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2000年全断想集



 ポスト豊かさという大問題断想集 2000/1/20.
 人間は時間をもって幸せになれたか/豊かな生活と労働量のジレンマ/仕事に価値がおかれない時代はくるか?/生産増強の美徳が日本をダメにする/ポスト豊かさという大問題etc

 貨幣経済についての断想集 2000/2/8.
 人の悪口と陰口/貨幣経済とはなんなのだろうな1、2/貨幣経済によって失われたもの/モノの大衆化とメディアの大衆化/投げ銭システムをどう思われますか?/優等生がブッ壊れている

 「あなたの心がいのです」断想集 2000/2/29.
 殺人はなぜニュースになるのか/プレゼント情報/だれも読まない文学の書く楽しみ/立身出世を否定した現代社会/心理主義化社会/心理学の権力と心理還元主義/内罰的な心理学/

 交換と規範の感情学についての断想集 2000/3/17.
 自分崇拝社会と誇大自己/交換贈り物としての人格配慮/感情の経済学/選別社会に受け入れられない不安/社会的コントロールとしての感情/規範感情の解体/感情からの自由

 社会的感情論と蔽の断想集 2000/4/3.
 感情信仰の時代/感情社会学の翻訳の壁/楽しさの感情強制/感情は演じられたものか/理想と現実の法則/秘密と自己の境界線/隠すという人間の根源/隠す恥ずかしさ、暴く快楽

 自我と界についての断想集 2000/4/20.
 自他の境界線上の怖れ/自分を区分けできるのか/他者に見抜かれる怖れ/「私」は存在しない/肉体の私と知覚の私/感覚の私の境界/消えたり、偏ったりする感覚の私/随意・不随意としての私/

 消える私と時間についての断想集 2000/5/13.
 消える私と消える時間/過去の実体化/時間は存在しない/過去とは心象である/実体化の罠/過去と外界という分け方の失敗/私とは外界か/過去のない安らかさ/

 」も「世界」も虚構? 00/5/30.
 虚構のバカヤロー/世界や私は心がつくりだした幻?/私の中の二人の私/世界はどのように幻?/肉体や心は私ではない?/知覚世界の実体化を崩す/言葉は世界そのものではない

 ひとつながりと現象の世界 00/6/20.
 場所と想像力/想像力と無/目に見える世界は私の眼である/心を離れて世界は存在しない/ひとつながりの世界/現象し変化している世界/いつわりのリアリティ/

 一滴のしずくの中の全宇宙 00/7/12.
 道徳嫌いと宗教アレルギー/『華厳経』の世界観/ひとつに融けあった世界/一滴のしずくの中の全宇宙?/荘子の万物斉同説/怒る人、けなす人、罵る人/華厳の世界観と量子力学/

 空と微小な世界 00/8/14.
 実在しない物質世界/知覚がつくりだした物質世界/スカスカの物質と「空」/生命保険という発想/自然科学の知のありよう/宇宙が存在する不思議/過去である星空/

 終身愛と「有料セックス資本主義」 00/8/30.
 企業が子どもを減らした/終身恋愛観と終身雇用/有料セックス資本主義/セックスしたいが為の資本主義/愛と性の分離/なぜ愛は金銭売買ではないのか/

 総力戦と国民国家 00/9/21.
 美人と市場原理/終身愛と国民国家と大衆市場/無職が尊敬されていた時代/総力戦体制は終わっていない/総力戦と国民国家/総力戦と優劣価値の恐怖/戦争の日常化

 民主主義+社会保障=国民戦力 00/10/15.
 自由・平等・人権は国民戦力化のごほうび/経済総力戦が終らないのはなぜか/交換の条件/民主主義と国民という高い買い物/フリーター150万人/戦争は語るな!

 セールス主義、軍事民主主義 00/10/28.
 ベストセラーとマイブーム/売れる曲はいい曲か?/売れることとやりたいこと/総力戦時代という不幸/民主制は戦争が母/民主制の逆噴射/

 秋のつぶやき断想集 00/11/20.
 吉野の風景/野田知佑の青春放浪/本はどう整理したらいいのか/小説はどうやって選びますか/マスメディアによる認知欲求/フィクション、ノンフィクションで得られるもの/フリーター150万人突破記念特選エッセイ集/

 冬の散歩道 00/12/15.
 職業中心の人生観は終焉するのか/風景はなぜ心を癒すのか/新書バクハツ/ことし売れた本/広告が批判精神を失わせた?/広告消費社会のゆがんだヒエラルキー

 世紀の終わりのつぶやき断想集 2000/12/31.
 理想とは軽蔑のことである/カネより愛よの『やまとなでしこ』評/2000年ことしの読書の流れとベスト本/20世紀ライブラリー/選択可能性の時代のどうにもならないもの/


ポスト豊かさという大問題断想集


        ポスト豊かさという大問題   2000/1/20.

 豊かさのあとに何をめざすかという大問題がほとんど解決されないばかりか、議論すらされないようである。この問題が解決されないから、大不況はずっとつづいているといえるし、ひとびとや若者の精神の崩壊がはじまっているといえるのにである。

 大量生産型の豊かさ猛進という目標は、人々の精神の荒廃を残したようだ。

 ポスト豊かさに対処する第一の方法として、いままでどおりの豊かさをめざすという目標がある。インターネットがこの目標のわずかな光である。

 でもこれはまだまだ先のことだろう。「買い物便利」というウリでは爆発的繁栄をもたらすとはとても思えないし、いまのコンテンツだけではちょっと役者不足である。

 インターネット内で知的優越ゲームでもはじまれば、おもしろいのだろうけど、コンテンツがどれだけ広がりと展望をもたらすかはいまのところは見えない。

 ポスト豊かさの目標が見出せなかったら、人々は経済的にも精神的にも落ちてゆくばかりだ。豊かさというのは自転車操業のようなもので、目標と走りつづけることがなければ、ぱたっと倒れてしまう。

 これから人々は貧しくなりつづけるだろう。親の世代より豊かになることは不可能になり、いまの年金をもらっている世代あたりがいちばん豊かだったということになるかもしれない。

 若い世代は待遇とか地位、貧しさという点で、あれあれ?という感じでずり落ちてゆくことだろう。かつての豊かさ、保障といったものも享受できなくなり、地位の低い人が増えることだろう。

 こういう世の中になると、価値基準とかモノサシを豊かさという指標から変える必要がある。落ちてゆくのではなく、違う価値観や目標において優れようとしているのだといったような物語りやモノサシが必要になるのだろう。

 つまり豊かさや金持ちかというモノサシだけで物事や人々を捉えないということである。ポスト豊かさにはこういうモノサシや価値観の新基準づくりが急がれるのだろう。豊かさという目標が終わったのなら、そのモノサシもいっしょに捨てなければならないということである。

 ポスト豊かさに人々はなにを目標に、なにを糧に生きようとするのだろうか。問いかけも模索もおこなわれていないのが日本の現実である。

 このことを自覚しないと、貧しさや落ちてゆくことに日本人は嘆き悲しむばかりで、戦前のようなヤケと自棄をおこすことになってしまうかもしれない。

 みなさんもポスト豊かさという大問題とそのあとの目標と生きがいについて考えましょう。




          想像力と社会像    2000/1/17.

 社会について語るということは、想像力をたくましくするということである。社会というのは虚構としか捉えられない。

 わたしが社会について語るのはすべて想像力によってである。そしてそんな世界はどこにもない。わたしの好悪や判断によって「捏造」された社会像が描かれるだけである。

 どんなエライ学者の説だってわたしの事情とたいがい変わらない。「学問というのは高級な偏見である」ということである。

 そんな想像力が始末に負えなくなるのは、その社会像がウソいつわりない「現実」、揺るぎのない根底のしっかりとした「事実世界」であると思い込むことである。たいがいの人の心の世界観とはこのようなものだろう。

 こうなると厄介なことになる。自分が仮講してしまった世界像において、苦しめられたり、追いつめられたりすることになるからだ。

 社会を悪く言えば言うほど、わたしの世界は苦しく、哀しいものになる。自虐的になるわけだ。(かといって世界をすばらしい矛盾のない世界だと楽観すれば、問題がなくなるわけではないというところが難しいが)

 まあ、要は自分を苦しめる世界像は想像力であるということだ。想像力は元を断てば、ユウレイのように消えてなくなってしまう。

 わたしの日常生活や人間関係といったものも、すべて想像力によって捉えている。リアルな現実と想っていても、あくまでも想像力によるひとつの捉え方である。元を断てば、ふわりと消えてしまう。

 さらにつきつめれば、われわれの知覚や視覚といったものも、想像力によるものだとつきつめられるかもしれない。知覚というのは注意を向けなければ、その存在をやめることができるからだ。こういう知覚のコントロールをインドの覚者までになるとできるそうである。

 われわれが知覚する世界はすべて想像力によるものではないか――こういう追究をすすめたところに東洋世界が理想とする世界がひろがるのだろう。またそれは想像するに、安らかな境地でもあるのだろう。

 想像力は、睡眠中のハナ風船のように「ぱちん」と消すことができるのである。




       東洋の理想と西洋の理想   2000/1/16.

 たまに仏教に興味のある方からご批判のメールをいただく。社会や世界を語るより、もっと内面に向かえということである。

 仏教の目標からして当然のことである。わたしが語る社会や世界についての話は、仏教的な知識からしてかなり無益なことである。

 仏教ではできるだけ思考――想像力を捨てることを目標とする。それにたいしてわたしがやっていることは、想像力をとてつもなくたくましくすることだ。これは西洋的な理想とおきかえてもよい。

 すると仏教系の人からご批判をうける。魑魅魍魎の想像力をたくましくしているだけではないかと。

 東洋の知識も西洋の知識もどちらもすばらしいと思う。東洋は想像力の無益さを言葉をつくして語っているし、西洋では想像力の賛美をくりひろげている。

 想像力の無益さについてはいくらか理解しているつもりである。喜怒哀楽のもとにあるのはすべて想像力であると思っている。想像力が現実との乖離をもたらし、その隙間に悲しみや怒りが入りこむ。だから想像力というのはたいがいのばあい、災厄のなにものでもない。

 しかし想像力や言葉をつくして、語らなければならないこともあるように思う。考えなければならないこともたくさんあると思う。言葉を使わなければ、日常生活や社会のさまざまなことの決断や判断ができないのである。

 だからわたしは東洋系の想像力の滅却の知恵ものこしながら、西洋的な想像力の問題解決もおこなってゆかなければならないと思っている。東洋系の知識からすれば、すべて虚しいことかもしれない。しかしわたしにはどちらかの立場を絶対とする考えにはまだふんぎりがつかないのである。

 東洋系の理想はしばらくおあずけである。今後なにかつらいことや落ち込むようなことがあったりしたら、また東洋系の知識に比重がかかるようになると思う。東洋系の知識はそういうときにこそ、役にたつものである。

 想像力の悲しみというものをたっぷりと思い知らせてくれる。




        時間と心   2000/1/14.

 なにか悩みや問題があったとき、それがいつの時間に属するのか考えてみるとよい。たいがいは過去に問題を発している。その問題をずっと時間と関係なく、いまも持ちつづけているというわけだ。

 頭で考えるということは、過去の問題をいまに持ち越し、ずっと維持しつづけるということだ。もしいま考えることをやめたのなら、問題はどこにも存在しない。消えてなくなる。

 心には時間がない。過去の問題も将来の悩みも、いま、考えるなら、いまの出来事になる。もし考えることも、思い出すこともしなければ、どこにも存在しなくなる。

 このことを利用しない手はない。いま、考えなければ、問題はいま、存在することはできなくなる。過去の問題はどこにもなくなる。

 しかしたいがいの人は悩みにわずらいつづけるから、過去の呪縛から自由になれない。捨て去ってしまえば、少なくとも、いまは悩むことがなくなるのに、わざわざ悩みをいまに持ち越す。まるでいつでも捨てられるイバラをいつまでも抱えつづけるようなものだ。

 人間の心には過去も未来もない。過去のことを考え出したら、その過去はいまの出来事になってしまう。そしていまもあっという間に過ぎてしまう。心に持ちつづけなかったら、どんな出来事も悩みもあっという間に通り過ぎてしまう。だから人間にとって考えることや思い出すことは、どんな災厄かわからないといえるのだ。

 記憶と思考が手をたずさえて、だれかに復讐や制裁をくわえようとたくらむとロクなことにならない。侮辱や怒り、悲しみをうけた瞬間はとっくに過ぎているのに、その計画のためにいつまでも苦痛を継続して持つことになってしまう。終わってしまい、二度と帰らない過去の苦痛をいつまでも持続することになるわけだ。

 人間の心はずっと流れつづけている。いや、流れているというよりか、いましか経験できないようになっている。そのおかげで過去の苦痛や苦悩は一瞬にして捨て去ることができるのに、人は愚かにも時間の流れを逆行するという虚しい試みをおこなうのだ。頭がよかったり、過去を反芻することがよいことだと信じている人は苦痛と苦悩を増大させているだけだ。




      玄人シンガーの輩出   2000/1/13.

 宇多田ヒカルの大ヒット以降、アメリカ的な玄人っぽい新人シンガーが増えた。なんて唄っているのか、なにをやっている人なのか、なんかよくわからない感じがする。

 宇多田ヒカルの大ヒットはこの間隙にあったんではないかと思った。アメリカ的な玄人っぽい唄い方はするけど、顔はまだまだあどけない、そのとっかかりのよさがあったのだと思う。

 90年代のカラオケのヒットも関係があるのだろう。だれもかれもがカラオケを唄い出すと、シロウトとミュージシャンの格差がなくなってしまう。あまりうまくないミュージシャンだったら、わたしでも唄えるじゃないかと評価がガタ落ちになってしまう。

 これまではノリとサビのよい曲が、カラオケには好まれた。唄いやすい、覚えやすい、サビが口に出る、唄って気持ちよい、といった曲が好まれた。カラオケに適した曲である。コムロの音楽というのはカラオケ・ミュージックだったのかもしれない。

 しかしこんどはシロウトがかんたんに唄えるような唄を出していたら、ミュージシャンの有難味がなくなってしまう。そういったころに宇多田ヒカルは出てきたのだろう。

 唄い方がひじょうに日本人離れしたミュージシャンはこれまで何人かいた。佐野元春や久保田利伸、CHARAなんかだ。唄い方はひじょうにカッコいいのだが、なかなか日本受けしにくかった。宇多田ヒカルはそういった玄人っぽさをスターダムに押し上げたというわけだ。


 P.S. ところで日本のヒットはCMとテレビ・ドラマのタイアップが多い。アメリカでは映画が多い。古くは『フットルース』とケニー・ロギンス、『フラッシュダンス』とアイリーン・キャラ、ディズニーの映画、最近では『タイタニック』とセリーヌ・ディオンなんかだ。テレビ好きの国民と映画好きの国民の違いだろうか。その国民がいちばん若かりしころのメディアが強く愛着されるということだ。




      労働者の犠牲としての豊かな社会  2000/1/13.

 まったく労働というのはツライ。みじめであわれな仕事も多い。一日同じことをくり返さなければならない反復行動の仕事も多いし、劣悪な環境で仕事をしなければならないこともあるし、長時間、いや生涯を拘束されることもあるし、消費者のためにムリな注文、ムリな仕事をひきうけなければならないときもある。

 こういった労働者の苦しみや涙、辛苦のうえに豊かな社会、便利で役に立つ生活がなりたつというのはなんとも皮肉なことだ。きらびやかな舞台の裏では、多くの裏方が歯をくいしばって泣いている。こんなのが豊かで便利な社会なのだろうか。

 われわれはこの豊かな社会の「受益者」「便益者」なのだろうか、それとも「使役者」「苦役者」のどちらなのだろうか。わたしの感じからいえば、「苦役者」のなにものでもない。受益する方より、だんぜん苦役するほうが多い。

 いったい豊かな社会とはなんなのだろう。便利で豊かな社会は苦役者の時間と労苦を増加させただけではないのか。

 豊かな社会というのはひとりでに勝手に築かれるものではない。多くの人たちが働き、礎を築き、多くの人たちの手によって日夜営まれる日々の労作物なのである。

 豊かな社会というのはわれわれに受益のほう、それとも苦役のほう、どちらをより多くわけ与えただろうか。手放しで豊かな社会の理想と実現に喜んでいたら、大いなるしっぺ返しを食らう。文明というのは便利で楽で合理的な生活であるばすだったが、大いなる逆説をはらんではいないだろうか。




      生産増強の美徳が日本をダメにする   2000/1/10.

 生産増強の美徳は近代化にひじょうに役立ったが、そのような時代は終わった。日本人の意識は変わらなければならないわけだが、常識や美徳というのはなかなか変わらない。生産増強の美徳という日本人の石頭はとうふの角にでもぶつけなければ治らないのだろうか。

 これから必要なのは生産増強の美徳なんかではなく、人間としての幸福と楽しみの創造である。これがまた難しい。見つけられないから、日本は長いこと不況におちいる。幸福と楽しみがないから、社会の活性化と好況が見込まれない。

 前時代的な生産増強の美徳から日本人の頭がなかなか変えられないのは、環境と状況の変化、あるいは隔絶を強く自覚していないからだろう。もう近代化は終った、生産増強の時代は終わったのだ、ということに気づいていないのだ。暗記反復の学校洗脳の恐ろしさというものか。

 人間の幸福と楽しみというのはひじょうに難しい。ヨーロッパやアメリカに見習えという生産増強の時代はそういう問題を不問に付してよかった。豊かさゲームに奔走すれば、それで幸せだったからだ。いまはそのゲームが終わり、宴のあとの虚しさに意気消沈しているというわけだ。

 幸福と楽しみをつくるにはみずからが実験台になるしかないのだろう。いろいろ試してみて、失敗して、そのなかからおもしろいものを生み出してゆく、そういうプロセスが必要になるのだろう。

 そういった実験のモラル・バリアになっているのが前時代的な生産増強の美徳である。これがあるから日本人はダメでもともとの実験的な幸福の模索ができない。これまでの幸福と安寧を失ったり、なくしてしまわないと、そういう捨て身の模索はおこなわれないし、創造もされないのだろう。

 生産増強の美徳は目指すべき目標や憧憬があるがゆえに可能である。それがなくなってしまえば、まったくの悪徳になってしまう。新しい目標や憧憬はこんなクソまじめな論理からは生まれてこないからだ。

 新しい幸福と文化をつくらなければならない番がわれわれに回ってきたということだ。その実験をする人びとはみずから模索と実験をおこなわなければならない。生産増強の美徳が未来への抵抗になっているというわけだ。

 規制緩和と自由化がまっ先におこなわれなければならないのは、日本人の石頭なワケだ。




      仕事に価値がおかれない時代はくるか?    2000/1/8.

 現代は仕事に価値がひじょうにおかれる時代である。わたしはあまり仕事をしたくない。怠け者ではなくて、仕事に意味も、人生を賭す価値も見出せないからである。

 仕事に価値がおかれない時代はくるだろうか。これまでは仕事にひじょうに価値がおかれていた。ほしいモノがたくさんあったからであり、みんな上昇成長の夢に酔いしれていたし、仕事の先にはなにか過大な夢があるように思われていたからだ。

 だけど若い世代には夢の部分より、労働の過重や無意味さがより多く見えた。現在ではちまたの人が当たり前につぶやくようになった「ほしいモノがもうない」という気分をすでに先どりしていたからだ。だから仕事のつまらなさやオーバー・ワークばかりが目に映ることになった。

 そういう若者はどんどん増えつつあると思う。また十年もの長い不況がつづき、多くの人は将来の経済に希望を抱けなくなっている。いまこそ、勤勉の意味と根拠の土台がかつてないほど弱まっているのではないだろうか。

 日本人の勤勉の価値観は変わるだろうか。働くものが立派であり、エライという価値観は、このままその正当性と根拠の強さを主張できるだろか。ほしいモノがもうない、先行きの経済にも希望が抱けない、そんな時代に勤勉の価値観はこれまでどおり絶対的なものだといえるだろうか。

 発想を逆転しなければならない。ほしいモノが多くあったときには労働はべつに苦にはならないが、そうでなくなったときには労働自体を問題にしなければならない。夢の部分が欠けてしまったのに、労働ばかりが覆う社会はイカレているのはまちがいない。目的がなくなったのに、その手段ばかりが肥大するのはおおよそまともな頭の持ち主がすることではない。

 勤勉の価値観は洗い直されなければならない。いまの時代に妥当なのか。働くことだけに人生を賭すような生き方が、将来の経済に希望を抱けない時代に通用するものなのか。ほしいモノがもうない時代に働きづめの生き方ははたして合理的なのか。

 このような時代に問われなければならないのは仕事の価値のみではなく、人生の価値なのかもしれない。なにに価値をおき、どのような生き方が満足するものなのか、考えてみなければならないのだろう。

 豊かな社会の夢がついえた時代に労働の意味とはいったいなんなのだろう? 人生を奪ってしまう労働とはいったいなんなのだろう? われわれはなんのために生きるのか、ということがあらためて問いなおされなければならない。豊かになるという人生目的のリセットが求められているということだ。




        なんでラブ・ソングばっかなんだ?   2000/1/5.

 なんで日本の音楽はラブ・ソングばっかなのだろう? だれもかれも愛や恋や恋愛だの、そればっか歌っている。たまには社会や政治、人生について語れっちゅーに。

 10代のころからそう思っていた。でも80年代はトシちゃんだのセイコちゃんだのアイドルばっかバカスカ出てきて、アホらしいから洋楽ばかり聴いていた。

 音楽というのはたしかに愛を語るには適しているのだろう。でも若者がどいつもこいつもラブ・ソングばかり聴いているのは問題だ。音楽は若者にたいする圧倒的な影響力をもっているのに、社会や人生について語られないのはかなりの損失と浪費だと思う。

 たしかに十代のころには社会や政治を語るにはタブーであるような雰囲気があった。いまなら宗教を語るのはもっとタブーのようなところがあるのだろう。そんなシリアスなことを語っていたら、アブナイ人種か、われわれと違う人種と思われるようなところがあった。日常においてこういう会話が禁止されているのは、ほんと日本の損失だ。だってこのジャンルの進歩や発達は見込めないからだ。

 70年代に学生運動や政治運動の過激化があったりしたからだろう。井上陽水が政治より「傘がない」といったことが問題だと唄ったときあたりから、日本のミュージック・シーンはミニマムの世界に変わっていったそうだ。それまでは社会や政治について語っていたらしいのだが、その後はユーミンやサザンのようなポップな音楽とアイドル歌手が全盛になった。

 社会派のミュージシャンはほんと少ない。わたしが知っているかぎりでは、浜田省吾や井上陽水、ミス・チル、尾崎豊くらいだ。若者はもっと社会や人生について考えるような歌を好んでほしいと思うのだが、ラブ・ソングだけでは人生があまりにも貧弱だし、人間的深みが生まれないというものだ。

 若者がラブ・ソングばっかに熱中できるのは平和で平穏な時代のおかげであるのはたしかだ。秩序崩壊や戦争なんかが起こったりしたら、そんなノンキな歌なんか歌っていられない。

 でも時代はノンキであることが許されない時代に転げ落ちつつある。わたしの予測ではこれからプロレタリア音楽とデカダンス音楽が流行るようになると思っている。明治・大正の歴史がくりかえされるのなら。

 人は順境のときはあまり学べないし、成長もしない。幸せだから必要ないわけだ。逆境のときにはじめて人は深くものを考え、成長し、進歩するものである。これからの社会はそういった不遇の時代を迎える可能性が大だ。でもラブ・ソングばっか歌える時代のほうがしあわせなのかも。。。




       企業利益より高い倫理性を    2000/1/5.

 企業利益より、社会の倫理性の高い社会を理想とすべきだ。社会は企業や経済のためにあるのではなく、人々のためにある。経済利益のために倫理が破壊されたり、人々が見殺しにされるような社会はおおよそ人のありかたとしては畜生より劣る。

 日本には企業利益より高い倫理性、共同体の道徳といったものがない。ために企業利益、経済利益だけが絶対の正義になり、大手をふるう社会ルールになってしまっている。

 文明や科学技術が信仰になってしまっているため、ほかの倫理性の土壌となるものがまったく排斥されている。これでは経済のために人々が見殺しにされたり、ないがしろにされたりするのはとうぜんのことだ。

 社会のなかでは共同体や人々の道徳や倫理性が第一義になるべきだ。人としてよい人であろうとする道徳が強い社会が理想だ。このルールの準拠となる集団や社会風土が日本には必要だ。

 マスコミやインターネットは知識や情報を送り伝えるメディアとして、そういう準拠集団、バックグラウンドになる力をぜひ養ってほしいものだ。メディアは企業利益を越える高い倫理性をもってほしい。企業といっしょに利益を守るようなありかたはメディアの正義を逸脱している。そこにしか望みはかけられないと思う。

 企業利益だけを絶対の正義とするような社会は、ケモノに身を堕とした人間と寸分変わらない。

 ただ、だからといって企業にすべてのリストラをやめさせる、雇用を抱えろ、というのは違っていると思う。これではますます企業の権力を増大させ、人々に隷属と不自由をもたらすだけだと思う。企業との一体化から離れる必要があるのではないだろうか。




       豊かな生活と労働量のジレンマ   2000/1/5.

 豊かな生活をしようとするとどこまでも働きづめになる。豊かで贅沢な生活をしようとすると、ますます働かなければならなくなる。働くために生きているといった転倒した生を送ることになる。

 ぎゃくにあまり働かないと貧しい生活を送らなければならない。豊かさや贅沢は得られないし、生活苦や貧苦が襲うし、将来や老後の保障も得られない。社会全体の経済もかなり怪しくなる。人々の絶望と失望が襲う。

 ジレンマである。豊かな社会をつくろうとすれば、人はどこまでも働かなければならないし、あまり働かない社会を理想にすれば、社会全体は貧しくなる。

 これまでの理想は豊かな社会だった。しかし科学技術と文明の利器に満たされた社会は、人々の働きづめの生涯を招来させた。だからわれわれの世代は親の世代のように働くだけの人生に疑問をもっている。豊かさだけに目を奪われていると労働に人生を奪われてしまう。

 働かない生活を理想にすると、多くの科学技術や文明の利器の恩恵を断念しなければならない。そのような貧しい生活をしてはじめて、ゆっくりとのんびりした働かなくてよい社会を実現することができる。豊かさを否定することでしか働きづめの生涯から脱却できない。

 われわれの進むべき道はどちらなのか。わたしはもちろん働くだけの人生や社会は親の世代で終わりにしてほしいと思っている。労働からできるだけ解放される社会が理想だ。豊かさやモノの過剰、利便性といった文明の輝かしい部分だけに目を奪われていると、これは実現できない。

 先進的だが仕事だけに人生を奪われる生涯と、仕事から解放されるが貧しい生涯と、どちらがいいだろうか。われわれはこういった選択をしないと、生涯を労働に奪われつづけるのだろう。一度切りしかない人生をどういうふうに生きたいですか。




        家庭のしあわせ     2000/1/4.

 家庭をもちたいと思ったことがない。なんとなく結婚してガキをつくってみたいな漠然とした人生観はもっていたのだが、あっという間に三十を越してしまった。親戚の人にいわれたが、二十代はあっという間に過ぎてしまう。

 家庭にたいする魅力とか欲がぜんぜんないのだろう。だからひとりで生活する方がラクで慣れているから、そのままひとり暮らしをつづけているといった感じだ。ついでに恋愛もうまくない。なんていうか、人といっしょにいること、どこかに出かけることが退屈でたまらなく、目的意識をもてないから、これでは恋愛から遠のくというわけだ。

 家庭というのはしあわせなんだろうか。近ごろはやっと子どもがかわいいと思うようになってきたが、いぜんはそんなことはつゆにも思わなかった。

 みんなはいつの間にか結婚したり、子どもをもったりしている。なんていうか、わたしにはそういう目的意識がぜんぜん欠如していたから、みんなが子どもをもちだす気持ちというのがぜんぜんわからなかった。わたしにはない子どもを持ちたいという遺伝子がとくべつに組み込まれてるんじゃないかと思うくらいだ。

 そうこう思っているうちにわたしには妻子を養う経済力が欠如していることがはっきりしてきた。どうやらこの先、あまり恵まれた生活はできないらしい。仕事だけの人生にも疑問をもっているし。とてもじゃないけど、家庭をもつなんてことはわたしの経済力ではできないようだ。あきらめないとしょうがないのだろうか。。。

 結婚とか家庭というのは親の家庭のありようにも影響されるのだろうか。わたしの親の家庭もそんなによいほうではなかっただろうし、母はよくケンカしたり家出したりしたし、世間体のイヌだったし、のちには家庭は崩壊した。こういう家庭を見て育った子には決定的に家庭の欲望が薄れるのだろうか。

 家庭をもたなかったら、社会人はほんとうに世間から孤立してひとりで生きているようなものだ。さみしいとか、つらいとかは思わないけど、こんなにひとりぼっちの生き方でいいのかなと思ったりする。今日もわたしはひとりで生きる。




         精神の浪費    2000/1/3.

 あらゆる時間、あらゆる行動のあいだじゅう、思考は駆けずり回る。とぎれることなく思考はあらゆる物事を考えつづける。まるでどこかで見かけるひとりでしゃべりつづけているオッサンのようだ。

 ひとつの行動、ひとつの作業をしているあいだも、その行動・作業と関わりのないありとあらゆる思考が頭のなかを駆け回る。

 ふっと、これは精神の浪費ではないかと思った。一日中駆けずり回る思考のうち、どれだけの思考が役に立つことを考えているのか、どれだけ有益なのか、切り分けてみるのもおもしろいと思った。

 思考というのは想像力である。いま、ここにないことを想像するのが思考である。したがって、いまここでおこなっている行動・作業とほとんど関わりのない想像力に頭は支配される。そしてその思考はどれだけ役に立ったり、有益なのか、おかまいなしに思考の流出はつづく。

 思考や想像力のたいていはムダではないかと思う。逆にそのおかげによって、いらぬことを心配したり、不安になったり、新たなる重荷を背負い込むことになる。新たなる仕事やよけい手間を増やしたりする。

 思考はたぶん起きているあいだじゅう、休むひまもなく働きつづける。寝ているあいだだって、夢という思考の働きはとまらない。脳は休息を必要とするのだろうか。脳は働きつづけるからだのように疲れることはないのだろうか。脳もからだのように疲れのサインがすぐ出るのなら、思考の浪費は抑えられると思うのだが。

 休むひまもなく流出する思考の数々はすべて役に立っているのだろうか。どれだけムダな思考がおこなわれているのだろうか。あーでもない、こーでもない、あれもこれもそれもあれらも、と思考はぴょんぴょんと跳ね回る。ほとんどはムダじゃないかと思う。

 思考を抑制すれば、心は清澄になる。思考で充満した心はさまざまな感情の汚れや重みで、だいぶ弱くなっており、打たれ弱くなっている。思考のない心ではさまざまなことを軽く受け流せるし、からだと頭が別方向にいってしまうということもない。

 精神を休めることによって、はじめて精神は強くなることができる。からだとぴったりと重なることができる。

 澄んだ心がどれだけよいものかはわたしにはわからないが、仏教なんかでは思考の滅却を説くように、この先にはなんらかのよいことがあるのではないかとわたしは思っている。

 たいがいの思考は精神の浪費ではないかと思う。われわれはついつい思考につられ、思考のまま考えをつづけるわけだが、この習慣をとめることも可能なのである。精神にも休息が必要であり、そこから元気な精神と統一のとれたからだがよみがえるのではないだろうか。





     人間は時間をもって幸せになれたか?    2000/1/1.

 西暦が1999年から2000年に変わった。世界中の新しい年を祝う行事がTVで流されている。

 しかし年号というのはあくまでも「虚構」である。おおぜいの人たちは新しい年を祝っているが、それを虚構だと知っているのだろうか。虚構を祝っているということに気づいているのだろうか。

 さらにいえば、時間も虚構である。時間なんてものはどこにもない。あるのは人間の頭のなかにあるだけであって、それも想像力のなせる技なのだ。想像力が時間を生み出す。記憶が過去を生み出し、未来を延長させる。

 時間はどこにも実在しない。人間の記憶の中に、思考のなかに、決まり事のなかにあるだけである。そういった決まり事に慣れて、おおぜいの人は時間がどこに実在するかのように思ってしまう。

 たしかに過去はあった。われわれは過去の上に成り立ってるように思える。しかしそれは記憶としか存在しない。頭のなかにしか存在しない。だが人間は空間に距離があるように、時間にも距離があると考えるようになった。時間の誕生である。

 人間はいましか感じることも、見ることも、生きることもできない。それ以外はすべて頭のなかの記憶か、想像力である。いや、いますらも思考や虚構でしか捉えることができない。時間を捉えようとすると、たちまち思考や記憶という虚構の道具を使うしかないからだ。われわれはあっという間に幻に変わってゆく時間という夢と寸分変わらない世界に生きている。

 時間が誕生したのは人々の約束のためだろう。あるいは季節のためだったかもしれない。そしてわれわれは計画し、蓄積し、反省する生き方にふみこんでいった。

 計画する生き方は過去と未来にがんじがらめにされてしまう。時間をもつ生き方は、過去の後悔と未来の不安という重い荷物をも背負わせる。

 時間は人間にとって幸運をもたらす女神だったのか、不幸をもたらす悪魔だったのか。一長一短としかいいようがないのかもしれない。個人の感情生活においては、過去も未来もない生き方のほうがよいのではないかとわたしは思う。過去や未来に苦しめられるのなら。



貨幣経済についての断想集





        犯罪者のパーソナリティと「わたし」   2000/2/8.


 犯罪者がつかまると、その性格や生い立ちが紹介される。たいがいは非難や中傷、異常さをあぶり出した発言がなされる。

 わたしの中でおこなわれるのは、自分もそうではないかという性格のチェックである。犯罪者と同じ性格や同じような部分はないかとあら探しをするわけである。このまなざしは当然他人にも向けられるから、友人・知人のあいだでも交わされることになる。

 犯罪報道というのは、社会の中での一般人の性格規制や行動抑制の役割ももっているというわけである。それだけですめばいいのだが、小心者や猜疑者は、他人から犯罪者のように思われないかとひじょうに怖れるものである。この気分の悪さはかなり最低のものだろう。

 わたしも小心者だから、こういう犯罪規制のアンテナを自分の中にはりめぐらせてかなりいやな気分を味わうほうだが、最近思うのは犯罪者の性格とか生い立ちって、その時代の社会趨勢を表わしているに過ぎないのではないかということである。

 「おとなしい」とか「まわりに友達がいない」とか「近所と口をきかない」とか犯罪者の風貌が伝えられるわけだが、これって現代人の特徴や崩壊した地域社会を表わしているだけであって、犯罪者ゆえの性格ではなく、地域社会の住人は多かれ少なかれこういう性質を帯びざるを得ないのではないかと思う

 「ゲームに熱中していた」「マンガやアニメが好きだった」「友だちがいなかった」というのは犯罪者を語るときにとくによく使われる非難のキーワードだが、これって社会の多くの人のライフ・スタイルや社会趨勢を表わしているだけであって、犯罪者特有の性質では全然ない。

 しかしそれが犯罪者報道となるとたちまち犯罪者特有の性質や行動となってしまって、「異常性」や「危険性」を帯びるものになってしまう。犯罪者、あるいは犯罪報道というのは社会現象や個人の性格のあらゆるところに異常や危険のブラック・イメージを貼りつけてしまうものなのである。これによって個人の平穏や自由がどれだけ脅かされるかわかったものではない。

 たぶん犯罪やタブーを犯しそうにもない人に限って人一倍そういうことに脅えやすい性質をもつものだろう。そういう脅えが心の中に何重もの行動規制や性格規制の網の目をはりめぐらせるからだ。

 でもこういう脅えは速やかに捨て去ったほうがいいと思う。この不安によって犠牲にされるのは、個人の創造性や自由度と重なる部分がひじょうに多いと思われるからだ。犯罪を犯す気もないのに脅え過ぎるのは、あまりにも自己を犠牲にし過ぎることになってしまうと思う。犯罪者と似ていたとしても、いちいち気にしないことである。良いことより犠牲になることが多すぎると思う。




        「優等生」がブッ壊れている   2000/2/8.


 京都小学生殺人事件の犯人はある時点まで優等生だったということである。この2、3年の若者の犯罪者の特徴として、ある時点まで優等生だった、もしくは挫折した優等生が多いと、あるニュース番組がくくっていた。たしかにオウム事件いらい、そういう優等生たちが増えたようである。

 学校の優等生たちはいま経済社会の変化のいちばんつらいところに立たされているのだろう。学歴信仰が崩れかけているところだし、世間では実力主義だとかいわれて、自分たちのこれまでの努力が否定されるようなことがいわれているし、経済社会というのは学歴の成功とまるで違った行動力の世界である。

 経済社会というのは金儲けの世界である。机にかじりついていろいろ知識のお墨付きを得たとしても、そんなものが通用する世界ではない。経済社会に必要なのは、金儲けや成功へのあくなき貪欲であり、自信や行動力、コミュニケーション能力といった学歴とはあまり関係のない能力である。こんなのはナポレオン・ヒルとかジョゼフ・マーフィーなんかの自己啓発書を読んだほうがよほど身につく。

 学校社会はあまりそういう現実のことをなぜか教えない。知識の殿堂の温室なのである。学校の知識競争の目標というのは、かなり経済社会の世界とズレたところに少年の心を運んでいってしまうのではないかと思う。

 もうかなり前から学歴社会の効用は失われていたといわれている。それでも受験戦争が冷めなかったのは、競争のための競争といった優劣競争があったからだという。あまり役に立たない温室のなかの優劣競争がおこなわれていたわけである。

 しかし少年たちはそれに気づかずに優等生であるということでヘンな自尊心とか優越心をもってしまうそうである。将来の成功のパスポートが得られたと思ってしまって、その優越感が逆に実社会での挫折や失敗に耐えられない心性をつくりだしてしまうのかもしれない。かれらは受験幻想の犠牲者だといえそうである。

 経済社会と学歴競争のミス・マッチがおこっているというわけである。学歴の勝者はかならずしもこの経済社会では勝者になれるとは限らない。はっきりとそのことを教えないと、優等生の不幸はまだ終らないのだろう。

 学歴はたんに古い大企業や官僚機構に入るためのあくまでもの条件にはなるが、その後の長い幸福も成功も絶対には約束できないということである。学歴なんかにはだまされてはならないのだろう。あとはその学歴による自己修練力と自己学習力をふたたび利用して、ツライ実社会を渡ってゆくしか仕方がないのだろう。

 シンデレラは結婚したらそれでおしまいになるのではなく、ここから長い人生と辛苦が待っているというものである。学歴はその人生を泳ぐための助走期間と訓練でしかない。あとは自分ひとりでさまざまな辛苦をひきうけて泳ぐのみである。学歴をのちの人生の幸福と成功のパスポートだと思いこんだら、とんでもない目に合うだけである。





          マニアックと一般ピープル    2000/2/7.


 きょう、TVで荒俣宏の半生をふりかえる番組をやっていた。百科辞典的知識をもつかれのことだけあって、少年時代からの趣味へののめりこみ方もハンパではない。それだけマニアックになれたからこそ、こんにちのかれの膨大な業績があるわけだ。

 だけどわたしの中にはすぐマニアックを嫌悪するような目が出てくる。こういうマニアックな人は一般の人たちやふつうの人たちの中では、毛嫌いされたり、無視されたりするんだろうな、と心配になってしまう。そもそも一般の人たちに自分の嗜好や好みを教えたって、その価値観をくんでくれないのではないかとわたしはあきらめ勝ちに思う。

 わたしの中にも一般の常識的な規範をはなれてどこまでもマニアックにのめりこむ、のめりこみたい傾向をもっている。しかし世の中を学習するにつれ、そういう傾向はふつうの人たちから毛嫌いされたり、気持ち悪がられたりするのがオチだと学習するようになった。

 いまではあまり人にいわずに自分の好きな読書にのめりこんでいるが、ふつうの人たちの間でこんなことを言ったら、どんなふうに嫌われるかわかったものじゃないから、へたに口にしないようになっている。ふつうの人たちのあいだでは野球や競馬が好きで、パチンコをやったりレジャーをやったり、そういう一般的な嗜好に走らないと、なにを言われるかわかったものじゃないのである。

 歴史の偉人や業績をのこした人というのはものすごいマニアックな人であったはずである。一方では褒めそやしながら、一般の人たちのあいだではものすごく嫌われ、貶められるのがマニアック・ピープルの運命というものである。

 どこまでこういう他人の誹謗中傷に負けないで自分のマニアックさを追究できるかが、業績をのこす人とそうでない人の違いなのだろう。他人に嫌われるのが恐かったり、他人と同じ趣味や慣習に合せるようでは、たかが知れた業績しか残せないものなのだろう。

 夏目漱石も読んだジョン・スチュワート・ミルの『自由論』という名著は、マニアックさをいかに一般人の暴力(多数者の専制)から守るかということをいっている。いまもむかしもマニアックというのはたいへんな思いをするものなのである。(世の偉業や業績の恩恵は、かれらから受けているのね)

 あ〜あ、わたしも他人の目や冷たさを気にしない荒俣さんのように強い心をもちたい。わたしは日夜、競馬とかレジャーが好きなふつうの人に囲まれて、いつボロが出ないかびくびくものである。いくらヘンだと思われたって、ふつうのことっておもしろくともなんともないんだからしょうがねぇじゃん。




         若者たちの暴発    2000/2/6.


 京都小学生殺害事件の容疑者が自殺したり、新潟で少女監禁事件が発覚したり、東京桶川の殺人事件の容疑者が自殺したりと、このところ大きな事件が入ってきた。いぜんの下関と池袋の通り魔殺人事件や中高生のナイフ殺傷事件の頻発、神戸小学生殺傷事件など、若者の凶悪な事件が増えている。

 若者の閉塞感はいぜんに増して強くなっているのだろう。ちょっと前はエリート汚職などでエリートの崩壊が騒がれ、いまでは学生は就職しようにも超氷河期だ。これでは何年間もガマンして学校で勉強しても仕方がないし、会社に就職しても出世とか成功とかの夢もつまらないし、若者たちにとってはどんづまりの未来しか呈示されていない。これでは若者たちは暴発するというものだ。

 将来にたいして夢や希望がてんで抱けない。リストラ中年たちも同じ状況だろうが、オヤジたちは性犯罪にいそしんでハケ口を必死につくっているが、守るものがない若者たちは忍耐力がもっとないし、より衝動的な行動に走りやすいだけだ。この状況がつづけば、若者の暴発はもっと大規模なものにつながってゆくことにもなりかねない。

 解決策なんかあるのだろうか。いぜんでは政治が悪いといえばよかったが、もうそんなかんたんな言動ではどうにもならない。景気がよくなれば状況はいくらかは緩和されるかもしれないが、会社に就職するしか生きる道がないという閉塞状況はいっこうに変わらない。

 このまま堕ちてゆくしかないのだろうか。一種の生みの苦しみである。堕ちてゆけば、苦しみながらも盲目的な打開策や希望が模索されることになる。状況が悪ければ悪いほど人々は反省するし、深刻に改善の意志をもつようになる。

 新しいパラダイムで物事を変えてゆかなければならない時代になったということだ。戦後の豊かになれ、会社で出世しろというパラダイムではもうやってゆけないのである。そしてその土台に築かれた政治改革とか社会改革みたいな知識群では、もうこの時代はのりきれないし、効果もないことだろう。

 いまの社会につける薬はないということである。若者は会社の出世という人生ゲームではもうあきあきとしているが、新しい人生ゲームも社会改革ゲームもてんで生み出されていないのである。じゃあ、どうするかというと、堕ちてゆくしかないのだろう。時間のなかで新しいものが生み出されてゆくのを待つしか仕方がないのかもしれない。旧いオッサンたちの改善策では事態は悪くなるだけだし。

 堕ちてゆけばゆくほど見えてくるものもあるし、なにが欠けていたのかわかることもある。大事なのは旧パラダイムの認識や解決策ではどうにもならないということに気づくことである。もう若者たちはむかしのやり方では満足のゆく生き方ができなくなっているということだ。世のオッサンたちがそれに気づくまでにはまだまだもっと痛いショック療法が必要であるのだろう。そうなるまでに若者はもっと苦しまなければならないのかもしれない。

 時代も社会も、若者ももうごっそり変わってしまったのである。それに気づいて、改善されるまで、若者の閉塞感は強くなってゆく一方なのだろう。世の大人たちはそのメッセージにいかに早く気づくことができるだろうか。




           書物・テレビ以前   2000/2/3.


 投げ銭システムに関わっているうちに、書物やテレビができる前の人たちはどうやって学問や芸能で生計をたてていたのか興味をもった。いまでは書物は出版社や流通機構、書店によって知識を売ることができるし、芸能ではテレビ局や講演などによって収入を得るシステムができあがっている。学者は学校というシステムによって生計を得ることができるようになっている。

 それ以前の人たちはどうしていたのだろうか? インターネットという新しい仕組みは、いまの産業の当たり前の姿に新しい光を当てる契機を与えてくれる。

 しかし歴史の勉強不足でわたしには知識がまったく欠けている。思い出せる知識だけを総動員させてみると、ヨーロッパの音楽家や芸術家などは金持ちのパトロンに雇われていたりした。哲学者や科学者の経歴に金持ちの家庭教師だったという人もいくらかいる。

 日本では講演や寄席などという人々を一ヶ所に集める仕組みで生計をたてていたと思われる。書物やテレビという便利なメディアができるまで、芸能人や知識人は空間的に限られた人たちだけを相手にしていたわけだ。だから知識人や芸能人は、ほかの土地から呼ばれたり、広く伝えるために、さまざまな土地を旅して歩いたわけである。地方の豪商のなかには高い文化を誇っていたというところもある。

 世界観や人生訓を教える仏教の知識人たちもやはり全国各地を歩いて放浪した人たちが多い。書物やテレビなどのメディアなき時代にはその本人が現地に行って知識を渡さなければならなかったわけだ。托鉢というのは知識の見返りだったかもしれない。寺や神社が知識の伝達の役割を果たしていたかは、いまの状況からはちょっと想像もつかない。

 空間の制約を突破することが知識と芸能の伝達に課せられていたわけである。知識は書物というパッケージにまとめられ、流通させられ、そしてテレビは芸能や知識を一ヶ所に集め、そこから各視聴者に電波で送られることになった。

 書物もテレビもひじょうに優れた魅力的なメディアだったが、選別の力を働かせる。それらの発信者になれるのはひじょうに少数の人たちだけであり、一般人の創造性や当事者意識を奪いとったのかもしれない。この選別からもれる人たちはメディア以前の方法で各地を講演や営業に回ったり、あるいは受け身だけであきらめるしかなかったわけである。

 しかしマスメディアの時代はそれに熱中する人たちを大量に生み出した。自分たち自身で表現したり、見せたいと思う人を大量に生み出した。個人が小さなメディア発信をできるインターネットはそのような土壌にうけいれられた。

 ただしいまのインターネットには出版社やテレビ局のような選別能力もないし、カネを回すような仕組みもできあがっていない。この新しい仕組みは近代のメディア以前のありかたが、小規模のメディアとして参考になると思われる。強力な少数選別として働いたマスメディアより、それ以前のありかたのほうがインターネット時代には近くなるのかもしれない。ということで、あまりない歴史知識をふりしぼってみた。




      みなさんは投げ銭システムをどう思われますか?   2000/2/1.


 投げ銭システムというのは、大道芸人のようにホームページにチップを払うことをいうのだが、その小額金銭送受システムを現実化すべく尽力されている「Donation」のもんじゃ/横沢さんからお誘いをうけた。しかしこころよく快諾してよいかはひじょーに悩むところだ。

 いぜん、わたしは「投げ銭システムから開けてくる個人の文化」というエッセイを書いた。個人がホームページでいくらかのお金を手に入れられるようになると、新しい個人文化の起爆剤になるだろうということだった。自分の趣味や娯楽で、いくらかのお金を稼げるということになったら、とても楽しくなると思いませんか?

 でも目下のところ個人ホームページのほぼすべてはもちろん無料である。すべてHP作成者の趣味と嗜好によって発表されている、もしくは個人の見せたがりや顕示欲によって公表されていると認識されているような状況である。

 もちろんこれはこれでよい状況だし、じっさいにそのように捉えてよいと思われるし、HP作成者もインターネットによって自分の意見や趣味を世間の人に見せたいがために作成しているのだと思っていることだろう。読者のためというよりか、自分の趣味や好みのために作成、公表しているといった具合である。ボランティアという以前の、個人が公共に情報を送信できる喜びを感じるためのHP作成といった感じである。

 いまはインターネットが浸透して間もなくだからこの段階だろう。しかしのちのちには優れた、あるいはおもしろいHPにはチップを払ってもいい、払うべきだという時期が来るのではないかと思っている。HP作成者のわたしとしてはそうなればとてもありがたいし、ほかの人もHP作成に熱が入るというものだし、このモチベーションにひっぱられれば、HPの高度化と繁栄がひきおこされることだろう。

 ただインターネットの読者側の立場となるとやはりがらりと変わるものかもしれない。仲の良い遊びともだちと思っていた人が、これは商売だ、カネをよこせといわれたら、裏切られたような気持ちになるだろう。またカネや損得勘定が入らない無償の趣味や娯楽のツールだからこそ、インターネットのよさとおもしろさ、醍醐味があると思っている人もおおぜいいるかもしれない。そんななかにカネやビジネスなんかを混入させるとはとんでもないという人もいるかもしれない。

 わたしとしては心配なのは、読者の方によけいなプレッシャーやストレスをかけないかということだ。有料サイトにいくと警戒心とかでけっこうストレスがかかる。投げ銭システムがあるサイトでは払うべきなのか、払わないのでいいのか、といった選択と罪悪感のプレッシャーを読者の方にかけてしまいそうで恐い。しまいにはこのサイトが敬遠されてしまうようになるかもしれない。

 そもそも個人HPにカネを払うまでの価値があるのかという問題もある。商品や商業物としての価値や値打ちなんてほんとうにあるのだろうかと疑問に思わずにはいられないということもあるだろう。そのへんはたいへん難しいところだが、投げ銭はあくまでも受け手の自由な判断にゆだねられているわけだから、必ずしも強制的な支払いを強要しているわけではないのだから、それぞれの調整は利くことだろう。

 それにしても難しい。投げ銭は導入してもいいのか、あるいはしないほうがいいのか。だいたいわたしのHPのアクセス数自体がてんで多くのないのだから、導入する以前の問題ともいえそうである。クオリティやレベルの問題もかなり強く大きく重く!立ちはだかる。導入してしまったら、個人の趣味の範囲での気楽に気まま、自分の好きなこと、興味のあることだけ、といったノー天気な作成も不可能になってしまうしね。。。

 じつのところ、投げ銭システムは様子待ちと傍観のかまえでしばらくはずっと行くつもりだった。そのような運動が興隆したり、盛んになってきたりしたら、どさくさにまぎれて便乗しようと思っていたのが、思ったより早くお誘いの話がやってきて、かなりとまどっているし、迷いっぱなしである。希望をもって誘ってくれた方にも申しわけないし。

 みなさんは投げ銭システムについてどう思われますか? ご意見をぜひいただきたいと思います。

 ueshin@gin.or.jp


        間接民主主義と政治の自由   2000/1/30.


 吉野川の可動堰の問題で住民投票がおこなわれ、直接民主主義と間接民主主義ということが話題になった。会話マナーが欠けていると思われる建設大臣がニュース・ステーションで直接民主主義を悪しざまに罵っていたが、ひじょうに反感を感じた。

 政治についてはわたしはわからない。シロウト的疑問が噴出して、わからないことだらけである。またニュースでやっている政治家の話題にはほとんど興味がないからべつにわかろうともしない。

 わたしのシロウト的考えからすると、間接民主主義というのは利権者や権力団体の好き勝手としたい放題をするための仕組みに思えてならない。そんなところに一般の人たちが選挙権を与えられて、政治の自由だとか権利の拡大とかなんだとか良いようにいわれたって、無力感はいっそう増すだけである。

 投票の権利と政治家の選択の自由があるといったって、選ばれる政治家たちは利権とか権力とかに都合のよいことばかりしている。なんか一般の人たちにはぜんぜん手の届かない政治家や利益団体の利権のために、一票を投じるなんてひじょうにバカらしく思える。

 一般市民の投票権とか、歴史で教わった政治権利の獲得なんて、てんでありがたくも、うれしくもなんともない。ほんとうにこんな無力で徒労な権利を得るためにむかしの人は必死に闘ってきて、また権利の獲得を喜べたなんて、ちょっとおかしいのではないかと思わなくもない。

 政治行為の代行なんてものが、政治がヘンになる原因なのだろうか。さきの大臣は間接民主主義はヒトラーのような独裁体制を防ぐための安全弁だというような言い方をしていたが、そういう危機があるのか、ちょっと大ゲサではないのか、よくわからない。

 でも直接民主主義という政治の形態もあるのだと知ったことは、政治の「もしかして」の希望をほんの少し与えられたような気がする。自由の想像力が広がるような感じがした。




         モノの大衆化とメディアの大衆化   2000/1/29.


 なぜホームページでエッセイを書くのか。わたしの場合、インターネットができる前からエッセイを書いたり、本を読んでいたりしていたので、インターネットが話題になったときにホームページをつくろうとすぐに思い立った。インターネットは以前からの趣味を公表する機会になったというわけだ。

 技術というのはすでに社会が欲しているものを提供するものであって、技術ができたからといって人々はそこから急に新しいことをはじめるのではない。インターネットも世間に自分の趣味や見聞、意見などを公表したいという欲求や土壌が強まっていたから、人々に期待と反響をもって受け入れられたというわけだ。

 これをいっているのが、江下雅之の『ネットワーク社会の深層構造』(中公新書)で、なるほどなと思った。ワープロをつかっていたことも、わたしのインターネットのプレ・ステップとなっていたわけだ。

 われわれは永らくマスメディアの受け手や観客、リスナーとして与えられる一方だった。しかし受け手ばっかりではおもしろくない。自己表現したくなるというものだ。そういうことは雑誌やラジオの投稿、アマチュア無線、マンガのコミケ、カラオケやストリート・ミュージシャンなどですでにはじまっていた。インターネットはそういう土壌に受けいれられたわけだ。

 考えてみたら20世紀というのは、モノの生産と大衆化の時代だった。生産は企業や工場などが一手にひきうけて、消費者はそれを享受する一方だった。この楽しみが20世紀を覆い、モノの大衆化が拡大していったわけだ。

 マスメディアも永らくは生産者と消費者をきっぱりと分ける産業だった。しかしこのマスメディアへの熱中はそれだけではすまない人たちを大量に生み出した。自分たち自身でつくり、楽しみたいという人をたくさん生み出したのだ。テレビや雑誌などで活躍する人たちになりたい、もしくはかれらのすることを自分たちも楽しみたいという欲求が強くなったわけだ。われわれの崇拝する対象は政治家でも官僚でもなく、タレントであるのは紛れもない事実である。

 近代は上流階級だけがもつ稀少なモノを大衆に拡大・流通する時代だった。これからの世紀はエンターティナーやタレントのマスメディア独占から、大衆化がおこなわれるのだろうか。インターネットはそういう時代の流れに求められたメディアであるといえるだろう。

 モノに価値がある時代ではなくて、人間がもつ趣味や見聞、エンターティナー性といったものが魅力的で衆目を集める時代になってゆくのではないだろうか。マスメディアの企業独占から、大衆化はこれからはじまるのだろうか。稀少なものが憧れられたときから大衆化がはじまるというのはいくつもの歴史が教えるところである。




        貨幣と豊かな孤立した社会    2000/1/27.


 いろいろなものが貨幣経済におきかえられてゆくと、人間関係は孤立化してゆく。人情や愛情、助け合い、義理といった漠然としたものでつながっていた人間関係は、すべてカネと仕事に換算されてゆく。豊かで便利な社会というのは、カネがどこまでも入ってゆく社会である。

 家族でおこなわれていた家事や育児といったものも貨幣とサービスにおきかえられていって、ついには家族も解体してしまうかもしれない。いぜんでは食事をつくるのも、服をつくったり繕ったりするさまざまなことも家族内でおこなわれていたが、いまでは商売やサービスがほとんど入り込んでいる。

 愛情や慣習などという約束でおこなわれていた結婚制度も、家事サービスの発達や外注化により、ほとんど無実化してゆき、セックス産業が夫婦間の関係さえ駆逐してしまいそうだ。夫婦関係は常時所有するよりか、随時レンタルするほうがおトクで、楽しいサービスに代わってしまうかもしれない。貨幣経済は人間関係の最期の砦である家族すらも解体しようとしているのである。

 核家族化、個人化を過去にさかのぼれば、大家族や古くは村落共同体といった助け合いのつながりがあったわけだ。この歴史は貨幣が社会に浸透する歴史であり、カネはこういうつながりをすべて駆逐してゆき、個人をばらばらに解体してきたわけだ。

 豊かで便利な社会というのは、貨幣と仕事という冷淡で職務化された関係がどこまでも入り込んでゆく社会である。便利さや効率化を追究するあまり、われわれはどこまでも人間関係がビジネス化、カネにおきかえられてゆくうら寒いシステムに身も心も売ったわけだ。

 さまざまなサービスがうけられる社会は便利で楽しい。日替わりでいろいろな人たちが考え出した科学や技術のサービスをうけられるのはそれは楽しい。しかしそれは人情や愛情を失った損得とか打算、ビジネスとかの杓子定規な関係におきかえられることである。それはそれはキビシク、さみシィ〜世の中である。

 またビジネスやカネのためだけに生きる毎日や仕事はつまらなく、無意味で、むなしいものである。豊かな社会の恩恵をうけようとすると、どこまでも働き、ますますせわしくなく、忙しくなるばかりで、社会の歯車として生きてゆかなければならないむなしさや無意味さを噛み締めるだけになってしまう。社会のシステム化の発展は、個人が充実や幸福を感じるためにはあまりにも遠く、かけ離れ過ぎている。

 貨幣経済の浸透はどこかわれわれを違った方向に連れていっているのではないかと疑問に思わずにはいられない。ボランティアの増加もそういうところにあるのだろう。

 貨幣の浸透と便利な社会ばかりに目を奪われていると、カネで換算されない人間や人間関係の幸福や楽しみをおき忘れがちになるようである。




        貨幣経済によって失われたもの   2000/1/26.


 貨幣経済の発達により失ったものはたくさんある。が、カネでしか価値を判断できなくなったわれわれはなかなかそれを発見しにくい。あるものはすぐ見つけられるが、ないものは見えないということだ。カネでしか物事を判断できなくなった人間を生み出したこと自体が、貨幣経済によって失われたものだといえるだろう。

 貨幣経済はとうぜんカネの価値を高める。もしカネがなかったら、もっとほかの至上の価値や価値の体系があったはずだっただろうが、貨幣経済はその麗しき価値体系を破壊してしまった。

 カネというのは人間がつくりだし、交換できるものだけに価値を認めるわけだから、それ以外のものや価値はとうぜん無価値とされる。ここからもれ落ちた価値観やモノのなかにはどんなに大切で、失いがたい価値をもったものがあったかは測り知れない。

 地球の環境資源なんてものは最たるものだろう。カネで流通される価値以外のものは価値なしとされるのだから、破壊されようが、収奪されようが、どう利用されようが、おかましいなしである。恐ろしいことである。貨幣の価値基準は自然の環境を駆逐してしまうのである。

 人間の精神や心のあり方もかなり歪んでしまったことだろう。人間のつくった、交換できるものばかりに注目し、欲望を煽りたてられるわけだから、卑近で矮小な世界観を形成することだろう。地球環境や自然、あるいは人間性といった大きな世界観――宗教に近しいようなものの見方はそのために衰退したのかもしれない。

 流通できるもの――人間が人間にとって役立つものだけが価値ありと見なす貨幣の世界観は、おそらく人間や社会の有益性や有用性といったものをかなり狭めたことだろう。流通できるものだけが価値あると断罪されるわけだから、それ以外の価値観やありかたがぜんぶ排斥されてしまうことになる。貨幣流通に役立たないが、人間にとってはいくらでもすばらしい価値はほかにもっとあっただろうに。

 貨幣経済の進展は人々の孤立化をもたらした。助け合いやつながりを駆逐していったのは、貨幣経済の発達ではないのか。カネに身を売った人たちは、貨幣流通にあずかれない人たちがいても、知らんぷりである。かつての貧しい社会ではもっと助け合いやつながりがあったように思われるが。

 われわれの生活の大半が労働に奪われるようになったのも、貨幣経済と「豊かな」社会のせいだろう。われわれはますますより多く働き、よりせわしなく、より忙しくなっているように思われる。カネのために人生のすべてを捧げつくなければならないようなしくみは、どこかおかしく、まったく「豊か」ではない。

 効率的で進歩的な社会の側面ばかりに目を奪われてはならない。貨幣の発達により、失われたもの、なくしてしまったものに目を向けるほうがもっと大切だ。それが目に見えないものだからこそ、よりいっそう重要なことだと思う。貨幣の悪魔的側面に警戒することが必要だと思う。




       貨幣経済とはなんなのだろうな 2    2000/1/25.


 人は生活費のもととなるカネを手に入れるために利他行動をおこなわなければならないようになっている。貨幣経済というのは、人が生きてゆくために社会のほかの人のためにモノをつくったり、売ったりする利他行動を強制的におこなわせるというヘンなしくみをもっている。

 おかしなものである。貨幣経済があるために人は強制的な利他行動をおこなわなければならない。よくできたしくみである。よくこんなうまいしくみが、人間という動物に生まれたものである。生活するために社会のほかの成員のためになる活動をおこなわなければならない動物というのはそんなにはいないだろう。(ほかの動物では求愛活動に見られるが)

 ただ利他行動の中身はかなり怪しい。カネを稼いだり、生活してゆくために、無意味で過剰なモノをたくさん産出しなければならないし、人々の満たされない不幸や不満をどこまでもつくりだしてゆかなければならないからだ。消費と欲望によって人間はいったいどこに連れてゆかれるのだろうか?

 また商売人の願うことは人々の不幸であり、医者は人々がみんな病気になることを願うし、建築業者はみんなの家が一晩に壊滅することを願うし、家電業者はみんなの家電がすぐブっ壊れることを願う。戦争兵器業者の願うことは不幸の最たるもので、どこの国々の人々もブッ殺し合いをしてくれることを願っているというわけだ。

 貨幣経済の表向きはすばらしい利他行動だ。しかしひとたびキバを剥くとこれほど恐ろしいものはない。金がなかったり、仕事がなかったりする人たちはこの貨幣経済の輪の中からみごとにはじかれる。処置なしである。表向きのきれいな利他行動はたちまちその化けの顔をはがす。

 貨幣経済という制度的な利他行動にふだん頼っているから、利他行為は形式化・儀式化してしまい、みごとにその中身、精神を失ってしまうというわけだ。それは凄まじい。食ってけない人を人々は怠けているからだとか、稼げないから悪いんだと当人のせいにしてしまい、あたたかい利他精神をまるでもたない。

 また貨幣経済の問題点は、カネで売れる・買えるものだけに価値を認め、そのほかの要素を排斥してしまう点だ。カネで買えないものがどんどん捨て去られ、顧みられなくなる。貨幣経済のためにわれわれはいったいなにを失い、どこに連れてゆかれようとしているのだろうか。

 貨幣経済についてはまだまだもっと考える必要があるようである。




        メガ書店は目が回るぅ〜   2000/1/24.


