の五感のうち、音やにおい、触覚などは一瞬のものである。視覚だけが継続した時間的なものを見せる。

 一瞬しか生起しない世界のなかで、視覚だけが動きのとまった、固定化されたものを見せようとする。音やにおいは時間とともに瞬間的に流れ、視覚だけが時間がとまったような永続的な世界をつくる。

 時間を切りとる。視覚によれば、世界は時間が永遠にとまった世界のようだ。視覚は静止画がたいそうお好きなようだが、この世界はすべて流れ、変化している。

 視覚は動きの早いものはもう見えない。扇風機のプロペラもしかり、自転車のタイヤやスポーク、振った手やペン、電車から見えるレールの小石などはもう見ることをやめてしまう。視覚は固定化されたもの、動きのとまったもの専門である。

 この生成変化を見せない視覚はたいそう困ったものである。なぜなら不断に変化する世界という認識を断ってしまい、変化を好まない、変化に順応しようとしないわれわれの心性をつくりだしてしまうからだ。

 視覚はまたモノの輪郭をつくりだす。どちらかといえばこの世界はつながりあい、とけあい、入り組み、変化する姿のほうが実状に近いようなのだが、輪郭はそういった認識を拒絶してしまう。視覚は孤立し、分離し、隔絶された物体という信念をたいそう好む。

 ミクロの世界では物質は波動や波、粒子の運動だと見なされているのだが、視覚には固定した物体と分離された輪郭という像しか見えない。視覚が当たり前と見なす像は錯覚だと見なしたほうがよいのではないか。

 視覚はおそらく過去を見ている。記憶を見ている。あるいは残像の蓄積を見ているのだろう。音やにおいの記憶が蓄積されて視覚のような世界をつくりだすことはわれわれには信じられないが、嗅覚や聴覚の発達した犬やウサギなどの動物にはもしかしてそのような世界を「見ている」のかもしれない。

 コウモリやイルカは超音波の反射した信号によって世界を把握するらしいが、人間は光の反射によって視覚像をつくりだす。こういった記憶の蓄積がわれわれの視覚像として結ぶのではないだろうか。

 過去の空間把握をしなければ未来への行動はおこなえない。音やにおいのように一瞬一瞬に消え去る世界では空間把握もつぎの行動もおこなえなく、情報の真空地帯が発生する。

 そこで視覚の記憶を展開化することにより、現在の空間や位置、世界を知り、つぎなる行動をおこなうというわけである。つまり視覚の過去は現在化されなければならなかったわけだ。

 だから視覚は固定化しており、物体化しており、輪郭をもち、時間のとまったような世界を構成しているのではないかと思う。つまり世界の空間把握をするためにはどうしても終わってしまった過去を活用するしかなく、したがって視覚はより静止した、時間のとまった世界を見せるようになったのではないかと思う。あくまでも仮説だが。

 たとえ視覚が静止した、分離した世界をつくりだそうと、われわれは瞬間瞬間の、つながりあい、とけあい、全体がひとつとなった世界に生きていると見なしたほうがいいようである。神秘家にはそのような世界が見えるそうだ。孤立や分離、物質という思いこみはわれわれにさまざまな苦しみや痛みをもたらす。視覚の思いこみは破ることはできるだろうか。




020318断想集
物質否定の知覚観・肉体観




  日本人の魂、あの世、神々について     02/3/18.


 霊魂や神の存在を否定してきた私にとって、身近にある神社やお寺、お盆や正月というものはまったくわからなく、ムダで、無意味なものにしか思えなかったものである。

 これらは霊魂やあの世、神といった存在を通さないとまったく見えてこないものだとやっとわかりだしてきた。しかしそういう存在を教える親や人たちがいない中で、これらの世界観が断絶するのは致し方がないというものだ。

 私はチャネリングを通して、信じるか信じないかはいまのところ明確にはできないが、霊魂や神々の世界観を身近に知ることができた。このチャネリングの知識は古来の霊魂や神を信じろというのではなくて、物質や知覚、肉体の否定を知識として教えるところが現代的で、知的好奇心がわくところなのである。

 そしてこの世界観を知ることによって、はじめて神社や寺、神、あの世などの古来の日本人が信じてきたコスモロジーとつながれることを知った。

 日本人はずっとこのような霊魂やあの世、神といった存在を信じてきたのだ。いたるところにある神社や寺、祠、地蔵などはそういう世界観がいまだに根強いことを物語っている。そもそも墓の存在は霊魂信仰ではないのか。

 都市はこういった世界観をまったく払拭し切っているが、田舎や山になんか登るとそういう世界観のシンボルをあちこちで見ることができる。私にはまったく理解できなかったのだが、どうも日本の神というのは自然の神秘や力の結集のようなもので、それが神社や木、岩、山などに宿るようである。

 日本の神はキリスト教のような特定のすがたかたちをもたない。神社にはなにが祭られているのかよくわからない。神はどこにも飛んでゆくことができ、分割することもできるので、全国あちこちに稲荷神や八幡神、熊野の神が分割されることになるわけである。お守りにも神の力が憑着するというわけである。

 死んだ人は近くの山に行き、盆や正月に帰ってくると信じられていた。谷をさかのぼったところに死者がのぼるとか、朝日の登る山は死の国から生の国によみがえるところ、日の沈む山は死者の国とか、日本人は身近な山に死者の国を思い描いていたわけである。

 こういったあの世観とか神の世界観は現代人にどんどん失われ、継承されなくなっているわけだが、考えてみたらすさまじい世代間断絶がおこりつつあると思うのだが、これらのコスモロジーの崩壊は人々になにをもたらすのだろうか。

 あの世や神は日本人の世界観や社会にとってどのような役割や機能をもってきたのだろうか。まったく損失だけだとは限らないと思うが、失われたものはいったい何だったのだろうかと思う。






   セスの知覚観・物質観      02/3/19.


 セスというのはチャネリングによって語られた存在で、『セスは語る』(ナチュラルスピリット)という本はニューエイジの原点ともいわれ、ベストセラーとなっている。この中から、たいへん興味を魅かれる知覚観・物質観について引用してみたい。

 「体の感覚器官の仕業で、あなたがたの知覚力の範囲は三次元世界に限られているのです。しかしまさにそうした感官の性質ゆえに、三次元以外の等しく存在根拠の確かな次元に対する知覚力を抑制することが可能になっているのです」

 「あなたがたは無意識の深層レベルにおいて、並外れた慧眼、奇跡と見がまうほどの明瞭さ、そして肉体を成す個々の微細胞にそなわった意識されることのない深い叡智をもって、みずから知るところの肉体を自分自身で創造しているのです」

 「体の感覚器官は、自己の体験を物理的な知覚結果に変換するよう強制します」

 「物質的現実は、現実がまとうひとつの形態であると申しあげるほうが、おそらく意にかなっているでしょう」

 「環境はあなたが形づくるものであり、まさに文字通りあなたの延長であると言えます。つまり、あなたの意識から外に向けて拡張した、物質化した思考なのです」

 「「内なる自己」は、まさに文字通り思考や感情を、それらに対応する物質的複製へと魔法のごとく変容させて体を創り上げます。……あなたがたは原子や分子を使い、基本的構成要素を「自分自身であると称する形」に創り上げることで、自分の体を築いているのです」

 「眼鏡や補聴器が体にとって人工物であるように、内なる自己にとっての体の感覚器官は基本的に人工物なのです」

 「あなたがたは言葉を創造するのと同じほど確実に、物体を創造しているのです」

 「感情や気持ちを象徴的記号である言葉に置き換える時と同じくらい、そうと気づかず努力もなしに、みずからの肉体を形づくっていることに気づくのは、それほど容易ではないようです」

 「人類は己の息づかいと同じほど、意識することなく自動的に物質としての対象物を創り出しています」

 「あなたがたは物質的な存在である自分を気にかけるあまり、いま以上の知覚情報がきてもそれらを扱いきれないとか、個としての自分が維持できなくなるのではないかとの恐れから、知覚の拡大にみずから限界を設けているのです」

 「すべての物質的な「現われ」を有しているものには、あなたがたには知覚できない別の形態も存在します。あなたがたには、それらが特定の「振動周波数」に達し、凝集結合のすえ物質化したと思われる、その瞬間の現実だけを知覚するのです」

 「現在あなたがたは、みずからの物質的肉体だけでなく、あなたがたが「時間」と解釈しているものの特定の振動周波数にも焦点を合せています。歴史のなかの現時代以外の諸時代も、いっせいに存在しています。……繰り返して申しあげますが、あなたがたは単にそれらの振動周波数に同調していないだけなのです」

 「基本的にあなたがたの知るところの「時間」は存在しません。そして、すべての被造物は同時に存在しています。……あなたがたの言う「過去」も「現在」も、地上における時代のすべてが存在しています。……あなたがたはただ、極めて限定された時空間座標の場に意識を絞り込んでおり、それらを現在の現実として受け入れ、他のすべての体系から己を閉ざすことを選んでいるだけなのです」

 「あなたがたは自分たちの観念を分子や原子のうえに換置させるという、一風変わったやり方で原子や分子を使っています。そして特定の流儀に従ってそれらを知覚します。……物質としての対象物は「あなたがそれを固体であると信じているとき以外は固体ではない」というのが真実なのです。……あなたがたが存在しない物体を用いて、どれだけのことをやり遂げているかは驚嘆に値します」

 まさに驚嘆する知覚観が語られているわけだが、物質も肉体も自分が創造しているといっているのである。そしてその知覚だけに焦点が合うように設定されているがゆえに、その他のありようが見えなくなっているということだ。時間すらそうであるという。

 チャネリングというのは神秘思想家を超えていると思う。神秘家でもここまで語られる人はいないと思う。あとはこの知覚観をどれだけ自分のものにできるかということだ。





   ラムサの物質観・肉体観     02/3/21.


 ラムサもチャネリングによって語られた存在である。その著『ラムサ――真・聖なる預言』(角川春樹事務所)から、物質観・肉体観について語られた箇所を引用したい。

 「神が最も至高な形で表れたものとはいったい何だろうか。それは思考である。父なるもの、人間が自分の人生を創出する舞台、すべてのものの生命の力、そして生命物質とは、広い意味で言うと、思考である。思考こそが、過去、現在、未来を通じて存在するすべてのものの究極的な創造主だからだ。

 身体の分子構造、細胞組織を互いにつなげているのは、神の真の姿である壮大で崇高な思考だ。思考なしにはあなたの身体は存在せず、物質さえも存在することはない」

 「身体は、真の存在=自己を構成している、変動する光でできた最も複雑で高度な電気系統を宿すためにつくられた。あなたの本当の姿は身体の大きさがあるものではない。実は、ほんの小さな光の点なのだ!

 あなたが宿っている身体は、魂を運ぶ単なる車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするために選ばれた、洗練された手段にすぎない。にもかかわらず、この手段でしかないものを通して、あなたは自分の本質が自分の身体だという幻影にどっぷり浸ってきた」

 「この次元が物質の密度を持つのは、思考が、光というある特定の周波数の波動まで拡張され、それがまず減速されて電磁波となり、さらにそれが物質の総体となり、この次元の固体となるに至ったのです。つまり、この次元の物質というのは、光の周波数を遅くして、それを最大密度の形態まで落としたものだということです。

 ここにあるものが同じ密度を持つためには、すべてが同じ周波数で振動しなくてはなりません。ですから、あなたの身体は、いますわっている椅子と同じ周波数で振動しているのです。あなたにとってこのレベルが存在しているというのは、あなたの肉体、つまり、あなたの化身にある感覚器官が、物質という、光の周波数の中で最も低いレベルを感知するようにつくられているからなのです。

 本質の部分でのあなたは、物質の密度よりも高い周波数を持つ光のエネルギーですから、もし物質でできた化身を持っていなければ、この次元にある物質の中を通り過ぎてしまうことでしょう。つまり、身体が、その密度と感覚器官を通して、この次元にある物質を知覚し、体験し、それと関わっていくことを可能にしているのです。

 脳の能力がすべて使用可能な状態になれば、身体をコントロールしてその波動の周波数を上げ、物質の周波数領域を出て、光の周波数領域に入ることがいつでもできるようになります。これは昇華とよばれているものです。

 この次元から昇華した者たちは、死という、究極的なものを支配したのです。思考の力を通して、身体の分子構造の周波数を高め、光の存在のレベルに身体とともに行けるところまで持っていき、そうすることで死を完全にバイパスしてしまうのです」

 「すべての物質は光によって囲まれている。皆の世界にいる科学者たちも、光の周波数を下げる、あるいは減速してやると、どうも固体物質になるらしいとの感触を持ち始めている。では、この光はいったいどこからやってきたのか? 思考である。つまり神だ。ある想念を持ち、感情の中にこれを抱くとき、その想念は光の波長を持つ波動へと拡大していく。

 光の分子の動きを遅くして、それを凝縮すると、プラスとマイナスの極がある電磁場、つまり皆が電気と呼んでいるものになる。想念を電磁場よりもさらに減速、凝縮させると物質になる。そして物質は、形体と呼ばれる分子・細胞構造体となる。そしてこの形体は、創造に必要な観念として魂が思い描いていた想念によって、ひとつの形に保たれているのである。

 すべての創造過程は、まず速度がまったくないもの、つまり思考をもとに、それを速度のあるもの、つまり光へと拡大し、その光を減速して、これやあれや皆のまわりにあるものすべてを創造する、という形をとる。

 愛すべき主たちよ、在るものすべての美と輝きを、自分の思考過程を通して創造したのは、あなた自身なのだ。想念から光へ、光から電磁場へ、物質へ、そして形体へと、考えることで、感じることで、すべてを創造し存在させてきたのは、あなた自身なのだ。思考が光へと下りてきた存在であったあなたは、自分がなった光に思いをめぐらせ、自分自身であるその光を愛したのだ。そうすることによって、光をさらにもう一段下げて電磁場をつくり出した。神はあなたの思考過程を通じてこの電磁場になったのだ。その電磁場に思いをめぐらせたとき、あなたはそれをさらにもう一段下げて、物資体、あるいは「凝縮した思考」をつくった。

 皆が存在を初めてまず最初にしたことは、「思考から物質をつくる科学」を認識することだったのだ」

 「一般に信じられていることとは裏腹に、あなたの脳が思考をつくり出しているわけではない。脳は、意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけなのだ」

 「限界のない想念を受け取れば受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだんと光を発するようになってくる。それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ」

 ここでとりあげたのはおもにラムサの物質観・肉体観であるが、ラムサのいっているいちばん大事なことは、限界をもうけるなということである。限界をもつ思考をもつと、絶望や病気や肉体、死などに閉じ込められてしまい、それらをつくったのがほかならない自分自身だということがわからなくなるということだ。

 限界のある思考をもつことがわれわれを限界のある存在に縛りつけてしまうのである。ゆえに限界をいっさい信じてはならないとラムサはいう。

 それらから解き放たれたとき、われわれのできること、われわれの世界、時間、空間、肉体、死、といったいっさいの信念を超越できるという。それらすらわれわれの思考がつくった限界に過ぎないとラムサはいうのである。





  ハイキングの山、死者の山     02/3/24.


 現代のハイキングは市民の明るい、爽やか過ぎるレジャーである。人々は山に自然の雄大さや風景を求め、あるいは植物や鳥類をもとめ、スポーツとして楽しんでいると思う。

 私は老荘の山水思想とか隠遁思想とかを少々かじっているうちにじっさいに山々や自然の風景を楽しみたくなり、山のぼりをはじめた。都会で汚れた心には自然の清涼さや雄大さがとても心地よいのである。私は山中には人がひとりもいなくて、のびのびできることも密かに気に入っているが。

 いくつもの山をのぼってみて気づいたことは、とんでもない山奥にけっこう寺があったり、お地蔵さんや石像があったり、ふもとには神社やなんらかの祭られているものがあったりして、山のいたるところに信仰の形跡が認められるのである。山全体がご神体のような三輪山のようなところもある。

 神も仏も信じない私はそういうところはただの通過点に過ぎなかったのだが、じょじょに人々が山に抱いてきた信仰というか、厳かな気持ちとつながりたい、知りたいと思うようになった。

 その接点は、死者や霊魂であることに気づいたのは、チャネリングによる霊の存在を身近に感じてからだった。死者や霊魂を通さないと山の信仰は見えてこないのである。

 つまり古来、日本人は山に死者の霊魂ののぼるところを思い描いていたのである。死んだ人の霊魂は近くの山に昇り、しばらくすると先祖の霊となり、子孫を見守り、盆や正月になると帰ってくると信じられていたのである。

 どうして山が死者の霊魂が昇るところと思われていたかというと、太陽や月が沈み、甦るところが山の彼方だったからだ。太陽や月が沈むところは死者の国であり、ふたたび再生するところが山の稜線だったわけである。山は死と再生をつかさどるあの世だったのである。

 霊のある者は仏になったり、神になったりした。だから山は聖なるものであり、神が降臨したり、宿るところであったりしたのだ。山々には神秘や自然の脅威を感じさせる滝や巨岩、巨木などがあり、人々はそこに神が宿ると信じた。

 また山は狩猟採集時代には食糧をもたらす自然の宝庫であったし、農耕時代には川や水の流れ出でる源があるところであり(龍というのは水の神である)、こうして山々は人間に恵みや生命をもたらす神々のいる聖なる場所になったのである。

 これらはいまの私にとってはただの「情報」にしか思えない。山々に霊魂や神がいるといったリアリティや実感はほとんど感じられない。古来の日本人はこれらを現実の世界そのもの、実感ある世界観として感じていたのだろうか。

 山々や自然の神はその後、時の権力者の神格化や結託と結びつき、どんどん人間社会の権力構造の写しに過ぎない様相を呈してきたように私には思われる。人間の権力者は神の力を借り、あるいは神自身になり、ときには怨霊が恐れられて神として鎮められたりした。死者の霊魂が神になると信じられていたら当然のことだろうが、権力者は多くが神になるのである。

 こうして権力者に利用された神は信じないほうがよろしいというものであり、現代の都会人は信仰の源であった自然の恵みと切り離されて、みごとに死者や先祖の霊、神々の山々という世界からシャットアウトされてきたわけである。

 われわれは死者の世界を失ってしまったが、現代のハイカーたちはそのような記憶のかすかな痕跡を手かがりに山にひきつけられるのかもしれない。

 山の夜といえば心霊スポットになり、霊というとコワイ幽霊しか思い浮かばないわれわれは、やさしく見守る先祖の霊や、豊穣をもたらす神々と断続し、その悪く恐ろしいい面しか記憶からひき出せなくなったようである。先祖供養や鎮魂の儀式を忘れたわれわれは、恐ろしい魂の鎮め方も忘れたようである。



020329断想集
無心・投影・崇り




  無心とは非情のことなのか    02/3/29.


 基本的に人は過去を継続して生きる。過去にあったことがらを現在にもってくる。しかし思考消去という思考のコントロール法をおぼえると、過去を捨てるわけだから、とうぜん過去にいつまでもこだわる人と衝突がおこる。

 相手の怒りの対処法としては良い方にはたらく。過去の怒りにしがみつかなければ、相手は私の怒りを期待しているわけだから、過去の怒りを捨てた私の態度に相手は肩透かしを食らう。人は怒りの内容ではなく、態度に反応するのである。

 怒りを捨ててみると、怒りの関係というのは恐怖にもとづいているというのがよくわかる。人が私のことを怒っているのではないかという恐怖が、自分をかばおうとする怒りを発動させるのである。

 人間関係というのは過去にあったことがらの贈与交換である。過去の出来事の反応を、現在のその人にお返しする。いまはほとんどの人がこういう思考と感情のパターンに従っているから、私のような思考のコントロール法を身につけた者はさっぱり理解できないようである。過去を捨て、いまを生きるという方法をほとんど知らない。

 過去の消去が悪い方にはたらくのは、楽しいことやうれしいことの過去の継続をしなかったばあいである。人は怒りと同様、喜びやうれしさも過去からの継続を期待する。だから過去を捨てる私は、過去の反復を期待する人には私の態度に肩透かしを食らう。せっかくうれしさや楽しさを期待しているのに、その態度はなんだということになり、憎悪や怨みを買うことになる。

 いまのたいていの人はこういう過去の感情の反復・交換パターンのルールに従って生きている。だから過去の感情や交換規則を捨てさせてくれないし、そのルールを守らない行動が人にはまったく理解できない。怒りを捨てる私はいいやつに見えるし、喜びを捨てる私はけしからんやつだということになる。

 人の悪口や陰口も過去のこととして捨ててみて気づいたことは、それを放っておけば、人は調子にのって増長し、どんどんとそれを言いふらし、まわりの人にかなり感染することである。これには参る。思考を捨てるようになって二度ほどこういう経験をするようになったが、おそらく陰口を無視して流す私が抵抗もできない弱いもの、格好のいじめられ役に見えるのだろう。自我を守るルールに破れたと思われるからだろう。良寛や井上井月らが子どもに笑われたり、石を投げつけられたシーンが思い浮かぶ。

 思考や感情、過去を捨てることは心の平安にはよい。しかし過去を反復する人たちのルールとはどうも折り合いが悪いことが多い。また孤独に強くなったり、ひとりで平気でいられることも、まわりの人たちの不安をかきだすようである。感情のコントロール法をまったく知らないほとんどの人には、感情にひきずりまわされるのが当たり前になっているから、感情に従わない私が理解できなく、不安を誘うことが多々あるようである。

 まあ、人のルールとあまり離れるのはよくないのだろう。過去の反復というルール、感情の表出規則には、感情にひきずりまわされずに、適宜に従うことが必要なのだろう。これらは心の中だけのパターンだけはなく、社会のオキテでもある。オキテに従いつつ、心を飼い慣らすことが肝要なのだろう。

 人間関係とは言葉である。想像力の増殖である。言葉や思考がせっせとつくりだしている過去の絵空事に過ぎない。しかも他者の心と思っているものも、自分の想像力、自分の心に過ぎないことに人は気づかずに、自分の心がつくったものに苦しめられる。

 こんな空しい心の習慣はさっさと捨ててしまえばいいのだが、ほとんどの人はこれに従っているため、感情の喜怒哀楽の嵐にふりまわさることになるのだが、それが人間社会のルールならある程度は従うしかないのだろう。





   思考を捨てることの倫理性     02/4/5.


 悲しみや恐れ、不安に襲われたとき、思考を捨てることの効果はバツグンである。考えなければ、それらはいっさいなくなる。心の平安を保つためには思考および過去をぽいぽいと捨てることが大事である。

 しかしどうも人間関係においては必ずしもその方法がよいとは限らないようだ。はっきりとはわからないが、人々が味わう感情の流れを共有しないため、それに抗って平安を保ってしまうがゆえに、人々から不評を買うのだろうか。あるいはたんなる私自身の性格の歪みがもたらした問題なのかもしれないが。

 平安を保つためには他人の感情の配慮を捨ててしまう場合もある。それによって他人から怒りや怨みを買い、陰口や批判を流す無神経さにさらに腹を立てられ、その神経の図太さを確認する意味もあるのだろう、陰口はほかの人にも広まり、誹謗中傷の攻撃にさらされることになる。

 どうも思考を捨てるということは、はたから見ると、無視や冷淡や薄情だと見られるのだろうか。感情のルールに従わないため、かなりの非情な人間に見えるのかもしれない。

 過去を捨てるということは、人間社会の一般ルールである過去のギブ・アンド・テイクの関係も断ち切ってしまう。怒りや怨みを捨てることはよいほうに働くが、喜びや楽しさを継続しないことは薄情さや冷淡さの印象に結びつく。人は過去を捨てさせてくれないのである。そして人々は条件づけられた感情のほかのあり方をまったく想像できない。

 人に思考のコントロールの方法を伝えることもできるが、このような心理的なことがらを日常の場面で語ることはひじょうに難しいものがある。プライバシーに触れられたくないという心理が働くのか、それとも心を語ることは即、宗教だと警戒されるのか、心理的なことがらというのは日常の会話では軽度のタブー状態、アンタッチャブルな話題である。だから思考を捨てる方法と、過去の商取引の関係は衝突しつづける。

 個人の平安は、人間関係の平安をもたらすとは限らない。社会が抜け落ちる。個人の性格や歪みをそのまま正当化や承認してしまうことになり、他人や社会からの修正や要請をうけつけなくなってしまう。思考を捨てれば、そんなものはかんたんに無視できるからだ。

 思考を捨てる修行をしてきた禅の修行僧や仏教僧はこのような問題をどのように解決してきたのだろうか。このために仏教僧は世俗や家族から離れる必要があったのだろうか、それとも私の思考を捨てる方法があまりにも誤った隘路にはまりこんでしまったのだろうか。

 思考を捨てつつ、過去の商取引の関係をパフォーマンスするという技能も必要なのだろう。私はどうも自分だけの心の安寧をめざしすぎたため、社会との軋轢が肥大したようだ。感情にのみこまれずに、一般の人たちのように感情および過去の関係を演じる訓練が必要なのだろう。さもなければ、人間社会のルール違反は手痛い罰則をこうむる。

 カミュの『異邦人』は母が死んでも悲しまず、人を殺しても罪悪感をもたず、ごうごうたる群集の非難にも動じなかった。思考を捨てる方法の行き着く先にはこのような恐ろしい可能性もある。ただ、よくよく考えてみれば、怒りも復讐も捨てられる人間が、人を殺す動機も意味などありはしないので、憂慮する必要性などないと思う。

 感情のコントロール法を身につけるということは、一般の人たちが無意識に従う感情のルールに抗うことである。したがって一般の人には理解できず、感情のルール上から外れた無情で冷酷な人に思われる可能性がある。

 ふつうの感情の感じ方をしない人は、人間らしさやあたたかさを欠いた人間に見えるのである。感情というのはそれほどまでに自然的で本来的なものと信じられており、これが文化的、人工的に条件づけられたパターンだとは人はほとんど気づけない。

 思考や感情というのは、まったく虚構の世界である。しかしこのまやかしの世界を生きないと、人間らしさの資格さえ剥奪されかねない。この危険性を鋭く認識しつつ、衝突やあつれきを癒す方法をみいだしてゆかなければならないのだろう。それとも私の知識自体が誤った方向に進み過ぎたのだろうか。。。







   仲間に入ることの拒絶     02/4/14.


