ポスト豊かさという大問題 2000/1/20.
豊かさのあとに何をめざすかという大問題がほとんど解決されないばかりか、議論すらされないようである。この問題が解決されないから、大不況はずっとつづいているといえるし、ひとびとや若者の精神の崩壊がはじまっているといえるのにである。
大量生産型の豊かさ猛進という目標は、人々の精神の荒廃を残したようだ。
ポスト豊かさに対処する第一の方法として、いままでどおりの豊かさをめざすという目標がある。インターネットがこの目標のわずかな光である。
でもこれはまだまだ先のことだろう。「買い物便利」というウリでは爆発的繁栄をもたらすとはとても思えないし、いまのコンテンツだけではちょっと役者不足である。
インターネット内で知的優越ゲームでもはじまれば、おもしろいのだろうけど、コンテンツがどれだけ広がりと展望をもたらすかはいまのところは見えない。
ポスト豊かさの目標が見出せなかったら、人々は経済的にも精神的にも落ちてゆくばかりだ。豊かさというのは自転車操業のようなもので、目標と走りつづけることがなければ、ぱたっと倒れてしまう。
これから人々は貧しくなりつづけるだろう。親の世代より豊かになることは不可能になり、いまの年金をもらっている世代あたりがいちばん豊かだったということになるかもしれない。
若い世代は待遇とか地位、貧しさという点で、あれあれ?という感じでずり落ちてゆくことだろう。かつての豊かさ、保障といったものも享受できなくなり、地位の低い人が増えることだろう。
こういう世の中になると、価値基準とかモノサシを豊かさという指標から変える必要がある。落ちてゆくのではなく、違う価値観や目標において優れようとしているのだといったような物語りやモノサシが必要になるのだろう。
つまり豊かさや金持ちかというモノサシだけで物事や人々を捉えないということである。ポスト豊かさにはこういうモノサシや価値観の新基準づくりが急がれるのだろう。豊かさという目標が終わったのなら、そのモノサシもいっしょに捨てなければならないということである。
ポスト豊かさに人々はなにを目標に、なにを糧に生きようとするのだろうか。問いかけも模索もおこなわれていないのが日本の現実である。
このことを自覚しないと、貧しさや落ちてゆくことに日本人は嘆き悲しむばかりで、戦前のようなヤケと自棄をおこすことになってしまうかもしれない。
みなさんもポスト豊かさという大問題とそのあとの目標と生きがいについて考えましょう。
想像力と社会像 2000/1/17.
社会について語るということは、想像力をたくましくするということである。社会というのは虚構としか捉えられない。
わたしが社会について語るのはすべて想像力によってである。そしてそんな世界はどこにもない。わたしの好悪や判断によって「捏造」された社会像が描かれるだけである。
どんなエライ学者の説だってわたしの事情とたいがい変わらない。「学問というのは高級な偏見である」ということである。
そんな想像力が始末に負えなくなるのは、その社会像がウソいつわりない「現実」、揺るぎのない根底のしっかりとした「事実世界」であると思い込むことである。たいがいの人の心の世界観とはこのようなものだろう。
こうなると厄介なことになる。自分が仮講してしまった世界像において、苦しめられたり、追いつめられたりすることになるからだ。
社会を悪く言えば言うほど、わたしの世界は苦しく、哀しいものになる。自虐的になるわけだ。(かといって世界をすばらしい矛盾のない世界だと楽観すれば、問題がなくなるわけではないというところが難しいが)
まあ、要は自分を苦しめる世界像は想像力であるということだ。想像力は元を断てば、ユウレイのように消えてなくなってしまう。
わたしの日常生活や人間関係といったものも、すべて想像力によって捉えている。リアルな現実と想っていても、あくまでも想像力によるひとつの捉え方である。元を断てば、ふわりと消えてしまう。
さらにつきつめれば、われわれの知覚や視覚といったものも、想像力によるものだとつきつめられるかもしれない。知覚というのは注意を向けなければ、その存在をやめることができるからだ。こういう知覚のコントロールをインドの覚者までになるとできるそうである。
われわれが知覚する世界はすべて想像力によるものではないか――こういう追究をすすめたところに東洋世界が理想とする世界がひろがるのだろう。またそれは想像するに、安らかな境地でもあるのだろう。
想像力は、睡眠中のハナ風船のように「ぱちん」と消すことができるのである。
東洋の理想と西洋の理想 2000/1/16.