 たしか2、3年前に大阪千日前にJUNKDOというメガ書店ができた。専門書がやたら充実しているのはいいが、おかげでどんな本が読みたいのかさっぱりわからなくなってしまった。あまりにも専門書が多すぎるのだ。

 それまでの大阪の大きな書店というのは旭屋を筆頭にあったのだが、わたしが通う比較的大きめな書店でも、わたしの興味のあるジャンルのビジネスとか思想の本はある程度少なくて、そのおかげでそんなに選択に迷う必要はなかった。

 しかし近ごろ増えてきたメガ書店はあまりにも専門書が多すぎて、また文庫にしろ新書にしろきっちりと揃っているので、ひごろ見つけられなかった本はないかと目を皿のようにして見るのでひじょうに疲れる。ちょっと一周するだけで、はぁ〜疲れた〜ということになって、退散ということになる。書店めぐりもけっこう疲れるということを発見したメガ書店であった。

 ずっと前、わたしが哲学書とかを読みだしたころは「世界の名著」とか「社会学の名著」という限られた名著を読んでおればよかったのだけど、このごろは評価が定まっていない新刊とかを買う機会が増えたので、ほしい本を探すの一苦労である。

 ほしい本や読みたい著者が決まっておれば、たくさんの本が揃っているメガ書店はひじょうに有益このうえないけど、ぼんやりと読みたい本を探すときにはたいへんである。かたっぱしから読みたい本を探していって、その本の中から買いたいランク付けをしたり、さいふと相談したりして決めるわけだ。ほしい本が見当たらないときにはかなりの疲労感と徒労感が残ることになる。

 情報は多くなるのはいいけど、そこから選択したり編集したりするのはかなりたいへんだということだ。読みたいテーマやジャンルが決まっているときはいいが、そうでないときは新刊や平積み、表表紙を向けている本などの選択に頼ることになる。メガ書店の店員さんの選択眼にかかっているということになる。




        貨幣経済とはなんなのだろうな   2000/1/24.


 働くのはしんどいけど、カネを稼がなければ生活ができない。たくさん働けば贅沢や生活の余裕もできるけど、肝心の時間とゆったり感がなくなり、なんのために生きているのかわからなくなる。

 逆にあまり働かないと時間の余裕はできるけど、生活の余裕がなくなる。カネっていうのはうまくできていて、ほんとに困ったものだ。

 会社との関係でいえば、会社は忙しいほどよく儲かる。しかし従業員は忙しいほどしんどいから、ほどほどでいいのだが、暇すぎると今度はクビが怪しくなり、収入も減ってしまう。どっちも困ったものである。

 貨幣経済というのはみんなが贅沢したり、浪費したりして、はじめてうまく回る。みんなが節約したり、消費に楽しみを見出せなくなると、景気が落ち込んで、多くの人が貧乏になったり、生活できなくなったりする。個人的には節約は美徳であるけど、全体のことを考えれば節約は敵で、浪費は美徳になる。

 だから過剰だとか無意味な消費だとわかっていても、贅沢や流行に踊らされるのが善とされることもある。ときには個人の自由な領域を侵して、遊びや消費の型を押しつけるような強制の気分がまきおこることもある。画一的な行動をしなければ、変人とされる風潮もときにはある。

 消費なんていうものはたいがい生存や生命に関わりのないムダなものばかりである。だけど、その消費をしなければ、多くの人の生計の糧が得られない。だから貨幣経済というのは生存に関わりのないムダなものばかり、貨幣の流通のために、生み出してゆかなければならない宿命を負っている。

 貨幣経済というのは食糧や生活品の流通にはうまくできたシステムだけど、宿命的にムダで過剰なものばかりを生み出してゆかなければならない奇怪で奇形的なシステムである。

 貨幣のもとになる贈与や交換は原始人がおたがい足りないものを交換し合ったことからはじまったと学校では習ったが、カール・ポランニーや栗本慎一郎は、共同体同士の争いを避けるために贈与がおこなわれたり、贈与にともなう地位のゆらぎによって交換がはじまったといっている。

 貨幣経済のもともとは戦闘忌避や地位安定のためにはじまったのかもしれないけど、現在では集団内の優越表示や対等表示を推進力として、共同体の食糧流通のベースとなっている。流通のために貨幣経済はもう降りることはできないようになっている。

 貨幣経済というのはどこかヘンで、おかしい。過剰で無意味な消費やサービスをどんどんくりひろげ、人間のおかしな欲望のハナをどこまでもひっぱってゆかないと成り立たない人間活動だからだ。こんなヘンな活動とはなにか、ほかの方法はないのか、ということをこれからも考えてみたいと思う。




        人の悪口と陰口      2000/1/24.


 人の悪口とか陰口にわたしはけっこう傷つくほうだ。考えることに価値ありと思ってきたわたしは、後々分析したり、解釈したり、これはこういう意味だとか、こういう理由で悪口が発せられたのだとか深読みしがちである。

 そもそも「人は他人の悪口をいうべきではない」とか「他人の悪口をいう人は悪い人だ」という思いこみや思考の枠組みをもっている。こういう捉え方の枠組みをもっていると、とうぜんほとんどの人はわたしにとっては「悪人」や「加害者」になってしまうから、みずから苦しんでしまうことになってしまう。

 なんで人は他人を傷つけるような悪口や陰口を平気でいうんだろうと思う。考える価値はあると思うが、こういう現実を許さない思考法をもっていると、現実に傷めつけられてしまう。

 人の悪口にぶち当たるといつもぐじぐじ考えつづけてきたわたしだが、カールソンとかジャンポルスキーとかのセラピーを読んで、思考や過去をすぐ捨てるとか、感情は自分の考え方、捉え方ひとつでコントロールできるという知識を得て、いまはだいぶ人の悪口を素通りできるようになってきた。

 自分にたいして発せられてきたかもしれない悪口を頭のなかで反芻したり解釈しだりすると、その考えをストップすることも覚えてきた。いくつもの解釈法を考え出したりして苦しむより、どうでもいいやとその瞬間に捨てられるようになると、どんなに心にしこりを残さないですむことか。

 まあ、少なくとも悪口とか陰口というのは言葉であって、言葉というのは虚構であるから、なにも心配する必要はないし、いまの瞬間に消すことができる。受け流した方がよっぽど心の平静にはよい。しかも悪口を真に受けて態度を硬直させたり敵対したりするようになると、またもや相手との関係も悪くなるばかりだ。

 他人はいくらでもわたしの悪口をいうものである。自分の心の中に入れなかったら、少なくとも心が傷ついたり、苦しんだりすることはない。コントロールできるのは他人の心や姿勢ではなく、自分の心と姿勢のみなのである。他人の心を変えようとする人は、みずから苦しむ道を選択したということだ。

 なぜ人は悪口をいうのか。この問いの納得できる答えを出してみたいと思うが、いまは心の平安をとりたいと思う。ジャンポルスキーによると「恐れているから」ということになるらしいが、そう思うと相手に優しく接せられるということだが、こういう態度の選択がいちばんよいのかもしれないな。



「あなたの心が悪いのです」断想集




    内罰的な心理学は相手にしない方がいいのだろう   2000/2/29.


 心理学を「権力」としてみる視線を与えられて、心理学とどうつきあうかということが目下のテーマであるが、そういう知識社会学からの成果となるような本はあまり見つけられない。

 自分なりの心理学を読んできた経験からして、「内罰的」な心理学は相手にしないほうがいいのだろうとしかいえない。自分を責めたり、さいなましたり、あるいは自分は異常だとか病気だとか犯罪者だとか思うようになるような心理学はできるだけそっぽを向くことだ。

 精神分析とか交流分析、加藤諦三の本なんかをわたしは好んで読んできたが、自分や家族を責めたりしてあまり後味のよい思いが残らなかった。そういう自虐的になるような本は、たとえ「真理」とよばれようとあまり心の中には入れないほうがいいのかもしれない。

 論理療法や認知療法、自己啓発書といった本は自分の思考や認識を変えようとする技法を説いているので、自分を責めるようなことはあまりないので、心の健康にはすこぶるよいと思う。

 認識や思考のスタイルが自分を不幸にも幸福にもするといった知恵は、ぜひ覚えておいたほうがよいのだろう。そういう考えからすると精神分析などの過去や自己をいじくりまわしたり、責め回したりするような知識は、自分の心と気分を最悪なものにして、傷つけるだけだろう。

 ただこういった技法は適応や順応、服従だけを強制する知識であると批判的な側面からは見ることができるだろう。しかし現代は社会変革も制度変革もほとんど不可能であるし、人々の意識にもないような時代である。無力で微力な個人は、とりあえずは順応して不快感やストレスをためないように生きるしかない。批判的に生きても社会はほとんど変わらないし、自虐的な認識を積もらせるのみになってしまう。

 人生をよりよく生きるためには、社会変革などの夢は現代とマッチしないのだろう。ただ心理主義化してゆく社会を批判的にまなざすという姿勢は保っておいたほうがよいのだと思う。なによりこういう傾向はなにを意味するのかという好奇心がとめられない。こういう側面からの知識が心理学やわれわれの行動をよりよいものにしてゆく契機になればしめたものだ。

 現代は外界や社会を変えようとする意志をすっかりとあきらめた時代である。そのような時代には認識のありかたを書き替える認知・論理療法や、思考を虚構ととらえ、消去するストア哲学やその先にある仏教、努力や意志のあきらめを説く老荘思想などが、どんどん人々に受け入れられてゆくのだろう。

 きたるべき21世紀は外界の夢や理想をあきらめて、すっかり宗教化してゆきそうな気配が濃厚である。よいことか悪いことなのか判断はつきかねるが、外界の操作に熱中した時代は終わろうとしているということだ。




       性格や心の問題だけで終らせたらだめだ   2000/2/26.


 かねてから漠然と心理学の内面へと向かう非難と、個人の性格へと非難が向かう犯罪報道などに不快感を感じていた。悪いのはすべて「自分の心」だということになってしまうからだ。

 このさいだから、鬱積がたまった心理学批判へのキャンペーンでもはろうか。心理学というのはすべての問題の原因を個人の心の中に帰して、「変わらなければ」と思わせる学問である。

 適応・順応を絶対とする学問である。そこには社会批判や経済批判などの視点が欠落している。現状の社会や経済を絶対化・神化してしまう権力である。

 犯罪報道の不快感の原因がわかった気がする。犯罪者の心や性格のみに犯罪の原因があったと断定することがほとんどだからだ。そして犯罪報道というのは犯罪とまったく関わりのない人たちの性格訓化や性格改造へと人々を仕向けるものである。

 心理学者はボロ儲けである。また権力の増大もはかれたわけだ。個人の内面を犯罪報道と手を結んでボロくそに叩くことによって、迷える子羊が心理学の門をたたくというわけだ。これは心理学者の誘導装置なのか。

 もっと社会学や経済学などは犯罪の原因や心理問題の解明にのりだして声を大きくするべきだ。すべての問題の原因を心にばかり帰する現在の趨勢をなおすためには社会学者や経済学者はもっと声をあげなければならない。

 さまざまな問題はほんとうに個人の心だけに起源や原因があるのか。もっと社会的な原因、経済的な原因があるはずである。個人の心のみが犯罪や問題をおこすのではなく、もっと社会的・経済的な複雑な要因からそれはおこされるはずだ。

 心理学者が幅をきかせる時代というのは、問題をすべて個人の心に帰する時代だ。個人の内面だけがたたかれ、検討させられ、改造させられたり、改革されるままでいいのだろうか。個人の心はいま、「戦場」になっている、あるいは「環境汚染」や「環境破壊」が広がっているといえるかもしれない。

 もっと社会的・経済的・政治的な原因や起源を解明するべきだし、その要因を明らかにするべきだし、解決の糸口も見出すべきである。人々はそのような方面に光をあてるべきだ。

 心ばかりを悪者にするな。悪いのは――あるいは悪の片棒をかついでいるのは社会や政治、経済であるかもしれない。そういう部分に人々は、あるいはマスコミは目をつぶりすぎている。

 みんな心理学ばかりを読んだり、心理学者の説を真に受けたりするより、社会学や経済学、政治学などに目を向けろといいたい。「わたしの心が悪いのだ」とうなだれるより、社会や経済などに問題や悪が潜んでいないかと、もういちど見回してもらいたいと思う。

 (もちろん心理学やセラピーのよいところはこれからも吸収したいと思うが、人間というのは社会的存在なので、この方面からの批判や解明といったものもより大切だと思うまでである。)




          「だれ」が悪いのか?     2000/2/24.


 心理学や精神分析は、問題があれば個々人の心のなかに原因があると考える学問である。「あなたの心が悪い」というわけである。そもそも心理学は個人の心の中のみを探る学問であり、社会や経済、制度、慣習などのしくみや矛盾ははじめから眼中にはない。問題はすべて「あなたの心の中にあるのです」というわけだ。

 精神分析やアダルト・チルドレンの交流分析などは問題の起源を幼児期や家族関係にあるとみなす。「あなたの幼児期もしくは家族が悪いのです」というわけだ。社会現象や社会制度、経済情勢などにまったく問題がないといえるのだろうか。

 心理学がブームになる時代というのは、さまざまな問題を個人の心にぜんぶ押し込めてしまう時代である。犯罪にしろ、幼児虐待やいじめ、社会不適応や社会脱落になるのは、すべて「あなたの心もしくは家族が悪いのです」ということになってしまう。ほんと、こんな心理学還元主義でだいじょうぶなんだろうか……?

 精神分析などを読んだり、犯罪報道の犯罪者心理の非難ばかりを聴いてきたわたしはかなり居心地の悪さを感じていたのだが、ロナルド・レインなどの反精神医学の存在を知ってほっとした。精神障害というのはまわりの人の捉え方いかんにかかっているということだ。

 またいろいろな問題の原因は心のみにあるのではなく、社会や経済、制度などがかかわっていると思うから、わたしの興味は心理学より、社会学や哲学、経済などに向かった。われわれ個々人の問題は社会や経済によってより多くひきおこされていると考えるほうが妥当だとわたしは考えるからだ。

 しかし現代の認識としては心理学のブームにあるように社会や経済が悪いのではなく、個人の心理が悪いという認識がまかりとおっている時代である。個人の心理だけを悪者よばわりして、それで問題が解決するのだろうか。社会や経済のありかたにもっと大きく深刻な問題の根がはっているのではないだろうか。

 このようにわたしは心理還元主義には違和感を感じていたのだが、自己啓発や論理療法、認知療法、ポジティヴ思考なんかのセラピー論はなかなかイケると思ってきた。悪いのは自分の心でも性格でも家族でもなくて、思考や考え方のスタイルだと捉えているからだ。これなら自分を責めさいなますこともなく、思考のスタイルを変えたらいいだけだ。自分を傷つけることもない。

 しかしこれは合理化や効率化の権力にみずから服従してゆく自己監視・自己管理の規律・訓練を身につけてゆくという批判もある。われわれはみずから権力に迎合していっているというわけだ。

 このような批判もあるわけだが、われわれ弱い個人は社会に適応・順応してゆくしか生きてゆく術がないのも現実である。適応・順応してゆけない苦しさは当の本人がいちばん感じていることだろう。そうしてみずから自己規律を内面化してゆくというわけだ。

 このような事態にたちいったのはやはり、心理学が人々の関心をより強く魅きつけるようになったことと、社会や政治、経済に問題の原因や解決方法を見出せなくなったからだろう。社会批判や改善方法の失敗があるのだろう。

 こういう趨勢に歯止めをかけるには心理還元主義ばかりを信仰するのではなく、社会や経済、政治などに問題の原因を探り、解決策や改善策を見出せるようにしてゆくべきなのだろう。

 個人の心理だけに問題や原因があるとはかぎらない。それ以上に社会や経済、政治などの情勢や抑圧が問題や障害をつくりだしていると考えるほうが妥当である。そういう問いかけをしてゆかないと、われわれはますます内面の訓化と自虐に追いたてられてゆくことになるのだろう。




        心理学の権力と心理還元主義    2000/2/23.


 森真一『自己コントロールの檻』の影響下のもとで心理学についてもうすこし考えてみたいと思うのだが、どのような問いを立てれば適切なのかよくわからない。ただいま流行りの心理学やセラピーを「権力」として捉える視点はひじょうに大切だと思う。

 セラピーが流行するということは人々は新たなる権力を自発的に心の内面までにとりいれようとしていることになる。セラピーは社会状況に適切に適応・順応するための知識になるだけではなくて、みずからすすんで権力に服従する知識になるということも忘れないようにしたい。

 権力とはなにか。森真一によると合理化・効率化の社会のなかで非合理・非効率な行動やふるまいをさせないための権力である。これは日常的な場では「困った人」や「迷惑な人」としてあらわれ、われわれはそのようなレッテルを貼られないためにいそいで心理学的知識(権力)をみずから内面にとりこんでゆくというわけである。

 そうなんである。わたしも心理学を読むようになったのは、日常の場においてそういう人にならないため、または違和感や自責感を払拭するためであったように思う。これは権力の要請や強制も含まれていたわけだ。

 しかしわれわれは困った人でありつづける無神経さもずぶとさももちあわせていない。そうして心理学的知識の出番とあいなるわけだ。

 心理学というのはとにかく個人の性格や人格をたたき、責めさいなむものである。マスコミの犯罪報道もとにかく犯罪の原因は個人の心や人格にあると非難し、その非難に恐れおののいたあわれなわれわれは自分の心や性格をいじくりまわし、責めさいなむ。こうしてわれわれは心理学の本をせっせと読みあさり、心理学的技法を身につけて非難される対象にならないように自分をつくりかえる。自己監視・自己管理、規律=訓練の技術を身につけてゆくということだ。

 われわれは自分の心や性格を変えなければならない時代に生きている。すべての問題の原因や起源はただ個々人の心の中や性格のなかにあるとされる時代である。心理学が人々にうけいれられ、マスコミでも心理学者がひっぱりだこになる時代は個人の心が責められる対象になる時代である。すべての原因はあなたの心のなかにあるというわけだ。「心の時代」というスンばらしいキャッチ・フレーズもこう考えれば末恐ろしいものだ。

 むかしは心をつくりかえる時代ではなかった。なにかの問題があれば、政治や経済が悪い、社会が悪いといって、政治改革や経済改革がおこなわれた時代もあったのだ。社会問題は個々人の心にあるのではなくて、社会や政治、経済が悪い、原因はそこにあると考えられていた。

 だから民主主義政治がおこなわれたり、フランス革命がおこったり、社会主義運動がおこったりしたのだろう。経済学の勃興や政治にたいする大衆的関心といったものも、問題の原因はそれらにあり、それを変えれば解決するという信念があったからだろう。

 いまではひとびとはすっかりそれらの信念をあきらめてしまった。政治革命も経済革命も社会革命もどれもこれもやってみたが、けっきょくはうまくいかなかった。もう変えるのは個々人の心の中だけであり、それだけが唯一の解決策だと思われるようになったようである。こんなに社会や経済、政治が悪いのはあなたの心のせいであり、合理的・順応的になるようにつくりかえなさいというわけである。

 心の改革がひそかにおこなわれつつあるということだ。でも政治革命や社会主義がかずかずの残虐な歴史や結果を生み出したように、心の革命もそのような運命や悲惨な傷痕をのこすことになるかもしれない。社会権力がむりやりおこなう改革というのはろくでもない結果を残すのみだという警戒を忘れないようにしたい。

 ところで政府や経済、社会の改革にのぞみをたくせなくなった社会というのは、あとの一歩のところで宗教にのぞみをたくす社会に近づきつつあるのだと思う。政府や経済なんかすっかりあきらめて、すがるものは宗教しかないというわけである。




          「心理主義化社会」     2000/2/22.


 わたしは心理学の本を好んできたほうだし、感情のコントロールという知識にも魅かれてきたから、森真一『自己コントロールの檻――感情マネジメント社会の現実』(講談社選書メチエ)という本には驚いた。無自覚に吸収している心理学やセラピー論が、「檻」として批判的に表現されているのなら、読まないわけにはゆかない。

 いまはこの本を読みおえてちょっとばかし呆然としている。自己コントロールや心理主義化という現象を批判的にみる観点に、大げさにいえば愕然としている。心理学やセラピーは自分を救うありがたい知識と思っていたのに、かならずしもそうとはいえない側面があることに気づかされたからだ。

 たしかに心理学にはかなり嫌いな面、迷惑な面もあった。いろんな問題をすべて個人の性格や心理に原因を帰してしまっていて、読んでいるうちに「自分は異常者だ、病気だ」という気持ちにさせられるし、マスコミは犯罪者を報道するたびに犯罪の原因を個人の性格や人格、または家族ばかりに帰している。こういうのにはたいがい腹が立っていたから、心理学自体が異常ではないのかと思わなくもなかった。

 ただセラピーにかんしては感情をコントロールできるということでかなりの知恵と恩恵を与えられたと思っていたのだが、この本のなかでは心理学というのはフーコーのいう権力の自己監視・規律=訓練の内面化の延長にあると指摘されていたのはショックである。みずから自発的に権力に服従する主体を、げんざいの心理主義化はうながしているというのである。

 いわばげんざいの心理主義化はテイラー・システムやフォード・システムなどの大量生産型規律が、個人の内面にセットされてゆく過程ということになる。だとしたら、かならずしもセラピー論も無条件で吸収するわけにはゆかなくなる。といってもセラピー論は現実社会を処理するさいにはとても助けになるのは事実であって、捨て去るわけにもゆかないと思うのがいまの感想だ。

 この本でもうひとつ指摘されているのが、人格崇拝の高度化・厳格化であり、この聖なる自己をおたがいに傷つけないためにさっこんの心理主義化があるということである。この人格崇拝があるために人は心理学でその規範や道徳と抵触しない方法を学ぶ必要があり、キレたり幼児虐待したりするのはこのルールを遵守しなかった者に向けられるというのである。

 この数年は心理学の本がよく売れるようになってきたと思われる。殺人犯の心理分析や『脳内革命』、ポジティヴ思考、カールソンの本、『EQ』とかアダルト・チルドレンとかがベストセラーになり、なぜなんだろうとぼんやりと思ってたりした。どうやら感情を飼い慣らすこと、生産的・合理的な感情マネジメントをするために必要になってきたということのようだ。

 心理学やセラピーはたしかに日常生活を生きるためには役に立つ知識を提供してくれるから、かならずしも権力の新たな手が内面化してきたというような恐ろしい面だけを捉えてしまうのは、わたしには承認できない。だけど、心理学を権力の内面化と捉える警戒感もこれからももちつづける必要はあるのだろう。う〜ん、とっても考えさせられる本だった。




        心理学の非難、社会学の非難    2000/2/22.


 心理学は自分を非難するようにしむける学問である。社会学は社会や集団を非難するようにしむける学問である。

 わたしの場合は、いまからふりかえってみると、知らず知らずのうちにそういう「体験」をしてきた。(わたしのひがんだ性格や興味本位のうけとりかたが悪かったのかもしれないが) みなさんにはこういう警戒をしてほしいと思う。



         社会批判と強調     2000/2/22.


 社会批判すれば、逆に社会のありかたをうきぼりにし、そのありかたに過剰適応する人たちを大量に生み出す。たとえば学歴競争を批判すればするほど、競争はますます加熱するといった具合だ。

 批判は社会矛盾を直す方向に加担されずに、逆にその増長と強調に加担されるとは皮肉なことだ。

 批判は社会の恐ろしいありようをうきぼりにし、その恐ろしさゆえに制度に過剰適応しようとする人たちの心理を生み出すようだ。(ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』を読んだときにわたしはこういうふうに感じた)

 逆説的に批判は権力や制度の維持・存続に力を貸してしまうのである。

 このパラドクスの問題を解くにはどうしたらいいのだろうか?




         なんだろうな、しけたスーパーは?     2000/2/21.


 近くにあるいくつかのスーパーはほんとうにしけていた。空気がほんとうによどんでいた。ただっ広い空間にモノはたくさん陳列されていたが、活気とか騒々しさとか魅力とかのひとかけらもなく、買い物客もまばらで、その雰囲気だけで購買意欲を削がれるようなところだった。

 でもスーパーはなにかある商品が必要だと思ったとき、コンビニでは品揃えが少ないか、ないという場合には便利だったし、必要な商品はそこにいけば手に入るという安心感はあった。だからたまに買いに行くことはあったが、前々からこのしけた雰囲気はなんだろうなぁと思っていた。とくにがら〜んとした雰囲気の空間に、ゲーセンの音が鳴りひびいてるのは、ほんと寂しさかった。あとの一歩のところでひなびた観光地の旅館の雰囲気になりそうだ。

 長崎屋スーパーが倒産したということである。こんな大きなスーパーが倒産したということはスーパーの消費不況を象徴しているということだ。知り合いにきくと、長崎屋はいぜんからお客の数より従業員の数のほうが多かったそうだ。デパートにもそういうところは多くて、この従業員の多さはなんだ、うざったいと思ったりした。

 チェーン書店の駸々堂というところもつぶれていた。前の日までふつうに営業していて、つぎの日行ったら破産宣告の張り紙がしていて、よって本日予定されていた棚卸しはできませんと危急を告げていた。メガ書店の出現やメディアの多角化による事情と説明されていたが、メガ書店の新規出店が増えている中、明暗が分かれた結果になった。

 スーパーはもうライフスタイルを売れなくなったのだろう。モノの魅力も落ちると、ただモノがたくさんあるだけのただっ広い意味のない空間になってしまう。モノがたくさんある、そこに行けばなんでも手に入るというスーパーの魅力はもう終わってしまったのだろう。

 ファッションは安いだけでセンスが悪いスーパーより、安くてもセンスのよいユニクロのほうがいいし、家電も専門店とか郊外型の店のほうが便利だし、食料品ではスーパーは主婦の御用達、若者はコンビニで用をたすというようになってしまった。

 時代が変わってしまったということである。長崎屋の倒産はそのことを感じさせた。ただスーパーの中には郊外型の店舗や駅前の店舗でも栄えているところはあることはあるから、一概にはいえないけど、消費の魅力や繁栄が終わってしまったのだという感がする。わたしにとって子どものときには遊びに行くのはスーパーくらいしかなかったものだが、もうそういう時代も終わってしまったのである。





      自由競争と立身出世を否定した現代社会   2000/2/20.


 「現代という時代は、巨大な「組織と管理の時代」なんだということができるとおもいます」――これは梅棹忠夫のことばである。(『わたしの生きがい論』)

 「ほんとうに皮肉なことだとおもうのです。自由競争を目ざして立身出世街道を驀進した民衆のエネルギーが、結果としてきずきあげたものはなんであったかというと、まさにそういう自由競争と立身出世を否定するような、巨大な官僚組織であった」

 このことばにはがつんときた。けっきょくのところ、現代社会あるいは現代の組織というのは、明治のころに可能であったり、現実の夢としてあった自由競争や立身出世がまったくできない世の中になりつつある――あるいはもうすでにそのような形に完成してしまったのかもしれないのである。

 これだったら、まるで封建社会の大悪人だった江戸時代とまったく同じ状態に帰り咲いたということになる。つまり現代というのはもう暗黒の江戸時代に片足ばかりか、頭までカンオケにつっこんでいるということだ。

 おまけに現代は歴史で習ったような暗黒の江戸時代とはまったく違うんだというおめでたい認識がまかりとおっているのが現状である。学歴競争でわずかな夢を垣間見ることができると思い込んでいるし、学校ではこの社会は民主主義と自由と平等の社会だ、悪役の江戸時代だとは違うんだと、学校の教師にウソの仮想現実をたたきこまれてわれわれは社会人になる。

 じつは現代は江戸時代よりヒドイ拘束と不自由の社会かもしれないのだ。自由と平等の社会といっても労働と会社に大半の人生を搾りとられるし、会社のなかに平等なんかあるわけない。社長や上司が新人やヒラと平等であるわけがない。江戸時代は身分差別社会だったということだが、会社の中でも会社同士のランクでもしっかりと身分差別制度ができあがっている。

 斬り捨て御免とか圧制とかがあったということだが、現代でも民衆が政治を動かしているとはとても思えない。権力とか利益団体の意のままに操られて、民衆の手の届かないところにあるのが政治だ。現代というのは、歴史の教科書で習った以上の封建主義社会、江戸時代のすがたになっているのかもしれない。

 立身出世だとか自由競争だとか、民主主義、自由と平等の社会という理想的な虚妄の認識をあらためて、この社会は暗黒の江戸時代と同じであると認識したほうがはるかに世の中の仕組みを理解しやすく、妥当であり、生きやすくなるのではないだろうか。

 暗黒の江戸時代という認識から出発して、もう一度立身出世が可能になるような明治レヴォルーションを起こすか、それとも現代社会に適応すべく老荘や仏教の処世術を身につけるべきなのだろうか。

 明治の立身出世をめざすようなものは現在では情報産業などがある。ぽつぽつと大金持ちも夢ではないというような起業家の夢も芽生えはじめている。

 それともあきらめて社会や世の中を変えるより、自分の心の姿勢のみを変えようとする老荘や仏教の現状維持的イデオロギーに身をまかすべきか。ウォルフレンはこれを「敗北者の思想だ」といった。しかし変えようのない社会に憤るより、心の平安と体制順応に暮らすほうがはるかによい生き方ができるかもしれない。

 歴史観も変える必要があるのだろう。われわれの知っている歴史観は革命家や立身出世主義者にとってのご都合歴史イデオロギーである。だから江戸時代は悪役になった。庶民の知恵にとっては江戸時代の怠け者でも、ぼんくらに生きててもよかった時代のほうがよかったのかもしれない。

 えらくなれ、役に立て、という革命家の歴史観は庶民の心を強迫観念や自虐観に駆り立てる。現代はそういう大衆強制と、じつのすがたは封建江戸時代、というどっちつかずの状態だから、われわれはいろいろ苦しんだり、悩んだりしているのだろう。歴史はひと廻りしたのである。どちらのほうがいいのだろうか……


 □封建社会をみなおすブックガイド
   呉智英『封建主義者かく語りき』双葉文庫
   石川英輔『大江戸生活事情』講談社文庫
   中川八洋『正当の哲学 異端の思想』徳間書店



       だれも読まない文学の書く楽しみ    2000/2/16.


 梅棹忠夫が30年前、1970年にこれからだれも読まない小説や文学がいっぱい出てくるといっていた。文学は究極的にそういう形態になると予測していた。(『わたしの生きがい論』講談社文庫)

 だれも読まない文学に価値があるのか。読者側にはほとんど価値はない。しかし作者の人生にはひじょうにはりあいをもたせていると梅棹忠夫はいっている。書くことに値打ちがある文学である。

 この文章を読んではっと気づいた。まさにわたしもそうなのである。読者のために書いているというよりか、まさに自分のために書いている。だれも読んでくれなくとも、書いていることに価値があり、楽しみがあると思っている。

 いちばん楽しいのは鋭い考察ができたり、深い洞察ができたときである。そういう瞬間のためにわたしは文章を書き、本を読んでいる。だれも読んでくれなくても、それだけで楽しめるのである。また楽しめるだけではなく、自分が生きてゆくための知恵や洞察力、判断力も与えられることになるし、傍観してみると、やはり人生のはりあいも与えられていることになるのだろう。

 こういう人たち、あるいは自己充実を好む人たちが現代ではかなり増えてきたということである。俳句とか和歌の雑誌というのも、読むのは本人と選者くらいだと梅棹はのべている。でも作者はそれでもじゅうぶん楽しくて、人生にはりあいをもたされているのである。

 文芸誌に『海燕』という雑誌があったが、実売部数より文学新人賞の応募者数のほうが多かったということである。いまはほんとうに読む人より、書きたい人のほうが多いのである。そしてそれは読まれることより、書くこと自体に価値や楽しみがあるという状況に変化しているのだと思う。読者がいなくて、なにが文学だという捉え方はもう捨てなければならないのだろう。(江下雅之『ネットワーク社会の深層構造』)

 成果や結果のためにしているのではない、自分の楽しみのためにしているのである。文学であれ、哲学であれ、音楽であれ、芸術であれ、ますますそういう状況や人々が多くなってゆくことだろう。読者や商売のためにするのではなく、自分の喜びのためにするのである。一部の人だけであったマスコミ産業の表出方法が、個人の喜びや楽しみ、あるいは生きるはりあいになってゆくのである。

 インターネットはそういう人たちの楽しみやはりあいを、より大きなステージで楽しむためのツールとなっていったわけである。なるほどである。




    
     みなさんにミニコミ誌『暗射』をプレゼントします   2000/2/15.


 ひごろのご愛顧をカンシャしてみなさんにわたしの書評(今村仁司『近代の労働観』)がのったミニコミ誌『暗射』を限定14名のかたに無料でさしあげます。

 このミニコミ誌は函館の佐々木美帆さんが91年から創刊している季刊誌です。『だめ連宣言!』の交流の輪としてものせられています。ハガキ大の小冊子で、ほかにだめ連の神長恒一さんの日記や佐々木美帆さんの詩、笠井嗣夫さんの映画評論がのっています。

 編集者の佐々木さんはだめ連の検索でこのHPを見つけられて、原稿を依頼してきました。ミニコミ誌というのははじめて見るし、どんな人が読み、だれになにを向かってしゃべったらよいのかよくわからなくてとまどいました。また人から依頼されてものを書くというのは、HPとちがってけっこうプレッシャーがかかるということを、当然ながら、痛感したというしだいです。

 ともあれ、このミニコミ誌を無料でさしあげたいと思っていますので、ご遠慮なくご住所とお名前を送ってください。数に限りがありますので限定14名さままです。送料も出血サービスで無料です。もし気に入りましたら予約購読もできますので、ふるってご応募ください。





         価格破壊と価値観クラッシュ   2000/2/15.


 さいきん、百円で手に入るほど古本は安くなってきた。こんなに安くなるとその本をいてねいにあつかう気がなくなり、思い入れも軽くなり、読む姿勢も散漫になってくる。逆に高くて苦労して手に入れた本だと、読む姿勢も慎重さも身を入れる気持ちもかなりていねいなものになる。

 安い本だとぞんざいにあつかい、高い本だと慎重になるというのは、カネというのはその中身にかかわらず、価値を決める力をもっているわけだ。その中身や価値を見るより、カネの高低でその価値を見てしまうというのが人間のサガ(?)である。

 ワインとかビールも高級品から安いものまでたくさん出ているが、値段が高いから高級品だと思ってしまうわけだが、そのラベルをはがせば、はたしてその違いがわかるかというとかなりアヤシイ。

 人間はそのモノ自体の価値を知っているというよりか、カネの値段によってその価値を推し量るわけである。価値なんてあってもないようなものである。

 女だってすぐに体を許してしまえば安いものになってしまうし、なかなかそれを許してくれないとかなり価値のあるものになる。女のポルノだっていろいろ禁止されていたころはかなり価値のあるものだったが、きょうびではいくらでも手に入るからあまり「ありがたみ」のあるものではなくなった。

 いまはいろいろなモノが価格破壊によってかなり安くなった。おかげでその価値や重要性、ありがたみといった値段の裏にある精神も奪いつつあるのだろう。安くなるということは、その価値観をも下げるということである。世の中はそれを必要としなくなっているということになる。

 世の中高いものばっかりだったり、手に入らないものばっかりだったら、価値観のメリハリというのはひじょうにはっきりしていたのだろう。でもいまではほとんどが安い、すぐに手に入るものになり、価値の高いもの、価値のあるものが少なくなってきたわけだ。

 はたして人は価値のメリハリがあまりない世の中を楽しめるだろうか。高い価値観や価値あるものが少ない世の中に目的や目標、生きがいをおおぜいの人は見出せるだろうか。高いモノがたくさんあれば目的はすぐに見出せたが、いまはのっぺらぼうの地図のない世界である。

 価値観や優劣序列の少ない世界は東洋系の知識では理想に近いとはいえる。優劣価値の幻想にふりまわされるのが人間の悲しいサガだといわれているし、好き嫌いや好みが人間の苦悩や苦痛の原因だと思われているからだ。ある意味では悟りに近づくような社会ともいえるかもしれない。

 われわれは価値観の幻想に気づく地点にいるのだろうか。それとも人生の価値優劣も目標も見出せず、経済的にも貧困に転がるむなしい虚無の大海にこぎ出してしまったのだろうか。われわれはどちらのほうに舵をとることになるのだろうか。




         人間関係苦論     2000/2/14.


 苦しい。いまの職場はひじょうに濃密な人間関係があるところで、ひとりの気楽さが好きなわたしはとてもツライ思いをしている。たえず他人が身近から表情をうかがえるような狭い空間におかれているので、心が休まるひまも、ほっとできる瞬間もない。

 なんとかこの苦しい状況から逃れようとして、わたしはとりあえず書物からその知恵を得ようとしたのだが、どうも人間関係のハウトゥ本は求めている知識ではないようだ。ハウトゥ本というのはいきなり好感人間になったり、人づき合いがうまくなる本だったりするので、はたしてその前にそうなる必要があるのかといったワンクッションとして人間関係の哲学というか、社会心理的なものを知りたいと思っているのか、自分自身でもよくわからない。

 これまでわたしは集団関係のネガティヴで批判的な面ばかりを強調する書物をとくに好んで読んできた。大衆社会論のなかに出てくる集団にたいする批判的な観方にとくに食指が動いてきたわけだ。だから集団関係や画一的になってしまう人間関係といったものをなるべく避けてきたほうだ。

 いまは集団に対してもう少し柔軟というか、そんなにトゲトゲしくなる必要はない、と思うようになっている。なぜなら自分を傷つけ、苦しめるだけだということを身をもって体験したからだ。しかしひとりでいる気楽さや人とほどほどに距離をおく処し方が心と身にしみついてしまっているので、濃密な人間関係のあるところはひじょうに疲れる。

 こういうわたしは人間関係の苦しさから逃れるためにはどうしたらいいのでしょう? 悩んだり、苦しんだりする心をすぐに捨ててしまうカールソンとか仏教仕込みの知恵の活用もいいだろう。不快や苦悩の感情や思いをぽんぽんとそのつど捨ててゆけばいいわけだ。悩みも苦しみ空っぽになる。

 でもその前にわたしという人間はひじょうに観察的、分析的な人間になってしまっており、習慣や蓄積でできてしまった認識や思考方法はなかなかときほぐせない。ほんと、わたしという人間は人間関係のなかをじーっと観察し、解釈して、なにも行動しないお地蔵さんのような存在になっている。分析的人間は行動をいろいろ解釈してしまうのでなかなか行動にうつれないのである。このような習慣とそれに対する価値観を先に捨てるにはそれなりのふんぎりと時間がかかるようである。

 心理学の本を読むという手もあるが、心理学というのはもともと異常とか病者を治すために発達してきた学問で、これらの本を読むと異常とか病理とかの面ばかりで頭がいっぱいになってしまって「おまえはおまえは異常者だ〜!」という疑念から自由になれなくなってしまう。心理学ってほんとこれだから、経験上あまり心の健康にはよくないと思う。だから人間について知りたいと思っていたわたしは社会学とビジネス書とかの方面に興味がうつったのだと思う。

 なんとか集団関係の不快感や窮屈感から逃れたいと思っているけど、いったいどのような知恵や知識があるのだろうか。この世の人間の苦しみの大半は人間関係だという話だが、それなのに人間関係論の古典とか名著といった書物はあまり見かけないのはふしぎだ。時代と場所により処世術といったものは変わってしまうのだろうか。人間関係なんていつの時代でも場所でも変わらない普遍的なものだと思うけど。

 みなさん、もし人間関係の重荷をとりのぞくような書物や知識があったら、ぜひわたしに教えてほしいと思います。でもそんなカンタンなものがあったら、だれも苦労しないっテカ?





      殺人はなぜニュースになるのか    2000/2/13.


 ふつうわれわれが学校や会社に通ったりする日常の生活において、まず殺人なんか起こらない。殺人なんかほとんど縁のない日常生活を送っているのか大半の人の毎日だと思う。

 しかしニュースやメディアとなるとがらりと変わる。殺人一色である。「だれかが殺された」「なぜ殺人を犯したのか」「〜殺人事件」といったニュースや番組が目白押しである。メディアは「殺人狂の毎日」である。

 メディアというのはそもそも稀少なもの、めったのないものを捉えるものである。だからこそニュースになるといえる。ニュースになるということはめったにないということであるが、メディア漬けのわれわれの頭のなかは「毎日が殺人でいっぱい」である。

 それにしても、なぜ殺人という物騒な情報を人は必死に求めるのだろうか。だれもが人を殺したい願望を内に秘めているからだろうか。そういうゲスな勘繰りより、この共同社会では殺人のタブーがいちばん強いからだという理由のほうが妥当だろう。

 殺人のタブーが強いということはその行為にたいして価値を強めることになる。殺人を犯すのにはそれだけの重い理由があったということになる。かくて殺人の理由や動機はひじょうに価値あるものになる。タブーはその関連上にあるものの価値をひじょうに高めるのである。

 むかしからよくあった「禁止されるから関心が向く」というやつである。未成年者がタバコや酒を早くにはじめるのには禁止されているからという理由もあるのである。ポルノや女の裸といったものも隠すからよけいに暴きたくなるという心理作用もあるというわけだ。

 殺人のタブーが強いから、殺人は希少価値としてメディアで大々的にとりあげられる。そうすると今度はその作用を利用して社会的不満をぶちまけるための都合のよいメディアとして利用されるようになってしまう。「劇場型犯罪」とか社会へのメッセージのための殺人とか、模倣犯罪とかが起こるわけである。強い禁止コードが逆に殺人を誘引させてしまうとは皮肉なことだ。

 強いタブーはその価値を強める。そしてメディアは稀少なものを大々的にとりあげる。こうしてこんにちの「殺人狂メディア」ができあがるというわけだ。

 殺人にたいする強いタブーはもっともなことであるが、それが犯罪の抑制につながっているのか、それとも逆に殺人の価値を高めたり、殺人に対する異常な関心や熱狂も高めていないか、といった難しい反省もしなければならないのが複雑な人間社会というものである。





           演技と本心       2000/2/11.


 人間関係などにおいて、「演技」することはよくないことだとわれわれは思い込んでいる。演技するということはウソをついていることであり、正直や誠実ではないということである。

 わたしはバカ正直者だったから、この言葉を真に受けて「演技」することをやめてしまった。演技することがとてつもなく、しらじらしいことに思えたのだ。演技する自分を、醒めた目で冷静に観察するもうひとりの自分が肥大してしまうと、人は人前でまったく自然にふるまえなってしまう。

 演技をやめた正直者は人前でパフォーマンスをおこなえなくなってしまい、本心のままにもふるまえなくなってしまう。本心のままにふるまえば、人を傷つけたり、いつ人と衝突するかわからないからだ。

 演技も正直ではないからよくない、本心のままふるまえば人とぶつかるとなれば、人前でなにもできなくなる。感情はふさぎこんでしまい、無邪気に行動も身体を動かすことができなければ、身体のエネルギーや活力自体も沈みこんでしまう。

 ニーチェは「悲しむから、悲しくなるのだ」といった。ある自己啓発の本では「楽しみたいのなら、楽しいふりをしろ」といっている。つまり人は演じることによってその感情を得るのである。

 演技がよくないという考えは、本心という歴然としたものがあるという前提があるわけだが、演技により心が変わるとしたらそもそも本心など存在しないではないかということになる。われわれは身体を使って演技することによってある感情を味わうわけである。

 人間の心は心⇒身体という流れと、身体⇒心という流れのふたつがある。演技はよくない、本心のままふるまえという考え方の根底には、本心へのかたくなな信頼と感情の起源をそこに求めているわけだ。しかし人間には演技やパフォーマンスをおこなうことによって、感情が起源し、変えてゆくということもできる。起源を逆さに考えると本心なんてものは吹き飛んでしまう。

 本心とはなんだろうか。そんなものはほんとうにあるのだろうか。そんなものがあるとしたら、記憶と筋肉の硬直により、ある一定の感情と思考を継続させているだけのことである。もし演技や身体に変化をおこさせれば、感情や気分といったものも変わってしまうのである。

 かたくなな本心とか正直な心といったものは、そんなものは存在しないと思う。われわれは演技することによって心や感情を変え、また他人への気持ちや思いを教え伝える。

 演技やパフォーマンスをおこなわないと、わけのわからない人となってしまってまわりの人は困ってしまう。以心伝心の時代は終わってしまった。なにを考えているのか、なにを思っているのかということは体と言葉によって伝えないと伝わらない。

 人生とこの社会は演技とパフォーマンスの世界である。人は知らず知らずのうちに無意識の役者となっているのである。演技が悪いというのは思い違いである。人は演技することによってしか人に気持ちを伝えられないし、演技していないと思うのは、演技が無意識になっているからだけである。





       殺人による「メディア・ジャック」    2000/2/10.


 殺人しか不満を表明する手段がないというのはひじょうにお粗末である。あるいはそういう手段しかない社会のありかたがいびつなのか。京都小学生殺人事件の容疑者は学校や教育に不満があったという話である。

 不満や批判があったとしても、この社会ではその表明方法がない。身近な知人や親に話しても社会に順応するように諭されるだけだし、社会の片隅のグチで終わってしまう。

 この社会は「殺人」ということに異様に重みをおく。人が殺されるとはじめて深刻で重い問題の存在に世間の人は気づき、議論がなされる。まるで「殺人」にしか価値も、注目に値される出来事はほかにないかのようである。この社会(あるいはマスコミ)では殺人だけが重要なのである。

 だから人々の目を覚まさせたり、注目させるには殺人しかないというふうになってしまう。社会での批判や不満を表明し、改革させるようなチャンネルや手段がないのである。

 政治家や大臣に手紙を送りつけたとしても、たぶんゴミ箱行きか、なんの行動や改革もおこせないのだろう。絶望した人間が、あるいは若さの衝動で、殺人というアピール方法を選ぶ。

 TVや新聞のニュースの「殺人主義」の報道のありかたにも問題があるのだろう。殺人以外の社会問題や人々の不満や批判をすくいとるようにはできていない。殺人だけがマスコミに大々的にとりあげられ、世間の問題や話題にされる。これでは不満や批判の行き場がない。改善の声をあげることも、改善する手段もない。

 貧困の文化というか、お粗末な社会制度である。そういえば、むかしの百姓は一揆をおこすしか不満を表明する「メディア」がなかったわけだし。いまは殺人を犯して「メディア・ジャック」するしか方法がないというわけである。政治やマスメディアの前の中間組織になんらかの問題解決能力や手段が必要なのではないだろうか。

 殺人が不満を表明するツールやメディアになってしまう社会なんてロクでもないし、「ツール」に利用されたりなんかしたらたまったものではない。



交換と規範の感情学についての断想集



      感情支配からの自由    2000/3/17.


 感情から自由になる方法はいったいどのようなものがあるだろうか。感情に支配されることの多いわたしが知っている限りでは、感情を相手にしない、無視する、放っておくという方法がある。感情を客観的にながめて、それと同一化しないこと、また感情的になったところでなんの問題の解決にも解消にもならないと知ることである。

 わたしたちが感情的に激昂するのはそれがなんらかの解決をもたらすと期待しているからである。感情というのはじつのところ赤ん坊が母親に注意を向けさせるメッセージの道具だったのであり、大人になっても同じ用法で他人へのメッセージとして使用している。つまり「わたしは怒っている、悲しんでいるから、あなたは〜しなさい」というメッセージをもっていることだ。

 こういうメッセージの用法としての感情という側面を忘れると、怒りについてサルトルがいったように「魔術的試み」の効用を信じてしまうことになる。感情にはなにかの力があると思いこんだり、万能的な力があると思ったり、はては超能力的効果まで妄想されることになってしまう。

 感情というのは自分を怒りや悲しみの激昂手段として用いて、他人にメッセージや行動の悔い改めを迫るものである。いわば、自分の身体まるごとをもちいて怒る広告塔や悲しむ広告塔と化すわけである。広告塔の維持費や苦痛というのは自分にとってひじょうに高くつくので(ぴかぴかのネオン・サインみたいなものである)、安く抑えるに越したことはない。

 人が感情的になるのはやはりその効果を信じているからということになるのだろう。あまり解決も解消にもつながらないと理解するのなら、感情への期待も使用頻度もそう多くならないというものである。

 もうひとつ忘れてならないのは、喜怒哀楽のない人生はつまらないと思い込んでいることである。楽しんだり、喜んだり、悲しんだりしてこそ、人生は楽しいし、うるおいがあるものであり、自分らしさや自然体を生きられているという「感情信仰」をもっているのなら、われわれはよりひんぱんに感情的に生きようとするだろう。

 近代人の常識として合理的に生きることが人間の進化の道標であるという考えがあったはずなのだが、いつの間にか野蛮や動物的であると思われていた感情が、自分らしさや生きがいの指標となってきたのは意外なことである。

 合理的な生に対する反抗として60年代あたりから「セックス革命」とかともに「感情革命」がおこった影響のようである。そしていまでは感情や好き嫌いがすっかり自分らしさや個性を表わす指標になっているという断絶がおこっている。

 感情や好き嫌いが自分らしさ、個性だと思い込むようになると、人は感情的な価値を高め、その力を過信するようになるだろうし、その結果感情の奴隷となったり、自己は感情の荒波にほんろうされる小船になったり支配されてしまうだろう。感情にハイジャックされる人生が待っているということである。

 感情を批判的にながめるようになると、テレビ・ドラマや映画、小説などは驚くほどメロドラマ――つまり感情の埋没や没入を讃歌していることに気づく。感情の讃歌と感情的になるススメである。

 おそらくこれは商業主義や消費主義と関係があるのだろう。好き嫌いや好み、感情的に生きることによってもっと消費や贅沢をしなさい、モノやサービスを買いなさいという商業論理の要請なのだろう。われわれがより感情になり、感情が自分を表わす指標になったのはそういう事情があるからだろう。

 どうやらわれわれがより感情的になったり、感情の荒波にほんろうされたりする理由は、感情にこそ人生の生きがいがあり、およびそれこそが自分なのであるという「感情信仰」とでも呼ぶべき現象があるからなのだろう。感情を信仰し、崇拝されるがゆえにそれに同一化し、支配され、ふるまわされるというわけだ。

 こういう信仰を捨て去ったところに感情からの自由があるのだろう。しかし「感情のない子どもたち」といった本のタイトルがあるようにわれわれは感情がなくなることをロボトミーや病的形態と感じるような傾向ももっている。感情のない人生は死人の生であり、生きるはりあいや活力がなくなることなのだろうか。

 しかし老荘思想や仏教には枯木死灰の状態を理想とする思想もないわけではない。感情や欲望は人生を苦しまさせる要因だと考えられているからである。

 「感情信仰」の時代に生きているわたしとしてはどちらの立場のほうが正しいのかは早急には判断を下せないが、社会規範や慣習に盲目に支配されたり、感情の荒波に苦しめられるようなら、感情というのはできるだけ捨てるほうがいいのではないかと思う。感情から自由になることができたのなら、われわれはどんな幸福の地平を手に入れられるかわからない。



      規範感情は解体できるか   2000/3/16.


 感情というのは自然に発生するものだと思われている。悲しいときには悲しくなり、さみしいときにはさみしくなるといったように。

 しかしこの感情を客観的にみると、規範や慣習にしたがっていない場合にそのような感情がわきあがってくることがわかる。つまり規範や慣習に従わない罰としての感情である。

 いぜんわたしはいろいろな慣習や規範といったものにことごとく反抗していた。大衆の画一的行動といったものにもかなりの目くじらをたてていた。しかし慣習に従いたくないとつっぱねても、どうも感情がいうことを聞いてくれない――慣習に沿わないと、悲しさやさみしさの感情にいつも襲われたのである。

 頭で考えたことに対して心(感情)はついてこないのである。ということでわたしは感情というのは規範や慣習を守らせるためにある道具だという思いを強くしていったわけである。(カミュの『異邦人』はそういうところをついているのだと思う)

 だから規範や慣習に流されないためには感情の解体というものが必要になる。また、たぶんこの規範感情というものから解放されることが、人間の究極の自由というものではないのかと思う。感情の奴隷になった人間はおそらく自由から程遠いのだろう。

 それにしてもわれわれは感情というものを客観的に見ることはまずないし、感情こそが自分自身となってしまって、感情に支配されるのが多くの人のありかただといえるし、そもそも感情に対する知識や追究すらほとんど手つかずといった状態だ。

 なんでもわれわれの一般的常識からすれば、感情は原始的なものであり、人間は近代化ととも合理的な行動をするようになるそうである。それにしてもわれわれの身のまわりの人が感情を捨てて合理的に行動していっているようにとても見えないし、わたし自身も感情の怒涛のような毎日を経験しているし、世間一般では好き嫌いという感情が自分らしさや個性を表わす指標になっているのはどう説明するというのか。

 合理的行動どころから、感情に支配され、のっとられた道具になってしまったのがわれわれポスト近代人ではないのか。そして感情というのは人間を規範や慣習に従わせるための装置である。われわれは感情の奴隷であり、そしてそれによるコントロールを通しての社会規範の奴隷となっているわけである。二重に奴隷となっているわけだ。

 そこで感情は解体していったほうがいいと思うのだが、しかし感情がなければどうやって対人関係や世間との処し方を実行していったらいいのかと疑問に思わなくもない。感情はいろいろな状況に即座に対応するすべを教えてくれるひとつの指標ではないのか。これがなければ、われわれは状況への対応のしかたを誤ってしまったり、状況を読みまちがってしまうのではないか。

 しかしそんなことより大事なことは感情の支配から自由になることである。感情の奴隷になれば、規範や状況の囚人と化してしまう。われわれはまずここから自由になる必要がある。

 感情をコントロールする方法としては認知療法や論理療法、仏教の思考の消去などの知識がある。心理学やセラピーは社会順応の方法を説いているが、体制離脱の方法としても使用可だろう。




       社会的コントロールとしての感情     2000/3/13.


 感情というのは、人を悲嘆のどん底に追いやったり、あらぬ心配に駆り立てたりして、ときには個人を必要以上にさいなむものである。感情は害悪をもたらすほうが多いのではないか。では、なんのためにあるのか。

 社会規範を守らせるためにあるのではないだろうか。人々の行動を統制するには感情というのは有効な道具である。怖れや恥ずかしさ、いたたまれなさ、居心地の悪さといった感情は、じつに人々の行動を規範に合わせるために適した道具である。

 こういうすごいことを「感情社会学」という新しい社会学はいっている。感情というのは、近代社会にとっては理性的・合理的に行動できない要因としてかなり排斥されてきた。感情は合理的人間にとっては原始的で、野蛮で、封建的なものだったはずである。

 しかし喜怒哀楽のない人生はつまらないといった言葉が世間で交わされることは多い。感情は自然に発生するものであり、コントロールできない、という思い込みを多くの人はもっており、だからこそ「自分らしさ」や「個性」があらわれると人は思っている。

 不思議なものである。感情は原始的で野蛮なものだったはずが、いっぽうでは自分らしさや個性をあらわす重要なアイデンティティになっているのである。そして同時にその感情は社会規範に合わせるためのコントロール装置でもある。

 自分らしさをあらわす感情(好き嫌いなど)が社会のコントロール装置になっているとは皮肉なことである。だからこそ感情は合理的でない野蛮なものとしてかたづけられ、学問にもかえりみられなかったのだろうか。社会コントロールの道具として感情は隠蔽される必要があったのだろうか。

 わたし自身の経験からいって、社会趨勢に反抗的・批判的な行動や態度をとるようになると、悲しみや怖れなどの感情をより強く感じる経験をしてきた。だから感情というのは社会にコントロールされるための道具だという思いを強くしてきた。

 頭で考えた新しいことは感情という古い規範によくうちのめされるのである。頭でおかしいと思いながら、社会規範や社会コントロールに従わされるのはあまり愉快な経験ではない。だからわたしは規範による感情はできるだけコントロールできる知識を身につけたいと思う。

 論理療法などでは感情は自然に発生するものではなく、考え方や思考スタイルによって生み出されると考えている。だから感情はコントロールできるものなのである。ストア哲学や仏教などでも思考を虚構ととらえ、無思考にすることによって感情のコントロールを説いている。感情はコントロールできないものではないのである。

 ただし感情のコントロールはかんたんなものではないし、幼少期からつちかわれた感情の自然的な規範はちょっとやそっとでは動かせるとは考えにくい。新しい感情社会学といったジャンルがその感情規則から解き放たれる知識を提供してくれるよう期待していたいと思う。

 参考文献:山田昌広『感情による社会的コントロール』/『感情の社会学』世界思想社



          嫌われ者バンザイ?    2000/3/12.


 他人の好感のなかにしかわたしの「居場所」がないと感じているのが現代人あるいは若者のありかただろう。学校や職場、集団やグループのなかで、わたしの存在を認めて、保証してくれるのは他人の好感やつながり、会話だけである。

 だからわたしたちは人に気に入られようと無理に努力したり、明るく楽しい人格を装ったり、趣味や好みを合せたり、八方美人的にふるまったりしなくてはならなくなっている。人から嫌われたり、集団から除け者にされたら、たちまち集団での居場所を失ってしまうのである。綱渡りみたいなものである。

 人はこうならないよう涙ぐましい努力を重ねておこなっている。現代人の存立条件といっていいかもしれない。

 集団のなかで気に入られること、受けいられること、認められること、それだけがわれわれの最大関心事であり、緊急事態なのである。この磁場を中心に現代人はどんなにゆがみ、そのブラックホールに向かってどんなに知識や技法、努力が吸い込まれているか、すさまじいものがあるのだろう。

 画一化したり、同調したり、集団のイヌとなってかしずくのはなさけないとは思ってみても、集団から除け者や嫌われ者にされる恐怖はとてつもないものがある。居場所もなくなる。しかたなく、われわれはどこまでも人に気に入られようとしっぽをふりつづけなければならない、生きかたや考え方、趣味、好み、見るTV、休日の過ごし方等々を人々の生け贄に捧げて――。

 しかしこういうことにあまりにも不安や悩みが大きくなるようだったら、学ぶべきは同調技術や心理学的知識なんかではなく、じつのところ、集団からつまはじきにされる者や除け者にされる者なのかもしれない。

 たいがいの人はかれらを嫌悪感や不快感、怒りのカーテンでしか見ないだろう。ほんとうのところは、このカーテンがあまりにも強すぎる人ほど、除け者や嫌われ者になるのが恐ろしい人間なのである。

 他人に思うことは同時に自分にも向かっている。「他人のふり見てわがふり直せ」ではなくて、他人を叩いている人間は自分のそのような部分を同時に叩いているのである。つまり自己規制の網をかけているわけだ。嫌えば嫌うほど、自分が除け者にされるのが恐ろしくなる。わたしの心のなかでは他人も自分もなくて、嫌悪感はすべてに適用される。

 ということは社会に受け入れられない怖れを強く抱いている人は、除け者や嫌われ者にたいする激しい嫌悪感といったものをとりのぞく必要があるのではないだろうか。嫌悪感はその当人のものではなく、まさしく自分を幾重にも縛りつける行動の網なのである。

 嫌われ者が教えてくれることはそれだけではないのだろう。われわれが必死に他人に同調したり、媚びをまかないですむなにかをもっているのだろう。かんたんに人に同調しないですむ価値観や行き方といったものである。また人から叩かれたり、嫌われたりして、たぶんに同調人にはない精神的な強さやクッション、免疫といったものが育まれているものだと思われる。

 社会に受け入れられる不安を強く抱いている者は、嫌われ者にたいする強烈な偏見や嫌悪感をまずとりのぞいて、かれらの価値観や精神的な免疫といったものを参考にするのがいいのだろう。

 他人の好感といった危ういものにあまりにもすがりつく人間は、失うものもあまりにも大きく、また自分を犠牲にし過ぎるだけである。まずは嫌われ者の嫌悪感のカーテンを開け放つのが必要なのだろう。

 人に好かれるための本はいっぱい出ているのに、人に嫌われるための本はなぜないのだろう。集団の規範に合せることより、自分のほうが大事であるという価値観がまるでないわけだ。自分を大切にしたいと思う者は人に嫌われることも厭うべきではないのだろう。




       選別社会に受け入れられない不安   2000/3/11.


 中島梓の『コミュニケーション不全症候群』(ちくま文庫)という本は現代社会のありようをひじょうに鋭く分析している。

 現代の若者が切実に求めていることは「社会に受け入れられること」である。これがこの本の一大テーマであり、またわれわれの生き残るための闘争条件である。われわれは自分の「居場所」は、「他の人間の好感」のなかにしかないと信じ込まされている。だからひじょうに苦しいのだ。

 この「社会に受け入れる」ことをめぐって人々はさまざまな対処策や困難な問題をうみだすのである。おタクは選別社会を否定し、内宇宙にたてこもったゲリラであり、女性たちのダイエットはそれに過剰適応して身をけずりつづけているのだと中島はいっている。

 この社会は選別社会であり、ほかの人間の好感のなかにしか居場所はないと感じるのは、ひじょうにわたしも実感できるところである。この社会にどうやって受け入れるかをめぐって人はさんざん悩んでいるといえる。

 それはそれはキビシー選別社会である。女性たちにとってこの社会は「人肉市場」であるし、男も女性からそのようにまなざされたとたん恐怖に駆られて「おタク」世界に閉じこもったのである。われわれは他人からたえず「選別」され、おもしろくなかったり、魅力がなかったり、ひとづきあいがうまくなかったりしたら、すぐにポイ捨てされる「商品」になってしまったのである。

 TVタレントが教えることは「見られる」こと――つまり社会から認められたり、有名であったり、といったことを完全に支配した人が偉い人であり勝者であり、ぎゃくに「見る側」は失敗者、敗者なのだということなのである。

 われわれはこういった他人の好感や興味、関心といったひじょうにめまぐるしく変わる覚束ないものに支配されているというわけだ。そうすることによって多くの人から「保証」をえられたり、「居場所」を与えられたり、安定するだろうと思い込んでいるのである。

 われわれはこの過酷な選別社会とどうつきあったらいいのだろうか。人はそれぞれの対象法をしらずしらずのうちに身につけていったことだろう。わたしなんかどちらかといえば、ひとに「よい顔」ばかりする人間であるし、選別を拒否する傾向もある。隠遁者とか仏教者の生きかたに少々魅かれもしたが、選別を拒否したという点でおタクと似ているともいえなくはない。

 ショーペンハウアーもやっぱり他人の印象に支配される奴隷なんかならずに孤独に生きろといった。まあそこまで極端にならないまでも、他人の好感をどこまでも当てにしない心をもち、理想と要求を下げるべきなのだろう。

 そのためには人に嫌われたり、拒否されたりしても、めげない強い心が必要になるが、心の強さというのはいちいちいろいろ考えない、頭を空っぽにすることにあるのだろうとわたしは考えている。




      感情の経済学     2000/3/9.


 ある感情を相手から受けたら、お返しをしなければならないというのが人間関係の暗黙のルールとしてある。これは貨幣や商業、取引き、交換関係と同じものである。この貨幣関係をベースにして人間関係はだいたいなりたっている。

 たとえば、ある人から心を傷つけられたり、心ない仕打ちをうけたら、報復や復讐をしなければならないと多くの人は思っていたりする。またある人からお世話や恩義をうけたりしたら、恩や義理をお返ししなければならないと人は思うものである。

 さまざまな感情というのは貨幣のように人間のあいだを流通しているのである。感情の買い手は売り手に恩義であれ、報復であれ、お返ししなければならないということである。

 刑罰というのも、ニーチェが指摘するとおり、損害や被害をうけた感情はどこかに等価物があり、相手側にその苦痛分をあたえることによって報復が可能だと思われているものである。

 さまざまな感情や苦痛、損害、恩義といったものはどこかに必ず等価物があるはずだという考え方がわれわれの人間社会の根本的なベースになっている。商業の関係が金銭関係とまったく関わりのない人間関係においても貫徹しているというわけだ。

 だが、この感情の貨幣というのは混乱をきたしているというのが実状だろう。カネのように数字で割り切れるものではないし、一方的な取引き成立の思い込みだけで成り立っている売り手もいるし、主観的な思い込みやモノサシによってひじょうに雑多で多様な売買関係が交錯していたりするからである。

 この交換関係の失敗や読みとりミス、勘違い、一方的な思いこみ、無知といったものがさまざまな人間関係のトラブルをひきおこしているのだろう。感情の貨幣というのはあまりにも一方的な思いこみ、一方的な取引関係というものが多いのは人間関係のさまざまな行き違いや錯誤からうかがい知れるものである。

 われわれはこの取引関係の捉え方や行ない方を、その人の性格や人格、あるいは心理だと思い込んできたのではないだろうか。性格なんてものではなくて、感情の取引き形態をどのように認識しているかによって、その人の表われ方が異なってくるといえるかもしれない。

 他人に期待した感情の取引きのありかたは、そのまま自分の心の基準である。この基準からズレたり、もれたり、予想外の行為が返ってくるのなら、われわれは悲しんだり、怒ったりするわけだ。「わたし」という人格は感情という貨幣をとおしたいっしゅの「個人企業」や「個人商店」そのものであるといえるかもしれない。

 われわれはこの社会に生まれ落ちたときから、この感情のとりひき――人に苦痛を与えたら苦痛を与えられるものである――というルールを徹底的に親からたたきこまれる。親に怒られた子どもは、あやまったり、反省したりして、苦痛や苦悩という感情を末永く「所有」するように仕向けられる。こうしてわれわれは感情の取引関係に参入してゆき、個人商店の看板をかかげるようになってゆく。

 しかしながら、感情の取り引き形態はさまざまな人間間のトラブルや苦痛や苦悩をひきおこしてきた。多くの宗教では感情の取引関係を否定している。つまり感情にはどこにも等価物なんかなく、また時間とともに消え去る虚構であるといってきた。感情は取り引きできるものではなく、また時間がすぐに消し去るものなのだということを諭してきた。なるほどまったくそうである。

 心の平安、また人との平和な関係を築くには、感情貨幣の「個人商店」はたたんだほうがいいようである。だれかからうけた苦痛を報復や復讐というかたちで帳簿にのせておくのは、自分の苦痛の継続に一役買うだけだし、相手のトラブルをこじらせてよりいっそうの苦痛の拡大に加担するだけになるだろう。

 ただ、被害や虐待を含むような不平等関係において、どれだけ取引関係を発動させないでおけるかはむずかしいところである。流れる川は同じ水ではないといわれても、この取引関係が今後も継続するとするのなら、わたしはどうしたらいいのだろう? ねえ、おシャカさん。






     他人におこなうことは自分の心の基準である    2000/3/8.