 私は仲間の輪に入ることがとても苦手である。なかなか集団になじめない。集団や三人以上での会話のキャッチボールがからきしダメである。

 それなのに、私は孤独と孤立の正当化と理論武装ばかり増強してきた。まずは自由論や集団・大衆批判からはじまり、個人主義の確立や依存や甘えの関係の拒絶をめざしてきた。

 さらには批判するだけではどうしても心や感情が集団に負けてしまうので、思考を消して感情をなくすという心のコントロール法も手に入れた。孤独や孤立がかなり平気になったのである。

 そうすれば、こんどは私の属する集団のほうが泣きはじめた。なかなか仲間にとけ込めない私を批判したり、陰口ばかりたたかれるようになった。

 個人行動を好む私にたいして相手は自分は嫌われているのではないかという恐れをもよわせたり(だから人は私に陰口をたたく)、集団の同調行動のオキテにダメージを与えたようである。

 気づいたことはこの集団と私の関係はまさに自分の心のなかの構造や葛藤をそのまま表わしているのではないかということだ。孤立をのぞむ心と孤独に耐えられない心が叫びあっているのではないかと思った。これまで私が味わってきた孤独の痛みをかれらに感じさせているだけではないかと驚きにとらわれている。

 思えば、依存と自立は私の長いテーマだった。他人や集団に依存することからずっと脱しようと闘ってきたのだった。理由はよくわからなかったが、とにかく私は自立と個我の確立をよしとし、依存を徹底的に排除しようとしてきたのである。

 なぜこんなに依存をかたくなに拒もうとするのだろうかと思い巡らしていたとき、中学のときの友だちとの関係に思いあたった。仲のいい友だちがいたのだが、彼はともかくほかの友だちともたくさん仲良くしていた。私は放っておかれるような状態になり、怒りか嫉妬を感じるようにでもなったのだろう、友だちが私のところに戻ってきても、黙っていたり冷たい態度をとるようになった。心の抑圧と複雑な葛藤は、思春期のここからはじまっているのかもしれない。

 大学のとき、巡り合わせの悪さからとても仲のいい友だちから心ない仕打ちをうけることになった。私はとても深い痛手を負い、そこから親しさや親密性といったものを恐れるようになり、依存を憎み、ひとりで立ってゆくことを目指すようになったのかもしれない。

 こういうことはいまだからこそ俯瞰できるようになったのだが、そのときは自立をめざさなければと思いこみ、依存が嫌いという頭があるだけで、なぜこんなに依存が嫌いなのか顧みることはあまりなかった。私は依存や集団の親密性を嫌いになった理由から癒すべきであったのかもしれない。

 信頼していたり、親しさを感じていた友から裏切られるようなことは、無邪気に一体感を感じていたがゆえに、とても痛い経験である。恋人に裏切られるようなことも同じようなものだろう。人はこの痛手をのりこえて成長してゆかなければならないのである。

 しかし私はどうものりこえる道を誤ったのかもしれない。親しさや親密性の手をひっこめるばかりか、自分から拒絶するようなことをしてきたのだ。親しさに壁を築いたのである。怒りや恐れがそうさせたのだろう。

 親しさが裏切られたとき、私たちはどのような心の癒しかたをしたらいいのだろうか。すっかり怖がり屋や怒りに満ちたものになった親しさの欲求を解き放たなければならないのかもしれない。

 病になった親しさの欲求をあたたかく、やさしくつつんでやるべきなのかもしれない。癒されない心の傷はまわりの人も傷つけ、私の心の中の痛みが癒されるまで、何度でも同じ痛みを報せつづけるのだろう。





   嫌いな他人は自分自身だと認めること     02/4/17.


 嫌いな他人は自分自身の認めたくない部分である。だから嫌いな人にいちいち感情的になる。無視できないのである。

 心の投影ってむずかしい。なぜ嫌いな他人が自分の嫌いな部分なのか、ひじょうにわかりづらい。

 私たちは自分と他人はまったく別物だと思っている。他人の嫌いな性質は、自分とまったく別々だと信じている。しかし他人に思うこと、感じること、解釈することは、すべて自分の心の中でおこっていることだ。すべて自分の心だ。心は分けることができず、自分も他人も区別がない。

 人は自分の嫌いな部分を見まいとすると、かわりに他人の中にそれを見つけてしまう。感情的にガマンできないものはどこにも見つけられてしまう。自分自身の心のひっかかりが、そのまま覗き穴として固定してしまうのだ。

 私たちは不用心に人の批判や陰口、悪口をいっていると、まさに自分自身のいやなレパートリーを公開していることになる。自分の嫌いな部分を他人になすりつけているだけである。気づいたときは赤面せざるをえないし、人がいっている陰口はかれの欠点だと知ることができる。

 人は他人の心、主観を直接知り得ることはできない。だから嫌いな他人の行動を理由づけするときには、自分の心のなかから同様の心の動きをもってこなければならない。つまり自分自身の心なのである。こういう仕組みに気づかずに人は今日も自分の欠点を公開しつづける。

 けっきょく、自分自身にない性質は他人にあっても気づかないのである。だから他人に見えるものはすべて自分自身だと考えてよいのである。

 われわれは嫌いな他人を見つけたら、それを自分自身のなかに見いだすべきなのである。認めたくないからこそ、他人のなかに見出すのだから、容認することはとうぜん困難な話になると思うが、容認しないことには人生をメチャクチャにしてしまう。生涯を自分の影との対戦と抗戦にムダに奪われてしまうことになるからだ。

 デビー・フォードの『「嫌いな自分」を隠してはならない』(NHK出版)は、なかなか理解しがたい投影や影のとりもどしについて教えてくれている。もちろんかなり参考になったが、私としてはもうすこし認識論的な説明がほしかったところだ。

 この本のなかで驚いたことは、影というのは悪い部分だけではなく、よい部分も他人に投影しているということだ。偉大な人に見るのは、自分自身の偉大さなのである。自分にない性質は他人にも見えない。

 私たちは自分の偉大さや長所、才能さえ自分自身に認めないのである。そうして影になった部分は、社会的に尊敬される人物へと向かう。それが自分自身のものとしてとりかえされたとき、私たちはほんとうの自分自身を生きることができるのだろう。

 投影と影ってむずかしいけど、これは自分自身を謎とく重要な鍵となるものだ。そして自分と他人というカンチガイの区分も消滅させてくれる。私たちは自分の心のみとしか出会えないのである。





  霊と崇りの心理学     02/4/19.


 むかしの日本人は死後の生や霊魂、神々などを信じていた。死者は山にのぼり、いずれ祖先の霊となって子孫を見守り、神々は山や木、岩などの自然に宿ると考えられていた。

 自己の命や心をすべて肉体に閉じ込め、外界の現象を機械的に説明する現代人には信じられない話であり、むかしの人はどうしてこういう世界観をもつようになったのかと思う。まだぜんぜん深く検討していないのだが、「軽はずみ」に考えてみたいと思う。

 かれらはどうも自分の心を自己の肉体にとどめておかなかったようである。自己の心のはたらきを外界や環境にまで押し広げて認識していたようだ。自己の肉体内に閉じ込められるべき怒りや悲しみなどの感情は外界に投影されていたのである。だから自然現象に怒りや怨みの主体をもとめたのである。

 自己の心や感情は肉体を超えて外界に流れ出ていた。そして環境のあらゆるものは命があり、霊があり、怒りや怨みなどの感情があるとされた。自然現象の原因は人間自身の投影となったのである。

 死者はなぜ魂として生き残ると考えられたのだろうか。死者を供養することから考えると、生前の後悔や悔恨、もしくは死から救えなかった残された者の感情の癒しが考えられる。死者を慰めているのではなく、残された生者を慰めているのである。外界の対象におこなうことは自己におこなうことである。

 平安時代になると権力者のあいだで敗者の怨霊が恐れられるようになる。崇りを鎮めるために空海などの仏教僧が政治界にまで力をもつようになる。

 死者の怨みが病気や災害をひきおこすというロジックは現代人には考えられない。怨みは個人の肉体内にとどまるはずである。ましてや死者が力をもつはずがない。この場合も怨まれた者の被害観念の連鎖増大を癒す必要があったのだろう、加持祈祷が必要になる。

 むかしの人は自分の心や感情を外界の霊魂や神々に託したのである。いわば外界の対象に投影してそれを鎮めることによって、自己の感情も癒した。

 童話に出てくる怪獣や悪魔というのは、心理学によると自己の心にある攻撃欲や悪い部分であるといわれている。それを外界に怪獣や悪魔として実体化・具体化するわけである。死者の霊や怨霊といったものもそういうメカニズムと同じものなのだろう。

 むかしの人は自分の心を自然環境に投影したのである。そして投影された対象を鎮めたり、なだめたりすることによって、自己の心も鎮めたのである。外界の霊魂や神々というのはすべて自己の心の投影だということができる。

 現代人は外界を自己の心から切り離し、環境や自然を機械的に説明し、心や感情のすべての原因は自己の肉体内にもとめられることになった。いいや、心は商品経済に流通するものだけに投影されるようになっただけだろう。たとえば会社や学校、家族や商品、サービスなどだけに限定されただけだろう。われわれはそれらのものに心を流れ出しているのである。

 ここでは霊魂や神々は心の投影だと考えてみたが、それらの存在すべてを否定するのはあまりおもしろいものではない。霊魂や神々が存在する世界というのは世界に神秘性と魅力を付与するものだし、われわれが理解する以上の心の最善の用いかたを与えるものであるかもしれない。あるいはほんとうに存在する可能性だってある。かんたんには霊魂や神々は否定されるべきではないのだろう。



020430断想集
筋肉から感情は解けるか




   身体から感情を解きほぐせるか     02/4/30.


 感情というのは、「ムカツク(胃が)」「胸が痛い」「胸がどきどきする」「腹が立つ」「胃が痛い」といったようにその多くは内臓によって感じられるものである。

 私は前々からこの内臓から感情をとりのぞく方法はないものかとずっと探ってきたのだが、どうもなかなかぴったりした本が見つからない。身体から感情をコントロールする方法はいったいだれが知っているのだろうか。

 片山洋次郎の『整体 楽になる技術』(ちくま新書)は背骨と感情の関係をかなりつっこんで把握しており、私が知りたいことにだいぶ近いかもしれない。増田明の『ボディートーク入門』(創元社)も整体から背骨と感情の関係をひじょうに鋭く考察しており、私が知りたいことはほかの身体技法ではなく、この整体から得られるのだろうかと思う。

 どうも人間のからだというのは、筋肉の縄縛りみたいなものである。ある感情や思考にしたがって筋肉はある部分を締めつける。そのことによって筋肉の鎧で外敵から守ったり、または必要な血液循環を限定したり、必要な部分だけに呼吸をいきわたらせたりする。

 蛇のような筋肉がするすると伸びてきて内臓をしばり、機能増量の部分と機能減少の部分をつくりだす。怒りや悲しみ、恐れの感情はそうやって筋肉の特定部分の緊張と硬直によってつくりだされる。

 筋肉の緊張により、身体のなかに感情環境がつくりだされる。悲しいときには心臓の循環量を減らしたり、怒りのときは背中の筋肉を立てたり、恐れのときは息をつめたり腹を固めたりして、それぞれの感情や情緒環境がうみだされる。

 もちろんこんなものは本人にはまったく無意識である。当人が手にするものはすでに悲しみや恐れ、怒りの身体感情、身体環境である。私たちは感情の波間にふりまわされる哀れな子舟でしかない。

 しかし感情は自分の身体、筋肉がつくりだしているとするのなら、それをコントロールすることはまったく不可能だとはいえないだろう。内臓を縛りつける筋肉の緊張、緩和のテクニックを身につけることができるのなら、それは可能になるだろう。

 感情というのは身体の筋肉がつくりだしている。感情というのはどこか宙や出来事からやってくるのではなく、まさしく自分の身体・筋肉がつくりだしているものである。私たちはそのつくりだした主体を知らず、たんに身体感情の受容者や犠牲者にとどまるのみである。からだの筋肉は無意識に締まり、私たちにそれを動かすことはできないと思っているからである。

 私たちは身体の筋肉をコントロールすることにより、感情をコントロールすることができるのだろうか。内臓のまわりを覆う筋肉はわれわれのコントロールに委ねられることができるのだろうか。

 いまの私に胸や腹の無意識に入る緊張を解きほぐすことはまだムリである。仰向けにそりかえって胸や腹の緊張をのばしてとろうと思っても、なかなか思うようにいかない。胃が痛くなっても、胸が苦しくなっても、それをとりのぞけない。

 深い腹式呼吸によりからだじゅうを緩めるという方法もある。緊張信号の感じる筋肉をリラックスさせるという方法もある。腹や胸の緊張と緩和を覚え込むことによって、緊張を緩和にもってゆくという方法も試みたいとも思う。まあ、内臓の筋肉のコントロールはまだまだこれからだ。





   身体とは心のことである     02/5/1.


 身体とは心そのものといったほうがよいのだろう。私にはまだ身体が心そのものだと見えるまでにはいたっていないが、身体は心のあり方をそのまま現している、あるいは身体こそが心なのだろうと思う。

 心と身体のつながりについて深く考察したつぎの著から、その密接な関係がわかる部分を抜き書きしたい。まずは増田明『ボディートーク入門』(創元社)から。

・怒りの感情は背中の中央を硬くさせ、刺激を受けた神経が腹を立たせる。猫のけんかと同じである。胸椎八番は胃の神経とつながっている。

・失恋や絶望感は胸椎三番に詰まりをつくる。心臓の腰がきゅっと縮められる。

・借金の悩みは首のつけ根を硬くする。「借金で首が回らない」だ。

・胃の上部が硬くなるのはいらだちである。胃の下部が硬くなればくよくよしている。

・人前で話すとき緊張するのは、腕のつけ根と胸の間の一点である。警戒した動物がぱたっととまるときにはそこが緊張する。

・恨みは胸椎九番にしこりをつくる。

・ガンコ者は頚椎一番・二番、首のうしろ側が硬くなる。首の前面が硬くなればガマンのしこりである。

・あがると呼吸筋はみぞおちを中心に収縮し、息はそれより下に降りることができない。息が浅くなると足にまで血が回らなくなる。あわてたときもみぞおちを縮めて息がとまるため、冷静な判断ができなくなる。

 つぎは片山洋次郎『整体 楽になる技術』(ちくま新書)から。

・どきどきしたり、胸が詰まるときは、胸中央部を緊張させている。ストレスはこの部分に現れる。ここが免疫系、自律神経系の調整の焦点になっているからだ。

・腰椎五番は呼吸に関係が深く、眠りと結びついている。

・目の疲れは首の横の緊張に現れる。目の奥が痛いとか重いときは首の後ろ側が緊張している。

・腰椎二番が硬くなるとみぞおちも硬くなり、胃腸のはたらきが悪くなる。

・あくびは顎−前頭部の緊張をゆるめる。目の疲れもとれる。口を閉じたまま顎を大きく開けるとあくびは出る。

・消化管は脳内と同じ分泌物質を生産している。消化管も脳といっしょに考えている。胃はストレスに敏感で、腰椎二番・三番に関係している。

・胸椎四番は食道のはたらきと関係し、この緊張が強いと食べられなくなる。愛と悲しみが高ぶるとここが硬くなる。

・みぞおちが緩んでおれば下腹部に力が入りやすい。この部分はお互いにシーソーの関係になっている。






   筋肉感情論リサーチ中     02/5/6.


 身体から感情を解きほぐす方法をさぐっているのだが、なぜかこの方法を本格的に追究した本はない。いぜんもこのことについて考えていたが、すぐに壁にぶちあたった。心理学から身体を感情として捉える本というのはそうないのである。

 ボディーワークとしてはローウェンやアレクサンダー、フェルデンクライスといった人たちがいるが、いまいち身体を感情として捉えていないのか、心の底から納得するまでにいたらなくて、ネタ切れですぐに追究できなくなった。

 そんななかで前出の増田明『ボディートーク入門』と片山洋次郎の『整体 楽になる技術』はかなり学ぶところがあった。感情と身体の関係についてかなりつっこんで考えている。

 これらに啓発されるところがあったので、今回はもうすこし歩を進めて、健康医学とかトレーニングの方面からも身体を捉えてみようと思うようになった。

 さすがに健康医学は病気の諸症状から身体を捉えており、感情との関係、あるいは感情と臓器の関係はさらっと触れられているていどで、密接な因果関係につっこむまでにはいたっていない。

 なぜ身体や筋肉を、心や感情そのものだと捉えないのだろう。トレーニングにいたるとさらに感情との関係は希薄で、まったくからだを鍛えるためのテクニックになってしまっているが、筋肉=心の緊張を解く方法としてはかなり使えるのではないかと思う。

 まあ、とにかく、感情というのはからだのどこかの筋肉の緊張だから、それを自己の意志で解けるようになるのが私の目標だ。

 だから筋肉の緊張を解くストレッチはだいぶ参考になるが、なぜ身体やある筋肉はある感情にしたがって緊張したり硬直したりするのか、その理由がつかめないのが惜しいところだ。

 人間というのは不安や恐れに襲われると、なぜか腹や胸を緊張させて息をつめる。腹は胸のように肋骨のようなガードがなく、腹の皮一枚に守られているだけだから、不安は腹を緊張防備させようとするのだろうか。

 息をつめるのはなぜだろうか。腹を硬め、胸を閉じるのだから息はできなくなるのが当然かもしれないが、なんの効果があるのだろう。手足の末端には息も血液もゆきわたらなくなるが、その分、心臓に血液がたくわえられ、つぎなる逃走に必要な機能だけを使うためということになるのだろうか。

 胸や腹の緊張を解きほぐすにはあおむけにそりかえったり、肩をうしろにひき、胸をつきだしてそりかえってのばそうとすると、かなり緊張が伸びるのが感じられて、気持ちいい。これまでの不安や恐れの感情が、いかに胸や腹の筋肉を縮め、硬直させていたことか。

 筋肉の緊張を解くのはストレッチのように筋肉を伸ばすだけではなく、マクギーガンの『リラックスの科学』(講談社ブルーバックス)も私にはかなりの重宝する本である。緊張は伸ばすだけではなく、そこに感覚を集中させ、リラックスさせ、無感覚にもってゆくことがいちばんの弛緩法なのである。筋が抜けたり、のび切るような安楽感が得られる。

 怒りというのは肩や背中の筋肉を立たせる。増田明によると猫がケンカのとき背中を立たせるのと同じで、人間も怒りのときは大きく見せようとして肩と背を立てるのである。だから怒りがずっと解けないと肩背腰と、筋肉は硬直したままである。やっぱりこれらの緊張には腕を前に伸ばしたり、背中、腰をのばすようなストレッチが効く。

 からだの緊張というのはことごとく感情と関係がある。感情とは筋肉の緊張といってもよいくらいだ。身体とは心のことであり、思考そのものなのである。

 なぜか現代の人は身体と心のつながりを無視しがちだ。身体はクレーンか車、パワーショベル、歩行機械かなにかのようにしか思っていないようだ。身体は道具であり、手段であり、機械にしかすぎないのである。身体を心そのものだと思う視点は、心理学にも医学にも欠落しているようだ。医者は結果である病状を治すことにしか関心がないのである。

 ともかく私は腹と胸の緊張にいちばん敏感でありたいと思う。感情の多くはこの緊張と呼吸のとめかたに関わりがあると思うからだ。私はいつ、どのようにして腹を緊張させ、胸を硬直させて息をつめているのだろうか、この無意識におこなう不随筋の活動に気づきたいと思う。

 じつは腹や胸というのは自分で緊張させ、弛緩させることができる。随意筋であるはずである。ところが不安や緊張のときにはしらずしらずのうちに自分の腹と胸を縛り、息を殺してしまっている。そのことを露とも知らない自分は、息ができないためますますせっぱ詰まった思考と不安に襲われることになる。

 自分で苦しくしておきながら、自分でそれを知らず、解けもしないという情けない結果に陥る。無意識に緊張する腹と胸の緊張に気づく必要があるわけである。

 からだの緊張や硬直、しこりはそのまま自分の心の緊張である。筋肉がのびず、伸ばすと痛がる筋肉は自分の強張った心そのものである。解けない心の緊張の記憶と蓄積である。このような理解のもとに身体の緊張に気づき、解きほぐしてゆくことが、心を癒すためには肝要なことなのだろう。





   腹と胸、背中の筋肉感覚に鋭くなる     02/5/10.


 腹と胸の筋肉感覚について私はほとんどわかっていない。感情とのかかわりやメカニズムを明確にしめした本もなかなかみつからない。ある感情にしたがって身体はどう動くのかということがなぜ解明されていないのだろう。知識界の信じられない欠落だ。

 自分の腹と胸をつかってみて究明するしかない。気づいたことは、腹の筋肉というのはほとんどが随意筋だということだ。自分で締めることができるし、ひっこませることもできる。

 それなのにふだんわれわれは不安や緊張に襲われたとき、腹の筋肉を固めているということに気づかない。たぶん頭や心の感覚に精いっぱいで、そこまで感覚が廻らないのだろう。おかげで私は胸だけで呼吸することになり、息が苦しくなり、酸素や血液は下半身や全身に回らなくなる。

 腹の筋肉は肛門や睾丸あたりの筋肉を締めるところから、下腹部の筋肉、中腹あたりの筋肉、みぞおちのあたりの筋肉を締めることができる。筋肉を締めると息がつまり、しぼりだされるような息がはき出される。不安や緊張のときには無意識にこのようなことがおこなわれているのだろう。

 肛門の筋肉というのは最初に筋肉のコントロールを覚え込まされるところだ。うんちをガマンすることを強いられる。したがって成人になってもガマンすることは、微妙に肛門筋の緊張と結びつく。腰の筋肉もぎゅっと固められるか? ガマンはアゴの筋肉も硬直させる。

 不安や恐れのときはどうして腹を固めるんだろうか。腹は皮一枚で腸や胃が守られている弱いところだからだろうか。恐れている人は腹や胸を腕で守るような前かがみの姿勢になる。そういう姿勢で筋肉が硬直してくると、心臓や胃は押さえつけられ、締めつけられ、息もできなくなり、血のめぐりも悪くなり、栄養もゆきわたらなくなる。

 怒りっぽい人は「怒り肩」といわれるように肩をいからせ、背中を立て、首筋を固める。全身を大きく見せようと筋肉が立つ。背面を固める習慣は首や肩のこり、腰痛などをひきおこすものと考えられる。

 逆に小心な者はからだの前面を固めてガードする。息も苦しくなり、血も回らない。心の姿勢はからだの姿勢に現れるのである。からだを前に丸める恐れの人は、肩をうしろにひき、胸をつきだした姿勢で呼吸が楽になる道をつくってやらなければならないし、すぐに縮こまる性質の胸と腹の筋肉を背伸びやストレッチなどで伸ばしてやらなければならない。脇も硬くなるので伸ばすことだ。

 背面を固める怒りの人は、祈りのポーズなんかが背中の筋肉をのばすのだろう。首の筋肉はとうぜん重い頭を抱えているので、そうとう筋肉の負担がかかっている。ガンコ者はますます首のうしろを固める。首は脳や神経につながる重要なところなので、ここの流れをよくしてやらないと、脳や目などに血液がゆきわたらなく、障害をおこす。頭を前に倒し、組んだ腕で押さえつけてやると、私の首筋はかなりの緊張をしめして、びっくりしたくらいだ。

 筋肉の緊張やこりはただの運動不足のせいではない。それは心の緊張であり、怒りや恐れ、悲しみのための緊張なのである。持続した緊張は酸素や血液、栄養の流れを阻害する。そして痛みや病気をひきおこす。

 やわらかくすることだ。緊張をのばし、硬直をゆるめなければならない。そしてやはり自分の感情が身体をどのように収縮・緊張させているのか、そのメカニズムも把握することが必要なんだろう。その部位の緊張を知ることにより、自分の無意識の緊張を知ることができるし、またよけいな緊張を防いだり、ほかとの部位のバランスで緊張をゆるめたりすることができるのだろう。

 身体をすべて自分の心や感情だと捉えること。そしてその感情がどの筋肉を緊張させるのか知らなければならない。身体という心、筋肉という感情の制御能力はそこから生まれてくるのだろう。





   利他心に一滴の利己心も混じってはならない?      02/5/13.


 愛や善の道徳的な言葉にうさんくささを感じる人は多いだろう。ものすごくスバラしくて聖なる言葉の割には、その根本には、当人の利己心や利害心がひそんでいることが感づかれるからだ。

 だから多くの人は善や愛を信じなくなる。私もそのスバラしい顔をしたツラの皮をはぎとることに熱中した。善人には当人の名誉欲や認知欲という利己心を見出したし、愛を多く口走る人たちのなかには、経済的な利益や報酬をもとめる打算や利害の心を見つけた。

 もう利他心なんてまったく信じられなくなっていた。利他行為もおこなえなくなっていた。善や愛という言葉や行為を遠ざけたのである。

 じつはこういう気もちの裏腹には最高の利他心を求めてやまない心があることにようやく気づいた。「利他心には一滴の利己心も混じってはならない」、と思い込んでいたのである。最高、最善のものを求めるがゆえに、いっさいの利他心が信じられなくなっていたのである。利他心の希求が利他心の不信をつくるとは、逆説的な皮肉である。

 エーリッヒ・フロムの『愛するということ』(紀伊國屋書店)には、利他的で自己犠牲的な人の病理的な心が指摘されている。かれは他人のために自己を犠牲にできる英雄的行為にほこりをもっている。しかしかれは人を愛することもできないし、、楽しむこともできないし、自分が不幸であることにとまどっている。

 かれは自己を否定したから自分を愛せないし、他人をも愛せないのである。自分を含まない人間という概念はどこにもない。かれは自分を否定したから他人をも否定してしまうのである。かれは愛も喜びも楽しみも自己愛も否定してしまったから、それらいっさいを失ったのである。

 自己犠牲的な利他心とは恐ろしいものである。皮肉な逆説に囚われてしまう。他人のために自分を否定しまうということは、自分の喜びや楽しみ、愛さえ否定してしまうということである。かれは有徳な人であるかもしれないが、自分は不幸で、人を愛することさえできないのである。自分を否定したうえでの他人への愛などおこなえないのである。

 近代の人間というのは道徳を説くキリスト教会の利己心や利害の不信から出発している。利他心の不信はさらなる利他心の水準を高めたのではないか。自己犠牲、自己否定が最高の道徳になり、その結果、人も愛せない、自分も愛せない、自分を楽しめない大量の人たちをうみだすことにならなかっただろうか。

 私自身も愚かな袋小路にはまっていたように思う。利他心のなかに一滴の利己心も混じってはならないと思うあまり、自分の愛や楽しみさえ否定してきたのではないかと思う。それは利己心ではなく、自分を愛するということであり、これがおこなえないと他人を愛することも、利他行為もおこなえないのである。

 利己心と自己愛は違うのだということに気づかなければならないのかもしれない。私は自分を愛するということを、利己心という衣のなかに押し込めてきた中から、救い出さなければならないのかもしれない。

 自分を愛するということは、すべての人を自分と同じように愛するということであり、世界を愛するということである。利己心と混同してはならない。



020520断想集
筋肉から感情を解きほぐす




  ストレッチは筋肉だけではなく、心も伸ばす    02/5/20.