たまに仏教に興味のある方からご批判のメールをいただく。社会や世界を語るより、もっと内面に向かえということである。
仏教の目標からして当然のことである。わたしが語る社会や世界についての話は、仏教的な知識からしてかなり無益なことである。
仏教ではできるだけ思考――想像力を捨てることを目標とする。それにたいしてわたしがやっていることは、想像力をとてつもなくたくましくすることだ。これは西洋的な理想とおきかえてもよい。
すると仏教系の人からご批判をうける。魑魅魍魎の想像力をたくましくしているだけではないかと。
東洋の知識も西洋の知識もどちらもすばらしいと思う。東洋は想像力の無益さを言葉をつくして語っているし、西洋では想像力の賛美をくりひろげている。
想像力の無益さについてはいくらか理解しているつもりである。喜怒哀楽のもとにあるのはすべて想像力であると思っている。想像力が現実との乖離をもたらし、その隙間に悲しみや怒りが入りこむ。だから想像力というのはたいがいのばあい、災厄のなにものでもない。
しかし想像力や言葉をつくして、語らなければならないこともあるように思う。考えなければならないこともたくさんあると思う。言葉を使わなければ、日常生活や社会のさまざまなことの決断や判断ができないのである。
だからわたしは東洋系の想像力の滅却の知恵ものこしながら、西洋的な想像力の問題解決もおこなってゆかなければならないと思っている。東洋系の知識からすれば、すべて虚しいことかもしれない。しかしわたしにはどちらかの立場を絶対とする考えにはまだふんぎりがつかないのである。
東洋系の理想はしばらくおあずけである。今後なにかつらいことや落ち込むようなことがあったりしたら、また東洋系の知識に比重がかかるようになると思う。東洋系の知識はそういうときにこそ、役にたつものである。
想像力の悲しみというものをたっぷりと思い知らせてくれる。
時間と心 2000/1/14.
なにか悩みや問題があったとき、それがいつの時間に属するのか考えてみるとよい。たいがいは過去に問題を発している。その問題をずっと時間と関係なく、いまも持ちつづけているというわけだ。
頭で考えるということは、過去の問題をいまに持ち越し、ずっと維持しつづけるということだ。もしいま考えることをやめたのなら、問題はどこにも存在しない。消えてなくなる。
心には時間がない。過去の問題も将来の悩みも、いま、考えるなら、いまの出来事になる。もし考えることも、思い出すこともしなければ、どこにも存在しなくなる。
このことを利用しない手はない。いま、考えなければ、問題はいま、存在することはできなくなる。過去の問題はどこにもなくなる。
しかしたいがいの人は悩みにわずらいつづけるから、過去の呪縛から自由になれない。捨て去ってしまえば、少なくとも、いまは悩むことがなくなるのに、わざわざ悩みをいまに持ち越す。まるでいつでも捨てられるイバラをいつまでも抱えつづけるようなものだ。
人間の心には過去も未来もない。過去のことを考え出したら、その過去はいまの出来事になってしまう。そしていまもあっという間に過ぎてしまう。心に持ちつづけなかったら、どんな出来事も悩みもあっという間に通り過ぎてしまう。だから人間にとって考えることや思い出すことは、どんな災厄かわからないといえるのだ。
記憶と思考が手をたずさえて、だれかに復讐や制裁をくわえようとたくらむとロクなことにならない。侮辱や怒り、悲しみをうけた瞬間はとっくに過ぎているのに、その計画のためにいつまでも苦痛を継続して持つことになってしまう。終わってしまい、二度と帰らない過去の苦痛をいつまでも持続することになるわけだ。
人間の心はずっと流れつづけている。いや、流れているというよりか、いましか経験できないようになっている。そのおかげで過去の苦痛や苦悩は一瞬にして捨て去ることができるのに、人は愚かにも時間の流れを逆行するという虚しい試みをおこなうのだ。頭がよかったり、過去を反芻することがよいことだと信じている人は苦痛と苦悩を増大させているだけだ。
玄人シンガーの輩出 2000/1/13.