 さきのエッセイ(↓)で他人への配慮は交換を前提としてのお返しを期待しているということをのべた。カネを払っていると同じことになるというわけだ。ただしこのカネは無形のもので、そのためにいろいろな行き違いや約束不履行がおこったりして問題が多そうである。

 今回もういちど反芻しておきたいことは、他人への配慮は自分の心の基準であるということである。他人へ思いやりややさしさという贈り物をするのは、自分がそうされたい、そうされる権利があるという前提があるということである。

 つまり他人におこなっていることは、自分にもおこなわれるべきものである、ということだ。われわれは暗黙にこう思っている。そのためにふだんから他人への配慮を高度におこなっている者は、自分にもとうぜんそれと同等のお返しや待遇が与えられるべきだと暗黙に信じこんでしまう。

 問題は、この交換がカネの交換のように明確な制度や法律として定まっていないことだ。だから行き違いや約束不履行がおこる。また自分自身もそういう交換やお返しというルールを意識しておらず、暗黙に自分はそうされるべきだと勝手に思い込んでしまい、約束不履行にえらくご立腹されたり、悲痛な気持ちになったりするのである。

 キレる若者もそうだろうし、幼児虐待も暗黙のお返しは幼児からとうぜん返ってこないのに、無意識にお返しを期待しているから幼児相手に逆上してしまったり、ちまたの人間関係の問題やいさかいもこういうところからおこっているのかもしれない。

 恋愛というのも愛や好意を与える代わりに所有や身の回りの世話といったお返しを期待する交換関係である。ストーカー行為というのは、一方的な高い愛情や好意の見返りが返ってこなくて報復という手段に出るものである。感情や行為の贈り物というのはカネの取引関係のようにはっきりとしていないから、一方的な取引関係がついつい成立したと思ったり、約束を破棄されたと思いがちになるものである。

 われわれがこのことに気をつけなければならないことは、他人におこなっていることはかならずなんらかの商業関係をベースとして物事を捉えているということである。交換関係で他人との関係が成り立っている。他人におこなっていることは、暗に自分もそうされるべきものだと思い込んでいるものなのである。

 いわば、他人におこなっていることが表わしているものは自分の心の基準なのである。自分自身の心の投影なのである。わたしが他人におこなう高度の配慮や気づかい、繊細な感受性といったものは、すべて自分も他人からそうされるべきものだという前提があるわけだ。

 この前提によって、わたしの心は傷ついたり、悲しんだり、怒ったり、腹を立てたりするわけである。その基準や要求が高ければ高いほど、わたしの心はいっそう傷ついたり、悲しんだりする感情の激昂を味わうことになる。

 だからといって他人への配慮や気づかいをやめよとはいわないが、あくまでもこの心の動きは交換関係を前提としているということを銘記しておくことだ。暗黙に交換を期待しているということだ。

 この交換はひじょうにあいまいなもので、罰則も法律も明確な交換関係もないわけだから、裏切られたり、約束を守られないことは、ごくひんぱんに出現する当たり前のものだと自覚しておくことだ。でないと、ひんぱんに傷ついたり、怒り心頭になったりしなければならない。

 感情や行為の交換関係というのは、高いカネを払ってもひんぱんに見返りやお返しが返ってこないものである。買い物のようにカネを払えばちゃんとモノやサービスが手に入るものとはまたワケが違うのである。

 また、わたしの心というのはこういう他人との関係、配慮、気づかいといったもののなかにあるものなのである。心はわたしの内部にあるのではない。他人への配慮や気づかいといったものがわたしの心の基準なのである。




      交換贈り物としての人格配慮    2000/3/7.


 贈り物というのは直接的なお返しを期待しないでも、暗に精神的・非金銭的なお返しを期待してなされるものである。

 人格崇拝、あるいは人格配慮という道徳や規範ももちろん相手に配慮した分、自分にも同じような配慮とあつかいをしなさいという暗黙のお返しを期待してなされるものである。

 他人への配慮・やさしさ・思いやりといったものは、じつは暗黙のお返しを期待しての贈り物なのである。配慮という贈り物をいただいた者は精神的な「借り」や「重荷」ができたと感じる。そして配慮や思いやりといった感情を相手にもうけわたしてゆく。こうして人間関係というのは、配慮や感情という贈り物をそれぞれ交換しあいながら、その間柄を深めてゆくわけである。

 しかしこの交換儀礼は明確なものでもなく、きっちりとした契約書が交わされたものでもなく、人によっては暗黙のギブ・アンド・テイクという規則に気づかない人もいるだろうし、あるいはどのようなお礼やお返しをしたら適切なのかわからない場合もあるだろうし、そもそも感情や配慮というあいまいな贈り物だから、それが返礼を期待しての贈り物だったと気づかない人もいるだろう。

 森真一が語っているところによると、若者がキレたり、幼児虐待が増えているのはこういうところに理由があるという。つまりせっかく高い人格配慮という贈り物を贈ったのに、相手が応えてくれなかったということだ。自分はこんなに配慮してやっているのに(贈り物をあげているのに)、相手は自分を傷つける行為や言動をした、幼児は言うことを聞いてくれなかった、だから罰を与えるのは正当だ、ということになるわけだ。

 われわれがごく自然におこなっている他人への配慮、思いやり、気持ちを察すること、こういった感情の動きはじつに商売の関係や贈り物の関係と同じものなのである。感情や配慮といった気づかいやマナーといったものは、高い値段とカネがついているものである。いわば「シャドウ・エコノミー」というか、「影の交換関係」ともいえるわけである。「感情の経済学」である。

 他人への配慮・人格崇拝の道徳を高度に守る者は、多大な投資をして他人のメンツを必死に守り、傷つけないように繊細に配慮しつづけるわけだが、それを交換儀礼として見るのなら、自分自身にもそれ相応の返礼・配慮をしなさいということになる。つまり自分の人格が傷つけられないように守られた鎧を全身にうちたてているわけだ。

 他人への配慮は自分自身への配慮も高度にしなさいというメッセージであり、また返礼の高度化を期待してのおこないだといえる。

 現在は人格崇拝の規範が高度化・厳格化していると森真一はいっているが、そのために若者は希薄な人間関係をもったり、人間関係が苦手になったのだと分析している。かれらはけっして内閉的でも内向的でもなくて、他人の人格および自分の人格を傷つけるのがあまりにも怖いためにそのような希薄な関係をとり結ばざるをえないというわけだ。

 人格を傷つけないために鎧や城壁はますます高くなり、人はますます近づけなくなっている。過敏なまでの他人への配慮・思いやりといったものは、傷つきやすい心をますます高めているだけではないだろうか。

 他人への配慮は自分自身への配慮の高度化を暗に期待しているわけである。自分への配慮をますます高め高めに見積もってゆくと、心はほんの些細なことでもたびたび傷つくようになるだろう。

 そういったことでキリストがいった言葉、「右の頬をぶたれたら、左の頬をさしだせ」が思い出される。人が怒ったり、悲しんだりするのは、「人はみだりに人の顔をぶつべきではない」とか「わたしはだれにも顔をなぐられる権利はない」という前提や考えをもっているからである。つまり「あってはならない」ことが起こるから、人は怒るのである。キリストはそういう心の「構え」自体を捨てることをいっているわけだ。

 他人への配慮をすればするほど、他人からの無礼や無作法なおこないは我慢ならなくなり、傷つきやすくなる。だから他人への配慮という高い道徳性と自制心をもっている者は、交換の観点から見るのなら、気をつけなければならない。わたしが他人への配慮をすることによって暗に期待しているのは、自分を傷つけないことを他人が気づかうということだからだ。

 でも世の中そんなうまくゆくわけがない。人はさまざまな状況・場所でわたしを傷つけ、悲しませるものである。他人がわたしを傷つけなくなるなんてことはおそらく永遠に不可能だろう。他人への配慮を過度におこなっていると思う者は、じつは自分の傷つきやすい心をますます高めているということに気づくべきだろう。





      「自分」崇拝社会と誇大自己     2000/3/5.


 「人の心を傷つけてはならない」という人格崇拝の規範が厳しくなっていると森真一は指摘している。古くはデュルケームが宗教の代わりの人格崇拝として論じ、ゴフマンがその日常の表出のされ方を詳細に語ったそうだ。

 これのなにが問題かと考えているとき、はたと小此木啓吾の『自己愛人間』(ちくま学芸文庫)という本が目にとまった。人格崇拝というのは、ことばを換えていうなら自己愛、あるいはナルシズムのことなのである。

 人格崇拝を最大の社会道徳とするのなら、自己愛およびナルシズムが増長してゆく社会をつちかっているということになる。自分本位の生きかたをおたがいに尊重しあうのが社会のひじょうに重要な道徳になっているのはだれもが実感できることだ。

 この「自分崇拝」の高度化と道徳化がすすんでゆくと、自己の内部においては自己の価値や重要性がインフレ的に加速するのはいうまでもない。そのように育ち、守られた人格が、「誇大自己」をつちかってゆくのも論理的な帰結である。親の期待も自己愛の肥大化をもたらす。

 わたしはいぜんから折りにふれ、現代に多くなっており、自分にも若干そのような傾向がある誇大自己というものに疑問に思ってきた。なぜ現状や現在に不満ばかり感じるのか、もしかしたら自分は誇大自己的な自我をもっているのではないかと思ってきた。そのような疑問がこの自分崇拝規範というキーワードで解けそうな気がする。

 小此木啓吾が指摘するには、自己愛や誇大自己をもつ者は「分を知る」ことができなく、現実に適応できない弊害があるといっている。肥大した自己は自分を限定されることをひじょうに怖れるのである。これは若者がモラトリアムやプータローになる心性につながってくる。

 自己愛人間は理想や誇大自己があまりにも高いため現実社会になかなか適応できず、自己限定もできなくなる。「自分はこんなちっぽけな存在」ではないと心の声がたえず不満をもらすのである。

 人格崇拝の道徳をみんなでせっせと守っている社会は、分を知ったり、自己限定という、現実社会に適応してゆく通過儀礼ができなくなる若者をつくりだしていることになる。神のごとき全能なる自分は、さげずまれたり、傷つけられたりする立場やアイデンティティをもってはならないのである。

 わたしは自分の心の底からわきあがってくる自己限定の怖れの根拠とはなんだろうなと思ってきたから、なるほどである。この怖れは自分のひじょうに深いところとつながっていると感じていた。どんな言葉をもってしても、なかなか自己限定を納得させる言葉が出てこないからである。自我の根本的なところとつながっているようである。

 自分崇拝のインフレーションを治癒させるためには、理想を低く下げる必要がある。そういうときに老荘思想や仏教などの諦観的な思想がひじょうに染みてくるのだろう。われわれはあまりにも自分を愛し、崇拝しているがために、「分を知り足るを知る」といったような東洋的な思想がおあつらえ向きになるというわけだ。

 自分をどこまでも崇拝してゆく心のゆく末はちょっと恐ろしい。あきらめたり、我慢したりする心は自我のひじょうに深いところ、重要なところと抵触するからである。そんなことをしたら、自我の基底的なところが破壊されてしまう。う〜ん、人格崇拝社会は問題である。





    「人格崇拝」の規範は厳しくなっているのか    2000/3/4.


 森真一によると人格崇拝の規範が厳しくなっているそうである。マスメディアではモラルハザード(道徳の弛緩)がおこったり、キレる若者が増えているといっているが、森真一は自己崇拝の規範がかなり厳しくなっているから、ぎゃくに道徳を侵犯する人やキレる若者が増えたように見えるといっている。

 対象のレベルが落ちたのではない、自分たちの社会のレベルが上がったということだ。個人の人格を守ろうとする「聖人」のような社会になってしまっている。しかしマスメディアではいつも自己コントロール能力の低下が叫ばれるため、ますますその規範を厳しく吊り上げる一方になる。心理学のブームはそこであい登場となるわけだ。

 わたしの実感としては人格崇拝がそんなに高度化しているかはちょっとわかりづらい。ただ、いじめなんかは人格に恥をかかせたり、メンツをつぶすことにあるので、ぎゃくに厳しくなったタブーをわざと侵犯する快楽・カッコよさが加速しているのだと説明づけることができる。ワルぶっている若者たちにとってタブーを破ることは最大のカッコよさである。

 それにしても人格崇拝の高度化か? たしかにわたし自身も人を傷つけることをかなり恐れてふるまうほうだし、自分自身も傷つけられるのをたいそう恐れるし、かなりの程度「自分主義」である。「自分はこれだけの存在ではない」と思いこむ誇大自己の傾向ももっている。対人関係も希薄である。これは人格崇拝、「聖なる自己」の結果だろうか。

 すがるものは、宗教も、国家にもない。崇拝するのは自分だけになってしまう。消費社会はさまざまなモノやサービスを買い与えて自分を愛しなさいとささやきかける。自分はとても大事にされ、かけがけのないものであり、自己愛や自尊心をあたえられる対象であり、こうして誇大自己は育まれて、「聖なる自己」「宗教としての自己」といった崇拝の対象に祭り上げられてしまうのだろうか。

 自分をもっとも愛し、大切にする人たちは、とうぜん社会の道徳もそのような規範に従ったものにつくりあげてゆくだろう。他人の人格を大切にし、自尊心や自己愛を満足させるように、またぜったいに心を傷つけてはならないといったように自己の人格および他者の人格を守り通すだろう。こうして「やさしくて」無関心で、希薄な人間関係の社会ができあがってゆく。自己愛の社会ルール化だ。なるほど、自己愛を崇拝する社会とその道徳か。

 他人のメンツに配慮する人ほど、自分を傷つけるような無神経な他人にはガマンならない。これが森真一によるとキレる若者や幼児虐待の原因であるという。「自分はここまで配慮してやっているのに! 罰を受けるのはとうぜんだ」というふうに報復行為に走るわけだ。

 お返しを期待しての交換行為(人格配慮)をしているのに裏切られたということである。たしかに世の中にはこういう交換行為がまったく通用しない人もいっぱいいる。せっせと「やさしさ」と「配慮」というギフトをしたのに、顔面を打たれるような人格を傷つける配慮のない行為や言動をされることもある。

 こんなときにはどうしたらいいのかまったくわからなくなるが、世の中には違ったルールで動いている人もたくさんいるのだ、お返しは絶対に約束されたものではないと思うに越したことはないだろう。なんせ、このルールの存在自体がマスコミにすら気づかれていないのだから。

 人格崇拝がこのまま高度化・厳格化してゆくと社会はどうなるのだろう? 「神聖な私」はだれにも迷惑をかけずになんでもできるようにならなければならないし、他者を傷つけないようにするいちばんの方法は人と関わらないことである。社会はますます孤立化・孤独化してゆき、希薄でやさしい無関心な人間関係の社会になってゆくのかもしれない。

 人格崇拝が厳しくなってゆくと、人生にも、他人にも、手も足も出せなくなってしまう。繊細な感受性や細やかな気配りばかりが必要になり、がんじがらめになってしまう。これこそ「牢獄」というものである。あまり気楽で自由で、ほっとする社会とはいえない。人格崇拝の行き着く先について考えなくちゃならないな。



社会的感情論と隠蔽の断想集




       隠す恥ずかしさ、暴く快楽    2000/3/31.


 女の裸や乳房、性器、性行為は隠されるから、暴く快楽、性的欲望が生まれるといえる。むかしの日本や未開民族のように乳房丸見えがあたりまえのところでは乳房には性的意味合いはなかった。

 隠すから暴く快楽や陶酔が生まれ、知りたい欲望がうごめきだす。人間の社会はそういう隠すという行為によって、線引きや区別がおこなわれ、その線上にさまざまな快楽や欲望、羞恥などの感情が交錯するというわけである。

 隠さなかったら、もともとそこにはなんの意味も価値も、区別もなかったかもしれない。隠すことによって価値や欲望が増殖しはじめたのである。

 隠すことには恥ずかしさという感情がつきまとう。恥ずかしかったから隠したのか、それとも隠したから恥ずかしくなったのか、いったいどちらがはじめなのだろうか。『旧約聖書』のアダムとイヴでは知恵がついたから裸を隠すという順番になっているが。

 隠すというのはそこに大切なもの、大事なものがあるというひじょうに目立つメッセージになる。隠したためによけいに目立ち、逆に暴き、求める者たちを集めるというのは皮肉なことだ。目的がひっくりかえっているんだな。

 隠すことによって暴く快楽、陶酔が生まれる。そして暴かれる、見知られる恥ずかしさが生まれる。恥ずかしさはその隠すという行為の見張り番、看守になっている。

 われわれの社会は隠す恥ずかしさと暴く快楽のつなひきやかけひきによってぐるぐる回っているともいえるかもしれない。羞恥と快楽のとりひき形態である。もしかしてわれわれは意味や価値、境界のないのっぺらぼうの世界で、「虚構」や「砂の城」のお遊びや戯れに呆けているだけなのかもしれない。

 このような世界が無意味でバカげたことだと思うのなら、隠すことの境界をうみだす羞恥という感情から脱することが必要だろう。その羞恥をたんなる体の変化や興奮だとみなし、感情の「実体化」を避け、その継続に力を貸さない無視やないがしろにするといった方法がある。

 恥ずかしさというのは隠すからよけいに恥ずかしくなるという逆説作用がある。身体変化、感情変化を隠そうとするから、羞恥という感情変化はおこるのである。ふつうわれわれが理解している恥ずかしいから顔を隠そうとするのではなくて、隠そうとするから恥ずかしくなるといったように逆なんだな。

 隠す恥ずかしさ、隠す境界、暴く快楽といった世界からわれわれは脱したほうがよいのだろうか。




      なぜ隠されなければならないのか?     2000/3/30.


 人間の社会を隠すという行為でながめてみると、人はさまざまなものを隠している。排泄や裸はもちろんのこと、寝るという行為も隠すし、性行為もとうぜん隠されるし、家や壁、部屋というのも日常の行動を隠すために設けられている。

 この行為があまりにも当たり前な社会に生きているからなんとも思わないが、なぜ隠さなければならないのかという素朴な問いに立ってみると、おかしなものである。

 この社会では病気も病院によって隠されている。死も病院や墓場によって隠される。犯罪者は刑務所に隠され、精神病者も病院に隔離される。老いも老人ホームや定年退職などによって隠されている。労働も会社や工場、都市計画などによって隠されているといえるかもしれない。

 役割や職業によって隠される人格や本性といったものもある。たとえば教師であるとか、政治家であるとか、医者であるとか、警官とか、社会的に偉くて立派な人格や役割をもたなければならない人たちは、その役割にそぐわない行為や人格は隠される。

 個人意識が生まれるのも親や他人に隠し事をもちはじめてからということだ。他人に隠すことが、自分という意識の基底になっている。ホンネや本心、秘密をもらすかもらさないかが自他の境界になっているとも考えられる。

 この秘密を共有するかしないかで、身内やよそ者の線引きがおこなわれたりする。親密な者や身内には秘密がばらされ、共有され、ほかのよそ者にはそれを教えなかったり、もらさずにいて、区別がおこなわれる。家族や恋人、集団やグループではそういう分け方がおこなわれている。

 ともかく人間はいろいろなものを隠す。隠すというのはおそらく人間に区別や分類、境界といったものを原初に教えたのだろう。なんの区切りもない無境界の世界に、分断という区別がうちたてられたのである。言葉の作用も同じようなものである。

 隠すことによって意味や価値が生まれ、暴きたい欲望や知りたい欲望、快楽や興奮がもたらされたといえるかもしれない。世界に区切りをいれて隠すことによって、人間の社会的欲望は生まれ、促進され、その磁場を中心に展開をつげていったのかもしれない。

 また人格の一部を隠すことによって社会的役割や秩序が営まれ、社会が機能的に動いているといえるかもしれない。

 隠蔽は隠されたものの価値を高め、暴きたい欲求を高める。女の裸体からエリートたちの不祥事、芸能人たちのスキャンダルといったものである。

 いじめは隠している本性や恥ずかしいことを暴く快楽や喜びのためにおこなわれる。隠蔽という社会の秩序からもれたり、露呈されることへの怖れや不安を暴くのである。

 隠すことには恥ずかしさや怖れ、不安といった感情が付帯している。その感情によって隠蔽の秩序は守られ、逸脱が防がれ、また区別や境界が切り込まれ、さらには意味や価値を高めているといえる。

 世界に区切りを入れる隠すことや恥ずかしさといった感情は、もしそれが自己に苦痛や問題をもたらしているとするのなら、それを客観的に理解したうえで、隠蔽=羞恥の感情=境界をのりこえるに越したことはないだろう。




        隠すという人間の根源      2000/3/29.


 隠すということは、人間のかなり根源的なことと関わっているようである。自分の秘密を隠すことによって子どもは自己意識をもちはじめるというし、秘密を隠すことによって集団のなかでの身内とよそ者の線引きをおこなったりするそうだ。

 隠そうとすることは秘密がばれないかという心配や不安を強める。その関心が意識の中心に居座ってしまうために、ますます不安は強くなる。

 隠すということは水のなかに発泡スチロールをむりやり沈めるようなもので、抑えれば抑えるほど反発力も強くなる。表情や顔から秘密や心のなかがもれてしまわないかと隠そうとやっきになると、緊張や不安がますます高まる。

 体臭恐怖のようなものも、においを隠そうとする注目が強くなるから、他人やまわりの視線や言動が気になり、噂しているとか、関連があると思い込むようになるのだろう。

 隠そうとする努力が裏目に出ているわけである。隠そうという努力をなくし、心配をないがしろにすれば、解消するたぐいのものかもしれない。

 社会的には隠すということは、裏の面からみると人々の関心や好奇心を高める役割を果たす。隠せば隠すほど人はそれに魅かれ、知りたくなり、暴きたくなるものである。

 禁止やタブーといったものも同じ機構であるといえる。禁じられるから破る楽しみがあるというわけだ。性欲や禁欲的な労働といったものも、隠されたり、怠慢や自堕落を禁止されるからその楽しみや快楽が倍加するというわけだ。

 こう見てみると隠すという行為は、人間の根源的なことに関わっているのではないかと思われる。隠すことによって自己が生まれ、自他の境界が引かれ、集団での線引きがおこなわれ、また人々のおこないはその線上をめぐって右往左往するようである。

 区別や分類といったものもこれによって生み出されたのだろう。隠すことには恥ずかしさや不安などの気持ちがついてまわる。これらの感情が世界に区別や線引きの原初をもたらしたのだろう。

 隠すということについてはもうすこし考えてみたいが、いまのところこのくらいしかわからない。




        秘密と自己の境界線   2000/3/28.


 秘密をもつことが自己の境界をつくりだす。それが自他の境界線をひくのである。目を広げれば、秘密を共有するかが、親密な内輪のものか、よそ者かの境界線をつくりだす。(小此木啓吾『秘密の心理』講談社現代新書)

 秘密には他人に知られる怖れや不安、暴かれたときの恥ずかしさといった複雑な心理が絡んでいる。この交錯する感情の線上に自己の境界、あるいは内輪とよそ者の線引きがひかれるのである。

 隠すことが自己意識をうみだす。この境界について疑ってみる必要があるようである。仏教でいうように自我から解放されることがよいことなら、自己意識をつくりだす境界というものに注目してみる必要があるだろう。

 この境界線づくりに失敗すると自我の発達が順調にいかなかったり、混迷したりする。子どものころには親は自分の心や考えのすべてを知っているものだと思い込んでいるそうである。秘密をもつにしたがって、親は自分の心のすべてを知っているわけではないと知って自他の境界線をつくりあげてゆく。

 そのような自分の秘密の世界ができず、自他の境界があいまいだと、自分の心や不安が他人にもれてしまう、ぜんぶ知っているという怖れをもつことになる。体臭恐怖や対人恐怖の心理にはこのような自分の秘密が人に知られてしまう恐れがある。

 秘密がもれる怖れが強いのである。その怖れが強ければ強いほど秘密が知られ、噂されていると思う妄想状態に近づくのである。自我の境界が失われ、線引きが壊れてしまうのである。

 これを逆にいえば、あけっぴろげで親密な一体感をもてる人ほど、自我の境界がしっかりとしていないことになる。隠したい秘密はすぐにばれてしまうので、境界はちゃんと育たない。たぶん母子一体化が強い日本人には多いことだろう。

 秘密や隠すことが自他の境界線をつくりだす。それは親密な内輪の者とよそ者というように延長されてゆく。この境界をめぐって人はさまざまな葛藤や不安、恐れを抱く。

 ある人は自分の心や不安などがもれないかとびくびくし、ある人は内輪かよそ者かの見極めにひじょうにデリケートになったりする。境界線上が問題なのである。怖いのである。

 解決策として自我の確立を図るか、それとも境界を捨て去るというふたつの方向があると思われるが、いまのところどちらがいいのか判別できない。





       「理想と現実」の法則    2000/3/26.


 「やりたいことが見つからないから就職しない」という若者が増えている。つい何十年か前までは職にありつけるだけでありがたい、仕事なんて選べないものだったそうだ。いまでは、わたしもそうだが、やりたい仕事につけなければフリーターでいいと思うようになっている。

 こういう自分の心性をわたしは「誇大自己」ではないかと思ってきた。満足できない職業につくのがいやだということは、自分の理想と現実をはきちがえることではないのかと。自分はそんな大それた人間ではないのに、社会が用意する職や地位には満足できないのである。

 この現象を個人の誇大自己という原因に帰することもできるが、これから社会が変わろうとしているということ、新しい職や仕事がわれわれの意識のうえにおいて必要になってきているということもできると思う。若者と職のミスマッチはどちら側に原因があるのだろうか。

 現状では新しい職種や業種が育っていない以上、誇大自己とよぶべき部分も少なくはないだろう。ただ現実からあふれ出た誇大自己が新しい社会や現象、発明を生み出してゆくともいえなくはないが。

 誇大自己はなぜ生み出されてきたかと考えると、商業主義や消費主義によって生産された結果によるところが大きいだろう。「あなたはちっぽけな存在ではないですよ、シャンプーや石鹸や車やクレジットカードを買えば、もっと大きなほんとうのあなたになれます」と洗脳されて、現実や自己をいともかんたんに蹴飛ばす心性ができあがったのだろう。買い物の理想は、同時に自我理想の肥大化である。

 社会を変えてゆくパワーを生み出すのならともかく、いまはこの誇大自己はただモラトリアムとパラサイト(親に寄生すること)をずるずるとつづけてゆく現状を生み出しているだけである。といってもフリーターやパラサイトをつづけざるをえない経済状況があるのも否めないが。生産主義や会社主義に批判的な若者もいるだろうし。

 ともかく現実に歩み寄るためには、また日常を生きやすくするためには理想や誇大自己というものには警戒したほうがよいのだろう。

 理想や期待と現実のギャップというものが人間の悲しみや怒り、怖れ、などを生み出す元である。これはどこかにある人間の理想像とか欲望だけにあてはまるのではなく、日常のいたるところに適用できる原理である。ほんと、あらゆるところをこういう目で見てみることをおススメする。

 われわれは理想や前提をもつから、起こる物事や出来事に我慢ならなくなってしまう。「こうあるべきだ」「こうすべきだ」という無意識的な前提や常識をもってしまうから、われわれはそこからさまざまな困難や問題を「発明」させてしまうのである。

 そういう理想や前提、期待をすべてとっぱらってしまえば、問題や不快といったものはなにも起こらなくなる。こういうことをずっといってきたのが、老荘思想や仏教、キリスト教であり、なるほどへたな理想や期待は抱かないほうがよいと思う。

 「あるがままに」「なすがままに」といったことだ。ただしそうなる前には数々の無意識に沈んだ理想や期待、前提といったものを洗い直す必要があるわけだが、これがむずかしいのはいうまでもないが、理想と現実のギャップという図式をもって考え方や出来事を注意して見つめるように習慣づけたらいいのだろう。




     感情は演じられたもの…か?    2000/3/24.


 感情は自然にわきあがってくるものだという常識や捉え方に縛られていると見えなくなるが、感情というのは「演じられた」ものではないかと思う。

 からだ全体をつかって演じているのである。そのようなからだ全体の状態や気分を感情とよぶ。感情が先にあるのではなく、身体の特定部分の筋肉緊張や呼吸の状態などによって気分や感情がつくりだされるのではないか。

 こういう無意識の筋肉緊張などを見ないから、感情は自然にわきあがるという考えが生まれるのではないだろうか。

 その感情自然主義に縛られると、今度はその感情の継続や保持に力を貸すことになる。無意識に感情というものはわたしは襲い、わたしはそれから逃れる術も、立ち向かう技能もないと思うことになってしまう。

 感情というのは身体の演技によってひきおこされると考えるのなら、感情をコントロールすることは可能である。感情はわけもわからずにとつぜんわたしを襲うのではなく、身体の状態がつくりだしたものであるからだ。

 怒りや悲しみ、恥ずかしさの感情を感じているとき、自分の身体はどのような状態で、どのようにあろうとしているだろうか。身体や表情の姿勢や志向がその感情を感じるように向かっていることがわかるだろう。身体はその感情を味わうように準備しているのである。

 身体が意識的に感情をつくりだそうとしていることに気づくのなら、わたしはその作用に力を貸さないように仕向けることも可能だろう。空気をいれかえて気持ちを新たにすることもできるし、感情の準備に向かう身体の力を抜くこともできるだろう。

 身体が感情をつくりだそうとする過程に気がつくことができたのなら、感情のコントロール法をわれわれは手に入れられるのではないだろうか。




     感情を「自己」と思わぬこと    2000/3/23.


 状況や他人から感情を強制され、かたくなに自己の感情にしがみこうとすると、自分のいまの感情を大事にする習慣をやしなってしまう。これを「自分らしさ」や「アイデンティティ」とみなしてしまうと、感情にもてあそばれることになってしまう。

 自分の感情を不動のものとみなし、その自然さを大事にするのなら、感情はわたしのなかで大手をふって暴れまくるだろう。

 われわれの常識として感情は自然に出てくるものであり、変えることができないものであり、また感情をいつわって違う表情をかたちづくることはよくない、ウソをつくことだという思い込みがある。

 感情を自然なもので、丸裸のままに表わさなければならないという社会常識によって、われわれは追い込まれてしまったのではないだろうか。感情が全面ガラス張りになるように。

 そう追い込むことによって社会や他人は表裏のないその人間を自由に操ることができる。思っていること、感じていることは、丸見えのかたちで提示されているからだ。親は子どもの丸裸の感情を参考に容易に訓育できるだろう。

 また感情のあり方にこそ自分らしさがあると思い込むようになると、かたくなな感情はよけいに目立ち、判別する材料になり、「改善」される対象となるだろう。かたくなに感情にしがみつく心性をつくりだすことによって、社会は判別し、改善されるべき指標を手に入れられるのである。

 感情は手放すべきなのだろう。自然な感情に自分らしさをもとめるというのは、感情にしがみつき、同一化し、集中し、ふりまわされることでもある。怖れや不安により強く拘束される人というのは、感情に自我の基盤をもっているからより拘束されるのではないだろうか。

 自然な感情の状態により自分らしさをもとめれば、ある感情はずっと居座りつづけることになる。この感情こそが自分らしさの証しであり、アイデンティティであり、変えられないものであると思いこむと、感情は不動のままわたしを拘束しつづけるだろう。

 自分の感情に自分らしさをもとめるという裏面には、特定の感情の居座り状態を容認することでもある。感情を自我の基盤と思うのなら、それはどこまでもわたしにへばりついたままだろう。そしてわたしはある感情をずっと抱え込むことになる。

 感情は変えられないものでもないし、コントロールできないものでもない。感情は思考や考え方によって生み出されるもので、それを変えたり、捨てたりしたら、感情は消えていってしまう。感情はそれに同一化せずに放っておけば、去る性質のものである。

 こういうことは論理療法や認知療法、仏教などがいっている。仏教や禅なんてものはとくに思考を捨て去ることをずっと説いてきた。感情のコントロールを大昔からずっと教授してきたわけである。

 近代になってこういう知恵はすたれてゆき、自然な感情をあらわすことがよいことになったが、じつのところこれは社会が人間をコントールするためのテクノロジーであったのかもしれない。

 TVの新興宗教バッシングでは頭を空っぽにした盲従の信者という恐ろしいイメージが流布されるが、われわれ近代人だって「自然な感情」によって社会にコントロールされているのではないだろうか。どっちもどっちだ。手段や方法が巧妙で込み入っているだけだ。




        「楽しさ」の感情強制     2000/3/20.


 バブル時代というのはレジャーや高級品の消費がものすごくさかんだったのだが、わたしはこの時代にひじょうに腹を立てていた。画一化や商業主義の強制というもっともらしい理由づけもできるのだが、「感情」という側面に注目してみると、「楽しみ」の強制があったからだということがわかる。

 バブルに狂奔した時代というのは「だれもがみな楽しまなければならない」という感情強制がまきあがった時代でもあったのだ。むりに楽しんだり、楽しいふりを強制されるのはものすごくだるく、うっとうしいものだ。だからこの時代、わたしは腹を立てていた。

 80年代は「ネアカ」と「ネクラ」という言葉が流行り、「だれもが明るくならなければならない」という感情強制がはびこった時代である。「ネクラ」は「犯罪者」なみのあつかいをうけ、だれもがバカみたいにはしゃぎ、うかれ回り、明るくふるまわなければならない時代だったのだ。

 90年代は打って変わって大不況になり、いたって平和で穏便な時代になった。「楽しさ」の感情強制への反動と非難がまきおこったのだといえなくもない。

 このように感情というものに着目してみると、わたしというのは、よそからの感情強制にひじょうに反抗していることがわかる。日常のいろいろな場面でもそうだし、社会的な選択や行動においても、感情強制のにおいをすこしでも嗅ぎとると、いっせいにかたくなな自分の感情に固執しようとする。

 日常の場面や社交では「つまらないのにおもしろいふりなんかしたくない」とか「しょうもないのに楽しいふりなんかできるか」と、楽しみを強制する場では、むりに楽しく装うのを極力避けている。会社なんかでは「やる気がないのにやる気を出せ」とか「忠誠心なんかないのに忠誠を尽くせ」とかをいわれるのがとてつもなくいやだから、なんとか会社から距離をおこうとしているのだと思う。

 テレビドラマなんかではある感情――悲しみや楽しさを作為で産出させようとするのがわかっているから、醒めた目で、感情を踊らされないように半ば白けながら見ている。

 このようにわたしは人や状況から特定の感情を強制されるのがとてつもなくいやなのである。他人からある感情に乗せられたり、そういう感情にもっていかれるのが、たまらなくいやなのである。

 こういう感情拒否がなせ起こったかと考えてみると、おそらく新興宗教批判やファシズム主義(集団主義)批判などのマスコミの影響によるところが大きいのではないかと思う。「崇拝や熱狂、陶酔などの感情には気をつけろ」というメッセージが戦後くりかえし流されてきたのではないのか。この影響は無視できないだろう。

 わたしのなかにある感情強制への拒否感というのはよいことなのか、よくないことなのかはいまのところ判断しにくい。ただ、自分の感情にこそ「自分らしさ」や「自分としてのアイデンティテイ」があると考えて固執しているとするのなら、わたしは感情により多く支配され、ほんろうされることになってしまうだろう。

 自然な感情こそが自分なのだと思うと、感情を崇拝してしまって、その聖なるものに手をつけられなくなってしまう。コントロール不能ばかりか、わたしは感情に首輪をかけられてひきずり回されるようなものである。悲しみやつらさに悩まされるのはあまりよい経験ではない。

 この感情拒否についてはどう考えればよいのだろうか。戦後の人たちは感情を拒否し、その感情を守ることで「個人の尊厳」や「自分らしさ」を守ろうとしてきたのではないだろうか。でも感情に自分のアイデンティティを賭してしまったら感情の苦悩にふり回されることになるし、けっきょくのところそれは、商業主義や消費主義の要請や必要ではなかったのではないだろうか。

 いまのところなんとも判別しかねるが、この感情の強制と拒否という捉え方はなかなかの鉱脈ではないかと思う。もう少し考えてみたい。



      感情社会学の翻訳の壁     2000/3/19.


 いま、感情社会学という70年代アメリカからはじまった社会学に興味があるのだが、このジャンルの翻訳はほとんどなされていないようで残念だ。

 感情社会学のおもなところはケンパー、ホックシールド、コリンズといった人たちだそうだ。『感情の社会学』(世界思想社)の巻末の文献リストをみると、これらの人の著作はほぼ翻訳されていない。

 70年代末から80年代前半にかけてケンパーの『感情の社会的相互作用理論』(1978)やシェフの『治療,儀礼およびドラマにおけるカタルシス』(1979),ショットの「感情と社会生活ーシンボリック相互作用論的考察」(1979),ホクシールドの『操作された心』(1983),デンジンの『感情の理解について』(1984)(中川伸俊「社会構築主義と感情の社会学」参考)といった文献が発表されたそうだが、これらも翻訳されていない。

 早く読みたいと思うのだが、翻訳が出ていないのならどうしようもない。わたしは英語の読解能力がないし。ただ英語なら少しばかり読もうと努力しようかなと思えるだけマシで、これがフランス語やドイツ語圏の著作だったらもうお手上げだ。

 わたしの読書範囲ではほとんど翻訳の壁にぶちあたることはない。だいたい翻訳されているもので満足することができてきた。

 翻訳の壁を感じたのは少数の例があるくらいで、たとえばトランスパーソナル心理学というのはある程度の翻訳は出ているけど、それ以上の本は出ていないのか、ちょっと著作の数は少ないと思ったことがある。補えない知識欲は仏教古典でおぎなおうとした。

 ずっと前、もう十年も前になるけど、アメリカの最新若手作家に興味があったのだが、期待される作家の翻訳はほとんど出ていない状態だったので、惜しい思いがしたことがある。こういう落差を利用して英語の本を読もうと努力すれば英語力がつかないわけではないが、わたしにはそこまでの情熱はないようだ。(ヘミングウェイとか遠藤周作のペーパーバックなんかを読んだりしたのだが、だめだった。)

 フランス語圏とかドイツ語圏の思想家なり哲学者なりに興味をもつと、やっかいなことになる。気に入った思想家の著作をもっと読みたいと思っても、これらの言葉を理解することはまずむりだ。過剰になった好奇心をそぎおとすしかない。あるいはこの欠如を利用して、みずからの思考力を高めるという有効利用もないわけではないが。(ほんとうのところ、これがいちばん大事なのだが)

 まあ、感情社会学の翻訳がないのは残念だ。ネッケルの『地位と羞恥』(法政大学出版局)という本は読んだが、けっこうむずかしかった。理解を広げるために早くほかの本も翻訳されてほしいものだ。

 わたしの興味とか関心というのはほんとうに一時的なもので、なかなかその情熱を継続させることはむずかしいし、興味が過ぎ去ってしまえば、恐ろしいほど無関心と冷淡になってしまう。旬なときに興味のあるものを読みたいのだが、こういう状況ならいたしかたないということだ。




       感情信仰の時代     2000/3/18.


 感情に生きる喜びやはりあい、生きがい、自分らしさを求める時代である。楽しさや喜び、うれしさ、といった感情の経験をひじょうに大切にする時代である。

 そのようなすばらしい経験はぎゃくに、皮肉なことにそれらを得られない苦悩や疎外感、自責感をもたらすものである。「わたしはほかの人のように楽しんでいない、喜べない、うれしくない毎日を送っている」といって嘆くわれわれの苦悩をも生み出した。

 また喜びや楽しみを求める精神は、感情に支配され、ほんろうされる人たちをも生み出した。感情経験を自分の大切な目標や生きがいとするのならば、自己は感情の荒波にほんろうされるだけだろう。

 感情に生きがいをもとめる人生は感情のコントロール能力を失うことでもある。感情を崇拝してしまえば、自己は感情に支配され、操られることになってしまう。感情を経験することが唯一の楽しみになるということは、感情の生成に手をつけないということである。コンロール不能になる。

 テレビ・ドラマや映画はほんのささいなことで感傷的、メランコリーになる人たちばかりを出演させている。そういうムードや気分になることを推奨するかのようである。感情的に深く没入することがより深く意味のある人生を送れるかのようである。

 こういう思い込みをもつために人はより感情的になり、そのためによけいに感情のコントロール不能に冒される。感情を自己と思いこみ、同一化してしまうと、もはやコントロールできなくなってしまう。主体は思考や理性的な自分ではなく、感情となってしまうからだ。

 かつての時代はこんなに感情をもてはやしはしなかったのではないか。立身出世や合理的な人間、理性的になることが人々の目標であり、栄達や名誉であったのではないのか。

 それがいまでは瞬間的な楽しみや喜びの経験をもとめる時代になっている。べつに非難するつもりはないが、なぜなら長期的・将来的な拡大成長が見込まれる時代ではなくなったのだから、とうぜんの対応、適応であるわけだが、感情経験だけに喜びをもとめるようになると、感情にふりまわされる危険があることを指摘したいだけだ。

 それとやはり根本的に感情信仰は幻滅に終わるのではないかということも指摘しておきたい。感情を人生の目標や生きがいとしたって、感情なんてものは瞬間的・刹那的にしか味わえないものだから、ぜったいに永続的・持続的な喜びは得られないのに決まっている。こんな瞬間的なものに喜びをもとめるのはあまりにも苦しい、見返りのない選択ではないだろうか。

 現代はいつの間にか感情信仰の時代になっていた。このことに気づくことは大切なことだろう。無自覚に求めていたものは、すぐに幻滅に終わる性質のものであるかもしれないからだ。また喜びの裏面にはかならず悲しみがついてまわるものだということをわきまえておくことだ。ついでに感情にふりまわされる危険もついてまわる。



自我と境界についての断想集




  「随意/不随意」で「私」を分けられるか?   2000/4/20.


 私にとって知覚される世界はすべてひとつながりとして経験される。こういうなかで、どうやって「私」と「私でないもの」に切り分けられるのだろうか。

 「随意」と「不随意」で分けられていることが多いのではないだろうか。手や足は自分のコントロールが効くから「私」である、外界のモノや物体は自分のコントロールが効かないから「私」ではないといったふうに。

 しかし「随意としての私」では肉体はとうぜん私に含まれるが、これは怪しい。肉体というのは手や足のように自分の意志で自由に動かせる部分も多いが、心臓や内臓、血液とか成長とか病気といったことは私の随意では動かせない。「私の身体」でありながら「私の随意」とはならない身体とは変なものである。

 表情や顔は随意でありながら、本心やホンネがもれてしまうかもしれない制御不能性ももっており、われわれはこの境界線でいろいろ苦しむことになる。随意と不随意が顔や表情において交錯し、混乱し、ぶつかりあうというわけである。

 随意で私を分けようとした私はそういう不随意の私をどうするかというと、随意の私の範囲をせばめてゆき、たとえば頭や自我といったものに限定してゆき、身体を「所有」しているという観念に代替してゆく。所有なら問題ないというわけだ。

 随意/不随意でごっそりと限定された私はふたたび所有によって自我の範囲を広めてゆくというわけだ。車や家を所有することによって「私」になり、会社や国家が「私」になり、夫婦や恋人、友人などをもつことによって「私」になる。

 商品の所有は私の意のままになるが、夫婦や友人のような人間はかんたんではない。随意にならない部分は所有という観念によってあきらめる、あるいは限定つきの随意を手に入れるのだろうか。随意と不随意の線引きによって私の境界や他人との支配や服従の関係も決まってゆく。

 私を何によって分けるかによって、私の範囲は変わってくる。私というのは不変的に存在するのではなく、ある条件や性質を基準に選り分けられたものなのである。それは他人との関係やマナー、作法といった用途やかかわりかたをかたちづくってゆくものである。

 一般的には自分というのは肉体であると言い切れるようと思っているが、「私」というのはそうかんたんな存在ではない。「私」が存在するためには意味や用途といった基準と、それにもとづいた限定と排除が必要なのである。言葉が生成するために必要な条件である。

 「私」の線引きと境界がこうころころと変わるということは、そもそも「私」という固定的な存在自体がかなり怪しい存在であるということである。

 もともと知覚される世界はすべてひとつながりであったのである。私に知覚される世界において「私と私でないもの」の境界などどこにも印づけられてなんかいない。「私」という限定と境界を設けてしまう自体が問題なのではないだろうか。





    消えたり、偏ったりする感覚としての私   2000/4/18.


 目をつぶった身体感覚のほうが、私や世界のありようの実状を知るにはふさわしいのだろう。視覚は分断や分離をもたらし、この世界や自己に線をひき、さらに言語や概念によってこの世界や私はぶちぶちに分断・分離させられる。

 目をつぶると世界に起こる感覚のすべてはひとつながりだ。境界も分断もないし、視界にあらわれるような空間や距離といったものもない。感覚で経験できるものだけが世界である。

 身体感覚というのはふしぎなもので、ふだんたいがい意識されない。足や腕や胸などの感覚は眠っている。首から下はだいたい存在していることすら意識されない。

 かわりに感覚は頭や視覚に宿りっぱなしである。しかも頭の感覚にスイッチが入ると、ほかの感覚、たとえば聴覚や視覚は消えてしまう。考え事や過去に思いをはせていると、ものを見ていなかったり、音を聞いていなかったりする。頭の感覚に没入するわけだ。

 逆に音楽や音などに集中していると、頭の中の「私」や視覚も消え去っていたりする。

 つまり身体感覚というのはある部分がはたらくとき、ほかの部分は消えているのである。では「そのほかの私」はいったいどこに行ってしまったのだろう?

 私というのはだいたいいつも部分部分として存在している。それは頭であったり、視覚であったり、聴覚であったり、触覚であったりする。その他の部分は存在していないというあり方をもっていることになる。

 パーツとしか存在しないのがわれわれの感覚のあり方というわけである。われわれはいつも一個の固体としてあるのではなく、パーツのみで存在していることになる。まあ、お化けみたいなものというか、一部分だけが露出したまぬけな透明人間みたいなものだ。

 私は視界の世界のように輪郭や空間がいつもはっきりとしてあるものではなくて、消えたり、現われたり、偏ったりする部分的存在だといえるだろう。

 感覚としては、私は、ある部分だけが存在していることになる。そしてその世界のみの存在になる。

 私は肉体としてつねにあるのではなく、視覚の対象に没入する存在になり、音や音楽のみに同一化する存在になり、怒りや悲しみだけが存在するものになり、ときには過去や思いだけが存在し、そのほかは存在していないといったあり方を示すことになる。

 こうなると肉体や固体として存在する私、持続・継続する私といった常識や自明性といったものはかなり怪しくなるだろう。私は、感覚としてはパーツのみが存在しているのである。




   感覚に「私」の境界は引けるのだろうか   2000/4/16.


 視界に頼るから、「私」は世界の中に囲まれているように思える。私の肉体の外に「世界」が広がっているように見える。

 しかしこれはあくまでも自分の「視覚像」がつくりだした世界であり、自分の内部にうつしだされた世界である。私は世界に囲まれているのではなく、世界はわたしの知覚器官の内部にある。

 視覚はそういう分断と包囲という思い込みをもたらしてしまうから、目をつむって視覚なしの感覚だけで世界を感じてみたらどうだろう。

 身体の感覚には境界がない。私の肉体や皮膚の輪郭や、外部との境界線といったものは何かにさわらない限り、感じられない。

 しかも外界の音とよばれるものも、感覚の世界では境界がない。私の感覚のなかにごっちゃ煮みたいに存在している。目をつむっても、視覚の残像や感覚があるから、私の外部や距離があるという思い込みは堅固にのこるが、その残存記憶を消去してしまったら、私の中のひとつながりの感覚として並存している。視覚の境界とはまた違った感覚世界がひろがっている。

 感覚とはまたヘンなもので、体の感覚というのはふだん、たいてい意識されない。足や手や胸や腹など、いつも感覚があるというわけではない。感覚がよみがえるのは痛みや不快感などがあったときだけである。

 体の感覚というのはしょっちゅう消えているのである。私の体というのはいつも私に感じられるわけではなく、抜け落ちているわけだ。ほとんど「死んでいる!」みたいなものである。

 感覚としての私はいつも一部が消えているということは、私の境界というものも変幻自在に動いて変化しているということになるだろうか。

 私の意識というものすら、寝ているときには完全に消え去っているし、なにかに熱中や没頭しているときでも、「私」の意識はどこかに消えていってしまっている。「私」はいったいどこに行ってしまったのだろう?

 感覚からみると「私」というのは哀れな老人のぼろぼろに抜け落ちた歯みたいなもので、さらに過酷なことに最後の一本すら消えてしまう瞬間もある。(からだを意識するのは不調なときだから、むしろ意識しないほうが状態としてはよいのだけれど)

 「私」とはいったい何なのだろうか。点滅したり、抜け落ちたり、消え去ってしまう私の感覚が「私」とするのなら、私はいつもこの世をお留守にしていることになる。

 あの世から還ってくるといつも「継続した自分」がいるように思うが、私はいつでも一部が欠けているし、しょっちゅう「あの世」へ行っていることになる。

 感覚とか意識とかいうものは、じつに不可思議なものである。





     肉体の「私」と、知覚の「私」    2000/4/15.


 視覚のうえにおいては、私の肉体と外界のモノや風景、他人などは明確に区切られているように見える。モノや風景は私の「外部」に離れて存在するように思える。

 しかしこれは視覚の錯覚であり、カン違いである。外部のモノや他人はわたしの視覚像がつくりだしたあくまでもひとつの視え方である。知覚としては私の「内部」である。

 ましてや他人についてあれこれ考えたり、批評したり、腹立てたり、悲しんだりするのはまったく自己の「内部」でおこる事柄である。

 肉体で「内部/外部」と分けてしまうと、他人や外界に感情や気分を支配され、統御されることになってしまう。私の感情や気分は他人のせいでおこると思われるからだ。他人について思ったり考えたりすることは自分の支配下にあるので、他人のせいではない。

 外界のすべてのモノや出来事は自分の知覚内でおこるということ――つまり「私」のことである。どんなにかけ離れた世界のニュースも、経済界や政治界の関係ない出来事も私が知り感情をもよおすかぎり、「私」である。私に知覚される世界はすべて「私」である。
 しかしわれわれは肉体と外界を分ける習慣にすっかり慣れているので、なかなか知覚される世界がすべて「私」であるという認識が実感できないし、なじめない。

 たとえば自分の部屋の風景はどう見たって自分の肉体から離れて存在する空間のように見える。これがわたしの視覚像にすぎない、自分の内部にうつされた映像だといわれてもなかなか実感できない。家の外で聞こえる音についても同様である。

 われわれはそこまで視覚がつくる空間と距離と分離の習慣に慣らされているということだ。

 岸田秀が時間と空間についておもしろいことをいっているが、「時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する」ということだ。過去を変えたい、悔やむ気持ちが時間をつくり、「自己ならざるもの」を排斥してゆく屈辱がその容れ物としての空間を生み出したというのである。(『ものぐさ精神分析』中公文庫)

 ともかく肉体を境界に「外部」と「内部」と分ける思い込みをご破算にすることだ。知覚される世界はあまねく「私」である。「肉体」と「外部」という強固な思い込みを破壊すること。さすれば自己にまつわるさまざまなみじめさや哀しみは払拭されるかもしれない。




    「私」は存在しない      2000/4/13.


 「「私」という思考が生じて、初めて心のなかに「あなた」や「彼」や「それ」という思考が入ってくる」――これは「私は何か」と問うことを説いたラマナ・マハリシの言葉である。

 言葉がなりたつには、たとえば「左」には「右」が必要なように、「上」には「下」がないとなりたたないように、「あなた」や「彼」も「わたし」という対立項がなければ、なりたたないことをいっている。

 つまり「私」がなければ「あなた」や「それ」はなりたたないし、逆に「あなた」や「それ」がなければ「私」は存在しない、言葉としての「私」はなりたたないということだ。

 「水」と「湯」のあいだがはっきりと区切れないように、「青」と「紫」の中間色が明確に区別できないように、「頭」と「胴体」が切られて存在できないように、「私」と「彼」や「それ」の区別も正確なものではない。

 「私」というのは、「私以外のもの」をぶちぶちとちぎってはじめてなりたつ言葉のうえの「仮構」のようなものかもしれない。

 「私」というのはだいたい「肉体」と同一視している。「私は行なった」「私は存在する」「私は〜をする」といったように。「肉体が自己であると思うがゆえに、世界がそれぞれ別個の自己をもつ多種多様の肉体で構成されていると思ってしまう。」――アン・バンクロフト『20世紀の神秘思想家たち』平河出版社)

 肉体が「自己」と思うのは視覚のうえでのカン違いである。あるいは錯覚である。

 私が知覚する世界において境界や分断などない。すべて「私」である。しかし視覚のうえでは肉体や個体があるように見えるから、「私」と「彼」、「それ」という分断ができる。

 「見られている対象」は私の感覚・視覚である。「見ている私」と「見られている対象」がそれぞれ別個に存在するのではない。「見られている対象」は私の視覚・感覚である。

 「見ている私」など存在しない。私の視覚のうえに肉体や個体があるように見えるから、見ている「私」が存在するように思えてしまう。私のなかには視覚や感覚があるだけである。「私」という区切りも、「見ている私」という存在もない。

 視覚という分離・分断するものにだまされてはならない。私が知覚する世界においてはただ知覚や感覚が存在するだけである。「私の肉体」や「私」という区切り・存在があるわけではない。ただひとつながりの知覚や感覚があるだけである。




    他者に見抜かれる怖れ    2000/4/9.


 自分の本心や性格、感情が自分の意思とかかわりなく他人にもれたり、読みとられてしまうのではないかという恐怖は19世紀に生まれたといわれている。

 なぜ他者に見抜かれることを怖れるのだろうか。なぜ性格や感情を隠そうとするのだろうか。

 坂本俊生『プライバシーのドラマトゥルギー』(世界思想社)によると、伝統社会からとき放たれた個人は「私秘化」することによって個人意識をつちかっているためだという。つまり秘密や隠すことによって、自己の境界あるいは自己をつくりだしているためだという。

 伝統社会という紐帯を失った個人はアイデンティティの不確実性をうちけすために「自己」という概念もしくはその聖性を創造しなければならなくなったのである。神話的なものはその起源が隠されなければならないのである。

 またさまざまな社会的役割をもつ現代社会では、その役割にふさわしくない行動や感情はさしひかえなければならない。隠すこと、プライバシーが必要になり、またそれがもれてしまうことを怖れるようになったということだ。

 われわれは自己というものを創造するためにプライバシーを必要とし、隠すことによってつちかわれる自己の根源のために秘密漏洩を怖れることになったのだろうか。

 つまり自己なんて存在しないフィクション=想像物なのである。隠すことによってその価値が高まり、あるいは実体化や現実化がうながされるというわけである。

 他者に見抜かれる自己の怖れはじつのところ、空っぽの自己の実在性をかたちづくるための工作なのだろうか。「自己」を必死に保とうとするから、アイデンティティを維持しようとするから、隠すことと、それが漏れる怖れをもつこにとなったのだろうか。

 「自分がなくなる」ことを怖れれば怖れるほど、自己の秘密を隠さなければならないという要求や圧力は強まる。そうしないと自己や個人の脆弱さが露呈してしまうからだ。

 恐れているのは自己の感情や性格が漏れてしまうことではなくて、自己の存在がこなごなに打ち砕かれる瞬間なのかもしれない。他者に見抜かれる怖れというのは、「自分がなくなる」ことの恐怖ではないだろうか。





    「自分」を区分けすることなんてできるのか?   2000/4/9.


 自分を身体で限定してしまうのはまちがいである。自分というのは、自分が知覚するすべての世界のことだからだ。

 知り、考え、思い、感じることはすべて自分の感情や気分に帰ってくる。「自分」や「自分ではないもの」といった区分けはなんの役にもたたない。

 他人についてあれこれ考えたり、腹を立てたり、悲しんだりするのも、またニュースやうわさを聞いて驚いたり、悲しんだりするのもすべて自分の心の内のことである。自分と他人という身体の境界はいっさい関係ない。

 自分を身体で区切ってしまうと、知覚する世界はすべて自分の心の中におこり、情報と感情は自分の支配と統御のうちにあるということがわからなくなってしまう。

 自分というのは、自分のなかで、はっきりと境界づけられているものなのだろうか。「わたし」はときには「家族」になり「友達」になり「学校」や「会社」、「国家」や「地域」、「かばん」や「クツ」、「本」や「銀行通帳」に同一化されることもある。

 自我なんていうものはいくらでも伸び縮み可能なのである。同一化しているものにより自分のことのように喜んだり悲しんだりする傾向は強くなるが、同一化していないものでも同じような感情をもよおすこともある。

 こう考えると自我とか自己というものはあるのかという気がしてくる。「わたし」と「わたしではないもの」の区分けかなんかされていないのではないかと思う。

 心の中に境界なんかない。知覚される世界はすべて「わたし」である。わたしの外部のものと思っていても、その他人やニュースについて起こったり悲しんだりすることは、すべて自分の「心の内」で起こることである。「わたし」のことなのである。

 知覚する世界はすべて自分のことである。「自分」と「自分でないもの」の区別をしていると、外部と思われているものに感情や自己をふりまわされることになってしまう。わたしの外部もわたしに知覚できるかぎり、「わたし」なのである。

 「わたし」というのはいったいどこに線がひかれているのだろうか。




    自他の境界線上の怖れ      2000/4/4.


 自分の考えや不安、欲望などを他人から隠そうとすると、それが漏れてしまわないか不安になったりする。顔や身体は自分の随意にならないから、そういった秘密を外にもらしてしまうかもしれないという怖れを強める。

 そういった線上に体臭恐怖や対人恐怖、自我漏洩症候群といった病理的な現象があらわれる。隠すことのできない自分のにおいや顔、考えなどが漏れることを怖れるわけである。

 われわれの社会は自分の欲望や敵意、不安などさまざまなものを公衆上の理由から隠さなければならない社会である。隠し通せないそれらをめぐって、さまざまな葛藤や不安がくりひろげられる。

 たとえば日本の社会というのはじつは上下関係がひじょうに厳しいのだが、西洋的な平等観がタテマエでは流布されているため、その見えない侵犯をめぐっての怖れがあるのだが、それも隠さなければならない。

 ふたつのルールが並行的に社会を覆っているわけである。その矛盾や衝突に自覚的にならないから、理想と現実の衝突や葛藤がおこるのだが、その不安も隠したいという気持ちも強い。

 江戸時代の身分制度のように目上のものを畏れかしこまれというルールと、平等で対等な関係をとりむすべというルールのはざまにおいて、個人に葛藤と不安が集約されるわけである。

 その葛藤のうえに身体統御の理想がおしつけられる。上下を侵犯したムチと統御できないムチで二重に傷めつけられることになる。見えない二重のルールに縛りつけられて、個人は意味のわからない(ということは「病的」と形容される)怖れに迷い落ちることになる。

 日本社会では内輪とよそ者の境界が厳しく、あいまいだということも人に怖れを植えつける。よそ者か内輪の境界の読み取りというのはひじょうにむずかしく、よそ者の侵犯の痛手も大きい。そういう境界線上に自我境界の怖れがある。

 社会的な境界のうえでどちらの陣地や場所をふむべきか人は恐れ、また自他の境界のうえで葛藤や漏洩を恐れることになる。

 怖れるような上下関係や内輪とよそ者の地雷、また承認や評価、居場所の権力を他人をもっており、さらには怖れや不安を他人から隠さなければならない。境界線上において人はさまざまな恐れや葛藤にはさみうちにされるのである。

 自己の境界においてさまざまな病態的な葛藤が噴出するのも故なきことではない。





     自己と他者の境界線いろいろ     2000/4/3.


■他人のことを思ったり、考えたりしていると思っていても、それはすべて自分の心のなかの出来事である。対象はわたしの心と別にあるのではなく、ぜんぶわたしの心の中に含まれる。

 つまりわたしの「外側」にあるのではなく、わたしの「内側」でおこっていることである。

 他人について考えていると思っていても、すべてわたしの心のなかの出来事である。

 他人への思いは容易に自分にも転化する。あるいはぎゃくに自分の思いが他人に転化する場合もある。「あいつはバカだ」という思いは「自分はバカではないか」という思いに転化する。

 つまり「自分と「他人」の区別などないのだ。思いや考えは自分にも他人も適用される。人の悪口や批判をよくいう人は、そのようなまなざしや基準で自分をも見ているということであり、そういう関心や枠組みをもっているということであり、また自分もそうではないかという疑惑を抱えているということである。自分にいちばん当てはまることも多い。

 批判したり悪口をよくいう人に出会ったら、かれはたんに「自分のことをいっているにすぎない」、もしくは自分の心の中の世界を披露しているのだくらいに思えばいい。悪口をいって、いやな気分や最悪な気持ちになっているのは当の本人が一番である。

 「他人は自分の鏡である」ということだ。自分の姿を見ているに過ぎない。


■視覚では自他の区別は容易だが、心のなかの思考や思いの境界とはかんたんには引けない。人はなにを基準に区別しているのだろうか。

 コントロールや支配ができるか/できないかということか、もしくは所有か/非所有か、あるいは秘密を隠すか/共有するか、ということだろうか。

 自他の境界というのはマナーや作法みたいなものである。親密になると他人はどこまでも支配や侵犯や、指図、秘密の共有といったことを要求してくる。夫婦や恋人、親子、親しい友人といった関係では、自他の境界線がひじょうにむずかしくなってきて、その侵犯と境界をめぐって感情的ないさかいが起こることになる。

 心の中ではどんなことも想像できるし、思い巡らすこともできるし、そこでは自他の境界などないも同然なので他人への要求や要請はどこまでも広がってゆくことになる。親密さを増した者はどこまでも指図や秘密の共有、支配、侵犯の手をさしのべてゆくことになる。

 境界を撤廃するということは親密さや一体感を増すということであり、境界を守ったり、隠したりすることは親密さや一体感を拒否するということである。自己と他者の境界線というのはひじょうにむずかしいものである。


■人と話していて、自分と違う趣味や考えの話が出てくると、他人だから違ってあたりまえなのに、その違いを変えようとさせたり、一致させようとすることによく出会う。自分と他人の違いはそもそもない、境界などないという暗黙の構えがあるみたいである。

 会話をしているときには自他の境界線はなくなっている。自分の心のまな板で独我論ふうに語られているかのようだ。他者などいないのだ。そこで違った考えや趣味に出くわすと、変更や訂正をしなければならない、ぜひとも改めなければならないと思うようである。

 自分の心の不調和を治そうかとしているかのようだ。他人は違うという前提が抜け落ちているのである。あらためて「人は人、自分は自分」という言葉を切り出すと、かれは納得するみたいである。

 これって親密さや一体感をいだいている者は同じ考えや趣味をもっているという日本的な人間観のためなのか、それとも親密性が要求するとうぜんの同質化なのか。他人は違うのだ、違うことを許容するという前提や考えをあまりもっていないようである。


■自他の境界線といえば、自分の考えがすべて他人に知られてしまうという怖れをもつ「自我境界喪失症候群」という症状がある。

 心のなかには自他の境界線はないのだから、もしかして自分の考えや不安がもれてしまうのではないかという怖れはもちやすいかもしれない。万引きやオナニーをした子どもがだれかにばれないかと不安になれば、他人の一挙一動がそれとつながってくるように思えるものだ。

 不安や怖れが世界や他者を強力な磁場でつなげてしまうのである。いわば怖れの窓からのぞかれた現実である。他人に気づかれていないかという怖れが、他人はなんでもお見通しだという観察につながってしまうのである。

 境界をなくしてしまうというよりか、怖れを中心に強力な連想や関連の底引き網がおこってしまうのだろう。誘引したのは、秘密がもれないかとという怖れや心配である。強力になりすぎたそれはその磁場を中心に現実を強力にすくいあげてしまうのである。

 恐れの磁場では、他人は、その恐れを実証する道具になるのである。自他の境界線もその磁場ではかんぜんに融解してしまう。



消える私と時間についての断想集


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    消える私と消える時間     2000/4/23.