 現代人は頭だけで生きていて、たいていは身体を忘れている。言葉と知識がとても重要である。しかし自分の身体の働き方を知らないばかりに私たちはどんなに愚かな目や、身体機能の犠牲者になってきたことか。

 医学というのは身体を機械とそのパーツにしか思っていなくて、身体を心だと見なす知識はほぼもっていない。心理学は心だけを相手にして、身体を無視する。どちらも片方ぬきで片われだけを癒すことなんてできないのだ。

 私は読書好きのスポーツ嫌い、怠惰な人間で、さいわい病気もあまりしなかったおかげで、自分の身体のことはまるで知らなかった。身体のコントロールの仕方を知らないばかりに、身体機能に傷めつけられる目に何度か会ってきた。

 身体が緊張や不安のときにひとりで暴走してしまうのである。身体としてはとうぜんの防衛反応をおこしただけなのだろうが、私はそのような身体反応のブレーキの踏み方を知らないのである。身体の扱い方を知らないばかりに、身体の犠牲者になってしまう愚かな目に会ってきた。だから身体機能と身体のコントロール法を知らなければと思うのである。

 とりあえずは筋肉から知りたいと思う。私は筋肉が緊張したり、硬直したりしたままでも、みずからのその解き方を知らない。継続した筋肉の緊張は疲労を高め、身体機能を損い、心を追い込む。身体を主観的に知るためにはこの筋肉のメカニズムを知りたいと思うのである。

 たまりにたまった緊張を解きほぐすにはストレッチが効く。いまのストレッチはほぼスポーツなどのフィットネスと思われているが、これは心の癒しや解放でもあると思っている。緊張が継続した筋肉はそのまま心のこわばりだと思うからだ。

 足や手が心だとは思えないかもしれないが、やはり間接的には心につながっているはずだ。不安な心は腹や胸などの筋肉を緊張させるし、怒りや怨みは背中の筋肉をこわばらせる。硬い鎧となった筋肉は酸素や血液の流れをとどこおらせ、身体を疲労させ、心を弱らせる。だからストレッチによって心を解放しなければならないのだ。

 とくに首と肩、背中、胸と腹のストレッチは念入りにおこないたい。固まった筋肉は、そのまま心のストレスだと見なすことが必要なんだろう。筋肉をストレッチすることによって、心の緊張やストレスも解きほぐす。

 目の疲れや視力低下も筋肉の緊張が継続しているからだろう。目の緊張はやはり心の緊張や恐れも現わしているのだろう。「目は心の窓」だ。眼筋のリラックスは心のリラックスにも結びつくのだろう。

 口や顔の筋肉もストレッチさせたい。顔というのはけっこう緊張が積み重なるところだ。凝り固まった顔の表情が、私たちにパターン的な感情を味わわさせるのではないだろうか。顔は忘れがちになるが、筋肉で動いている。

 いまのところ、私には筋肉のストレッチが心の癒しや解放そのものだという実感をもつにはいたっていない。筋肉は筋肉で、心とはまた違ったものだという意識がないわけではない。でも筋肉の緊張は心の緊張を現わしているのだと考えるほうが、身体の調子や理解を深めるのによい方法であるのはたしかだろう。身体も心のようにたえず注目し、ていねいにとりあつかうべきなのである。





   しぐさに現れる心と体       02/5/23.


 人間は無意識のうちに体のさまざまな箇所に手をやっているが、なぜその箇所なのだろうか。たとえば「困ったな」というときには首のうしろに手をやるが、なぜその箇所が「困った」という感情と結びつくのだろうか。困るときにはほんとうに首が緊張し、手によって緩めようとするからだろうか。

 こう考えるなら、ある気もちを表わすときに手が接触する箇所というのは、その感情と緊張になんらかの結びつきがあると考えることができる。

 人は考えに行きつまったとき、頭をかいたり、かきむしったりする。頭に新鮮な血液を送り込んで、新たな発想を導くためだろうか。歩き回ったりするのも、全身の血流をよくするためだろう。考えに行きつまるとは頭が硬くなり、血流がゆきわたらなくなることなのだろうか。

 照れたときなんかはこめかみあたりをぽりぽりかく。ジェスチャーの要素が強いが、照れの感情はこめかみあたりをこそばいものにするのだろうか。

 よくスーパーで見かけるおばちゃんのほおやアゴに手を触れるしぐさ。彼女たちは食事を選ぶという行為にプレッシャーを感じて、ほおやアゴを緊張させて、手によってそれを緩めようとしているのだろうか。

 なにげないときにアゴをさすっていたりする。手の接触によって自分を慰めているわけだが、アゴというのは心配や不安のときに緊張する箇所なのだろうか。

 自慢を感じたりしたとき、鼻をかいたり、ふれたりする。自慢というのは鼻を敏感にするようだ。

 唇をさするという行為もたまにする。唇が緊張するときというのは、おそらくウソや隠したいことがあるからだろう。

 気分が落ち込んでいたり、内気な人は背を丸めるように、胸や腹を腕でかばうような姿勢になる。腹や胸が無防備に感じるような状況におかれているからだろう。

 自信があるときは胸をはって背筋をのばして歩く。胸や腹を守らなくていいということである。この姿勢は呼吸や血液のためにはよい姿勢であるし、考え方も自信に満ちたものにするのだろう。

 怒っているときは怒り肩になる。肩を怒らせて大きく見せるためである。怒りを心理的にしか捉えられない人は、肩凝りや腰痛がこの緊張からきていることに気づかない。

 このようにしぐさや姿勢はその人の心や感情を表わす。ぎゃくから考えれば、体のある部位はある感情をあらわしたり、緊張したり、敏感になったりすることを知るための手がかりになる。う〜ん、なるほど、ある感情は体のこういうところに現れるのかとわかるということである。






   依存のよい面を見つける     02/5/25.


 依存なんか情けないことで、自立こそがめざすべき最高の価値だと私はつっ走ってきたが、本屋で精神科医の和田秀樹が『成熟した甘え』という本を出しているのを見かけて、眼からうろこが落ちる気がした。

 甘えや依存も成熟した心には必要であるという主旨であったと思う。そんなことを露とも考えてもみなかった。

 自立をうながすテキストは事欠かない。社会学や哲学の本では、集団や群集を批判することで、それらが嫌いになり、距離をおき、自立を自然に刷り込ませるものばかりであったと思う。私自身もそういうものを好む傾向があったのは否めないが。

 自立ばかりめざせば、人とのつきあいが断たれてくる。愛情も友情も、集団も組織もすべて遠ざけようという気もちになってくる。それはそれで立派で、好ましいものかもしれない。

 しかし人から断たれた人間がほんとうに人間の最高像だと考えてよいか疑問だし、依存を排斥しすぎれば人づき合いに失敗することも増えてくると思う。自立はめざされるべき目標かもしれないが、それと同じくらい人に依存したり、甘えたりする能力も必要ではないのかと思う。その能力が発達しないと、人や組織とうまく関われなくなるのである。私はこの能力を排斥しすぎたのかもしれない。

 「他人のふり見てわがふり直せ」――この言葉は説得力があるものであるが、警戒も必要なのではないかと思う。依存を嫌い、依存を徹底的に排斥しようとすると、人から孤立し、人とうまくつき合えなくなってしまう。

 いちばん危険なことは、自分の自然な欲求や本心を抑圧してしまうことだ。むりやり依存心を排斥しようとすると、人の依存心に目くじらばかり立てるようになり、そしてじっさいは自分の依存心は克服できない。かれは依存心を自然に消えるまでに育たなかったから、人の依存心が感情的にひっかかるわけである。

 他人の利己心が嫌いな人がいる。かれはだから自分の利己心を抑えるような立派なことをしてきた。しかしかれは自分の利己心を克服できないばかりか、おそらく自分を愛することも楽しませる能力も欠如することだろう。かれは利己的な観点を嫌うあまり、自分の利己的な面さえ否定しまうからである。

 思うのだけど、人の悪い面の中にはよい一面も含まれている。全面的に悪などなくて、その中には必要で欠かすことができない善良な一面もあるのだろう。そのよい一面まで、毒といっしょに洗い流しては元も子もない。

 人の中に悪い面を見つけたら排斥ばかりしようとするのではなく、その中にかれがそれに憩おうとするよい一面を見つけなければならないのだろう。そして排斥したいなにかは自分の中にきっとあるはずである。でなければ、いちいち排斥したいとは思わない。

 排斥したいと思ったものは排斥できない。なぜならかれは他人の中のそれを嫌わなければ、排斥できないからだ。嫌うというのは、排斥できないからこそ、嫌わなければならないのである。その感情が自然に消え、無視でき、感情にもひっかからなくなったとき、かれはその感情を克服したといえると思う。嫌ったり、感情的に反応しているようでは、かれはまだその感情を克服していないのである。





   頑固な首、こらえるアゴ、恐れる眼       02/5/27.


 筋肉はからだを支えたり動かしたりするだけではなく、心も守る。筋肉の鎧によって、弱く痛々しい心を外敵やストレスから守ろうとしているかのようだ。

 からだの各部所は私たちの感情である。ある感情を感じれば、特定の筋肉が緊張する。もしある感情を長時間感じつづけるようなことがあれば、その感情につながる筋肉はずっと緊張したままになる。重いものをもちつづけた腕が硬直してとれないように、その感情の筋肉も凝り固まったまま、緊張が解けることはない。

 こうして私たちの筋肉は緊張が継続したままになり、エネルギーを燃焼させる酸素は届かなくなり、疲労物質は排出されなくなり、さまざまな弊害や障害をもたらすことになる。

 私たちは精神と身体を分けて考える。精神的ストレスを感じても身体のリラックスから解きほぐすことに考えはおよばないし、運動やスポーツは学校教育の画一的強制から嫌いになった人も多いだろうし、怠けることや休息することで疲れがとれると思っている人もいると思うが、長時間のストレスによる緊張は容易に解けるものではない。

 緊張の継続は心をますます頑なにする。固定された首は頭を固いものにし、石頭はますます首をギブス固定のようにする。そして酸素も栄養も頭にゆきわたらなく、疲労物質も頭から去ることはない。柔軟な心も新鮮な発想もできなくなって、ますます頑なになるばかりである。

 アゴというのはさまざまな感情をこらえるダムのようなものである。泣くのをこらえるときもアゴを使うし、怒りをぐっとガマンするときも、悲しみや不安を抑えるときにも、アゴで食いしばろうとする。

 アゴは感情奔流の一大ダム拠点のようなものである。あふれ出ようとする感情を抑えるためにアゴにはますますの緊張が加えられることになる。このような緊張の継続が休息でとれることはない。スポーツで緊張しきった手足の筋肉をストレッチするように、アゴの緊張も伸ばしてやらないと、緊張が弛緩することはないのだろう。

 眼ももちろん筋肉で動いている。眼筋はピント合せだけではなく、おそらくいろいろな感情も演出しているのだと思う。怒りのときの眼、恐れのときの眼、好奇心いっぱいのときの眼、それぞれの感情にしたがって眼筋の緊張は使い分けられているのだろう。われわれは人の目のなかにその人の心をかんたんに見出すことができる。

 眼筋もストレスやある感情が長引くようなら、その緊張はずっと継続したままになる。緊張は血流を悪くし、栄養不良や疲労物質の蓄積をもたらす。視力低下は眼の酷使ばかりではなく、おそらく心の疲労、つまり眼筋の硬直からもおこっているのだろう。

 私たちは眼を動かさないほうが疲労回復にはよいとは思っていないだろうか。しかし硬直した眼筋は休息だけでは解きほぐすことができない。眼筋のストレッチや鍛練が必要になるのだろう。あまり強度の鍛練は危険だろうが、眼筋の弛緩は心の解放や弛緩にもつながってくると思われるのである。

 長時間のストレスによる筋肉の緊張は休息だけではとりのぞくことができない。現代の恐れや怒りはわれわれの思考力により長時間つづくことが当たり前であり、そのあいだ緊張しつづけている筋肉はかんたんに解きほぐすことはできない。運動によるさっぱりした筋肉疲労とはわけが違うのである。

 心の疲労は休息やストレス発散だけではなく、筋肉のストレッチや鍛練の方面から解きほぐさなければならない、ということをわれわれは知らなければならないのかもしれない。





   心理学はなぜ身体を無視するんだろう?      02/6/2.


 心理学に身体に関する記述はごく少ない。心の問題のみをあつかっている。しかし身体なしの心がありえないように、心の問題は身体に現われる問題でもあるはずである。身体そのものの問題といっていいかもしれない。

 心は心のみの知識と療法さえあればいいと思っているようだ。心は身体を離れ、身体と別個に存在するかのようだ。そんな幽霊のような心なんてほんとうにあるのだろうか。身体なしで心は存在できるのか。まるで霊魂観のようだ。

 心とは身体によって生み出されているのではないか。身体の筋肉や呼吸、内臓感覚などによって感じられるものではないのか。脳や意識のみの感覚なのだろうか。

 われわれは「胸が苦しい」とか「胃が痛い」、「胃がムカつく」といった言葉のように、身体感覚を心として捉えているはずだ。それなのになぜ心理学は身体をあつかわない?

 われわれが陥る心理的な問題というのは、もし身体のことを知っておれば、いくらかは防げたものであるかもしれない。身体のメカニズムや機能を知っておれば、それを癒したり、なんらかの対処法を考え出せたかもしれない。

 身体は心に従って、その身体環境を変える。怒りは背中をたてたり、恐れは腹を固めたり、悲しみは胸を詰めたりしたり、そして呼吸はとめられたり、血管は収縮したり、心臓はどきどきと早く打ったり、感情によってそのありようを変化させる。

 心理学は心に従ったこのような身体の感情変化のメカニズムを教えようとしないし、医学のほうでもとりあつかおうとしない。われわれは自分の身体のことをまるで知らない。そして緊張は継続したままになり、血管は酸素や疲労物質を送り届けられなくなり、蓄積した疲労はしまいには症状や病気となって本人を打ちのめす。せめて自分の身体のメカニズムを知っていたらと思っても後の祭りだ。

 われわれが自分の身体のことをまるで知ろうとしないのは、たぶん医者がいるからだ。専門家が存在するためには、われわれは無知でいなければならない。自分の身体を専門家に分業してしまったために、自分の身体にまるで無知なままで過ごさなければならなくなった。そして病気になって医者にあわてて駆け込んで、ごっそりとその部分を切りとられる。

 われわれは自分の身体を知るべきだ。それも客観的な知識ではなくて、自分の身体から直接に感じられる身体感覚から知らなければならない。言葉や図としての身体ではなく、自分の身体感覚としての知である。

 自分が怒っているとき、悲しんでいるとき、身体はどうなっており、内臓はどのような感覚になり、それはどのようなメカニズムでなっており、自分の身体からどのようにすれば、それを癒したり、治めたりすることができるのかということがわかるようにならなければならないと思う。

 そういう身体や内臓感覚から自分の身体メカニズムを理解できるようになれば、われわれはもっと賢明な身体や心のとりあつかいかたを行えるようになるのだろう。



■020611断想集




  緊張に自分で気づけない、自分で解けない     02/6/11.


 われわれはふだんいろいろなときに筋肉を緊張させている。しかしあがるようなときの緊張は明確に意識できるが、ふだんの緊張はほぼ気づかない。そして緊張の継続はのちにこりや痛みになってはじめて自分に気づかれる。

 気づかない上にさらに緊張を自分で解けない。コチコチに固まってしまった筋肉を自分から力を抜く方法を知らない。コントロールできないからだの緊張は私たちに問題や悩みをもたらす。

 怒りや恐れ、不安、悲しみなどの感情は、筋肉の緊張となってあらわれる。しかしわれわれが気づくのは怒りの内容であったり、恐れの気持ちであったり、心だけであって、筋肉の緊張ではない。

 われわれは怒りや恐れの元となった他人や出来事は注目し、変えようとするが、筋肉の緊張には気づかず、またそれを解こうとも、ゆるめようともしない。身体感覚の着目がまったくない。

 コントロールすべきものは外部の他人や出来事ではなく、自分の心であり、筋肉の緊張ではないだろうか。外部を変えようと努力する者は、心も制御できず、そして緊張の継続を解くこともできない。そしてかれは外部の「犠牲者」ではなく、心と筋肉の「犠牲者」となる。

 精神的な問題と思われているもののいくらかは、この緊張のノン・コントロール状態からもたらされているのではないかと私は思う。心の問題ではなくて、身体の、筋肉の緊張が問題だったのではないかと思う。私たちはあまりにも身体を無視し、そしてコントロールできない。身体機能の荒波に翻弄されるのみである。

 筋肉のこりや痛み、緊張は同じ姿勢や歪んだ姿勢からもたられることもたしかにあるが、精神的な緊張から来る場合も多いのではないかと思う。ストレスがもたらされると私たちは体を守ろうとして、筋肉の緊張を鎧にする。大昔に外敵や獣から守ろうとした名残りである。この緊張は一瞬で終わるが、私たちの緊張は過去と未来を想像する能力のために長時間つづく。筋肉の鎧はいっときも脱がれることがないのである。

 継続した緊張は血管を収縮させ、酸素やエネルギーの運搬をとどこおらせ、疲労物質の排出もおこなわれず、それゆえに身体の病気や精神の問題をもひきおこす。

 われわれの自分を守ろうとする筋肉の緊張が、われわれ自らを追い込むのである。ではわれわれは緊張を弛緩させることができるかといったら、まったく自分でもできない。さらに自分の身体感覚すら気づかないありさまだ。自分を守ろうとした身体はどんどん暴走して自分を蝕んでゆくのである。

 身体のコントロール能力を手に入れるべきであることはいうまでもない。筋肉が緊張していることも気づかないのなら、緊張と弛緩の格差を自分でたしかめるほかない。そして緊張のリラックス法も自分のものにしなければならない。現代人は上半身に力を入れることが多いが、これには問題が多く、力が必要なときは下腹部に力をこめるほうがよいようである。

 身体のはたらきを知らない者は身体の犠牲者となる。われわれはあまりにも身体のコントロール能力がなく、また身体を無視しすぎではないだろうか。






  なぜ感情の身体変化に気づかない?    02/6/15.


 怒りや悲しみを感じたとき、身体の中がどのようになっているのか、われわれは知らない。怒りや悲しみの感情は感じられる。しかし身体の変化はわからない。

 頭にかーっと血がのぼったり、心臓がどきどき鳴ったり、胃が痛くなったり、足が震えたりするのはわかる。だが、筋肉の緊張にはなかなか気づけないだろうし、どこが緊張しているのもなおさらわからないだろうし、心臓がどうなっているのか、血流がどうなっているのかも知らない。

 われわれは怒るとき、背中を立てて腕に力を入れているし、悲しいときには胸を緊張させ息が苦しくなるし、不安なときは腹の筋肉を緊張させ、胃腸を痛めたりする。

 このような身体内の変化にわれわれはまったく気づいていない。怒りや悲しみの感情は気づくにせよ、身体内の変化にはまったく気づいていない。そして感情の原因となった外部の人や出来事を変えようとして、そのあいだ、ずっとその身体状態を維持しつづける。そしてそれは障害や病気に結びつく。

 怒りや恐れを感じたときの身体反応というのは、原始時代の獣や外敵と闘うときの反応そのものである。だから体を守ろうとして胸や腹の筋肉は固められるし、内臓のはたらきは鈍り、血管は出血にそなえて収縮し、血液は筋肉に送りとどけけられる。生か死かの極限状態だ。こんな状態を長く維持しつづけることが体にどんな大きな負担をかけるか想像にかたくないというものだ。

 しかもわれわれはこのような身体変化に気づかない。自分のささいな感情のもつれが生か死かの身体反応をおこしているなど気づかない。ほんとうの戦闘−逃走状態なら体を気遣うことは危機であるが、現代ではまったくそうではない。

 われわれはささいな感情においても獣に襲われるかのような身体反応を起こしてしまうのである。しかも身体反応に気づかないようにできている。そうして長時間のストレスのあとには筋肉の痛みやこり、病気となって現れるのである。

 われわれは改めて感情によって起こる身体の変化を把握するべきだと思う。怒りや恐れのとき、自分の身体はどのようになっているのか気づくべきだ。われわれはたいそう大げさな生体反応を起こしているのである。

 そのようなメカニズムを把握したうえで、上半身に力が入っているのならそれを緩めるとか、下半身に力を入れることによって上半身の力を抜くようにしたり、胸や首、肩などの筋肉のストレッチをおこなうのが賢明だと思う。

 腹式呼吸や深呼吸によって身体を落ち着けるのもいいし、指や足指の伸縮運動によって血のめぐりをよくするのもいいし、犬や猫がよくやるように体をのばしたり、あくびをしたりするのもいいだろう。

 われわれは原始時代の獣ではない。もはや生死を賭ける弱肉強食の時代にいるのではない。そのような時代にいぜん生きる身体反応を、理性の力によってコントロールすべきなのである。

 でも感情の身体変化に気づかないわれわれの大半は、いぜん原始時代の反応のまま生きているといわざるをえない。オフィスで電車の中で、死にもの狂いの原始的闘争をおこなっているのである。





 02/6/17コラム


 ■100円ショップで、今までの価格は何だったのか?

 100円ショップで生活必需品まで買える。くつ下が千円十足で買えるのはたいへんありがたい。シャンプーや歯磨き粉まで買えるし、1リットルジュースや食品、文房具、食器、お菓子も100円で買える。Tシャツとかジーンズが100円で買えるようになったら、ほかの店で買う気なんか起こらないだろうな。

 いままでの価格は何だったんだ、と思わずにはいられない。中国や東南アジアの輸入品と思うが、いちどこの価格を知ってしまうと、スーパーやコンビニですら買い物するのがもったいなく感じられる。でもまだまだすぐ近くにあるというわけではないので、いつもは買いに行けないけど。

 日本は金持ち国家になったのだから円高差益で安い買い物ができるようになるのはとうぜんなのだが、生活必需品がここまで安くなるとは驚きである。遅すぎるし、急激すぎる。生活するのにほとんどお金がかからなくなる。

 メーカーは超安売り国ととうぜん太刀打ちできないし、業種は後進国と同じことはできないし、庶民は安くなる生活費に高密度の勤労意欲を保ちつづけることができるのだろうか。いろいろなところで日本人の分岐点がやってきたという感がする。


 ■ワールドカップと暴動

 たかがサッカーの勝ち負けで国じゅうが大盛り上がりになっているが、日本はしばらく国民的熱狂というものがなかった。バブルのとき以来かもしれない。

 国民的一体感というのはたいそう人を熱狂させるものらしい。世界じゅうではサッカーの勝ち負けによって暴動を起こしたりする。人は大勢の人や国民という単位によって一体感に狂気乱舞したいみたいである。

 近代の理性ある人たちはこういう群集行動を自我をなくしたものとしてたいそう毛嫌いしてきた。心理学者も哲学者も理性の欠如を嘆く。私も熱狂的一体感には距離をおきたい。

 しかしたとえば現在のような経済的・社会的行き詰まりが逼迫するなかで、個人はその重責感や苦悩をひとりで解放できるだろうか。集団の中で苦痛を解放したいという気持ちが噴出してもおかしくない。

 江戸時代は約70年ごとに全国の人々がいっせいに伊勢参りに集まったそうである。社会の閉塞感がピークに達するころにそれは起こってきたそうだ。現在のワールドカップは平成の閉塞感のうえに起こっており、状況はよく似ているといえる。社会はどうしようもなくどん詰まりなのである。

 世界のなかでは祭りによって文明のガス抜きがおこなわれるところがある。社会というのはそういうガス抜きがなければ、耐えられなくなるみたいである。

 日本にはあまり国民的熱狂を誘うようなガス抜きがない。たまりにたまった欲求不満はとんでもない隘路をみいだすかもしれない。その前に小出しのガス抜きをみいだしたほうが賢明だと思うが。


 ■騒音の基準

 初夏になると、私の住むマンション密集地帯の人々が窓を開けるようになって、恒例の隣家の騒音に悩む時期がやってくる。私の部屋のすぐ隣はマンションで、とにかく他人の部屋の音が丸聞こえになる。

 他人の部屋の笑い声や話し声が丸聞こえになるのは、あまり快いものではない。のぞき聞きしているみたいで、心が落ち着かないのである。

 Hのアノ声が聞こえるのは色々研究できてためになるから悪くないが(?)、朝までつづく笑い声や大きな話し声はほんとうに腹がたつ。眠れない。自衛策としていつもヘッドフォンをして眠ることになる。

 ほんとう、どこまでガマンすべきなのかわからない。どこからが苦情をいうべきなのかわからない。眠れなくなって腹がたって穏和な私でも壁をたたいて穴が開いたこともある。

 いぜんの上の部屋の住人の朝までつづく笑い声にしびれを切らして大家さんに苦情の手紙を出したこともある。ほかに隣のマンションの女性に上の階の騒音に相談をうけたこともある。でもなぜか直接にはいえなくなるんだな。ポストに苦情の手紙を入れようとしたこともあるが、気が引けるのだ。

 騒音の基準というのはいったいどこに引けるんだろうか。対処策としてどうすればいちばんいいのだろうか。クーラーがつくまでの期間だけだが、きのうは上の部屋のカップルの声で眠れなかった。騒いでいるわけではなかったのだが、丸聞こえだった。これは私がガマンすべきレベルなのだろうか。耳が痛くならないヘッドフォンを買うべきなのか。坐禅して動じなくなるべきなのか。






  <いま・ここ>の瞬間の拒否      2002/6/20.


 自分のおかれている環境を拒否する人は多いと思う。会社や学校、家庭などが自分にはふさわしくないと思う。なんとかその環境から逃れたいといつも思っている。

 環境の拒否というのは、おそらく自分の感情の否認もつながると思う。怒りや悲しみをすぐに悪いものとして排斥しようとする心だ。これは人に見られたくないとか、道徳的によくないとかの思いから起こると思う。

 しかし感情の拒否は失敗する。なぜなら起こった感情を拒否するとぎゃくにそれは強まるからだ。感情のアクセルは踏まれてしまったのだから、それを止めようとして、ほかの感情のアクセルをまたもや踏みこんでしまう。最初の感情はしぜんに収まるまで待つしかないのだが。

 われわれはカン違いする、ある感情はほかの感情で抑えることができると。しかしそれは別系統の感情を発動させたにすぎない。抑える感情は、押さえつけ、食いしばる筋肉を発動させるだけである。ひとつの体にふたりの人間が別々に指示を出しているようなものだ。

 ヒュームは自分の中に「私」を探しても、感情や感覚しか見つからないといっている。つまり感情を抑えつけたり、コントロールする「もうひとりの私」などいないということだ。私たちはこうして「私」というもうひとりの存在を生み出してしまう。この架空の存在を生み出してしまうのは、感情の拒否である。

 この感情の拒否は、容易に現実の拒否につながる。<いま・ここ>の拒否である。終わった瞬間瞬間を流せない。過去を流せない。終わった瞬間瞬間にいちいちつまづく。過去の記憶や想念にせきとめられるのである。

 われわれは瞬間への抵抗をおこなう。瞬間を受け入れられないのである。流せない過去は思考となって、われわれを流れる時間からせきとめる。こうしてわれわれはいっときも<いま・ここ>の瞬間を生きることができないし、現実の拒否をおこないつづけるのである。

 思考とは現在の拒否である。流れる時間の拒否である。なぜわれわれはいまの瞬間を受け入れられないのだろうか。おそらくわれわれはいろんなことへの拒否を義務づけられているからだろう。マイナス感情の拒絶、劣位の環境の否認、そして行動への非難、あるがままであることの批判がさまざまな人から投げかけられる。しまいには自ら全世界への拒否を背負うようになるというわけだ。

 われわれはいっときもこの世界を受け入れてはならないのである。さもないと進歩も発展も向上も認められないからだ。そのかわりにわれわれは自己否認や瞬間の拒否という十字架を背負うことになった。

 現実否認の結果に苦しんだ人だけがおそらく現実受容の大切さに気づくことができるようになるのだろう。自分を責め、環境を憎み、家族を否認した人がどんな結果になるかは想像に難くない。現実をありのままに受け入れられるようになるのは、自分のさまざまな拒否の瞬間に気づいたときだろう。

 そのときにはすべての瞬間を受け入れ、後悔も悔恨も、恐れも悲しみもない、流れる瞬間に身をゆだねることができるのだろう。


■020627断想集
精神活動としての筋肉





  内臓は身体から鍛えられる?     2002/6/27.