宇多田ヒカルの大ヒット以降、アメリカ的な玄人っぽい新人シンガーが増えた。なんて唄っているのか、なにをやっている人なのか、なんかよくわからない感じがする。
宇多田ヒカルの大ヒットはこの間隙にあったんではないかと思った。アメリカ的な玄人っぽい唄い方はするけど、顔はまだまだあどけない、そのとっかかりのよさがあったのだと思う。
90年代のカラオケのヒットも関係があるのだろう。だれもかれもがカラオケを唄い出すと、シロウトとミュージシャンの格差がなくなってしまう。あまりうまくないミュージシャンだったら、わたしでも唄えるじゃないかと評価がガタ落ちになってしまう。
これまではノリとサビのよい曲が、カラオケには好まれた。唄いやすい、覚えやすい、サビが口に出る、唄って気持ちよい、といった曲が好まれた。カラオケに適した曲である。コムロの音楽というのはカラオケ・ミュージックだったのかもしれない。
しかしこんどはシロウトがかんたんに唄えるような唄を出していたら、ミュージシャンの有難味がなくなってしまう。そういったころに宇多田ヒカルは出てきたのだろう。
唄い方がひじょうに日本人離れしたミュージシャンはこれまで何人かいた。佐野元春や久保田利伸、CHARAなんかだ。唄い方はひじょうにカッコいいのだが、なかなか日本受けしにくかった。宇多田ヒカルはそういった玄人っぽさをスターダムに押し上げたというわけだ。
P.S. ところで日本のヒットはCMとテレビ・ドラマのタイアップが多い。アメリカでは映画が多い。古くは『フットルース』とケニー・ロギンス、『フラッシュダンス』とアイリーン・キャラ、ディズニーの映画、最近では『タイタニック』とセリーヌ・ディオンなんかだ。テレビ好きの国民と映画好きの国民の違いだろうか。その国民がいちばん若かりしころのメディアが強く愛着されるということだ。
労働者の犠牲としての豊かな社会 2000/1/13.
まったく労働というのはツライ。みじめであわれな仕事も多い。一日同じことをくり返さなければならない反復行動の仕事も多いし、劣悪な環境で仕事をしなければならないこともあるし、長時間、いや生涯を拘束されることもあるし、消費者のためにムリな注文、ムリな仕事をひきうけなければならないときもある。
こういった労働者の苦しみや涙、辛苦のうえに豊かな社会、便利で役に立つ生活がなりたつというのはなんとも皮肉なことだ。きらびやかな舞台の裏では、多くの裏方が歯をくいしばって泣いている。こんなのが豊かで便利な社会なのだろうか。
われわれはこの豊かな社会の「受益者」「便益者」なのだろうか、それとも「使役者」「苦役者」のどちらなのだろうか。わたしの感じからいえば、「苦役者」のなにものでもない。受益する方より、だんぜん苦役するほうが多い。
いったい豊かな社会とはなんなのだろう。便利で豊かな社会は苦役者の時間と労苦を増加させただけではないのか。
豊かな社会というのはひとりでに勝手に築かれるものではない。多くの人たちが働き、礎を築き、多くの人たちの手によって日夜営まれる日々の労作物なのである。
豊かな社会というのはわれわれに受益のほう、それとも苦役のほう、どちらをより多くわけ与えただろうか。手放しで豊かな社会の理想と実現に喜んでいたら、大いなるしっぺ返しを食らう。文明というのは便利で楽で合理的な生活であるばすだったが、大いなる逆説をはらんではいないだろうか。
生産増強の美徳が日本をダメにする 2000/1/10.