 「私自身と呼ぶものに最も奥深く入り込んでも、私が出会うのは、いつも、熱さや冷たさ、明るさや暗さ、愛や憎しみ、快や苦といった、ある特殊な知覚である」

 「人間とは、思いもつかぬ速さでつぎつぎと継起し、たえず変化し、動き続けるさまざまな知覚の束あるいは集合にほかならぬ」――ヒュームはいっている。(『人性論』中公バックス)

 ではそれに同一性を与えるものはなにかと問うている。それは記憶であるといっている。継続し、持続する私を保証しているのは記憶だけなのである。

 ある分裂病者はいう。「「自分というものから一刻も目を離すことができないのです。すこしでも目を離したら自分がバラバラにこわれてしまいます。」 彼は美しいもの、自分をうっとりさせるものを極端に怖れる。それに夢中になると自分が消えてなくなるからである。」(木村敏『時間と自己』(中公新書))

 またある離人症者はいう。「時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、ちっとも先へ進んで行かない。てんでばらばらでつながりのない無数のいまが、いま、いま、いま、いま、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない」

 このような時間の異常を訴える離人症者は同時にかならず自己の非存在感、自己の喪失感にも悩んでいるという。時間の感覚というのは同時に自己の存在感もつちかっているのである。

 もしかして病者の感じる感覚のほうが正しいのかもしれない。「我を忘れる」と自分はどこかに行ってしまっているし、過去も未来も地球上のどこにも存在しないといえるからだ。それらをしっかりと同一性の塊としてつなげているのは、記憶だけである。

 記憶が私の同一性を固め、時間の存在を保証しているといえる。もし記憶が抜け落ち、自己と時間のつながりをばらばらにひきはなしてしまったとしたら――。

 過去はなくなり、いまだけが現出し、記憶が保証していた私の同一性は砕け散ってしまうだろう。時間も私もばらばらに溶解してしまうのである。

 逆にいえば、同一性や時間の存在をたちあげているものは、記憶や言葉、思考であるということだ。これらのものは実在のものとしてどこにも存在しない。もはや頭の中の「虚構」や「フィクション」としか存在しない。

 しかしわれわれふつうの人間は時間や自己の実在性の感覚にまったく違和感を抱かずに生活している。なぜなんだろうか。自明性を疑うことがないからだろうか。自分の足元を見極めようとしないからだろうか。

 いちど、時間や自己の実在感から脱け出してみたい気もするが、ちょっとコワ過ぎるかもしれないな。もとの世界に帰れなくなったらどうしよう〜とか思ったりするのかな。





   消えてしまった私の時間的実体化    2000/4/24.


 時間について問うことはむつかしい。私の頭の中ではまだぜんぜん考えがまとまっていない。

 だけど仏教や神秘主義でいわれているような「時間はない」とか「いま」しか感じることがないといった考察の材料はもっている。ここから時間の非存在性を導き出したいと思っているのだが、いまいちその解き方がわからない。

 「いま」しか感じられないのはわかる。過去というのは記憶――つまり頭の中の虚構という性質としか現われてこないものであり、われわれは過去を経験したのではなく、記憶のなかでも「いま」だけしか体験していないということはなんとかわかる。

 つまりわれわれはいつも「いま」しか体験できないのだが、頭の中の想起ではそれは過去の「ひもつけ」をなされているということだ。過去の光景や風景のどこを探しても「過去」や「以前」という時間の刻印は押されていないと大森荘蔵はいっている。

 われわれは過去や昔なんか経験できず、いつも「いま」しか経験することができない。

 「いま」は一瞬ごとに消え去ってゆく。さっきの私はもういないし、すこし前の私はどこにも存在しないし、昨日会った友人は地球上のどこを探しても存在しない。いるわけなどないのだ。われわれの存在や経験というのはそういうものである。

 しかし記憶が存在しない先ほどの私を「補強」させる。「過去に私はいた」、「過去に私はたしかに〜をした」、「何時何分にこれこれのことをした」といったふうに過去の私を詳細に銘記しておこうとする。

 つまり記憶の「補強」であり、「増強」であり、ということは過去の私の「実在化」「実体化」をせっせとおこなうということである。「消えてしまった私」を記憶や過去の想起という頭のなかの作業をとおして、「実在化」「実体化」させるのである。

 なぜそんなことをするのか。記憶が「虚構性」をもつ性質であるということを忘れていたり、言語も虚構なのだがその実体化にともなっていたり、また人間社会は市場取引社会だから過去の実体化・確実化が必要だったということも考えられる。

 われわれは一瞬一瞬ごとに消えちゃうんだな〜。記憶や過去を「実体化」させてしまうのは人間社会の必要や言語の性質であったりする。そうして「ありもしない」時間や過去、およびその私の「実体化」がおこなわれることになる。頭の中の私なんかもはや「虚構」と寸分たがわない。

 時間は流れるのでも、経つのでもない。私もろとも一瞬に砕け散り、消えてなくなってしまうものである。時間を流れさせ、過去の私を実在化させるものは、頭の中の記憶や想起、言語が展開・展望させるものである。

 一瞬ごとに消え去る私は記憶や過去に注目することによってその持続性や継続性がたもたれる。もしそれに注目せずにつぎつぎに消え去る自分のみに注目したとするのなら、自己や時間がばらばらに感じられるという精神病者の世界(あるいはこれがほんらいの時間の感じ方かもしれないが)に近づくことになるのだろう。





    過去の「実体化」   2000/4/25.


 私は一瞬ごとに消え去っている。さっきの私も一時間前の私も、昨日の私もどこにも存在しない。同じようにさっきの他者もあなたも消え去っているし、昨日やおとついのあなたも世界も消え去ってしまっている。

 われわれは歩くごとにうしろの階段が奈落の底へ崩れ去ってゆくような世界に生きている。一瞬ごとに私は消え去っている。

 時間は流れるというよりか、時間は「ない」といったほうがふさわしいのかもしれない。

 しかし記憶は残る。ここから「過去」という概念が発生することになるのだろうけど、もはやこれは頭の中の「虚構」や「空想」と同じようなものになる。

 実体や実在としてはどこにも存在しなくなる。たしかに過去になにかのモノをつくったり、描いたりしたら、その創造物はのこる。だけどこれは過去や時間の存在を証明づけるものではなく、過去や時間とかということと違った別の状態かもしれないのである。

 消えてしまう私は記憶によってかつていた私を思い描く。また自分が一瞬ごとに消え去ることに疑問を感じた私は、あるいは恐れをなした私は過去のありようを想像したり、思い描くことになる。

 子どものころには自分がいない前の世界にひじょうに興味をもったりするものである。歴史や古生物、宇宙の起源などに興味がもたれるのは、自分がいない前の世界、私が消えてしまう無の状態をなんとか埋めようとするからなのだろう。

 消えてしまう私は記憶や写真、書き物や制作物などによって過去を思い描こうとする。しかしこれらはモノとしては残るが、その行為をおこなった私はもう消えてなくなってしまっている。もはや「実体」としてはどこにも存在しない頭の中だけの「虚構」や「幻想」となり果てている。

 しかしわれわれは過去の私を「実体化」させてしまう。私は消えたのではなく、過去にちゃんと実在したのだと。消えたり、虚構の産物としてあったのではなく、あたかも「実体」のようなとりあつかいを受けることになる。

 たとえば信長や秀吉のような歴史上の人物はたしかに存在したのだろうが、われわれにはもはや「虚構」や「空想」としか捉えられない。「実体」として存在しないのである。しかしわれわれはこの虚構をあたかも「実体」のように捉え勝ちである。われわれはえてして「虚構」と「実体」の区別を往々にしてなさない。

 自分に対する「虚構」と「実体」の区別も同様である。私は一瞬ごとに消え去ってしまっている。しかし「過去」の私をあたかも実体であるかのように見なしている。

 私は過去にいたのではない。消えて、なくなってしまったのである。記憶や虚構として残るのみである。なくなってしまうのはどうも了解できないし、具合も悪い。記憶では私はたしかに存在したのだからということで、過去や時間という容れ物が「発明」「創造」されることになる。

 こうして記憶は言語や概念という虚構や創造の助けを借りて過去や過去の私は実体あるものとして、時間が存在するということが観念されることになるのである。

 過去や時間というのは「壮大なフィクション」なのかもしれない。時間は流れるのではなく、「いま」だけが存在するものであり、ほかは消えたり消滅したりするものである。記憶や言語はそれを過去や時間という創造物のなかに収めてしまう。

 消滅を忘却させたのは、人間社会の取り引きや経済のためだったのだろう。経済の「帳簿」のために過去は「創造」されなくてはならなかったのである。そして自己の同一性も自明のものとして疑われることもなくなっていったのだろう。

 時間というのはみんながハマってしまった壮大なフィクションなのだろうか。虚構を実体化させてしまう言葉や想像力というのは恐ろしいものである。






    時間は存在しない     2000/4/27.


 過去があったのではない。過去の私は消えている。記憶だけがのこる。その記憶や心象をたよりに言語や想像力によってモノサシとしての時間が「仮構」される。

 時間があるのではない。記憶と現在の距離が時間という観念を編み出すのである。消えてしまった私は記憶としてのこり、それが過去となる。

 これは過去ではない。記憶である。頭のなかの心象や映像のみである。

 そしてその思い出された過去の心象も、現在の上でしか再生できない。つまり「いま」である。過去を思い出すことができるのは「いま」だけである。

 よってわれわれは「いま」しか生きることができないし、永遠に「いま」しか知らない。思い出された過去は心象のみである。過去「そのもの」ではない。

 問題は過去の「私」を実体化することである。過去の私があたかも「いる」ように、実体であるかのように思ってしまうことである。

 過去の私は消えてしまっているし、過去「そのもの」を体験することなどできないのに、あたかも過去の私が実体であるように思ったり、過去「そのもの」であると思ってしまうのである。

 いつだって過去を思い出す経験は「いま」の上でしかおこなわれない。これは過去ではない。過去を思い出している「いま」の自分におこっていることである。過去の私が苦しむことはもはやできないが、いまの私は苦しむことができる。

 勘違いしてはならない。過去が私を苦しめるのではなく、「いま」の私が苦しんでいるのである。過去「そのもの」が苦しんでいるのではない。過去ではなく、いまの自分である。

 われわれは過去や時間という観念をもつことによって、ずいぶん過去の出来事や思い出に苦しめられることになった。過去を実体化したり、過去そのものであると思いこむことによって、消えてしまった、幽霊のような記憶や心象に苦しめられることになった。

 過去や時間があったのではない。心象がのこるのみである。これは頭のなかだけの出来事である。そして過去や時間と呼ばれるものはその頭を出たところにはどこにも存在しない。消えてなくなってしまっている。

 われわれは一瞬一瞬に消えてなくなる存在である。過去も時間もない。過ちは過去の私を実体化したり、あたかも「現実」にあるかのように思うことである。

 消えてしまった私を頭のなかの心象は実体であるかのようにとりあつかい、そしてその心象がいまの上において私を苦しめる。

 私は消えてしまったのである。過去の私は幻であり、虚構であり、空想であり、頭のなかだけの心象である。消えてしまったものになぜ苦しめられる必要があるのだろうか。





    過去とは心象である   2000/4/28.


 過去とは心象である。過去「そのもの」ではない。しかも過去を思い出しているのは「いま」であって、いまの私はそれによって苦しんだり、喜んだり、嘆き悲しんだりする。

 心象に苦しめられるのである。心象はもはや現実に存在しない「幻想」や「虚構」と同じものである。

 しかそれを思い出すたびに私たちは苦しんだり、喜んだりする。もはや存在しない「夢」のようなものに一喜一憂するとはヘンな話である。

 過去とよばれるものは消えてなくなってしまった。かつての私もさっきも私もみんな消えてしまった。

 心象だけがよみがえるのである。そしてそれは過去の「よそおい」をもっているが、いま思い出し、いま一喜一憂するとするのなら、「いま」に属する事柄である。

 私たちが過去の心象や映像をあたかもいまここにあるかのように、まさに目の前にありありと存在するかのように思ったりするのは、「いま」のことだからである。

 過去を「実体化」してしまうのである。われわれは過去を思い出しているとき、それが過去や心象に過ぎないことを忘れてしまい、過去に没入し、感情的になる。それは「過去」のことではなく、「いま」思い出しているから可能な事柄である。

 過去やさっきの私はみんな消えてしまった。過去「そのもの」はなくなってしまったのである。

 それなのにわれわれはそれを実体化し、あたかも目の前にあるかのように見なして苦しめられることになる。

 消えてしまった過去の「亡霊」を実体化してしまうのである。過去やさっきの私を実体化してしまう愚かな過ちは抜きんがたくわれわれの毎日を支配している。

 それは終わった過去ではない。「いま」思い出している過去である。つまり過去ではなく、「いま」である。

 そして当の過去は一切合切、消えて、なくなってしまっているのである。消えてなくなってしまったものに、実体として存在しない心象に、なぜ苦しめられる必要があるのだろうか。

 過去の私は消えてなくなってしまったことを思うこと。そうすれば不必要な煩いも消えてなくなるということである。





    「実体化」という罠     2000/4/29.


 われわれはさまざまなものを「実体化」してしまう。どこにも存在しないものを、あたかも「現実」に存在するかのように、目の前にあるように思い違いしてしまう。

 過去もそうであるし、同様に未来もそうだし、言葉もそうだし、感情もそうである。それらはすべて「心象」や頭のなかだけ、および身体だけにあるものである。

 しかしそれが私の外部に、客観的に存在するかのようにカン違いしてしまうのが、多くの人間のおちいっている過ちである。

 それらはすべて「幽霊」や「亡霊」、「幻想」となんら変わりはないものである。幽霊が現実に存在するのだと思い込めばコワくてコワくて仕方がないものだが、信じなければ怖くもなんともなくなる。過去や未来、言葉や感情といったものもみんなそれと同じ性質のものである。

 なぜか人間は存在しないものを実体化してしまうんだな。それを消してしまうということができずに、実体化したそれらに苦しめられたり、追いつめられたりするのである。

 実体化の罠にハマるのはなぜか。心は存在しないものを現実のように見せかけるものだからだということになるだろうか。いちど心の対象にハマってしまうと、それがなまなましい現実のように感じられるからだろうか。

 もはやそれが頭の中の心象や思考であること、消すこともできるということを忘れてしまい、その世界にどっぷりと浸かってしまうのである。視野狭窄が圧倒的な力で起こるのである。

 実体化にハマってしまうと、それが「絵空事」であること、消すことができるといういちばん単純な逃げ道すら見つからなくなってしまう。心に「閉じ込められる」のである。

 実体化の「牢獄」にハマってしまった者は言葉や思考をやみくもに使ってそこから逃れようとする。しかしその方法はアリ地獄のようなものである。心象を心象で重ね、言葉で言葉を重ねても同じ過ちがくりかえされるだけで、壁がいくえにも塗り重ねられるだけである。

 脱出するいちばんかんたんな方法はそれを「消す」ことである。消してしまうという方法があることを知ることである。あっけにとられる方法だが、心の牢獄にハマった人間にはそれすら見えなくなってしまうのである。

 われわれはしょっちゅう、心を消しているのにである。なにかに没頭しているとき、運動や行動しているとき、ほかのことに気をとられているとき、といったさまざまな日常の合間にわれわれは心を消している。

 それなのに心の実体化がおこなわれると、そういう心を消すという逃げ道を見出せずに、映画館のなかで非常出口をさがしてパニックにおちいる。

 われわれはさまざまなものを「実体化」しているのである。心の中に映し出されるすべてがそうである。過去や未来、思考、言葉、感情といった心にあらわれるすべてである。

 これらは霧や蒸気のようにふっと消えてしまうものであること、このことを心にしっかりと銘記しておくことが肝要である。





    「過去」と「外界」という分け方の失敗   2000/4/30.


 「過去」と「現在」という分け方をしてしまうと、われわれは大いなる痛手を負ってしまう。なぜなら過去とは現在抱いている心象にほかならないからだ。

 つまりある時点の過去を嘆いたり、悔恨する自分はいまの自分であるということである。過去の問題を考えていると、傷つけているのは「いまの自分」ということが忘れられてしまう。「過去」の自分ではない。

 過去の自分が恥かしがったり、悲しい目に会ったのではない。過去という「概念」「分け方」のために、いまの自分が新たに、また継続して、そういう目に会っているということが見逃されてしまう。

 「過去」もクソもあるものか。そんな分け方をしてしまうためにいまの自分がおろそかにされてしまうのである。過去を思い出しているのはいまの自分である。そしていまの自分以外が思い出すことはできない。

 過去を思おうが未来を思おうが、その想起をおこなっているのは「いま」の自分しかありえない。過去や未来という分け方は必要ない。すべては「いま」の自分におこっていることだ。

 過去の自分が傷ついているのではない。思い出すごとにいまの自分が傷ついているというわけだ。過去も未来もない。想起するということはすべて「ひとつながり」である。

 「外界」と「内界」、あるいは「他人」と「私」という分け方もわれわれに大いなる過ちを与える。なぜなら外界や他人のことを思ったり、考えたりすることはすべて「私」の内部に属することだからだ。

 外界と内界が分かれているのではない。私が思うということはすべて私の内部におこることがらである。すべて「ひとつながり」である。

 しかし「私」と「他人」という分け方がされると、他人のことをあれこれ思って一喜一憂することが他人の「せい」や「責任」にされてしまう。つまり感情の原因は他人や外界のせいにされてしまうのである。

 私が思うことに「区切り」や「境界」は一切ない。他人について思うことはすべて私の内部でおこることがらであり、外界や他人のせいや責任からおこるのではない。

 他人や外界への考え方や解釈、思いや感情は自分がつくるものであり、そして消したり、忘れたりすることができるものである。これは全部、自分の支配下にあるものである。

 他人と私という分け方をしてしまうと、私の心の動きという囲いが区切られて、私の感情を乱したのは他人という「分けられた」ものに原因が帰せられてしまう。すべて「ひとつながり」の私の心に属するものである。

 われわれはすべて「ひとつながり」のものを分けてしまうから、愚かなる過ちを犯してしまうのだろう。「過去」や「他人」という分け方をしなかったら、すべて「いまの私の心象」という範囲に含まれるものが、奇妙な分け方をさせられて分断された自分自身のために苦しめられてしまう。

 言葉で分けられてあまりにも自明視されていて、実体化されているものにはよぼと注意しなければならないのだろう。





    「見ている私」と「見られているもの」   2000/5/3.


 われわれはなにかを見ているさい、「私」が見ていると思い込んでいる。しかしこういう日常の常識にたいしてたいていの仏教家は否をいっている。

 「私が見ている」のではなく、「見られているもの」があるだけだといっている。音を聞いているときも、「私」が音を聞いているのではなく、音を聞いている「体験」があるだけだといっている。

 「色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」

 その一瞬のあとに対象と「私」は分離・区別されるのだという。

 こういう思いこみは拭い難くわれわれに沈殿している。見ている「私」、聞いている「私」は絶対的に存在しているのだと思い込んでいる。この思い込みをひきはがすのはむずかしい。

 こころみに私は何冊かの本をひっぱりだす。クリシュナムルティの『自我の終焉』、鈴木大拙『禅』、ケン・ウィルバー『無境界』。それでもなかなか実感できない。

 「私」と「対象」という分離をさせるものは、おそらく視野にある私のからだの存在かもしれない。「見ている私」が継続し、実在化しているように、それは思わせる。

 肉体の感覚もそうだろう。その感覚と音や視野の対象は別個に存在するように思える。視覚の輪郭と空間も手伝って、私と対象の分断が思い込まれる。

 またわれわれはいつも「我を忘れる」体験をしている。音を聞くとき、ものを見るとき、考え事をしているとき、我を忘れている。こういう経験を忘れさせ、継続・持続した「私と対象」という区別をさせるものは、言葉や思考なのだろう。

 一瞬の忘我のあとに「私意識」を存続させる。帰ってくるといつも意識が手ぐすね引いて待っているというわけだ。

 「私意識」というのは強固なものである。対象と私を区別・分離する思い込みや自明性も強く持続しているものである。

 これを破るには、なにもしないことだとクリシュナムルティはいっている。解決したり、変革したりしようとすると、「観察者」や「思考者」という自我のはたらきをますます強めることになってしまうそうである。つまりまたもや「分離」・「分割」のワナにはまるわけだ。

 経験し、体験しているさまを、なにもせずに注意深く見守ること、そうすることによって私と対象の分離が見えてくることになるのだろう。

 「見ている私」と「見られているもの」、「音を聞いている私」と「聞こえる音」、「思考」と「思考している人」、これらはみなふたつの分断されたものではなく、同一のものである。「私」があるのではなく、ただそのひとつの「体験」があるだけである。

 そのことを実感できたとき、ひとつながりの世界が現われてくるのだろう。



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   私とは「内界」ではなく、「外界」ではないのか  2000/5/4.


 われわれはだいたい自分のからだで「内」と「外」を分けている。「私」はからだの内に属するものであり、心や感情は自分の「内側」にあると思っている。

 しかしよく考察してみると、「私」というのは「外界」のことばかりでなりたっている。目に見えるものはすべて私の外界であり、聞いている音のほとんどは外界のものであり、他人について考えたり思ったりすることはほとんど「外界」に属するものである。

 私というのはほとんど「外界」で構成されているとはヘンなものだ。われわれはしじゅう、「私」というものに関わっており、「私」を愛し、「私」を守り、「私」をかわいがり、「私」に最大限の関心と愛情をそそぐのに、「私」というのはほとんど「外界」のことがらで構成されているのである。

 私の目で見える世界からすれば、私の身体すら「外界」である。私の身体はほかのモノと同じように対象として見える。けっして「内側」から見えるものではない。

 音も外界の音ばかり聞こえる。たまにお腹が鳴る音が聞こえるくらいで、心臓の音を聞こうと思えば聞こえるが、たいがいは私の身体の外側の音ばかり聞いているし、身体の内と外で聞こえ方が違っているというわけではない。

 私の「奥」にひそんでいるのが私の「心」である。これが内側の中心とメインを占める。

 しかし心が考えているほとんどのことは外界とつながっている。自分の内界ばかりを考えるということはそうないだろう。だいたいは外界の出来事を契機にものを考えている。

 自分の「内」と「外」というのは人に話さなければ心の秘密は知られることはないという考察から生まれたのだろうが、知覚するすべてのものが「私の世界」とするのなら、心に「内」と「外」という線引きを引くことはできないだろう。

 われわれは身体で「内」と「外」を分けている。でも「私」はほとんど「外界」で占められている。「私」というのはだいたい「外界」でなりたっているのである。

 私の「内側」というのはとても貧弱である。かなり貧相で、うすいものである。

 「私」を構成するほとんどが「外界」とするのなら、私とはいったい何なのだろう。外界は「私」なのだろうか、それとも私は外界に侵蝕・侵入されすぎてしまったのだろうか、それとも「内」と「外」という区別自体がおかしいのだろうか。

 心の中に「外界」と「内界」という分け方をもちこむことがおかしいのだろう。心にはそんな区分はない。見ている対象、聞いている対象があるだけである。そこには内と外の区分はない。

 対象に集中・没頭しているときには内と外の区分はないし、「私意識」というものすら消えている。「対象」があるだけである。対象に向かっているとき、「内」と「外」という区分は消えており、私の身体の外側ばかりではなく、内側も「対象」として現れてくる。





    心的経験は心だけに閉じ込められるか?    2000/5/8.


 心や意識は私の内に閉じ込められていると、ふつうわれわれは思っている。それに対しての「外界」や「客観的な世界」が私の外にあると思っている。

 しかし私に見られたり、考えられたりする世界は、私の外側にあるのではない。それは外界の経験ではない。

 たとえば伊藤勝彦『天地有情の哲学』(ちくま学芸文庫)に例があげられているのだが、恋人といっしょ見る風景や殺気立った人たちに監禁された部屋の雰囲気というのはかなり変容してしまっている。

 酔っぱらって見える町並みも変わってみえるし、病気のときもそういうときもあるし、孤独なときや曇りのときの世界もふだんとはいくぶん違った見え方をしている。

 風景や外界というのは私の感情や気分、まわりにいる人たちの雰囲気によってそのありようを変化させるのである。

 客観的世界や外界が私の意識や身体から離れてべつにあるのではない。「世界と私は地続きに直接に接続し、間を阻むものは何もない」と大森荘蔵はいっている。

 ただわからないのは、それは感情によって内界としての世界の見え方が変容しただけなのか、それとも感情によって世界「自体」が変容してしまったのか、どちらかはわからない。

 大森荘蔵や伊藤勝彦が「世界そのものが感情的である」というとき、世界も含まれる私の心的現象内を指していっているのか、世界「そのもの」のありようも変容するといっているのか、私には混乱してよくわからない。





   西成ワールドの変容      2000/5/8.


 今日、わたしはサイクリングのとちゅうに西成を通ってきて、ひとつ気づいたことがある。

 道ばたで露天商のようなところが増えたことである。いぜんはこういった道ばたでモノを売っているような光景はそんなに見かけなかった。おそらくリサイクル商品なのだろう。粗大ゴミのなかから集めてきたような商品が売られていた。

 あちこちの公園に青ビニールのテントを見かけるようになったのも平成不況が深刻になってからで、こういうリサイクルの露店があらわれてきたのも、もう雇ってくれるようなところがなくなったということと関係あるのだろう。もう雇用されることをあきらめて青テントや露店が増えたということである。

 ゴミのリサイクルというのはこういうところからはじまるのだと思った。戦後の経済社会というのは「新品崇拝」で、中古品を「キタナイ」だとか「だれがさわったかわからないから気持ち悪い」といって排斥してきた。

 環境問題からはリサイクル社会は根づかない。中古品「嫌悪」や「忌避」といった感情が戦後のわれわれに巣食っているからだ。それは同時に自分自身が社会に認められ、新品や商品ととして価値があると見せかけたい願望とパラレルである。

 だから平等社会ではリサイクルは根づかない。みんなと同じ新品を買わなければ、私は「落ちこぼれ」や「脱落者」になってさげずまれてしまうからだ。

 不況が深刻になり、平等社会が崩れ、新階級社会がやってこようとしているいま、資本主義の底辺とよばれるところからほんとうの意味でのリサイクルははじまる。生活に切羽つまる人が増え階級社会になってこそ、はじめてリサイクル市場はできあがるのである。階級社会が歴然としてあった江戸時代にはリサイクル市場がちゃんとできあがっていたように。

 この現象がトレンドとして社会全体に広まるか、それとも西成だけの一時的な現象でとどまるかはこれからの経済が人々にどれだけ夢を与えられ、新品を渇望させられるかにかかっているのだと思う。かれらは「落ちこぼれ」たのではなく、未来の経済に過大な希望をいだけなくなった人々の内面のひとつのあらわれである。




   過去のない安らかさ      2000/5/9.


 過去は消えてなくなる。われわれが思い出す過去は、いま頭に描く心象にしかすぎない。それが現実のように迫ってきたり、悲しんだり悔いたりするのは、「いま」に属する心象だからである。「過去」というより「いま」の心象といったほうがふさわしい。過去「そのもの」はまったく消えてなくなってしまうのである。

 心象は虚構であり、たんに頭の中の表象にしか過ぎないのだから、消すこともできるし、忘れ去ることもできる。このことを実感した私は過去の心象をぽいぽいと捨て去るようになったので、ひじょうに平穏で心安らかになったと思う。

 でも過去の心象というのは隙間隙間にしのびこんでくるものである。さっきのこと、一日前のこと、何年も前のこと、めまぐるしく私の頭のドアをたたく。

 過去の心象が顔をのぞかせると思考はたちまちそれに群がって「現実」や「実体」としてそれを立ちあげようとする。つまり現実にあるかのごとく私は悲しんだり怒ったりするわけである。

 ということは過去の心象や映像がなかったら、思考や言葉は立ち上がらないといえるかもしれない。ほんと、われわれは過去をひんぱんに思い出し、そこから思考と感情の「現実化」と「実体化」をひんぱんにおこなうのである。

 なぜ過去の上映会はこう盛んになったかというと、問題の検討や解決をおこなうとするからだろう。現在の状況というのはすこし前の過去の心象を手がかりに何度も上映され、検討され、思索されるのである。もはやそれは過去であるが、いまの問題を捉えるにはその過去に頼るほかない。

 固定化した過去を手がかりに問題の発見や解決がおこなわれるのである。いま、考えはじめるとその過去は「いま」に属することになってしまうので、あたかもいま目の前に進行中の現実のように思えるが、正確なところは、いまは不断に流動し、変化し、過去は瓦解してしまっているのである。

 問題を捉えるためにはもはや死してしまった過去を再現し、死体を活かさなければならないというのはなんともヘンな話である。物事や出来事を捉えるというのは、過去でしかなせないのである。そうしてわれわれは死した過去に追われつづける。

 記憶や過去の心象というのは、もともとは快楽の記憶を反復したいがために頭の中に回線づけられたものだろう。それが問題を捉えたり、解決したりしようとしてその習慣を強力にし、そのハイウェー上に不安や怖れ、苦痛などの過去が反復することになったのだろう。

 神経症や恐怖症というのは快楽の見込みのない過去をどうしても反復してしまうものである。ここには過去の実体化や、過去の反復強迫がかかわっている。われわれがふだんおこなっている過去の呼び寄せが、悪いほうに転がるとこういう結果がもたらされるのである。

 過去というのは捨て去るのがよい。すてきですばらしい過去というものが過去反復をおこすとするのならそれも捨て去るしかないだろう。

 過去というのはたんに頭のなかの心象や表象にしか過ぎないということがわかれば、過去の反復や呪縛から解き放たれて、われわれは心安らかになれるのだろう。





    過去になぜ囚われつづけたのだろうか    2000/5/13.


 私はほんとうによく過去を反芻するタチだった。過去のことをあれこれ考えては不安になったり、悔やんだり、恥かしくなったり、こうでもないあーでもないと頭のなかをこねくりまわしていた。

 過去に囚われるのは、過去の心象が自分の意志とかかわりなく頭のなかにやってくるからである。それを捨てたり、消したりしてもよいという知恵や方法を知らないと、いつまでもその過去に囚われることになる。

 たしかに何度もくりかえされる過去の心象は重要であったり、問題があったり、解決しなければならない課題があったりするものかもしれない。

 しかしそういう過去というのは自分を脅かしたり、不安や恐怖におとしいれたり、悲しみや怒りを、とくにもよわせやすいものである。逆に自分がそういう感情を持続させているから、連想的にその過去が思い出されるということもあるのだろう。

 人間というのは苦痛な過去にかぎってよりひんぱんに思い出されるものである。恐怖症や神経症はこういう人間の性質が昂じたものだろう。

 そこには解決しなければならない問題があったり、あるいは苦痛や恐怖を避けるためには必要な記憶であるかもしれない。またはその過去は記憶か貯蔵かのなんらかの問題のためにその解釈を変更しなければならないということも考えられるだろう。

 苦痛な過去はわれわれに警報や警告を鳴らすものである。だからしょっちゅう頭のなかに襲いかかってくるのだろう。

 遠い過去だけではなく、ついさっきとか今しがたの過去もいつも思い出される。それは現在も進行中の問題の解釈や解決を図るものであったり、危険や不安を知らせるものでもある。

 しかし頭がさしだしてくる過去の心象に乗りつづけると、おそらくわれわれは苦痛や恐怖、怒りや悲しみなどの情緒にめちゃくちゃにされることだろう。よく思い出される過去が苦痛や恐怖の体験が多ければなおさらである。こうしてよりひんぱんに過去の心象に囚われやすい人は情緒の修羅場や戦場と化してしまう。

 われわれは知らなかったのである、過去は過去「そのもの」ではなく、たんに心象にすぎないこと、そしてそれは自分の意志で消したり、忘れたりすることもできるし、虚構や幻想となんら変わりはないということを。

 過去とのつきあいかたを知らないばかりにわれわれは頭が差し出してくる過去の心象にのり、苦痛な過去や恐怖をくりかえさざるをえなくなっているのである。過去の性質や過去の選択可能性などを知らないがためにわれわれは苦痛や恐怖をひきのばしてきたのである。

 過去を断ち切り、思い出す過去の量をより減らしていけば、われわれの心はより平穏で平和になる。自分を悩ませていたのはたんに「幻想」や「虚構」にしか過ぎなかったのである。こういうことがわかれば、過去の反芻という愚かな習慣に背を向けることができるだろう。



つぶやき断想集
「私」も「世界」も虚構?




   言葉の次元、存在の次元     2000/5/15.


 言葉で「わかる」ということは、頭の中の「想像」や「虚構」のうえでのことである。いくら言葉でわかったとしても、「解釈」や「捉え方」が変わるだけで、それが「虚構」という認識の上に立つことには変わりがない。

 「真理」だとか「事実」だとかの区別を問題にしているのではない。われわれは物事や出来事を捉えるさい、「想像」や「虚構」という頭の中でしか捉えられない。

 認識というのはたんに頭の中の「思い描き」にしか過ぎない。しかし人はそれを「実体化」したり、「現実化」したりして、それがあくまでも「想像」や「虚構」にしか過ぎない、頭の中の「絵空事」だという「大前提」をすっかり忘れてしまう。

 「人間の言語において、言葉は長い間――そして民衆には今もってそうなのだが――記号ではなく、それによって示される事物の真理であると思われた」――とニーチェはいっている。(榎並重行『ニーチェって何?』新泉社から)

 言葉や認識によって「わかる」ことはできるが、われわれが存在したり、世界が存在したりする流れとかありようとはまた別の話である。いくら言葉で「わかった」としても、存在していること自体を言葉でかみくだくことはできない。

 われわれは勝手に存在して、世界は勝手に存在している。言葉で「わかる」という次元とはまた別のありよう、存在の仕方をしている。

 言葉や科学で自然現象や生命現象をいくら説明できるとしても、われわれや世界が存在している次元とはまたべつのものである。説明し尽くしたとしても、存在や世界はそういう言葉や説明でなりたっているわけではない。

 「われわれに認識するよう命じるのは、恐怖の本能ではなかろうか?」とニーチェはいっている。「認識を求めるわれわれの欲求は、まさに知られているものを求める欲求、すべての見慣れぬもの、普通でないもの、疑わしいもののなかに、もはやわれわれを不安にさせることのない何かをあばこうとする意志ではないのか?」

 言葉で「わかろう」としてもそれは頭の中の「虚構」という性質から一歩も抜け出るものではない。しかもわれわれはそれの「実体化」「現実化」の世界に囚われている。

 知ろうと欲することは頭の中での「世界」をつくってしまうこと、そしてそこには抜きんがたくその世界の「実体化」「現実化」が絡んでいるのが問題である。

 「虚構世界」の実体化という作業には気をつけなければならない。言葉の認識をすべて「虚構」だとあきらめたとき、新しい認識は開けてくるのだろうか。





    風景が「感情的」になるとき      2000/5/16.


 風景や景色といったものにはもちろん「感情」はないはずである。世界は「私」の外に「客観的」に存在していると見なしているのなら、世界にはもちろん感情がないといえる。

 しかし風景というのは私の感情や気分によってさまざまな相貌を現わしている。

 いくつも思い出すことはできないのだが、私の経験では、夜の街や街並みがいかにもさみしそうや寒々しそうに見えたり、好きな人と歩いた世の街並みがぼんやりと変わって見えたり、病気のときに見た街の風景が異様に見えたり、といった体験をあげることができる。

 もっとたくさんあげられればいいのだが、風景というのは私の感情や気分によってその見え方や現われ方が変わっている。私の「心」や「感情」がそう見せているといえばかんたんだが、「客観的世界」が「私」の中の感情や気分によって変わるといえるだろうか。

 世界は私の外に、私と関わりなく存在しているはずである。私の見ている風景も私の心や気分の外側にあり、私の感情と無関係なはずである。しかし風景は私の気分によってその見え方を変えるのである。

 小説やドラマには主人公の気持ちが天候や風景に描かれることが多い。気分が沈んでいるときにはくもりや雨、気分が明るいときにはすかっと晴れた空といったように。

 われわれの日常体験は小説やドラマほど極端ではないが、場面場面では風景にわれわれの感情や気分が現れるのである。

 もし私の心や感情によって見え方が変わっているとするのなら、そのとき客観的世界はもとの姿のまま存在しているのだろうか。もちろん違うだろう。われわれはこの風景しか見ることができないのだから。

 風景や景色というのは私の感情や気分によって見え方が変わる。私の「心」の中だけの感情が変わったというよりか、風景「そのもの」、風景それ「自体」が、感情的、情動的な現れや姿をしているのである。

 風景「そのもの」が感情や情動を帯びたものとして現われているのである。

 私の「内」に閉じ込められた「心」や「感情」といった分け方が、いかに怪しいものか考えさせられる例である。





    「虚構」のバカヤローっ!      2000/5/16.


 なんだ、思考も過去も「虚構」だった。どうして思考や過去を「実体化」したり、「現実」のものと思い込んできたのだろう。

 だれも教えてくれなかったし、心の中の習慣まで他人は入ってこないということもあるだろう。他人は心の中の習慣までは立ち入らない。

 ちまたでは「虚構」と「現実」の違いは、フィクションと実生活で分けられているが、その実生活のほとんどは――思考や過去の思い出しというのは「虚構」であるということをだれも教えてくれない。

 「虚構」であることがわかれば都合が悪いのだろうか。だから「隠蔽」しようとするのだろうか。商取引や犯罪、人間関係というのは過去の実体化や絶対化がないとなりたたないものだから、という理由もあるのだろうか。

 大きな理由はやはり自然な習慣につちかわれるとこういうことになるのだろう。虚構であるという知識を与えられないと、人は思考や過去の実体化や現実化という悪夢に追われつづけ、ともに育たざるを得ないのである。

 過去を反省し、よりよい生き方や行為をめざすのが理想やよいことであったり、ものを考えたり、理性的にふるまうのがよいことであるから、いつまでも過去を反芻する習慣ができあがったということもあるだろう。

 そのおかげで過去に責め立てられたり、思考によって感情をめちゃくちゃにされたりと、いくたもの責め苦もいっしょに味わわなければならなかったわけだが。

 過去も思考も虚構であり、捨てることができるとわかれば、心は安らかになれる。

 ただ、思考と過去の虚構を知っただけでは終わりにはならない。仏教ではこの世界も心も存在しないといっているからである。この世界も思考や過去と同様、「虚構」にしか過ぎないのだろうか。

 そうだとすると、どのように「虚構」なのだろうか。知覚や世界が「虚構」であるというのはいまの私にはどうも突破できないナゾである。

 まあ、とりあえずは過去と思考の「実体化」というあやまちからは解放された。とりあえず、心安らかである。つぎにむかってガムバロウ!





    世界や私は心がつくりだした幻……?       2000/5/18.


 『大乗起信論』という仏教書はほんと理解を絶する。今回は可藤豊文『瞑想の心理学』(法蔵館)を読んでさらにナゾが深まったので、解くべき問題として抜書きしておく。

 「この世界はわれわれ自身の心が作り出した虚妄の世界である」

 「われわれが主客の認識構造の中で何かを見るという場合、実は自分自身の心を見ているのだ」

 「見るということは心があって初めて可能になったのであるから、心が消え去れば、見られる物(形相)もない」

 「心が生ずるとあらゆるもの(法)が現われてくるが、逆に心が消えると、すべてのものが消えてゆく」

 「われわれは不覚不明によって妄りに起こってくる心(念)を自分の心と見誤っている」

 「あなたの真の自己とあなたの肉体はまるで別なのだ」

 「我々の肉体は思考そのものであって、それ以外の何ものでもない。それ(肉体)は目に見える形をとった君たちの思考そのものにすぎない。思考の鎖を断つのだ。そうすれば肉体の鎖も断つことになる――リチャード・バック『かもめのジョナサン』)

 「われわれが執着してやまない肉体がほかでもないわれわれ自身の転倒した心(妄心)から生じてくるという認識は、逆に言えば、心が消え去るならば、果たして肉体(生死)などあるだろうか」


 『大乗起信論』(岩波文庫)では「一切の現象は心が妄りにはたらくことから生じる」、「一切の形あるものは本来、心にほかならないから、外界の物質的存在は真実には存在しない」、瞑想の方法では「一切の見たり、聞いたり、感じたり、認識したりするところに気をとめてはならない」という日常の経験では理解できないことがいわれている。

 「世界は存在しない」とか「心を見るな」とかいわれても、絶句ものである。世界はちゃんと私の目の前に広がっているし、意識をなくしたらそのほかにどんな認識方法があるというのだろうか。

 心も肉体も自分ではないというのもわからない。『起信論』がいうように、自分と思っていた心や肉体は自分ではないのだろうか。というと、どういうことなのだ? 肉体や心のほかに自分がどこにあるというのか?

 われわれが見ている世界そのものが存在しないのか、それとも「私」と「対象世界」を分けてしまう心が実体のないものといっているのか、それもわからない。





     私の中の二人の「私」       2000/5/20.


 べつに多重人格の話をしようというのではない。ふつうの人の話であるが、ふつうの人の「私体験」というものこそが、二つの人格に分裂しているのではないかと思われるのである。

 可藤豊文の『瞑想の心理学』にこういう一節がある。ある人が怒りに駆られて怒りを抑えようとすることについて、「怒り(客)もその人なら、それを抑えようとしているのも(主)その人であり、……決してこれらの経験の背後に、私といわれるものが存在しているのではない。……実は一つの心が分裂しているだけなのだ」といっている。

 だいたいわれわれは腹を立てていたりしたら、怒りを抑えなければならないと思うわけだが、もし怒りを抑えようとするのが「私」だとしたら、はたして怒っているのは「だれ」なのだろうか。

 「私」が怒り、「私」がそれを抑えようとすることは、二重人格のようなものである。もちろんわれわれはそれを二重人格だと考えたりしないが、われわれはしょっちゅう二人の人間を自分のなかに登場させていることになる。

 緊張しているときには緊張しないように、悲しいときには悲しい顔を他人に見せないようにしたり、よからぬ考えをしたときにはその考えを打ち消そうとしたり。

 こうして「私」という存在はかたちづくられてゆくのだろうけど、じつは可藤豊文がいっているとおり、これは一つの心が二つに分裂しているだけなのである。

 われわれは心の状態をいつもどうにかしなければ、制御・コントロールしなければと思う。そして制御する主体が「私」になる。もともとあった怒りや悲しみなどの感情は「私」ではなくて、それを認識したり制御したりする主体が「私」のようである。

 つまりもともとあった怒りや悲しみなどの感情は、私の「外」のもの、「私でないもの」と思われているのである。私の心は二つに分裂し、二重人格のようなものになる。しかしこれがふつう一般の自分の心の経験なのである。

 じつはわれわれの心の経験というのは、怒りがあったり、悲しみがあったり、視界や光景があるだけであり、音やにおいが――「私」という存在を抜きにして、「ある」だけではないだろうか。

 しかし怒りや悲しみを不断に制御しようとしているうちに「私」という存在をかたちづくってしまうことになる。

 感情や視界というのは直接に経験されるものである。「私が見ている」のではなくて、ただ「視界」があるだけであり、「私が聞いている」のではなくて、「音」があるだけであり、怒っている「私」がいるのではなくて、「怒り」があるだけである。

 そのような世界経験に制御する主体としての「私」が存在するように思えるようになる。これは一つの心が二つに分裂しているだけのようである。このヌシは「思考」である。

 思考が心を制御しなくちゃと思う。そして「私」を生み出す。でもたとえば怒りと怒りの制御は身体のなかにふたつの命令系統をつくりだすことになり、怒りに向かう筋力と、それを解除しようとする筋力のおたがいの修羅場になるのがオチである。

 思考は意志や努力でそれをとりのぞこうとする。もともとはたらいている力にさらにべつの力でそれをやめさせようとするのである。「私」という存在が実在すると思われている人の心のなかではかならずこういう力の葛藤、心の葛藤がおこなわれることになるのだろう。

 これを解決する方法として先覚者たちがいってきたことは、それに手を加えず、ただ観察したり、ながめるままにまかせておれば、勝手にしぼんだり、消えてゆくといってきた。もうひとつの命令と筋力を働かせなかったら、それらは勝手に消えてゆくもののようである。

 どうやらわれわれは直接の世界経験のうえにもうひとりの「私体験」を重ね合わせるもののようである。う〜ん、気づいてみたら、まことにヘンな話だ。





     二つに分裂するひとつの心    2000/5/21.


 私の中には「怒る人」と「それを抑える人」の二人が同居している。じつは同じひとつの心がふたつに分裂している――一人二役をこなしているようなものといえるだろう。

 もともとあった感情や思考などがあまりにも透明であり、不確かであり、それが「私」であるとは明確に名指しされないため、それを改善したり制御したりするもうひとつの継続した「私」が生み出されることになる。

 「私経験」というのはじつに透明なものである。「私」がなにかを起こそうとする前に思考は思考され、感情はおこり、行為はおこなわれている。

 これではあまりにも「私」という存在が見えにくいし、まるで仏教のいうような「空」のようであり、「私」がいないも同然である。「私」の経験はあまりに透明なのである。

 もうひとりの「私」が生み出されるのは、私を改善しようとする親や社会の目、つまり他者の眼を内面化したり、または自己の空虚さや欠陥、劣等をおぎなうために生み出されるのだろう。

 つまり「いまの状態」や「あるがまま」では許せない、変えなければならないと思う思考が、改善したり、制御しようとするもうひとりの「私」を生み出すのである。

 自分の感情や性格、来歴などを改善・制御しようとする思考・意志がもうひとりの「私」を仮構するのである。

 じっと観察してみたら、私の世界経験や行為というのはひじょうに透明で、「私」という主体が関わらなくても自然におこなわれているある意味では「不気味」なものではないかと思える。

 「私」というのはそういう透明な「私体験」のうえを塗り重ねるように存在している。

 けっきょくそれは同じひとつの心がふたつに分裂して、一人二役をこなしているにすぎない。もともとの「私経験」はもうすでに思考され、感情され、行為されている透明なものだから、そのうえにそれを改善・制御しようとするもうひとりの「私」が塗り重ねられるのである。

 はじめの「私体験」があまりにも透明なものだから、思考によってもうひとりの「私」が生み出されるということは、「私」の経験というものがどれだけ透明で無自覚的なものかということだ。だからまんまともうひとりの「私」が記憶や思考によって生み出されるのではないだろうか。

 この過ちから脱け出すためには制御や改善という思考によって解決するのではなく、これは同じひとつの心がふたつに分裂していること、一人二役をこなしているということを知り、思考や感情がひとりでにやむまでなにも手を加えずにじっとながめればいいということになるのだろう。

 仮構した「私」が改善しようとすると、その対象は注目やあるいはエネルギーがそそがれることになり、ますます強化されることになる。自然にやむのを待つこと、もうひとりの「私」を生みださないためにはこの方法しか残されていないのだろう。



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    歯止めなき「暴力信仰」      00/5/22.


 暴力の力によってむりやり階層づけられ、従わされるような力の構造が、私の通った80年代の校内暴力盛んなころの中学にあった。「牧歌的」であった小学校に比べ、中学は暴力に支配される、それはホントーに戦々恐々なところだった。

 暴力がヒエラルキーや人々の順位を決めるのである。暴力的な価値で人を支配したり、優越したりするような価値観を私はもちあわせていなかったため、この中学社会というのはほんと信じられない世界だった。

 高校にあがるとそういう暴力秩序というものはなく、私はほっとしたし、会社での人間関係も暴力なんてみじんもなく、また人を平気で侮辱したり、傷つけたりするような風土(中学にはあった)はてんでなかったので安心した。

 いまの中学はどうなのだろうか。やっぱり暴力信仰とか暴力ヒエラルキーとかはあるのだろうか。さいきんの多発する少年犯罪とかを見ていると、やっぱりこの暴力信仰がその根にあるのではないかと思う。暴力で優越したり、勝とうとする価値観が肉体の発達する中学生のころに芽生えるのである。

 この社会は経済的な価値観の強い社会であり、そこでは将来や取引的な関係から暴力や騒乱はおトクではないから控えられているし、学校というのは知識の価値観あるいは権力によって抑えられているから、少年たちはいきおい暴力的な価値観で対抗もしくは優越の目印を勝ちとるほかない。

 落ちこぼれたり、経済や知識の価値観にさいしょから反抗している者たちは暴力的な価値観でみずからの優越性を誇示するのである。知識の価値観では従順なよい子になるしかないし、経済的な優越は学校では示せないし、したがって中学では暴力的な優越が伸長してくる。

 暴力のルールでは人を傷つけたり、暴力で人をどれだけ恐れさせ、服従させられるかということが勝者の印である。したがって暴力ゲーム上では平和ゲームとか友好ゲームといった方法やスキルをもった者には信じられない残酷さや非道さがあらわれてくることになる。

 人を傷つけたり、暴力で痛めつけることが、ゲームの主要な競技である。それがあってはじめて優越や支配は可能になるからだ。人を傷つけるのが平気な恐ろしい人ではなくて、それこそが優越や支配ゲームのための主要なツールなのである。

 そういう暴力ゲームが学校の垣根をこえてひろく一般社会の問題、犯罪へとひろがっていったのが昨今の状況のようである。

 問題の前哨としてもちろん経済的な夢の崩落や優等生的ないきかたの見返りのなさがあるし、ショーアップとイベント化された犯罪ニュース、そして人々の「有名願望」への胎動という土壌が重なっているわけであるが。

 大人たちは経済ゲームや知識ゲームにばりばりに縛られてすっかりおとなしく、弱く、無力な存在に訓化されてしまった。その弱さに暴力ゲームが入ってくると、われわれはまったく無力であることを思い知らされる。

 この暴力で優越・支配する暴力ゲームは、経済ゲームが弱まったいま、どれだけ進展してくることになるのか、もし社会一般にひろがることになれば、私にとってはあの恐ろしい中学社会の悪夢の再来になるということで、とてもたまらない。





   世界は「どのように」幻なのだろうか       00/5/25.


 仏教ではこの世界は幻だという。どのような意味で幻というのだろうか。心を消し去れば世界も消滅するという考え方はどうも理解を絶する。

 思考とか過去とかが幻であるというのはわかる。これは捨てたり、消したりすれば、消滅してしまう性質のものであるからだ。

 仏教ではこの知覚世界すら幻であるといっているのだろうか。この世界が幻であるとは日常の感覚からは理解できない。

 視覚あるいは脳がつくった映像であるという意味で幻というのだろうか。しかしこの知覚世界の現実感とか実体感というのはなかなか拭えない。

 目に見える世界はどうしても実体あるものとして広がっているように思える。手でさわれば対象はちゃんとそこにあるし、ぶつかれば痛みなり衝撃を感じる。

 人間の視覚がつくった世界=映像という意味でたしかに幻だ。この視覚世界は人間という知覚主体にしか見えない世界である。コウモリやモグラには違った世界が見えるはずだ。

 この実体感をなくすにはどうしたらいいのだろう。触覚の感覚が世界の幻想感をはばむ。触覚と視覚のふたつの知覚がおぎないあって拭えない実体感をもたらしている。

 触覚がモノや世界の実体感の確実な根拠となっているようである。この実体感はたしかになかなか突破できない。

 しかし触覚というのは意外なことだが、長く触れているとその感覚がなくなってしまう。思考や心象に気をとられたり、ほかの感覚・触覚に気をとられたりして、いつの間にかその触感は忘れ去られてしまっている。

 という意味で幻ともいえなくはない。触覚というのは注意を向けたり、心を傾けたときだけ存在するという意味では幻だといえるかもしれない。

 視覚世界も幻といえる例としては、目をつむったときや考え事をしているときには視覚世界は見えなくなっているし、眠っているときには存在しなくなる。こういう例をクローズ・アップしてくるとたしかに幻想性があらわれる。

 意識もいつも厳然と確実にあるように思えるが、なにかに熱中していたり夢中になっているときには「我」を忘れているし、眠っているときには存在しなくなる。

 意識することが「私」が存在する確実な根拠とするのなら、眠っているときいったい「私」はどこに行ってしまったのか。当たり前すぎてバカらしいが、考えてみたら不思議である。

 ふだんの日常の意識では世界は確実に厳然と、現実感をもって存在しているように思える。しかしいくつかの例をもちだしてくると、おぼろげで、あやうい幻に近い性質もあらわれてくる。こういう意味で世界は幻なのだろうか。





     肉体や心が自己でないとするのなら。。。    00/5/26.


 仏教では、われわれが当たり前としている肉体や心が自己でないといっている。この世界も心がつくりだした虚妄であるといっている。心を消し去れば、この世界も消え去るということである。

 われわれの日常意識ではこの世界のほかに世界があるなんて信じられないし、心や肉体が自己でないとするなら、いったいほかにどこに自己があるというのか、想像すらもできない。

 もうこうなったら、あとはSFとか幻想小説の世界に迷い込むしかない。仏教やキリスト教では極楽地獄もしくは天国地獄という世界を設定しているが、わたしにはこれがたんに絵空事か、なんらかの比喩であると捉えているから、この世界は論外である。

 ただ日常意識とちがった意識、ほかの世界体験はあるとは思っている。人類が何千年もかけて一大ウソっぱちの宗教をやりつづけるとは思えないし、人々を支配するためだけにありもしないし、できもしない体験をずっと語りつづけるとはどうも思えない。

 この問題はこれでおいておくことにして、知覚の壁を消滅させるとどんな世界があらわれるのだろうか。スウェーデンボルグとかシュタイナーの霊的世界といったものがあらわれるのだろうか。こうなったら、これも極楽地獄同様かなり絵空事っぽくなってしまう。

 トランス・パーソナルのグロフは物理的境界や時間の境界を超えてさまざまな存在に一体化する体験ができると大マジメにいっているが、これも行き過ぎだなあ。。。

 われわれは日常の意識と知覚世界しか知らないし、体験もしたことがないので、これ以外の世界をいわれるとまったく信じようがないし、絵空事とか空想だとしか思えない。

 これ以上の追求は神秘的すぎて空想っぽくなりすぎてしまうなあ。日常意識しか知らない自分にとってはこれ以上の話はやっぱり絵空事にしか思えないから、考えても信じられないものである。

 ここでとめておいて、肉体や心が自己ではない、世界は幻であるという観察をつづけるしかないのだろう。これ以上の話は体験しない者が考えても、おとぎ話で終わりである。オソマツ。





    私が仏教に入ってきた道      00/5/28.


 さいきんはまたもや仏教書に帰ってきたが、私はてんで仏教徒ではない。お寺に講話を聞きに行ったり、参禅したということはまるでない。本を読むだけである。信者ではないが、仏教の知識というのはすごいものがあると思っている。

 そもそも信者とそうでないものの区別がわからない。科学観を信じることが「信者」とよばれないように、べつに仏教知識を奉ずるからといってひとくちに信者とはいえないというものだ。

 仏教書を読むときにはあえて無視する箇所もいっぱいある。道徳的な教えなんかは無視するし、釈迦への崇拝の言葉や空想的な絵巻きみたいなところなんかは飛ばし読みする。現代語訳の本が少ないのも抵抗をひじょうに大きくする。

 要は、心理学とか哲学的なことだけを吸収したいわけである。その点では仏教とは学ぶところがたくさんある。でも逆にそういった言説が少ないところは残念であるが。もうすこし心理学とか哲学的に集中するかたちで書かれていたらいいなと思うこともある。

 私が仏教書を読むようになったきっかけは、ウェイン・ダイアーとかノーマン・ピールなどの自己啓発書である。「思考が現実をつくる」という考え方にひじょうに興味をもったわけだ。

 そういうときにいまはベストセラーとなったリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』という「思考は捨てることができる」といった本に出会った。

 このことをもっと追究しようと思っても、西洋系の心理学ではあまりないのである。マルクス・アウレーリウスとかエピクテトスといった二千年前のローマ時代のストア哲学者だけである。

 「思考とはなにか」と現代でひじょうに鋭く追究したのはクリシュナムルティである。またバグワン・シュリ・ラジニーシなどがいる。トランスパーソナルのケン・ウィルバー『無境界』という本はいまだに読み返すことの多い名著である。

 「思考を捨てる」と古来いってきたのは仏教であり、そういう知恵をもとめて私は仏教書を読むことになった。中公バックスの『大乗経典』や『バラモン経典・原始経典』、岩波文庫の『般若心経』、『大乗起信論』などである。

 安く、現代語訳で手に入る仏教書というのはそんなに多くないのである。いまだに漢文読みくだしとか古文みたいなかたちで出回っているのは、腹立たしいというか、損失というか、旧態依然とした体質が抜けきっていないのだと思う。

 だからなかなか仏教書の多くにあたることはできないでいる。いまは『法華経』とか『浄土三部経』とかを読もうとしているが、どれだけうることがあるのかはちょっと怪しそうである。

 わたしがいちばん読みたいのは心理学とか哲学的な言葉で語った仏教書のようなもので、残念ながらそういう本も多くはない。「無念」である。





   知覚世界の「実体感」を崩すには?      00/5/29.


 知覚世界の「実体感」をとりのぞくにはどうしたらいいのだろうか。とくに視覚世界の「実体感」には拭いがたいものがある。

 どうしても私の目の前に「実体」として物や空間がひろがっているように見える。この思い込みとか実体感というものを拭い去るのは容易ではない。

 どうしたらこれを「幻」だとか「幻想」だとか、もしくは自分の心がつくりだしたもの、自分の心が投影されたものにすぎないといった「空観」を得ることができるのだろうか。

 かなりむずかしい。仏教ではあまり説明してくれないで舌足らずだし、西洋的な言説みたいに納得したり実感できるまで説明してくれるということはほとんどない。

 では西洋的な知識を探ろうと、知覚心理学とか認知心理学といった本を書店でぱらぱらとめくってみても、なんだかとってもとっつきにくく、興味もわきそうにもない。

 私はこれまで仏教で言っていることを、納得したり実感するために西洋的な知識や説明にたよってきた。仏教書だけではどうも心の底から実感したり、納得したりすることができないのだ。

 思考の虚構性や消去ということに関してはリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』におおいに学んだし、時間は存在しない心象であるということを学んだのは、中島義道の『時間を哲学する』や大森荘蔵の『時は流れず』であったりした。

 社会の常識や世界観の「共同幻想」については岸田秀とか竹田青嗣、ニーチェとかリオタールなんかに学ぶところがおおいにあった。

 仏教のいっていることでは実感できずに、西洋的な心理学や哲学の言説や説明を借りないとどうも納得できないのである。西洋的な言説というのはどこまでも言葉で言い尽くそうとするから、理解がひじょうに助かるのである。

 それにしても今回は認知心理学とか知覚心理学というのはなんだかさっぱりわからなそうである。実験とか図であるとかあまりにも「理工系」すぎて、私にはどれだけ理解できるか怪しそうだし、興味すらもてるかも怪しい。

 ということで視覚世界の実体感をとりのぞく知恵が見つけられない。う〜ん、どうしたらいいのだろう……? 色即是空、空即是色。





   言葉や観念を世界「そのもの」と思う過ち     00/5/30.


 私は長らく言葉や観念を世界「そのもの」であるという思いこみをもってきた。頭で思い描いたものにすぎないのに、それを世界「そのもの」であると混同してきた。

 これがたんに頭のなかの想像や虚構、あるいは観念にすぎないと気づくまで、岸田秀の「唯幻論」とかニーチェとかリオタールおよび言語学とかの本をたくさん読まなければならなかった。

 このことがわかるようになるのはかんたんそうであり、またひじょうにむずかしくもある。どっぷりと頭の世界につかり、それが「事実」や「実体」であると思いこむ生活を長らくつづけていると、なかなかそれを客観的に見たり、距離をおいて見るということができなくなるからだ。

 このことに関してだいたいは問題ない。生活はそれでできるし、社会生活は言葉の実体化によって成り立っているところがあるからだ。

 ただあまり実体化に追い立てられ過ぎると、恐怖や悲しみに襲われすぎたり、社会規範や社会常識にがっちりと捕えられて身動きできなくなってしまったりしてしまうこともある。

 でもたいがいの人はこういう思い込みをもったまま生きているのだろうか。学校で習ったことは頭のなかの虚構ですよと学校で教えてもらった記憶はないし、世間一般の人にそういうことを諭されたこともない。

 私は岸田秀などによって社会は「共同幻想」であるということを教えてもらったが、それを日常的な生活や毎日、または人間関係や自己についても応用できるということがまったくできていなかった。

 だからリチャード・カールソンが『楽天主義セラピー』で、思考や言葉自体が「虚構」であるといっているのを読んですごく衝撃をうけた。毎日いろんなことを考えているが、私はこれらのかなりの部分は「実体化」していたのである。だから悲しみや不安などの感情に支配されることが多くあったのである。

 感情は思考することによって起こるから、ゆえに思考を消すことによって感情は消え去る。つまりこれは言葉や思考の「虚構性」「幻想性」をいっているわけである。思考を消し去れば、感情に悩まされることはない。

 ただわれわれが多く悩むのは過去の出来事である。過去の想起から思考がつながり、感情が襲いかかってくる。過去の想起は勝手に頭のなかに出てきて、思考と手を携えて「実体化」と感情の荒波の落とし穴にわれわれを落とし込む。

 過去も思考同様、心象にすぎなく、消せばなくなるものであり、またこれは「過去」ではなく、「現在」の私が考えていることであり、現在の私がそれによって感情を荒らされることになる。ししかしそれはたんなる虚構であり、虚構は消し去ればいいのである。

 ここまでのことは自分にとってだいぶ「実感」できることになったが、仏教では「存在」や「知覚」も「空」や「無」であるといっている。このことがなかなか私には理解できないのである。

 もしかしてこれまでの「空観」してゆく経緯のなかになんらかのヒントがあると思って、もう一度過去をたどりなおしてみたが、どうだろうか? 

 存在や知覚は、言葉や思考のように頭のなかの虚構だというように「頭」の中に放り込んで事足れるわけではないのである。知覚は私の外にひろがっているように見える。心がつくりだしたものだといっても、容易に実感できるものではない。

 う〜ん、知覚世界や存在はどのように空や幻想、虚構なのだろうか……? だりか教えちくり〜。。。



ツブヤキ断想集
ひとつながりと現象の世界




     場所と「想像力」    00/5/31.