 『内臓を強くするスポーツトレーニング』(監修野沢秀雄/成美堂出版)という本がある。えっ?、内臓がトレーニングで鍛えられるのかと思うが、内臓は外部からの刺激でも活発になるみたいである。

 たとえば胃を鍛えたいと思えば、そのまわりの筋肉を鍛えたり、刺激を与えたりすると、血のめぐりがよくなったり、活発になる。

 内臓は身体の外側ともつながっており、筋肉への刺激は内臓の刺激にもなる。あるいは外側の筋肉は即内臓の筋肉ともいっていいみたいである。だから内臓をよくしたいと思えば、外側から刺激を与えればいいのである。

 胃を鍛えたいと思ったら、肩甲骨をくっつけるようにしたり、胸をそらせて胃袋に血液を送ったり、ストレスで収縮した血管をゆるめるために手でみぞおちを押したり、胃の痛みがあらわれる背中のコリをほぐしたりする。

 腸が弱い人は多いと思うが、ここを鍛えるためには腹筋を強めたらいいわけだ。ひねりながら上体おこしをしたり、腹痛のところをさすったり、ほぐしたり、背筋と腹筋、下腹部を鍛えて血行をよくしたらいいそうである。

 心臓を強くするには心拍数のあがる運動をしたり、大胸筋を鍛えたり、全身の血管がつまっていたら話にならないので血流がよくなるトレーニングが必要なようである。

 肺は大胸筋を広げたり、広背筋や背筋を鍛えるのがいいみたいである。肝臓は肋骨の下あたりをストレッチする。

 ストレスには手を組んで背伸びしたり、そのまま横に倒したり、前に倒したりしたらいい。筋肉がこわばっているから伸ばしてやり、血行をよくするのである。

 いらいらしたら、頭にのぼった血を降ろすために足指の屈伸をする。血液の流れというのは全身にとってひじょうに大切みたいである。不調なところには刺激を与え、血行をよくし、集まり過ぎれば分散してやり、また関節や筋肉を伸ばしてやることによって血行をよくする。外部からの刺激によっても血液の流れを変えることができるのである。

 私は身体に無知だったため、体の不調の理由やメカニズムもわからなかったし、身体活動にほんろうされることも多かったし、手のつけようもなかった。しかし身体のメカニズムを知ることにより、自分の体は自分の意志や外からの刺激やトレーニングによっていくらかはコントロールできることを知った。「身体の犠牲者」からようやく解放されるかもしれない。







   病気とは心の象徴である      2002/6/27.


 倫理研究所というところが出している『心とからだの健康学入門』(新世書房)という本がある。鮮やかなまでに病気と心の関係を切り開いていて、私は思わず名著だと唸ってしまったのだが、医学書は心身因果関係をはっきりとはとりあつかっていないみたいなので、まあ過信と盲信は慎もう。要諦を簡略にしめそう。

 胆石というのは真面目で正義漢であるため、怒りや不満をため、許せず、石のように頑固な人そのままに石をためてしまうそうである。

 胃潰瘍というのは自分中心で不足不満の心があり、わがままで、精神的消化不良の性質がそのまま胃にあらわれるそうだ。

 糖尿病はひどくなると身体が動かせなくなるみたいだが、自分から動こうとしないのに意のままにしたがる人が象徴的になるみたいである。

 腎臓病は尿が出ず、出るときは必要な蛋白質まで出してしまうが、言いたいことを言えず、心に余分なものを溜め、しまいに爆発する人がなるそうである。

 痔疾はなりゆきに任せられない人が肛門や直腸を収縮させることから起こるということだ。肺結核は胸を閉ざした人がなる。周囲を責め、嫌い、排斥する心の狭さがあらわれる病気だ。

 喘息は人を拒絶する心が気管支を収縮させる。関節リウマチは強情で堅くて他人と強調できない心が関節の痛みとなってあらわれる。

 腰痛はプレッシャーや期待の重圧に押しつぶされた姿、脳卒中はがんばり屋で人に任せられず不信になる人が、怒りで血を頭にのぼらせ、血管を破る。冠状動脈硬化は生命線の硬化であり、つまり親という生命線の断絶があらわれたのだという。低血圧はそのまま低エネルギーな人のあらわれ。

 近視は苦しいことを見たくない、見られたくないという心の象徴である。見えなくなることは心の防衛反応である。生きる空間が狭小化された人がなる。

 ガンはそれぞれ疎外感や社会的断絶を感じている人、怒りや攻撃心を抑圧し、過剰適応した人、勝ち気で負けん気が強く、頼れない人がなるそうである。子宮ガンになる人は性的嫌悪や女性嫌悪があるみたいである。

 神経症は親の愛を感じなかったり、拒否する人がなる。それは与えられた環境を拒否する心につながる。

 なるほどと思う。心のありようがそのまま身体にあらわれ、病気としてあらわれるのである。心と病気は並行しており、そのまま象徴しているといえる。ここまで性格と病気は相関しているのかと驚きである。

 健康になるためには親や人に感謝し、愛をそそぐこと、いつも心に何も残さず、思いもとどめないようにし、前向きな言葉を用い、人の長所と労をねぎらうことが必要だといっている。

 この本の中の自分の病気の原因となった性格の歪みを知り、心を改め、治癒してゆくエピソードは感動的である。病気やからだが不調になったときは、その原因となった自分の心の歪みを知れということである。






   今回のドラマ評 『天国への階段』ほか      2002/7/1.


 今回のドラマの中では『天国への階段』がいちばんよかった。北海道の農場を奪われた父のための復讐という、いまごろ何故こんなドラマがという時代がかった設定だったが、ドライで非情な男たちの行動が、ハードボイルド風でかっこよく、ゆいいつオトナ向けのドラマだと感銘した。

 このドラマは父と彼女を奪った政治家にたいする憎悪と復讐に生きる佐藤浩一が主役なのだが、いちばん感動したシーンはかれを慕い、命まで忠誠を誓う加藤雅也が死を覚悟して、最期の別れにたばこを一服もらうシーンだった。涙がぼろぼろ出てきた。久しぶりに泣けたドラマだ。名作だと思った。ここがラストになったほうがよかったと思わなくはない。

 佐藤浩一は復讐を誓うさなかに自分が知らないうちにふたりの子どもをつくっており、そのうちのひとりの息子からは養父の殺害の怨みを買い、一方の娘からは愛されるという関係になっていた。また加藤雅也からは命を賭すまでの厚い信頼を寄せられていた。

 かれは復讐と憎悪に生きてきたが、実の息子からは自分と同じような復讐を誓われ、たくさんの人たちからは愛され、慕われていた。復讐を誓う男がじつの息子の復讐の対象になり、復讐に目がくらんでいたかれはたくさんの愛し慕う人たちの存在に気づかず、かれらを傷つけ、失うさまは圧巻であった。

 ラストシーンは南の島で佐藤浩一は笑いつづけていたが、かれは復讐を捨てることができたのだろう。憎悪と愛が複雑に絡み合い、巧妙にいりくんだ様はひじょうに感嘆させられたドラマだった。いいドラマだった。

 復讐と愛といえば、『眠れぬ夜を抱いて』も同じようなテーマをあつかっていたと思う。このドラマの場合は、家族がメインテーマになっていた。妻は、子どもは、家庭は、男の復讐心を愛で溶かせることができるかというテーマであったように思う。自分の家族がつくられた理由が、復讐を誓う家族に近づくための偽装であったかもしれないという疑惑は、見せかけの家族を装っているかもしれないわれわれに対する痛烈な批判であったのかもしれない。

 『夢のカリフォルニア』は社会に出ることのとまどいが描かれたドラマで、リストラ親父や職場のうっぷん、売れないモデル、リストラ彼氏、バックパッカーなど、身近な題材に共感を覚えた。でも主人公の性格どおり優柔不断のドラマだった。どうせ迷うならもっと反逆的なヒーローを創出してほしいと思うのだが、みんな穏やかで平和的で順応的に終わった。「この先いいことなんか何もない」と自殺した友人みたいに大きな光も希望も見えなく感じられたが。

 『First Love』は教師と生徒ゆえの実らない愛がメインだと思っていたのだが、どうも親に愛されない長女の恨みがメインであったのかな。まあ、ずるずると見つづけたが、あまり見ていても仕方がなかったのかもしれない。

 『空から降る一億の星』はキムタクに女心を操る神秘的な悪役をやらせたかっただけのドラマだったのかなと思う。あまり怖くもないし、魅力的でもなかった。むかしのつながりそうな殺人のナゾもひっぱりすぎだ。それにしても、エルビス・コステロって『She』以降ものすごくとろけそうな甘い唄を歌っているが、むかしからこんな甘かったけ。

 『ビッグマネー!』は冷酷無比な銀行マンの原田泰造の演技がスゴかったので、これだけに魅きつけられて見ていた。銀行はずいぶん悪役になっていたが、人間的な道徳心が経済に勝つなんてことは夢のまた夢ではないのかと思った。私たちだってつぶれそうな個人商店より、安売りチェーン店に駆け込むではないか。強者には道徳心を説くより、ノブリス・オブリージュ(高貴なるものの責務)と放蕩散財を説いたほうがいいかも。






   心臓の喜び、肺の悲しみ、肝臓の怒り    02/7/12.


 整体師の寺門琢己の『かわいいこころ』(メディアファクトリー)という本には、臓器によって異なる性格タイプが紹介されている。

 肝臓タイプは怒りが行動の原動力でシャープ、心臓タイプは喜びと行動派、肺臓タイプは悲しみとクール、脾臓は憂いと頭脳労働、腎臓は恐怖とスマート、といった具合である。

 臓器がなんで感情と結びつくのか、しかもなぜある感情を司るのかということがものすごく疑問だし、どうしてそんなことがわかるのかと思った。われわれの感情は果たしてそれらの臓器でほんとうに感じているのだろうか。

 これはもともと東洋医学の古典的な名著『黄帝内経』などで語られてきたようである。「喜は心を傷つける。怒は肝を傷つける。思は脾を傷つける。憂は肺を傷つける。恐は腎を傷つける」

 タイ出身のアメリカの気功指導者・謝明徳(マンタク・チァ)もいっている。「肝臓の怒り、心臓の憎悪・残酷・焦り、脾臓の悩み・不安、肺の悲しみと憂うつ、腎臓の恐れ」――津村喬『疲労回復の本』(同朋社)から引用。

 それにしてもなぜある臓器はある感情を司るのだろうか。心臓が喜びを司るというのは容易にわかる。ドキドキワクワクは心臓の鼓動によって感じられるものだ。喜びはたしかに心臓で感じられる。でも驚きも恐怖も心臓のどっきんどっきんという鼓動でも感じられるはずだ。分量の問題なのかな。

 肺は悲しみだ。呼吸を司る臓器がどうして悲しみと結びつくのだろうか。連想からかつての文学者たちは肺結核をわずらっていたことが思い浮かぶ。この連想なら納得だが、呼吸と悲しみの関係がどうも結びつかない。悲しみは息を少なくするということだろうか。

 肺臓タイプというのは肺を活発に使いたいタイプのようである。それが叶わないとき、息苦しさから悲しみに陥るそうである。悲しみに落ち込むとき人は首をうなだれ、肩をすぼめる。息苦しくなる。それで肺の障害をおこす。このタイプは心を閉ざす性格にぴったりである。

 肝臓は怒りと結びつくとされるが、肝臓というのはアルコールの解毒などをおこなう臓器である。なぜ肝臓が怒りなのかと思うが、肝臓は筋肉をコントロールするところでもあるらしい。怒りというのは筋肉でばりばりに固めるものである。この結びつきでなら納得できる。肝臓タイプは筋肉エネルギーを発散したいのである。

 脾臓が憂いと結びつくのはかなりわからない。そもそも脾臓の存在すら知らない。脾臓というのは血液やリンパ液のコントロールや胃や十二指腸のコントロールをおこなっている臓器だ。胃が関係しているといことで憂いとなんとなくつながりそうだし、失恋によって免疫であるリンパ球がどっと減ることからもつながっていそうだ。

 でも脾臓で憂いを感じることができるだろうか。そもそも脾臓ってどこにある? 脾臓は左肋骨の下あたりにあるみたいだ。こんなところで憂いを感じている? 

 腎臓は恐れである。腎臓は小便などの身体の水分調節を司っているが、どうして恐怖と結びつくのだろうか。人間は水分を枯渇すると死にいたるから恐怖と結びつくとされているが、空気も食物もなくなってしまえば死にいたる。肺や胃は恐怖と結びつかないのだろうかと思うが。まあ、体の全細胞には海から生まれたがゆえに水がとても重要であるということである。

 腎臓タイプは恐怖から知識を収集し、恐怖によって感情を発散させることを好むそうである。腎臓は脇腹のやや後ろ寄りに対にある。う〜ん、恐怖は脇腹でぞくぞく感じたいもの?





   精神活動としての筋肉      2002/7/16


 筋肉は運動のためにあると一般に思われているが、精神活動のためにあると考え直すべきである。筋肉を精神活動と思わないと、知らない間に筋肉の緊張は精神的不安定と病気をもたらすからだ。

 まったく筋肉の精神活動としての役割がすっぽりと忘れ去られている。筋肉による身体の感情というものがすっかりと抜け落ちている。おかげでわれわれは感情や身体のノン・コントロール状態に苦しまなければならないし、こりや痛みをほぐすマッサージ師に頼らなければならないし、さらには臓器異常をわずらって医師の厄介にならなければならない。

 筋肉というのはわれわれの心であり、感情であり、精神活動なのである。心理学の項目のひとつに筋肉をぜひとも入れてもらいたいものだ。筋肉とは精神である。

 こういうことにいちばんよく気づいているのは筋肉のこりや痛みをほぐす整体師やマッサージ師だろう。かれらは首や肩、胸や腹、背中や腰の緊張や痛みから、心の心配や不安、怒りなどを察することができる。それらはからだの各箇所の筋肉の緊張やこりとなってあらわれるのである。

 しかし整体やマッサージというのは事後処理である。本人が緊張をおこす瞬間の対処やゆるめ方を教えるわけではない。できれば、緊張を自らが防げる方法を知りたいものである。

 筋肉とはやっかいである。自分で筋肉を固めておきながら、自分でそれをゆるめることもできない。さらに筋肉の緊張はすでに自動化されており、瞬間的なものであり、それはすでにパターンやスタイルとして定着してしまっている。かつて自分がつくった緊張パターンは自分でほどくことも、ゆるめることもできないのである。

 精神活動としての筋肉はいくつかの役割があると思う。ひとつは純粋に感情を感じるための筋肉緊張である。怒りは肩や腕を、恐れや不安は胸や腹を、といった具合に筋肉を固める。この緊張の傾向がパターン化されると、その人の精神傾向すらパターン化してしまうことになる。同じ考えをぐるぐる回る場合というのはこういう筋肉の固形化があるのだろう。

 また筋肉の緊張は人との壁をつくるために用いられるときもあるだろうし、人や世界から守ろうとする城壁の役割も果たしたり、不都合な感情を抑えるときにも用いられる。たとえば人との壁は胸の緊張に集中し、城壁は首をすくめることによって果たされたり、不都合な感情はアゴで食いしばられたりする。こうして緊張はこりや痛みとなり、精神をひとつのパターンにはめこみ、さらには病気にいたる。

 われわれは無意識におこる筋肉の緊張を防ぐことができるのだろうか。そのためには自分の筋肉の緊張のパターンに気づく必要があるのだろう。われわれはからだのどこかの筋肉が緊張しているなどまるで知らないのだ。これでは制御することすら不可能だ。

 さらには緊張をゆるめたり、リラックスさせることもかなりむずかしい。せいぜい後処理としてストレッチや体操、ヨガができるくらいだ。緊張をその瞬間からゆるめるには、筋肉を弛緩させる心の平安や愛の感情に満たされる必要がある。といってもそんなことができないからこそ、われわれは筋肉を硬直させるのだが。

 まあ、われわれはストレスが集中する頭や胸などの上半身に意識をあわせるのではなく、なるべく心の安定をもたらすと思われる腹や足などの下半身に意識をもってくるのがよいようである。頭に意識を集中させるとやはり筋肉も緊張する。ときほぐすには焦点をずらす必要があるわけである。筋肉とはやっかいなものである。






    感情にまつわる筋肉のナゾ      2002/7/24.


 たいていの人は怒りや恐れなどの感情が起こるとき、体の筋肉が緊張していることに気がついていないと思う。気づいているのは整体師くらいで、本人はその緊張をコントロールすることも緩めることもできないし、緊張が過剰になると身体がコントロールできなくなったり、こりや痛み、さらには病気までひき起こすことも多くの人に気づかれていないと思う。

 そもそも感情を身体で起こるものとして捉えている人も少ない。感情を心の問題としてのみ捉え、身体の問題として捉えることもない。感情が身体にどのような状態をもたらしているのかと問う医者や心理学者もひじょうに少ない。身体感情の延長が病気とも考えられるのにである。これはいったいどうしたことかと思う。

 筋肉の存在が人々の視野からすっかり抜け落ちている。筋肉というのは運動を司るだけではなく、感情も司っていると知るべきだ。運動のための筋肉だけではなく、「感情筋」という存在を認めてもいいと思うくらいだ。

 感情筋というのはほとんど随意筋ではなく、不随意筋だ。怒れば肩や背の筋肉が立つし、不安や恐れは胸や腹の筋肉を固めるし、さらに恐怖には背筋をぞーっと立てるし、頭皮の筋肉もきゅっと縮められることもある。われわれはたまに気づいているのだが、なぜかその知識を集めてなにかに役立てようとしない。

 この筋肉がやっかいなところは、自分の知らないところで勝手に緊張し、その緊張状態が長くつづくと、運動で疲労した筋肉と同じくこりや痛みをもたらすし、緊張はひとりでに緩まることもなく持続し、しまいには血液やリンパ液の滞留をもたらし、その箇所が病気になると思われるのだ。

 つまりストレスが解かれないということだ。ストレスというのは感情筋の緊張と継続といってもいいのだろうか。解かれない筋肉の緊張は身体不調の原因となり、さらには器官性の病気になったりする。われわれはこの感情筋のストレッチや弛緩法を自分のものにできないものだろうか。あるいは運動系のストレッチでそれはとき解すことができるのだろうか。

 感情筋が緊張するのは身体の防御のためである。怒りや恐れは自分の体を筋肉の鎧で守ろうとする反応である。だからこういう感情の反応をよくする人は感情筋の緊張を継続しがちだ。それは血液やリンパ液の滞留をもたらし、内臓のはたらきを低下させ、病気になる。敵から守ろうとした身体は内部から力尽きてゆくのである。

 だからわれわれは筋肉の鎧をもたらすような心理反応はすべきではなく、つまり筋肉の弛緩をもたらすような世界や他人への信頼や愛、喜びが必要になると思われるのだが、それが叶わないのなら、せめて感情筋の緊張の不要さを知り、リラックスと弛緩のほうが力をもたらすことを知るべきである。現代社会に緊張の鎧はまず必要ないのである。緊張に気づいたのなら、なるべく筋肉を弛緩するに越したことはない。

 われわれは現代社会において原始人のような筋肉の鎧を用いているのである。不快な感情というのはおそらく体のどこかの緊張を招いているはずだ。たとえば首であったり、アゴであったり、肩や背中、腹であったりする。だからわれわれは緊張を解いたり、リラックスしたり、弛緩したりするテクニックを身につけておくべきだろう。さもないと休息したり睡眠したりしない身体は、疲労を蓄積してゆく一方なのである。

 それにしても、どうして感情にまつわる筋肉の存在は無視されつづけてきたのだろう。ちょうど医学と心理学の谷間のエア・ポケットだったからだろうか。みなさんは感情の身体変化にどれだけ気づいていましたか?



■020725断想集





   落伍者のポジティヴな意味を掘り起こせ      2002/7/25.


 われわれの社会は強迫的な至上主義に追われがちである。労働至上主義とか恋愛至上主義とか、友だち至上主義とか、暗黙に支配するものから落ちこぼれることを強迫的に怖れる。

 みんな怖れるから至上主義に暗黙に従うのだが、やはりどこかに不本意な気持ちがないわけではない。落伍者になるのが恐いから落ちそうな他人を叩き、ずり落ちないように必死に至上価値にしがみつく。でも強迫的な至上主義はどこかおかしいと思っている。それでも落伍者のレッテルを貼られるのが怖いから降りられない。

 学歴の至上主義には不登校児や中退者があふれ、労働の至上主義には無職者やフリーターが増加し、恋愛や友だちの至上主義には孤独な怖れがつきまとう。

 落ちこぼれはじめた者はさいしょのころは病的なレッテルを貼られ、問題視され、なんとか「正常」に復帰するように励まされる。しかしそのような脱落者はじつのところ、至上主義の問題を敏感に感じとっているのではないだろうか。至上主義の意味の喪失や意味のなさを鋭敏にキャッチした結果、かれらは脱落してゆくのである。

 いわば至上主義の反動であり、至上価値への疑問符をつきつけているのである。学歴信仰にしても学校教育の知識の必要性はあまり感じられないし、労働信仰にしても物質的豊かさにあふれたいま、強迫的に働く意味もとうに失われているし、恋愛や友だちの至上主義にしても群れることの弱さや卑小さも露呈している。脱落者はそのシグナルなわけだ。

 しかし至上価値は容易には止まらない。強迫的な価値観というのは暴走列車みたいに止めることができない。みんなは暗黙に強迫的に従ってきたものだから、つまり無意識に従ってきたものだから、意識的に止めることができない。強迫神経症みたいなものだ。強迫的な盲従者はいつ止まることができるのだろうか?

 私がとくに問題にしたいのは、強迫的な労働至上主義だ。戦後の日本社会は労働や経済を神や信仰のように強迫的に祭りあげてしまって、「生産マシーン国家」と揶揄されても、それを止めることも、ゆるめることもできなくなってしまった。働くばかりではなんのために生きているのか、まったくわからなくなる。それでも強迫者は止まることができないのである。

 至上価値にはポジティヴな落伍宣言が効力を発するのだろうか。労働至上主義には無職やフリーターを自ら選択したり、恋愛・友だち至上主義には孤独の効用や意味を高々と掲げたり、といったように至上価値の相対化を図るわけである。落ちこぼれを誇ったり、優越感にひたったり、競争者をバカにできれば至上価値は薄らぐ。しかし自爆テロや殉死者的な面もないわけではないが。

 労働至上主義にはみずからが「だめ連」と名乗る人たちが現われたり、恋愛至上主義には小谷野敦が『もてない男』という本を出して話題になったし、友だち至上主義には諸富祥彦が『孤独になるためのレッスン』といういい本を出している。落伍することのポジティヴな面を強調しているわけである。

 こういう落伍することの相対化という方法は仏教や老荘が古くから行なってきた方法である。人々の競争的な価値観から脱け出し、傍観し、あざ笑うわけである。いまは価値一元化の時代でそういう人々や団体がいないのがひじょうに残念であり、不幸なことであると思う。

 社会は落伍者の社会への復帰を願うばかりではなく、落伍者のポジティヴな意味合いを見つけるべきなのである。かれらは強迫的な競争に対する警告者であり、相対的な視点の持ち主である。ヒート・アップした無意味な競争の傍観者である。

 かれらの視点を社会が共有したとき、強迫的な競争は正常値にもどることができるのかもしれない。社会のホメオスタシス機能といっていいかもしれない。現代の病者が異常に繁殖した社会は正常値にもどることができるのだろうか。自らの競争の異常さにどうやったら気づき、そして正常さに戻ろうと努力するようになるのだろうか。落伍者がゆったりと自然にふるまえるような正常な社会に戻るべきなのである。






   エゴを落とすということ    2002/8/1.


 エゴを落せば人生はたいそうラクになるし、神秘家は世界との一体感を感じられるというが、たいがいの人は死にもの狂いでエゴにしがみつく。

 エゴを捨てれば自分が自分でなくなると思っているし、プライドや自尊心がそれを許さないし、世間も考えるエゴをもてと推奨するし、羞恥心も手伝って、人はぜったいにエゴを手放さない。

 でもそういうエゴというのは単なる「いつわり」の自分にしか過ぎない。世間からよく思われたり、人からよく思われたりするためのいつわりの仮面にしか過ぎない。人はそういう世間体や対社会的な関係からタブーをつくりだし、自分をぐるぐるに縛りつける。守ろうとしているのはニセの自分なのにである。

 いつわりの自分を守ろうとして、人生は悲哀や恐怖に満ちることになる。それらをつくりだしたのはいつわりのエゴである。このからくりがわからないために、「よい自分」や「世間に認められる自分」を演じることが正しいと思いこんで、ニセの自分に意地でもしがみつこうとする。

 「考える自分」を手放せないのである。「考える自分」というのは思考がつくりだしたニセモノの「よき自分」にしか過ぎない。ニセモノを演じつづけることで人生は苦痛に満ちたものになる。

 エゴはさまざまな場面に顔を出す。過去や未来の自分に思いを馳せているときはエゴの仕業であるし、プライドや自尊心を守ろうとしてるとき、その裏返しである劣等感にさいなまされているとき、他人への見栄や世間体を気にするときもエゴが働いている。頭の中でイメージの自分を守ろうとしているとき、エゴはいちばん働く。

 われわれはこのようなエゴを落せるだろうか。もちろん落せない。そのために人生は苦痛や悲哀に満ちたものになる。それらを落としたとき、逆説的に心は平安になるということに気づかないし、知らないことだろう。

 心の中でエゴを大切に養い育てることがいまの社会の理想だからだ。滅私奉公や無私の献身による歴史の強烈な反省と悔恨があるからだ。意地でもエゴにしがみつく素地はここにある。

 私も滅私奉公はたいそう嫌いだったから、エゴを必死に守ろうとしてきたが、それはどちらかというと、苦痛と悲哀のほうが大きかったように思う。エゴや思考を捨てることの中に安楽があることを知るようになってだいぶラクになれた。こっちのほうが正解だと思う。

 ただ歴史のあやまちについてだが、これも逆説的に無我だったからではなく、エゴがあるがゆえのあやまちだったと考えられないだろうか。当時の多くの人がエゴを捨てて無我になり、悟れたとはとても考えられない。

 プライドや世間体というエゴのためにかれらは滅私奉公につきすすんだのではないかと思えないだろうか。エゴを捨てるということは、集団や国家などの観念や概念、権威や権力の欲求も捨てるということだからだ。

 エゴを落すということは心が解放されてゆくことである。社会や自分によって条件づけられた心を捨ててゆくことである。われわれはこの条件づけされた心によってがんじがらめにされる。それを落していったとき、心はほんとうの自由を手に入れられるのだと思う。瞑想で心を滅却していったところに、社会からつけられた心のヨゴレがとれてゆくのである。







    心身医学はどこにいったんだろう?    2002/8/2.