生産増強の美徳は近代化にひじょうに役立ったが、そのような時代は終わった。日本人の意識は変わらなければならないわけだが、常識や美徳というのはなかなか変わらない。生産増強の美徳という日本人の石頭はとうふの角にでもぶつけなければ治らないのだろうか。
これから必要なのは生産増強の美徳なんかではなく、人間としての幸福と楽しみの創造である。これがまた難しい。見つけられないから、日本は長いこと不況におちいる。幸福と楽しみがないから、社会の活性化と好況が見込まれない。
前時代的な生産増強の美徳から日本人の頭がなかなか変えられないのは、環境と状況の変化、あるいは隔絶を強く自覚していないからだろう。もう近代化は終った、生産増強の時代は終わったのだ、ということに気づいていないのだ。暗記反復の学校洗脳の恐ろしさというものか。
人間の幸福と楽しみというのはひじょうに難しい。ヨーロッパやアメリカに見習えという生産増強の時代はそういう問題を不問に付してよかった。豊かさゲームに奔走すれば、それで幸せだったからだ。いまはそのゲームが終わり、宴のあとの虚しさに意気消沈しているというわけだ。
幸福と楽しみをつくるにはみずからが実験台になるしかないのだろう。いろいろ試してみて、失敗して、そのなかからおもしろいものを生み出してゆく、そういうプロセスが必要になるのだろう。
そういった実験のモラル・バリアになっているのが前時代的な生産増強の美徳である。これがあるから日本人はダメでもともとの実験的な幸福の模索ができない。これまでの幸福と安寧を失ったり、なくしてしまわないと、そういう捨て身の模索はおこなわれないし、創造もされないのだろう。
生産増強の美徳は目指すべき目標や憧憬があるがゆえに可能である。それがなくなってしまえば、まったくの悪徳になってしまう。新しい目標や憧憬はこんなクソまじめな論理からは生まれてこないからだ。
新しい幸福と文化をつくらなければならない番がわれわれに回ってきたということだ。その実験をする人びとはみずから模索と実験をおこなわなければならない。生産増強の美徳が未来への抵抗になっているというわけだ。
規制緩和と自由化がまっ先におこなわれなければならないのは、日本人の石頭なワケだ。
仕事に価値がおかれない時代はくるか? 2000/1/8.
現代は仕事に価値がひじょうにおかれる時代である。わたしはあまり仕事をしたくない。怠け者ではなくて、仕事に意味も、人生を賭す価値も見出せないからである。
仕事に価値がおかれない時代はくるだろうか。これまでは仕事にひじょうに価値がおかれていた。ほしいモノがたくさんあったからであり、みんな上昇成長の夢に酔いしれていたし、仕事の先にはなにか過大な夢があるように思われていたからだ。
だけど若い世代には夢の部分より、労働の過重や無意味さがより多く見えた。現在ではちまたの人が当たり前につぶやくようになった「ほしいモノがもうない」という気分をすでに先どりしていたからだ。だから仕事のつまらなさやオーバー・ワークばかりが目に映ることになった。
そういう若者はどんどん増えつつあると思う。また十年もの長い不況がつづき、多くの人は将来の経済に希望を抱けなくなっている。いまこそ、勤勉の意味と根拠の土台がかつてないほど弱まっているのではないだろうか。
日本人の勤勉の価値観は変わるだろうか。働くものが立派であり、エライという価値観は、このままその正当性と根拠の強さを主張できるだろか。ほしいモノがもうない、先行きの経済にも希望が抱けない、そんな時代に勤勉の価値観はこれまでどおり絶対的なものだといえるだろうか。
発想を逆転しなければならない。ほしいモノが多くあったときには労働はべつに苦にはならないが、そうでなくなったときには労働自体を問題にしなければならない。夢の部分が欠けてしまったのに、労働ばかりが覆う社会はイカレているのはまちがいない。目的がなくなったのに、その手段ばかりが肥大するのはおおよそまともな頭の持ち主がすることではない。
勤勉の価値観は洗い直されなければならない。いまの時代に妥当なのか。働くことだけに人生を賭すような生き方が、将来の経済に希望を抱けない時代に通用するものなのか。ほしいモノがもうない時代に働きづめの生き方ははたして合理的なのか。
このような時代に問われなければならないのは仕事の価値のみではなく、人生の価値なのかもしれない。なにに価値をおき、どのような生き方が満足するものなのか、考えてみなければならないのだろう。
豊かな社会の夢がついえた時代に労働の意味とはいったいなんなのだろう? 人生を奪ってしまう労働とはいったいなんなのだろう? われわれはなんのために生きるのか、ということがあらためて問いなおされなければならない。豊かになるという人生目的のリセットが求められているということだ。
なんでラブ・ソングばっかなんだ? 2000/1/5.