 自転車をこいでいるとき、ふっと気づいた。私はぜんぜん前に進んでいないのではないか、まわりの景色や風景がこちらに向っているだけではないのか、と。

 まるでゲームセンターのカーゲームのように座席はぜんぜん動かず、景色が流れているのと同じである。ロード・ランナーに景色がついたのと同じだ。

 歩くのも同様で、私は前に進んだり、歩いたりしていると思っているが、ほんとうのところ私は一歩も歩いていないのではないか。景色や場所がこちらに向ってくるだけではないのだろうか。私はちっとも前に「進んで」いないのである。

 われわれはよくどこか遠くへ行きたいと思う。ここでないどこかに行けば、心が解き放たれるのではないかと思ったりする。

 しかし私は一歩も前に進まない。場所や景色が変わるだけである。「私」はずっとついてくるし、視野の中心に居座りつづけている。

 さて私は思いあまって電車にとびのって遠くに行くとする。しかし私は遠くに行ったのではない。場所や景色が変わっただけである。「遠くにきた」という思い、想像が、解放感をもたらすのである。

 「遠くにきた」というのは想像力である。「私自身」は一歩も動いていない。場所や景色が変わっただけである。私は「時間」をかけて、「距離」をきたのではない。それは現時点、現在地点からの「想像力」にすぎない。

 われわれはどこかに移動するさい、ほとんどを「想像力」で補っている。「遠くにきた」、「どれくらいの距離をきた」とか思うが、それはすべて想像力である。

 私は遠くにきたのでもなく、距離を動いたのでもない。場所や景色が変わっただけである。私は一歩も動いていない。視野の中心から私はてんで動いていない。

 場所や距離は想像力が補ったものである。私はずっと視野の中心にいる。つまり私の見る世界の中心にいる。想像力だけが距離や遠くという思いを仮構する。その想像力のゆえんによって私は解放感をもたらされる。つまり想像力が解放をもたらすのである。

 同じような例として、明日から会社だからいやだなぁと思ったりする。しかし「明日は永遠にこない」。

 なぜなら明日とは今日の時点から想像するものでしかないからだ。明日仕事に行くのはいやだなという思いは今日の時点の思いである。想像力である。そして明日という想像物によって、いまの感情が不快なものになる。

 つまり明日とは今日のある時点の想像である。いま、思っている時点に明日があるのではない。いま、思っている時点のうえにおいては、明日をじっさいに体験することは絶対にできない。明日をナマに経験した人はこの地球上にだれもいない。なぜなら人は「今日のいま」しか生きることができないからだ。

 このことで問題になっているのは明日の仕事が問題なのではなく、いまの気持ちである。「いま」の気持ちが「明日」を思うことによって不快になっている。しかし明日はたんに想像力にしか過ぎない。想像力が私の気持ちを不快なものにするのである。

 想像力とは恐ろしい魔物である。われわれはさまざまな日常の体験を想像力で補っている。おそらくかなりの量や部分が想像力で補われていて、われわれは想像力かそうでないかの区別をほとんどしていない。

 そして「現実化」された想像力によって、われわれは苦しんだり、悲しんだり、あるいは解放感を与えられたりして、いらぬ苦労や心配を背負い込んでいるのだろう。「想像力」に気をつけろ!ということである。





     想像力と無      00/6/1.


 われわれの認識はほとんど想像力で補われている。そしてその想像物が想像であることをわれわれは区別しない。ほとんど実体や現実にあるものだと思われている。

 自分がどこにいるかという空間認識やどのくらいの距離をきたかという認識もほぼ想像力であるし、いま何時だとか、さっきからどのくらいの時間がたったかという時間認識も想像力で補われている。

 われわれの認識のほとんどの空隙は想像力で補われているのである。もしこれがたんに想像や空想にすぎない、虚無である、なんにもないと、この認識補助をすべて捨て去ってしまったら、われわれの認識はどのようになるのだろうか。

 私は地図や空間にマッピングされたある地点にいるのではなく、ただ私に見える風景がすべてであり、時間の感覚も時間経過の感覚もなく、ただ「いま」があるだけである。

 仮構された想像力というものを疑ってみる必要があるのだろう。これを実体や現実だと思いこんでしまうと、ウソいつわりの世界や虚構、夢うつつの世界との区別ができなくなってしまう。

 想像力は映画や小説のフィクションの世界だけではない。われわれの日常の現実認識の多くも想像力によって捉えられている。想像力がなければ、なにひとつ世界を認識できないかもしれない。

 言葉や思考というのもすべて「想像力」である。これらはぜんぶ「実体」としてあるものではなく、消してしまえば、なくなってしまう幻影のようなものである。

 しかしわれわれは言葉や思考によって捉えたものを「現実」「事実」だと思い込んでいる。これらはすべて一歩引き下がって見るのなら、客観的に見るのなら、すべて「想像」である。

 われわれの社会では想像や空想というのはフィクションという狭い世界に閉じ込められているが、事実はわれわれの認識自体のほとんどが想像力によってしか捉えられていないのである。

 実体化されていた想像力をとりのぞき、消し去ってしまえば、われわれはどんな世界に対面することになるのだろうか。

 想像力の範囲を広めるついでに記憶も想像力に近い、あるいは性質が似ているといえなくもないのではないかと思う。記憶もやはり頭のなかだけの心象や表象であり、実体としてはどこにも存在しないものである。

 もしかしてわれわれの知覚――ものを見たり、音を聞いたり、匂いをかいだりといった知覚作用も想像力の一種といえるかもしれない。外界を認識するために外界のありようを捉えようとするのは想像力とはたらきが似ている。知覚も想像力が作為した世界なのだろうか。

 想像力の世界を消し去ること、あるいは想像力の区別をすること。そうすれば、「ほんとう」の世界の姿があらわれてくるかもしれない。





    目に見えるものは「私の眼」である     00/6/6.


 ふつうわれわれは目に見える世界と眼は分けてあるものと思っている。しかし視界は眼がなければ見えないし、眼をつむってしまえば視野は見えなくなる。

 視界というのは眼と別個にあるのではなくて、見えている世界も「眼」である、あるいは「眼の一部」であるといえるだろう。眼球なしの視野はありえないし、視界だけがあって眼は空白であるという状態はありえない。

 視界というのはこのような意味で「わたしの眼」であるといえるだろう。わたしの肉体の外に離れて、私と別個にあるのではなく、それは「私の眼」である。

 エックハルトはいっている。「見るという働きの内では、目即木材つまり、この木材はわたしの目である、と真に言うことができるほどひとつとなる」と。(『エックハルト説教集』岩波文庫)

 眼と視界は離れて存在するのではない。一方がなければ片方はなく、両方がそろわなれば眼はちゃんと機能しない。視界は私の外側にあるのではなく、「私の眼」である。

 眼と視界はべつべつにあるのではなく、ひとつである。見られている世界はわたしの眼である。ひとつではなく、二つであると分けてしまうから、客観的世界という思い込みがひとり歩きする。

 視界がわたしの眼であるといえるように、視界は意識がなければ見えないから「私の心」ともいえる。視界は私の眼や心と離れて見えるものではないからだ。

 さあ、視界も「私の眼」である、または「私の心」であるといえるようになったが、見えているモノや光景、人物が、「私」や「私の心」であるというのはにわかには理解しがたい。

 肉体や思考、感情とはまた別のありかたを示すからだ。あまりにもよそよそしく、私にとってはまさに不随意であり、大部分がコントロール不能なものである。だからこそ、それが「私」であるという認識は捨てられるともいえる。

 しかし視界や環境なしの私がありえないように、それらは私と不可分のものである。視界や環境はかなり「控え目」な私である。

 視界と私の眼を分けてしまうことによって起こる過ちは眼や心がつくりだしたものを美醜や好悪といった判別で追いかけ回したり、逃れたりすることである。つまり眼がつくりだしたものを私は追い回し、心がつくりだしたものを心が追い回すことになってしまう。

 心は犬が自分のしっぽを追ってぐるぐる回りつづけるような目にあっているということだ。すべては私の眼や心がつくりだした世界であることを知らないから、心がふたつに分裂して心が心を追い回すような目に会ってしまうのである。

 私の内で現象する世界や物事はすべてわたしの心がつくりだした虚構や幻想であり、それゆえ「私」であり、「私の心」である。だから過ちに陥らないためになにものにも執着するなと仏教はいってきたのだろう。





    心を離れて世界は存在しない      00/6/8.


 心を離れて世界は存在しない。心がなければ、世界は見られない。寝ているときには世界はなくなっているし、死んでしまっても同様である。だから世界は心であるといえる。

 眼を離れて視界は存在しない。眼がなければ、なにも見えない。だから視界は眼であるといえる。

 耳を離れて音は聞こえない。耳がなければ、なにも聞こえない。だから音は私の耳であるといえる。

 においや味も同様である。鼻がなければにおいはかげないし、舌がなければ味は感じられない。だからにおいは鼻であるといえるし、味は舌であるといえる。

 視界や音、においは私と離れて外部や外側にあると思っているが、じつは眼や耳、鼻と離れてあるのではない。それらの知覚器官がなければ感じられないものであり、外側のものというよりか、いや内側のものであるというか、内とも外ともいえないものである。

 私の外側にあるように思えるが、私の内にあるというか、あるいは内とも外ともいえないようなあり方をしている。

 われわれは眼や耳を外側から見たかたちで捉えがちであるが、自分自身から見れば、それは視野や音としてあらわれているが、眼や耳と離れてはありえないので眼や耳といえるのである。

 私の外側の人物やモノはやはり同様である。私の心や眼を離れて存在しない。私の心や眼といえる。

 私の中で現象するすべては「私」や「私の心」であるといえる。私や私の心を離れて存在するわけではないからだ。

 しかし他人やモノ、視界や音などは、私の肉体や内側のあり方とはまたべつのありようをしている。「私」とはいいがたいあり方である。

 だから私と分けられ、「区別」しやすい。だけど、それらは私の心や眼、耳と離れてあるわけではないので、私や私の心、眼や耳だといえる。私と対象、私と外界といったように分けられるものではない。「ひとつながり」である。

 私に知覚される現象のすべては「私」であり、「私の心」であり、または「私」ともいいがたいものである。他人やモノ、風景、音はどうしても「私」とはいえるものではない。しかし「私」や「私の心」を離れてあるわけではないのである。

 そういう「分け方」や「区分」を捨ててしまえば、ただ「ひとつながり」の世界だけが残ることになる。





    ひとつながりの世界      00/6/10.


 仏教では世界はひとつながりである、世界はひとつだという。このことを実感することが悟りだという。

 つながりの世界について岡野守也は『唯識のすすめ』(NHKブックス)のなかで、「花」はそれ自身のみであるのではなく、枝や幹、根とつながっていて、水や養分、太陽の光とつながっているからひとつであるという説明をしている。

 仏教の縁起をこういう生態的な言葉で説明されると違和感はあるが、ひじょうに理解しやすかった。単体を見てゆくと、この世界につながりのないものはないだろう。

 ただそこから実感とか融合するような世界観というのはなかなか出てこないようには思うが。しかし入り口とか気づきの端緒としてはひじょうに興味をひかれるものだった。

 われわれは人やモノ、自分と外界といったように、分けられたり、区切られたりしたばらばらの世界に生きている。どう見たってモノはモノ、他人は他人としてばらばらに存在しているように思えるというのがふつうの人の感覚というものだ。

 この世界がすべてつながっている、世界はひとつであるという見方にはなかなか飛躍できない。

 物質的な説明ではたしかにつながりは理解できるが、実感にはなかなかおよばない。たとえば私のからだは外界の水や空気、食べ物で構成されているし、地球の気候や重力と無関係に存在できるわけがない。

 しかしこういう説明は物質的な単体観から抜け出せないし、概念的な理解にとどまってしまうだろう。実感や体感にはおよばないのである。言葉や心象を利用する以上は無理のないことだが。でも理解への糸口に近づける一歩になる。

 ところでひとつながりの世界とは私に知覚される世界はすべて私の心と離れてありえない、という意味でのひとつなのか、それとも私と離れた客観的世界でもつながっているという意味でひつとながりなのか、すこし気になった。

 もちろんこの世界は私の心を離れてありえないと仏教ではいっているので問題外の疑問なのかもしれないが、心と世界がつながっているという理解だけでいいのだろうか。

 世界はひとつながりである、ひとつであるという見方はなかなか気になる。こういう側面に注意深くなって、理解を深めたいと思う。





    モノではなく、現象し変化している世界     00/6/12.


 われわれは実体としてあるモノや固体としてあるモノ、ばらばらに分離したモノの世界に囲まれていると思っている。まあ日常の感覚ではこれがふつうである。

 でもどうやら世界をモノの集まりと捉える見方は誤りのようである。世界は「現象」や「変化」の集まりだと捉えたほうがより実状に近いようである。

 現象や変化があきらかに現れる代表的なものは雲や風や煙、火、雨、水、といったものである。これらは一瞬に現れ、また一時的にすぐ変化し、形を変えてゆくものである。じつのところ世界のおおよそのものはこのようなあり方をしている。

 ところがわれわれのまわりにある環境というのは、持続的にずっと同じ形やモノとして存在するものに多く囲まれている。たとえば道路や家、机やイス、服やかばん、また人間や私もそうである。

 現象や変化しつづけているようには見えない。ただ長期的には崩れたり、はがれたり、錆びたり、破れたり、壊れたりして、変化をこうむらないものはない。という意味でこれらも現象や変化しているものだと捉えることができるだろう。

 われわれの世界というのは現象や変化のるつぼである。形あるものはやがてその形を変え、生成したものはやがて消えてゆく。世界をこのように捉えるほうが実状に近く、またはるかに苦悩や苦痛をひきずらない認識をもてるはずである。(無常観に感傷的にならなければ)

 固定的なモノに囲まれた世界観にわれわれが捉えられるのは、ある現象を同一のモノ、ほかから切り離された一体のモノと捉えるほうが生物としては生きやすかったという理由があげられるだろう。

 現象や変化を一回きりのもの、二度とないもの、同一でないものと見なしてしまえば、生きることが容易ならざるものになるのはとうぜんのことである。

 ただし、それが行き過ぎるのも問題である。それによって人間は「固定的なもの」、「変化しないもの」、「永遠なもの」、といったものを求めてしまうがゆえにこの現象・変化の世界の苦悩に引き裂かれてしまうのである。

 言葉はまたその固定化に多大な貢献をなした。現象・変化しているものにたいしても「名詞」を冠することによってその「実体化」や「継続化」を印象づけてしまう。たとえば、「こぶし」、「いなずま」、「波」「うず」「騒音」などは一時的なものだが、あたかも継続的なモノがありそうな印象を与えてしまう。

 また変化や現象は雷や風、いなずま、雨などがそうであるようにたくさんの要因、現象がつながってあらわれている。言葉はそこからあたかも「固体」であるかのようにまわりの現象からそれを切り離してしまうのである。

 この世界のいかなる物体やモノも変化しないものはない。たとえ短期的・中期的には変化しないものであっても、変化は見えないところに侵蝕し、確実に変化をもたらしている。

 この世界のありようは瞬間的な現象がいちばん如実にあらわしていると捉えたほうがよいようである。物体や人間というのはそのヴァリエーションのひとつのあらわれである。

 「私」という人間も一個の継続した固体とあるというよりか、さまざまな現象や変化のあらわれだと捉えたほうがよいようである。歳をとったり、気分が違っていたりして、変わらない自分はいない。

 人間の関係や人生の状態、社会のありよう、といったものも変わらないものはなにもひとつとしてない。永続的・固定的なありかたを求めようとするのは、この現象・変化の世界ではおよそお門違いというものであり、苦悩や悲痛をもたらすのみである。

 一回きり、二度とないもの、同一でないもの、といったこの現象世界の側面に注意深くなることが必要のようである。





   「現象する世界」とそれを押しとどめるもの    00/6/13.


 この世界は固定したもの、変わらない同じもので構成されているというよりか、一時的で二度とないもの、同一でないものの現象が生起する世界であると見るほうが実状に近いようである。

 音というのはその代表的なものだ。音は一時的で二度とないもので、一度聞いたものをそっくり同じに聞くことはできない。この世界はそういった現象によって構成されている。

 動くものに注目してみても、そのことがよくわかる。雲や風、歩く人、走る車、そういったものを見ると過去の姿、過去にあった場所を二度と再現することもできないし、とどめることもできず、去ってゆくものである。

 人間や自分というものもそうである。かつての幼少期の私と大人の私は違うし、さっきの私の気分といまの私の気分は同一のものではない。いまの私の興味や関心はさっきのものとはまったく同一であるとはいいがたい。

 人との関係もそうである。友情や愛情、親子や家族の関係、といったもので変わらないものはない。

 こういう一時的、変化する世界に住んでいる以上、われわれもこういう現象性に身をまかせたほうがよいのだが、どうも人間はこの流れに抵抗するのが習い性のようである。

 変わらない幸福やいつまでもつづく平穏、ヒビの入らない人間関係といったものを求める。変わらないものはないのにそういった固定的・永続的なものを求めてしまうがゆえに苦悩や悲痛の叫び声をあげる。

 われわれの頭の中はその典型である。終わってしまい、二度と帰ってこない過去に限って、われわれは何度も何度も思い出し、あれこれ考え、悩み悲しみ怒るのである。

 一時的で二度と帰ってこない現象の世界なのに、その一度きりの現象をすんなりと、こだわりなく、流すことができないのである。そのためにわれわれは苦悩し悲哀するのである。

 まわりの聞こえるなにげない音をとりもどそうとしたり、もう一度聞こうとする人はそういないが、そういう不可能な試みを、人々はえてして愛着があり、願ってやまない幸福や平穏の領域になると、是が非でもおこなってしまうのである。

 音や動くもののようにわれわれの人生や経験というのは一時的なものであり、二度と同じものでないと見なしたほうが、この世界では苦悩しなくてすむというものである。

 音や動くもの、流れるものといったものはわれわれの人生の手本ということができる。「風のように、雲のように、水のよう」に、とどまることなく、流れてゆけばいいのである。




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    人の感情を害することを恐れること     00/6/14.


 さいきん歯医者に通っているのだが、ほとんどが欠けている歯の抜歯を断るのをなかなかいいだせなかった。そこの歯医者は抜歯をあたりまえと考えていて、抜かない努力などそもそも念頭にすらないところだったので、いいにくかったのである。(そもそも患者の意見など聞く気もないのもあったが)

 いってみたら案の定、その歯医者さんは憮然としていた。治療方針うんぬんとか医者と患者関係のことより、私はその人の感情を害したことがいちばん気かがりだった。

 私というのは人の感情を害することをもっとも怖れ、ひたすらそうならないように人との衝突や感情の波風を荒立てることを避けている。人のマイナス感情を極端に恐れているのである。

 そのために自分が主張しなければならないことや意見の相違を押しとどめたり、物事のとり決めを相手側にゆずったりすることが多々ある。

 まあ意見やとり決めは自分がゆずればなんの問題もないからいいけど、他人のマイナス感情の発生を極端に恐れる性質というのは問題である。いちど発生すれば、とりつく島もないと思ってそこにいたるまでの予防策にかなりの心身をついやすのである。

 まあ私の人格というのはおおよそその予防線上に形成されたものと、おおげさにいえばいってよいだろう。「他人の感情を害さないための自分」ともいえるかもしれない。

 感情を害さないように人に気配りをしようとすると、まったく際限がなくなる。どこまでもどこまでも他人の顔色や気分や、考えていること、思っていることを注意深く、繊細に配慮しなければならなくなる。

 そもそも自分と関係のないことで他人が不機嫌になっていたとしても、私は自分がその人の感情を害したような気分、もしくは責任があると思うようになってしまうのである。でもわかるわけなどないのである。

 どこからか他人の感情の配慮を捨てる線引きが必要なようである。感情の配慮など際限がなく、他人の感情に全責任を負うというのはまるで不可能である。他人の感情は他人のものであり、上機嫌不機嫌はその人の責任にある。

 配慮し過ぎるのは問題である。どこで捨てなければならない。さもないと不機嫌さの感情で他人に操作されることになってしまうし、いうべきこと、いわなければならないことも、感情を害することを恐れていえなくなってしまう。

 世の中には人の感情を害しても、断固としていわなければならないこと、いうべきことというのはあるはずである。そのときには他人の感情はあまり配慮すべきはないだろうし、関係の崩壊にも気を配るべきではないのだろう。

                  *
 ところで私のように他人の感情を害することを極端に恐れる人間がいるいっぽう、反対側には他人の感情を害して喜んだり、困らせたりしてうれしがる人がいる。いじめである。また性格の悪い人やストーカーというのもそうだろう。

 たぶん相補的に存在しているのだろう。主題は他人の感情である。際限なき配慮の裏側には他人の感情への配慮放棄と責任を自分で負わせるという構造がある。

 「感情はだれの責任か」ということが根底にある問題なのだろう。いやな気分になったのは「他人のせい」だと見なす認識の社会では、人は際限なく他人の感情に配慮をおこなわなければならなくなる。その反対に感情の責任を他人に転嫁できない、自分に封じ込めてしまういじめがあるというわけだ。

 認知療法や東洋思想がいっているように感情は自分の思考や説明スタイルがつくりだしたもので、他人に責任はないと見なす考え方がひろく社会いっぱんに浸透する必要があるのかもしれない。





     「いつわりのリアリティ       00/6/15.


 われわれが毎日考えたり、思ったりすることは、「いつわりのリアリティ」である。これは「現実」にあるのではないし、実際にあるわけでもない。

 あくまでも「心象」や「言語」が創造した「絵空事」にしか過ぎない。

 しかしそれが「現実感」をもつようになるのは、頭で考えたり思ったりしたことに感情や気分がついてくるからである。怒りや悲しみが起こるから、「現実」のように思ってしまう。

 感情をもよわせるのは、思考や過去の心象や解釈である。思考というのはもちろん実体としてはどこにも存在しないものであるし、過去というのは過ぎてしまえば、いっさい存在しなくなってしまうものである。

 いずれも実体としてはどこにも存在しないものである。そして感情というのはどこにも存在しない、「虚構の産物」によって生み出されるものなのである。

 われわれの「リアリティ」というのは、まったくどこにも存在しないものによって生み出されるのである。すでに過ぎ去り、言葉や思考という頭の中だけにあるものに創出されるのである。これはまったく「いつわりのリアリティ」である。

 小説や映画というのはまったくどこにも存在しない虚構の産物であるが、われわれはこの虚構のリアリティにしっかりと感動したり、怒ったり、悲しんだりする。

 日常の経験もこれとひとつも変わらない。しかし日常の物語はすべて自分が、言葉や解釈によって「創作」して、「物語」っているわけである。人はそういう「解釈主体」である自分という「語り手」をふだん意識していないだけなのである。

 心象や思考というのは、自分が意図したわけではないのに、頭の中につぎつぎとわきあがってくる。その心象や思考のままに考えたり、思ったりすることを乗せてゆくと、「いつわりのリアリティ」の「リアルさ」と「迫力」はどんどん増してゆき、怒ったり悲しんだりの悲喜劇にふりまわされることになる。

 「いつわりのリアリティ」にだまされないためには、心象や思考を「絵空事」だと相手にしないことである。虚構や思考を軽蔑すればいい。

 そういう習慣を長くつづけると、心は静まってきて、「いつわりのリアリティ」や思考の饗宴というのはだいぶ遠景にしりぞいてゆく。思考のバカ騒ぎも収まってゆく。

 おそらくこういう静かな心のほうがよい状態なのだろう。「いつわり」の「まやかし」の騒がしさは遠くに去ったのだから。





    「鳥」が鳴くのではなく、「鳴く音」があるだけである    00/6/17.


 鎌田茂雄『華厳の思想』(講談社学術文庫)にこういう一節がある。

 「「ホトトギス鳴く」というのは、ホトトギスがいて鳴くという動詞がつくのではない。鳴くという現実があって主語としてホトトギスがあとからつく。絶対の現実は「鳴く」というところにある。ギャーッと鳴いた、それが絶対の現実で、それを分解するとホトトギスが出てくる」

 「竹が裂けたのではなく、裂けたという絶対現実の世界がある。そのあとで概念で組み立てると、「竹が裂けた」となる。裂けたというところだけが真の現実で、それを言葉でもって媒介すると主語の「竹が」生まれて、「裂けた」という述語が加わっていく」

 われわれは鳥の鳴き声を聞くと瞬時に「鳥が鳴いている」と思う。しかし「鳥」というのはあとでつけたした言葉や説明である。鳴き声だけがわれわれには聞こえている。

 われわれは音を瞬時に聞き「分ける」。言葉や記憶、心象が一瞬にして、音の原因や発生源を出してくる。

 あまりにも自明に音の主語を思い浮かべるが、ほんとうのところは、われわれには「音」が聞こえるだけである。「鳥」だと見なす心の作用は、その音自体にはない。

 想像力や記憶、言葉がそれを補っているわけだが、それも一瞬に判断・分別できるわけだが、実際に聞いているのは「ただ」の音だけである。

 われわれの心の作用というのは、驚くほど巧妙である。判断や分別していることすら気づかせずにナマの現実を遮ってしまう。瞬時に音の「主語」をわけもなく推察している。

 雨音にしろ、車の音、電車の音、風の音など、われわれはすぐその音がなんの音かわかる。でもわれわれに聞こえているのは、なんの音か分別する前の音だけである。

 そういう音を聞いたとき、宇宙世界が破れ、悟りが開けるということである。う〜ん、それにしてもわれわれの「分別心」というのはとてつもなく素早いのは感嘆ものである。

 聞き分けたり、分別することが、絶対現実の世界を遮る「想像力」=「絵空事」であるというのはなかなか気づけないであろう事実である。




    仏教の森でつんのめり!       00/6/18.


 数多くある仏教思想のなかで、いまのところ私が興味のあるのはやはり、理論的な唯識や華厳といったものである。心理や世界観についての理論的な言説に興味がある。

 でも仏教書というのは、だいたい本屋にならんでいるのは一般的な道徳とか生き方が前面に出された本が多い。こういう本というのはどうも理屈っぽい私の趣向にあわない。

 おもな経典とかもなかなか手に入りにくい。全集とか高い本になり勝ちだったり、書店では見つけにくかったりする。岩波文庫では何冊かはおもな経典があるが、現代語訳がなかったりして読めなかったりする。

 仏教の理論的なことを学ぼうとしても、読みたいテクストが手に入りにくいのである。しかも私が知りたいと思うテーマ一つにしぼった本というのもなかなか見つけにくい。入り口と先につづく通路が、せっかく興味があっても、つづかないのである。

 経典についても、はじめはなかなか記憶に残らなかったが、だんだんと著者がだれだとか、どの学問の本かもわかりだしてきたのだけど、その当の本に当たれないというのはひじょうに残念だ。

 日本の仏教というのは理屈っぽいことより、念仏や坐禅によって悟ろうとする単純な方に流れてきたそうである。それがいまでは寺めぐりだとか仏像を拝むだけだとか、道徳的な諭しといった、私にはあまり感心しない仏教のイメージができあがっていったのだろう。

 仏教というのは掘り起こせば、心理学的にも哲学的にもズコイことをいっていると思う。ただそういう本がなかなか手に入りにくいし、たしかに理論的なことを学ぼうにもよけいな言説がたくさん費やされているし、これじゃあ観光・葬式産業になるか、そっぽを向かれるしかないよ。

 日本人の知的レベルは上がったはずだし、心理学とか哲学に興味をもつ人も増えてきたはずだから、理論的な仏教も復興されていいはずなのにと思うのだけど。多くの人が流れていた戦後の経済信仰も終わったことだし。

 でもその前に日本人には宗教アレルギーがことさら強い。私だって数年前までは宗教なんて大キライだったし、親が念仏なんか唱えだしたりしたらやめさせていた。さらにオウム真理教の事件は宗教アレルギーにさらに拍車をかけたことだし。

 ほんとうのところ日本人というのは宗教アレルギーではなく、知的探求心の禁止や抑制がいっぱんの人たちに浸透しているのではないかと勘ぐられる。知ろうとする好奇心がだれかに禁止されているみたいである。アニメやオタクが嫌われる偏狭さと同様である。

 まあいろいろ障害はあるけれど、私の気まぐれな興味がつづくかぎり仏教の森を散策してみたいと思っている。仏教の世界はあまりにも広大で歴史的にもとてつもなく長い時間をへているので、私が知っているのはほんのわずかなことだけだ。





      お寺とお経と仏像と           00/6/19.


 お寺をめぐったり、仏像を拝んだりする意味が私にはさっぱりわからない。たんなる場所とか建築物だとか木の像くらいにしか思えない。どうして一般の人たちはそういう意味のわからない行為とか信仰をもつことができるのだろうか。

 お経にしても、漢文なんて意味もわからないものを読んだり、並べたりして、なんの意味があるというのか。『般若心経』にしても漢文だったら、たしかにいかめしく、荘厳な感じがするが、意味がわからなかったらなんの役にもたたないじゃないか。現代語訳で読んでみてはじめてその内容には驚かされた。

 仏教というのはちゃんとした現代語で読んでみると、ひじょうに内容の深い、意味のある、論理的・心理学的・哲学的なことを語っているものである。

 だけどそういう書物は漢文や古文であらわされ、一般の人たちの目にはとどかないところにしまわれ、かれらは意味のわからない外国語のお経を聞かされ、建築物や木の像をありがただって拝んだり、ながめたりしているだけだ。

 なんでこんな転倒した世界ができあがっているのだろう。学ぶべきは経典の内容や意味であるはずなのに外国語でそれは読まれ、木の建物や像をありがたがって拝んでいる。

 私は大阪に住んでいるから仏教名所には比較的かんたんに行くことができる。高野山にしろ、四天王寺にしろ、比叡山とか東大寺とかには一度は行っている。さっぱり意味はわからない。木の家とか人形を見てきて、さあなんだったのかなと思うくらいだ。

 こういう状況になったのは、日本仏教の念仏、浄土、禅などの単純化のせいなのか、それとも一般の人たちの知的レベルが低かったせいか、あるいは西洋知識に押されてこうなったのだろうか。

 まあ建物とか像をありがたがるのはあまりいい傾向だとは思えない。経典が読まれないのは人々がそこまで深刻な悩みをかかえていない、そこそこ幸せだったと捉えることもできる。

 私のように理論的・心理的に仏教を知りたいものにとってはちょっと不満だし、経典がちゃんと読めるかたちで手に入るのが理想的であるが、まったくそういう道が閉ざされているわけではないし、探せば見つかるようだからまあいいとしよう。



つぶやき断想集
一滴のしずくの中の全宇宙




    道徳嫌いと宗教アレルギー     00/6/20.


 われわれが宗教家や慈善家の説く道徳をうさんくさく思ったり、信じられなかったりするのは、そういった道徳が支配の道具として利用されてきたからだ。キレイな道徳を説く輩は、その裏で人々を支配や利用しているに違いないとわれわれは思いこむ。

 善いことや人を悪く言わないことといった道徳は、一方では支配者にとってひじょうに都合のよい盲従者や従順な民衆をうみだす。道徳というのは支配者や権力者に都合よく貢献する支配のテクノロジーになってきたわけだ。戦時中の記憶もその反面教師となってきた。

 だからわれわれは人並み以上に善行をしたくなかったり、人を信じたくないと思ったり、道徳を説く宗教にアレルギーを感じたりして、そして人々は道徳を説くことをやめてアンチ・モラルでアノミーな社会をつくりだしてきた。

 反動としてはたしかにそのとおりだが、かといって道徳なき社会や人々がよい社会をつくれるとはとても思えない。ひじょうにむずかしいところだ。

 道徳や倫理が支配のテクノロジーとして利用されてきたのは不幸な歴史だ。「よいことをして」いたら、支配者に蹂躪されていたとは、だれもが道徳に不信をもつほかない。

 いまでは道徳を説く人は、人々を操り、支配する暴虐者と同義になった。これまでの歴史がそういう結果を招来させたのだ。道徳が支配のテクノロジーに利用されたのはものすごく残念なことだし、しかし道徳のなかには支配と服従のしくみが含まれているのは否めない。

 だが、かといってわれわれは道徳のすべてを捨て去るわけにはゆかない。道徳の教義が説かれなくなった社会はやはり人々は思いやりをもたず、ばらばらになり、したがって対立を増す。

 仏教やほかの宗教にも道徳というカーテンがなければ、ひじょうに鋭い哲学や心理学があることがわかるのだが、入り口の道徳によって人々はとびっきりの拒絶反応をおこしてしまう。

 また、宗教家が道徳的になれというのはじつは他人に思ったり、することはすべて自分の心の中のこと、すべて自分であるということだからなのだが、道徳嫌いの人にはこういうことが見えずに他人を嫌い、怒り、そのために自分を傷つけ、対立を深めているわけである。

 われわれはうち棄ててしまった道徳の中から、もう一度、支配と服従の道具に利用されない道徳を再発見してくる必要があるようである。

 道徳はエゴイズム観点からも自分のためにはよいものなのである。いきなり道徳を前面に出されると拒絶反応をおこすが、結果的にはよいものであるという説明が現代人には必要なのだろう。

 ただ支配と服従に利用されることは極力警戒するべきであり、その方法や予防策が確立されることが肝要なのだろう。





      道徳と暴虐     00/6/23.


 道徳的になれば、たいていの人は思いやりややさしさで返してくれる。しかし道徳的であることにつけこんで、悪意や暴虐の限りを尽くしてくる人もいる。

 いじめに見られるように怒らない人や弱いと見なされている人がそのターゲットになる。この中には道徳的な人も含まれるだろう。現代では道徳的な部分が狙われるのである。

 しかしこれはもちろん現代だけの問題ではなく、道徳的になろうとした人たちはそれを説く聖職者に利用されたり、支配されたりして、これに怒った人たちが近代という神なき時代を築いたといえるし、道徳的な国は他国の侵略にさらされただろうし、道徳というのは見方によっては弱さと愚鈍さをひきだしてくるようだ。

 宗教によって説かれた道徳は時の支配者や為政者にとって民衆を盲従させる都合のよいテクノロジーとなってきた。戦争中はお国のために死ねという道徳が説かれた。

 おかげでわれわれは道徳が大嫌いである。また道徳的であろうとすることはいじめられたり、利用・支配、搾取されることであり、弱くなったりバカを見ることになった。

 道徳と同義である宗教は、カネをむしりとられるか、頭を空っぽにした盲従者の巣窟であるとTVがしょっちゅう宣伝している。

 食うか食われるかである。なめられるか、なめるかである。いじめられるか、いじめるかである。世の中はこういうふうになってしまった。

 道徳的であることは、この強者と勝者の勝つ世の中では損な役割ばかり押しつけられる。

 道徳的・宗教的な人間はそれでもそれを忍耐の機会であるとか、忍苦の試しであるとかいう。どこまでも許し、水の流すのがよいことであり、それはたしかに心の平安には一理あるが、現代はこれにつけこんで増長する輩がうようよいる時代である。

 道徳的な人間はどこまで耐えられるか。だいたい現代では怒りや態度が、暴力や暴虐の節度や抑制をうながすひとつの境界となっている。つまり怒りを目印に節度が決まってくる。だからどこまでも許す人間は節度を相手に知らせないということになる。

 道徳はたしかに自分の心にはよい結果をもたらすし、道徳にみたされた社会はたしかにここちよいだろうが、道徳の指標だけでこの世を渡ってゆくことはできない。

 器用な使い分けが必要なときもあるのだろう。道徳のルールが利く人と利かない人には別種の対応が必要なのかもしれない。かならずしもすべての人を傷つけたくないとか、いやな思いをさせたくないという一本気な道徳は、残念ながら通用しないのだろう。

 怒りや言葉という看板を掲げなければならないときもある。社会のある人は、道徳ではなく、怒りや態度を目印に行動を決め、律している人もいる。道徳的にあるにこしたことはないが、通用しないときにそれなりの対応が必要なのだろう。





     『華厳経』の世界観       00/6/25.


 「一つの毛穴に、無数の仏の国が美しく飾られて永遠に存在している。……一つの微粒子の中に、一切の微粒子に等しい数の小さな国土がすべて入っている」

 「微小な世界が広大な世界であり、広大な世界が微小な世界であり、……一つの世界が無数の世界であり、無数の世界が一つの世界であり……」

 「長い劫が短い劫であり、短い劫が長い劫であり、……無量の劫が一瞬間であり、一瞬間が無量の劫であり、……」(木村清孝『華厳経をよむ』から)

 『華厳経』ではこのような壮大な世界観が説かれている。「一の中に多があり、多の中に一があり、一も多も互いに相入し合って無礙自在であり、しかも一は一であり、多は多であり、それぞれがその本来のあり方を保っている世界が説かれている。」(小林道憲『宗教をどう生きるか』)

 どういうこっちゃなんだろう? すごい世界観が語られているようなのだが、まったく理解に苦しむ。理解したくて『華厳経』関連の本を読むけど、まだまだてんで理解が足りない。

 こういう万物はつながり、融合し、連続し、相互連関し合い、ひとつにつながった世界のことを「事事無礙法界」という。このことを岡野守也は「区別はできるが、分離はできないひとつながりの世界」であるといっている。

 われわれのふつうの世界観というのはモノや私、肉体といった固体として独立、分離したものに囲まれていると思っているわけだが、世界のありようはこのようなものではないという。ひとつに溶け合った世界がほんとうのありようだという。

 まあたしかにまわりの環境や世界を離れて私は存在しないし、どんなモノもほかから独立してあるわけではない。だけどわれわれの実感としては個々のモノはばらばらに引き離されて存在しているように見えるというのがほんとうのところだ。

 このバターのように融け合った世界をどうやったら理解したり、実感したりすることができるのだろうか。まったく仏教の世界観や自我観というのは人騒がせだ。てんで理解できない知識をぶらさげておいて、つまりナゾをかけておいて、なかなか理解に至らしてくれない。

 でもこういう融け合った世界観というものを自分に実感させてゆくことはとても大事なことなのだろう。ばらばらに分けてしまうと、その断片にしがみついて、同じ自分の一部を責めたり、怒ったり、傷つけたりして、みずからを苦しめることになるのだ。

 世界をばらばらのパーツに分けてしまうこと、ひきちぎってしまうこと、こういう世界の見方というのは改めるべきなのだろう。

 われわれは宇宙の果てのことはわからないが、「もし宇宙の彼方がないとすれば、日常的な状況は存続し得ないし、もし宇宙の彼方がもち去られてしまったら、われわれの空間や幾何学的形状の概念は、いっさい意味をなさなくなる。

 われわれの日常の体験は、きわめて細かいところまで、雄大な宇宙と密接につながっており、両者が分離していると考えるのは、もはや不可能に近い」と天文学者のフレッド・ホイルはいっている。(カプラ『タオ自然学』)





    区別のない、ひとつに融けあった世界      00/6/27.


 こないだから『華厳経』のひとつに融けあった世界のことを実感しようと四苦八苦しているが、どうもなかなか実感にいたらない。融けあっているいくつかの例をむりやりひっぱりだしてくるしかない。

 まずは私が立ったり、座ったりするためには床や地面がないとそうすることはできないし、地面は地球のあらゆるところ、深部につながっているし、私というのは地面や地球の深部がないと存在しえない、切り離すことができないということができるだろう。

 私が生きるためにはとうぜん空気が必要になる。空気がない私は生きることができない。ゆえに空気は私であるといえる。空気は私の中に吸い込まれ、血液や栄養分となって私のからだにとって不可欠の要素となる。

 空気は植物のうみだす二酸化炭素によってつくられ、ゆえに植物は空気と分かれてあるのではないし、植物は光や太陽によって光合成をおこなうので、それらと切り離されて存在できるわけではないのでひとつであるし、この地球上の大気のなかには人間のつくった化学物質やガスなどが含まれ、ときには放射能などがまきちらされ、一体化した不可分のありようをかたちづくっている。

 宇宙の果てはわれわれには知りようがないが、それがなければわれわれも地球も存在することができない。ゆえにわれわれは宇宙の果てと切り離されて存在するわけではなく、ひとつである。

 空間的なことを考えてみたが、時間的にも同じことで、私が存在するには親や祖父母がいなければ私は生まれることはなかったし、たくさんの祖先がいなければ、とうぜんわたしはいなかった。私一人が独立して、孤立して、ひとりで生まれて死んでゆくわけではない。

 こんにちのわれわれの文明生活はたくさんの先人の発明や創造によってうみだされたものであり、かれらなしにこの生活を享受できているわけではない。歴史上のかれらとわれわれは一体である。そして未来の人たちも同様だろう。われわれがいなければ、われわれが生き、子孫を育てなければかれらは存在しえないだろう。

 われわれは現代、ひじょうに孤立した、独立したモノに囲まれ、ほかのコトから孤立したような生き方をしている。ひとつのモノや私はまわりから切り離され、孤立し、ほかとつながりがなく、溶け合っていないような捉え方・考え方をしている。

 融けあっていたり、つながりあっている世界観を伝えられても、にわかには実感しがたい。モノはモノでほかからまったく独立しているし、私は私で、ほかの人や出来事とまったく関係のないように思い込んでいる。

 しかし世界のどれひとつとして、まわりからまったく切り離されて、孤立して存在できるわけではない。すべては他方がなければ存在しえず、つながっており、ひとつであり、分離できないといえるだろう。

 ひとつに融けあった境地を知ることが仏教では悟りというが、こういうつながりあった、ひとつの世界を実感することはとても大事なことなのだろう。





    一滴のしずくの中の全宇宙?      00/6/30.


 やっぱりわからない。『華厳経』でいわれる一滴のしずくの中に全宇宙が含まれ、一瞬の中に永遠が含まれるという話である。

 たとえば、まわりのどんなモノを見たって全宇宙が含まれるようにとても思われない。境界はなく、すべてはつながっているとしても、わたしに見えるのは知覚の限られた範囲だけである。

 一瞬の中に永遠があるといったって、われわれはいまの一瞬を見るだけで、過去も未来も見ることができない。

 たしかに私が存在するのは祖先や親がずっと歴史上につながってきたから存在しているといえるから、私の中には過去の永劫の時間が凝縮されているとはいえるかもしれない。

 しかし私が知りうるのは生まれてこのかたの記憶だけであり、永遠の記憶は私には思い浮かばない。全宇宙なんてとんでもない話で、私が見たり聞いたりすることができる範囲は知覚の限られた範囲だけである。

 たしかにこの全世界がつながっているのなら、私の知覚できる範囲もこの全宇宙につながっており、その一端ではあるといえるが、私はやはり全宇宙を見ることも知ることもできない。

 『華厳経』や悟りの体験、神秘体験では全世界はつながっており、一体であり、全宇宙を見ることができるようなことをいっている。なぜそんなことが可能なのだろうか。

 これはとうぜん肉体のもつ知覚の範囲では捉えられない話である。知覚は一点の場所に釘づけられおり、それを中心にしてしか物事を知覚できない。人間にはこの知覚手段しかもちえないはずである。

 いったいどうやって世界との一体感を感じたり、全宇宙を知ることができるというのか。

 知覚には捉えられない世界を人間はほんとうに知ることができるのだろうか。記憶や知覚を超えた認識手段を人間はほんとうに蔵しているのだろうか。





    荘子の万物斉同説        00/7/2.


 華厳の世界観に似ているといえば、老荘思想である。荘子が説くところによれば、「かれ」という概念は「これ」から生じ、「これ」という概念は「かれ」という対立者から生まれ、たがいに依存しあい、これらはすべて相対的な対立にすきず、絶対的なものではないということである。

 こういう対立を消失した無差別の境地からみれば、「天地は一本の指であるといえるし、万物は一頭の馬であるともいえるのである」。(『老子・荘子』中公バックス)

 この境地からは有と無の差別さえ、その実在が疑わしいし、大小の差別など問題にならないという。

 「だから天下には、秋のけだものの毛さきの末より大きいものはなく、泰山は小さいものだとか、幼くて死んだ子どもがいちばん長生きをし、七百歳まで生きた彭祖は若死にをした、などという逆説も可能である」

 「さらにつきつめていえば、永遠の大地も、わがつかのまの人生とひとしく、かず知れない万物も、われひとりにひとしい、ということもできよう。このようにして、すべては一つである」

 この表現は華厳の一即多、多即一の思想とひじょうに似ている。華厳の一滴の水の全宇宙、一瞬の永遠、一念の三千世界という論理は、じつのところ荘子のように「逆説」の意味でいっているのだろうか。

 言葉なんて一方がなければ他方がなりたたず、他方がなければ一方はないといったように、たえず比較の上でしかなりたたない。そういう言葉の無意味さを悟らせるには大には小が含まれ、小は大であるといった言葉の破壊的な論理をもちだしてきているだけなのだろうか。

 華厳思想は実在の世界を語っているのではなく、あくまでもそれを語るさいの言葉を問題にしているのだろうか。これは世界観ではなく、言語学なのか。言語を破壊するための言語論なのか。

 世界の実在としてあまり真に受ける言葉ではなくて、言葉をうち棄てるための逆説なのだろうか。

 といっても言葉を捨てたところですぐに万物斉同の世界、「一」の世界があらわれてくるわけでは、やっぱりない。たぶん無意識のところにも世界を対立差別してしまうはたらきが深く根づいており、また物事を瞬時に分別してしまうはたらきも強くのこる。この習慣が消え去るのは容易ではない。

 それにしても華厳の世界観というのはただ言葉の破壊をめざしたものなのだろうか。だとしたら世界観の知識を追求する愉しみがなくなってしまう。私はもう少し言葉と観念で「戯論」を追究したい。







    「認識」はつくらないほうがいいのか?     00/7/7.


 われわれは日常のさまざまなことに見解や解釈、意見をもつ。好き嫌いやらこれはこういうことだとか、あの人はこうしたとか、いま私はこういう状態にいるだとか、さまざまな思いや考えをもつ。

 でも解釈や見解というのは、自分を苦しめたり、怒りや悲しみにおとしいれたり、傷つけたりする大元・起源になるものである。解釈や分別をすることによって、みずからをみずから苛むのである。

 というふうに考えるのなら解釈や見解を捨てるに越したことはない。見解や解釈がなければ、なんにも苦しめられることもないし、心は清浄である。

 しかしとうぜん解釈や分別なしで人が生きれるか、行為も選択もできないのではないかと疑問に感ずることだろう。

 でも、意外と解釈とか見解とかなくても、人は行為や判断をおこなうことができる。あまり考えなくても人はりっぱに生きていけるものだ。直観や自然な流れに任せてもよいのかもしれない。

 分別や解釈、見解というのは、行為や生きてゆく流れとはまた別のものだという感じがする。生にとっては余計な傍流に近いものなのかもしれない。はっきりとは言い切ることはできないが、あんがい、そういうことも言えるのではないかと思う。

 分別や解釈というのはそれをもつとたちまち、自分を苦しめ、傷つけたりすることが多すぎるように思う。

 分別や解釈は感情と直結している。つまりそれらの見解をもつとたちまち怒りや悲しみなどの種々の感情がわきおこる。もしそれがマイナスの感情なら、いっそ見解などもたないほうがマシなのではないかと思う。

 解釈や見解をもつと、それを物語り化してしまい、現状を固定化してしまう認識をつくってしまう。捨て去れば存在しない「現実」が、そこでは、つき崩しがたい「現実」としてみずからに迫ってきてしまうことになってしまう。

 解釈や見解というのは、あくまでもひとつの考え方、捉え方にしか過ぎない。消してしまえば、存在しない、どこにもないものである。しかしそれを絶対の現実と思い込んでしまうとき、人はみずからがつくった「解釈の牢獄」、あるいは「心の牢獄」に閉じ込められてしまうことになる。

 心は心でその脱出と解決を計ろうとするが、たいがいは存在しないものを存在していると思いこむ悪循環にはまりこみ、泥を泥で拭いとろうとし、ますます汚れ、傷つくことになってしまう。

 認識なんかつくらないほうがいいのではないかと思う。

 ということで今日も私は「凝固」してゆく認識をなんとか葬り去ろうとして、悪戦苦闘している。物語りを固定化してしまったら、苦しむのは自分だからである。






     宇宙論と世界観の効用    00/7/8.


 『華厳経』のひとつながりの世界、一即多、多即一の理解はどうもどんづまりのようである。理解しようたってあまり文献もなく、あったとしても仏教というのは一方通行に「これこれはこういうことである」と「宣言」するだけで、それは「どうしてか」「なぜなのか」ということを説明してくれない。だから理解にゆきつかない。

 もうあきらめモードである。原典の『華厳経・十地経』(中央公論社)をいま読んでいるけど、たぶん新たな認識にはたどりつけないようである。

 今回はこれでちょっと世界観的なことの興味がもたげてきた。科学的な世界観でも読みたいかなと思っている。量子力学とか宇宙論とかちょっとかじってみようかなと思っている。(でも理科系の言葉というのはどうもニガテだけど)

 だいたいこの十年は社会論的なことに興味をもってきた。もともとは宇宙とか生物とかには興味をもってはいたのだが、この十年はなぜか社会的なことに興味をもってきた。

 世界観とか宇宙論にもすこしは関心をもちたいと思ってきたが、世俗的なことにかなりどっぷり浸かってきた。この世界とはなにか、宇宙とはなにか、という非日常的な関心からかなり遠ざかっていた。

 哲学とか社会学に興味をもつうちにそういう方向に流れてしまったということもある。哲学者でこの不思議な世界や宇宙とはなにかと考えている人はあまりいないのである。

 分野科学に分かれてしまっているから、哲学者は宇宙や世界については考えないようである。でも哲学者というのはこの世界とはなにかという根本的なことを考えるのがふさわしいという感じがするけど。

 ギリシャの哲学者はこの世界の根本物質はなにかという問いを発していたけど、現代科学を知っている者からすれば、なぜこんなことを考えなければならないのかといったワケのわからない議論をしていたように思う。

 あわよくば、宇宙論とか世界観とかの非日常的な世界に興味がもてればよいと思う。日常や世俗に縛りつけられた思考ばかりしていると、日常の悩みや苦しみに縛りつけられるから、非日常的なことに関心が向えば、けっこうそういうことも忘れられるのではないかという企みである。

 心が宇宙や世界とかに向えば、広い視野、もしくは現実逃避的な頭のスタイルができあがって、日常的な些事からは解放されて、心さわやかになれるかもしれない。よいことである。

 興味をもつにはさまざまな疑問や解けないナゾをもつに限る。そうすれば疑問は疑問をよび、関心が深まってゆくというプロセスをへることになる。

 宇宙や世界について考えてみるのも悪くない。たまにふっと「宇宙が存在しているということはめちゃくちゃ不思議なことだな」と思うことがあるが、そういう関心にどっぷり浸かれればいいなと思う。現代科学はそういう関心を満たしてくれるのだろうか。





    怒る人、けなす人、罵る人に囲まれて     00/7/10.


 怒りっぽい人や言葉のキツイ人にはたいへん参る。私のいる業界は(だいたいは運送関係だが)その業界ゆえか、かなり荒々しい人たちがたくさんいる。倫理とか自粛とか、いたわりとかやさしさだとかをほとんど知らないんじゃないかと感じる。

 個人の問題か、それとも業界の問題、あるいは業界がそのような人格をつくらせているのではないかと勘ぐることもあるが、この業界ではほかの業界では通用しないようなビジネスの範疇をこえたようなあきれるほどの荒っぽさがある。

 私はできるだけ人に怒ったり、悪口をいいたくないと思っているから、だから逆に他人のそういうところがよく見え、がまんできないと思ったりする部分もあるのだろう。

 すぐ怒ったり、悪口をいうような人になりたくないと思うからこそ、ことさら他人のその部分をクローズ・アップして見がちになるというわけだ。

 こんなヒドイ人たちの中から脱け出したいと思っている。しかしどうやったらこの問題は解決できるのだろうか。

 こういう暗い気持ちになったときに清らかな心になるにはトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』という本がたよりになる。

 ぱらぱらとめくっていたら、すでにすっかりと忘れていた解決法がいくつもある。キリスト教ではやっぱり忍苦することに価値をおいており、また世の中にはもっと苦しみ多い人がいるということを説いていたりする。

 ふっと考えついたのだけど、怒りっぽい人やヒドイ人というのは、あくまでも自分の基準であり、自分の解釈である。つまりそれは絶対的な人物像ではなく、あくまでも自分にとっての無数にある中の一つの「解釈」にしか過ぎない。

 ヒドイ人というのは私の「解釈」であり、「基準」であり、つくられた「仮像」である。もしかしてヒドイ人というのは私のつくりだした「捉え方」であり、どこにもない存在しないものであり、そういう捉え方をしているがゆえに自らを苦しめ、傷つけているといえるかもしれない。

 キリスト教が忍苦や受難を感謝し、利益だと見なせというのはこういうワケがあるのかもしれない。つまり頭でつくりだした「像」を、どこにも存在しないもの、虚空であると知りうるチャンスだといっているかもしれない。

 ヒドイ人や怒りっぽい人というのは天地や自然の視点から見るとそんなものは存在しなく、たんに自分の基準によって捉えられた解釈像に過ぎないというわけである。

 怒りっぽい人などどこにいるのか? 私の頭の中だけである。地球上のどこにも存在しない。

 ケンピスは何度も自分を愛することが苦悩の根源だといっている。「私」というのは言葉の上のみで編み込まれた継ぎ目みたいなものである。観念の中の模像である。これを守ろうとするから、観念は苦しむことになる。それは「私」が苦しんでいるのではなく、「観念」が苦しんでいるのだといえる。

 まあ、こういうこともいえると思うが、私自身はどこまでそういう捉え方に耐えられるかはそうとうアヤシイと言わざるをえない。私はやっぱり観念の中の私をどうしても守り、愛しもうとしているのである。アーメン。

 (それにこういう忍苦の方向というのは、深い理解がないとキレちゃう方向にいってしまうキケンもなきにしもあらずである)





    「関係性」を見ろ       00/7/11.


 この世界を見るときには、孤立した事物を見るよりか、そのあいだの「関係性」を見る見方をしなければならない。(といってもまだ頭のなかの整理ができていないけど)

 人間の言葉や認識というのはどうしてもまわりから切り離された事物だけを浮き上がらせて見がちであるし、関係性や相互作用、つながりといったものはみな除外されてしまう。

 たとえばパソコンを見るさいにはまわりのデスクや壁は見えなくなっているし、時計を見るときは腕や身体、地面なども意識の外である。

 人間の意識のはたらきには注目や注意のように、まわりを排除した一点への集中がおこる。そのためにどうも事物をまわりから孤立した事物であるかのように思ってしまう。言葉のはたらきはさらにそれに輪をかける。

 「私」というのもやっぱり関係性の網の目の一点にすぎない。私は親や家族、まわりの社会によって育まれているし、「私」が勝ったり負けたりするのは他人との比較によってである。

 「私」というのは関係性の結束であるのだが、「私」という言葉はどうもそういう関係性から孤立した私があたかも独立に存在しているかのように思わせてしまう。

 私であるとかモノであるとか、そういった孤立した事物に焦点をあてるよりか、関係性といったものにひたすら注目することが必要のようである。

 物理学とか自然科学の分野でもそういったパラダイムに移行しつつあるようである。近代科学はあまりにも事物――環境から孤立したモノに注意を与えつづけた。

 関係性に注目しなければならない。たとえば私のまわりのモノは独立したモノであるというよりか、私にとっての「用途」のことである。時計は時間を見るもの、TVは画面を見るもの、といったように用途としての関係のことである。

 モノというのは用途のことである。私と無関係にある孤立したモノではない。私との関係性が名づけられているわけである。事物が孤立してあると思っていると、そういう関係性という根本が忘れられてしまう。

 孤立した事物を見ることに慣れきっているわれわれは関係性を見るということがひじょうにむずかしい。しかし事物というのはそのモノ自体より、排除され、切り離された背景や関係にこそ、それの意味や秘密が含まれているのではないだろうか。

 むずかしい観方だけど、排斥されたそのほかの大部分に注目する必要があるようである。





     華厳の世界観と量子力学    00/7/12.


 仏教の華厳の思想では、一滴のしずくの中に全宇宙が宿り、一瞬の時間に永遠の時間が含まれているといっているが、現代物理学でそれと近いことをいっているのはホログラフィーである。

 ホログラフィーとは立体像をつくるための方法論・技術のことだそうだが、記録された干渉縞のフィルムのどこを切っても全体像を再現できるということである。部分が全体で、全体が部分であるわけだ。

 こういうホログラフィー宇宙モデルを提唱したのがデビッド・ボームで、だからかれの名前はトランス・パーソナル心理学やニュー・サイエンスのなかに出てくることになる。

 私自身はそんなに物理学とか量子力学に興味があるわけではない。華厳経の世界観を現代科学的な理論で説明したらどうなるのかという興味はあるが、この世界のミクロはどうなっているのか、現代科学的な世界観とはどんなものかという、それだけの興味はちょっと薄い。

 私は仏教や神秘思想でいう山河大地との一体感、宇宙との一体感はどうして体験することができるのかということを、現代物理学や量子論から説明してもらいたいと思うだけである。仏教というのは説明してくれないからだ。

 量子力学や物理学ではそういうことを説明できるのだろうか。しかしケン・ウィルバーはそれを戒めているが、なぜなら量子の世界がいくら相互浸透の関係にあるとしても、超ミクロの世界のことであって、神秘家のいう岩や木の日常的領域とはあまりにも段階がかけはなれているということだ。(『空像としての世界』)

 まあ、世界観とか宇宙論への興味を、かなりむりやりだか、つなげてゆきたいと思っている。観念的・分析的な世界観が世界との一体感につながるには程遠いかもしれないが、こういう方面への興味をのばしてゆくことに意味があると思っている。

 世界との一体感についていま思うことだけど、部分が全体を含んでいるというのは、それらは切り離して存在できるわけではないので、全体であるといえるかもしれないということだ。

 モノや私というのは、世界からまったく切り離されて存在するわけではなく、やっぱり全世界とつながっており、切れ目を入れることができない。いくら世界の片隅の部分であるとしても、やっぱりそれは全世界と不可分である。

 部分を見つめすぎて、排除されたそのほかの大部分が忘れ去られ過ぎているのである。部分を注目したさいには、ほかの大部分が忘れられているということを顧みるべきなのだろう。



つぶやき断想集
天空と微小な世界




   トップ・ブランドの崩壊   00/7/13.


 雪印が食中毒をおこしたり、そごうが倒産したりとたいへんなことになっている。大きな会社であるとか、有名な会社だから大丈夫だ、安心だなというステレオタイプな言い方ができなくなって、私としてはこれが当たり前なんだと思う。

 そごうは借金棒引きだとか国に助けてもらうだとか信じられないことをいって、国民から猛反発をくらって倒産した。これが通ったら、ほんと「社会主義国」に逆戻りだ。

 どんなデカい会社も売れなくなったら倒産するというのが市場の常識というものだ。大企業もあっさりと倒れていって、日本の人たちもこれが市場主義だとわかるようになると、逆に自分の力で生きていこうとか、活気盛んになるんじゃないかと思う。

 会社に頼ろうとか、会社にきちんとまじめに勤めるのがエライというような社会主義的な勤勉な人生観も、そのような時代になって崩れてゆくのだと思う。それが会社主義社会からの自由というものである。

 雪印食中毒についてだが、企業とか社員とかの仕事に対するモラル・ハザードがかなりおこっているみたいである。勤勉観とか職業観のゆるみや弛緩といったものが、この事件の根底にあるのだろう。

 仕事がカネであるとか、世間体だとか、社会的地位だとかで測られてきたこの国では、とうぜん仕事自体に対する責任とか忠誠といったものは失われる。労働や仕事の意味づけや哲学がしっかりなければ、これからもかなりヤバくなる一方だろう。

 雪印工場の仕事のズサンさはリストラとかアウトソーシングとかも関係あるのかもしれない。だいたい大きな企業は下請けなどにほとんどの業務を任せていたりするから、私もそういうところで一度働いていたことがあるが、なんだかものすごく頼りなく、スカスカな感じがしたが、雪印工場もそんな雰囲気になっていたのだろうか。

 大阪ではO-157とか食中毒が多くなっているが、仕事自体のゆるみもあると思うが、細菌の力も巻き戻してきたというのもあるのだろうか。ネズミやゴキブリの繁殖力みたいなものである。逆によけいに強力になって帰ってきたのかもしれない。あるいは人間の免疫力が落ちたのかもしれない。

 まあ、いろいろたいへんな時代であるが、一昔前の会社中心社会が崩れ去ってゆくのは、個人的にはたいへん「まとも」な時代がやってきたと、私はほくそえんでいる。





   経済システムに合致した生き方       00/7/17.


 社会が必要とする仕事と、人々が生きたいと思う人生観や目標はかならずしも一致するわけではないと思う。

 世の中にはたくさん仕事の種類があるが、そういう社会の要請に合致した職業だけに、人の人生がうまく収まりきるとは思わない。

 人生の目標ややりたいことは多様である。しかし経済システムというのはある一定の職業しかない。かならずしも人々のすべてがこの経済システムに合致する生き方に魅力を感じるわけではない。

 商売や市場経済というのは、人々の生き方を社会の市場が必要とするサービスや業務だけに限定させようとする。つまり経済や市場が要請する職種だけに人生は限られてしまうのである。

 私にはおおかたの職業がつまらないように思える。果物を売ったり、パンを売ったり、機械をつくったり、そういう職業的な人生というのは、ほんとうに人生の目標なのかと思う。

 だから私は社会の要請にこたえた仕事になかなか合致することができず、遍歴をくりかえすことになる。社会が必要とする仕事と、私が目標とする人生と、どうもうまくマッチしないのである。

 といっても貨幣経済のなかではとうぜんカネを稼がなければメシを食えない。むりやり社会が要請する仕事につき、習熟してゆくことが必要になる。

 たいていの人は社会の要請に合致した職業人生観をつくりだしてゆくようである。だけど私はいつまでもたっても社会の要請に合せよう、スキルをつけてゆこうという真剣な気持ちになれない。

 思考の順序が逆なのである。ふつうの人は社会の要請から人生の目標をはめこんでゆこうとするのだが、私のばあいは自分の目標から社会の要請を探そうとしている。そして見つからない。

 まあたいがいの人は社会にあわせるべきだというだろうが、定職を決めかねるフリーターが増えているように、市場が必要とする職業に人生をはめこむ生き方を嫌っている人が増えている。

 人生は必ずしも社会が必要とする職業だけに限定される生き方がよいとは限らないだろう。社会の需要に要請される生き方だけが人生だというのはちょっとおかしい。

 経済を中心に、至上に考える社会というのは、多様な人間の生を職業の生だけに限定してしまう社会である。

 人間は職業のみに生きるべきか。やっぱり心の奥深くでそういう人生は違うと私は思っている。






   「実在」しない物質世界     00/7/17.


 ミクロの電子というのはひじょうに奇妙なふるまいをする。電子は粒子でもあり、波でもあるのだが、たとえばひとつの箱に入れて中を区切ったとしたら、波の性質をもっていたら両方の区切りにのこるはずなのだが、人が箱をのぞいてみると、一方だけに粒子としてのこってしまう。

 人が観察してはじめて電子は物体としてまとまるのである。量子力学のミステリーである。

 波が一瞬にして粒になるというのは日常世界ではありえないことである。風や水の波が人間が見るたびに固体化するということはありえない。

 しかしミクロの原理が日常世界も貫徹しているはずだと考えるのなら、この世界の山や川もふだんは波動の性質をもっており、定まらなく、人間が見ると、ぱっと物質として存在することになる。

 日常の感覚ではまったく理解できないことだが、量子の世界ではそういう事実が観測されているのである。この世界の物質というのは人間が見てはじめて実在の姿をもつというわけである。

 われわれの常識では理解できないが、仏教では古来いってきたことである。「一切の現象は心が妄りにはたらくことから生じる」、「一切の形あるものは本来、心にほかならないから、外界の物質的存在は真実には存在しない」(『大乗起信論』)

 心が見るからこの物質世界は存在するというのである。この世界はだれも見ていないのなら、実在していないというわけだ。

 しかし量子力学や仏教がいくらそんなことを真実だといってきたとしても、ふつうの人間にはそんな理解が実感できるわけがない。物質は物質としてこのとおり実在しているし、人が見ていないあいだは実在していないなんてまったく理解できないのが当たり前だというものだ。

 ミクロの世界と人間レベルの世界はどうやってつながるのだろうか。人間はミクロの世界を見ることができるのだろうか、そしてそれを見たとき、悟りや神秘体験がおこるのだろうか。

 粒子としてまとまらない、ミクロの波の状態を、覚者がやってきたように、人間はどうやって認識できるというのだろうか。


 (参考文献としてかなりアヤシイですが、コンノケンイチ『死後の世界を突きとめた量子力学』(徳間書店)をもちいました。このくらい大ゲサに論理を飛躍してくれたほうがわかりやすい。)





   知覚がつくりだした物質世界     00/7/19.