 「病は気から」というのはだれでも実感としてわかるものだと思う。あるいは心の不調はからだに現れるということも知っていると思う。それなのに現代の医学は心理的要素をほとんど無視している。医学にとって心は迷信にすぎないのだろう。タテマエが乖離しすぎではないかと思う。

 私は心理学の本はよく読んできたが、身体への関心がまるでなかった反省から、感情の身体への影響という点を探ろうとしたのだが、こういう本は驚くほど少ない。心理学は身体感情についてほとんど語らないし、医学はほとんど物質作用しか興味がないみたいだ。

 このあいだを埋める学問が心身症などをあつかう心身医学であるが、あまり注目を集めていないようだ。かつては精神分析が病気の象徴的意味を探っていたらしいが、そういう研究はいまはほとんど本で見かけることはないし、どちらかというとご法度のようだ。

 私はそういう病気の心理的意味ということにたいへん興味があるし、それは身体の心理的関心をひきだす良い契機になると思うのだが、科学的医学はそういう解釈は迷信や迷妄だとしてひじょうに嫌っているようだ。身体医学に心理学は踏み込めないのである。

 ただ現在はひじょうに心理学が盛んな時代である。人々の関心は身体の病気より心の病気のほうにひきつけられている。私も出来事や物事に心理的解釈をほどこすのがたいへん好きだ。経済や政治も心理的要素で見てしまう。しまいには田んぼのかかしにも人間の心を見てしまいそうだ。そういう人間が身体に心理的要素を探し出すのはとうぜんのことだろう。

 科学は目に見える物質しか相手にしないし、哲学や心理学は目に見えない心をあつかうところに、こんにちのエア・ポケットがあるのだろう。医学は哲学のように非科学的になってはならないのである。身体に心理学を導入することは非科学的で、歴史的な宗教と同様な迷妄なのである。

 私としてはものすごく残念だ。病気というのは心のありようや性格がもたらすものだという感が強いし、もしその相関関係がわかれば、病気をもたらすような心の持ち方を私は是正しようとするだろう。その情報さえ、いまはバカ正直な科学的態度のために手に入れにくいのである。

 たしかに身体疾病になんでも心理的要素のレッテルが貼られると、人々はそれを隠したり、否定したりするだろうし、精神主義的な修養を押しつけられたりしたらたまらないだろう。器官異常と診断された方がどんなにラクかわからないというものだ。また物質主義に徹した方が確実に進歩するジャンルがあるのもたしかだ。

 しかしそれよりも身体に感情的要素をまったく認められない認識のありかたのほうが問題と思う。身体というのは私の感情であり、情動ではあるはずだ。その関係を認識できないようでは、われわれは身体の無知のために器官性異常に容易に落ちやすくなるだろうし、自らの身体のコントロールもまったく不可能のままに陥るだろう。

 予防医学のためには身体は心理化すべきなんだと私は思う。身体を物資視しているだけでは、個人は自らの身体疾患を予防できない。医者に体を切り刻まれるまで、手がつけられなくなる。迷妄であったとしても、身体は心理化されるべきなんだろう。

 身体を物質作用のみだと見なしているようでは身体への愛着や興味はなかなか芽生えない。心や感情だと見なすようになれば、身体はわれわれにより身近に親しみやすいものになるものだと思う。病気との心理学的関わり、あるいは心の身体への関わりというものを私は知りたいと思う。






  恋愛と労働の至上主義はどのようにつくられたのか?      020/8/6.


 いまの世の中には「恋愛しなければ若者じゃない」とか「朝から晩まで働かないと大人ではない」といった強迫めいた観念が支配している。そういった価値観の高騰を至上主義という。

 みんなそこからずり落ちないように必死にがんばるのだが、その異常さにはどうも気づかないようだ。そこからずり降ちたら劣等感を感じたり、非難されたりして、人間「以下」の屈辱や恐怖を味わわなければならない。至上主義からはだれも降りられないし、だれも止められないのである。

 至上主義というのはいったいだれがつくりだし、だれがプロパガンダし、だれが協賛し、だれが広告・販売・宣伝し、だれが購買・消費し、口コミで広げ、だれが恐怖を煽り、だれがトクするのだろうか。強迫めいた「人間」のレベルはだれが底上げするのだろう。

 たとえば恋愛の至上主義はいったいいつから始まったのだろう? いまは若者向けの音楽にしろ、映画にしろ、マンガにしろ、TV番組にしろ、恋愛だらけである。だれも異常と思わないし、とうぜんのように受け入れている。このような状況はいつから始まったのだろうか。

 戦後の恋愛婚が見合い婚を抜いたときから始まり出したのだろうか。それ以前は恋愛のために結婚するのではなく、家のために結婚していたし、それが常識だった。恋愛が過剰に生産され、消費され、「人間の条件」になったのは比較的最近のことだと思う。恋愛が強迫的になりだしたのはバブリー期以降のことではないのか。

 至上主義が強烈に広まるのはおそらくTVの影響があるのだろう。情報をすぐに一元化・集約化してしまって、過剰にそれをプロパガンダする。一挙に広まるそれからだれも逃れられない。価値観の一元化だ。その一面の上で過剰な競争がくりひろげられ、「人間であること」のレベルも一挙にひきあげられる。至上価値のヒートアップには落ちこぼれる恐怖がつきものである。恐怖からの逃走がある。

 恋愛が過剰になったのは男が働き、女が家を守るといった男女役割があるからだろう。女は自立しては生きていけない。男という経済力に必死にすがるよりないだろう。恋愛の至上主義というのは食っていけなくなる恐怖が根底にあるのだろう。

 労働の至上主義はいつ、どのように始まったのだろうか。国民や民衆はこんにちのような働き過ぎの社会、過密労働社会をはじめから望んでいたのだろうか。労働に多くの希望や人生を託すような人生観は、労働者みずからがつくりだし、望み、受け入れていったのだろうか。

 私には国家の強制力が生み出したとしか思いようがない。政官財のトライアングルが国民をそのように駆り立てたのだ。政府は労働条件を厳しいものにすえおき、一方では健康保険や老後保障のアメを与え、女性の社会進出を抑え、家計の責任を男ひとりに背負わせれば、男は過剰に働かざるをえなくなる。

 男を経済の奴隷に追い込んだのである。男は労働至上主義に疑問を感じるより、仕方なく責任とプライドをもち、女性の独占権を手に入れ、過剰に賛同するようになるだろう。

 しかしこれがうまくいったのは高度成長期とバブル期までだろう。右肩上がりと成長確実の時代までだ。豊かさを感じて育ってきた若者には利益より損失のほうが大きい。男はあまり働きたくないと思っているし、女は家庭に閉じ込められるのはいやだと思っている。

 しかし現在でも恋愛の至上主義は加熱する一方だし、労働の至上主義は一向に是正される兆しはない。システムはなかなか変わらないということだろうか。男女平等になったといってもあいかわらず社会の男女役割のしくみは根強い。もしこの性別役割が是正されるようになれば、人々を苦しめてきた恋愛と労働の至上主義は終焉に向かうようになるのだろうか。これらの至上主義はジェンダーのあだ花だったのだろうか。

 男女の役割に疑問がさしはさまれるとき、ようやく労働の至上主義は終わりに向かうのだろうか。私としては「早く人間になりたい」ではなくて、早く「人間らしく」生きられる社会になってほしいものだ。







  フリーターに社会保障はなぜないのか?      2002/8/8.


 学校を卒業しても就職しないでフリーターになったり、たまにバイトしてぶらぶらしている若者はどんどん増えているわけだが、これは若者の職業観の変化と、企業が安い労働力に抑えたいという思惑が重なったところにあるのだろう。

 企業は正社員を減らしてコストの安いアルバイトを使いたいと思っている。コンビニやファミレス、接客業などのあらゆる産業の多くはアルバイトでまかなわれるようになっている。バイトなしでは世の中が回らなくなっている。

 企業がこんなにアルバイトを使い、若者たちに社会保障を与えないようなったら、この先社会保障はどうなるのかと思う。社会保障の負担が若者のところでどんどん腐蝕しはじめているのに、高齢化社会で社会保障費は増えてゆくばかりなのに、企業や政府はどう考えているのかと思う。いまでも年金受給者は2700万人で、労働人口は6000万人だという。このバランスの悪さには驚くほかない。

 どうも企業は従業員の社会保障費を払いたくないみたいだ。正社員なみの労働時間や仕事で働かせていても、社会保障費は払わない。企業は政府が率先している社会保障をどうも負担したくないというか、放り出したいみたいである。政府はこのような現状をどう考えているのだろうか。

 企業の政府にたいする裏切りや反逆ではないのか。おかげで若者は社会保障費を払えないし、将来の計画や安心もほとんど手に入れられない。社会保障や若者の将来、老後はいったいどうなってしまうのかと思う。国民の健康と老後を支える社会保障はあったほうがいいのか、それともないほうがいいのか、わからなくなる。

 若者が就職しないでフリーターになるのは企業のアルバイト需要が正社員より多いからである。若者の勤労意欲が低くなったこともあるが、やはり企業側の論理である。若者の勤労意欲を非難するのは酷というものだ。企業は高度成長期のように正社員を必要としていないのである。そして社会保障も与えない。世間の親たちも安定した正社員になれというが、その親たちが構成する企業は正社員を減らしたいのである。

 そのような条件のうえに若者の勤労意欲の低さがある。長時間労働の正社員のように働く意欲も切迫性も豊かさゆえに感じられないし、とりあえずは親の経済力に頼ればなんとかなるし、アルバイトでもいちおう食えるし、だいいち若者は職業や労働の意味がすっかりわからなくなっている。

 学校というのは労働の現場や労働の意味合いというものからどんどん遠ざかってきた。生徒は工業地帯から切り離された住宅街で育ち、学歴は職業から離れた抽象性のほうばかりに価値をおくようになったし、教師も実社会の職業経験をもたないし、いまの職業に必要な社交力の育て方も知らないし、父親は長時間労働だし、母親も実世界を知らない。生徒の職業観が育たないのはとうぜんだ。

 企業もちょうど中高年の上昇する人件費でパンク寸前だし、したがって職業観のない若者に安い人件費と社会保障のカットをしわ寄せする。中高年は既得権益の安定を得ようと必死である。おかげで若者は職業力が育たないし、社会保障も払えないし、つまりそれはみずから未来の産業の力と社会保障の財源を破壊しているということだ。未来への最悪の構図である。この国は最低の組み合わせがかなり好きみたいである。

 早く社会保障のケリをつけなければならないのだろう。オランダのように正社員の給料を下げてフリーターもすべて社会保障に参加させるか、あるいは定年制度を全廃して生涯働ける社会をつくってゆくかだ。たぶん定年と年金をやめたほうがよりよい健全な社会がつくれるのだと思う。

 国による社会保障というのはいろいろな歪みや不公平をつくりだす。破綻しかけの社会保障にしがみつくより、年をとっても働ける社会にしたほうが安心だし、ムリな労働もしなくてすむというものだろう。あ〜あ、私も将来がコワイ。。






  尊大な自己とみじめな仕事     02/8/21


 たくさんの書物、難解な知識をひもとくことができれば、あたかも自分の価値観が上がったように思いがちである。しかし私に与えられる仕事、私ができる仕事は社会の片隅のどうでもいい仕事ばかりである。

 内面の偉大さと社会でのちっぽけな存在。この矛盾のために社会での仕事のたいがいが卑小でするに値しないものに見えてしまう。内面の偉大さをかこつと、社会での仕事の多くはつまらないものに見えてしまう。

 どうもこの社会は教養の価値観に失敗したみたいである。社会で必要な価値観は社会で生きる力である。カネを稼いだり、カネを儲けたり、社会的地位を得る、といった職業にかかわることが多くの人にとって必要な価値観だ。

 しかしこの社会は教養の価値観や学歴の価値観をもちあげすぎた。教養の価値をあげれば、学歴さえあれば、社会で生きていけるような錯覚をおこした。育ったのは誇大な自己と職業の蔑視だけである。社会的無能力だけである。教養がどんなにあっても、カネを稼ぐ能力がなければ、この社会では生きてゆけない。

 教養の価値観がひとり歩きして尊大な自己をつくっただけのように思う。職業的能力、職業的価値観といったものをひきはなし、蔑視してきただけのように思う。社会の片隅で、モノをつくったり、モノを売ったり、カネを稼ぐ、といったことの軽視がおこなわれてきただけだと思う。

 われわれに必要なのは教養や知識を高めることではない。カネを稼ぐ能力、仕事を遂行する能力、毎日のルーティンをこなす能力、社会での片隅や底辺とよばれるところであっても地道に仕事を愛する能力、こういった職業意識が必要なのではないだろうか。労働を蔑視せず、愛する能力が必要だと思う。教養というのはどうも労働と周辺の蔑視をつくりがちだ。

 教養のほかに消費も自分のおとしめられた価値観をひきあげようとする試みである。消費や趣味というのは、虐げられた労働者たちが自分の価値観をとりもどすためのささやかな試みだといえるのである。労働でのちっぽけな自分の価値観をとりもどすために、われわれは高い車を買ったり、高価なブランド品を身につけたり、高級な書物や映画を鑑賞するのである。

 高級品を消費することによって自分の価値観を高くひきあげるのである。車やブランド品、映画などにはそれぞれグレードや階層がある。それらを消費することによってわれわれは自分の価値観があがったと思いこむ。消費というのは自分の価値観をひきあげる試みである。

 高くひきあげられた自分の価値観は、実社会での低い地位、ささいでつまらない仕事とぶつかり合う。社会に出る前に親の豊富な財力によって自己の価値観をインフレさせた若者にとって職業というのはたいへんな苦痛と屈辱である。王様から奴隷への転落のようなものだ。

 われわれはこの転落をのりこえる必要があるのだと思う。尊大な自己価値というものをそのまま維持しようとするか、それとも捨てる必要に迫られることになるだろう。維持は消費や趣味の価値観で生産能力を身につけることであり、それが叶わなければインフレした自尊心を捨てるほかないだろう。

 いずれにせよ内面の偉大さは捨てるに越したことはないのだろう。自分を偉大だと思いつづけると、必ず現実と衝突し、現実から痛い目を会わされる。自分の偉大さを満たさない社会的環境をすべて拒絶してしまうことになるからだ。そんな世界はどこにもないネバー・ランドだ。自分の高い価値観を捨てなければならないときは必ずくる。また価値観を捨てたほうがラクだと思う。

 この社会は自分の価値観を高めてくれる消費や商品に事欠かないだろう。しかしこの価値観によって現実との苦痛に満ちた衝突を導くのなら、価値観を捨てたほうがよほどラクというものだ。いずれにせよ、そんな価値観はまやかしである。だまされているだけである。

 カネによってかんたんに得られた価値観にだまされずに、われわれは地道に社会で生きる必要があると思う。これが消費社会での堅実な生きかただ。われわれは社会での卑小でちっぽけな存在から出発する必要がある。

 そこから価値観をとりもどすのではなく、卑小な存在であるという価値観や認識を落とす必要があるのだろう。劣等や劣位という価値観やものさしから離れることができたときのみ、われわれは卑小さやちっぽけさから自由になれる。

 卑小さを生むとき、われわれは優越の価値観をつくってしまい、そのトンネルから逃れられなくなる。偉い自分になろうとする心の底には、必ずみじめな自分がはりついている。卑小さを悲しまなくなったとき、われわれは自分の価値観というワナにはまらずに、ほんとうの自信と自由をとりもどすことができるのだろう。




■020824断想集





    作家のマーケティング論    02/8/24


 作家は作品だけではなく、人生や私生活も商品である。作家の人生を産業の戦略として読みなさいと猪瀬直樹はいっていて、なるほどなと思った。

 太宰治の自殺未遂も広告やキャンペーンみたいものである。こうなれば、産業の戦略とナマの人生は切り分けることができるのだろうかと思えてくる。

 読者も作家の作品のみを求めて読む場合もあるが、その作家の生きかたや人生を求める場合もある。読者は作家の生きかたや人生を買っているのである。作家の人生は生きかた呈示や人生モデルの商品になっているのである。

 作家は社会的に文学が認められた存在である。社会で売れる存在である。読者は社会的に認知され、売れる存在という商品を買う。読者はそのことによって自分の認知欲や称賛欲の代替品を手に入れる。ブランド品や装飾品と同じである。

 TVが生まれる前は作家が認知商品の多くをになっていたが、昨今はタレントや歌手が人を楽しませたり、喜ばせたりするジャンルをになっている。作家は知のジャンルにおいての自己呈示、認知方法を受けもつようになった。

 タレントや歌手もその芸や曲のみではなく、結婚や不倫などの私生活も売り買いされる。消費者は認知された存在の人生行路・モデルを所有し、模倣したいのである。消費者はそのことによって自分の社会的価値を満足させる。

 認知産業といっていいかもしれない。社会的に認知された存在を売る商売である。消費者はそういう人物という商品を所有し、模倣したい。われわれはそのために本や芸能誌やCDを買う。われわれは社会的に認知された自分になりたい、自分のモデルがほしいと思っているのである。それが産業になる。

 われわれは社会的認知を買う。社会的認知はどこにでも転がっているものでも、かんたんに得られるものでもないから、カネで買えるもので代替する。われわれは認められる存在、売れる存在を買うのである。作家や歌手の作品を買うことはその感情を満足させることなのである。われわれは作品を買うとき、認知を買っていることを自覚するべきなのだろう。

 作品の内容を買うことが消費の主たる目的である。だが、こんにちでは有名人という認知された記号を買う場合が大きいかもしれない。芥川賞やベストセラーの商品を買うということは認知や売れているということを買うことである。認められたブランドや芸術として買うことである。

 有名人は社会的に認められた存在、カッコよさ、人前での社会的たちふるまい、人生の生きかたなどを商品として売る。こんにちでは作品の質より、その記号の部分を買い求めることのほうが多いのかもしれない。

 売れた存在つまり社会的認知を得た存在というのはそれだけで記号としての商品になる。消費者は認知された存在という商品を所有し、模倣し、そのことによって自分の社会的価値があがったと思いこむ。こんにちでは作家や有名人はそういう存在である。

 人生やカッコよさをはじめから商品や宣伝として売りだす人もいるし、プライベートをいっさい見せないで作品のみを評価にゆだねようという人もいる。作品のみで勝負する人のほうが本来の目的にかなった潔い性質を垣間見せるわけだが、こんにちではそれすら戦略になる。

 創作者は社会的認知から逃れられないし、消費者はそれだけ社会的認知を血眼になって求めているともいえる。われわれはたえず社会的に認められ、売れる存在になりたいと願っている。その願望が巨大なスター産業をつくりだす。認知産業という欲望は私たちを、また私たちの人生をどこにつれてゆくのだろうか?






  物語りに価値と意義はあるのか?    02/9/2


 私はいまは哲学書や学術書のほうが好きである。テーマやメッセージがはっきりと示されていて、わかりやすいし、読む価値はあると思っている。

 それに対して小説や物語りというのはテーマやメッセージがはっきりとわかりづらい。なにをいっているのかもわからないときもある。作者のせまい個人的境遇や思惟につきあわされるのも偏狭な気がするし、物語りや自我のナルシズムや陶酔性には不快さを感じたりする。

 そういったもろもろのことから物語りには価値や意味があるのかと思うこともある。たぶん私は個人の頭の中身や行為にあまり価値をおかず、個人的メロドラマをきらい、客観性や冷静さに意義や価値をおくからだろう。

 多くの人は物語りが好きみたいである。本といえば小説であり、小説を読めばインテリになれると思っているみたいだ。でも物語りから意味やメッセージを読みとるのはそうかんたんなことではないと思う。わけもわからなく、よかったとか、感動したとか、程度の感想しかもてないのではないかと思う。

 物語りから意味やテーマを探りとるのはかんたんではない。物語りばかり読んでいても、読解能力が増えるようには思われない。やっぱり思考や論理能力を鍛えないことには、物語りを読み解くのはむずかしいように思われる。

 物語りと学術の価値観やベクトルはまた違ったものなのだろう。学術は「分ける」ことや「明晰さ」に価値をおくが、物語りというのはあいまいさや物語的陶酔性みたいなものに価値をおく。物語りはかならずしも分かること、分けることに価値をおかない。物語りに入り込むことに意味があるのかもしれない。

 人は物語りが好きである。たぶん私たちの現実の捉え方が物語的なのだろう。自分や過去を捉えることは物語りとして把握することである。われわれの社会的関係というのも物語りの役割や立場を演じることで成り立っているといえる。物語りというのは社会的脚本の役割を果たしているわけだ。物語りは社会的なレッスンである。

 物語りはまた感動や喜びを与える感情の産業である。われわれはさまざまな感情を味わうために物語りに触れる。悲しみや恐怖や感動、喜びなどを感じるためにわざわざ物語りに入り込む。日常は平板すぎて感情の容量が足りないのだろうか。感情のレパートリーも増やすこともできる。人々の感情の規則を教える場でもある。感情のレッスンである。

 物語りは社会的な想像力のレッスンでもあるのだろう。さまざまな人たちの内面、境遇に同一視するための想像力の鍛練である。もしわれわれに物語的想像力がなければ、他人の内面や感情に思いやりをもてず、人を内面のないけもののように扱っていたかもしれない。物語りは他者への想像力のレッスンをほどこすのである。

 私は十代にくらべて物語りはだいぶ見なくなった。マンガに映画にTVに小説とたくさんの物語りに触れてきたが、いまはそんなに強くは魅かれなくはなった。物語りは乗り越えられるものだろうか。物語りは幼稚なものなのだろうか。

 物語りはもちろん虚構である。虚構の愛着が減ることは好ましいことなのだろうか。虚構に距離をおき、現実や論理性に価値をおくことはよいことなのだろうか。物語的情感を失うということは、社会的感受性を鈍らせることのようにも思う。物語りはいくつになっても価値と意義はありつづけるものか、いまの私にはまだ決めつけたくない。








   宇多田ヒカルは儲けた金を何に使うか    02/9/8


 げんざい19歳の宇多田ヒカルのアルバムは800万枚も売れ、200億円ほど儲かったそうだ。ほかのアルバムも100億ほど儲かり、シングルも何億単位も売れている。(去年の納税額は3億で、推定所得は8億という話だが)

 いきなり十代にして何億円もの収入を得た女性の気持ちとはどのようなものなんだろうか。いったいなにに使おうとするのだろうか。

 食費は知れているだろうし、CDや本、映画を買うお金も何十万もかかることはないだろうし、ファッション代もたいしてかからないだろうし、世界を一周してもお金はまだまだのこるだろうし、家を建てるにしても何億かで間に合う。年収200万の私としては使いかたも想像できない額だ。高校のときのバイトだって使うものがなかったくらいなのに。途方に暮れはしないか。

 宇多田ヒカルは働かないでも一生暮らせるお金を得たのだろうか。もし一年に500万使うとしたら、1億で20年は暮らせることになる。19歳にして隠居生活もしくは金利生活に入る気はおそらくないのだろう。彼女はお金がほしくて唄を歌っているというよりか、唄が好きで認められた結果、後からお金が入ってきたパターンだと思う。唄はまだまだ歌いつづけると思う。

 しかし高校生にして億万長者になった者の生活とは今後どのようになるのかと思う。高校生といえば、時給700円程度のバイト代がせいぜい手に入るくらいだ。ほとんどの女性はOLになってもたかが20万ほどで、結婚してもサラリーマンのダンナの収入できちきちの生活を強いられるのがふつうだ。マイホームだって5000万円のローンを一生かけて払いつづけておしまいだ。

 サラリーマンの給料というのは月々決められた額を会社からもらう。たとえ会社がボロ儲けしたとしても給料がグンとはねあがることも、億単位の給料がもらえることはまずない。月々の決まった額を決まったようにもらうだけである。年収1000万として40年働くと約5億、年収500万なら約2億5千ていどの計算になる。

 それに対して宇多田ヒカルのような歌手は大ヒット曲を飛ばせば、サラリーマンが一生でこつこつ稼ぐような何億もの収入を一夜にして得る。サラリーマンの決まった給与額からは夢のような話だ。宝くじに当たったようものだ。宇多田ヒカルはそれをはるかに超えた額を人生の早いうちに稼いでしまったわけだ。

 ただ歌手の寿命というのはたいへん短い。たいていの歌手は5年か、10年もてばいいほどで、サザンとかユーミン、小田和正などの少数の者だけが何十年ももっているにすぎない。宇多田ヒカルもデビューがあまりにも華々しかったたためにあとは落ちてゆくしかない気がする。稼いだお金はこれからの目減りする資産のために堅実に使ったほうがいいように思う。

 スポーツ選手も何億や何千もの契約金を得るが、やはり寿命はたいへん短い。家を建てたり、生活を豪華なものにすると、のちのちのギャップがたいへんに大きくなることは想像にかたくない。もし彼らが引退したのち、サラリーマン生活に入ったらそのギャップはたいそう苦しいものになるにちがいない。ただ収入がそれだけある者は生活もそのレベルになってしまうものだが。

 何億もの収入を得る人はいったいなににお金を使い果たせばいいのか途方に暮れはしないか。マイケル・ジャクソンは自宅にディズニー・ランドのようなものをつくったし、村上春樹は海外旅行に明け暮れた。企業家はたぶん社長なら設備投資などに使っただろうが、元手のかからないソフトを創る人たちはいったいなににお金を使うのだろうか。ちゃんと使い果たせるのだろうか。

 アンドリュー・カーネギーといった大金持ちはカーネギー・ホールや図書館などの社会事業に役立てた。日本の大金持ちで社会事業に寄付したという話はあまり聞かない。累進課税だし、政府が偉そうな顔をしてかわりにやっているからだろう。したがって金持ちは個人や家族、子孫の遺産のためだけにお金を使う。文句はいわれないだろう。ただ金持ちはたっぷりお金を浪費して、貧乏人に金を回すのもひとつの社会事業だと思うが。

 想像してほしい。高校生にして一度に何億もの収入が入ってきたあとの生活や金銭感覚がどのようなものになるか。彼女は幸せなのだろうか、それとも不幸なのだろうか。幸福まちがいなしにも思えるし、この先のことを思えば不幸のことのようにも思える。毎月の生活に困る者には最高にハッピーに思えることだろう。

 人間性の成長や心の忍耐度といった点では恵まれ過ぎた境遇はよいほうには働かないだろう。常人の生活の苦労は知ることはないだろうが、金持ちやスターの苦労というのも常人の絶するものがあるだろう。のぼりつめた者にはのぼりつめた者の違った種類の苦痛と絶望がある。しかしこれはたんなる貧乏人のやっかみかもしれない。個人の心は本人しかわからないものだし、幸福や平安を決めるのは個人の心だけである。環境のみで決まるものではない。