なんで日本の音楽はラブ・ソングばっかなのだろう? だれもかれも愛や恋や恋愛だの、そればっか歌っている。たまには社会や政治、人生について語れっちゅーに。
10代のころからそう思っていた。でも80年代はトシちゃんだのセイコちゃんだのアイドルばっかバカスカ出てきて、アホらしいから洋楽ばかり聴いていた。
音楽というのはたしかに愛を語るには適しているのだろう。でも若者がどいつもこいつもラブ・ソングばかり聴いているのは問題だ。音楽は若者にたいする圧倒的な影響力をもっているのに、社会や人生について語られないのはかなりの損失と浪費だと思う。
たしかに十代のころには社会や政治を語るにはタブーであるような雰囲気があった。いまなら宗教を語るのはもっとタブーのようなところがあるのだろう。そんなシリアスなことを語っていたら、アブナイ人種か、われわれと違う人種と思われるようなところがあった。日常においてこういう会話が禁止されているのは、ほんと日本の損失だ。だってこのジャンルの進歩や発達は見込めないからだ。
70年代に学生運動や政治運動の過激化があったりしたからだろう。井上陽水が政治より「傘がない」といったことが問題だと唄ったときあたりから、日本のミュージック・シーンはミニマムの世界に変わっていったそうだ。それまでは社会や政治について語っていたらしいのだが、その後はユーミンやサザンのようなポップな音楽とアイドル歌手が全盛になった。
社会派のミュージシャンはほんと少ない。わたしが知っているかぎりでは、浜田省吾や井上陽水、ミス・チル、尾崎豊くらいだ。若者はもっと社会や人生について考えるような歌を好んでほしいと思うのだが、ラブ・ソングだけでは人生があまりにも貧弱だし、人間的深みが生まれないというものだ。
若者がラブ・ソングばっかに熱中できるのは平和で平穏な時代のおかげであるのはたしかだ。秩序崩壊や戦争なんかが起こったりしたら、そんなノンキな歌なんか歌っていられない。
でも時代はノンキであることが許されない時代に転げ落ちつつある。わたしの予測ではこれからプロレタリア音楽とデカダンス音楽が流行るようになると思っている。明治・大正の歴史がくりかえされるのなら。
人は順境のときはあまり学べないし、成長もしない。幸せだから必要ないわけだ。逆境のときにはじめて人は深くものを考え、成長し、進歩するものである。これからの社会はそういった不遇の時代を迎える可能性が大だ。でもラブ・ソングばっか歌える時代のほうがしあわせなのかも。。。
企業利益より高い倫理性を 2000/1/5.
企業利益より、社会の倫理性の高い社会を理想とすべきだ。社会は企業や経済のためにあるのではなく、人々のためにある。経済利益のために倫理が破壊されたり、人々が見殺しにされるような社会はおおよそ人のありかたとしては畜生より劣る。
日本には企業利益より高い倫理性、共同体の道徳といったものがない。ために企業利益、経済利益だけが絶対の正義になり、大手をふるう社会ルールになってしまっている。
文明や科学技術が信仰になってしまっているため、ほかの倫理性の土壌となるものがまったく排斥されている。これでは経済のために人々が見殺しにされたり、ないがしろにされたりするのはとうぜんのことだ。
社会のなかでは共同体や人々の道徳や倫理性が第一義になるべきだ。人としてよい人であろうとする道徳が強い社会が理想だ。このルールの準拠となる集団や社会風土が日本には必要だ。
マスコミやインターネットは知識や情報を送り伝えるメディアとして、そういう準拠集団、バックグラウンドになる力をぜひ養ってほしいものだ。メディアは企業利益を越える高い倫理性をもってほしい。企業といっしょに利益を守るようなありかたはメディアの正義を逸脱している。そこにしか望みはかけられないと思う。
企業利益だけを絶対の正義とするような社会は、ケモノに身を堕とした人間と寸分変わらない。
ただ、だからといって企業にすべてのリストラをやめさせる、雇用を抱えろ、というのは違っていると思う。これではますます企業の権力を増大させ、人々に隷属と不自由をもたらすだけだと思う。企業との一体化から離れる必要があるのではないだろうか。
豊かな生活と労働量のジレンマ 2000/1/5.