 ミクロの世界を語った量子力学のことはまだまだわからないが、このジャンルでは観測者が物質の位置や存在をつくりだし、また物質の実体は十万分の一のスケスケのすき間だらけだということである。

 物体というのは人間の知覚がつくりだしたものということになる。人間が知覚する前は粒子やら電子やらが超高速で回転しているそうで、人間が知覚すると物体として位置や存在が定まるそうである。

 まあ人間は生命としてとうぜんまわりの世界を知覚しなければ生きてゆけない。ということで、スケスケの空っぽのものでも物質と知覚しなければならないし、動き回るものでも固定して、物体として存在していると見なしたほうが好都合のはずである。

 生存のために知覚世界は物体として創造されなければならなかったわけだ。ただ人間を長くやっていると、とうぜんこの物質世界は自分の知覚がつくりだした似像であるということにはまず思いいたらないことだろう。

 人間の知覚機能がつくりだしているというは思いもつかず、世界のありようは目に見えるとおりのもの以外ありえないと思い込むことになるだろう。知覚世界を「創造」しているというステップは人間には必要ないからだ。創造され、識別された世界があれば、生存は事足れるからだ。

 ただ人間によって創造される知覚以前の世界を、人間は認識できるかというと、ひたすら難しいことだろう。宗教者はそれを可能だとしてきたが、どういう通路でそれが可能になるのかはまったく不可解だ。

 まあこの世界は自分の知覚機能がつくりだした虚像であり、信用しないことを忘れないことが肝要なのだろう。これを世界「そのもの」だとは思ってはならない。あくまでも自分の目と意識の知覚機能がつくりだした像であると見なすことが必要なのだろう。

 言葉や思考で捉えた物事が絶対的な現実だと思っていたときにはそれが「虚構」や「解釈」であるということがわからなかったように、この知覚世界も同様のあやまちに陥っているのだろう。

 しかし知覚世界が虚像であるとわかるようになるのはいつのことやら。。。





   スカスカの物質と「空」      00/7/20.


 どんな物質も実体は十万分の一以下のスケスケのすき間だらけだと量子力学ではいっている。

 たとえばふつうのスケールでいえば、原子核をフットボールと見立てて東京駅におくと、電子はパチンコ玉の大きさで小田原くらいをぐるぐる回っているということである。(コンノケンイチ『死後の世界を突きとめた量子力学』から)

 物質というのは超ミクロの世界では超スカスカなのである。チョ〜信じられ〜な〜い。

 しかしわれわれの目には物体は物体として強固に見えるし、てんでスカスカには見えない。

 ミクロの世界と日常の世界はどうつながるのだろうか。この間のところは、量子力学ではどう説明しているのだろうか。

 このスカスカの物体は仏教でいう「空」とひじょうに似ている。ただ仏教では縁起の関係から空を説いているから、物体自体を空っぽであるといっているわけではないと私は理解しているが。

 量子力学および超ミクロの世界というのはたしかに仏教がのべている世界のありようとほんとにオーバーラップするところがある。

 スカスカの空っぽもそうだし、量子は波の状態から観察すると粒子(物体)になるという性質は、唯識がいうこの世界は心がつくりだしたものであるということと同じであるし、量子力学の多世界解釈は、仏教でも無数の世界が毛筋の先にあるとかいっていることと重なる。

 短絡的に、だから先端科学と仏教は同じであるという結論に容易にとびつきたくないが、仏教僧はこの超ミクロの世界を語っていたのだろうか。

 それにしても、どうして、なんでと思うが、私にわかるわけがない! 量子力学の世界についてもほとんど知らないから、もっと本を読まなければならない。いまの私には何ともいえない。





    「生命保険」という発想      00/7/23.SUN.


 またもや奈良でわが子を毒殺するという保険金殺人が発覚したが、和歌山、埼玉、長崎とたてつづけにおこり、これはこのほかにも全国で数多く人知れず同じ事件がおこっていると考えざるをえないというものだ。

 これは犯人が異常というより、生命保険という発想そのものの性質ではないのかと思う。 生命保険というのは素朴に考えてみたら、ものすごくザンコクで恐ろしい発想を含んでいる。

 人が死んだら、かんたんには手に入らない大金が手に入るのだ。「いっそダンナが死んでくれればいい」、「死ねば大金だ」、という発想に転嫁しないわけがない。

 こういう商売がごく一般にふつうにまかり通っているということ自体が、私には不謹慎や非倫理的ではないかと前々から思ってきた。まわりの人がふつうに生命保険に入ることがどうも私には解せなかった。

 ひとつの生命が大金に化けるのである。だれかが死ぬことがめったに得られない大金というごほうびと引き換えになるのだ。これでは「死ね」「殺してやる」という悪意と表裏一体にならざるをえない。

 臓器売買や児童売買に似ているといえなくもない。これらは「悪いこと」や「犯罪」であるという認識が現在ではあるが、生命自体が賭される保険には「悪」や「犯罪」という認識はないようだ。

 たしかに信頼しあった家族や急死したさいの思いやる気持ちというものがあれば、生命保険はよいことなんだろう。しかしそれは昨今の経済苦のなかで保険金めあてによる自殺が増加しているように生命よりカネや責任を尊重する傾向をもうみだしている。

 経済不況のなかでこの国の本質が露呈したというわけだ。生命よりカネが尊重されるという、この国の実質である。

 保険金殺人が発覚するたび、マスコミは犯人像を報道するが、あまり保険自体が問われた意見を聞くことはない。保険会社は巨大な権力や既得権益になっているからだろうか。

 ひじょうに素朴な考え、子どもみたいに考えれば、生命保険という発想はものすごく恐ろしいことのように思えるが、世間一般の人たちはどう考えているのだろうか。





   自然科学の知のありよう       00/7/23.


 さいきん量子力学とか宇宙論などの自然科学の本を読んでいるが、なぜこんなことを考えているのだろうかとか、数式になんの意味があるのかとわからないことが多い。

 だいたい私の頭は心理学とか社会学に適した嗜好をもっている。このジャンルの本は興味も強く、割合すらすらと頭の中に入ってくる。このジャンルの学者たちが問題にし、テーマにし、知ろうとしていることの方向性もよく理解できる。

 しかし自然科学の学者たちが知ろうとしていること、記述しようとしていること、数式で解こうとしていることの意味がよくわからない。

 基本的に私はこの世界とはなんなのか、この世界や数学の世界はどうなっているのかという鋭くて、深い興味をもっていない。ということはあまりこの世界自体にたいする違和感とか不思議に思う気持ち、ナゾを解きたいという気持ちが強くないのだろう。逆に心理とか社会にたいしてはそういう不安定さが強いといえるけど。

 私も以前は生物や古生物、宇宙などに興味をもっていた。しかしそういう興味をもってしても、自然科学が記述する言説にどうも興味を覚えない。

 私の興味と科学の分析される知の方向性がどうも違う。私は論理的・分析的・数学的にこの世界のありようを知りたいのではなく、そういう知を欲しているのではないようだ。

 たぶん私はどんな知にも人間自身のすがたや心を見出したいと思っているのだろう。生物や古生物にはやっぱり人間の優劣やら価値やらあり方を見出すことができる。つまり投影された人間の社会を、そういった知のなかに見出したかったのだろう。

 だから人間的な要素がまったくない自然科学にはどうも興味を覚えないというわけだ。私はいたるところに人間の匂いを探しているのかもしれない。自然科学や数学はあまりにも「人間的」ではない。

 ただ深く興味や疑問を覚えないかもしれないが、しばらくは自然科学について本を読んでみようと思っている。自然や世界のありようを知らないことにはやっぱり人間についてもわからない。読んでいるうちに興味や疑問がたくさん噴出してくる可能性もあるし、科学的言説に慣れるうちに科学の醍醐味もわかってくるかもしれない。




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   宇宙が存在する不思議   00/7/24.    


 野本陽代『ハッブル望遠鏡が見た宇宙』(岩波新書)を読んだ。

 ハッブル望遠鏡がうつしだす宇宙のすがたは驚くほどカラフルで、きれいであり、摩訶不思議である。夜空に見える点にしか見えない星が拡大されると、こんな異様で不思議な様相をしているなんて驚くばかりだ。

 しかし私の興味は子どものころのように素朴で好奇心満々というわけにはいかない。歳をとったのだろう。あるいは非日常的な想像力が枯渇しかかっているのだろう。日常や世俗に囚われて、こういう不思議がわれわれの天空に常にあることをすっかり忘れている。

 われわれの頭の上にはこんな不思議で壮大な世界がひろがっているのだ。しかしわれわれは世俗やカネや当たり前の毎日にとらわれて、不思議や謎は自分たちの世界にはないような顔をして暮らしている。

 こんな不可思議な宇宙が眼前にありながら、科学であるとか、非科学であるとか、オカルトであるとか、宗教であるとか、そういう分け方や断罪をしてしまって、なんてつまらないことをしているのかと思う。

 宇宙に目を転じてみると、わからないことだらけだ。てんで日常の常識や理解がおよばない世界がわれわれの世界を覆っており、また宇宙の大きさからすれば、われわれの世界は大海の微生物にもおよばない。

 宇宙がほんとうにわかるようになることはおそらくないだろう。いちばん近いアンドロメダ銀河でも光速で220万年もかかるのだから、人類はじっさいにそこに行って、知ることはできないだろう。

 宇宙は永遠に謎だろう。しかしわれわれはこの謎である宇宙とともに存在している。目的も理由もわからないまま、宇宙もわれわれも存在している。

 宇宙が存在していること自体がひじょうに不思議だ。世界があるということが不思議だ。世界があるということは、たとえ人類にはわからないかもしれないが、宇宙にはてがあったり、起源があったり、またその外に世界があるということになる。確実ななにかがあるはずである。でないと存在はできないだろう。

 われわれは絶望的なまでに不可思議な宇宙に囲まれていること、このことを忘れるべきではないのだろう。自明性や常識、当たり前などに縛られて、精神が枯渇する前にそのことを思い出すべきである。





   言葉が「世界」をつくるということ     00/7/26.


 ふだんのなにげないひとことでも、「世界」をつくってしまう。攻撃的な言葉を吐けば世界は攻撃的なものになるし、悲しい言葉をいうと悲しい世界になってしまうし、ネガティヴな言葉ではネガティヴな世界になってしまう。

 言葉は世界を集約してしまう。あるいは限定してしまう。なにも意味がなかったり、なんでもないことであっても、世界をつくりあげてしまう。

 言葉や解釈をもたなかったら、そこにはなんの意味もないし、世界もない。

 しかしたったひとことの言葉で、私の世界は意味づけられてしまう。そしてそれが私の「それしかない世界」になってしまう。

 「サピア=ウォーフの仮説」という言語学の説があるが、これは言語によって認識する世界が違うという説である。たとえばエスキモーの言語をつかう人と日本語を話す人では認識する世界が違うということである。

 この仮説は外国語間だけに通用するのではなくて、個人間にも通用するものだと思う。個人個人も同じ言語をつかっていても、ふだん話す言葉やひごろ考えているパターンや習慣によって、認識する世界はまったく違ったものとなるだろう。

 こう考えると、悩んだり、激昂したり、ヤケになったり、煮詰まったりする人というのは、自分自身がつくりだした言葉によって、そういう状態に追い込まれていると見なしたほうがよい。

 自分自身がつくりだした言葉によって追い込まれたり、我慢ならない状態になったりしているのである。まったくヒドイ状態である。

 言葉によって世界をつくりだしているのも自分であるし、怒りや悲しみに煮えくり返させるのも自分なのである。

 言葉で言ったり、考えたりすることが、「解釈」にすぎなく、「絶対」でもなく、ひとつの「見解」であるということに気づかないでいると、エライ過ちを犯してしまう。そしてそういう世界をつくりだしているのも、「自分の言葉」であることに気づかないと、自らを自らムチうつ愚かな過ちにおちいってしまう。

 言葉というものを甘く見てはならない。何気ない言葉でも私の世界と環境を決定づけてしまうものなのである。





   過去である星空        00/7/28.


 夜空の星というのはほとんど過去のすがたである。光が届くのは有限であり、われわれが見る星の光は何万年も何千万年も前の光である。

 夜空には過去が混在しているとはふしぎなことである。大昔や太古が現在に混在しているのである。

 太陽の光すら8分20秒ほどかかっている。われわれは過去の太陽の光しか見ることができない。

 しかしこの地球上では、光の秒速は30万キロメートルなので、地球を七回り半するほどの速さだから、時差ができるということはない。

 だから光に視覚をたよる人間は過去の姿を見ることはないのだが、宇宙のスケールでは過去のすがたを現在みるという奇妙なことがおこることになる。

 音はTVの衛星中継でしょっちゅうあるように地球上でも時差がある。カミナリなんていうのも、稲光と落ちる音に時差がある。

 もし光が音のように遅く、この地球上でも時差ができるようだったら、どうなっていただろう。すぐ間近の距離でも光の時差があったとしたら、われわれは過去の歩く人や動く人を、現在のすがたとして見ることになるだろう。

 いま目の前を歩いている人が数秒、数分間前のすがたであるとはなんとも奇妙なことである。触ったり、ぶつかったりして、はじめてそれが幻であることに気づいたりなんかしたら、ひじょ〜にブキミなことである。

 われわれは光でものを見ているわけだが、光というのは決して絶対的な時間をさししめすのではない。距離がものすごく離れれば、過去のすがたを現在みることになってしまう。また現在のすがたは未来にしか見ることができなくなってしまう。

 もうこうなったらめちゃめちゃである。車にひかれた私は何分後かにやっと視覚にあらわれ、当の本人はとっくに成仏していたなんていうことにもなりかねない。

 光というのは現在だけをうつすのではない。写真や映像も過去である。光で見える世界を絶対的な現在であると見なすことはできない。光の世界では過去も現在も混在できるのである。





    電磁波が目に見えるということ      00/8/1.


 光というのは電磁波の一種である。電磁波にはその可視光のほかに紫外線とか赤外線、X線などがあるが、電波も含まれる。

 フシギである。目に見える光が、波長をもっと長くすれば、耳で聞くことのできる電波になるのである。同じ電磁波という波動が光になったり、ラジオになったりするのである。

 われわれが見たりする視覚や聴いたりする聴覚というのは電磁波や波動というのはよくわからない。どういうこっちゃなんだろう?

 この電磁波の波動の長短により色彩ができる。より短いものから紫、青、緑……となってゆき、長いものから赤、だいだい色、黄色となってゆく。

 可視光より短い波長は「紫」外線となり、長い波長は「赤」外線となる。波長の長短により色が決まるとは変な話だ。

 モノの色というのは、目に見える色以外は吸収されているということだ。吸収されない波長の色を見ていることになる。

 水が青く見えるのは波長の短い青のほうが、長い赤より錯乱されるからということだ。

 なんだか、もっと掘り下げてみないとよくわからないが、ちょっと光と色について興味をもったので、桜井邦朋の『自然の中の光と色』(中公新書)からいろいろ抜書きさせてもらった。






   しばらく自然科学しま〜す      00/8/1.


 これからちょっと自然科学系の本を読んでいこうと思っている。このジャンルはいままであまり興味もなく、さして知りたいとも思わなかったが、仏教の『華厳経』の世界観に触発されて、この物質界とはなんなのかという追究をしてみたくなった。

 しかし自然科学の本を読んでいると、めちゃくちゃ興味がひかれるというわけでもないし、すらすらと理解できるということもないし、数学が出てくるとまったくチンプンカンプンだ。

 でもなんとなく自然科学したい。物質やこの世界とはどんなものかという知識をのぞいてみたいのである。

 理解もあまり進まない。興味が強くひきつけられないということもあるが、だいたい私の頭は哲学のように疑問に疑問を重ねるような習慣をしているので、これが正解であるとか、正統であるといった知識をつきつけられても、実感や納得がともなわないと身につかないのである。

 やっぱり知識というのは実感や納得がないとだめだ。学校の教科書みたいにこれが「正解」だと知識を押しつけられても、実感や納得がなければ、てんでわかったという気持ちになれない。私にとってはその一点がひじょうに重要なのである。

 自然科学は説明はしてくれるけど、実感や納得はなかなかともなわない。自然科学の本を数冊読んだだけでは連関や全体的な展望が見えなかったりするから、よけい理解がともなわないということもあるのだと思う。

 哲学も同じだ。読みはじめのころはわからなかったことでも、のちのちになって哲学書をたくさん読んだあとではだいぶ理解ができるようになっていたりするようなものである。私には自然科学のジャンルはまだまだ最初の一歩なのである。

 それにしても私の興味というのはてんでひとつのジャンルにとどまっていないものである。十年前ほどは社会学や現代思想などに興味をもっていたが、そのあとにビジネス書を読みあさり、自己啓発書とか仏教とかにも触手を動かした。

 自分の興味あるものを読むのがいちばんだが、節操がないとか、一ジャンルに深く精通するということがないといえるし、興味をなくしたジャンルの醒め方もはなはだしい。

 まあ、知識というのはわかったり、理解してしまったら、おもしろくなくなったり、興味を失っするのはとうぜんなことである。知らなかったり、わからなかったりするから、知りたくなるからである。

 興味本位にまかせてきたから、かなり多くのジャンルに接することができたのもたしかである。興味あることをしていたら、結果的にいろいろなジャンルを知る事ができたのである。

 学生のとき、私は得意な科目しか理解が進まないタイプだったため、すべての科目ができるという人は信じられなかったが、私の場合は得意なジャンルからほかのジャンルにつながるという段階的な理解が必要だったのだろう。

 知識というのはこういうものかもしれない。興味あるものを掘り下げてゆくうちにほかのものにも連鎖的に興味を広げてゆくというわけである。いきなり最初から全科目を理解するというのは、むずかしいんじゃないだろうか。(人によっては違うだろうけど)

 まあ、ということでしばらく自然科学しま〜す。だけどこのジャンルは始めたばかりなので、なかなか文章を書くということがむずかしい。わからないことが多すぎるから、うかつにものを書けない。

 哲学みたいに正解とか正統な見解とかを気にせずに、縛られずに、自由に書けないのが窮屈である。そういう点ではおもしろみがないといえる。でも疑問や好奇心が知識にはいちばん大事なので、まちがっていることでも、理解できていないことでも、じゃんじゃん書いていこう!と思う。 スンマセン。




    植物と生命        00/8/2.


 ふと思ったのだけど、植物というのは人間のように自由に動き回れない。どこかに遊びにいったり、からだを自由に動きまわして楽しむということができない。

 人間が一般にもっている楽しみや喜びを植物はもっていない。

 なんのために生きているのだろうと思った。でもこれはもちろん人間から見た勝手な判断にしか過ぎないわけであるが。

 それでも植物はずっと生きつづけている。また生命なんていうのはやっぱりいつかこの宇宙の無限の時間のなかでは滅びてしまう可能性があるし、そのような運命が宿命づけられているとしたら、生命をつなげてゆく意味とはいったい何なのかと思った。

 生命をつなげていって、なんの意味があるのだろうか。

 べつに生命は意味や価値のためだけに生きているわけではないから文句をつけても仕方がないし、生命は生きつづけるだろうし、生命の無意味さを嘆くのは同じ生命としての人間にとってもあまりよい考えではない。

 生命はいま存在することに喜びを感じ、生命をつなげてゆくこと自体に意味があるのだとよいように捉えることにしよう。

 じつのところ、こういう疑問は対象としての植物の問題であるというよりか、そういう疑問を抱く自分自身の問題、心の投影ともいえるから、つつしむべきだろう。





    水と光と     00/8/4.


 水というのはとてもきれいだ。とくに川の水なんか見ているととても気持ちがなごむ。また水というのは不思議なものである。

 水それ自身は透明なものであり、光の反射と波の影が水のすがたをかたちづくっており、つかみどころがないものである。

 不思議なものであるが、見ているだけで気持ちがとても爽やかになる。また光のきらきらとした反射はすばらしいものであるし、水面がうつす地上のすがたもとてもきれいだ。

 さいきん水とはなにか、光とはなにかといった自然を考えているので、見れば見るほど不思議なものであり、身近なものでありながら、こんなにワケのわからないものであるとは思ってもみなかった。

 川の水の美しさを表現したいのだが、どうも私には詩的な賛美の表現ができないようである。またなぜ見ているだけで気持ちがよくなるのかもわからない。

 自然科学では水を原子とか粒子で構成されているとか説明されているが、どうもそういう説明がほしいのではない。自分でもどういうことが知りたいのかもわからないが、水の美しさや、それが何であるのかというのを知りたい。

 自然界に満ちあふれており、構成されている水と光とはいったいなんなのだろうかということを知ることができればいいのだが、しばらくはこれらを凝視してみたいと思う。





   サイエンス、知ってどうなる?        00/8/9.


 知識の理解を拒むものはけっして頭のよさ悪さではなくて、興味のあるなしだと思う。理解できないのは「そんなことを知ってどうなる?」、「なぜ知りたいかもわからない」といった端緒からつまづいている。

 さいきん私は量子力学とか物理学の本を読んでいるけど、つくづくそう思う。これらのサイエンス系の知識というのは、私にとっては「そういうものを追求して何になる?」、「なぜこんなことを知ろうとしているのかわからない」といった記述が多い。

 とうぜん理解はとどこおることになる。私の興味ある社会科学系の知識だって、ほかのふつうの人から見れば、「そんなことを知ってどうなる?」といった類の知識だろう。

 ふつうの人にとって学問知識というのは、学校を卒業してから「そんなことを知ってどうなる?」というレベルになる。理解できないのではなくて、理解したいと思う気持ちすらわからないという次元になる。

 「そういうことを知りたいと思う人の気が知れない」というわけだ。だから知識というのはある人たちにとってはバカにされるか、軽蔑されるものになる。知識というのはかならずしも賛美されたり、賞賛されたりするとは限らないものである。

 興味をつくりだすものはなんだろうか。これはかなり実存的な部分が関わっていると思う。生存の根本的な部分から興味や好奇心というのは発していると思う。

 文系の知識にひかれる人と理系の知識にひかれる人というのは、興味の根本的なところが違っている。情感にひかれることと論理・分析にひかれる違いだろうか。

 生きてゆく羅針盤やアンテナが違う方向に働くわけである。世界の掘りさげてゆく方向が違えば、興味のあるなしもかなり変わってゆく。

 物理学や量子力学といったものはこの世界はどうなっているのかということをとことん追究する学問である。私にはそういうこの世界のありように不思議さや謎、疑問をいだく興味のベクトルはすこし弱い。

 だからどうしてもこれらのジャンルの追究する知識の意味や価値が深くは理解できない。根本的な実存レベルの興味がないようなのである。

 といってもこの学問を知る意味はまったくないとは思わない。やっぱり私の興味ある人間や社会についても深くつながっている事柄である。そういう連関からこの世界を知らなければ人間や社会について知ることもできないだろう。

 私には自然科学にたいする深い興味はないかもしれないが、人間のことを知るにはこの世界のありようを知ることも欠かせない。こういう連関から、自然科学に興味をもち、追究することも大切だと思う。





    世間は盆休み       00/8/13.


 世間では盆休みということだが、私には休みがない。いまは食品関係の仕事についているからほぼ年中無休だ。

 世間の喧騒とはまったく断たれている。しかし私はこのほうが好きだ。帰省ラッシュだとか連休だとかレジャーだとかの騒乱に巻き込まれるのなんていやだからだ。

 ふつうの休みだって、土日曜日が休みよりか、平日休みのほうがいい。まわりの雰囲気にのまれるより、みんなが働いている平日の休みのほうがよっぽど気持ちがラクだ。

 土日休みというのはなんだか「遊ばなければならない」とか「ウキウキしなければならない」という雰囲気を感じてしまって、どうも好きに時間を過ごせない。

 平日休みはそういう雰囲気がまったくないから、自由気ままに時を過ごせる。山に登ったり、緑の公園で昼寝したり、まわりの町をサイクリングなんかしてとても気持ちいい。

 働いている人を横目にちょっといい気分を感じたりするのだが、でもまあこれは休みが終わったらすぐに逆転してしまうわけだが。

 電車はかなりすいている。盆に近づくれにつれ子ども連れの主婦や家族なんかよく見かけるようになったが、私も盆が休みだったら、ほかの人がそうであるように「出かけなければならない」というプレッシャーを感じているんだろうな。

 私にはいつもと変わらないただの通勤電車である。電車で本を読んで、いつもと同じように職場に出かけ、帰ってくるだけのSame Daysである。休みに感じるようなウキウキとか感情の揺れとかブレなんかまったく感じない機械的な通勤時間である。

 でもそっちのほうがいい。私も盆休みだったら、みんなと同じような休みのプレッシャーを感じてしまって、たぶんあまり楽しめないと思うのだ。

 いつもと変わらない毎日である。盆休みの喧騒なんかに巻き込まれたくなんかないから、いつもの毎日として過ぎてゆくほうが私にはいい。





    物理学はちょっとね。。。    00/8/14.


 量子力学とか宇宙論とかの物理学をさいきん読んでいたが、どうも貪るような好奇心もわかず、興味も失せてきた。

 このエッセイもおかげであまり書く題材を見つけられなかったし、考えたいというテーマもなかなか見つけられなかった。どうも物理学は私には合わないのかもしれない。

 もともとこれらの本を読もうと思ったのは、仏教の華厳の世界観を、現代的な科学観から探ろうとしたのだが、もちろん華厳をサイエンスから説明した本はない。(カプラの『タオ自然学』は近いといえるけど)

 興味の足場を量子力学が考えているテーマにうつそうと企てようともしたけど、興がわかなかった。どうも私は物理学が考えていることに強い興味をもてない頭のつくりをしている。

 量子力学の森で迷子になっているうちに、しぜんに華厳の世界観の興味のみではなく、知識欲自体も失せてきた。やっぱり自分の好きでない知識をあさろうとしても、私にはムリのようだ。

 自分の好みや趣味に忠実であったほうがいい。さもないと知的欲すら失せてしまう。

 量子力学だけではなく、ほかの生命科学やサイエンスにも触手をのばてみようと野望も抱いてみたのだが、そういう興味もいまは希薄になった。

 また自分の好きな心理学とか社会学とかに戻るほうがいいのだろう。でもいまはなにかを知りたい、ひとつのテーマを探りたいという気持ちがすっかりと失せてしまった。

 サイエンスの森で迷子になっているうちに知的欲の種すらどこかに落してしまったようだ。まあなにか漠然とおもむくままに本を読んでいるうちに興味あるテーマを見出せることだろう。

 う〜ん、物理学の壁は私には厚かった。。。 また再度、ちがった脈絡から興味をもてるようになればいいのだけれど。



つぶやき断想集
終身愛と「有料セックス資本主義」




   企業が子どもを減らした     00/8/16.


 森永卓郎の『非婚のすすめ』(講談社現代新書)をいま読んでいる。これによると、戦後の核家族化は企業の政策やマインドコントロールになされたということだ。

 子どもがいっぱいいると子育てに手間をとられ、生産性の向上がのぞめない。また企業は家族手当や配偶者の生活保証まで約束したから、とうぜん少子のほうがいい。

 ということで戦後の家族は企業によって核家族化された。1955年には117万件という人工中絶数の犠牲をはらみながら。

 われわれの生まれ育った家族のかたちというのは企業によってつくられたものであったのである。企業の子どもみたいなものである。

 戦後の核家族は戦前の大家族の因習やくびきからの解放と理想化して語られているが、なんのことはない、企業の生産性向上のため、家族は解体・変形させられたのである。

 ちなみに戦前の大家族は日中戦争から太平洋戦争にかけて、兵力と労働力確保のために結婚を三年早め、子どもを五人生めという政府の政策によるものである。

 われわれの家族というのは政府や企業のそのときの事情により、殖やされたり、減らされたりして、管理統制されてきたわけだ。そういえば戦前生まれの私の母の兄弟は国策どおりの5、6人である。

 企業がわれわれの家族の数まで管理統制していたというのはちょっと恐ろしい気がする。われわれはほんと、企業によってかたちづくられ、育まれたともいえるからだ。企業の手のひらでわれわれはもてあそばれているというわけだ。

 離婚などの家庭崩壊が騒がれてひさしいが、じつは明治初期には四割近い離婚率があったそうである。転職率も世界一高かったそうである。ストイックに企業への忠誠とかダンナへの生涯の愛というのは、戦後のバカなサラリーマン家庭だけに通用したイデオロギーにしかすぎない。

 げんざいの家族のすがたを普遍化したり、不変のものと思ってはならない。それは国や企業の要請や時代の要求によってかたちづくられてきたものである。

 企業が終身雇用を捨て去り、市場主義や消費の自由を追求してゆけば、家族はますます解体してゆき、個人はばらばらになってゆくことだろう。よいか悪いかは別にして、確実にそういう方向に進んでゆくことだろう。

 これらの問題を倫理や道徳の角度ばかりから捉えるのではなくて、経済の要請や状況によってかたちづくられると考えるほうがより客観的で妥当である。





    終身恋愛観と終身雇用        00/8/17.


 戦後の核家族が企業の生産性向上のためにかたちづくられたのとするのなら、結婚にいたる恋愛観もとうぜん企業の効率のためにかたちづくられたと見てよいだろう。

 企業の終身雇用は、夫婦の終身結婚制につながり、恋愛の終身愛へとつながってゆく。われわれの世代が奉ずる終身愛というのは、企業の終身雇用のコインの表裏である。

 企業や経済の要請や効率により従ったのだが、げんざいの恋愛観である。ひとりの人を一生涯愛するという恋愛観はすばらしいものかもしれないが、これは終身雇用という企業の戦略によって支えられているものである。

 終身愛というのはかならずしもいつの時代もどんな地域でも普遍的に存在し、絶対的なものであるというわけではない。あくまでも企業の終身雇用思想の産物である。もうすこしいえば、社会主義的な産物である。

 会社に一生尽くすことにより社員は生涯を保障される。終身結婚制や終身愛というのはその約束の信念である。終身保障の約束にたいする宗教的・神格化にまで高められた信念である。

 しかし90年代に入って聖域だった終身雇用も崩れだしたのに、そのコインの裏だった終身愛を誓う恋愛の唄は恐ろしいほどミュージック・シーンを席巻している。だれもかれもが甘い愛の唄ばかり唄うこの現状は異常ではないか、もしくはだれもそう思わないのだろうか。

 恋愛の唄というのは異性にたいする愛を唄っていながら、おそらく心情的には企業にたいする忠誠や愛をも含有しているのだと思う。サラリーマンの男は終身愛を誓った女の安定のために企業への終身忠誠を誓う。すべてパラレルである。

 願望なのかもしれない。変わる経済情勢、市場化してゆく経済にたいする過去の終身雇用の郷愁、過去への逆行を願っているのだろうか。呪術的なものともいえる。

 土地神話が崩壊する前、土地は最後にバブルによって猛烈な高値をつけた。終身愛や終身結婚制にたいする最後の幻想的なバブルがいま起こっているのだろうか。

 終身愛や終身雇用というのは高度成長以降のひじょうに短いあいだの奇妙なまでにストイックな制度や慣習であったといえるかもしれない。

 明治初期の離婚率の高さや転職率の高さを知れば、思わず笑ってしまう。現代のわれわれのほうが自由で進歩していると思いこむのが常であるのに、明治の時代の人のほうがよっぽど自由で先進的だった。これはどういうことだ?

 女性の晩婚化が進んでいる。ストイックな終身結婚制はもうたまらないということだ。男だって企業の終身刑なんてまっぴらだと思っている。企業も重過ぎる終身保障に音をあげている。

 雇用者が市場化してゆくということは、結婚や恋愛も終身契約のくびきから解放されてゆくということだ。恋愛観や結婚観もそれによって変わってゆく。

 終身結婚や終身愛が崩壊してゆくのを嘆くのではなく、それがあくまでも終身雇用の時代の産物だと冷静に見なすことだ。経済的背景が変われば、人の関係も変わり、人々の意識や常識も変わるだけのことだ。

 私は終身拘束なんてまっぴらだ。(恋愛に関しては終身愛のほうがよいが)





     終身まで面倒をみて!      00/8/18.


 あまりにもニヒリスティックなので正直な心情は吐露したくないのだが、女の「終身まで面倒をみて」という結婚観はあまりにも虫がよすぎるのではないかと私は思っている。

 重過ぎるし、安定や生活のために支払わなければならない労働量や犠牲があまりにも多すぎると思うのだ。人生をそこまで投げ捨ててまで、女性の存在は価値ある崇高なものなのかと思う。

 女性はだいたいは終身の保障や生活の安定を男に求める。女は愛やからだ、家事育児をささげるかわりに、男は生涯その女性の生活の保障をする。

 結婚や愛には終身保障という約束が最終的にはある。生涯の安定をもとめて、男女は結婚という誓いをたてる。

 人は終身保障という願いをもとめるのはいつの時代もそうだったと思う。多くの宗教はその先の死後の世界まで安定や幸福を約束してきたくらいだ。

 その世俗的なヴァージョンが現代企業や社会主義思想の終身雇用や老齢年金の考え方である。サラリーマンの男たちは終身保障の約束をする国家と企業にしがみつき、女たたちもその終身保障男にぶらさがる。

 終身保障というのはたいそうすばらしい、夢のような世界である。しかしゲンジツは違う。終身保障のために男たちは好きでもない、やめたくてたまらない仕事に生涯縛られつづけなければならないし、女たちも顔もみたくないダンナや暴力をふるうダンナであっても、終身保障のために生涯家庭をともにしなければならない。

 終身保障という夢を願うあまり、一種の監獄であり、終身刑であり、この世の地獄といってもよいものをこの地上につくりだしたのである。

 アンビバレンツな感情である。一方では経済的な終身保障はほしくてたまらないが、生涯同じ企業、夫婦に拘束・束縛しつづけられるのも死ぬほど苦しい。両方をいっしょに得ることなんてできるのか。もし片方を捨てなければならないとするのなら、どちらを捨てるべきなのだろうか。

 やっぱり毎日の日常を生きる人間の心情としては何十年も先の絵空事より、日常のいまの問題の解決をとるだろう。そうして離婚件数は増え、結婚を遅らせる若者や非婚の人、定職に就かないフリーターや転職する若者が増えることになる。

 終身保障なんてものはとんでもない地獄だったのである。それに気づくにはだいたい社会主義の崩壊(80年)くらいの期間が必要だったのだろう。

 だけど恋愛においてはまだ終身愛が賛美されているし、職業にかんしても終身雇用的な正社員をもとめるというのがいまのゲンジツである。人間というのはどうしても終身の保障をもとめてしまうものである。

 終身保障というのはわれわれにとってすばらしい夢なのか、それとも悪夢なのだろうか。それを巡っての迷いはこれからもつづくことだろう。







     終身保障のご破算       00/8/19.


 人類の願ってやめない終身保障の夢は音を立てて崩れ去ろうとしている。国民年金や健康保険、企業年金といったものは崩壊寸前だし、終身雇用はリストラや早期退職制度などによって崩されようとしている。

 長い夢だった。終身保障の起源というのはだいたいルソーあたりにはじまるのか。マルクスがそれをしあげ、レーニンが社会主義国をつくり、ドイツではビスマルクによって養老年金がつくられたということである。

 日本では政府が企業を強力にバックアップすることによって終身保障の約束をしてきた。大企業と公務員、安定が親たちの願い、あるいは女たちの憧れの的になった。

 終身保障を約束する企業の生産性向上のためには子どもの数を中絶によって削減し、核家族を形成し、男たちは身を粉にして企業につくした。女たちは終身愛を誓い、その子どもたちも終身保障の恩恵に浴せるようにと教育に熱をいれた。

 終身保障というのがこんにちの社会のすべての根本になっているのだろう。しかし社会主義がそうであったようにそのしくみは内部崩壊をじょじょにきたし、制度的にも崩壊しようとしている。

 終身保障のために今日の問題を先送りしたり、我慢することが耐えられなくなった人が増加した。会社勤めの父、家庭に縛りつけられた母、こんな我慢に我慢を重ねるような生涯は耐えられないと思ったその子どもたちは晩婚やフリーターなどに逃げ込む。

 ついには外部的にも制度の崩壊一歩手前である。沈みかけの終身保障の監獄船からねずみはつぎつぎに逃げ出したというわけである。

 でも終身保障の夢というのはあいかわらず根強いものがある。女は安定企業のダンナを探すし、男もやっぱりそうである。恋愛においてもパラレルな終身愛をもとめる。

 終身保障によってわれわれはどんなに歪められたかもしれないのにである。おそらく終身保障によってわれわれは老後や将来から現在を捉えるという視点に拘束されるようになったし、それらをいつも心配して気にかけなければならなくなってしまった。すぐに壊れやすいものを頭にぶらさげている人生がどんなに危うく、それに支配されるか、想像に難くないというものだ。

 終身保障というものをもう一度深く顧みる必要があるのだろう。われわれはどこまでこれを願い、どこまで捨て去るか、その線引きが必要なのかもしれない。

 いっそすべて捨て去ってしまえば人生はがらりと軽いものになるかもしれないが、われわれにはどれだけの度胸があるだろうか。しかしわれわれはそのうちひしがれた先例を目の前の親というすがたにたっぷりと見てきたのである。同じ轍を踏むしかないのだろうか。





    「終身楽園」を約束できない男         00/8/20.


 経済成長の鈍化、企業のリストラ、国民年金の崩壊などによって男たちは終身保障を約束できなくなってきた。男たちが女のために必死につくってきた終身の楽園はどうも守り通すことはできないようだ。

 終身の楽園は女たちが先にのぞんだのだろうか。それとも男たちが女にモテたいあまり、一大幻想を打ち上げてしまったのだろうか。

 しかしこれがもたらした歪みはあまりにも大きい。終身保障をのぞむあまり、企業が大切になり、企業活動のじゃまにならないように子どもの数は削減され、男も女も経済活動に精を出したのだが、おかげで少子高齢化による年金破綻というしっぺ返しを食らった。

 終身保障と企業が大切にされすぎると、子孫という保障を支える社会生態が結果的に破壊されてしまうのである。終身保障という一世代の人間のあまりにも重い願いは、未来を逆に断ち切ってしまうとは皮肉なことだ。

 また重過ぎる未来は我慢と忍耐とつまらなさをこんにちの人生にもたらし、おかげで若者たちは結婚からのがれ、定職からのがれる。終身保障は鎖や監獄、積載過重になったわけだ。

 終身の楽園は制度的破綻のまえにすでに精神的崩壊をもたらしていたようだ。

 しかしいっぽうでは終身楽園はだれもがほしいものだ。そこでふたつの願望のあいだをいったりきたりしなければならなくなる。安定か、自由か、それは難しい問題だ。

 終身楽園をのぞむ者は鎖と監獄につながれ、自由をもとめる者は未来と保障を捨てる。

 もし終身楽園を捨てる方向に社会が進むとするのなら、仕事や恋愛、結婚にたいする考えもがらりと変わるだろう。男はころころととりかえられ、仕事も転々と変わり、いやになったらやめ、我慢もしないわがままな行動が当たり前になるだろう。なぜなら何十年も先の楽園計画を守す通り必要なんていっさいないからだ。

 自由化・市場化の社会とはそういう意識になってゆく社会である。長いスパンで我慢したり、耐えたりする必要がかなりなくなる。したがって仕事も恋愛も結婚もひじょうに即時的で、長続きせず、ひとむかし前の終身保障に魂を売った者には眉をひそめる世の中になるだろう。

 それが終身保障という悪魔の契約が崩れ去ったり、なくなったりする社会のごく当り前のすがたである。けっして不道徳でも非倫理的でもないだろう。長期的な利益や損失がそもそもないのだから。「Nothing Loose(失うものはなにもない)」というやつだ。





   「有料セックス資本主義」       00/8/22.


 資本主義というのは性の禁止によって継続していると岸田秀はいっている。(『性的唯幻論序説』文春新書)

 性の禁止というのは女とセックスは有料であるということである。女とのセックスはタダではできず、有料であるから(それも一生かかっても払い切れない超資産級である)、男たちは働きつづけなければなくなくなった――つまり資本主義の誕生というワケである。

 私もまったくそう思う。女というのは高すぎる。しかも一生かかっても払いきれず、一生働きつづけなければならない。資本主義の根幹、というかすべての大元は、ここに集結されると思う。

 これを岸田秀は買売春の普及と一般化だといっている。つまりすべてのセックスは有料になり、無料のセックスは禁止され、女の性欲はないものとされ(乙女や処女)、ために男は女の性を買うことになった。おかげで男は女のセックスのために一生働いていなければなくなった。資本主義が爆走するワケだ。

 キリスト教では性が罪となったため、愛という概念で分離する必要があった。愛というのは一人の男による女のセックスの有料独占化である。ひとりの愛人を囲うのが高くつくように、ひとりの女を妻帯するのもひじょうに高くつく。

 私は一生働きつづける人生なんていやだと思っているし、女にあまり金を出したいとは思わない。たぶん資本主義の男女のありかたに深い疑問をもっているからだと思う。なんで男は女のために奴隷労働をしなければならないのかと思っている。

 いまは性の禁止やタブーがかなりゆるくなっているから、よけいにそう思うのだろう。女の性というのは現在ではそんなに高い値がつくものではないものになっているのだ。

 それに愛や家族が、買い手と売り手の商取引のように金銭売買であるというのはあまりにも卑劣で汚い関係のように思う。平等であり、差別がなく、おたがいの人格を尊重するということは、そのような売買関係をなくすことではないのか。

 離婚する夫婦を見ればわかるように、あとには金銭トラブルだけがのこる。いくら払っただの、いくらしかもらっていないだの。これは愛ではなく、ただの商取引だ。

 性関係の歪みが暴走する資本主義をますます加熱させている。この歪みをなおすには男が稼ぎ、女がセックスを売るような関係をなおすべきなのだろうか。その前提には女には性欲がなく、男のみが欲するから男は稼げなければならないというおかしな捉え方があるから、このような旧い見方に疑問を投げかけることも必要なのかもしれない。

 あるいは性の無料化が進むことが必要なのか。しかしこれには男がトクをし、男に好都合であり、女が損をする、という考え方もないわけではないから、かんたんには奨励できないが、いまの女性は自由に性を楽しむことも増えたので、そうなれば、資本主義の暴走は緩和されるかもしれない。

 高〜い有料セックスが資本主義の根幹とするのなら、性の自由化は資本主義をゆるがすことになるかもしれない。女がかんたんにヤラさせてくれるのなら、男は高〜い借金に苦しまずにすむかもしれない。でもそこには女の経済的自立がなければ、(旧いかもしれないが)女は結婚できないキズモノになるだけである。





    セックスしたいがための資本主義      00/8/23.


 ひきつづき岸田秀の『性的唯幻論序説』の影響下で考えたいと思うが、この本によれば、資本主義というのはセックスがその根底の原動力になっているということだ。

 女はタダでセックスをやらせてくれない。売春でもカネがかかるし、シロウト女性でもプレゼントとなり、あるいは結婚すれば一生養わなければならない。だから男は働きつづけ、どこまでも資本主義をつづけなければならないということだ。

 このようなしくみをつくるには、女自身には性欲がなく、タダでセックスをさせず、男のみがやりたい――つまり買い手となる必要がある。女の性は禁止され、隠され、男にとって崇められるものになり、そして「無料」でなくなり、すべて「有料」になったわけだ。

 女の性がすべて有料になり、セックスは男だけがほしがるものになれば、男は買い手としてどこまでも女のために働きつづけなければならない。資本主義の誕生というワケだ。

 性が禁止され、有料になって、男は稼ぐために資本主義を立ちあげたのである。そもそも性が禁止されたのはキリスト教においてである。禁止というのは有料であるということであり、その買い物をするには愛という一生をかけての生涯返済をしなければならないということになり、資本主義はどこまでも発展をつづけることになったのである。

 しかし禁止され、全面有料の性はとうぜん資本主義に食いつくされる。性の禁止は商売になるから、逆に性の禁止はどんどん解かれてゆくことになる。性の禁止やタブーは資本主義が発展するにつれ、ゆるやかなものになってゆく。

 もとの状態にもどってゆくわけだ。女の性は高価で、崇高なものではなくなり、ありふれた、あまり価値のあるものでなくなってゆく。有料のしくみはどんどん無料化してゆく。

 女の性が無料化してゆくと、男は女のために資本主義する必要がなくなってゆく。高価な買い物をしなくてもかんたんに手に入るからだ。そこで資本主義はその強大なる原動力を失効させてゆくことになる。

 ――と私には思われるのだが、シナリオどおりになるかはわからない。性規範がかなりゆるくなったいまでもやはり、男も女も安定した生活と経済を保ちたいと思っているし、男が稼ぎ、女が性を与えるという基本的しくみは変わっていないからだ。

 でも私には女が性の売り手で男が性の買い手という役割はどうもおかしいと思う。そういう役割は女が禁欲的に生きれるときだけに通用する神話だろう。性が解放された現在でも男はいぜん買い手に甘んじつづけなければならないのか。

 性の禁止が弱まったり、買い手と売り手の関係が変わると、資本主義というのは急速にパワーダウンするものだろうか。よいこっちゃである。男は働きつづけたり、あまりカネを稼ぐ必要がなくなるかもしれない。そういう世の中のほうがまともだと思う。

 性規範と性役割が男の奴隷労働を強制としているとするのなら、これらがやわらかい国はあまり働かない、ビンボーな国なのだろうか。性規範と性役割がこんにちのみじめな労働人生を導いているとするのなら、私はこのしくみを目の仇にする。





     愛と性の分離        00/8/24.


 愛や性などの人間関係は金銭取引として捉えなおすべきである。愛であるとか、善であるとか、倫理であるとか、そういったぼやけた認識で関係を捉えるのはあまりにもピンぼけで幼稚じみたポエムである。

 愛も性もほんとうのところはカネの関係である。愛はあまりにも高級品で、生涯をかけても払い切ることができないもので(結婚)、性というのは売春や援交などで安く、その場限りで買えるものである。

 もともとセックスには愛と性の区別なんかできない。あるのはセックスと性欲だけである。それをキリスト教文化圏では激しく性を嫌悪した。そのかわりに愛という概念をつくり、愛は崇高で、すばらしいものとして性から分離された。

 これを経済関係になおすと、短期的な金銭取引は激しく禁じられ、長期的な金銭取引が男女間に推奨されたということである。前者は売春であり、ときには無料のセックスであり、後者は結婚(終身婚)である。

 売春や無料のセックスは嫌悪され、日陰のものとなった。しかし長期関係、つまり専属の売春婦は正統で正しいものになった。

 医者やマッサージ師はたくさんの客を相手にするが(市場の関係)、セックスにおいてはそのような関係は売春婦や淫売、淫乱とおとしめられ、市場を遮断としてひとりの客だけを相手にする関係が結婚なり、愛と呼ばれ、崇高なものとされるようになった。

 セックスには子どもと養育がもれなくついてくる。したがって女のほうが愛という長期取引を必要としたといえるかもしれないが、男はセックスをそのつど買って高くつくより、長期的に購入したほうが安くつくという算段があったのかもしれない。

 性は嫌悪され、愛は崇められるという関係は、ヨーロッパが大好きな「理性」と「本能」という図式にもあてはまるし、「人間」と「動物」の関係にもあてはまる。しかしこれはいやらしい性と清らかな愛の分離を中心にして生まれた図式なのだろう。

 性の関係が人間の認識や世界観を下支えし、色づけているのである。さらにいえば無料セックスの嫌悪と有料・長期化セックスの推奨の図式が延長されたものである。世界というのは人間自身をみいだすことや自分自身のことだとしばしばいわれるのはこういうことだ。

 性が長期取引になったのはたとえば宿泊施設についていうと、ホテルのように客がいれかわる不安定さより、客がずっととどまりつづける賃貸住宅のほうがおトクであるというようなことなのだろう。

 しかし性は経済的合理性だけでは認識されることがない。愛や恋といったあやふやな感情で判断される。これはほかの人間関係においてもそうだ。怒りや悲しみ、贈与や復讐、刑罰や罰則といった人間関係は感情を起源にして行動される。

 感情というのは理由や説明ぬきでも行動や判断を即断できるものである。文化様式や社会規範というものは、そのように理由ぬきで感情として埋め込まれていて、個人を支配・制御するものである。

 性はきたなく、愛はすばらしいという感情は、もともとは経済関係が説明なしで「感情化」されたものである。漠然とした感情だけで性愛を捉えていると、ほんとうのすがたを見抜けないだけである。





     有料セックス資本主義からの脱却     00/8/25.


 性に罪悪感を感じたり、汚らしい、いやらしいものと感じるのは、性が有料化されているからである。性は個人の資産であり、所有物であり、商品であるから、ほかの人に侵犯されては困る。そういうルールは個人の感情として、罪悪感や汚らしさとして組み込まれているわけだ。

 有料セックスはOKだけど、できれば愛という長期契約の有料セックスのほうがおたがいの性から好ましいとされたから、短期契約の有料セックスは売春としておとしめられた。

 さらに無料セックスが氾濫すれば、女の性的資産の値打ちは下がり、女は男から養われることができるなくなるし、男は生涯働きつづけることがなくなり、資本主義は崩壊してしまうということで、無料セックスは「淫乱」や「売女」などと罵られるようになった。

 しかしこういう有料セックス資本主義というしくみはあちこちから破壊ののろしがあがっている。窮屈であり、つまらないし、屈辱であり、人間の欲望や欲求からかけ離れており、忠実でないという気持ちが強くなったのだろう。

 性は資産ではなく、楽しむものといった性の解放や、非婚、晩婚、フリーター、離婚といった社会現象があちこちでおこっている。

 女性差別や社会的自立の障壁や、男の働くだけの生涯、いやでもつづけなければならない家庭と会社との関係など、いくつもの不満や怒りがたまりにたまっている。有料セックス資本主義というのはここにきて多くのほころびを見せている。

 この資本主義のみじめな性が崩れるには、女性の経済的自立と、男の経済的負担の削減、性の非資産化というしくみが三つ巴に進行することが必要なのだろう。ひとつが欠ければ、ひとつがうまくゆかなくなったり、損をするということになるからだ。

 私は男として働くだけの人生、会社の奴隷労働といったものから早く解放されたいと思っている。女性も性が解放されたり、経済的自立を果たしたいと思っているフェミニズム的な人も多いかもしれないが、どちらかといえば、これまでどおり男に保護される生き方を望む女性たちも大勢いるようだ。そうして性の歪みが生み出したこの資本主義はつづいてゆくことになる。

 男も女もこれまでの性関係と生き方でいいと思っているのだろうか。私は女と家庭のために「人柱」になる生き方、女の性を買う立場なんておかしくて、やるべきではないと思っている。この社会は変わってゆくのだろうか。






    なぜ愛は金銭売買ではないのだろう      00/8/28.


 性や結婚はあきらかに金銭売買といえるのに、なぜ「愛」というロマンティックな言葉で煙幕が張られるのだろうか。なぜビジネスや商売として主張されないのだろうか。

 性や結婚は金銭関係と捉えたほうがより現実を見すえられるし、現実のすがたはあくまでも金銭売買に忠実である。それなのに人はなぜカネではなく、「愛」といいたがるのだろうか。

 露骨すぎるとか、えげつなさすぎるとか、あまりにも利己主義的だからとか表面的にはいろいろいえるだろうが、ぎゃくにいうと、愛というロマンティックな煙幕は現実のありようを見事に隠してしまうし、現実にあざむかれることになってしまうので、真実のすがたを正直にいいあらわしたほうが親切だと思うのだが。

 たとえば性関係では商売としての売春は忌み嫌われるが、愛としての性や結婚は正しい、もしくは正統のものとされている。しかしどちらもカネの取引が根底にあるのは疑いようがない。愛ある家庭の住人は金銭取引の売春婦を非難することによって、愛の正統性を主張しているだけだ。

 性や愛、家族はビジネスや金銭取引にはなってはならないのである、もしくは一線を画さなければならないのである。そのために金銭による売春婦は反対項としての目印として必要なのである。

 カネや金銭取引は性愛の根底のかたちをしっかりと決定づけておりながら、しかしなぜ表面や表立ったところでは隠蔽されてしまうのだろうか。

 人は崇高で聖なるものを欲してしまうものである。カネであるとか、モノであるとか、そういう世俗的で卑近なものだけを目的にする生はあまりにも貧困である。崇高で聖なるものを、たとえ内実は皮相なものであっても、それを追っていると思いたいものである。

 おかげで愛は、性は、家族は、または企業や国家は、非現実的なまでの献身や犠牲を人々から得ることができるようになる。かくして愛や崇拝の対象は、人々から生命や人生、労働や献身を無際限に捧げられるのである。

 なぜ人はそういう対象を必要としてしまうのだろうか、生命や人生、すべての時間を捧げ尽くしてまで。

 もしかして自己の価値を貶めないために、人は崇高なものを欲してしまうのかもしれない。自分が存在するに値しない、ちっぽけで、劣った人間とは思いたくない。そこで崇高で、聖なるものに肩入れして、同じように自己の価値もあがったと思いたがるのかもしれない。

 劣った人間も、崇高なるものも、やっぱりいずれも人間の言葉や想像力がうみだした幻想である。われわれは価値の上下や聖俗という二元的な幻想をもったがゆえに、聖なる対象にみずからの人生を投げ打ち、捧げ尽くしてしまうのかもしれない。

 われわれは崇高なもの、聖なるもの、愛といった幻想から、目を醒ます必要があるのかもしれない。そしてその反対としての、またそれが生まれた土壌としての、人間の虚しさ、価値のなさ、劣ったありかたといった幻想を打ち消す必要があるのかもしれない。





   歴史に浸かりたくなった『百年の物語』   00/8/30.


 大正からの女の三世代を描いたTBSドラマ『百年の物語』は、歴史のなかにどっぷりと浸かれてひさびさに感動した。さいきん、こういう親子三世代にわたって描くような歴史ものとか大河ものとかあまり見かけなくなったような気がするので、そういうつくりの長編というだけでもありがたかった。

 私のいま思い出せるだけでは、映画でベルトリッチの『1900』とかスタインベックの『エデンの東』くらいなのかな。親子を因果でつなげたような物語というのはそんなにないのかな。『バック・トゥ・ザ・ヒューチャー』も親子がそれぞれの世代で同じ関係をつくりだしていて、それがまたおもしろかったけど、そういう超世代的な視点から見る人生というのもすごく深みとせつなさがあるものだ。

 第一話は地主の娘と小作人の愛で、二話は日系人との愛、三話は偶然にも出会った一話の孫の関係の再生で終わっていた。

 この物語は基本的には女性のための物語である。女性の自由や自立、そして過去の不自由や抑圧などをうたっているから、男の私としては見るべき視聴者ではなかったのかもしれないが、やっぱり歴史の中の世代という視点の物語は私には外せない。

 女の現代の歴史は、女性の自由や自立というテーマで、歴史を物語りづけることができるということはある意味ではうらやましいというか、そういう歴史物語をつくれるということが、女性にとっては現代という時代は張合いのある時代といえるのかもしれないなと私は思う。

 男は現代に歴史の物語を描けるのだろうか。男の物語といえば、世界に肩を並べようとして戦争と経済にいれこんで二回とも敗戦、戦後もこぢんまりとした会社勤めのしがない人生。男の世代のロマンあふれる物語なんてちっとも描けない。出世物語とか成功物語とかで大河ドラマを描けるだろうか。描けたとしてもてんで楽しくないだろう。

 この物語は世代の因果をもっとつなげてほしかったのだけど、この物語ではちょっとそのつながりが薄かって残念だった。三話では地主と小作人の孫の偶然の恋が出てくるのだが、その因果がちょっと弱くて、世代ごとのつながりが物語ごとに切れている印象があった。つなげなきゃ三代の歴史はおもしろくないと思うのだが、このドラマは女性の自立がテーマだから、仕方がないのかな。

 歴史という視点は、その長い時間のなかで短く終わってゆく人の生というものを浮き彫りにする。登場する人物はどの人ももう死んでしまった人たちである。そういう視点から人々を見るからは、はかなさや悲しさがひとしお強くなる。

 何年か前にNHkで『映像の世紀』という今世紀の映像を見せるスペシャルをやっていたが、この番組もそういう視点でつい見てしまっていたから、涙ばかりがあふれ出てしまっていた。

 まあ世代の歴史を描く物語はとても感動するということである。『百年の物語』は世代の因果がちょっと弱くて残念だったけど、世代の歴史のなかにいっときの時間を忘れることができたので、こういう歴史物語にまたどっぷりと浸かりたいものである。



つぶやき断想集
総力戦と国民国家




    美人と市場原理       00/9/3.


 美人も市場経済に従うということを井上章一の『美人論』(朝日文庫)は思い知らせてくれた。

 やはり美人は結婚市場においてよく売れる。明治・大正期において美人は学業のとちゅうにおいても嫁にもらわれてゆき、さいごまで学校を卒業することは少なかった。

 明治になって華族と平民の結婚が認められるようになって、女学校に授業参観と称して親たちが露骨な嫁選びにやってきていたそうだ。女学校というのはまるで商品市場のようなものだったワケだ。

 明治の立身出世男や成金男たちは、伝統や歴史がないだけにあって美人という「見せびらかし」のシンボルを必要とした。美人という価値観は、明治の市場経済においてその値打ちを立身出世的にのばしたわけである。

 したがって卒業まで学校にのこる女性は売れ残りということになり、倫理的な要請からも、また美人は卒業までのこらないということで、美人はバカだという流説がささやかれることになる。美人は結婚市場の勝ち組であったが、学業においてはそのおかげでおろそかになった。

 時は流れていまはだれもが美人になれるという時代である。美人は特権的なものではなく、磨いたり、装ったりして、だれもが「平等」に「民主主義的」に手に入れられるものになった。

 こういう言説を必要としたのは、化粧品や美容品、ファッションなどの産業が大衆市場の拡大をもくろんだことによるものである。だれもが美しくなれると思わなければ、それらの産業に女たちが群がることはないからだ。ここからも平等とか民主主義というのは市場マーケットの要請と必要によるものだということがわかる。

 さて結婚市場は美人がかなり有利であったわけだが、美人をバカだとか罪悪だとかいって慰められてきた市場の売れ残り組たちは、知能や技能によって経済的自立の道の先鞭をつけ、切り開いてきた。

 女たちは結婚市場において美人のひとり勝ち状態から、平等と民主化、あるいは社会主義化という「社会的進歩?」をへてたわけだが、どちらかといえば、男に選ばれ、買われるよりか、自分で経済的自立をはたしたほうが楽しめるという方向に進んできつつある。かつての負け組は勝利を得つつある。

 これから女たちは恋愛・結婚市場というくびきから逃れる方向に進んでゆくのだろうか。もし女性が美貌や性といった商品を売らないようになるとしたら、男と女の関係は経済の関係から抜け出すのだろうか。そうなると美とか性といったものはどのような価値や意味づけの変貌をこうむることになるのだろうか。





    終身愛と国民国家と大衆市場      00/9/4.


 恋愛においてひとりの異性を生涯愛しつづけることがこんにちの理想である。崩れかけているかもしれないが、意外と根強い崇拝をもちつづけている。

 これは企業と労働者のあいだにおいても終身雇用という関係としてとりかわされてきた暗黙の約束である。

 また国家との関係においても、労働と税金の報いとして老齢年金という生涯保障が約束されてきた。

 このような生涯をまるごと保障するという関係は、国家同士の争いが盛んになってきた近代という時代の要請によるものである。

 つまり国家同士の争いにおいては軍事力、経済力、知識力とともに優れていなければ勝つことができない。したがって国民をそれらの武・富・知のジャンルにおいて総動員する必要がある。

 国民をそれらの用途として役立てるためにはなんらかの見返りが必要になる。ということで終身保障というまことに親切であたたかい約束がもちだされてきたのだろう。国民は喜んで国家のために働くだろう。

 前後は逆になるかもしれないが、経済が発展するためには階層社会というものは撤廃しなければならない。マーケットがそれぞれ士農工商という身分にわかれていたら、すぐに限界はくる。

 ということで階層は撤廃され、平等が標榜され、マーケットはいっきょに大衆規模にふくれあがるが、なおいっそうのマーケットへの貢献と国家への献身を得るためには人権や民主主義のような見返りを与えることが必要になる。

 平等で大規模なマーケットができたのはいいが、こんどは市場競争によってふたたび貧富の階層をうみだすことになってしまう。これではマーケットは縮小し、また国家への経済的寄与は少ないものになってしまうし、国民の献身をうみだせない。

 そして終身保障という社会主義的理想がもちだされてくるわけだ。このことによって国民はよりいっそう国家のために働き、あるいは企業のために働き、平等のために消費をし、マーケットに貢献するというわけである。

 しかし終身保障は堕落と衰退をもたらす。パンとサーカスが与えられれば、人々は努力することも、向上することもなくなるからだ。人々の重みで国家はつぶれ、経済はたちゆかなくなる。

 したがって国家も企業も人々を放り出すようになった。人々を結集する目的や用途がなくなってきたということもあるだろう。あるいは労働者も国民も女性も、終身のくびきから逃げ出すようになった。

 国民国家と国民総動員の時代は終わったということだ。国家や企業は終身を保障するということがなくなり、男と女は終身愛という約束を必要としなくなる。それぞれはご勝手に、生涯の面倒は見ません知りませんという具合だ。

 政治や経済、愛などの関係はそれぞれ連動している。まったく無関係のべつべつの事柄ではないということだ。






    いつの間にか年をとるだけ      00/9/6.


 私は今年で33才になるのだけど、いつの間にかこんな年になっていたという感じがする。結婚もせず、家庭ももたず、ただ、たんたんと日常を送っていたら、いつの間にか年をとっていたという感慨だけがのこっている。

 人生というのはこんなものなのだろうか。いつの間にか年をとっていて、そういう感慨をもちつつ、40才、50才となってゆくのだろうか。

 べつに子どものときになにかになりたいだとか、こんなふうな人生を送りたいだのとか、こういう家庭を築きたいだの、そういった夢や希望はほとんど抱かなかった。そういうものをもたない人間は、ただ年をとっていただけの人生を送ることになるのだろうか。

 でもなにか夢や希望をつかんだとしても、たぶん人生の感じ方というのはそう異ならないと思う。なにかをつかんだとしても砂のようにこぼれ落ちてゆき、つかまなくても砂のように流れてゆくものなんだと思う。

 なにかをつかめると思うのは幻想なんだと思う。家庭をもったとしても、社会的に業績をあげたとしても、それは砂をかむような思いがするものだろう。それらをもっていない者のみが、もつことの幸福を夢想できるのだろう。

 べつに私は感傷に流れるつもりはない。でもたまにはそういう気分や感傷にひたりたいときもある。

 こういう感傷は人生に害をもたらすものであり、人生に苦悩と苦痛をつけたすだけであるという心理的な知恵をつけているので、これいじょう感傷を拡大させるつもりはないけど、たまには過ぎてゆくだけの人生というものを反省してみたくなる。

 感傷と苦悩は、夢や希望、欲望といったものに安易に結びつくのだろうけど、これは戒めるべきだろう。

 なぜなら感傷や苦悩といった感情の反対側に希望や夢といった救いがあるのではなく、それらは同じコインの表裏であるからだ。裏がなければ、表がないといったひきはなせない関係である。

 感傷や苦悩は反対側の希望につなげるのではなく、それ自体を消すべきなのである。消してしまえば、「砂上の楼閣」としての夢や希望をつくりださずにすむ。





    「思い出」に生きる人       00/9/9.


 思い出というのはすばらしいものかもしれない。うれしかったこと、楽しかったこと、よい出来事というのは何度も何度も思い出したいものかもしれない。

 しかしいまの私は思い出を思い返すことはほとんどない。よい思い出とかすばらしい過去だとかもほとんど思い起こすことはない。

 過去を反芻すること自体、ほとんど捨ててしまったからだ。なぜ捨ててしまったかというと、過去は幻であり、それにしがみつくことは苦しみを足すだけであり、捨てるべきだというリチャード・カールソンのセラピーとかカーネギーとかウェイン・ダイアー、ピールなどの自己啓発、あるいは仏教を読んだ影響からである。

 思い出を思い描くということは過去を反芻する習慣をかたちづくってしまうものである。そういう習慣を堅固にしてしまうと、かならず過去のいやなこと、つらいこと、傷つけることをひんぱんにくり返す習慣をもかたちづくることになる。

 ましてや思い出というのはすべて幻である。終わってしまい、どこにもないものである。そんな存在しないものをいつも追いつづけるということは、失って二度ととりもどせないものを追い求める哀れな憔悴しきった人のようなものである。

 そういう過去や思い出を捨てると、苦痛や苦悩の感情も大半はとりのぞかれる。私は以前はよく過去を反芻するタチだったが、いまはもうすっかりそういう習慣は愚かなことだとしてやめてしまった。

 甘くて楽しい思い出を捨ててしまって、幸福になったのか、ふしあわせなのかはよくわからない。ただ過去のつらい思い出のために悲しんだり、苦しんだりして、ムダで苦痛の多い時間を過ごすことはほとんどなくなった。

 そういうふうに自分を変えてみると、見えてくるのが恐ろしいほど過去の思い出にしがみつき、思い出に生きようとする人たちやその試みが、この世の中にはくりひろげられているという事実である。

 ドラマや映画では何日も前のことや何年も前のことをまるで今日おこったかのように蒸し返したり、過去とともに生きている人たちがわんさかと現われてくるし、ビデオやカメラ、車のテレビ・コマーシャルなどでは思い出を蓄積するのがすばらしい生き方であるとメッセージしつづけている。

 写真やビデオは思い出をいつまでも残しておくことができる。楽しい、なつかしい思い出がたくさんあることはいいことかもしれない。しかし過去は二度と体験することができないし、思い出はもうすでに存在しない幻であり、そして逆に思い出のために旅行したり、遊びに出かけるという逆転した行為がおこなわれるようになる。

 これは違うと思う。思い出のために今日を生きるというのはまるで人生の終わりの老人のような生き方だ。思い出に生きる人生というのは、すでに行動や喜びが実体験として得られないから、頭のなかの想起によって充足する生き方なのであって、すでにひからびた生き方である。

 喜びや楽しみなどの感情はいまの一瞬しか感じることができない。過ぎてしまえば、二度と同じ感情、同じ体験を得ることができない。思い出はたんに頭のなかの思い出にしか過ぎない。幻である。

 すべては一瞬にして終わってしまい、二度と体験も感じることもできないものである。だからいま一瞬の出来事や感情をもっと大切にしようという気持ちになる。過去のいやなことやつまらないことで悩んでいる暇なんかない。どんな一瞬も二度と同じ瞬間をくり返すことはないし、二度と体験できないものである。思い出を捨てよ。






   「平凡を軽蔑する教育」       00/9/10.