 たいがいの人たちはサラリーマンの少ない収入で月々を暮らすものである。生活も娯楽も人生観も、あるいは善悪だって、その基準によって染めあげられてゆくものである。しかし世の中には一夜にして何億も稼ぐ人がいるものである。サラリーマンの勤勉観や生活の倹約の美徳も、かれらには意味がないし、通用もしない。こつこつと働くことはもはや美徳でもないし、規則正しい生活を送ることも「正しい」ことではないし、だれかに従順であることも必要ではないし、どこにいこうと自由である。そういった人生もOKであることを、少ないお金に縛られ、頭が固くなってしまったわれわれは、一度は想像してみるべきなのだろう。







   売れる人間になるだけが人生か?    02/9/16


 モノを買うとき、ほかより優れている商品を選ぶ。似たような商品があるときには機能が優れていたり、デザインがよかったり、些細な違いで選んだり、ほかより少しでも安い値段で買おうとするだろう。

 市場社会で生きているわれわれ人間も他人にとっては商品となる。他より少しでも優れていたり、美しかったり、頭がよかったりする人間が人々に選ばれる。私たちは少しでも高く売れるようにさまざまな努力をする。

 自分の好みや楽しみ、喜びというのは、人より高く売れるための努力なのかもしれない。ふつう、人間は売り買いされないから、われわれは自分は商品ではないと思っているが、明らかに商品として人との関係のなかに生き、行動している。商品とみなしたほうが人間の行動や階層はよくわかるかもしれない。われわれが商品でないのは、モノと違って自由意志と尊厳があるからだろう。しかしカネが必要な人間にとってそんなものはないも同然だろう。

 現代のわれわれは学歴によって商品の価値が決まる。女性は美貌や肉体美によって決まる。男は企業に買われ、女は男に買われる。高く売れるために学力や趣味の鍛練をつみ、女性は化粧やファッションによって美貌に磨きをかける。人に高く売ろうとする努力を重ねる。

 われわれは商品ではないと思いたい。カネで買えるとは思いたくない。しかしわれわれがおこなう努力や楽しみの多くは、人や企業に買われるための努力ではないのか。学力や嗜好や美的センスを磨くのは、人から高く買われるための努力ではないのか。

 よく売れる人間は社会からほめたたえられる。かれは歴史に名をのこすかもしれないし、多くの人に名前や顔を覚えられるかもしれない。それは人々や社会の役に立ったとか、貢献したとか、人々に感動や感銘を与えたといって評価される。かれはたいへんに売れる人間――ロングセラー商品となったわけだ。われわれは売れる商品になろうとして努力をする。よく売れれば、生活はたいへん豊かになれるからだ。

 しかしふと思う、われわれの人生は人々からほめたたえられたり、憧れられたりするためだけにあるのだろうかと。人間社会に重宝され、求められるだけが人生なのかと思う。ほかに人生の目的や意味はないのだろうか。

 われわれは商品やカネで買えるだけの存在にはなりたくない。カネだけで意志を奪われたり、自由や喜びを剥奪されたり、売れるためだけに人生の全努力を賭したいのでもない。われわれは人々に求められない、自分だけの人生、日々や楽しみをもちたいと思っている。売り買いされない自分の人生を楽しみたいと思っている。しかし私の知らないところで楽しみや喜び、愛や思いやりも、すべて売れるための努力に含まれるともいえなくもないが。

 いまの社会はたいへんに市場化された社会である。そのほうが効率的で便利である。しかしカネの関係がどこまでも貫徹し、浸透した社会になった。つまり多く売れることがたいへん価値のある社会である。人々から求められ、買われることがとても価値ある社会である。われわれは生まれたときからよく売れる商品になるようにと人生の目的をセットされる。高く売れることが人生の至上目的である。しかし人生の目的とは市場で高く売買されることだけなのかと疑問に思う。人々の人気になり、用いられるだけが人生なのか。

 市場社会で生きるいじょう、われわれは能力をのばし、たくさん稼ぐことが必要である。カネがないと生きていけない。高く売ろうとする努力は否定することではない。生活の糧を得ることはたいへん大事である。しかし人生はそれのみにあるとは思いたくない。高く売ることだけが人生ではないだろう。人間社会に売れることだけが人生ではないはずだ。ただ私たちは知らず知らずのうちに高く売れることだけを人生の目的として無意識に洗脳されていると思う。その人生の隠された目的を意識し、客観視するようになれば、われわれの人生は少しは違ったものが見えてくるのかもしれない。「売れる/売れない」の価値を超えたものを。







   近代化と精神主義      2002/9/20


 近代化の物質主義によって、日本のさまざまな精神的伝統は迷信としてしりぞけられてきた。精神にかかわるもろもろのことは、物質主義や目に見えるものだけを信じる精神のために徹底的に排斥された。

 勝利したのは、物質主義と金銭主義である。経済合理性であり、生活安定主義であり、労働と企業がどこまでも日々を覆う社会だった。われわれにはもはや自分の時間や精神的ゆとりはない。経済や企業の機械として生きるのみである。

 そのような非人間的なことを許してきたのは、やはり近代化の物質主義だろう。モノに囲まれることがよいことになれば、お金はどこまでも必要になり、労働と会社はひたすら重要となり、人生は金銭と生活の安定のみをめざすようになる。物質主義というのは、人間を生産・労働だけの存在にしてしまう。

 近代化によって精神主義を排斥したためにわれわれは時間的ゆとりや精神的豊穣さといったものを失った。われわれはもはや経済と労働の機械となるしかない。排斥したのは精神の崇高性や高貴さといったもので、そこには非合理ではあるけれども、人間の豊かさやゆとりも含まれていたのだろう。

 近代人にとってもはや精神的なもの、宗教的なものは信じられない。信じるのは物質主義だけである。それは金銭主義であり、労働主義であり、経済主義のみである。われわれは精神の崇高さを失った、ぶざまな食べるためだけに生きる人間が見出されるのみである。

 物質主義は科学をうみだし、宗教やオカルティズムを徹底的に排斥した。物質のみを信じるためには精神の豊穣さは宿敵なのだろう。精神の厚みや高低を失った人々はひたすら物質のみを追い求め、薄っぺらな生活安定主義のみに狂騒するだけの存在にならざるを得ないのである。

 精神主義の偉大な非合理は失われたのである。そのためにわれわれはひたすら労働と金銭のみを追い求める人生に終始するだけになった。精神や宗教の非合理さとは、われわれに時間のゆとりや精神の高貴さを与え、人々に精神的な実りをもたらしてきたのではないか。迷妄であるかもしれないが、労働と生活だけの毎日から人々を救いだしてきたのではないか。

 伝統的宗教というのは、経済的・物質的な豊かさをかならず否定してきた。精神の高貴さやゆとりはそこにはないのだろう。宗教や伝統を重んじる国は偉大な非合理を容認し、経済・金銭主義に歯止めをかけ、人々に精神的ゆとりをもたらしてきたはずである。歯止めを失った近代主義の国はひたすら金銭・労働主義へと暴走するほかない。

 戦後の経済主義は福祉主義と結びついた国家主義により、成功をおさめた。しかし国家主義による経済主義は80年代には終わり、人々は大きな目的を失い、個人主義と個人的利益のみを求める矮小な存在となり、精神的支柱は崩壊した。会社や家を捨てたホームレスが90年代にふえだしたのも国家主義が消滅したことと無関係ではないだろう。狭い個人主義にはお国のため会社のために尽くす必要はないのである。

 われわれには精神の崇高さや目的といったものが失われるばかりである。ただ金と食べ物を漁るだけの存在に堕してしまうのみである。非合理的な精神主義や宗教を排斥することはそういう帰結を必然的にもたらすのだろう。精神のない浅ましい物質のみが勝利するだけだからだ。精神の崇高性やゆとりをとりもどすためには、われわれは精神の豊かな土壌をほりおこす必要があるのではないかと思う。物質主義はあまりにも卑小な結末しかもたらさない。







    労働の幸福論      2002/9/21


 労働それ自体が幸福かと問われることはあまりなかったと思う。お金やモノがいくら集められるかという視点からしか労働は捉えられてこなかったと思う。しかし労働は人生や生活の大部分の時間を覆うものである。それ自体が幸福かと問われなければならないもののはずである。

 生活するためにはとうぜん働いてお金を稼がなければならない。生きてゆくためには労働は楽しいかとかおもしろいかといって迷っている余裕などない。あまりにも贅沢すぎる悩みである。働かなければ、生きてゆけないのである。

 だから労働それ自体が楽しいかという問いは抑圧せざるをえないものである。しかし時代は変わって生活はただ食べるために働く時代から、遊びや消費のために働く豊かな時代に変わった。

 労働は問い直される時代になったはずである。いつまでも労働の神聖さを疑うことがタブーの時代によりかかるのではなく、労働の目的や幸福が問われる時代にさしかかったとみなすべきである。人生の大部分を覆う労働の幸福を問わないで、人生の幸福や目的が見えるはずがない。

 転換が必要な時代になったのだ。お金やモノが幸福のものさしになるのではなく、その手段にすぎない労働にも幸福のものさしを向けるべきなのである。はたしてわわれれは労働のなかに幸福のまなざしを向けてきただろうか。労働のなかにどれだけの幸福や安楽や満足、または人権や権利といったものをみいだせるだろうか。恥ずかしさに顔をうなだれるしかないだろう。

 労働の幸福論を問うことはタブーだったのだろう。利益や儲けのために従業員の幸福などにかかずりあってなんかいられない。労働者の幸福は抑圧されてきたし、とうぜんのように無視されてきた。苦しみや自虐に耐えることがとうぜんであり、賢明であるとみなされてきた。かわりにわれわれは生活物資の多寡と消費生活の豊かさに目を向けるように仕向けられてきた。

 しかし人生の大部分を覆う労働に目を向けないで、なにが人生の幸福を見定められるというのだろうか。お金やモノがいくら増えても、毎日の労働がちっとも満たされないものであれば、われわれは幸福だといえるのだろうか。労働それ自体に幸福と満足のまなざしを向けるべきなのである。

 毎日の労働が不満な者にとって労働の幸福を問うことは危険である。生活を保証する労働が失われてしまえば、生きてゆくことすらできなくなる。だからわれわれは労働の幸福については問わないできたのだと思う。できればこのような問いから目をふせるのが賢明な生きかただといえるだろう。

 しかし戦後からの豊かさの目標が達成された現在、消費の満足がいきづまりを見せたいま、自明の理とされた労働のありかたを問う必要があると思う。消費という目的のための手段にすぎなかった労働は、目標を失ったためにあらためて大きな障壁として立ちふさがりはじめたのである。目標がなくなったために労働は大きな問題としてクローズ・アップされざるを得ないのである。

 お金や消費から労働を捉えるのではなく、労働からお金や消費を捉える転換が必要になってきたのである。もし労働がつらいのなら、贅沢で豊富な消費は必要なのか、お金はどれだけ必要なのか、という問いも導き出される。消費が先にありきでなく、労働が先にありきである。労働がつらいものなら贅沢な消費は価値があるものか問われてくる。

 個人が生活してゆく上で労働の幸福を問うことはやめておいたほうがいい。生活の糧を稼ぐことは絶対に必要だからだ。ただ社会や国のレベルでは労働の幸福を問うことはこれからおおいに必要だと思う。消費大国という目標が達成された80年代、やはり幸福の欠如が嘆かれた。幸福の欠如はあきらかにこの社会の労働のなかにあったはずなのだが、その問いや反省が起こることはなかった。後進途上国であった日本は目標を急ぐあまり、その反省を切り捨てざるを得なかったのだ。

 われわれに必要なのはお金や消費のレベルを問うことではなく、労働の幸福を問うことではないのか。目標のために抑圧されてきた労働の価値について問い直すべきではないのか。そこには人生の質の問題から人生の哲学についてのたくさんの顧みられなかった問題があるはすである。労働を問わない消費の幸福など雲の上の夢うつつである。労働の幸福について考え直してはじめて、われわれは実り豊かな人生を送れるのではないだろうか。

 われわれはお金という目標を大事にしすぎて、労働の問題をあまりにもおろそかにしすぎたのではないかと思う。幸福の欠如はいつまでも去らない。消費の幸福だけではなく、労働の幸福を問わなければ、われわれはいつまでたっても幸福の欠如を嘆きつづけるのだろう。



■020930断想集





    私が文学を読めないワケ      2002/9/30


 小説には純文学と大衆文学があるとされているが、私は人のいう高尚な評価に弱いので、ついつい純文学の本を読もうとする。あるいは評価の定まったむかしの外国文学であったりする。

 それで小説の楽しさになかなかめぐりあわない。文学を読んでいて、おもしろくてたまらないといった思いを抱いたことがない。わからない、わからない、ばかりつぶやいて、本を閉じることになる。

 小説というのははじめはおもしろさを見つけるべきだと思う。しかしどうも小説には高級なものと低級なものがあると教えられるから、評価に弱い私はすぐに高級なものを手にとってしまう。おもしろさより、高尚なものを選びとって、ろくに意味もわからずに終わる。小説から遠ざかるというわけだ。

 文学というのはいまの読者にとってひじょうに不幸な出会い方をしていると思う。おもしろい小説に出会う前から、学校で近代の有名な作家を教えられ、読まされる。読むべき作家のガイドを与えられるのはけっこうなことであるが、読者には成熟度とか段階がある。いきなり歴史にのこった高名な作家から読まされるのは読者の成熟度をまったく無視している。

 映画でいえば、『スターウォーズ』とか『ET』を観るまえに、先に高名で芸術的なワケのわからない監督の映画を観るようなものだ。映画はさいわい視覚でおもしろいかどうかは楽に判断できるし、大昔の映画を勧められるということもないから、新しいおもしろそうな映画を見ることができる。

 文学は大昔の高名な作家を勧められるから、たいへん不幸な出会いをしていることになる。しかも同時に大衆文学への軽蔑も教えられるから、その視点が固定したまま、本を選ぶことになる。文学の楽しさはわからないままだろう。

 純文学に対して軽蔑されている大衆文学をすんなり読める人というのは私にはうらやましい。おもしろいだけの小説には読む価値がないという偏見が、私の中にあるからだ。このろくでもない偏見のために私は素直に小説を楽しむという技術が身につかない。

 日本の文学というのは輸入された時期が悪くて、物語の楽しさより告白体の私小説のほうが高く評価される傾向になってしまったそうだ。ストーリーを楽しむ小説が低く見られ、日記みたいな個人的な記述が高く評価されるようになってしまった。これはつまらない。狭い個人の私生活なんかそうそう興味がわくものではない。それで私小説は人の眼目をひくスキャンダルとか大胆な性とか、深刻な悩みというものが主題となったのか。

 小説というのはそもそも人の人生をのぞきみるものである。たいていの人は他人の人生なんか興味がない。自分のことにしか関心がない。それでも他人の人生をのぞいてみたいと思わせるには、スキャンダル性か、波瀾万丈の人生ということになるだろう。または自分に似ているとか。物語の楽しさを封じられた近代文学はひたすら陰鬱で、人の興味の向かないほうに沈んでいったみたいである。

 私はあまり個人的な生や日常といったものは興味がないほうだ。自分の日記をつけようとも思わないし、歴史上の個人の行動にはかなり興味がないし、社会の一般的・法則的なことに興味が向かうほうだ。だから私の興味は社会学や哲学になる。個人の物語というものにはあまり興味が向かない。個人がどうこうより、社会の流れみたいなもののほうが好きだ。だから文学というのはなかなか興味がひかない。

 それでも私はもう一度文学を読んでみたいと思っている。文学の楽しさを味わいたいと思っている。学問を読む人より文学を読む人のほうがよほど多いし、人をそれほどひきつけてきたものを通り過ぎるのはもったいないと思うからだ。ということで文学がつまらないワケを解明して、そこから脱出する道筋をたぐりよせてみようと思ったわけだ。私は人生をゆさぶられるような文学といつか出会うことができるだろうか。







   文学はいろいろ読んでみたけれど    2002/10/1


 10年まえほどは私もかたっぱしから文学の名作を読んでみた。ものすごくいいという出会いがないまま、私の興味は現代思想にうつった。社会や人間のナゾを探るほうが楽しかったからだ。

 文学というのは、明確な答えがあたえられるわけではなく、物語から茫漠とした印象を与えられるだけという感がつよかったのである。メッセージやテーマははっきりといってもらったほうがわかりよい。

 ながらく思想や学術のほうに興味がむかってきたが、またすこし文学にチャレンジしてみようという気になってきた。10年まえと比べて私は社会や歴史のこともだいぶ知識量がふえ、活字の読解能力もましたことだし、とりあえずは危うい社会での経験もつんだことだし、文学評論も読みつつ、またよい文学と出会いたいと思っている。

 私が文学を読みだしたのは村上春樹の『ノルウェイの森』のブームからだ。映画やマンガで育った私は文学を読みたいけど、読めなかったので、現代的感覚のつよい村上春樹のブームはよいきっかけになった。シニカルなユーモアがたいへんよかったが、ほかを探しても村上春樹のような現代的感覚のすぐれた作家は見当たらなかった。宮本輝や遠藤周作、安部公房、連城三紀彦なとが現代作家としては気にいったが、村上春樹を超えるような「カッコよさ」はなかった。

 ついでに海外の名作とよばれるものを新潮文庫でかたっぱしから読んでいった。スタインベックやヘミングウェイ、モームなどが気に入った。しかし明確なメッセージをうけとったとはいいがたい。カフカはワケがわからないし、ドストエフスキーはほとんど話の筋さえつかみかねたし、バルザックもディケンズもそうそう読みたくならなかったし、とりあえずは有名作家の一冊は読んだけど、なにも身につかないといった具合だった。この時期はなんていうか、二宮金次郎的に文学を読んだけど、味気のないガムをかんでいたみたいだ。

 ヴォネガットはおもしろかったり、サリンジャーも感銘したりと、アメリカの現代文学はなかなかよさそうだったので、ポストモダンの文学とか興味をもっていたのだが、ピンチョンとかバースとかまるでわからない。トム・ロビンスはめちゃくちゃおもしろいと思ったが、日本での人気はイマイチみたいだった。ポップな文学というのは期待しているのだが、活字がどれだけポップなものになれるかは怪しい。

 日本の近代作家というのはなかなか読みたくはならなかった。言葉は古いし、感覚は古いし、むかしの人の生活や人生はなかなか興味の向くものではなかった。三島由紀夫が現代に近いので読みやすかったが、それだけだった。

 そうこうするうち、私は社会のありようを明確にしようとする現代社会論などに興味がうつっていったわけである。文学というのは個人の心情や行動をあらわしていて、なかなか社会のありようや問題のナゾを明確にするということがない。ということで文学とはながらくおさらばになった。この10年、アメリカの読みたかった作家の本が翻訳されたり、日本の新しい作家が出てきたりしていたけど、私は文学に帰ることはなかった。

 私は子どものころ手塚治虫のマンガで育ったのでSF映画好きである。『猿の惑星』とか『2001年宇宙の旅』、『ブレードランナー』など、切りがないほどSF映画浸けになった。だからSF小説は比較的に読みやすい。しかし推理小説にはまったく興味がない。なんであんな殺人のナゾをとくことがおもしろいのかまるでわからない。歴史小説もほとんど興味がない。恋愛小説も10年をへだててかなり興味が減退した。

 なんとか私がおもしろいと思う文学と出会いたいと思っているが、自分の「純文学」嗜好から脱却して、ストーリーの楽しさに目覚められたらなと思っている。今回は文学評論も参考にしながらすばらしい出会いがあればいいなと思っている。あるいはすぐに学術書にもどってしまうかもしれない。よい文学にはどうしたら出会えるのだろうか。






   SF映画『マトリックス』は神秘思想ではないのか     2002/10/6


 『マトリックス』は仮想現実から脱け出そうとする人たちを描いたSF映画だが、これはまったく神秘思想ではないかと思った。この現実と思われている世界を仮想のものだと「悟った」とき、主人公は超人的な力を手に入れる。これは神秘思想や仏教、禅で大昔からいわれてきた世界観である。

 『マトリックス』では人々はコンピューターに思い描かれた仮想現実の中で暮らしており、現実は培養管の中で生きている。人々が暮らす現実と思われる世界はコンピューターの仮想現実なのである。

 われわれはこの世界の現実性をまず疑うことはない。この現実のほかに世界があるはずがないと思っている。『マトリックス』はそのような自明性を疑う契機を随所にあたえる。はたしてわれわれの住む世界は現実のものなのか。

 仏教や神秘思想はこの世界のほかに世界があることを示唆する。それは霊や輪廻の存在する世界であったり、他者や生命、宇宙と一体化する世界であったりする。または天国や地獄も思い描かれてきた。この世界を知るために人々はさまざまな修行法を編み出してきた。

 科学観がさかんな現代ではこのような世界観は絵空事として排斥されてきた。しかしヨーロッパでも19世紀後半になるとインドの神秘思想が流入し、ニューエイジやトランスパーソナル心理学といった霊魂観をふくんだ世界観が勃興した。『マトリックス』はそういった流れをとりいれており、SFという手法でこの世界観が提示されていたとは驚きである。輝かしい未来と古来の神秘思想の合体である。

 霊魂の世界観が信じられないとしても、われわれ人間は五感を通してしかこの世界を知り得ない。生命はみずからの五感の限界に閉じ込められている。つまり五感でつくられた仮想の世界を見ているに過ぎない。われわれが現実だと見なす世界は絶対的なものといえず、あくまでも人間にしか見えない世界であり、世界は見られるものの数だけ世界があるといえるだろう。

 神秘思想は五感を超えた世界が人間にも見えるという。それは宇宙と一体化した世界であったり、霊界であったりする。とうぜんのごとくふつうの人間には見れず、人々からベールをへだられた世界は修行をへた少数のものにしか覚醒できないとされる。

 このような世界はどこにあるのだろうか。深層意識や魂の内奥にあるといわれたりするが、たいての人には知り得ない世界である。その実在を垣間見たいと思う人は精神修行に励もうとするかもしれないし、あるいはそのような世界を絵空事や精神の慰めと拒絶することだろう。私もこの世界をまったく知り得ず、ただ人々の言葉から知るのみであり、世界一般では不快感と拒絶を示すのがマナーとされている。

 『マトリックス』はそういうオカルトの世界観を提示しながら、近未来というSFを装い、現実の懐疑をあらわしたという点でたいへん驚いた。この現実はほんとうの現実ではないかもしれない、そういった疑いの目を植えつけることが主目的だったのかもしれない。われわれのこの世界は幻想のものである、だからほんとうの世界を探せ、といくたもの宗教はいってきたことと重なるのである。

 私も霊界や神界の世界というものにはやはり抵抗がある。しかしわれわれが知り得る五感の世界のほかの世界も知り得るかもしれない、という線までは神秘思想を信じる。『マトリックス』はそういう慎ましい神秘思想を提示したのかもしれない。

 「この現実の世界はほんとうの現実ではないかもしれない」――『マトリックス』はそれを疑えといっているのだろう。







    35's BLUE       2002/10/26


 35歳になると仕事の求人はだいたいなくなる。私はもうその歳になってしまい、いまだに一生をつづけたいと思う仕事にめぐりあっていない。

 もう私の人生はおしまいだという気持ちになる。これから先、つまらない仕事に縛りつけられて、辞めるにも辞められないと思うと、崖から落ちるような気持ちになる。

 いまやっている仕事が自分にとって価値があり、意味があるという気持ちにはとうていなれない。しかしほかの会社の面接に受かる可能性もほとんどない。いまの仕事にしがみつくしかないのである。ほかの仕事に変われる見込みがないことが、私の気持ちをたいそう落ち込ませる。転職できる可能性が断たれることは、私の自由の感覚を根こそぎにもぎとる。

 私はいまだに自分にはどの仕事がいちばん合っているのかよくわからない。いまやっている仕事が自分にぴったりだという自覚はほとんどない。でもほかの新しい仕事に変われる可能性もほとんどないのである。

 私はこれまで自分に合った仕事を見つけようとして、いろいろもがいてきた。そのたびに自分の経験と経歴の壁にぶつかって、元の道にはねかえされてきた。ただ35歳まではまだなんとか転職の道は開かれていたから、気持ちの余裕はわずかにはのこされていたが、35歳になったいま、道は完全に閉ざされてしまった。

 いまは人生の限界を思いっきり味わわされている気分である。35歳というのは、人生の限界を感じる歳なのかと思い知らされた。これってもしかして中年クライシスというやつなのだろうか。少年のころには希望に満ちていた人生がもはや限界のあるものとして立ちふさがる年齢になったということなのだろうか。転職の可能性は私にひとつの希望をもたらしていたのだが、この国の定年はあまりにも早く、残酷だと思う。

 仕事の面接では独身かとかならずチェックされた。たしかに35歳というのは家庭や子どもをもっていてもおかしくない歳だ。私はひとりが好きだし、家族というのはもう終わりかけていると思っていたから、結婚願望はほとんどもたずにこの歳まできたのだが、世間はそれに一瞥をくわえるのだと思った。あまり他人の目は気にしないが、家庭をもたないままこのまま行くのかと思うと、ちょっと生命としての役割を果たし終えていないのかなと思う。

 私はどのような人生をのぞんでいたのだろうか。いまの人生は私がもとめてきたものなのだろうか。私が願ったものとしての結果がいまの人生なのだろうか。

 子どものころ、私はマンガや映画が大好きだった。時間がもったいないので、毎日夜遅くまでそれらにふけった。音楽も好きで、一日じゅう流しっぱなしにしていた。でもいまはマンガや映画、物語などに深く没入することはなくなったし、音楽はべつに聴かなくても平気になってきた。子どものころ親は映画や音楽にぜんぜん興味がなくてつまらない人だなと思っていたが、いまの私はそういう気持ちがわかりだしてきたということである。

 35歳で転職の可能性がなくなるというのはたいへんつらい。40歳や50歳の人がどうやって生きているのか、とんでもない偉業に思えてくる。でもふつうの人はひとつの会社を長く勤めるのが当たり前であり、いつもほかの仕事の可能性を思い描いたりしないのだろう。同じ会社、同じ仕事をよくつづけられるものだと私には思えるが、たぶんそれがサラリーマンの王道、常識なのだろう。私はそんな人生は退屈だと思っていたが、それが職業人にもとめられる資質なのであり、最低条件であるということを、私は知らずにきたみたいだ。

 まあ、35歳で人生は終わりだという気持ちはもう捨ててしまおう。落ち込んだところでなんにもならないし、条件は抗うより受け入れるしかない。決めつけるのもよくない。仕事の可能性は断たれたとしても、ほかの希望や自由はまったくなくなるというわけではないのだ。ひとつの可能性は失われたが、ほかの可能性をもとめるしかないのだ。私は転職がいくらでも可能だからやり直しはいくらでも効くという幻想に酔っていただけかもしれない。そんな可能性は夢だったのかもしれない。






   なぜ仕事についての本は少ないのか    2002/11/2


 働く人としての気持ちを語った仕事の本というのはなぜこうも少ないのか。いろいろな職種についている人がどのようなことを思い、感じながら、仕事をしているのか、そういったことを語った情報がひじょうに少ない。

 たとえばコンビニの店員がどのような気持ちでレジを打っているのか、コンビニに荷物をはこぶトラックの運転手がなにをしんどいと思っているのか、長距離のトラック運転手がなにを思って仕事をしているのか、路傍にたたずむガードマンは暑さ寒さをどう思っているのか、郵便配達人は自分の仕事をどう思っているのか、ライン作業に従事している人は時間をどうやってやり過ごしているのか、などの情報というのはなかなかほかの人の耳につたわってこない。

 ハローワークや求人情報誌の求人票とかを見ていると、こんな少ない給料でどうやって生活をやっているのかと心配したりするが、こういう情報もほとんどつたわってこない。みんな給料をいくらくらいもらい、どのように使い、どのくらい必要としているのか、足りないときにはどうしているのか、といったこともまったく聞こえてこない。

 ビジネス書はたくさん出ているが、How toモノや評論っぽいものだりして、仕事の内実についての本はなかなか少ない。そもそもこういう本を書く人はおもに著述をなりわいにしている人であって、じっさいの仕事にはあまり関わっていないのだろう。

 仕事の内実についての本はなんでこんなに少ないのだろうとずっと思ってきた。もし働く人の仕事についての思いがまるごとわかれば、職種選びもイメージもしっかりしたものとなると思うのだが、そういう本はなかなかない。

 とくに現代のような働く意味が不確かになり、フリーターやパラサイトで過ごす若者がふえているように、仕事の情報はもっと求められるはずだと思うのだが、なぜかそのような本がふえることはない。

 人は他人の仕事なんかに興味をもたないのだろうか。他人の職業の悩みや苦労なんかに興味をもちたくないのだろうか。人の苦労なんか背負いたくないということなのだろうか。

 この世はみんながそれぞれ分業することで効率的な社会がなりたっている。食料はスーパーに行けばだれかが揃えてくれているし、郵便物もだれかが家のポストまで運んでくれるし、服もだれかがつくってくれている。カネさえ払えればそれらが苦もなく手に入れられるのだから、他人の仕事の苦痛なんか垣間見たくないということだろうか。カネを与えるのだから、かれらの苦痛はご免罪になると思っているわけだろうか。

 職業というのは他人の苦労をかわりにひきうけるものなのだろうか。職業というものはだから、人の気持ちまで知りたいとは思わないということなのだろうか。働く人の苦痛を知ってしまえば、この分業社会は崩壊してしまうのだろうか。われわれはアフリカの飢餓民には憐れとボランティア精神を与えるが、となりの苦悩する職業人には愛の想いは送り届けないということか。

 ともかく仕事についての本は少なすぎる。個人の仕事観なんてつまらないと思うのか、仕事や生活の情報をあつめた本というのはあまりにも興味をひかないのか、こういう本を見かけることはほとんどない。私としてはいろいろ参考や知識の幅をひろげることができると思うのだが、人々はあまり必要としていないということなのだろうか。

 職業が研究の対象になることもないし、文学の題材にもなることも少ない。われわれの大半の人が従事し、一生の多くを費やす作業なのに、仕事というのは驚くほど無視されている。儲け方、How to、経済状況についての本はあふれるほど出ているのに、仕事についての感情はほとんど無視されている。なぜ職業をとりまく知識の量は貧困で、お寒い限りなのだろう。

 ぜひとも「職業学」とか「ある職業についての心理状況」とかの研究分野をつくってほしいものだ、働く人が幸福で快適に生きるために。そしてこれから仕事につく人があやまった選択をして不幸な生涯を送らないために。







   生活費はいくらかかる?    2002/11/3


 私はだいたい一ヵ月を切りつめたら11万12万くらいで生活できる。家賃がワンルームで5万3千円、光熱費は合計で一万以内、あとは食費4万くらいともろもろ。趣味は本とハイキングの電車賃にかけるくらい。みなさんは最低でどのくらいで生活できるんだろう?