豊かな生活をしようとするとどこまでも働きづめになる。豊かで贅沢な生活をしようとすると、ますます働かなければならなくなる。働くために生きているといった転倒した生を送ることになる。
ぎゃくにあまり働かないと貧しい生活を送らなければならない。豊かさや贅沢は得られないし、生活苦や貧苦が襲うし、将来や老後の保障も得られない。社会全体の経済もかなり怪しくなる。人々の絶望と失望が襲う。
ジレンマである。豊かな社会をつくろうとすれば、人はどこまでも働かなければならないし、あまり働かない社会を理想にすれば、社会全体は貧しくなる。
これまでの理想は豊かな社会だった。しかし科学技術と文明の利器に満たされた社会は、人々の働きづめの生涯を招来させた。だからわれわれの世代は親の世代のように働くだけの人生に疑問をもっている。豊かさだけに目を奪われていると労働に人生を奪われてしまう。
働かない生活を理想にすると、多くの科学技術や文明の利器の恩恵を断念しなければならない。そのような貧しい生活をしてはじめて、ゆっくりとのんびりした働かなくてよい社会を実現することができる。豊かさを否定することでしか働きづめの生涯から脱却できない。
われわれの進むべき道はどちらなのか。わたしはもちろん働くだけの人生や社会は親の世代で終わりにしてほしいと思っている。労働からできるだけ解放される社会が理想だ。豊かさやモノの過剰、利便性といった文明の輝かしい部分だけに目を奪われていると、これは実現できない。
先進的だが仕事だけに人生を奪われる生涯と、仕事から解放されるが貧しい生涯と、どちらがいいだろうか。われわれはこういった選択をしないと、生涯を労働に奪われつづけるのだろう。一度切りしかない人生をどういうふうに生きたいですか。
家庭のしあわせ 2000/1/4.
家庭をもちたいと思ったことがない。なんとなく結婚してガキをつくってみたいな漠然とした人生観はもっていたのだが、あっという間に三十を越してしまった。親戚の人にいわれたが、二十代はあっという間に過ぎてしまう。
家庭にたいする魅力とか欲がぜんぜんないのだろう。だからひとりで生活する方がラクで慣れているから、そのままひとり暮らしをつづけているといった感じだ。ついでに恋愛もうまくない。なんていうか、人といっしょにいること、どこかに出かけることが退屈でたまらなく、目的意識をもてないから、これでは恋愛から遠のくというわけだ。
家庭というのはしあわせなんだろうか。近ごろはやっと子どもがかわいいと思うようになってきたが、いぜんはそんなことはつゆにも思わなかった。
みんなはいつの間にか結婚したり、子どもをもったりしている。なんていうか、わたしにはそういう目的意識がぜんぜん欠如していたから、みんなが子どもをもちだす気持ちというのがぜんぜんわからなかった。わたしにはない子どもを持ちたいという遺伝子がとくべつに組み込まれてるんじゃないかと思うくらいだ。
そうこう思っているうちにわたしには妻子を養う経済力が欠如していることがはっきりしてきた。どうやらこの先、あまり恵まれた生活はできないらしい。仕事だけの人生にも疑問をもっているし。とてもじゃないけど、家庭をもつなんてことはわたしの経済力ではできないようだ。あきらめないとしょうがないのだろうか。。。
結婚とか家庭というのは親の家庭のありようにも影響されるのだろうか。わたしの親の家庭もそんなによいほうではなかっただろうし、母はよくケンカしたり家出したりしたし、世間体のイヌだったし、のちには家庭は崩壊した。こういう家庭を見て育った子には決定的に家庭の欲望が薄れるのだろうか。
家庭をもたなかったら、社会人はほんとうに世間から孤立してひとりで生きているようなものだ。さみしいとか、つらいとかは思わないけど、こんなにひとりぼっちの生き方でいいのかなと思ったりする。今日もわたしはひとりで生きる。
精神の浪費 2000/1/3.