 「偉い人になれ」という教育は「平凡を軽蔑する教育」である。こんな教育をうけた平凡にならざるを得ない大半の人は不幸なことである。平凡な自分を呪うような人生がはたして幸福になれるだろうか。

 私も子どものころ、歴史のなかに無数に消えていった無名の人生といったものに怖れをなしていた。歴史に残った有名な人に比べて、この人たちの人生はいったいなんだったんだろうと思っていた。

 そういうふうに育てられた人間が、無数の平凡な人の群れの中に埋まってゆく人生が耐えがたきものになるのは想像に難くないというものだ。

 歴史で将軍や皇帝だけの生涯が語られるということはふつうの庶民を無に等しい存在と見なすことを教え、成績の序列は平凡を忌み嫌う心をつくりだすのである。

 そもそもこんにちの教育の基礎をつくった明治政府は「革命」政府であって、世の中を変えた人だけに価値を見出すものだ。革命家と優秀な人だけを称賛する教育がおこなわれるのはとうぜんのことだ。だから学校の歴史だって有名人の称賛である。

 こうしてわれわれは平凡を軽蔑する人間として洗脳され、平凡から脱け出そうとする教育序列によって平凡さを恐れ、上昇を願うエネルギーにたえず駆動づけられるというわけだ。

 ニュースもテレビも書物も、有名人と優秀なものばかりをとりあげられる。平凡な者はほとんどかえりみられないか、無視されるか、軽蔑されるだけである。世の中の大半の人はふつうの平凡な人ばかりで構成されているというのが現実であるのだが、メディアや教育においては平凡人はほぼ抹殺されている。

 この世はこぞってエライ人をほめたたえる社会である。この価値観を基盤にメディアや社会は階層づけられ、人々の常識となり、人々の心の色メガネとなっている。

 そしてこの価値観、ヒエラルヒーによってわれわれの競争社会や優劣競争は永遠にとまることがないというわけだ。競争はエライ人をほめたてるメディアと教育によって日々再生産され、増幅されているわけである。

 これを逆にひっくりかえすと、「賢者を尊重する者がいなければ、人は競争しないだろう」(老子)ということである。

 そういう試みをしたのが民俗学者の柳田国男や宮本常一である。かれらは日本の名もないふつうの人たちの歴史や生涯を追った。

 われわれはこういう名もなき民衆たちの歴史や生涯を学ぶべきなのである。それでこそ、名もない一般民衆にたいする誇りや尊敬の念がうまれるというものである。しいては、平凡に生きざるをえないわれわれ自身への讃歌と応援歌にもなる。

 歴史は政治屋のドンパチをとりあげるのではなく、名もなき一般民衆の苦しんだり、つらい思いをしながらも懸命に生きてきたかれらのすがたこそをとりあげるべきなのである。

 そういう本としてふさわしいのが宮本常一の『生業の歴史』(未来社)である。名もなき民衆たちのたくましくも懸命に生きてきたすがたがいきいきと描かれている。

 ついでに歴史に名を残すことが永遠の生を得るような錯覚をいだいている人は、マルクス・アウレーリウスの『自省録』(岩波文庫)が解毒剤となるだろう。





    「無職」が尊敬されていた時代?     00/9/14.


 山田霊林という禅仏教者によると、明治の終わりころには「無職」であることが尊敬されていたそうだ。職業は軽蔑されていたそうである。

 初耳というか、現代の一般常識ではまず耳を疑う話である。無職は憐れみか、白い目で見られるかのどちらかだ。(江戸時代には武士が支配層であったから職業は軽蔑されていた、と歴史で習ったことがあるが)

 なぜこんなに変わってしまったのだろう。無職が尊敬されていた時代の考え方とか背景とかなにか資料が手に入ればいいのだが、なかなかそういったことを記した資料なんか目につかない。

 推測するにたぶん明治という時代は貧富の格差がある程度肯定されていた時代だったのだと思う。現在のように平等政策ではなく、金持ちはとことん金持ちになれた時代だったとどこかで読んだふうな気がする。

 したがって働かなくとも食える金持ちが続出したのだろう。そういう金持ちの無職はとうぜん現代のカネのない無職と違って、憧れの的となったことだろう。

 しかし時代は変わり、累進課税のように金持ちから儲けた分だけ税金をとるような平等政策がはじまると、とてつもない金持ちは減り、金持ちになるモチベーションも削りとられてしまったのだろう。

 「国民総動員」のような戦時下の意識形態も、「働かざる者食うべからず」といって存続しつづけているから、無職は軽蔑か、憐れみの目で見られるようになったのだろう。

 職業が軽蔑から尊敬へ、無職が尊敬から軽蔑へと時代は変わってきたということである。現代のわれわれはそんなことをほとんど知らないし、たぶん職業の軽蔑視を見たくないから、ことさらいまと違った価値観があったことを表に出そうとしないのだろう。

 私としては時代背景や考え方は異なるようになるかもしれないが、ふたたび無職が尊敬される時代になってほしいものだ。人間の生き方として、人生として、現在のように生涯を職業のみに拘束される人生はあまりにも卑小で、矮小だと思う。井戸の中の人生みたいだ。

 人生として、人間の栄誉ある生き方として、無職が高揚されてほしいものだ。生活とかカネのことを現実的に考えれば、そんな非現実的なことなんかとても言っていられないかもしれないが、人生として、人間として考えるのなら、職業のみに拘束されない人生というものはとてつもなくすばらしく、可能性のあるものに見えるのだが、どう思われるだろうか。





    「総力戦体制」は終わっていない       00/9/15.


 戦争はいまもまったく終わっていない。ずっとつづいている。この社会は近代の総力戦によってかたちづくられたものであり、いまもその体制を根強く維持しつづけている。この社会はいまもなお「戦時体制」なのである。

 われわれは「戦争は悪いものだ」「二度としてはならない」といった教育をうけて、戦争にたいする深く、強い嫌悪感と憎悪をもっている。

 しかしこの社会は表面上戦争中ではない生産と消費のすがたをとっているが、それらは戦争のアナロジーにすぎなく、かつ戦争の別形態にしかすぎない。生産は戦争とコインの表裏である。

 われわれは戦争の下準備を着々と進めているにすぎない。または仮想的な戦争をくりひろげている真っ最中である。

 そしてわれわれの人生は戦争に捧げられ、戦争に従事させられているというわけである。平和時においては人殺しではなく、生産というかたちをとっている違いはあるが。われわれの人生は戦争の道具として捧げられているのである。

 バタイユや栗本慎一郎によると、戦争中は平和時の禁止や抑圧、退屈さといったものがいっせいにとりはらわれるわけだから、人類はその快楽のために平和時に生産や労働の「禁欲」に身をひたしているというわけだ。快楽は禁欲すればするほど大きくなるものである。

 戦争の「快楽」なんてわれわれには信じがたい話だ。戦争のイメージには徹底的に「悪」や「殺人」の最高悪のラベルがほうりこまれているからだ。

 だがカイヨワの『聖なるものの社会学』(ちくま学芸文庫)を読んではじめて実感したのだが、戦争には平和時にはない、快楽や崇高なもの、聖なるものが味わえる瞬間があるそうだ。この本を読んで、戦争はほんとうに宗教的な法悦だと感じられた。

 戦争というのは「祭り」なのである。日常において禁止されていたもの、日常においてのわずらわしさ、こまごまとした日常のつまらないささいこと、生活の苦労や心配、退屈、そういったものがいっぺんに吹き消され、禁止がいっさいとりはらわれるのである。強烈な熱狂や陶酔を誘うというものだ。

 もしこの社会がそのようなシステムで構築されているとするのなら、こういうあり方は早急に見直さなければならない。戦争の魅力や陶酔にひきよせられないようなしくみを早急につくりださなければならない。さもないと禁欲者は戦争の快楽へと無意識になだれ打つに違いないのだ。

 社会の「総力戦体制」というシステムを日常のレベルから打ち崩してゆくこと。総力戦体制はわれわれの日常の、たとえば労働や企業、家族のあり方、日々の過ごし方、といったあらゆることに浸透し、制度づけているものだと考えられる。こういう基底的で日常的なことから再検査してゆかないことにはおそらく人類は戦争の法悦へとまた流れ込むことだろう。





   「総力戦」と「国民国家」について考える    00/9/16.


 現在も総力戦はつづいている。経済や生産というかたちをとっているが、これは国家間の戦争にほかならない。そしてわれわれの人生や労働、生き方といったものも、かなりの比重において総力戦に捧げられていると考えられる。

 終戦の時点によって「総力戦」は終わったのではない。経済としていまなお継続していることは、現在の経済システムの起源は「1940年代体制」であると学者の間でいわれているように、コンセンサスを得ている。

 私は自分の人生が労働や企業や国家に捧げられるような生き方をしたくない。そういう観点からも、総力戦と国民国家というものを問うことは、ひじょうに重要なことだと思う。

 むかしの戦争は武士や貴族などの専門家集団のみの闘いだった。関ヶ原の合戦などに百姓は弁当をひろげて観戦していたというくらいだから、戦争は一般の民衆にとってカヤの外の話だった。

 それが近代の総力戦の時代になって、人々は国家のために命を捧げ、国家のために人々を大量に殺戮するようになった。なにが決定的に違うようになったのか。民衆は「国民」になったのである。国家と命運をともにするようになったのである。

 人々が国家に命を捧げるようになったのは、民主主義や人権、社会保障、経済政策を国家から与えられるようになったからだ。国家からたくさんの捧げものをもらい、その見返りとして人々は国家に命や人生、労働を捧げるようになったのである。

 フランス革命やデモクラシー、人権の獲得などは人々を「国民」としてひきあげ、総力戦に駆り立てるためにぜひとも必要な契機だったのである。こう考えると人権の獲得は人類の輝かしい進歩というよりか、国家間戦争の洗脳と道具化する機会にすぎなかったということになる。

 日本人はさきの戦争において、戦争を放棄したはずである。しかし総力戦や国民国家の心性は根強く、ときには経済的な最高位を狙う位置までのぼりつめるほど、深く根底まで染み込んでいるのは、意外と人々の意識にはのぼらない。

 戦争を放棄するということは、総力戦のシステムまでも放棄するということであり、国民総動員の経済まで放棄することではないのか。われわれ個々人の心性において、なんらかのジャンルで世界のトップをめざすこと、そういった心性をまったく解体することが、ほんとうの意味での戦争放棄の完成にはならないだろうか。

 われわれの生活のささいなこと、労働や生産、消費、家庭、そういったすみずみにまで総力戦のシステムや価値観、序列順位は浸透しているはずである。こういった社会的価値観を根底まで洗い直さないことには、おそらく総力戦――戦争の機会はこんごずっとつづくことだろうし、われわれは人生を、生涯を、これまでどおり国家に捧げ尽くさなければならないだろう。

 日本人はその心性と社会の価値観において、戦争システムをてんで放棄していない。





    「総力戦」と「優劣価値」の恐怖   00/9/19.


 いま、総力戦とか国民国家というキーワードに興味がある。こんにちの経済至上主義をうみだしたのは戦前あるいは戦時中にはじまった総力戦によるものだと考えられるからだ。

 しかし軍事的な総力戦が、一般民衆の経済至上主義の意識にどうつながってくるのかということがわからない。なぜ一般の人たちは総力戦に奉仕するメンタリティをもちつづけているのだろうか。総力戦の価値観は一般の人たちにどのように浸透しているのだろうか。

 国家同士の総力戦というのは、日常のレベルにひきおとしてみると、隣りに勝ったとか負けたとかの価値観と通底している。こういう「勝ち負け」の価値観は、すこし広がると自分が属する企業の利益ランキングとかシェアランキング、地域の勝ち負けにまで敷衍され、そして大きく広がれば国家同士の競争にまでつながってゆく。ここには個人の自我がそれらの対象に同一化する心理メカニズムがはたらいている。

 要は大から小まで人は優劣価値を競っているというわけだ。その価値観があるかぎり、人は隣近所の優劣を競い合い、隣国との戦争に明け暮れるのだろう。

 ただ国家が総力戦に邁進するのは勝ち負けのレベルの話だけではない。経済恐慌や景気後退、他国からの侵略や支配という恐怖もあるから、国家はぜひとも経済的にも軍事的にも優越のシンボルを必要とするというわけだ。

 はじめに恐怖ありきだ。そして恐怖は勝利や優越を志向する。日本の近代国家化が西洋列強の植民地支配の恐怖からたちあげられたのはわかりやすい例だ。ヨーロッパの近代化もイスラムの脅威であったのだろう。

 劣等の恐怖や生存競争の恐怖が人々を駆り立てる。恐怖からたちあがったそれはどこまでいっても切りがない。優越や勝利で鎧や楯で身体を飾りつけようとするのだが、相手も負けてはおらず、恐怖はどこまでいってもやむことはない。ついには大量殺戮へとみちびかれる。競争相手が存在しなければ、恐怖は存在しなくなると思うのはとうぜんの帰結だ。

 恐怖というのは幽霊の恐怖と変わりがない。実体のない恐怖なのに逃げつづけている当人にとってはそれは実物のものにしか思えない。

 近代の歴史というのは「優劣の病」だったのだろうか。小は学歴競争や貧富競争、大は国家間競争と、われわれの社会や世界は優劣価値にすべて浸食されている。

 国家総力戦は日常の個々人の優劣競争の拡大版であり、また代替物である。国家に自我が同一視されるメカニズムは、選挙権とか日本語、国土、福祉政策などさまざまなものの洗脳によるものだろう。

 戦後の日本人は経済的な優劣基準を選択し、あるいはみずから選びとってきた。軍事的な戦争は放棄しても、心性としては同じ総力戦の価値観を生き、または背負い込まされてきた。

 総力戦の価値観を敗戦によって問うことができなかったのは日本のひじょうに残念な失敗だったと私は思う。どんな対象や手段をとろうとも、国家の総力戦に奉仕させられる個人が幸福になるとはとても思われないからだ。

 経済であれ、軍事であれ、国家総力戦のメカニズムを解体することがいちばん重要なことではないかと思う。国家のくびきから解放されるとき、われわれはもうすこし自由に好きな人生を選択できるのではないかと思う。





     戦争の日常化       00/9/21.


 戦争は終わったのではなく、日常生活や産業システムがすべて戦争のためにシステムづけられている。日常や産業システムが「戦争化」してしまっているのだ。

 産業は戦時になれば最大限活用されるシステムに適合しているし、人々は選挙権や社会保障、人権もろもろを与えられ、国家と運命をともにするメンタリティを組み込まれている。

 ぎゃくにいえば、現在の産業システムやわれわれの労働力というのは、戦争においてはじめてそのもてる力を最大限に発揮できるのである。いまはかりに生活用品や消費に捧げられているわれわれの活動は、戦時になれば、たちまち戦争機械としてフルパワーの能力と機能に転嫁するのである。

 この社会は戦争のための産業システムであり、われわれは戦争のために労働機械化された国民軍隊なのである。

 このシステムは第二次世界大戦で終わったのではなく、ますますその精緻さと能力機能を増している。国家の戦争化は近代のはじまりからとどまりようがないようである。

 人々が選挙権を与えられたり、国民になったり、社会保障を与えられたりしてきたのは、国民の軍隊として、能動的に戦地におもむく兵力として、国民すべてを最大限に活用するためのシステムにしかすぎない。

 国民が教育を与えられたり、労働者として保護されているのは、国民兵力の増強のためである。近代はすべてを戦争化するための歩みにしかすぎなかったといえるのである。

 近代の国家間の戦争はその影響力やパワーがあまりに大きすぎたために、われわれの生や産業、政治のすべてを「戦争化」しなければならなかった。戦争に国民の全機能を集中しなければ、戦争に勝つことも、防衛することも不可能だったのである。

 われわれはすべてを戦争化された時代に生きている。労働も産業も政治もすべて戦争に集約されている。たとえ表面的には戦争がなかったとしても、好むと好まざるにかかわらず、戦争総動員システムのなかに生きていることを忘れてはならない。

 このくびきから逃れる方法なんてあるのだろうか。戦争と国民国家についてもうすこし考えてみるべきだろう。



つぶやき断想集
民主主義+社会保障=国民戦力化




    少年のころへの郷愁      00/9/26.


 40才の男が8才の自分と出会うブルース・ウィルス主演の『キッド』を観てきた。映画館に足を運ぶのはひさしぶりだ。

 この作品はテーマがよすぎる。大人になった人はだれでも少年のころの夢を見失ってしまっているものだ。そういう夢を思い出させるこの映画はこのテーマだけで名作だ。

 だから私としてはもっと感動させたり、驚かせたりしてくれるストーリー構成にしてほしかったと足りない部分に目がいきがちになってしまって残念だ。

 しかし40才の男が8才のころの時代に帰るあたりは涙モノである。なつかしい学校のグラウンドや、亡くなってしまった母との再会には涙があふれた。

 40才になった自分は、子どものころに描いていたパイロットにもなっていなかったし、家庭ももっていなかったし、犬も飼っていなかったし、「ムカつく奴」になりさがってしまっている。大人になった人はそういう自分に気づかないものである。少年の存在はそういう自分を垣間見させてくれる。

 だけど少年というのは夢や将来があったから幸福であったのではなくて、おそらくそんなものがなんにもなくても幸福な存在であったのだと思う。

 現代では夢や目的があるから幸福になれるみたいな常識があるけど、これは近代のイデオロギーのウソだ。少年のころはなんでもないことでも好奇心をもったり、感動したり、喜んだりできたから幸福だったのだ。そういう少年のころの心をとりもどせたらすばらしい。

 この映画では少年が現代にやってくることのできた理由の説明がいまいち弱かった。タイムマシーンでやってきたのではないし、魔法でやってきたのかな。40才から30年後の飛行機も家庭も犬ももっている幸福な自分が少年をつれてきたということになっていたみたいだが、いくら大人のファンタジーとしても納得しづらかったな。

 まあ、少年のころの心や、その時代への郷愁というものは、いつまでたってもわれわれの心に刻み込まれているものだ。そのことをこの映画はうまく引き出してくれた。だから私は思わず、あまり居心地のよくない映画館にひきこまれたのである。

 少年のころの私は無邪気で、物事を悪く思わない、よく笑う子どもだった。いまではすっかりひねくれて、批判的でネガティヴで、ちっとも笑わない、自分の人生をつかみ損ねている大人になりつつあるようだ。だからこそこの映画『キッド』は私の心をつかんだのである。





   自由・平等・人権は国民戦力化のごほうび     00/9/29.


 自由・平等・人権などのデモクラシーは人類の偉大なる進歩やすばらしき栄光だと思われているが、なんのことはない、国民総力戦という視点からながめると、たんに国民を戦力化するためのごほうびに過ぎないということがわかる。

 かつての戦争は貴族や雇われ兵のみの戦争であったが、近代になると国民を総動員する国のほうが強いことがわかってきた。フランス革命やナポレオンの時代のことである。

 階級や差別によって民衆を上から押さえつけ支配するよりか、国民に自由や人権などを与えたほうが、より戦力になりやすく、みずから国家のために犠牲になるような戦力としての「国民」をうみだすことができる。したがってデモクラシーや人権などの乱発が、近代以降におこってくるわけである。

 また国家の力は経済の力でもある。モノを大量に生産し、大量に流通させるには、工場や輸送路の確保と拡大が必要になる。こんにちの産業・工業社会は、全国を道路でつなげた工場と化した。あるひとつの目的――たとえば戦争遂行などの用途にぴったりである。

 デモクラシーや人権は人々の流血や惨劇とひきかえに国民は勝ちとってきたということになっているが、戦争や市場経済という点からながめると、人々をより「国民戦力化」してゆくためにはぜひとも必要な「恩給」や「給与」だったのである。「タダ」で手に入るものなんていうのは甘すぎる。

 われわれは「国民」となってしまった。国籍や人権、参政権があたえられ、自由や平等というボーナスまでもらえ、おまけに年金や健保のような福祉サービスまでもれなくついてくる。

 が、それゆえにわれわれは国家の恩に報いなければならない。国民として義務をはたさなければならない。ついでに国家の神格化の神話もおまけについて、国民戦力化の情熱と崇拝に駆られるというわけである。

 人類はそれらの権利を血とひきかえに獲得してきたのではない。人類の進歩や達成なんかではない。戦争と市場経済で勝つためには、みずから国民戦力化してゆく人材が必要だったのであり、あるいは無意識な帰結だったのである。

 現在は擬似戦争であった冷戦構造が終わってしまった。国民総力戦システムの必要性が薄れ、目的も方向も定まらず漂流しはじめている。戦争のかたちは、経済や政治としてあらわれるその形態をどのように変えてゆくのだろうか。





   「経済総力戦」が終らないのはなぜか       00/10/2.


 この国では軍事的な総力戦は表立ってはなくなったが、経済的な総力戦はいっこうに終わっていない。国家をあげての経済総力戦システムはいまだにつづいている。

 日本国の経済が世界第何位だとか、トップの差はどれくらいだとか、そういった国家を基準にするモノサシはマスコミでしょっちゅう流されている。

 そしてわれわれ一般の市民はそれをわが事のように一喜一憂する。国民戦争の心性はいっこうに破棄される気配はない。

 われわれは「国民」であるかぎり――また一国の経済に一喜一憂するかぎり、総力戦のメンタリティの呪縛から逃れられることはないのだろう。「国民」として経済や政治の動向を気にするかぎり、総力戦システムは瓦解することはないのだろう。

 総力戦システムは個人が国家に同一化する心性によって継続させられている。または企業や地域、なんらかの共同体に同一化する心性も、総力戦に貢献することになる。

 そして総力戦のいちばんの根本を支えているのは、集団なり組織なり概念などの大きなものに同一化して優越や勝利を勝ちとろうとするわれわれ個々人の心性なのだろう。

 日常や世間のあいだにあるほんのささいな優越や勝利、そういったささいな心理的な競争心や虚栄心が、国家間の競争をまきおこし、ついには戦争にいたるのだ。

 集団や概念などの大きなものにすがって勝ちを得ようとしたとき、すでに戦争へといたる道筋はできあがってしまっているのだろう。

 勝ちや負け、優越や劣等、生活の安心と不安、守るもの――そういった心理的な防衛がつもりつもって総力戦のシステムをつみあげてゆくのである。

 こういう心理的特性は、じっさいに生活の危機や経済の危機といったものが襲ってくるわけだから、根こそぎ削除することなんてほとんどムリだろう。でもある程度はそういった防衛を減らしてゆくことは可能だろう。

 個々人の優越や勝利の欲望――ひるがえれば個々人の劣等や軽蔑される不安から総力戦システムはたちあがっている。戦争への反省はまず個々人の心の内部構造からおこなわれなければならないのである。





     交換の条件       00/10/4.


 恩恵や見返りが大きければ大きいほど、奉公や滅私を余儀なくされる。われわれが得ている恩恵やお得なものは、カネだけが動いているのではなく、その他の多くの精神的奉仕や崇拝を発動させられている。

 自由・平等・人権といった個人の尊厳を守る権利は、その見返りとして国家総力戦の奉仕と滅私、生命すらを要求するし、心情としての自発的奉仕や崇拝ををも要求する。

 そのうえさらに老齢年金や健康保険、介護保険といった生涯保障がつくと、奉仕や滅私、自己犠牲、崇拝や同一化といったものはもっと大きなものにならざるをえない。

 われわれ国民はただ無条件に人権や生涯保障が与えられているのではなく、外部にはちゃんと暗黙の交換条件がある。見返りとしてわれわれは自発的で自己犠牲的な国民にならなければならないし、崇拝や同一化も自発的に発動させなければならない。それは国際競争や国際戦争が激しくなった時代に必要とした国家の戦略なのである。

 国家と国民の関係と同じように、企業との関係も同じ自発的滅私を要求する。われわれは給料の見返りとして労働のみを捧げているのではない。生涯保障の見返りに自発的な滅私や崇拝、同一化も捧げている。

 家族の関係もそうである。家族はカネだけで動いているのではないが、終身保障や終身愛情、気づかいなどが与えられるから、それゆえにカネ以外の愛情や献身、滅私といった見えない見返りを多大に与えなければならない。

 これらの交換条件はいずれも貨幣的で明確な交換としてのかたちをとらない。交換やギブ・アンド・テイクとしてのかたちが見えにくい。心情的・情緒的な奉仕や崇拝、同一化としてわれわれの心にたちあがる。客観的に見ずに、主観的な奉仕や崇拝として、われわれの心にわきあがるものである。それゆえに盲目な愛情や崇拝、ときには神格化といった狂信的イデオロギーに変貌する。

 この世でタダで手に入るものはない。そしてカネだけの交換が支配しているのではない。その他の見返りや奉仕にたくさん覆われている。人権や生涯保障などのカネだけに還元できない恩恵は、われわれに多大な犠牲と奉仕を要求する。

 これが客観的に交換として見えずに、主観的な奉仕や崇拝としてわれわれの心にたちあがるから、われわれは盲目な自己犠牲や献身的奉仕をおこなってしまうのである。

 与えられたものは必ず返さなければならない。それがたとえカネやモノのようなはっきりしたものではなく、生得的と思われている人権や生涯保障のようなものでも、その見返りを返さなければならない。これは人間社会の基本的なルールである。

 われわれはカネ以外の多くの恩恵や権利を与えられている。そのために多くの見返りを返さなければならない。じつは人権や保障といったものは、個人の生涯が負うにはあまりにも、あまりにも、大きすぎる借金なのかもしれない。したがって、その見返りとして、われわれは生涯や生命をどこまでも国家や企業に捧げ尽くさなければならないのである。

 自由や平等・人権、または老齢年金といったものは人類が獲得すべき、すばらしき進歩なのだろうか。ただ多大な借金や負債を増やしているだけではないのか。国家というどでかい借金取立て人が手ぐすね引いて待ちかまえているだけである。

 欲は大きければ大きいほど、その見返りと犠牲を多く必要とするのである。なるほど、古来の哲学者や宗教者がいってきた欲望の危険性はこういうところにあるというわけである。(しかしはて、人権や保障は「欲望」なのだろうか……?)






   「民主主義」と「国民」という高い買い物      00/10/6.


 この社会はカネの交換だけでなりたっているのではない。社会のさまざまな制度やしくみはカネ以外の交換で覆われており、カネの取引ではないから見えにくいだけだ。

 人権や民主主義は、国民戦争や国民経済にとってひじょうに有利であり、なおかつ自発的な協力や崇拝を見込めるから、民衆に与えられているのである。一般民衆が必死に獲得してきた栄光なんかではなくて、交換が有益だから与えられているだけである。

 国家や企業の終身保障も、個人の生涯を保障する代わりにその生涯を国家や企業に捧げよという交換である。タダなんかではない。生涯を捧げなければ、保障されないのである。

 われわれは民主主義や社会保障という権利を得るために命を売り払わなければならなかったのである。それによって国家は力を増し、国民の生命と総労力を一手に集めることができ、他国との競争や戦争に打ち勝つことができる。

 哀れなことである。われわれはさまざまな権利や保障を要求したがゆえに、国家や企業に生涯を捧げなければならなくなった。タダでそれらを手に入れることはできない。われわれの生涯と命を捧げて、やっとそれらはわれわれの手中に入るのだ。しかしそのときには自らの人生と生涯は失われているというわけだ!

 男女の関係も同じである。女はセックスを売り、男は生涯にわたって彼女の生涯を保障する。保障される者は愛情と献身を生涯にわたって提供しなければならない。愛はタダなんかではない。多大な犠牲と献身を必要とする。そのために人生は失われる。

 国家、企業、男女の関係において、それが客観的に交換と見られることはあまりない。かわりに主観的な崇拝や支持、愛情として感じられるだけである。それゆえに自らの支払い能力の限界や不可能性といったものが見えなくなる。

 パンやビールなどの一日の食べ物の支払能力はわれわれにあるかもしれない。しかしそれが女性と子どもの生涯を買いとる能力は、生涯をかけてもむずかしい。さらに民主主義や人権、社会保障という買い物は、われわれの支払能力をとっくに超えている。したがってわれわれは膨大な負債を返すためにときには戦場で死んだり、企業で過労死したりしなければならないわけである。

 人権や民主主義、社会保障という「買い物」をすると、晴れてわれわれは「国民」のメンバーシップに迎え入れられる。しかしその高〜い買い物のためにわれわれは生涯を国家や企業に捧げなければならない。

 さて、われわれは「賢い買い物」をしたのだろうか……? それともあまりにも愚かな、愚かすぎる「悪魔との契約」をキャッシング・コーナーで結んだのだろうか……?





    スクールにでも通おうかな…      00/10/8.


 編集とかライターの仕事に憧れがある。でも私のやっている仕事はそれとまったく関係のない仕事である。こないだ、資格の雑誌を見ていたら、編集とかライターとかのスクールの存在を知って、がぜん行ってみたくなった。

 まあ私の年齢はかなりヤバイし、経歴もメチャクチャ!であるが、もしかしてスクールにでも通えばなんとか食いつなげるんじゃないかという甘い考えである。スクールにでも通わなければ、転職の手がかりすらつかめないありさまだ。

 もともと私はぼんやりと大学卒業時にマスコミを回ったことがあるのだが、就職活動がいやになり、サラリーマンになるのもいやだからということでフリーターに足を踏み入れてしまった。一度シンクタンクでワープロで作る雑誌の編集アシをしたり、経歴にもならない新聞社の「ぼうや」をしていたこともあるが、ほかはマスコミとてんで関係のない仕事ばかりだ。

 憧れがあっても、ごらんのとおり私の趣味はひじょうに特殊だ。あまり一般的な職種に活かされるような趣味ではない。だから編集の仕事なんかとはかみあわないのではないかと思う。それに私は人としゃべるのが得意ではないし、本や情報をつくり人に伝えたいという気持ちよりか、個人的に物事を探究してゆくのが好みである。どうも方向性が違う。

 ということで私は趣味と仕事をわけて考えることにした。でも自分の好きでもない、価値も意味もない仕事に人生を奪われてゆくことは、やっぱりじわじわと心を蝕んでゆくものである。求人情報なんか見るとやっぱり編集なんかいいなあと目を奪われてしまう。

 私は自分のやりたいことと仕事との兼ね合いをどう考えればいいのだろうか。といっても、仕事の選択性なんて自分にはほとんどないし、もっと現実を見すえるべきなのだろうけど。

 私は子どものころ、自作のマンガを二編ほど完成させたことがある(内容は支離滅裂だったが)。二十歳くらいには小説を何編も書いたが、けっきょく自分は小説を好きでないことに気づいた。まあなにかを創作したり表現したりする欲求が強いのだが、それを人に見せようとか評価されたいという欲求は、自信のなさと恥ずかしさからつい挫折しがちだ。

 あとは哲学とか社会学の本を読み、個人的にものを考えることをここ十年ほどの趣味としてきた。できれば、このような趣味をなんとか実益につなげられればいいと思うのだけど、実際の社会との接点はなかなか見出せない。

 自分の好みとぜんぜん関係のない仕事をやっていると、隙間隙間に不満や空しさが噴出する。そういうときにスクールの道というのを知って興味をもったのだが、どれだけ有効で、ためになることなのかかなり未知数である。

 インターネットでそういう個人の声を検索するのはなかなか難しい。スクールのパンフレットは何通か送ってもらったけど、なんだか目が回る。新たな人と出会えるということだけでも、よいことなんだろうか。ということでいろいろ迷っているが、私はどう考えればいいのでしょうか。。。





    高い買い物ができた時代      00/10/11.


 たとえばマイホームを買うと何十年ものローンを払わなければならない。一生働きつづけなければならないだろう。

 民主主義も終身保障もやっぱり高い買い物である。それを支払うには生涯を相手先に支払わなければならない。

 こういう生涯や命を払うローンが個人に可能だったのは、国家戦争と市場拡大があったからである。高い負債をかかえた個人は国家のために戦争に向わざるをえないし、終身を保障された個人は企業に滅私奉公せざるをえない。とっくに個人の支払能力をオーバーしているから、国家や企業はかれを自由にできるのである。

 しかしどうも個人にそういうローンの資格がない時代がやってきたみたいである。冷戦構造も終わったし、市場の拡大も頭打ちである。

 まずは企業が終身保障を与えなくなった。国家が民主主義や人権を与えなくなるかどうかはわからない。これからなんらかの市場が拡大するさいには、平等や人権が、上等な客をつくるからである。フォードかやったように従業員の給与をあげないことには自社製品は売れないのである。

 まあわれわれが高い買い物をできた――民主主義や終身保障が与えられていたのは、戦争や市場という時代状況があってのことである。この時代が長い間つづいたためにわれわれの意識もこの状況に合うような考え方や常識をもちあわせている。

 たとえば長期勤務する正社員がエライだの安定しているだの、社会保障が与えられるのは当たり前だとか、年金のない老後はヒサンだの、人権は守られるべきだといった常識である。

 しかし時代と常識なんてかんたんに変わる。げんざいのわれわれは国家や企業にとって必要不可欠な上客というわけではない。交換の条件がなりたたなくなった。国家や企業は高い商品を売りつける必要がなくなってきた。国民戦争と市場拡大の可能性がだいぶ薄れてきたからだ。

 ふたたび国家と企業が交換契約を破棄するかもしれない。高い保障も権利も与えないから、好き勝手に生きて、好き勝手に死んでくださいという時代になるかもしれない。それは国家や企業が人々をどれだけ必要とするかという時代状況にかかっている。

 国家や企業が労力や兵力をふたたび必要とするのなら、高い保障や人権は与えられるかもしれないが、もし必要でないなら、それらは与えられないだろう。あくまでも交換契約なのである。

 さて、こういう時代状況になるとするのなら、われわれの意識や常識はどのように合致させてゆけばいいのだろうか。国家から見捨てられるのなら、高い買い物――つまり高い欲望や高い理想水準といったものはひきさげる必要があるだろう。生涯を保障されるだの、安定を保障されるだの、そういった人生設計や理想水準は、できればひきさげるか、破棄したほうがより苦しまずにすむ。

 かつての人たちは終身のみではなく、死後の世界まで保障されていたから、宗教組織や国家に身を捧げなければならなかった。現代では終身が保障されていたから、われわれは国民となり、死ぬまで兵力や労力として奉仕しなければならなかった。

 終身や死後を守られた支配と滅私の人生と、それらを守られないのたれ死にの人生と、終身計算としてどちらがおトクなのだろうか。多大な借金は目ん玉と腎臓を売り払ってでも支払わなければならないのである。





    『フリーター150万人』      00/10/12.


 NHKでやっていた『フリーター150万人』という番組をみた。フリーターが150万人という大きな集団をなしてきた、見過ごせない勢力となってきたということがショックなら、それなりに社会へのメッセージとはなるはずである。

 フリーターはこれまでの終身雇用や滅私奉公的なサラリーマンの生き方にたいするアンチである。これまでの企業社会を拒否する若者たちの気分である。そういう生き方をする若者たちが大きな集団として認知されるようになれば、社会もそれなりには自覚するようになるだろう。

 社会保障の失敗がやはり根底に横たわっている。社会保障のためにサラリーマンは企業や国家に束縛され、不自由な生を送らされてきた。だからフリーターはそれらをブッチする。

 しかしフリーターはさすがに保障がないことには不安である。この点が最大のひっかかりであるのだが、フリーターが拒否するサラリーマンたちもこの点にひっかかって拘束されたのである。これをどう突破するかがこれからの難しい問題である。老後保障なんか、食うや食わずのほかの社会では、考えられもしないゼイタクなのであるが。。。

 短期バイトはこれはたしかにたんに日雇い労働者のなにものでもない。情報誌による新しい日雇い労働者だ。しかしアメリカの作家のソーローが自由の究極はここにあるといったわけだが、金銭や保障面ではかぎりなく不安定である。(また見た目にも汚らしいものがあるし。。。)

 高度成長をささえた日雇い労働者たちはいまや若者のストリート・ミュージシャンとともに路上にたたずんでいる。なんだか皮肉な光景である。これは若者の未来の行く末のすがたなのか、それともともに産業社会や企業社会を拒否した、あるいは疎外された同類なのだろうか。若者と老人が路上に同時発生するというのは感慨深いものがある。

 フリーターはたしかに産業論理に利用されているところがある。自由とかやりたいことを探すだとか言っても、企業に安く、必要なときだけ利用されているだけである。弱く、危うい立場である。しかし保障を求めると、不自由と拘束という皮肉なパラドクスが待ちかまえているのが難しいところだが。

 フリーターはぜひとも「文化」をつくってほしいものだ。「失業文化」であれ、「町人文化」であれ、企業や経済の論理だけでは動かない人間の文化だ。それでこそ、フリーターとして生きる人たちの価値や功績があったというものである。

 社会や公に貢献する生き方が日本人には抜け落ちているというのたしかだが、若者のミーイズムよりむしろ団塊世代の拝金主義と会社主義のほうが公に貢献したとはいいがたいのではないだろうか。もし若者が金銭論理からはなれた文化をつくろうとしているのなら、公というよりか、人間らしい生き方の筋道をつくってくれるという点で、われわれ人間に貢献するのではないだろうか。これまでの時代はあまりにも「産業機械」みたいな生き方しかできなかったのだから。

 まあ保障や安定といった点ではあまりにも不安が大きいが、そういう問題を少しずつでも克服しながら、自由で、金銭や保障だけに縛られない、文化をつくってゆくようなフリーターが増えてゆけばよいと思っている。常識や世界観といったものをビルド&スクラップしながら。

 保障や安定はあるには越したことはないが、あくまでも副次的なもので、人生の目標はそれのみにあるのではないと私は考えたい。それを目的にした人生はあまりにも本末転倒で、専業主婦的、中流階級的である(悪い意味で)。






     「戦争は語るな!」      00/10/15.


 行為の禁止は知の禁止に転がり落ちる。戦争行為の禁止は戦争を語ったり、知ったりすることの禁止や忌避に転嫁しているように思われる。

 わたしの体験では学校教育や社会教育などで、「戦争は悲惨だ」「二度とくり返してはならない」と何度も教えられてきた。こういう教育というのは、じつのところ、私に戦争を語ったり、知ったりすることの忌避や禁止だけをつちかってきたように思う。

 行為というのは知の禁止によって防げるのだろうか。一面的な知(戦争の悲惨視)だけで、戦争を防げるのだろうか。

 戦後教育の完了によって私は戦争について知りたいとも、語りたいとも思わなくなっていたが、どうやら現代の社会システムは戦争時のシステムをそのまま継承しているらしいことを最近知って、戦争の知識について無関心でいられなくなった。

 私がいちばんに問題にしている現在の経済至上主義とか会社中心主義みたいなものは、どうも戦争の「総力戦システム」によってかたちづくられ、継続しているようなのだ。現在の平和な社会においても、戦争システムはさまざまな領域で、または日常の空間でも強力に作用しているとなったら、ぜひとも戦争というものに問うてみなければならないのは言うまでもない。

 戦争時の社会システムは、まさに現代のわれわれの生き方や社会の問題なのである。

 戦後の一面的な戦争認識では、この社会の起源やなりたち、メカニズムを解明し、変えてゆくことは不可能である。われわれの現在の社会の問題は、戦争――とくに総力戦システムによって起こったといえるのである。

 したがって私には戦後の戦争観はほぼ関心がない。戦争責任とか自虐史観とか、戦術論とか兵器論というものには、これまでどおりあまり語りたいとも、知りたいとも思わない。

 現在の社会システムをかたちづくり、規定している戦争・総力戦システムというもののみに関心がある。過去を問うているのではなく、現在の、まさに日常の問題を問うているのである。

 現在の社会を知るには総力戦抜きには知ることができない。日本が近代化した理由は、もともとは西欧武力の脅威であったように、この国の起源は戦争からはじまっている。戦争を抜きにしてこの国や社会は語れない。そしていまなお強力な総力戦システムがこの社会やわれわれの生き方や常識を規定してることを無視して通れない。

 なんでも社会学や経済学すら、戦争を主要問題としてとりこんでいないようである。戦争こそが現代の社会や経済を規定づけ、動因させているともいえるのにである。戦争の知が禁止されたままではこの社会を知ることができない。



ツブヤキ断想集
セールス主義、軍事民主主義(デモクラティック・ミリタリズム)




   ベストセラーとマイブーム     00/10/16.


 HP作成者としてはHPはたくさんの人に見てもらいたいし、多くの反響を期待したいものである。しかし私のエッセイは自分の興味あること、好きなことに的をしぼって書いている。

 このHPは読者の人がどんなことを知りたいのかとか、どんな内容を期待しているのかといった読者側からの視点をほとんど想定していない。(すいません。)私に読者がどんなものを読みたいのかという想像力がないのもあるし、私はあまり一般的な嗜好をもっていないので、どうも多くの人が興味をもちそうなことがどんなものかもわからない。

 もともとこのエッセイ集は、インターネットがブームになる前から、ひとりでこっそりと書きつづけていたものである。自分でものを考え、本を読み、社会や心理のナゾや理由を解いてゆくのが私の趣味であった。だからそういう個人的な趣味がインターネットに移行しただけであって、読者の人の存在は当初から想定していない。

 私はあまりベストセラーを読まない。意識的に避けている部分も少しはあるかもしれないが、自分のそのつどの興味や関心を優先していたら、ベストセラーに興味をもったり読んだりする時間がないのである。

 HPの人気をあげようと思ったら、やはりベストセラーとかいまの話題とか流行りとかをとりあげるのが有効だと思う。小林よしのりの『ゴー宣』とか自虐史観とか、新書では売れている「ひきこもり」とか「パラサイト・シングル」、「不平等社会」だとか、または話題の時事問題なんかをとりあげるのがスジだと思う。

 でも私にはどうもベストセラーとか話題とか流行りに果敢にいどんでゆくのがどうも好きではないんである。みんながしゃべっているのなら彼らにまかせて私はしゃべる必要がないと思ってしまうし、話題の渦中にとびこんでゆくのにどうもテレがあるし、私はそういう社会の関心事より、自分の興味と関心の流れと維持のほうがもっと大事だと思ってしまうのである。

 興味というのは、他の人はわからないが私の場合、熟しているときを逃したら、ふたたびその情熱や好奇心をとりもどすことがなかなかできない。旬なときに旬なことをするのがベストなんである。醒めてしまえば、あれほど興味のあったことでも、すっかり廃墟を見るような気持ちになってしまう。だから興味のあるときには、興味のあることに集中して、その時期を逸しないように用心深くならなければならないのである。

 だから私にとってベストセラーより、マイブームのほうが重要なのである。ベストセラーや話題にうっかりと気をとられると、いまのマイブームが逸散してしまって維持できなくなるかもしれない。

 また世間の話題や流行にはどうも深くて強い興味をもつことができない。一般受けすることに顔をつっこむのが好きでないこともあるし、受動的な、ほかから与えられる関心や興味より、自発的かつ自己発信的な関心や興味に価値をおく考えもあってか、どうも世間の話題や流行に興味をもつことができないというのもある。

 ということで申し訳ありませんが、このHPは個人的なマイブームをこれからもずっと追究してゆくことになると思う。このほうが私にとって重要だし、私の知識欲は自分の生活や生きてゆくうえで必要となる知識や理解のためにおこなわれているので、これを手放すことはたぶんできないと思う。

 もっと多くの人にHPを見てもらいたいという欲もある。しかしやっぱりそれより自分の好きなこと、興味あることを追究してゆくことのほうが私にとってはもっと重要なことである。だから人気アップは二の次である。

 だけど読者の方がどんなことを知りたいとか、なにを読みたいとか、そういった読者側の興味を想定する訓練や勉強もある程度はやってゆきたいと思っている。ぜひとも読者の方々のご意見もおうけたまわりたいです。





    「売れる曲」は「いい曲」か?      00/10/17.


 たとえば音楽の話である。ミンリオンセラーを出した歌手の曲はよい唄だと自明のように思うのがふつうだろう。だけど、たまにこの唄がなんでヒット・チャートの一位になるのか、どこがよいのかまったくわからないという曲に出会ったことはないだろうか。

 ヒット・チャートというのは売れた枚数の順位にならべられる。これは売れた枚数であって、「いい唄」の順位ではない。混同している人もいるのではないだろうか。

 売れているからいい曲だという論理はおかしくはないだろうか。売れていることと、個人の好みや嗜好はまた違ったものである。かならずしもミリオンセラーの曲がすべての人にとっていい唄だとは限らない。

 売れるというのは多くの人に受け入れられることである。万人に受け入れられることはいい唄のひとつの基準にはなるが、すべての個人にもそれが当てはまるとは限らない。

 万人に受け入れられるということは、個人の好みや嗜好を平均化したり、普遍的な好みや嗜好を盛り込むことである。つまり万人にある均質化した好みや嗜好の琴線に触れるということである。

 これは大量生産・消費時代の論理である。大量に売れることを至上の目的にした時代の論理である。「大量に売れること=よいこと」が、「大量に売れること=よい商品・いい曲」だという論理になっている。

 大量生産の商品――たとえばテレビであるとか、車であるとか、洗濯機にたいする好みとか嗜好というのは、比較的に個人の差異がすくない。行為の利便性や用途には個人の差異はそんなに多くはないからだ。

 だけど芸術や文化となってくると個人の嗜好や好みはだいぶ変わってくる。万人に受け入れられるものはそんなに多くない。だれもが同じ気持ちをもち、同じ気分をつねにもっているとはとうてい言えないからだ。

 しかしこの大量生産の時代ではともかく大量に売れることがよいことである。大量に売ることが至上の目的である。大量に売れることが称賛されたり、賛美されたりする社会である。しまいには「売れているからよいものだ」という後追い理由ができあがる。少数の個人の大きな喜びや感動といったものは無視されてゆく。

 大量に売り、万人に受けいれられることを至上の目的にした音楽市場は、創作者の好みややりたいことを駆逐してゆく。一般受け、万人受け、大衆受けする均質化・画一化された、はじめから売れることを目的にした創作品がうみだされてゆく。創作者はかならずしもそれを創作したくなくとも。

 しかしおそらく人間はそんなに凡庸ではない。万人受けする、最初から大量消費を狙った商品に飽きを抱きだすだろうし、好きでもない商品をうみだす創作者はどんどん情熱と努力を失い、生産者も保守的にマーケットを守る姿勢に入り、この市場は過去のものとなってゆくのだろう。

 ミリオンセラーは必ずしもいい唄だとは限らない。あくまでも個人にとっての好みが大事なのであって、売れているからよい曲だという神話は信じないほうがいい。「自分にとっての」いい曲か、そうでないかという基準をもっと大切にすべきである。売れている曲より、他人が理解できなくとも、共感してくれないとしても、自分に「とっての」好きな曲のほうが大切である。





    売れることと、やりたいこと     00/10/19.


 売れる曲はいい曲かということだけど、まだ頭のなかでうまくまとまっていないし、案外、そういうことをのべた文章というのは見かけにくいので、ちょっと迷いながら書きます。

 音楽にしろ本にしろ売れることがやっぱり目標であり、評価されることであり、価値のあることである。しかし「売れるために」なんでもするようになったら、品質や品位は落ちるのではないだろうか。

 たとえば「純文学」の質なんていうのは、「売れないから」高いみたいところもある。売れているから、質やレベルが低いという捉え方もある。文化や芸術は売れる量では評価されないというわけである。

 といっても、まったく売れもせず、読まれもしないで、評価だけが高くなることはない。やっぱりいくらか読まれないと評価さえ与えられない。

 その対極として、はじめから「売れること」を目標にした音楽や本も最近では多い。たとえばジャンプ・システムやコムロやELTの音楽なんかそうではないだろうか。読者の望んでいることや売れるツボがしっかり押さえられている。

 レコード会社や出版社はやっぱりビジネスだからアーティストの意志より売れることのほうが尊重される。したがってアーティストは自分のやりたいことより、売れるためにレコード会社の意志を優先しなければならないことがしばしば起こる。

 だからインターネットはそういう売れることを目標にしない創作ができるメディアであったはずだ。自分の好きなこと、やりたいことを、売れる売れないの関係なしに創作・発表できたはずだ。

 だけどインターネットも広告産業などが入り出して、アクセス至上主義みたいなところが出てきた。このメディアも大量生産の論理が浸透しはじめているということだ。

 個人HPでもそりゃあ多くの人に見てもらいたいというのがホンネだ。だけど、その前に自分がやりたいこと、好きなことを尊重し、優先することのほうがもっと大事ではないだろうか。インターネットは多くの人に見てもらうことより、自分のやりたいこと、好きなことを創作・発表できる場ではなかったのか。レコードや出版のように多くの資金や人件費が必要というわけではないのだから。

 アクセス・ランキングとかで多くの人に見られることを第一義にする価値観がとうぜんのようにあふれ出してきて、アクセス数を増やすことがなによりも大事だという考えに染められそうにもなるが、創作者としては、自分のやりたいこと、好きなことをもっと大事にするべきではないだろうか。

 大量の人に見られること、売れることは、二の次でいいんじゃないだろうか。せっかくこんなに安く自分の意見や創作が発表できるメディアなんだし、レコード会社や出版社関係の家族の食いブチなんか心配する必要もないんだし。





    CDラジカセを買った        00/10/22.


 むかし10年ほど前に16万ほどのコンポを買ったために、CDデッキが故障しても、カセット・デッキがうまく回らなくなっても、なかなか新しいものに買い換えることができなかった。高い買い物をしたために捨てるのがもったいなさすぎたのだ。

 もうながらくCDが聞けなかったし、古いテープは絡まったりして、かなり不便していた。こういう経験から、デッキは「消耗品」であると考えることにした。故障することを頭に入れるのなら安いにこしたことはない。また私はそんなに迫力ある音にこだわるわけでもない。

 コンポは私が買ったころみたいにデカクなくて、すごくコンパクトになっていて、5万くらいで買えるようになっている。カセット・デッキがなくてMDだけの種類も増えている。でも私にはむかし録ったテープが200本以上あるので、MDにはかんたんに移行できない。

 技術の変化と消耗品であることを頭に入れて、MDなしの3チェンジャーCDとダブル・カセットの2万くらいの安いやつを買った。MDがないのは困ると思うが、買い換えをしやすいように安いやつを買ったのだ。

 それにまあ私の音楽の青春はあるていどは盛りを過ぎてしまったということである。大人が音楽を聴かなくなるようになるのはレコードがなくなるような技術の変化のせいもあるのだろう。(もちろん興味と情熱が失われるというのもあるが)

 さあ、ひさびさにむかし買ったCDが聞ける。今井美樹とか竹内まりやとか浜田省吾をまっ先に聴いた。うれしかったし、なつかしかった。むかし買ったあと、あまり聞き込めなかったフランク・シナトラとか宗次郎とか、エニグマとか『リトル・ブッダ』のサントラを聴こう。

 (ちなみに私は浜田省吾のアルバムを全部聴いている筋金入りのファンである。以前書いたハマショーについてのエッセイが、YOさんのたちあげているHP「ESSAY SQUARE」に載せられているので、興味がひかれた人は見てみてください。)

 カセット・テープはだいたい同じものばかり聴いている。アート・ガーファンクルにカーペンターズにクリス・デバージに、ジェームス・テイラー、ヴァンゲリス、リンダ・ロンシュタットと飽きもせず、ほんとに同じテープばかり聴いている。ある時期から、チャートより何年も聴きこめるアルバムを探していたおかげである。

 ほんのたまに中学や高校くらいに録っていたテープも聴くことがある。なつかしさの極みみたいなものである。その音楽とともにむかしの記憶や情景、背景みたいなものが甦る。FMでエア・チェックをしていたという古いむかしの話である。カセット・デッキがなくなって、MDばっかりになると、このテープは聴けなくなるのだろうか。技術の変化は思い出を断絶させてゆくのである。

 この十年はもうアメリカのチャートも聴かなくなった。大好きだったMTVが民放でやらなくなったというのもあるだろう。J-POPのチャートは、TVでやっていることもあってたまに見ているが、やっぱりティーン向けばかりの音楽ばかりなので、30過ぎの私が熱中できるわけなどない。ああ、オトナの音楽を聴きたい。






    「総力戦」時代という不幸     00/10/24.


 どうやら現代のわれわれの生き方や生活の根本を規定しているのは、国家間の総力戦のためであるようである。国家間戦争に勝つためには、あるいは侵略されないためには、あるゆる面で優れていなければならない。それは経済であったり、技術であったり、それを使う国民の頭脳や技能であったりする。

 民主主義や社会保障、国家による教育はそのために必要だったといえるし、経済的に豊かな国になるというのは、とどのつまり、軍事的に優れるということに直結する。経済的に、あるいは文明的に優れるということは、まぎれもなく戦争に強いということである。

 われわれは総力戦の時代を生きている。われわれの生や生涯は国家間戦争に捧げられているといっても過言ではない。

 表面上は戦争はおこっていないし、おこす気もないだろう。ただ現代を歴史的に根底から規定しているのは国家間の戦争であり、パワー・バランスである。

 明治政府は西欧列強に植民地化される恐怖からたちあがった「軍隊国家」であり、現在ではシステムがまるっきり変わったというわけではなくて、かなりの部分を継承していると考えられる。経済的・技術的に優れる、先進的になるということは、軍事的にも強くなることのなにものでもない。

 個人的に私はなんでいまの世の中はこんなに経済至上主義で、会社中心社会なのか、なんでこんなに働きつづけ、あくせくしなければならないのかと思いつづけてきたのだが、どうやらその根本には「総力戦時代」という大規定があるようである。われわれは他国に侵略されたり、支配されないために、生涯を、人生を、総力戦競争に捧げなければならないということである。

 そういう時代の大規定があるために、われわれは国家教育をうけ、企業で働き、どこまでも優れた頭脳と技能をもたなければならないし、がむしゃらに豊かにならなければならないのである。戦争に負けないためには、それをとめることもできないし、経済的・技術的に勝ちつづけなければならないのである。

 こういう国際的、歴史的な大規定を個人の力で変えてゆくことはほとんど不可能に思える。闘いをやめようといっても、人類の歴史上に戦争がなくなったためしはないし、条約や安全保障があったとしても、いつ破棄され戦争をしかけられるかもしれない。人類は総力戦システムからもう降りることはできないのだろうか。





    民主制は戦争が母       00/10/26.


 学校で教えてくれたのだろうか、民主制は戦争が母であるということを。私はいままで知らなかった。一般の人たちは知っているのだろうか。

 学校では民主制や平等はすばらしい、とてもよい時代にうまれたんだということを習った覚えがあるが、それは戦争の必要性から生まれたということを聞いたことがない。

 民主制というのは国民を戦争に駆り立てるためのなくてはならないモチベーションなのである。なんだかひじょうに幻滅したというか、絶望してしまう。市民権と従軍は同義語であり、アメリカの黒人が公民権を獲得してゆくのはベトナム戦争で死傷してゆく歴史と重なっているのである。人間の尊厳と権利を擁護しておきながら、一方では戦争で死ななければならない絶望的な矛盾。

 以下に猪口邦子『戦争と平和』(東京大学出版会)から要点だけを抜粋しておく。

 民主制は「軍事民主主義(デモクラティック・ミリタリズム)」を原形としてうまれた。古代ギリシャの重装歩兵密集隊とガレー船にさかのぼる。貴賎の関係なく同等の装備と同等の役割を必要としたそれらは平等化と標準化を促進した。

 ローマでは軍を維持するために、無産市民を軍務資格者たる有産市民にさせるために土地所有が必要であり、退役部隊にも植民土地が必要であり、土地確保が戦争の目的になる。ローマの戦争は市民の兵士化のためにおこなわれた。

 騎士や武士は重装備や馬をあつかうために熟練を必要として世襲階級と封建制をうみだしたが、小銃を使いこなすには数日でよい。騎士や武士は現代の技術革新によって用済みになる技術者やサラリーマンと同じように技術によって滅んでいったのである。騎士と歩兵が逆転したのはクレシーの戦い(1346年)からである。「マスケット銃が歩兵を生み、歩兵が民主主義を生んだ」ということである。

 市民的権利と従軍義務は一対のものであり、フランス革命の選挙権と義務兵は同時である。プロイセンでは農奴制を廃止し農地改革をおこし、自治制と内閣制度に移行した。義務教育もおこなわれ、国民皆学と国民皆兵は合せて進んだ。

 鉄道と兵器の高度化により、補給体制の質と兵器生産の効率が戦争の勝敗を決めるようになってゆく。後方体制が重要になるのはアメリカ南北戦争がその発端である。後方支援の主役は女性であるがゆえに工場進出とともに女性参政権も認められるようになってゆく。

 規格化された大量生産はフランス軍の制服にはじまる。17世紀オランダでは巨額な防衛コストをおぎなうために生命保険が考案された。

 現代では戦争とまるっきり関係のないこととして民主制や豊かさが語られたりしているが、それはすべて「戦争のため」に生まれ、「戦争のために」に生かされているといえる。戦争との因果関係で経済や社会をみたほうがよほど明快だ。

 なんだかあんなにすばらしいと教えられた民主制も、ほめたたえられる戦後日本の経済成長と豊かさも、全部戦争を起源と原因としてうみだされたというのは、ひじょうに呆然自失だ。

 「戦争の、戦争による、戦争のための」国民と社会であるということである。この事実に目をふさぐわけにはゆかない。





    民主制の逆噴射        00/10/28.


 民主制や社会保障が戦争動員の自発的動因となるのなら、これらはかならずしも「よいもの」とはいえない。それらをひきかえに、われわれは国家戦争や国家競争に自発的に駆り立てられることになるからだ。

 民主制や社会保障は戦争とひきなせない同一のものと見なすのなら、これらは「悪」だといえる。これらはわれわれに人権や参政権をみとめ、生涯保障するというすばらしいものにいっけん見えるが、戦争とセットで考えると、国民を国家規模の戦争や経済競争に駆りたてるための原動力にほかならないことになる。

 まんまとわれわれは国家戦争の策略にひっかかったというわけだ。たしかに民主制や社会保障が与えられれば、われわれは国家のために闘い、競争し、生涯を捧げ尽くすだろう。戦争こそはないが、現代のわれわれは国家のために経済戦争を闘い、生涯を捧げ尽くしているといえる。

 民主制や社会保障は国民を国家戦争に駆り立てる要因として、捨て去られなければならない「悪」と考えるべきなのだろうか。これらはわれわれを幸福にするものではなく、われわれを不幸にするものなのだろうか。国家と個人の利益は同一のものなのだろうか。

 われわれは民主制と社会保障を脱ぎ捨てたほうがよいのだろうか。そうすれば、われわれは国民として戦争や経済競争に駆りたてられることもないし、もうすこし自由で気ままな生き方ができるかもしれない。

 もちろん代償は大きい。われわれは誇大妄想的にその損失を知っている。(あるいは宣伝されている) 民主制がなくなれば専制君主に蹂躪され、人権を足蹴にされ、社会保障がなくなれば、失業や不景気になったり、病気や老人になったときには悲惨な目にあうことになる。国家から見放された個人は、目もあてられないさまを示すことになる。

 ということでわれわれは民主制と社会保障を欲す。しかしそれを求めれば求めるほど、われわれは国家に奉仕しなければならないし、暗黙には従軍も含まれる。

 われわれは「国民」にならないほうがいいのだろうか。「国民」にならなければ、戦争にも経済競争にも駆りたてられることもない。「国民」になったばかりに国家競争にわれわれはいやおうなしに巻き込まれるというわけだ。

 もちろん国家競争に勝たなければ、われわれの生活や経済は苦しいものとならざるを得ないし、他国に侵略される怖れも出てくることになる。

 ただ「国民」をやめた個人にはそんなことはどうでもいいことだ。政府や王が変わろうが関係ないし、国の経済が衰弱したとしても「無国民」には関わりがない。国家に守られたり、人権を付与されない代わりに、国家の政情や衰亡にはいっさいこだわらない。民主政治がはじまるまでの多くの民衆がそうであったように。

 現代の国民は、かつては王や政府、官僚たちだけが心配していた事柄をいっしょになって心配している。民衆たちにとってかれらのことはカヤの外の話だったのだ。

 もし民主制や社会保障が国家戦争とひきかえなら、われわれはそんなものを捨て去ったほうがよいのだろうか。国から与えられる権利や保障といったものの代償をあらためて考えなおさなければならない。これらを捨て去った基準や水準から捉えなおすことが必要なのかもしれない。



秋のつぶやき断想集




  専業主婦の憂うつ      00/11/3.


 たまたま朝日新聞の「どうする・あなたなら」で「専業主婦の憂うつ」という記事を読んだ。まあ、同窓のエリートの夫と差は開くばかりとか、夫が帰ってくるまでだれとも話さず、ベビーカーで2駅ほど歩いていたという身のつまされる話が載っている。

 2駅も歩いてたという話はなんだか涙が出そうになった。子育てや家事いがいにすることがなく、家にこもるか、散歩することしかやることがない。そういう生活は私自身も休みとか長い失業中には味わったことがあるので、ぼんやりとはわかる。

 専業主婦の憂うつというのは、たぶん男のなかにも共通したものがあるのだと思う。キャリアとか先端の仕事に憧れる気持ちは、そういう仕事についていない男の焦燥をかりたてるものである。

 要は、社会的に有用になったり、称賛されたり、社会の中心や表舞台に立ちたいという願望である。それと現実の落差が、私たちの憂うつや倦怠をうみだすのである。

 主婦は社会の中心から極端にぽつんと外れることになるから、先鋭的にその憂うつ感が強く現れるということだ。男も大なり小なり先端や中心の仕事についていないということで、幻滅や空虚感を味わっている。

 われわれの社会は社会的有用な人や社会的称賛の集まる人をとくに褒めたてる社会である。そして子どものときから男も女もそのような有用・称賛される人になるように教育される。成人したときにはすっかりそれがアイデンティティや自我の根底をなすようになっている。

 もしそれらのいずれの資格も得られないのなら、われわれは自我やアイデンティティの瓦解や崩壊を経験することになるだろう。それが専業主婦やルーティン・ワークにつく男たちの憂鬱につながるのである。

 わたしたちはこういう自我のなりたちやありかたといったものを、客観的に、冷静に分析して見つめなおしてみるべきなのだろう。そうすれば自我の崩壊感も防げ、そんな気持ちにも大らかで、距離をおいたものとしてながめられるようになるだろう。

 社会的有用や称賛にたいする欲望のひきさげや消去はいくらかの西洋哲学者や仏教僧、東洋思想家などが語ってきたものである。こういう人たちの本を参考にすることができるだろう。富、栄誉、権力についての名言集

 ただ社会的称賛の欲望は自我のかなり根本的なところに食い込んでいるのは、私自身にも実感できるもので、ひきさげや消去はなまやさしいものではない。自我の価値や意味自体がまったく無に帰すような怖れを味わわなければならない。

 褒められたり、羨ましがられたり、こういう他人の反応をもとに自我というものは構成されているのだろう。称賛や羨望が自我の形成の基底をどのようにつくりだしているのか、こういうことを考えてみることが、主婦や社会人の憂うつを解消する手がかりになるのだろう。





    吉野の風景      00/11/4.