 家賃5万3千円は高いと思う。駅からは近いが、日当たりは悪く、前はマンション、つまり道路の反対側を向いており、景色はまるでのぞめない。もう12年は住んでいるからけっこう暮らし好いのだろうが、家賃は毎月いるものだからもっと安く抑えたい。市営住宅とか安いところを探したいと思っているけど、入れるのだろうか。でも民営でベッドしかおけないような安いところは避けたいと思うけど。

 ロケーションは大阪市の南端で、自転車で大和川河敷や長居公園、堺市の大仙公園(仁徳天皇陵)などの緑の多いところに行けて、まあ気に入っている。大きな書店のある天王寺や難波までは20分くらいで行けて、ある程度は便利だ。快速にのらなくてもすむから郊外行きの混雑は避けれてとてもありがたい。

 食費4万はもっと抑えれればいいけど、男のひとり暮らしで料理の節約はなかなかむずかしい。惣菜とかレトルト、コンビニとかに頼ってついつい高くなる。さいきんは百円ショップで食べ物を買うことが多くなった。1リットル・コーヒーやレトルト、チャーハンの素とか、かんづめで安く抑えることを覚えた。コンビニは定価販売で高いことにさいきん気づいた。百円ショップの安さのせいでコンビニの没落はもうはじまるのだろうな。

 月12万円で生活はできるが、国民健康保険が2万も3万もするようになると、銀行引き落としのため、口座からお金を退散させる。国民年金はあいかわらず払えていない。払いたいと思っているのだが、正社員の仕事になかなかありつけず、生活の安定と余裕のめどがいつつくかわからず、ずっと払えずにいる。25年以上払わないと年金はもらえないので40歳までには継続的に払わないとヤバイのだが、生活はいつ安定できるようになるだろうか。

 もし年金がもらえなくなったら老後の生活はどうしたらいいのだろうかと不安に思う。働けばいいと思うのだが、ただでさえ高齢者の雇用は少なく、はたして職は見つかるのかと思う。ガードマンとか駐車場の管理の仕事にありつけるだろうか。あと30年後、はたして年金は破綻しているのか、それとも高齢者の雇用はもっと増えているのか、いったいどうなっているのだろう。それどころか、その歳までちゃんと生活できているのかすら不安だ。

 私は経済力がないので、結婚はほとんどあきらめているが、所帯をもつには給料が月どのくらいあればいいのか、だれかに聞いてみたい気がする。ハローワークの求人票とか見ていると20万、15万もない仕事も多いが、この給料で妻や子を養っていけるのかと思う。どうやって生活のやりくりをしているのか教えていただきたい。いまは男だけではなく、妻もパートに出たりして共働きするから、男の給料が少なくてもやっていけるのだろうか。でもパートの給料って時給が700円800円で、ほとんど儲からないのだろうな。

 月12万くらいで生活して、のこりはできるだけ貯金にまわしたい。私の将来は不安だらけだ。仕事はまたいつ辞めてしまうかもわからず、雇用保険もないので失業期間中の生活費のたくわえがぜったい必要だ。でも35歳を越えた私につぎの仕事が見つかる保証はかなり少ない。いまの仕事を辞めることはできないと思っているのだが、どんなツライことが待っているかもわからず、忍耐力がどこまでもつかもわからない。私の将来はかなりヤバく、転職の定年を越えた私には、不安と絶望感が襲いかかっきてたまらない。

 私は若いころ労働が少なくなることをずっと夢見てきた。仕事や会社の重要性を少しでも減らすことが理想だった。でもきちんと働かないことに生活できないし、将来の安定はのぞむべくもないし、過去の経歴をまともなものにしないと、生きてゆくことすら困難であることがわかりだしてきた。

 いったい私の夢はなんだったんだろうと思う。なぜそのような理想をいだけたのだろうか。若かりしころの無知のゆえだったのだろうか。職業やカネについてのカンがあまりにも現実離れしすぎていたのだろうか。転職の可能性が閉ざされる年齢になるにいたって、仕事とカネの厳しさをひしひしと身をもって感じるしだいである。労働を少なくするという夢は、現実の厳しさのまえに泡と消えるしかないのだろうか。。。 ああ、レ・ミゼラブル。



 ■021123断想集




    社会の入り口とひきこもり      02/11/23


 学生のときに社会をみると得体の知れない恐ろしいものにみえたものである。軍隊や監獄のような会社がまっており、自分は会社に選別されないのではないかという恐れのもとに社会の入り口にたっていたものである。

 私がかろうじて社会の中で生きていけるのは無知とひとり暮らしの食いっぱぐれる恐れからだろう。もし私の親に金があり、パラサイトしておれば、いつ私も自堕落なひきこもりになっていたかもしれない。

 ひきこもりは問題であるとはいえないと思う。親に経済力があり、暮らしがなりたつのなら、こんなに贅沢で楽な暮らしはないだろう。はっきりいえば、戦後の日本は室内にTVやゲーム、ラジカセやパソコンなどの生活の宝物をいっぱい貯め込んできたわけだから、ひきこもりは日本人がめざしてきた至福の生活だともいえる。なんの問題もない。

 外で働くことはたいへん実り少ないツライことである。だれだって早朝いつまでもふとんの中でまどろんでいたいだろう。親たちはそういう願望を殺して必死に働いてきて、子どもたちにはもっと楽な生活をさせたいと願ってきたのだが、ひきこもりはその願望を皮肉なかたちで果たしたのである。戦後日本人の願望は人との縁を断ったひきこもりであったのかもしれない。

 私たちの現今のふつうの暮らしだってほとんどひきこもりに近いものだ。スーパーやコンビニで人と話されることはないし、近所のつきあいも疎遠だし、会社にいけばひとつのビルに閉じこもることになる。失業の経験の多い私はなおさらその期間中は社会から断たれた自由な時間を満喫することになる。「あ〜、これこそがなにものからも解放された自由な時間だ」と平日昼間の公園で思うわけだ。

 ひきこもりは必死に働いてきた親たちのネガであり、抑圧した影の部分であり、願望であったといえる。そして親たちはその願望を自分たちの生活にとりいれることもせずに、子どもたちだけにたくした。アホみたいに働きつづける親の経済力のおかげで子どもたちは悠々自適の生活をマイホームで過ごすのである。「目的なき労働主義」のゆがんだ遺産である。

 ひきこもりにしろ、登校拒否にしろ、フリーターにしろ、かれらを新しい異常のカテゴリーにいれるのはまちがっている。逆に自分たちの社会の容れものが「異常」であることのシグナルであると捉えるべきなのだ。異常なのは自分たちの社会だ。労働強迫社会、なかよし強迫観念の学校への拒否と抗議なのである。常識への挑戦である。しかしオヤジの社会は時代の変節を見抜けない。

 オヤジたちは自分たちの生活と老後を守るために必死である。だから社会を変えられない。食いぶちを失えば生活設計はなりたたないからだ。オヤジたちは日本型社会主義を守ろうとして、つまり自分たちの世代を守ろうとして、新参者の企業への門戸をとざした。若者はバイトか失業せざるをえない歓迎されざる客となった。若者の失業率10%を将来の危機と捉えるものはいない。労働意欲がないと若者のせいになるのみである。

 あいかわらず労働=成人説のなかで、若者の求人状況は確実に厳しくなっており、歓迎されざる若者はちょっとしたきっかけで社会への糸口を失ってしまうことになる。家の外に出られなくなるのはそのふがいなさと自責の念の悪循環におちいってしまうのだろう。自分の異常感を常識の転覆によって払拭することがたいせつなんだろう。発想を変えれば、自分は異常ではなんでもなくなる。出られなくしているのは自分の考え方のみである。

 ひきこもりが危機なのは、親の経済力がいつまでもつづくわけではないという一点だけである。過去には親の遺産で暮らした金持ちの息子はたくさんいる。ひきこもりはそういうライフスタイルの一端だとみなせばいいのである。

 ただ親の経済力がなくなったときはどうしたらいいかというと、もしかして長生きする親の年金にたよればけっこう歳がゆくまで生きてゆけることもできるだろうし、政府のサービスもうけることができるだろうし、崖っぷちに立たされれば人は変わるかもしれないし、またはそのときがくるまで死生観を磨いておくのもひとつの手かもしれない。経済のためだけに生きてきた親たちの遺産で生きることはなんの非難される筋合いもない。

 ひきこもりはなんの問題もないのである。ただ当人が苦しいのならそれは問題と捉えるべきだ。われわれの社会は若者たちを家の中に追い込む社会をつくってしまったのである。親たちの過剰な経済信仰、孤立する近隣社会、そして断絶された企業社会が居場所のない若者たちを大量にうみだしたのだろう。問題は脱落する者ではなく、脱落者をうみだす社会の側にあると考えるべきである。





     帰って寝るだけの生活      2002/11/30.


 いまは新しい仕事に慣れていないため、疲れて帰って寝るだけの生活である。メシを食い、ふとんのなかでだら〜とTVを見ながら、電気もTVもつけたまま歯もみがかず眠ってしまうのがクセになっている。

 私の好きな本屋めぐりも読書も平日にはほとんどできず、ただ仕事と寝るだけの毎日である。疲れていると世間や物事への興味とか好奇心もわかず、茫漠たる日々を送ることになる。

 日雇い労働者の唄『山谷ブルース』みたいに「♪メシ食って寝るだけ〜」の生活である。でもこんな生活は日雇い労働者だけではなく、大企業でも中小企業のふつうのサラリーマンでも送っているのが現実というものだ。私は20代のころ、こういう生活だけはいやだと思っていた。自分の時間、自分の趣味の時間が奪われるのはたまらない屈辱だと思っていた。

 しかしまいはこういう生活はどうしようもないとあきらめるようになってきた。仕事を確保しつづけたり、生活を維持しつづけるためには避けようがないのだ。だから怒りも悲しみも思わずにただ日々が過ぎてゆくようにしている。

 自分の趣味の時間、自分の時間をもつことはたいせつなことだ。でも自分の時間を確保しようとすると、仕事や残業の時間をたいへんに嫌うことになり、少ない自分の時間に悔恨や後悔が多くなり精神的にもあまりよいものではない。だから自分の時間に執拗にこだわるのは得策ではないと思うようになった。また悲しいことだけれども歳をとって少年のような好奇心や充実をもてなくなったこともあるのかもしれない。あるいは仕事に追われて疲れているためかもしれないが。

 人はどうやってこの仕事だけの生活に慣れているのかと思ったこともあったが、おそらくそういう人は仕事の充実をイコール自分の時間の充実だと思い込んでいるのだろう。仕事を自分の充実だとみなせば残業だろうが徹夜だろうが、もっと過酷になっても喜びに変わるだろう。私はこう見なしたくなかったから、仕事の毎日への苦痛と憎悪をいだきつづけたのだろう。

 仕事を自分の人生の充実だとみなせば、たしかに過酷なハード・ワークでも充実したものとなる。おそらく旧い世代の日本人は仕事と自分を分けて考えなかったのだろう。だから仕事の充実を自分の人生の満足だとみなせた。幸福な世代ともいえるし、愚かな世代だともいえるだろう。

 若い世代はどうだろう。自分の趣味や消費に楽しみをみいだす世代は、仕事を自分の時間か、もしくは奪われた時間のどちらだと思っているのだろうか。若いころはつらいかもしれないが、時間の流れとともに仕事の充実をむりやり自分の充実だと思うように慣らしてゆくのだろうか。そうしなければ長時間仕事なんかしていられないものだからだ。

 自分の趣味、時間を充実させようとすることは、現代の労働時間、労働慣行からすると、ツライことである。会社の都合によって自分の時間なぞおろか睡眠時間さえ満足にとれないこともある。そのような状況の中で自分の時間を充実させようとすることはものすごく苦痛なことである。しまいには時間とともに自分の趣味も好奇心もはたらかない中年になってゆくのだろう。

 日本という国は自分の趣味や時間を充実させようとする政策をもてなかったようだ。会社に人々の時間を自由にさせ、個人としての時間を国が守ろうとしなかった。人々も自分の時間より、仕事の時間を選んだ。お金がもっと必要だったからかもしれないし、あるいは企業の権力が強すぎて慣れるしか仕方がなかったのかもしれない。そうして人々は仕事を人生の充実だとみなすように訓化させてゆき、自分の時間あるいは自分の人生というものを見失ってゆくのかもしれない。自分の人生を大切にしないかぎりは、消費も経済ももりあがるわけなどないのだが。

 仕事だけではなんのための人生かまったくわからない。しかしこの国の人々や政府は仕事だけの国家を営々と存続させたいみたいだ。ヨーロッパの人々なら生活者や消費者としての時間と権利をとうぜんに守ろうとするのだろうけれど、かれらは繁栄と栄華をとうのむかしに経験した大人の国だからそれもできるのだろう。日本人がそうなるには繁栄しつづけることへの徒労感とか苦労とかをじゅうぶん味わい尽くしてからだろう。

 私は社会に出てから十数年ようやく自分の時間の充実に必死にしがみつかないようになってきた。自分の時間を充実させようと思っても時間はただ無意味に流れてゆくだけだし、さいきんは歳をとって好奇心が薄れても仕方がないと思うようになってきたのかもしれない。仕事との対比としての自分の時間を充実させようとすると、あまりにも苦痛が大きい。

 私も仕事を人生の充実だと考えるように転換したほうが、健康上にはよいのかなと思う。そっちのほうが現代では生きやすい。働かなければメシが食えないわけだし、いまの社会では趣味の充実を仕事より高級で尊重させるものだと考える人は、あるいは実践を褒める人はたいへん少ない。「労働マシーン」になることが評価の高いことだ。生きるためにはそうマインド・ブレッシュしたほうがいいのかもしれない。






   ホームレスになる自由がもどってきた時代    2002/12/2

 
 現代のだれもが好き好んでホームレスになりたいとは思わないだろう。げんざい急増中のホームレスも職や家を失った結果、やむをえず路上に寝泊まりせざるをえなくなったと考えられるだろう。

 ただホームレスのなかにはみずからのぞんでなる者やその境遇をたのしんでいる者も中にいるようだ。こういう嬉々としたホームレスをみていると、われわれはあらためてホームレスになる自由が奪われた時代に生きていたのだと気づく。

 いままではホームレスになる自由がなかった時代といえるだろう。きちんとした勤め、きちんとした家をもたなければ、まともな人間じゃないという常識があたりまえのようにあった。

 経済はどんどん成長してゆく、給料もどんどん上がってゆく、出世のチャンスもある、家電やクルマ、マイホームなどほしいモノもたくさんある、といった状況のなかで人々はそういう常識をつちかっていったのだろう。そういう生活を維持できる土壌があったのだ。

 だがかつては乞食や浮浪者といった人はあちこちにあふれていたのではなかったか。そういう人たちが姿を消していったのは、だれもが職にありつける経済成長のおかげもあっただろうが、たしか浮浪罪とかの取り締まりもあったと思う。浮浪者たちは路上から消されていったのである。

 ホームレスになる自由が奪われていったのである。もちろんホームレスはみじめで、あわれで、悲惨なものである。人々は人間らしい生活をさせようと経済援助やら教育やらをほどこし、または牢獄に収容したのだろう。そして人々にふつうの「人間らしい暮らし」をさせていったのだろう。

 われわれは勤めと家をもつふつうの人となった。ホームレスという可能性はほんのわずかな人のものだけになった。

 街中から乞食や浮浪者といわれる人たちが一掃されてだいぶたってから、ながらくつづく経済不況のためにホームレスとよばれる人たちがあらわれだした。公園や河川につづく青テントにさいしょはとまどいと奇異を感じたが、現代の警察や政府はかれらを排除したり収容したりはしないようだ。政府も国民もかつてのようにこういった人たちを排除しようとする気力や気概、あるいは目的意識を失ったようだ。つまり救おうとか消そうというはっきりした意識をもたなくなった。

 これは政府も国民も標準的な暮らしを人々におこなわせようという意識を失ったことを意味する。つまり生活の標準モデルを強制しようとする意識が、人々からも政府からも失われたということである。これは静かであるが、とてつもない変化ではないだろうか。なぜなら人々の画一性の相互強制力がなくなったということだからだ。

 われわれは人々からなにかを強制されるということがなくなったのではないか。つまり生き方やスタイルの自由がより広がったということだ。生き方の自由はホームレスも含まれる。われわれはふつうの人がおこなうべき標準的な暮らしをしない人たちにも寛容になりつつある、あるいは口出しもしないようになりつつあるのだ。

 標準的な暮らしをつづけるのはラクではない。会社に毎日通いつづけなければならないし、仕事はツライし、キツイし、耐えることガマンすることは山ほどあるし、そんなツライ思いをしてようやくもてるのは家や家電やクルマや、はたしてほんとうに必要なものかといえるものばかりだ。

 ホームレスになれば必要なのは食費だけだ。電気代も水道代も家のローンも払う必要もない。ただ食べるためだけの生活ができる。だれも好き好んでこんな生活はしたくないだろうが、人が生きてゆくために必要な稼ぎとはほんのわずかにすぎないことを思い知ることができるだろう。このような生活をしてみて、はたしてたくさんのローンや支払いが必要な生活にもどってゆけるだろうか。

 ホームレスというのは生活のリ・ストラクチャリングになるものだ。ホームレスをする人がふえるというのは、生活の幅がひろがるということ、暮らしの立て方の幅がおおいにひろがるということだ。だれもがめいいっぱい働いて、めいっぱいモノをあつめるという生活をしないでもよいということだ。稼ぎもモノもすくない生活を選んでもよくなるということだ。ホームレスは人々のライフスタイルの幅をひろげる契機になるだろう。

 日本はこれからむかしのように乞食や浮浪者をたくさん抱えたもとの社会にもどってゆくのだろうか。人は自由だけれど、人の生き死にも自由――つまり放ったらかしにされる時代になるのだろうか。それはキビしくさみしい社会かもしれないが、すくなくとも生き方の幅と選択の自由はひろがるだろう。







     2002年、ことし考えてきたこと      2002/12/7


 ことしの前半は興味が薄れてあらためてふりかえると、われながらあまりにも一般性のないことに没入していたんだなと思うが、霊魂のことについて考えてきた。霊魂があるかないかということより、そこから得られる知識と、むかし人々が霊魂とともに存在する世界観に生きていたことに不思議な感をおぼえた。

 ことしはハリー・ベンジャミンの『グルジェフとクリシュナムルティ』(コスモス・ライブラリー)という本とであってから、だいたい方向性が決まった。

 この本にはまだあやふやな理解だった自我の虚構性がはっきりのべられており、それとわれわれがしじゅうおこなっている「内なるおしゃべり」――他人が自分をどうあつかったとか自分の価値賛美キャンペーンなどを頭の中で語りつづけること――の愚かさに気づかせてくれて、たいへんに感銘した。おかげで心を清澄にするいい契機になった。

 この考えは神秘家のグルジェフがもとになっているから、グルジェフの本を何冊かたてつづけに読んだのだが、あまり得ることはなかったと思う。

 心の幻想性や身体の幻想性に気づいてから、もっと怪しい知識もOKという気持ちになり、チャネリングの本を数冊読んだ。『バーソロミュー』(マホロバアート)、『エマヌエルの書』(VOICE)、『ラムサ』(角川春樹事務所)、『セスは語る』(ナチュラルスピリット)はスゴイ知識だなと思う。霊界の存在が語っているということになっているが、そういう霊的な世界観はかなりアヤしいのだが、心理的な知識にかんしてはまったく非の打ち所がないことを語っており、学びがいがあった。

 チャネリングの本を読んでから、霊魂の実在性を信じてきた古来の日本の霊魂観をさぐりたくなって、日本のむかしの民俗学あたりを読んでみた。日本は霊魂というものの実在を信じ、それは怨霊や神となって政治すら動かしてきた歴史があったのである。霊魂は愚かな迷信としてしりぞけられないほど、歴史を大きく動かしてきたのである。

 そのあと片山洋次郎『整体――楽になる技術』(ちくま新書)にであい、ある感情は身体をどう動かしているのか、筋肉から知りたいと思うようになった。たとえば怒りは背中の筋肉を固めたり、不安や恐れは胸や腹の筋肉を固めるといったことなどだ。こういう感情と筋肉の関係を知り、感情のコントロールをもっと容易なものにしたいと思ったのだ。こういうことを追究している人も本もあまりないみたいだ。

 しかたなく身体雑学の本などをいくらか読み、精神と病気のかかわりを解明する心身医学に歩をすすめたが、病気を精神分析的に解明する知識はいまはかなり御法度みたいだった。精神的に解釈しすぎると科学でなくなるからだろう。でも精神的な病気観は役に立つと思うし、おもしろいと思うんだけど。

 そのあとは失業中の金欠のため百円本を中心におもしろうそうな小説をてきとうにさがしもとめた。純文学/大衆文学という分け方に縛られずに、ともかくおもしろい物語をみつけたいという気持ちで本をさがした。なにがおもしろいのかわからないから暗中模索だ。ポール・ギャリコ『雪のひとひら』、ケン・グリムウッド『リプレイ』、北杜夫『輝ける碧き空の下で』(新潮文庫)などがとくによかった。

 まあ、ことし考えきたことはだいたいこんな感じだ。グルジェフ、チャネリング、霊魂の民俗学、心身医学、小説といった感じだ。あまり社会的、経済的なことは考えなかったな。おもしろい小説をさがしつづけるかはまだわからない。評論系の本のほうが価値があり、おもしろいという感もあるから、もどるかもしれない。

 それは興味ひかれる本との出会いしだいである。そういう本にであえば、ひとつのテーマを深く掘り下げる楽しみができる。こういう読書がいちばんたのしく、充実している。これはお金がなければできない。高い単行本を買えないと専門的なテーマ読書はまずできないからだ。仕事をしっかりとつづけて、来年は深く掘れる読書ができればいいなと思っている。







    『ダ・ヴィンチ』のブック・オブ・ザ・イヤー2002について      2002/12/9


 『ダ・ヴィンチ』という雑誌は創刊から一、二年は買いつづけた。ヴィジュアル系の本の雑誌ということで、読書をファッショナブルなものにした試みはエライと思う。

 だけど私が好きな思想や社会学はほとんどとりあげられないので、いつか読むのをやめた。思想家やアカデミズムもヴィジュアル的にとりあげればカッコいいと思うんだが、『ダ・ヴィンチ』のベクトルは、コミックとかミステリーのほうに傾いたみたいだ。思想はカッコイイとひっぱる試みは可能と思うんだが。

 今回はことしのブック・オブ・ザ・イヤーについてのべたい。でもほぼ読んでいない本ばかりだが。ことしの一位は村上春樹の『海辺のカフカ』だ。純文学系ではダントツだ。たぶんアメリカ的なカッコよさをもった作家はほかにいないということだろう。オンリーワン作家だな。

 二位はマンガの『ONE PIECE』だ。「人生のドラマが集約されている」というが、私はあの絵柄だけで敬遠したくなるが。三位は宮部みゆきの『あかんべえ』。一冊くらいは宮部みゆきは読んでみたいな(『火車』とか)。あと江國香織とか高村薫、乙一とかいう人が入っている。ミステリーは人気みたいだが、私はどうも犯人をさがす話のどこがおもしろいのかわからない。マンガの浦沢直樹の『20世紀少年』というのは「ともだち」に支配される日本を描いていて、「ともだち至上主義」にアンチを唱えた本だとしたらエライ。