あらゆる時間、あらゆる行動のあいだじゅう、思考は駆けずり回る。とぎれることなく思考はあらゆる物事を考えつづける。まるでどこかで見かけるひとりでしゃべりつづけているオッサンのようだ。
ひとつの行動、ひとつの作業をしているあいだも、その行動・作業と関わりのないありとあらゆる思考が頭のなかを駆け回る。
ふっと、これは精神の浪費ではないかと思った。一日中駆けずり回る思考のうち、どれだけの思考が役に立つことを考えているのか、どれだけ有益なのか、切り分けてみるのもおもしろいと思った。
思考というのは想像力である。いま、ここにないことを想像するのが思考である。したがって、いまここでおこなっている行動・作業とほとんど関わりのない想像力に頭は支配される。そしてその思考はどれだけ役に立ったり、有益なのか、おかまいなしに思考の流出はつづく。
思考や想像力のたいていはムダではないかと思う。逆にそのおかげによって、いらぬことを心配したり、不安になったり、新たなる重荷を背負い込むことになる。新たなる仕事やよけい手間を増やしたりする。
思考はたぶん起きているあいだじゅう、休むひまもなく働きつづける。寝ているあいだだって、夢という思考の働きはとまらない。脳は休息を必要とするのだろうか。脳は働きつづけるからだのように疲れることはないのだろうか。脳もからだのように疲れのサインがすぐ出るのなら、思考の浪費は抑えられると思うのだが。
休むひまもなく流出する思考の数々はすべて役に立っているのだろうか。どれだけムダな思考がおこなわれているのだろうか。あーでもない、こーでもない、あれもこれもそれもあれらも、と思考はぴょんぴょんと跳ね回る。ほとんどはムダじゃないかと思う。
思考を抑制すれば、心は清澄になる。思考で充満した心はさまざまな感情の汚れや重みで、だいぶ弱くなっており、打たれ弱くなっている。思考のない心ではさまざまなことを軽く受け流せるし、からだと頭が別方向にいってしまうということもない。
精神を休めることによって、はじめて精神は強くなることができる。からだとぴったりと重なることができる。
澄んだ心がどれだけよいものかはわたしにはわからないが、仏教なんかでは思考の滅却を説くように、この先にはなんらかのよいことがあるのではないかとわたしは思っている。
たいがいの思考は精神の浪費ではないかと思う。われわれはついつい思考につられ、思考のまま考えをつづけるわけだが、この習慣をとめることも可能なのである。精神にも休息が必要であり、そこから元気な精神と統一のとれたからだがよみがえるのではないだろうか。
人間は時間をもって幸せになれたか? 2000/1/1.
西暦が1999年から2000年に変わった。世界中の新しい年を祝う行事がTVで流されている。
しかし年号というのはあくまでも「虚構」である。おおぜいの人たちは新しい年を祝っているが、それを虚構だと知っているのだろうか。虚構を祝っているということに気づいているのだろうか。
さらにいえば、時間も虚構である。時間なんてものはどこにもない。あるのは人間の頭のなかにあるだけであって、それも想像力のなせる技なのだ。想像力が時間を生み出す。記憶が過去を生み出し、未来を延長させる。
時間はどこにも実在しない。人間の記憶の中に、思考のなかに、決まり事のなかにあるだけである。そういった決まり事に慣れて、おおぜいの人は時間がどこに実在するかのように思ってしまう。
たしかに過去はあった。われわれは過去の上に成り立ってるように思える。しかしそれは記憶としか存在しない。頭のなかにしか存在しない。だが人間は空間に距離があるように、時間にも距離があると考えるようになった。時間の誕生である。
人間はいましか感じることも、見ることも、生きることもできない。それ以外はすべて頭のなかの記憶か、想像力である。いや、いますらも思考や虚構でしか捉えることができない。時間を捉えようとすると、たちまち思考や記憶という虚構の道具を使うしかないからだ。われわれはあっという間に幻に変わってゆく時間という夢と寸分変わらない世界に生きている。
時間が誕生したのは人々の約束のためだろう。あるいは季節のためだったかもしれない。そしてわれわれは計画し、蓄積し、反省する生き方にふみこんでいった。
計画する生き方は過去と未来にがんじがらめにされてしまう。時間をもつ生き方は、過去の後悔と未来の不安という重い荷物をも背負わせる。
時間は人間にとって幸運をもたらす女神だったのか、不幸をもたらす悪魔だったのか。一長一短としかいいようがないのかもしれない。個人の感情生活においては、過去も未来もない生き方のほうがよいのではないかとわたしは思う。過去や未来に苦しめられるのなら。
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つぶやき断想集 第五集
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