 今日は吉野にいってきた。まあ、私は山々の壮大な展望や渓谷の清らかさを愛するので、べつに歴史史跡とか寺院にはほとんど興味はないし、吉野というところが歴史上どういうところなのかほとんど知識なしでいった。

 みやげ屋がたくさん並ぶ観光地はあまり好きでなくて、ひたすら人と遇わない山道が好きなので、市街地はさっさと通り過ぎたかった。

 吉野といえば桜であるが、いまは秋なので桜は見られなかったけど、吉野山や高城山あたりから一望できる蔵王堂をシンボルとする吉野の町並みや山々といったものはたしかにすばらしいものがある。感動する。葛城山と金剛山の見慣れた稜線も遠くにかすんで見える。桜が満開であれば、なおさらきれいであろうが、シーズンの観光客だらけは想像するだけでうんざりする。

 西行庵は民家からだいぶかけ離れた、登りのしんどい山林の奥にあった。貧相であった。ほんとうに四畳半一間くらいの、イメージでは歴史観光物であるからもうちょっと立派そうな気もしていたのだが、貧相そのもののつくりだった。葛城山のふもとの弘川寺の西行庵のほうはもう少しきれいだった気がするが。

 宮滝への万葉の道はすばらしかった。ここは地形的に谷の底にあって、いくつものせせらぎが何ヶ所も合流するところであり、そのさまは圧巻ものである。奥深い谷底にあらゆるところの小川がいっきょに集まったようなところで、万葉に詠まれただけのことはある。でもひとりも出会わなかったけど。すだれのような滝と高滝は気に入った。

 宮滝というところは目を疑うほどの渓谷である。アップルパイのような地層がいくえにも積み重なった巨大な岩石がどーんと中央に居座っていて、川のまわりもそういう地層が積み重なったむきだしの絶壁が覆っている。朝廷の別荘となっただけのことはある。

 いろいろ耳にすることの多かった吉野だけど、観光地が好きでない私は避けていたのだが、大阪の近くの山々の見所はだいぶ登ってしまったので、ここに来たというしだいである。もう少し歴史的知識や歴史に対する想像力といったものを養えればもっとロマンあふれるものになったかもしれないけど、政治屋の歴史より民衆の歴史が大事だと思っているし、即物的な人間なので、いたしかたがない。






     山里の営み      00/11/5.


 山に登る愉しみのひとつとして、山里の風景をながめるというものがある。山から降りた山里の風景には驚く。こんな山奥近くに人の暮らしがあり、営みがあるなんて思ってもみなかったからだ。

 とくに奈良の柳生街道の向こうにある山にとりかこまれた田園の風景は気に入っている。山のなかをえんえんと田んぼが広がっている風景は、まるでマンガの『日本昔ばなし』に出てくる昔の風景そのままに見えた。犬鳴山のふもとの田んぼの風景もとても大阪近郊とは思えないほど、素朴でよかった。

 風景の良さや感動といった気持ちを言葉にしたり、概念化したりすることは難しい。なんでこんなに気持ち良いのか、自分の気持ちを言葉でいいあらわすことはかなり困難である。

 たぶん驚きがあったのだろう。こんな山奥に人が住んでいるなんて思ってみなかったところに田んぼがえんえんと広がり、人の営みがあるということに驚いたし、山々に囲まれたそんな自然のある風景に囲まれた生活はさぞかし羨ましいことに思える。

 私の生まれ育った町というのは大阪郊外であり、やっぱりアスファルトの道路とコンクリートの家に囲まれた人工的な町である。どこまでいっても、そんな殺風景な町並みがつづいているところである。田んぼが多かったにしろ、住宅街にあるそれは美的でも素朴を感じさせるものでも、なんでもない。

 だから山奥にある田んぼやその暮らしといったものにとても魅かれるのである。まさかこんなところに人が住んでおり、生活を営んでいるなんて思いもしない山奥なのである。驚きのなにものでもない。

 こんな山奥の田園の生活ってどんなものなんだろうと思う。都会に住んでいる私には想像もできない生活である。自然の風景とか時間のリズム、空と天候など、都会の生活や仕事とまったく違った日々があるのだろうなと思う。

 また、そこが静かなんである。物音ひとつしなく、たまにカラスや鳥の鳴き声が聞こえ、動くものもほとんどない山々と田んぼの風景が広がるだけである。こういう静寂と沈黙のなかで暮らす自然の生活ってどんなものなんだろうなと思う。

 外から眺めているだけではわからないしがらみやいやなこと、苦しいことは、どんな田舎の暮らしにもあるに決まっている。高齢化や過疎化も吹き荒れたはずである。私の印象は都会の一住人が感じる手前勝手な判断でしかないだろう。

 「傍観者」としては、山里の風景はとてもいいものである。山里の風景写真を見るだけでも、「ふぁー」と癒され、感動する気持ちがわきあがってくる。わらぶき屋根の家があったりなんかしたらもっと最高だけど。

 こういう山里の風景に魅かれるのは、そういう山里に暮らしたかもしれない祖先の血が私の中にも流れているからなのだろうか。それともだれしもが感じる自然への郷愁や気持ち良さなのだろうか。また山に登ったら、お気に入りの山里の風景に出会えることを願いたいと思う。






     野田知佑の青春放浪       00/10/8.


 カヌーイスト野田知佑の『旅へ 新・放浪記T』(文春文庫)はとてつもなくよかった。世間のふつうの人のように就職するのを拒んで、あてもなく世界をさまよいつづけた青年の苦悩が綴られていて、ものすごく共感でき、感動し、羨ましくなった。

 「大人たちはたいていぼくの顔を見ると、「早く就職してマジメになれ」と説教した。馬鹿メ、とぼくは心から彼等を軽蔑した。マジメに生きたいと思っているから就職しないで頑張っているのではないか。不マジメならいい加減に妥協してとっくにそのあたりの会社に就職している」

 「ヨーロッパはいいぜ。あそこは大人の国だから、君がどんな生き方をしても、文句はいわない」 日本で会ったアメリカのヒッピーの青年がいった言葉が、外国に出るきっかけになったのだ」

 「北欧の人たちは「青年期とは滅茶苦茶な、狂乱の時期である」ことを判っているようだった。――「俺も若い時に世界を放浪したよ。そうやってもがいているうちに自分にぴったりの穴の中に落ちつくものだ。グッドラック」

 「何をやってもいいのだ、人はどんな生き方をしてもいいのだ、という考えを持つ人々の間で生活するのは強い解放感があった」

 「日本では拾った車の持ち主とよく口論した。ぼくが何もしていないと知るや「マジメになれ」とか「世の中は甘くない」とかいって説教する馬鹿な大人たちには全く我慢がならなかった。こんな阿呆面をした人間でも妻子を食わせてやっていけるのだから日本という世の中は甘いもんだ、と思った」

 「あの下らない、愚かしい大人たちのいう「人生」とかいうものに食われて堪るか。俺はあいつらのすすめる退屈な、どんよりと淀んだ人生には決して入らないぞ。そんな反抗心だけが唯一の支えである。――あの俗世にまみれた、手垢だらけの志の低い輩ども。俺を非難し、白い目で見、得意な顔をして説教を垂れた馬鹿な大人たち。俺はただ「自由」でいたかっただけなのだ」

 「世の中はそんなに甘くないぞ、世の中はもっと厳しいぞ、といって脅したけど、実際に世の中に出てみたらぼくが思っていたより何倍も甘かったと思う。ぼくの希望や夢をあんな言葉で圧殺して邪魔した大人たちは許せまんね」

 「日本では大人たちが、自由に生きようとするぼくをダメだといい、非難し、憎み、ぼくは全然自信がなかった。しかし、ヨーロッパで出会った大人たちはぼくの生き方をよしとし、「自分だって若い時は君と同じことをした。がんばれ」といった」

 こういう気持ちというのはとてもよくわかる。日本ではだれもが「就職しろ」としかいわないで、青年に自由を生きさせようとしない。いまだって同じだから、野田知佑は1938年の生まれだから(私の親と同じくらいの世代だ)、もっと過酷な白い目にさらされたことだろう。

 海外放浪がとても羨ましくなった。私は海外旅行をしたことがなく、就職しないでさまざまなバイトを転々としてきた。一種の狭い圏内の放浪だ。この本と、さいきん読んでいたアラスカのカメラマン星野道夫の本を読んだ影響で、どこかを放浪して、気に入った土地に定着してやろうかと誇大な妄想を抱きたくなる。

 海外放浪をする若者はいまではかなりいるのだろう。かれらはなにかをつかんだのだろうか。それともなにも得られずにこのつまらない日本の世間に呑みこまれていったのだろうか。

 野田知佑はそういう青春の放浪と苦悩の時期をへて、いまではカヌーイストとエッセイストとしてすっかり自分だけの人生のスタイルを築きあげたようだ。だからこの青春の苦悩と惨めさは価値と意味をもつものになった。成功の陰には同じような道を選んで、ずっと青年時の苦悩をいまだに抱え込んだまま、生きている多くの人たちも存在するのだろう。

 もう少しこの国は就職だけを強要しない、自由に生きられる世の中になってほしいものだ。「何をやってもいいのだ、どんな生き方をしてもいいのだ」――そういった大人のセンスをもった日本人があふれる国になってほしいと思う。






    本はどう整理したらいいのか?     00/11/12.


 どんどん本は増えてゆく一方なのに、私の狭いワンルームには本棚がふたつしかない。これ以上、本棚を増やすのもスペース的にかなりキツイ。最近は本棚の前に何列も山積みになっており、ほこりも積もる一方だった。

 新しいダンボールが手に入ったので、むかし読んだ本を入れて押し入れにつっこんだ。これで7箱くらいだ。十年前に読んでいた世界文学から、哲学・現代思想、心理学・精神分析などの本が、おそらく読み返されることもなく眠りつづけることだろう。

 私はめったに本を読み返さない。興味がすぐに大幅に移り変わるからだ。感銘した本は本棚の手にとりやすいところに集めているのだが、それでもほとんど読み返さない。

 フロムにオルテガにニーチェ、堺屋太一にドラッカーに日下公人、ウィルバーにクリシュナムルティにラジニーシ、ケンピスに洪自誠に老荘、そのほかにもたくさんメインに置いておきたい本があるが、あまり読み返さない。

 じゃあ、なんで本棚に飾っているのだということになるが、やっぱり本を飾りたいという気持ちもあるし、感銘した本はいつかまた読みたくなる時もあるかもしれないし、役に立つかもしもしれないという思いがあるからだろう。ほかに習慣というのもある。

 著名人のずらりと並んだ本棚のようにびっしりと本を並べたいというのもある。でも私の本棚はだれかに見られることはないだろうし、スペース的にもムリである。そもそもそういうのは飾りやインテリアとしての本であって、または知識量の誇示であったりするわけだがら、それはやはり本来の読書から目的がズレた行為である。(でもこれは愉しみであったりするから全否定するわけではないが)

 私のような読書人は読み終えた本は古本屋に売ったり、捨てたりするのがベストなのだろうか。でもいつか役に立つかもしれないという思いがそれをせきとめる。壁一面に本を飾りたいという夢も断ち切れたわけではないし。また知識量の誇示としての物証もかんたんには手放せないし。

 感銘した本は読み返すべきだと思うんだが、そうしてこそその本がもっと深く味わえるとよくいわれているが、どうも私は苦手だ。好きな映画とかマンガは何度も何度も飽きもせず見たものだが、活字の本はけっこう気負いがいったり、根気がいったりするから、どうも読み返す気がおこらない。

 興味もつぎつぎと移り変わってしまう。一時期あんなに好きだった現代思想も気がついてみたらほとんど読まず、かなりのところ興味が失せてしまっている。ビジネス書関連も薄く興味がつづいているようだが、ひところの熱は失せたように思われる。

 私は「読み捨て」が似合うのかもしれないな。いつか役に立つかもしれない、壁一面に本を飾りたいという気持ちで本はとりあえずとっておいたが、読み返すこともほとんどないし、本を貯めつづけるのもスペース的にムリだ。ブック・オフにまとめて売り払うほうがいいのだろうか。

 いやぁ〜、それにしても私は感銘した文章には赤線を引かないと気がすまないタイプだし、本棚に飾りつづけた本は煙草の煙で黄色く変色している。これじゃあ、売れないな。

 私の興味というのはごっそりと移り変わってしまう。一時期好きだったジャンルもその熱が醒めてしまったら、なかなかそこに戻ることもない。ずっと変りつづけないものは書物から知識や情報をむさぼり集めるというスタイルだけである。その内容やジャンルはたえず移り変わっているというわけだ。

 こういうのが良いのか悪いのかはわからない。興味の趣くままやってゆくだけだ。最終的には私は老子や仏教のいうように、知識欲そのものを捨てられる境地に達せられたのなら、バンバイザイだと思っている。それまではこれからも山積みの本の高さを積み重ねてゆくことだろう。





    小説はどうやって選びますか?      00/11/15.


 なんだか久々に小説を読んでみたくなったのだが、小説って選ぶのがむずかしい。すっかり小説から遠ざかっていたから、どの小説がおもしろいのか、読みたいのかがわからない。

 みなさんはどのように選ぶのだろうか。小説って中身をぱらぱらめくってみても、てんで中身が見えてこない。社会科学とかの本だったら、たいていは章ごとのタイトルがあるから、語られている内容はだいたいは推測できるが、小説はそういうわけにはゆかない。

 むかし私が世界文学を読んでいるときはかんたんだった。評価が高くて定評のある古典ばかり読んでいたから、おスミつきの本を選べばいいだけだった。ポスト・モダンのアメリカ小説もそれについて解説する本があったから、評価の高いおもしろそうな本を選べばよかった。

 それ以外の小説って選ぶのがたいそうむずかしいんだな。帯とかうしろの解説だけでは情報が少なすぎるんだな。評価で選ぶか、ストーリーや設定の興味、親近性で選ぶか。

 まあ、小説のガイド・ブックを探すのがよいのだろう。インターネットの書評HPもたくさんあるのだけれど、用途や目的別の本探しというのはけっこうしんどそうだ。

 書店でおもしろそうな本を見つけることができたのならいちばんいいのだが、帯や解説だけではリスクが大きすぎる。小説って選ぶのがむずかしい。

 前々から気になっていた『アルジャーノンに花束を』をやっと読んだ。みんなが絶賛しているようだけれど、ちょっと私にはそこまで感動する作品には思えなかった。たしかにかわいそうな話なんだが、深い感銘は味わえなかった。まあでも少なくともほかの小説を、この本のおかげで読みたくなったことのくらいはあるが。

 小説というのは、哲学書や社会学書みたいにメッセージやテーマをはっきりといわないから、私はしばらく遠ざかっていた。なにをいいたいのか汲みとれないし、自分の知りたいことや味わいたいと思っている情感とぴったりの本を見つけるのはかなりむずかしいし、前述のとおり、おもしろいかどうかは帯や解説だけではなかなか判断できないし、また作家のポーズとか物語ることへのナルシズムとか陶酔性というものがどうも気に食わなかったし。

 小説を読みたくなったのは、いままで考えていたテーマ――総力戦と民主制の関係がそろそろ興味を失ってきて(答えはしっかりと出たわけではないのだが)、その切れ目にいるからだ。いまは考えたいテーマも、読みたそうな本もない。

 新しく考えたいことがないときは気ままに小説でも読みたくなる。学術書の本のように価値ある知識を約束してくれる確率は低いのだが、まあつぎのテーマまでの小休止だ。





   マスメディアによる認知欲求      00/11/17.


 人間にとって認知欲求を問うことがいちばん重要なことだと思っている。認知欲求というのは人から認められたい、称賛されたいという欲求のことだ。人はこの欲求のためなら死をも厭わないし、人生を投げ捨てもするのだ。

 勢古浩爾『わたしを認めよ!』(洋泉社新書)によると、70年代前半までは家族、性、社会による承認だったが、70年代後半から「カネ、セックス、自己」による承認に代わり、90年代には他人の承認はいっさい無用になり、自分だけに承認してもらうことが重要になったといっている。

 この欲望の先鋭化したかたちは「有名になりたい」という願望としてあらわれる。マス・メディアによって承認されることがなによりも大事な時代になったのである。家族や世間や会社に認知されることなんかちっぽけで、つまらないことだ、なによりもマスメディアということになった。

 これは私自身にも実感できるところだ。家族や世間、会社などの身近な人に承認してもらっても、ちっともうれしくもないし、不全感は拭えない。おそらくマスメディアのような不特定多数の、顔のない人たちに評価されないことにはちっとも心の渇きを癒せないのである。

 私はこういうマスメディアによる承認を支えとする自我とずっと格闘してきたように思う。自我の根本のところが、おそらく生まれたときからTVや雑誌などのマスメディアに囲まれて育ったために、その承認による規定を受けているように思われる。メディアに承認されないことには人生や自分には価値がないというような自我である。

 多くの人はマスメディアが奨めるモノや行動を真似たり、いうとおりにしたりすることで、その承認欲を満たしている。なんだか「絶対の神」のようである。

 かつては世間や家族、会社から承認されることがとても大事であり、いきいきとしたことであった時代もあったのだろう。それは出世やモノやカネで顕示できたのだろう。しかしいまはマスメディアである。マスメディアに自分が出ないことには自我は瓦解してしまう。この傾向はインターネットによってますます加速する方向にすすんだし、人々がのぞんできたことなのだろう。

 マスメディアに出てくる者は敗残者かもしれないし、TVや雑誌をつくっている人たちはふつうの人とは変らないのに、それでもかれらは優れた者になり、時代の声となるのである。まさしくマスメディアとは「魔法のからくり」とよびたくなるものである。

 私は自分のかなり深い根本のところをメディアによる承認という規定を受けていると思う。メディアによる承認を得ないと、自分には価値も意味もないように思えてしまう。たぶん現代の若者の多くも、自我の根本をこういうふうに規定されているものだと思う。

 できれば私はこういう自我から脱け出したいと思っている。日常の、なんでもないことに幸福や満足を感じられない人生なんて幸福になれるわけがないし、有名になることでしか承認を得られないと思う自我なんてものはとうていは叶うわけがないのだ。だからこういう承認による自我をもつことは不幸の増産と不満の継続化をひきのばすだけなのだ。(それだからこそ、産業とメディアは潤いつづけるのだが)

 こういう自我の構造というのはどうなっているのだろう? どのようにメディアによる承認を希求する体質がつくられてゆくのだろうか。この問いはとても大切なことだと思う。これからの人間のあり方と社会構造を決めてゆく決定的な要因になってゆくのはまちがいない。





 フィクションから得られるもの ノン・フィクションから得られるもの        00/11/20.


 私は基本的に学術書とかビジネス書のノンフィクションのほうが好きだし、得られるものが大きいと思っているし、だいいちわかりやすいと思っている。

 小説というのは一時期現代文学と世界文学をざっと読んでみたが、どうもなにを言いたいのか、なにを伝えたいのか、さっぱりわからなかった。物語としては感動したり、感銘を受けたとしても、それが言いたかったこと、伝えたかったことの意味やメッセージがはっきりとつかめないのである。

 物語の読み手としては優れていなかったのかもしれない。みなさんはどうですか? 物語のメッセージやテーマを明確に、言葉にして、理解することができていますか?

 私は子どものころからたくさんの映画やマンガ、ドラマなどを好んで見てきたが、おもしろかった、よかった、感動した、というボキャブラリー以上の理解はどうもできなかったように思うのだ。

 これでは物語から得られる教訓や知恵といったものは満足なものにはなり得ない。ただ感情や情感の興奮やカタルシスを得ただけだとしかいえない。「感情産業」の消費をしただけだ。

 だから私は哲学書や学術書に流れていった。ここには言いたいこと、メッセージ、テーマが明確に語られているし、容易に理解できるようになっている。小説や映画のように、ストーリーのなかに、物語の中に、しまいこまれたテーマやメッセージを探し出す必要もない。

 私はこのように学術書のほうをもちあげるのだが、世の大半の人は小説や物語のほうを好むようだ。本といえば、小説のようである。学術書はあまりにも難しすぎる、カタブツっぽい、てんでわからない、といった感想や印象がとび出してきそうだ。

 たしかに学術書の外側の印象はそんなものだ。物語と学術書の決定的な差とはなんだろうか。物語には人間の行動が出てくるが、学術書には人間の行為はいっさいなく、抽象的で、概念的な話ばかり出てくる。具体的ではないし、たしかに日常の感覚ではつかみにくいものである。

 この障壁があるために人は小説世界から、学術書には出てこない。私だって、むかしはマンガや映画の映像文化で育ったために、二十歳になるまで活字の物語が読めなかった。活字による想像力が働かなかったのだ。読めるようになったのは好きな作家が出てきてからだ。

 哲学書が読めるようになったのは、考えたいことや知りたいテーマが深くなってからだ。そういう知識欲が優先されると、学術書という難しくて、おカタイという本という外側の印象なんかまったく気にならなくなる。要は外側のイメージではなく、中身への関心と興味が昂じたときにはじめてその書は理解されるものとなるのだろう。

 小説を読むだけではもったいないと思う。学術書は小説だけでは得られない、ものの考え方や人間のあり方、社会構造などを教えてくれる。これを得るのは小説だけでは不可能だ。物語には語られる内容、テーマに限界があると思う。世界を知るには小説はあまりにも狭い。

 といっても、さいきん私はなんだか小説を読みたくなってきた。なにを求めているのか自分自身にもよくわからないが、まあ久々に興味のある小説を手当たり次第読んでみたいと思う。感動や人生を味わいたいと思っているのかもしれないな。





 「フリーター150万人」突破記念(?)特選エッセイ集  リバイバル・エッセイ特集
 自由な生を模索する人に贈ります。
 サラリーマン的人生からの脱却をめざして――。
 (ただし、将来の不安は残りますので全面肯定というわけではないですが)

 「ヘンリー・ソーローの省エネ労働観」 1998/8/15.
 「生活保障という恐れが未来の牢獄をつくりだす」 98/8/4.
 「社会的劣位を怖れる心」 99/3/31.
 ビンボーはほんとうに「不幸」なのか」 99/3/23.
 かない者の幸いなるかな 99/5/27.
 のんびりした、ゆたかな社会の実現」 1997/12/13.
 栄誉権力についての名言集 99/9/18.


つぶやき断想集
冬の散歩道




  なんなんだ、中国という国は!
   ユン・チアン『ワイルド・スワン』の感想
     00/11/24.

 私は親子三代の物語りというものが好きである。歴史に翻弄されたり、また親子関係の因果関係が現われたりする物語りに触れると、歴史の中の人間のちっぽけさや親子関係の皮肉さやつながりに呆然となってしまう。いわば大自然の中に身を浸すような感動が味わえる。

 そういう物語りと思ってこの『ワイルド・スワン』を読みはじめたが、どうも違うようだ。親子三代の物語りを語りながら、中国という国や社会でおこったことを、海外に告発や紹介するような本であるらしい。

 ひどい話だらけである。読み進むうちに中国という国はなんていう国なんだという思いを強くしてゆく一方だった。

 いちばんかわいそうな話は日本軍に支配された満州の時代に、母の学校の女ともだちが誤って武器庫に入ったために全生徒のまえで射殺される話である。とてもリアルで、涙があふれた。

 もうひとつは高級官僚にまで出世した父と共産党員の活動をしていた母が、とうとう文化大革命の時代に迫害されたり、虐待されたりして、労働キャンプに送られたことだ。中国では日常的に隣近所を告発したり迫害したりすることがおこなわれていて、うまく出世街道をつきすすんでいたに見えた両親もとうとうその毒牙にかかってしまったのである。

 毛沢東は人民をたがいに争うようにしむけ、しかも生かしておく、というのがねらいだったようだ。そしてどんな人間であろうと迫害されない保証はないと知らしめて、社会全体を恐怖におとしいれたのである。

 それはそれはほんとにひどい。私憤やうっぷんを晴らすために、あるいはノルマを果たすためにありとあらゆる人たちが告発され、監視され、迫害される。そんな疑心暗鬼の日常が、ずっとつづくのである。はじめは共産党以外の人間、そしてつぎにはその党で出世した権威や貢献ある人たちも迫害され、断罪されたのである。

 こんな社会に生まれなかったことを、凡俗な生き方しかしてこなかったけど、それでもこの日本のほうがマシに思えた。まわりの人みんながみんな批判したり告発したり迫害したりする環境におかれたら、私ならどうしていただろうか? 強いものに付いてたくみに弱者をいじめたか、それともまっ先に吊るしあげられたか、いずれにしても不安と恐怖と憤りにさいなまされていたことだろう。

 著者のユン・チアンは子どものころに教えられた、貧しくてみじめな資本主義のロンドンに現在暮らしている。中国を見限ったのだろうか。

 現在の中国は「改革開放」政策がすすめられていて、「豊かになれる者から先に豊かになれ」という時代になっている。近代的な豪邸のとなりは昔ながらの土で塗り固めたような貧しい家があるといった露骨な貧富の同居は、近代という時代のありさまをいやというほど思い知らせていて、とても感慨深いものがある。

 中国というのは宿命的にすさまじく激変する社会のようだ。この『ワイルド・スワン』を読んだおかげで、文化大革命の迫害、断罪というフィルターを通してしか、中国人というものを見れなくなったような気がする。





  夜の山奥で迷ってしまうコワさ     00/11/26.


 行けども行けども紀ノ川が見えない!――今日は高野山のふもとにある高野町石道を紀ノ川に向って下ってゆくハイキング・コースを選んだのだが、ガイド・コースをちょっと離れてしまったためにいつまでたっても高い山々に囲まれたまま、ふもとにたどりつけない。

 日が沈むのは冬では5時くらいだから、それまでになんとか市街地に出なければならない。もう4時だ。しかしいつまでたっても視野がばっと広がるはずの紀ノ川は現われず、どこまでいっても断崖のような高い山々が行く手をさえぎるばかりだ。

 おまけにガイド地図では思い切り逆方向にある480号線行きの標識がかかげられている。しまった、逆方向にきてしまったのか! 逆方向といえば、市街地からますます遠ざかり、とんでもない山奥に入り込んだことになる。ここ、和歌山の高野山以南あたりはもう電車の線路なんか一本もない。歩き疲れて、へとへとで、もう一山も二山も越える気力も残っていない。

 山底にまばらに人家があるていどのところである。バスも走っていない。もうすこしでまっ暗闇の山奥の山村にとり残されてしまうことになる。どっちを向いてもぞーっとするような高い山々ばかりで、谷底に閉じ込められたような地点にいる。もしまちがって逆方向の山奥のほうに迷い込んできたとしてしまったら、いったいどうしよう。。。

 山道ではたまにこういう不安にとらわれることがある。いつまでもたっても、目的地や標識に出会わないとき、迷ってしまったのではないか、とんでもないところに来てしまったのではないか、日が沈むまでに山を降りれるか、と不安になるのである。

 こういう恐れにとらわれたとき、むかしの人は、不安と緊張で、妖怪や幽霊に出会うような精神状態になったのだと思う。こんなパニックに近い状態で、しかも夜の闇が迫っているとなったら、妖怪や幽霊が近しいものになるのはまちがいない。縁起でもないが、低山でも遭難してしまうのは、こういう精神状態のためなのだろうか。

 もちろん私はそういうのはよけいな「とりこし苦労」だと知っているから、悲観的な考えはいっさい無視することにした。人生の大半は起こりもしない心配のために多くをムダに費やしてしまうものであるとロビンソン・クルーソーやカーネギーがいっていた。

 どうやら私は山すそに降りる道を大幅に迂回してしまったみたいだった。だから地図上の距離感ではとうぜん着くはずの山すそにたどりつけなかったわけだ。現在地を示す地図を見つけたときは、ほんとうにほんとうに、ほっとした。

 山すそまでにたどり着くのはあと少しなのだが、夜の闇がどんどん降りてきて、バス停を見つけた私はバスを待つことにした。バスが来るころにはあたりはもうまっ暗で、山中の国道では街灯さえない。

 今回の見所だった紀ノ川は夜の闇のためにぜんぜん見えず、展望のよい景色はひとつも見れずじまいだった。ただ、駅から見える夜の星は、大阪の夜空よりかなりはっきりと見えた。ずいぶん低いところにある星もあると思ったら、山の高いところにある灯りのようだった。あの星座に見えそうな星はなんていうんだろうと思いながら夜空をながめていた。そういえば、今年はオリオン座を見てないな。。。





  職業中心の人生観は終焉するのか?     00/11/26.


 21世紀には今世紀までの職業中心の人生観は崩壊すると大胆にいいきった野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか』(PHP新書)をよんだ。

 私は現在のような職業中心の人生なんか生きるに値しないとは思ってきたが、この社会は職業中心社会のままぜんぜん変わらず、あきらめかけていたから、21世紀にそれは崩壊すると宣言したこの本にはおおいに好感と共感をもった。

 かつての近代資本主義の時代では、一定の職業について勤勉に働くことが人生の義務であり、意義であると思われており、また人生の充実と幸福が手に入れられるものだと信じられていた。われわれのオヤジの世代はこういう信念にこり固まっており、その他の「流動的」な生き方は頑迷に否定するのが王道だ。この時代にはたしかにそれなりの見返りと充実が保証される時代経済があったのだろう。

 しかし現在グローバル化と技術革新の波はすさまじく、崩壊する大企業はあとを断たず、安定と計画はのぞむべくもなく、人生は投機性と偶然性のつよいものにならざるをえないものになった。

 このような時代にはかつての職業中心の安定した計画的な人生は立てることもできず、おおぜいの人はパートタイマー的な職業にとどまざるを得ず、したがって勤勉や忍耐が徳目でなくなり、「一億総中流」の時代は終わり、貧富の格差は広がり、貧しいその日暮らしな生活ながらも、人生を楽しむ日常倫理が必要となってくるということだ。

 ふたたび江戸時代の町人のような暮らしがもとめられるわけだ。かれらは貧しいながら、日常生活を楽しむすべを知っていたし、その日暮らしの毎日を悔やむよりか、おおいに楽しんでいた。しかしその代わりにかれには民主政治は与えられていなかったし、階級社会だった。そんな時代が21世紀のわれわれの人生モデルになりそうなのである。

 しかしすでに若者は片足をつっこんでいるといってもおかしくない。政治とか大きな状勢にはまったく無関心だし、刹那的な享楽を求めるし、勤勉な職業観をもっているかはかなりアヤシイ。あとは政治の道具をとりあげられる民主制の権利がなくなることと、貧富の格差とか階級社会という序列制度の経験があるかないかの違いだけだ。

 おおむね私はこういう社会が来るとしても、楽観的に喜んでいるほうだ。職業に人生を捧げる一生なんかまっぴらだと思っているし、もしそれがとりのぞけられるのなら、貧富の拡大とか階級社会くらい大歓迎だと思っている。そのくらいの犠牲を払わないと職業人生からの脱却はのぞめないのであり、逆にいうと、民主制や平等は国家への自己犠牲がないと与えられないものである。二兎を得られない。

 さて、はたして職業中心の社会は崩壊するのだろうか。これまでの勤勉な職業観から脱け出す気楽な人生観が、社会的容認や賛美を得るような時代に早くなってほしいものだ。そのためには貧しさと不安定という生け贄は不可欠だと覚悟しなければならないが。





   風景はなぜ心を癒すのか     00/12/2.


 奈良の柳生街道の田園風景が気に入っていて、これでもう三度ほどいってきた。山あいに田んぼがえんえんとつづくような単調な風景なのだが、なぜか私のお気に入りだ。

 ひと山越えてかなり疲れたところにばっと広がる田園風景が気に入ったのか、それとも山あいにほとんど人家のない田んぼがつづくからなのだろうか。のどかで、ほっとする。

 私がはじめ山で気に入っていたのは、水の流れる渓谷や渓流だった。人がだれもいそうもない静けさとかはりつめた空気が好きだったし、ごろごろ転がっている大きな岩が、いかにも深山幽谷や大昔の山地といった感をかもしだしていて、とてもよかった。

 渓谷は山の中の閉ざされた空間や、閉じ込められた窮屈感を感じさせるが、それに比べて山あいの田園風景は広がりや展望を感じさせ、ほっとさせる。

 山のなかというのは鬱蒼としていたり、暗がりとなっている閉ざされた空間が多くあり、けっこう不安になったりするものだ。だから展望が開ける田園風景は心から気持ちをやわらげるのだろう。また山によってほどよく閉鎖された空間をかたちづくっているのも、それなりの安心感をもたらすものなのだろう。

 私はいま大阪市内に住んでいるのだが、近くの大和川の開けた展望もお気に入りだ。住宅街のなかではどこもかしこもコンクリートの家に囲まれていて、たいへん窮屈で、閉ざされた風景だが、大和川の土手や河川敷はゆいいつ、たいへん広がりをもった展望を垣間見せてくれる。だから心が解放されるのだろう。

 むかしの日本人も同じように感じていて、田畑を開拓するために川筋をたよりに山へ山へと溯ってゆくさい、閉ざされた山間を溯った奥に別天地がひらけるのではないかという期待感をもっていたようだ。そして谷が行き止まりになったとき、そこから先は霊が山に昇ってゆく「あの世」だと見なされたのである。(樋口忠彦『日本の景観』ちくま学芸文庫)

 人間は眺望や見晴らしがきく場所も好きだが、身を隠せるような場所も好む。動物の本能みたいなものである。だから人の住む場所も開けている土地でも山をうしろに家を建てたりしている。そういう場所が安心させるのである。広い空間でも隅に偏るのが人間の習性だ。

 前掲書でおもしろいことがとりあげられているのだが、大和の国もさいしょのころは奈良盆地の南端の山の辺にあり、最終的には北端の平城京に落ちついた。京都盆地においても南西端の長岡京からはじまり、最北端の山の辺、平安京にうつっている。

 このように山や風景を楽しむというのは、空間の感受性や情緒を味わっているといえるかもしれない。広い空間では解放感や清々しさ、うしろを遮断された狭い空間では安堵感や安心感といったように。入り組んだ山道というのはそういうスリリングな解放感と安心感を交互に味わわせるのだろう。

 私は広い空間と遮断された空間のどちらを好むのだろうか。でも時によって違うようで、ごみごみした狭いところに長くいると広いところに出たくなるし、広いところにいるとどこかに隠れたくなる。そのときの心理状態の逆の方向をのぞむようである。

 これは空間だけではなく、いまの自分が置かれている環境や精神状態にもあてはまるのだろう。縛られていると思ったら広いところに出たくなるし、無防備だと思ったらどこかに隠れたくなるのだろう。ということは、いまの私が好む空間は、私のいまの精神状態を空間によって示唆しているといえるのだろう。






   「新書」バクハツ!     00/12/5.


 さいきん新しい新書の創刊ばかりがあいついでいる。角川新書に平凡社新書、文春新書、集英社新書、洋泉社新書、宝島社新書、ちくま新書、PHP新書と、怒涛のごとく創刊されている。新書ってそんなに売れるものなのかなと思う。

 新書は学術的なことの入門書でありながら、手ごろな値段で買えるということで、私も重宝している。学問的なひとつのテーマを知りたいとなったら、まず新書を探す。文庫では、講談社学術文庫とちくま学芸文庫以外はほとんど小説だから、新書と棲み分けられているのか。

 学問の入門書としては重宝しているが、私のかなり個人的な好みでは、新書の細長いサイズはあまり好きではない。文庫のサイズのほうがいい。それから新書というのは表紙のデザインをほとんどしていない。講談社現代新書以外はすべてのっぺらぼうのタイトルのみの表紙であり、もうちょっと遊んでもらいたいと思うのだが。

 新書でさいきんヒットしたのは、私の興味の範疇に入ってきた限りでは、『もてない男』(ちくま)や『社会的ひきこもり』(PHP)『パラサイト・シングルの時代』(ちくま)『不平等社会日本』(中公)『捨てる技術』(宝島社)『弱者とはだれか』(PHP)といったところか。

 文庫といえば、小説ばかりだったのだが、ここに来て、ノンフィクション系や学術系の読者層がいっきょにふくらんだことを出版界が察知したのだろうか。出版社の勇み足なのか、それともそういう読者層がほんとに増えたのだろうか。

 時代としては小説のような空想のことより、現実のことを知らなければやっていけないという段階にさしかかりつつあるのは確実である。「不マジメ」がカッコイイ時代から、「マジメ」がいいという時代に変りつつあるのだろうか。そりゃあ、総中流社会からぽろぽろと人々がこぼれ落ちてゆくシリアスで情け容赦のない時代に入りつつあるのだから、こりゃあマジメに現実を知らなければ、となって当然だろう。新書の創刊ラッシュはその現れなのか。

 新しくできた新書のなかで私が買うことの多いのはいまのところ、ちくま新書とPHP新書が多いかな。ちくまの本はかなりしっかりした研究書という感じだし、PHPは短期間でできあがったような本だけど、時代のテーマをしっかりとつかんでいる気がする。

 宝島社の『捨てる技術』がかなりのヒットのようである。でもかなり軽いカルチャー系の書ばかり出すので、私にとっては別冊宝島のようなおもしろみはないと感じる。

 『社会的ひきこもり』とか『パラサイト・シングルの時代』はさいきんの一連の事件から読まれたのだろう。ニュースと事件の背景をもっとくわしく知りたいという人たちが増えたわけだ。そういうテーマを多くあつかおうとしているのが、洋泉社のようである。

 まあ、出版社のカラーとか編集方針というのは私にはよくわからない。これからの時代を鋭く読み解く良著をどんどんと出していってほしいものだ。それから、表紙をのっぺらぼーにするのではなく、ちゃんとデザインの表紙にしてもらいたい、ぜひ。本にとっては、表紙のデザインの魅力というのもかなり強くあるワケだし。

 それと新書というのは膨大な本棚のなかからお目当ての本を探し出すのはかなりシンドイ。これからはテーマ・ジャンル別に分けてゆく必要もあると思う。





  ことし売れた本、気になる本     00/12/8.


 ベストセラーは本屋でチェックする程度である。ただリテレール別冊の『ことし読む本いち押しガイド2001』が手元にあるので、ちょっとだけベストセラーに口をはさみたい。

 文芸では五木寛之『人生の目的』とか天童荒太『永遠の仔』、『ハリーポッター』『朗読者』とかが売れた。五木の前作『大河の一滴』はタイトルがあまりにもよかったので読んだが、今回も同じようなもの、しめっぽすぎると思って読んでいない。『永遠の仔』はTVで見たが、つまらなかったし、トラウマものは私は信じていない。

 ノンフィクションものはいつも池田大作と大川隆法がつらなっているが、信者のみの大量購読なのか。新書では永六輔や五木『知の休日』、河合隼雄、『捨てる技術』などが売れた。『もてない男』『パラサイト・シングル』『ひきこもり』『不平等社会日本』という社会派の新書が売れていたのが印象的。

 リテレール別冊では専門家がベスト3をあげていたが、みんなスゴク偏っており、何人かが重なっていたのは宮内勝典『善悪の彼岸へ』とグリッサン『関係の詩学』、パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』くらいだった。宮内はオウムについて、パワーズは自動車がもたらした空間と時間の変化をあつかっているそうだ。

 さいきん、私はちょっと小説を読みたくなったが、そのためにこのリテレール別冊を読んだのだが、小説は二、三冊読んだだけでまたもや急速に興味を失った。選ぶのが難しいことと、テーマやメッセージが明確に文章化されていないから、価値が薄いように感じるのだ。よい小説には巡り合いたいとは思うのだけれど。

 心理学的な『話を聞かない男、地図が読めない女』とか『この人はなぜ自分の話ばかりするのか』とかもよく売れるみたいだが、精神的にもろい私は心理学の本はよく読んでいたはずなのだが、もういまは心理分析の本より、自己啓発とかトランスパーソナル系の本の方が得ることが多いと思って読まなくなった。人や自分を分析して自分をさいなますより、気分がよいことのほうがもっと重要だと思っているからだ。また人間を知るには、個人心理より社会を知る方がより適合的だ。

 あと気になった本として、ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』、ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか』、田口ランディ『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』、アンジュー『集団と無意識』、米本昌平『優生学と人間社会』が目をひいた。田口ランディはタイトルがよかったし、名前と続刊がなかなか興味をひかれるが、ネット・コラムニストということで、ネットで探したら、てっきり男と思っていたら女性であった。

 まあ、私はベストセラーはあまり読まない。自分の興味のあること、興味の流れの方が大事だから、ベストセラーに手を出しているヒマがない。嫌いというワケではないが、まあほんとのところはみんなが読む本はキライなのだろう。みんなと同じ本を読んでいたら、自分の「個性神話」が崩壊するのがいやなんだろう。

 いまはなんとなく読みたいテーマとかジャンルがないから、ベストセラーのガイドブックを読んでみたというしだいである。ハイキングとか自然を文章や本で楽しむ方法を探しているのだが、郷土史とか紀行文はなんかしっくりこないしなぁ〜。おかげでこの「つぶやき断想集」に描く材料がなかなか見つけられないよーっ。





   広告が批判精神を失わせた?     00/12/13.


 たしか「メディアの世紀」という雑誌で、「広告が批判精神を失わせた」といっていた。そのとおりの気もするし、それのみではないだろうという気もする。

 消費行為にたいする批判精神という点ではわれわれは完全に完敗だ。消費という行動に批判や憎悪を感じているという人はまわりにはまずいない。ほぼ肯定されている。これにたいする批判精神は完全に消去されている。

 マス・メディアはちっとも批判や否定をしないからだ。全面広告シャワーのマスメディアばかり見ていたら、消費に対する批判心などまず芽生えない。肯定と称賛だけだ。

 広告とまったく関係ないと思われているTV番組だって、雑誌内容も、すべて広告費によってなりたっている。そのような首根っこをつかまれているようなマスメディアに消費批判などできようか。批判精神は完全にシャット・アウトされている。

 だれもが消費のどこが悪いのだと思うことだろう。せいぜい環境問題から糸口を見出すていどだろう。私としてはそんなことより、消費の裏面には必ず生産と労働という人生の剥奪が待っていることにガマンならないし、優越や劣等というゲームを企業主導で踊らされる愚かさがキライだ。

 社会学書や哲学書を読めば、消費に対する批判やミジメさはいくらでも知り得ることができるのだが、こんにちの若者たちはほぼそんな本は読まないだろう。全面広告シャワーのマスメディアに浸かされて、ただあれがほしい、これがほしいと騒ぎまわるだけだ。人文書によって客観的に自分たちの愚かさを知るのはひじょうに大切だと思うが、そういう知見を与えてくれる良識ある人がはたしてまわりにいるだろうか。

 この社会ではなぜ広告は批判されないのだろうか。やっぱりマスメディアは広告によってなりたっているからだろうか。マスメディアは報道機関というよりか、広告産業といったほうがよいのかもしれない。それに増していちばん大きな理由は経済成長というモノサシが最大の目標になっているからだろう。経済を大きくするものは全面的に善なのである。

 よって消費を無条件に肯定・賞賛する広告や宣伝はこの国では大々的に流される。それにたいする批判や愚かさの自覚はまず流されない。経済成長を唯一の善にしてしまった国の人々は健全で、均衡のある認識をもちえているのだろうか。社会主義の党首崇拝のプロパガンダとさして違いがないと思える。対象が特定人物か、商品になっているかの違いだけだ。

 批判精神といえば、ほかに政治に対するものがあるが、いぜんはマルクス主義による資本主義批判という大きなイデオロギーがあったが、いまは政治家個人をバカにするのが批判精神の発揮と思われているようだ。体制や社会システムにたいする批判精神というのはたしかになくなったと思う。輪郭のはっきりした、わかりやすい社会認識やイデオロギーがなくなってしまったというのもあるだろう。

 社会体制にたいする大きな批判がなくなった時代というのははたしてわれわれは満足しているから批判心を失ったのだろうか。だとすれば、批判心が薄れたことは悪いことではない。しかし広告の洗脳によって満足心が植え込まれているとするのなら、われわれはいまのあり方や生き方を反省してみるべきなのだろう。





   広告消費社会のゆがんだヒエラルキー    00/12/15.


 この世ではカネを稼ぐ人間より、カネを勢いよくつかう人間の方がエライとされる。いまでは女性や若者の天下である。かれらは広告や企業のもくろむとおり、威勢よくカネをつかうためにいちばんエラく、はなばなしい活躍をくりひろげているとされている。

 それにたいしてこの社会の陰の立役者で、陰の「支配者」である生産者たる「オヤジ」たちはバカにされ、粗大ゴミあつかいされ、ついには操を誓った企業にもリストラされ、この世の冬を皮肉にも迎えている。

 ほんとうのところはかれらがいちばん強く、支配者であるはずなのだが、この「広告社会」においてはより多く消費する者が「勝者」なのである。いちばんエライのである。オヤジたちは世を楽しく活性させるような消費能力の開発に意をそそがなく、ただ生産能力のみを磨いた。ためにこの広告社会では「敗者」「敗残者」となったのである。

 かわりに自分は生産せず、他人に自分の糧を与えてもらう主婦や女性、若者が広告消費社会の「王者」としてのしあがった。みずから生活能力をもたない、他人から生活費をもらい、養ってもらう者が、その消費支出と享楽能力のために、この広告社会では「勝者」と「王者」となったのである。なんとも皮肉で、転倒していておかしな話だが、この広告社会でもてはやされ、誉めたたえられるのは消費を専門におこなうかれらである。

 若者が自立をせず、パラサイト・シングルとなって親と同居するのはこのような社会のヒエラルキーがあるためだろう。消費をよりおおくするものが「王者」なのである。いぜんは主婦となる女性の専売特許だったものだが、男の若者にもそのような傾向が広まっているということだ。

 なんだかこういう構造というのは農民から年貢をとりたてて働かずに暮らした武士の政権と似ているような感じがする。いまの官僚や国家も、国民から税金をしぼりとり、その必要性を顕示させるために役に立たない公共工事ばかりする時代遅れのものになりつつあるようだ。

 女や子どもはその無能力や必要という神話や常識のために養って支配していたつもりが、いつの間にか、搾取される逆の支配主体になってゆくというのは、なんとも皮肉な話だが、よくある歴史のくりかえしなのかもしれない。

 生産をバカにして、消費をほめたたえる心理構造をもった若者たちは、とうぜん生産社会にうまくなじめないだろう。広告社会というのは、生産して苦労してカネを稼がなければならないという生活の基本を見えなくさせるものである。広告社会の王者となるためにはますます稼がなければならない。生産と労働がどんどん厭わしく、ツライものになってゆく。クレジット会社は若者のいますぐにも消費したいという欲望につけこんで、ますます繁栄してゆく。

 カネを稼ぐ者より、他者のカネを利用してたくみにカネを使う者がエライ社会。マスメディアによる広告世界はますますそういう傾向を助長してゆくようだ。

 われわれは広告とマスメディアにたぶらさかれないようにしたほうが賢明なのだろう。広告社会のヒエラルキーなんか信じないほうがいい。そのヒエラルキーの頂点に立とうとすれば、ほしいモノのためにますます働かなければならなくなるし、ますますカネを無駄に浪費しなければならない。われわれの人生の目的というのは、広告と消費だけに費やされるのみだけにあるのではないだろう。人生を過つな。



つぶやき断想集
世紀の終わりのつぶやき断想集




    理想とは軽蔑のことである     00/12/17.


 理想は、軽蔑からはじき出される。軽蔑の海にたっぷり満たされないと、理想という建造物は立ちあがらない。

 私は十代のころ愚かにもDCブランドにのめりこんでいた。DCブランドにイカれるとそのほかの安い商品やふつうの価格帯の商品が目に入らなくなる。DCブランドのみにしか価値が認められなくなるのである。

 安い、センスのよくない商品を軽蔑していたのだと思う。品質の違いとかデザインの違いとかほとんどわからないにも関わらず、ブランドというだけで価値あるものになっていた。

 こういうブランドによる世界観というのはほかのいろいろなことにも波及した。軽蔑する職業にはつきたくないだの、お茶を飲むのもセンスのよい店だの、インテリアはお洒落にしたいだの、いろんなものを軽蔑したうえで、ひじょうに狭くて偏った選択をうながしていたように思う。

 自分自身の価値はなにひとつ変ったわけではないのに、高級品のブランド品というファッションをまとっただけで、そこまで高慢ちきな自己意識をつくりあげてしまったのである。

 たぶんそのころの私はいろんなものを軽蔑ばかりしていたと思う。イヤミったらしい人間ではなかったと思うが、判断の選択の幅はひじょうに狭く限られたものになっていたと思う。

 思い出せば、ブランド品を着る前から私はいろいろなものを軽蔑していた。サラリーマンや野球やゴルフやアイドル歌手や画一的な流行や慣習などさまざまなものを。とくにオヤジや上の世代のすることなすことに反発を抱いていた。

 性格もあると思うが、商業主義とか消費社会の性質によるものもあると思う。つまり新商品が売れたり流行がおこったりするためには古いものや過去のものは否定しなければならない。そういうコマーシャリズムのシャワーを強く受けて、マジメに古いものや過去を軽蔑してきたのだと思う。

 月日は流れて、そういう高慢ちきな自意識は現実とのキビシイ相克のなかでどんどん丸められ、角を削がれ、うちのめされてゆき、かつてのこだわりもすっかり昔のことになった。いまはファッションなんかユニクロでてんで気にならないし、時計も千円のやつでじゅうぶんだし、軽蔑していた事柄ももうどうでもいいと達観するようになった。

 そういう角がとれるまで、ずいぶんと時間がかかった気がする。軽蔑が強かったり、理想が高いというのは、多くの代償を要求するものなのである。苦しい目にあうのは、現実との着地点を見出せない自分のみである。そして軽蔑しているのは、外部ではなく、内部の自分自身であることに気づくべきなのだろう。広告とか消費に高飛車な自意識をそそのかされないよう、よっぽど強い警戒心をもたなければならないと思うこのごろである。

 ところでこのようなことを思い出したのは、ファッションに強いこだわりをもつ若い子が職場に新しく入ってきたからである。こだわりというか、頑なな軽蔑が感じられたのである。それで昔の私が思い出されたのだった。ブランド品には警戒しろよ。





  カネより愛よの『やまとなでしこ』評    00/12/18.


 ドラマ『やまとなでしこ』はよかった。カネか愛かというひじょうに単純なテーマで、ラストもわかりきっていているわけだが、松嶋菜々子のきれいな顔を拝めるのがよかったし、愛というのは障害とか抵抗があればこそ切なくなったり、焦がれたりするもので、そういう気持ちをいくらか味わえてよかった。

 「カネより愛よ」というドラマはくり返しつくられる。打算とか損得だけでオトコ選びをするなというメッセージは何度もくり返さなければならないほどゲンジツはそういうものであるという事実をうきぼりにするものであり、また愛というのは、打算と損得が脇を固めて、しっかりと「悪役」をはってくれないことには、そのすばらしさと至福は立ちあがらないということである。「報われない愛」はカネで報われた例をみせつけられると、その崇高性も意味もゴミになる。

 カネより愛のテーマは、女性たちの上昇志向をやめなさいというメッセージなのか、それとも競争を降りてラクにしたほうがいいというメッセージなのだろうか。あるいは分相応に、高望みせずに自分の立場をわきまえなさいということなのだろうか。手近なオトコで間に合わせようということである。これは上昇志向者に効くメッセージなのか、それとも低い階層のオトコに閉じ込められたオンナの慰めなのか。

 カネと愛の対比は、利己主義と利他主義の対比でもある。道徳や利他主義も説いているわけである。

 利他主義のススメは男が主役のドラマでもくり返しとりあげられていて、上昇志向でヒトをヒトとも思わない功利的ビジネスを批判するドラマというのもよくある。ドラマを見ているときは「あ〜、そーだなー」という気持ちになるのだが、ゲンジツのビジネス社会ではひとたまりもない空想事に思えるのは、いつものことである。

 ちょっと前のイデオロギー図式では市場原理主義と社会主義の対比である。社会主義には貧富の差をなくしたり平等を達成するという利他主義・博愛主義的な理想があったが、これは達成されたあとの夢が残らないし、そのあとの経済成長がみこめない。ということでいまは人を蹴落とす市場原理主義がのろしをあげている。

 そんな時代だから、カネより愛よはいくども唱えられるのだろう。どうなんだろうか、やっぱり生活する上でカネは欠かせないし、金欠は良好な関係も崩してしまうし、愛というのは不変のものではない。消費と生活レベルを落したくないという女性は愛よりカネをとるべきなのだろうか。でも、すべて「いまの自分」はどうにでも変わるものである。利己的な人になりたいのか、利他的な人になりたいのか、その基準によって、カネと愛のかねあいや配分を賢明に考量すべきではないかと私は思う。





   2000年 ことしの読書の流れとベスト本    00/12/26.


 ことしは収入的に安定していて、八ヶ月ものバケーションをとった去年と違って、比較的本はたくさん読めた。お金がなかったら、単行本を買うのを控えるし、文庫本や新書がメイン、はては古本ばかりとなって深くテーマを掘り下げられない。

 読書のおおまかな流れとして、98年後半から99年前半にかけては漂泊とか隠遁、老荘などの東洋思想にハマっていた。中野孝次の『清貧の思想』(文春文庫)の影響である。そのあとはべつにテーマもなしに宮本常一『生業の歴史』(未来社)とか櫻木健古『捨てて強くなる』(ワニ文庫)などがヒットした。

 ことしに入って横森理香の『恋愛は少女マンガで教わった』(集英社文庫)はよかった。われわれマンガで育った世代にはマンガの影響なしに自身を語れない。マンガをオトナの言葉で読み解いたこの本はひじょうにベンキョーになった。

 森真一の『自己コントロールの檻』(講談社選書メチエ)は衝撃だった。感情のコントロールというのは「良い知識」だと私は思っていたが、社会の管理や支配としての道具であるという指摘にはたいへん考えさせられた。

 それからこの感情社会学の本ばかりを読んだ。岡原正幸他『感情の社会学』(世界思想社)、岡原正幸『ホモ・アフェクトス』(世界思想社)などだ。感情というのは統御不能だから自分らしさだと思われているが、そのため社会が人を支配するための有効な道具となっている。

 「自分の感情は純真なもの、自然発露的なもの」という思いこみは捨てた方がいい。感情は客観的に見るべきだ。そういう訓練をしてくれる、つまり感情を「客体化」する感情社会学をもっと深く知りたいと思ったが、いまのところ、主著の翻訳はまだまだだ。

 小此木啓吾の『秘密の心理』(講談社現代新書)もなかなか重要な本だ。隠すことによって、自他の境界、自分という感覚が生まれてくる。家族や仲の良い集団も秘密を共有することによって境界が生まれる。隠すことが自分だとしたら、自分とはなんなのだろうか。自分の境界とはなにか、自分とはなにかと考えさせられた。

 そのあとに可藤豊文『瞑想の心理学』(法蔵館)に出会った。これはひじょうに名著だ。われわれの見ている世界が虚妄であるという『大乗起信論』のことばをわかりやすく説明してくれていて、ひじょうに感激した本だ。

 岡野守也の『唯識のすすめ』(NHKライブラリー)では、われわれにはこの世界はモノや人がばらばらにあるように見えるが、ほんとうはすべて「ひとつながり」の世界であるとのべられていて、ひじょうに興味をもった。仏教でそれをいっているのは「一瞬の時間に永遠があり、一雫のなかに全宇宙がある」という華厳経である。この華厳経を理解しようとして、現代物理学とか量子論とかのサイエンスからそれを探ろうとしたが、ほとんど失敗に終わった。

 そのあと性愛の交換関係にこだわっているうちに民主制や平等も総力戦の交換条件であるということに気づき、カイヨワの『聖なる社会学』(ちくま学芸文庫)や『戦争論』(法政大学出版局)、猪口郁子『戦争と平和』(東京大学出版会)などにその指摘を見出すことができた。民主制は国民総力戦という交換条件でしか得られない悲劇的な事実をどう考えるか。

 ことしのおおまかな読書のおもなテーマは「感情社会学」と「華厳経」、「民主制と総力戦」にくくることができる。てんで系統立ったテーマにならなかったのは残念に思えるが、私の読書は自分のいま興味あることを追究してゆくやり方なので、まあ、いつかはなんらかの成果に結びついてゆくと考えることにしよう。

 いまはちょっとメディア分析、サブカルチャー分析に興味をもっている。自分が見てきたTVやマンガ、音楽などをあらためてどのような意味やメッセージがこめられていたのか考えてみたいと思う。自分をつくってきたものを再検討してみたい。社会学的な分析がいまいち充実していないのが残念だが、どこまで切り開けることだろうか。





   20世紀ライブラリー      00/12/29.


 世紀の変わり目なんてただの数字の上でのとりきめとしか思っていないから、20世紀がどーのこーのなんてどーでもいいが、まあ、かんたんな概括だけでもしておこう。

 私が生きたのは20世紀も後半の33年間でしかない。生まれたのは67年、世界的に対抗文化や学生運動が盛んなときだ。このときのムードはたぶん熱血学園ものやスポ根もののドラマやマンガにひきつがれたのだろう。

 それが一転、シラケの時代になる。「シラケ鳥、飛んでゆく〜、東の空へ〜♪」という唄が流行った。たぶん73年と77年のオイル・ショックによる高度成長の終焉の影響によるものだろう。この断続は私にぬぐいがたいニヒリスティックな性格をもたらしたように思う。

 80年代前後はアイドルの時代だった。キャンディーズ、ピンクレディー、山口百恵、松田聖子、田原俊彦、バカみたいな時代だが、アイドルとマスメディアが異常にパワーをもった時代だった。私はやっぱりアホらしくて洋楽に走った。映画では『猿の惑星』や『ジョーズ』、『スターウォーズ』なんかがとりわけ流行った。私は手塚治虫の影響でSF映画ばかり見ていた。

 バブル時代は日本人の自尊心と優越感が絶好調に達した時代だった。アメリカをいまにも追い抜きそうな経済大国にのしあがりかけた。レジャーとか高級品にイカレ狂った集団ヒステリーの時代はとても不快だった。このころアメリカから「エコノミック・アニマル」と揶揄された影響か、私はともかく仕事とか会社に身を捧げるような一生なんか大キライになった。

 90年代はバブル崩壊によって大不況の「失われた10年」になった。銀行とか大企業がばたばたと倒れて既成社会に憤りを感じていた私は大喜び。もっと崩れればいい。うひひ。

 不況時代にはつぎの時代を切り開く新ビジネスが生まれるといわれるが、インターネットや携帯電話がこの時代に大躍進した。

 この現在できあがった戦後の経済システムというのは戦中1940年代の国民総動員体制に端を発している。国家総力戦の経済システムが、戦後を通じてこの国を経済大国にのしあげたのである。その端緒は明治の近代化からはじまっており、民主制と平等の達成というのは国民総力戦との交換によって与えられたものであり、その御褒美ありがたさに国民は戦争や経済にばたばたと倒れていったのである。

 私の中にはすでに戦争の影響はない。悲惨で壮絶な戦争体験を同じ日本人が過去に経験したという実感が希薄である。父は空襲の体験をしているが、リアルさは感じられない。そういえば、私には父母方両方の祖母は知っているが、祖父の記憶はない。やはり戦争なのだろうか。

 20世紀は自動車と家電の時代だった。これらを国民に行き渡らせるためにあらゆる仕組みやインフラが整えられた時代だ。車のために全国に道路がはりめぐらされ、家電の物流のためにその道路網が利用された。19世紀にはそれが鉄道だったのだろう。

 イデオロギー的には社会主義の時代だった。ソ連は1917年に誕生した。日本は資本主義圏だが、国家が国民の老後や生活を保証するという社会主義的発想は社会主義国以上に浸透したという事実はしっかりと認識しておくべきだろう。

 そして20世紀は大量殺戮の時代だった。そしてそれが生まれたのは皮肉なことに民主主義と平等と人権によるものである。つまりそれらを与えられ、「国民」になった人々は国家は自分自身でもあるため命を賭してまで守らなければならないし、そのためには他国をも平気で蹂躪しなければならない。こうして貴族や武士などの専門職による戦争以上の膨大な殺戮と犠牲がもたらされたのである。

 民主制と平等は大衆市場も生み出した。最大の利益をあげる大量生産は階層社会ではマーケットが分断されてしまう。階層や不平等の垣根があるかぎり、市場は広がらないというわけだ。ヒューマニズムや進歩から平等や民主制は達成されたのではなく、市場や企業の要請であり、また国民総力戦のために必要な交換条件であったということだ。

 大量生産と大量消費は画一的で均質な大衆を生み出した。20世紀は大衆の時代である。そして画一性と均質化をなんの疑問もなく他者に圧しつける自由のない時代である。

 画一化した大衆を生み出したのは大量生産と大衆市場である。大衆市場ができあがるためにはどの部品にも合う規格品が必要になる。人間も同様だ。われわれは大衆市場における大量規格品として育てられる。それを生み出す企業は鉄道によって生み出された。鉄道が従業員を遠方からも一ヶ所に集めるという仕組みを可能にした。そして20世紀は企業の時代になった。企業が人間の人生や生き方、性格や嗜好などを決定づけた。悪夢のような企業支配の時代である。

 まあ、20世紀とはざっとこんな時代だと認識している。21世紀というのはこのような時代のシステムがばたばたと倒れてゆく時代になると予測される。崩壊の時代に希望を見出せるだろうか。あるいはどのような希望なのだろうか。






 選択可能性の時代のどうにもならないもの     00/12/31.


 これまで消費によってわれわれは「選べる幸福」というものをどんどん広げていった。「選択不可能性」や「どうにもならないもの」、「宿命性」といったものを排除してゆくのがこれまでの歴史だった。消費や科学はそういう夢を達成するに足るものだと信じられていた。

 消費の「選べる幸福」はそれ以外の世界のものの見方も決定する。これまで選択不可能であった家族や夫婦、親子、恋人、職場というものも「選択可能性」のリストのなかにつけ加えられてゆこうとしている。

 これが家族の崩壊やプラトニック・ラブの崩壊、企業忠誠心の崩壊と写る。これまでこれらは選択不可能で、選べない宿命性を背負ったものであったが、どんどん選択できる、選択されるものになっていった。

 しかし世の中、どんどん選べるものになっていってハッピーでおしまい、という話にはならない。どこまでも選べるということは、選べない自分の無能さや不幸とじかに向き合うことになるし、どこまでも選べるものを広げても選べないものは絶対に残る。容姿や生まれや育ち、才能、性格、親子など、自然や環境に属していたと思われているものだ。

 むかしの人は宿命性やどうにもならないものに順応し、あきらめたり、正当化したりする生き方や技術といったものをしっかりともっていた。しかし選択可能性が増えていったわれわれに、宿命性やどうにもならないものに対する忍耐力や順応力がどんどん失われてゆくのは当然のことだ。選択可能性の広がりは選べない不幸をも倍加するのである。選べるがゆえの、選べない不幸である。

 われわれは人生のどこかでなんども「選べるはず」の「選べない壁」にブチ当たることを経験することだろう。「選べるはずなのにこれはオカシイ」とパニックをおこし、なんどもなんどもリセット・ボタンを押して人生や人間関係をやり直そうとする。しかし選択可能性がどんなに増えた世の中でも、絶対に選べない、変えようのない宿命といったものは深淵のごとくわれわれの人生に待ちかまえているはずだ。人生にはどうしようもないことが山のようにある。

 だから選択可能性がどんどん広がってゆく世の中でも、われわれはどこかで選択不可能性やどうにもならないものを受け入れて、順応してゆく心理的機能も考える以上に強化する必要がある。どうしようもないものを我慢したり、容認する技術は、選択可能性の時代だからこそ、それを上回るほどのパワーを必要とするのである。

 選択できる、やり直されるはずだと思いこむから、人生はなまじ不安定で、もがきまわるものになり、心をさいなんでしまう結果におちいる。

 選択できる可能性ばかり夢想するのではなく、選択できない、変えようのない局面もたくさんあることを容認する必要がある。選択不可能性を受け入れて、そこで生きてゆく覚悟と自覚が、時には――いいや、考える以上に必要だということだ。

 選択不可能、どうにもならならもの、宿命性といったものをもういちど引き受けて、そこで幸福を養ってゆく技能と知恵がわれわれに必要だということだ。どこかでわれわれはこの重い現実を引き受けなければならない。選択可能性がどんどん広がる時代の重要な知恵である。



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