 ノンフィクション系では日野原重明という医者の『生き方上手」という本が評価が高かったみたいだ。なぜこういう本を読みたくなるのか私にはよくわからなかった。斎藤美奈子の『文壇アイドル論』は私もおもしろうそうだと思った本だ。

 海外文学では『ハリーポッター』系のファンタジーが人気があったりする。『ハリーポッター』がうけたのは「隠れた才能」モノだったからだろう、よくは知らないが。アレックス・シアラーの『青空のむこう』はよかったみたいですね。『リトル・ターン』は飛べない鳥の話で、五木寛之っぽい。しみったれていると思うが、心の浄化はあると思う。

 評論家があげた本はやっぱり玄人っぽい。リチャード・パワーズ『ガラティア2.2』は難解そうだが、ピンチョンみたいにワケわからんのかな。コリー・ウィリスという人が臨死体験をえがいた『航路』はおもしろいのかな。

 マンガでは『黄色い本』というのが評価が高かったみたいですね。身体は現実を生きながら頭の中は本でいっぱいになっているというのはたしかに問題だ。いしいひさいちの『現代思想の遭難者たち』は思想家をよくギャグ・マンガにできたものだと思う。

 まあ、以上あげた本はことごとく読んでいない。それなのに一言いう意味はあるのかと思うが、まあ世間の話題にもすこしばかり触れたいということである。

 ことしのブック・オブ・ザ・イヤーというのはいまの時代の流れを反映しているといえるのだろうか。ベストセラーとかはあまり時代と関係ないように思うが、どこかに時代の反映があるのだろうな。

 私のことしはあまり社会・経済的なことは読まず、霊魂とか身体とか時代とかかわりのないことを読んでいた。景気が落ちてゆくばかりで希望がないから社会的な変化に興味がなくなったということもあるかもしれない。もう社会の変化に目を向けてもしかたがないという気分なのかもしれない。あるいは目を向けたくなったのかも。希望のない時代はとうぶん終わりそうもない。







     35歳、年をとるということ       2002/12/15


 35歳になって年をとったという感はまったくないが、やっぱり若いときにくらべていろいろ変わった。いちばん変わった点は生活の比重が大きくなったということだろうか。働くこと、お金を稼ぐこと、お金のやりくり、生活のこまごまとしたことが人生のメインとなってきて、趣味とか遊びの比重がしらずしらずのうちに低くなっていたことに気づく。

 家庭をもっていたらなおさらだろう。生活や仕事、子どものことに追われて、とても自分のことや趣味の時間にかまける暇はなくなっていることだろう。生活感にあふれるということである。若いときみたいにカッコつけるということが重要でなくなり、いかに安いものを賢く買うかということに重点がおかれる。若いときに熱中したブランドなんかほとんど興味をなくしている。

 大きく変わったもう一点は、自然の風景が好きになったということだ。子どものころ遠足なんかで山や渓谷につれていかれる意味がまったくわからなく、嫌いだったのだが、いまではすっかり自然好きになってしまった。緑の風景がたまらなく心を癒すのである。この変化は自分でも驚きだ。

 子どものときに大好きだった映画やロックはかなり興味がうすれた。べつにそれらがなくてもほとんど気にならなくなった。熱中度が話にならないくらい低くなった。なんでなんだろうな。子どものころの世の中の学習期間が終わったということなんだろうか。

 音楽のヒット・チャートはもう20代半ばころから、これはもう子供向けのものなんだなという感がしてきた。大人になった自分が聞くには恥かしい気がしてきた。いい曲があっても、十代のようには感情移入できなくなっていた。醒めてしまったんだな。いまはふう〜んという感じで外側からながめる感じだな。

 あんなに好きだった映画を見なくなったのは、私が哲学や社会学などの活字を好むようになったことと関わりがあるのかもしれない。物語には没入できなくなったのだ。

 ぎゃくに十代のころは小説や学術書は読みたくても読めなかった。活字を想像力で組み立てる頭の力が育っていなかったのだろう。高校のときは読めなかったものが大学のころには読めるようになったのは、なんだろうな、活字に価値をおく環境に身をおいたからだろうか。ちょうど村上春樹の本がファッションになっていたころだ。しぜんに言語能力が育っていた。この裏側には映画や映像への興味の低下がある。

 TVはよく見ているほうだ。仕事で疲れて帰ってくれば、TVでのぼんやりした時間が心を落ち着けてくれる。ドラマであったり、バラエティーであったり、ニュース番組であったり、安らかでささやかな楽しみだな。活字が好きな一時期TVを否定したこともあるが、いまは無邪気な楽しみを否定するつもりはない。

 マンガは小中学校は熱中して読んで自分でもマンガを書くほどだったが、早くも高校のときには飽きていた。やっぱり子どもっぽいと思って卒業したのかな。でもいまはマンガ市場が拡大して大人でも当たり前にマンガを読んでいるが、私はどうもマンガを読みたいとは思わない。否定する気もないけど。

 人がつくった作為的なものはトータルに興味をなくしていると思う。ファッションとかモノとか、デザインものとか、そういうものの優れたものをほしいという欲求はほとんどなくしている。産業に踊らされているということに気づいたり、価値のランクづけみたいなことに興味をなくしたりして、よいものを求めるという気持ちはなくしている。これはオトナになったということか、産業のニヒリズムにとらわれているということか、それともたんにお金がない、稼ぐ力がないうことだけなのかもしれない。

 友だちは25くらいまではひんぱんに遊んでいたが、友だちが結婚するころにはつきあいはなくなっていった。いまはいつもひとりだ。いまさら友だちと遊びにいくところなんてないと思う。まあ、子どものころから大人になれば友だちはいなくなるものだと思っていたから、べつになにも思わない。

 恋愛にはほとんど興味をなくしている。十代のころには一途な想いみたいなものをもっていたが、いまはそんな思いこみはなくなった。女性を人格の思慕の対象と思うより、肉体や性愛の対象とのみ見ることが多くなった。オッサンになったということだな。でも私は経済力がなく、結婚する夢もなく、ほとんど性欲すら枯れかかっているというしだいだ。

 健康面で年をとったという感はほとんどないが、歯は二十代後半にぼろぼろと欠けてしまって、銀歯が多くおおっていてサイボーグみたいだなと思ったりする。

 35歳というのはふつうなら結婚して子どもがいて会社でも中堅にさしかかり、そろそろマイホームのローンを支払いはじめ、若者のマーケットから外れたという年齢だろう。私はもう若者でもないし、家庭をもったり父の立場になったりするという大人にもなっていない宙ぶらりんな状況にいると思う。35歳にふさわしい家庭をもつべく勤めるべきなのか、それともこのまま脱力とミーイズムで全うしようか。35歳というのはもう人生の半ばの折り返し地点を過ぎたと考えるべきなのである。



 ■031221断想集





    心は結果ではなく、原因       2002/12/21


 心のいまの気分や気持ちを過去の結果ととらえるのはまちがいだ。いまあらたに気分や出来事をつくりだしている原因ととらえるべきだ。さもないと沈鬱な過去の呪縛から抜け出せなくなる。

 人はいまの気持ちは過去の出来事のせいだと思いがちである。結果だとみなすと、過去のいやな出来事の犠牲者となってしまう。過去の出来事にひっぱられて、いやなことやつらいことばかり考えてしまうことになってしまう。気分も最悪なままつづいてしまうことになる。

 心はいまあらたにつくりだしている原因ととらえるべきなのである。過去は一瞬にして手放すべきなのである。断ち切れば、過去にとらわれることなく、あらたな現実や未来を選択することができる。

 われわれはついつい過去の出来事を思い出してしまう。思考というのは勝手にわきだして、私たちを過去の思い出のとりこにするものだ。とりとめもなく過去の反芻をすることになる。この反芻はたいていのところいやなことやつらい気持ちを増すだけの結果に終わってしまう。さらにその気分は現実をそのような悲観的なものにかたちづくってしまうのである。

 ものごとをとらえるというのは過去の結果を見ているのではなく、現実をつくりだすということであり、なおかつ未来を決定することである。たとえばなにかの失敗があり、私はダメだと思うと、またもや失敗をつくりだす。不安な出来事があり、その気分をつづけると、不安に色づけされた現実がひきおこされてしまうことになる。

 ものごとをとらえるというのは結果ではなく、現実をつくりだすということなのである。私はダメだ、不安だ、この仕事は合わない、と認識をつくりだすと、未来はしぜんとその型枠のなかに押しこまれてしまうものなのである。心は結果ではなく、まったく原因なのである。

 人は原因であるということを見ない。過去の結果だとみなす。そして過去をとりとめもなく反芻したり、あるいは思考によって解決をはかろうとする。しかし心はいま現実をつくりだしている。最悪な気分や最悪な未来である。

 この悪循環からぬけだすためには心を原因だととらえ、過去の認識をあっさりと手放すことである。過去の認識にとらわれないことである。過去の認識をもったままでいると、過去の呪縛をくりかえす。あなたは過去の認識からずっとぬけだせない。

 頭をまっ白にしたり、空っぽにするテクニックというのはとても重要だと思う。それによって過去の呪縛からときはなたれたり、過去の気分をリフレッシュすることができる。ただ思考を捨て去ることはそうなまやさしいものではない。思考の噴出力と吸着力というものはすごいものがある。断固たる意志が必要なのだろう。

 心は結果ではなく、原因である。いままさに現実をつくりだしている。自分の考え、思ったことが、私の世界であり、現実となってゆく。それを過去の出来事の結果だとみなしたとき、過去の呪縛からぬけだせなくなる。心を原因だとみなしたとき、新しい現実と新しい自分をつくりだせるのである。







    仕事は学力か、社交性か      2002/12/21


 学力があればいい大学にいけていい会社に入れるという神話があったが、私はやっぱり社交性がなければ社会は渡ってゆけないと思う。

 どんな仕事にも社交性は必要だ。営業だって、企画であっても、接客でも、また事務でも製造でも運送でも、社交性は必要である。人間関係のないところに仕事はない。

 でも学校の教育システムってまったく社交性を育てていないんだな。学力さえありすれば、いい学校に入れさえすれば、社会生活は順風満帆といった感だ。ウソだと思う。人と話し、説明し、協同する能力がなければ、ほとんどの仕事はこなせない。

 それなのに学校の教育システムは社交性を育てるばかりか、つみとってはいないだろうか。教師が一方的に話し、生徒は聞き役に徹し、しまいには生徒はみんなの前で発言し、朗読することが恥かしいことや恐ろしいことに思えてしまう。沈黙を強いられるため、人前での発言が禁止されたものに思えるようになるのではないだろうか。

 仕事では人との折衝能力、みんなの前でのプレゼンテーション、見知らぬ人との会話などが重要になってくる。また席に座って知識を記憶するのではなく、仕事では街中に出て行動し、説明し、指示し、協同することがとても大事である。つまり仕事の行動力や計画力、自信や社交性などをそなえていないと仕事などできない。

 学校ではさっぱりそんなものは教えてもらった記憶がない。役に立たない学問ばかりだ。たしかに学校ではともだちとのつきあいを強制される雰囲気はある。しかし同学年ばかりの気楽なつきあいだけで、他学年や他学区とのつきあいはほとんどない。社会で必要になる社交性はどのように育てられるというのだろうか。

 社会に出たらしぜんに身についたり、会社に教えてもらえるというのだろうか。その前に社交性の不安を抱えたものはどうなるというのだろうか。

 私は学生のうちに人づきあいは避けたいと規定してきたほうである。社会で目上の人や知らない人とどうつきあっていったらいいのか不安でならなかった。だから社交性が必要となる仕事はできるだけ避けてきた。選択の幅が狭まるのはとうぜんである。というか、ほとんどないに等しいといったほうがいい。

 知らない人に出会い、説明し、とりひきをまとめるといった営業なんかまるでできないと私は思った。私がやりたいと思った出版の編集なんかもとうぜん取材や折衝が必要であり、ダメだと思った。

 じゃあ、人とつきあわないですむ仕事といったら、技術系かガテン系しかないではないかとなる。私は運送、倉庫関係の仕事に落ちついた。まるで学力は必要なく、体力だけがやたら消耗するが、あまり外部の人との会話は必要ではない仕事だ。そういう面では合っていると思う。だが学力の優越基準ではそうとうのひけ目を感じなくてはならないし、対外的には誇れるものではないし、自分の好きなことをやれているのかと猜疑心にとらわれる。いまではメシさえ食えればそんなことはどーでもよくなったが。

 世間では学力さえよければいい会社いい身分にありつけると思っているらしい。でも私は社交性の基準も必要ではないかと思う。社交性がなければいい会社にありつけないのではないかと思う。

 学校や世間は社交性をあまり基準と考えていないみたいだ。社交性の欠如から社会をながめている私としてはこの要素もとても大きいと思うのだが。学校の優等生が社交性に富んでいるとは思われない。そういう学力優等生を育てても社会での行動性はうまれるものなのかと思うが。

 私に社交性がないのはむろん学校のせいではない。やはり私の考え方、生き方、性格のせいである。ただ学校は社会での社交性の必要性や能力を生徒たちに教えるべきだと思うのである。社交性というのはある程度は訓練だと思う。また人とのつきあいが楽しいと思う価値観でもある。学力だけでは社会は楽しく渡ってゆけないと思う。

 世間では学力さえよければいい人生が待っていると思われているが、これはカンちがいだろう。やはり社交性がなければ実業界は渡ってゆけない。世間は学力だけではなく、社交性の基準も人生を大きく左右することも知るべきだろう。






    哲学趣味は人に話していいものか    2002/12/28


 このHPページ上に書いているようなことは、私はほとんど人に話したことがない。思想や社会学、心理学、仏教などの話は身近な人には話さないのである。

 その理由はいろいろあるが、日常には深い哲学的な話は暗黙のタブーであるというルールがあるような気がするし、また私の職場でであう人たちは読書にコンプレックスや批判をもっていそうだし、自分のホンネにちかい部分や、自分の悩み・不安・コンプレックスをさらけだすのがいやだったり、などと複合的である。

 私のいる労働環境はあまり学歴にいるものではなく、職場の人たちにそぐわないのではないかというのも大きな理由だろう。みんなに受けたり通じる話はやっぱりスポーツか競馬とかそんな話だ。またそんなエラソーな知識をひけらかす自分がそんな職場にいることの異質感もあったりする。

 ショーペンハウアーがかつてふつうの人の精神的優越にたいする屈辱感はすさまじいものがあると書いてあるのを読んで、ムズカシイ知識をひけらかすのを私はやめようと思った。また人にエラソーに講釈をたれるような立場には立ちたくないと思ったことも一理ある。インテリや高慢な知識をもっている「違ウヒト」と思われるのも困ったことである。

 学生時代から友だちとの会話には政治や宗教などの根源的な会話はタブーだというルールがあった。そんな深くてダサイことは考えずにもっと明るく楽しく表層を楽しめという不文律があったと思う。映画や音楽の話はO.Kでも哲学の話は御法度だったのである。

 私は労働至上主義にたいする疑問があったから、とうぜん職場でであう人にはそういう話はすべきではない。利益と金儲けを目的にあつまった人にそういう疑問は口に出すべきではないと思うし、また立場も危うくなる。だから自分のホンネに口をつぐむことがすっかり習い性となった。だからネットは口をつぐまないですむハケ口である。

 哲学趣味を話さないほかの理由には、自分の関心のベクトルはやはり自分の不安や悩み、コンプレックスと関わりがあるから、そういう面がひっぱりだされるのも困るというのもある。自分の興味を話せば、自分の弱さ、弱点が知られるというわけだ。だからとくに心理学には口をつぐみ、自己啓発は恥ずかしくて人に話せないだろう。

 仏教やニューエイジの話などはなおさらできないだろう。新興宗教にたいする批判の目はかなりあり、そんなことを話せば人から変人あつかいされるのは学習済みだし、私自身も宗教の勧誘にはかなり嫌悪を感じていたし、オウム以降はなおさらだろう。ただ人に話さなければどんな本でも自由に読んでもいいだろう。ひとり暮らしは他人に読み物をのぞかれる心配がなくていい。

 そうやってひとりで哲学を楽しんでいるうちに私は自分の興味を人と分かち合いたいという興味を失った。自分さえ楽しめれば人にわかってもらわなくても結構だと思っている。私は人に合せるための趣味が嫌いで、自分だけで楽しめるための趣味をもちたいと思っている。人に知識があるんだぞと認めさせたい認知の欲求は、それを客観的に分析した本を読むことによりだいぶ減ったと思う。

 まあ、まったく人と哲学の話をしたくないというわけではない。げんに人に見せるためにこのHPを書いているし。ただこのHPは顔の見えない日記みたいなものだから、あまり人に向かって話しているという気がしない。だからこそ自分の好きなこと、ホンネがじゅうぶんに吐露できるというわけである。面と向かった会話だったら、日常の会話のルールによりいろいろな制約や禁止、気づかいをこうむることだろう。

 顔を会わせる人とすこしくらい読書の話をしたい気もないわけではない。ただどこまで禁止のコードにひっかかるかわからないし、自分の内面をさらけだす危険性も意識しないわけにもゆかない。またまわりの人から自分たちと違う人種と思われることも集団からの疎外感をつくってしまってヤバイのである。

 ということで私の興味あることはほとんど人と話さない。私の趣味が読書であるということも、ときには人に話さない。一般ウケする話をやはり選ぶ。こういう制約はどこまでもち、どこまで破ってもいいのかなと思う。話せば人は私の話に興味をもってくれるのだろうか、それとも一線を引かれたりするのだろうか。ちよっとくらいカミングアウトしても大丈夫なのだろうか。みなさんはどう思いますか。






   若者の没落と守られた中高年     2002/12/29


 宮本みち子の『若者が≪社会的弱者≫に転落する』(洋泉社新書)をよんだ。若者が社会−経済的に層的なものとして没落しはじめているのに、大人はそれを若者の怠けぐせとしてバッシングして危機を隠蔽していると指摘した本だ。

 なるほどなと思った。若者が層的に「社会的弱者」に転落しているととらえる視点は、流動的になっていた若者の状態を的確にとらえなおすいい機会になると思った。

 若者はいまは空前の失業率と就職難に直面している。学卒者の何割かは就職できないでいる。それなのにマスコミはしかたなくフリーターになったたとしてもやる気がないからだとバッシングし、企業から若者をしめだしているということに目をふさごうとしている。

 それが危機や問題とおもてにでてこないのは、若者は中高年の親にパラサイトできるから生活の困窮に直面しないからである。うまくできていると思う。

 企業は中高年に高い賃金を払い、政府は年金などでかれらをてあつく守る代わりに、若者の賃金を低くすえおくか、アルバイトで雇い、しわよせをかれらに押しつけ、その肩代わりを、また実家で親がしているというわけである。

 そのツケは若者の自立の遅さ、大人として独立できないこと、晩婚化としてあらわれているのである。パラサイトの構造というのは企業の年功賃金――中高年には高く、若者には安くの世代間ギャップが、家庭にもあらわれているということなのだ。そして若者はいつまでも大人になれないで親もとから離れられないでいるというわけだ。

 若者は不況のしわよせを低賃金やアルバイト、もしくは学卒者の就職難というかたちで背負わされている。これはたしかすでにバブル以前からはじまりだしていたことだと思う。低成長の時代になるとまず女性がパートして使われ、つぎに学生バイト、そしてフリーターとして人材のデフレはすすむ一方、中高年の賃金はインフレをなかなかやめなかった。

 学卒者はかつての「金の卵」のようには歓迎されない客となっていたのである。若者はこのような状況にどう適応していったかというと、不登校や中退、無気力、ひきこもり、フリーター、無業者となってあきらめや諦念のため社会から逃避するしかなかったのである。

 西欧では若者の転落はすでに製造業の衰退にともない80年代にははじまっていたそうだ。独立志向のつよい西欧ではそれが十代のホームレスとなってあらわれた。日本では成人してもパラサイトが許される社会だから、社会に参画できない若者はひきこもりや家庭内の葛藤となって内部に鬱屈してゆくしかない。

 若者の社会参画はかなりむずかしくなったのである。学校から企業への橋渡しの有効性がほとんどなくなり、若者は社会に入る糸口を容易にみいだせない。しかも職業スキルも経験もないうえ、企業社会の現実に無知で、過酷な労働にも忍耐を忌避する気持ちがつよい。もう親の庇護のしたで社会から逃避するしかないだろう。

 不況と低成長のしわよせは若者にいっきょにあつまっているのだが、それは親の経済力と若者の無抵抗主義のために、若者の危機は隠蔽され、怠け根性としてバッシングされている。マスコミや既得権益のある中高年はうまくやったものだと思う。

 若者は未来の社会をそのまま体現している。バイトか無業で、親の経済力の庇護のしたに暮らし、なかなか独立も結婚もできず、職業的習熟も身につかない若者が層としてあらわれだしたとき、この社会はいったいどこに転がってゆくというのだろうか。

 若者は西欧なみに層として没落してゆくことを危機問題としてとらえ、社会政策として一刻も早く対策をうつべきなのだろう。企業は世代間の賃金格差を少なくすること、若者を育て、社会保障の問題にむきあわないと、そう遠くない未来にしわよせのツケを深刻なかたちで払わされることになるだろう。

 ドラッカーみたいに未来はもうはじまっているといえるだろう。若者は社会参画ができずに層として社会から没落してゆくのである。正規雇用や社会保障から見放された若者はどんどん増えてゆくことだろう。こういう未来は産業の成熟・衰退により予測されていたことだ。

 われわれはせいぜい金銭消費ライフスタイルの価値観を捨てて、貧しくても楽しく生きる価値観とライフスタイルをあみだしてゆくしかないだろう。豊かであったかもしれないが、会社人間の歴史的ヒサンさをバカにして楽しく生きるしかないだろう。







    無縁社会とホームレス        2003/1/1


 それまで会社勤めをしていたふつうの人がかんたんにホームレスになってしまうのは、この日本は血縁や地縁などの絆がすっかりとたちきられた無縁地獄になったからだと指摘する風樹茂の『ホームレス人生講座』(中公新書ラクレ)をよんだ。

 ふかく反省させられた。自由をねがい、慣習をきらい、孤独をのぞんできた私の理想のみちびく先が鋭く批判されていたからだ。

 無縁とは人々の理想ではなかったのか、それなのになぜ、と頭がぐるぐる回転した。戦後の日本人はまさしく自由やお金のために地縁や血縁をたちきり、会社縁さえも忌み嫌い、濃密な人間関係や滅私奉公を避けるのを理想としてきたのではないか。それが倫理退廃やホームレスをみちびいたとしたら、われわれの理想とははたして正しいものだったのかと反省さぜるをえない。

 地域社会というのはもうほとんど崩壊している。となり近所のつきあいや地縁といったものは都市にしろ郊外にしろ、地方でもほぼないのではないだろうか。会社に勤めたり、郊外にマイホームを買うため、われわれはかんたんに地縁や血縁、故郷をすてた。土地や地域、そしてそこに住む家族や友人、歴史の愛着より、会社やお金、仕事、消費、マイホームをえらんだ。

 都会には人とのつながりも近所とのつきあいも、土地の愛着も共有する歴史もない。われわれはさまざまな縁や歴史、宗教、共同体をそこでたちきった。それらは封建的で、古い因習をまとい、息苦しく、忌み嫌われるものだった。そして都会に出てきて、私たちは人とのつながりを失った。

 都会では会社での縁が強力なものとなった。会社に住居を用意してもらったり、社会保障や家族手当をつけてもらったり、また友人や知人、婚姻相手をみつけたりした。会社は家族や地縁にかわるあたらしいつながりとみなされることもあったが、自由と慣習批判の思考は強力で、会社人間や滅私奉公への批判はそれらの縁もたちきろうとした。会社はしょせんは利益集団なのである。不況期のリストラによりそれらの幻想もきえてしまった。

 国家や会社による社会保障も家族や親族の縁をたちきることに貢献した。年金や健康保険があたえられるのなら、確実にあてになるとはかぎらない家族や親族、近隣の人より、国家と会社がもっと大事になる。老後保障をもとめてわれわれは血縁や地縁をたちきり、孤立し、会社と国家のみにぶらさがることになった。セーフティネットは会社と国家のみしかないのだからますますそれにしがみつかざるをえない。そしてますます血縁や地縁からひきはなされた。

 人間は血縁や地縁、共同体の帰属意識がなによりも大切だという人もいる。それが自分のアイデンティティを保障し、生きる目的や理由をあたえてくれるものだったそうだが、産業の構造転換によりわれわれはそれらの絆からたちきられた。帰属する大きなものを失ったわれわれはモノを所有することによりその穴埋めを代替し、ますますモノにたよらざるをえなくなったということだ。ほんとうにもとめているのは、絆や帰属意識だというのである。

 戦後の日本は敗戦と加害者意識により、国家や地域を愛することをタブーとした。国や土地を愛することは軍国主義につながりキケンであり、民主主義に反することになった。地縁や共同体とのつながり、歴史はますますたちきられ、われわれは根なし草となり、国や地域、歴史からまったくたちきられた何者でもないものとなり、親から子に伝承されるものもなにもなくなった。

 われわれはすべての縁からたちきられたのである。血縁や地縁、土地の歴史、共同体、国。そして会社にしがみつき、孤立的に経済と生産、消費のみにいれあげたが、それだけでさまざまな縁からたちきられた巨大な穴を埋めることなどできるわけがない。人々からきりはなされ、金とモノだけでなぐさめられるだろうか。

 国や地域、歴史からたちきられたわれわれは規範やモラルも失い、私益のみに奔走するしかない。愛するものは国家でも、社会でも、地域でもない。ただ自分だけである。自分とカネだけである。家族も親族も、地域の人ももう守ってくれない。頼りにならない。自分ひとりで守らなければならない。企業や官僚、組織の不祥事やモラル・ハザートはだれも守ってくれない時代の裏返しではないだろうか。

 われわれはさまざまな大きなものを忌避することが理想であったはずだ。それは自由であり、先進的であり、民主主義的だったはずである。しかしそれがみちびいたのは、無縁社会と孤立主義、私益主義、経済・消費主義だった。血縁や地縁、歴史からたちきられたわれわれは心の中に大きなむなしさを抱え、落ちてゆく経済の中でただこれまでの労働・消費主義をつづけてゆくほか道をみいだせない。ふとしたはずみで経済からはじかれた人々はだれにも助けをもとめられず、かんたんに路上や公園におっぽり出されることになる。

 われわれはふたたび血縁や地縁、共同体の歴史といった絆をたいせつにする道をみいだすことができるだろうか。それともわれわれが歩んできた経済至上主義と無縁主義はまちがいではなく、このままもっと進めるべきなのだろうか。共同体の絆をたいせつにするべきかもしれないし、いまさらそんな道にもどれるのだろうかとも思う。経済合理性のために失った共同体の絆をとりもどすべきか否か、分岐点にいることはまちがいないだろう。




愛と憐れみによる励ましとお便りお待ちしております。 
  ues@leo.interq.or.jp


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