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1998年全哲学エッセイ集




 「私利私欲と戦後の経済成長」 1998/1/10.
 「有閑立国――時間をたのしむ国への転換」 1998/1/13.
 「利己心・道徳・経済的繁栄」 1998/1/25.
 「集団依存型のアノミー日本人はなぜ生まれたのか」 1998/1/28.
 「うれしい出版社、ザンネンな出版社」 1998/2/2.
 「規範なき、あなたまかせ日本人の悲劇」 1998/2/5.
 「事件主義批判」 1998/2/7.
 「なぜ個人はだれにも守られないのか」 1998/2/17.
 「諸悪の根源――法人優遇社会と言語化されない社会」 1998/2/20.
 「わたしがのぞむ生き方と社会」 1998/3/1.
 「「会社」という日本人のただひとつのよりどころ」 1998/3/4.
 「ビッグバンが必要なのは国営品の人生だ」 1998/3/8.
 「見えない規範、見えない言葉のタブー」 1998/3/13.
 「業社会で生きるということ」 98/4/1.
 「旧い価値観と勤勉の強制力はなぜなくならないのか?」 98/4/5.
 「アンチ上昇志向!」 98/4/15.
 「豊かになればすべての問題が解決すると思っていた親たちの貧しさ」 98/4/19.
 「人類はから生まれた?」 98/4/27.
 「モノ貧乏/時間貧乏――「暇であること」の復権を!」 98/4/29.
 「「理想社会」というパラドックス――中川八洋『正統の哲学異端の思想』私感」5/12.
 「平等とはほんとうにいいものか」 1998/5/24.
 「ヤメられないトメられない暴走日本人に必要なストッパーとは」 98/6/1.
 「平成不況について思うこと」 98/6/20.
 「リチャード・カールソンの本が売れているそうだ」 98/7/6.
 「上からの制度化と自分から変わろうとしない日本人」 98/7/21.
 「生活保障という恐れが未来の牢獄をつくりだす」 98/8/4.
 「ヘンリー・ソーローの省エネ労働観」 1998/8/15.
 「孤独への疾走――ショーペンハウアーの社交論」 1998/8/24.
 「漂泊の人生に癒しを求めて」 1998/10/12.
 Photo Essay「心象風景紀行」 1998/10/25.
 Photo Essays自然が語りかけるもの」 1998/11/7.
 「陶淵明の隠遁と脱俗について思う」 1998/11/15.
 「欲望社会と賢者にみる人間の品位」 1998/12/4.
 「98年 の収穫ベスト10」 98/12/23.
 「意識的自己と意識的自己」 98/12/30.


    Thiking Essays


     私利私欲と戦後の経済成長

                                              1998/1/10.





     勤勉に働かなければ「悪」とされるような風潮が、この世をおおっている。

     だが果たして勤勉は「正義」なのか。

     金儲けをしたり、出世をめざしたり、自社企業を大きくしたり、

    豪華なマイホームやブランド品をもつことが、はたして「善」なのか。

     無条件に「よいこと」とされていることは、ほんとうに「よいこと」なのか。


     わたしが「会社人間」を嫌ったり、「会社絶対主義」をおぞましく思ってきたのは、

    無条件に肯定されている「金儲け」が、人や社会のためではない、

    「私利私欲」を追求するものでしかないのではないか、

    という根深い不信にもとづいているのではないかと気づいた。


     企業活動というのは、自己の「私利私欲」だけをめざしたものではないか。

     それなのに、この社会ではその企業活動が無条件に肯定されている。


     私利私欲が無条件に「よいこと」「とうぜんのこと」とされているのである。

     「会社中心主義」や「会社への忠誠心」といったものがなにか肯定できないのは、

    このような利己主義にたいする深い懐疑があるからだと思う。


     親が会社を自慢にしたり、大人が会社を誇りに思ったりすることに、

    なんとなく軽蔑の感をもってきたのは、自分の利益だけを追究する、

    えげつない「守銭奴」の顔がみえたからだろう。


     だが逆に、あまりまじめに働かなかったり、賭け事や女遊びに熱中したり、

    フリーターをやっていたり、海外放浪をしていたりすると、

    「自分勝手だ」、「利己的だ」と非難されるような風潮がある。

     わたしにいわせると、あなたたちこそがえげつない「金儲けの利己主義者」だ、

    だからこそ企業社会からドロップアウトしたくなるのだと思うのだが、

    ここは一歩ひき下がって考えよう。


     企業活動は社会に富や便利さをもたらすのはたしかだ。

     アダム・スミスをもちだすまでもなく、経済活動というのはめいめいが自己の利益を

    追求していると「神の見えざる手」によって市場経済が健全に機能すると考えられている。

     「私利私欲」をめざしていると、社会の経済はうまくゆくのである。


     企業活動はたしかにそうかもしれない。

     車をつくったり、電化製品をつくっていたりすると、

    結果的にはほかの社会の成員に企業活動の恩恵をもたらすことになるのだ。

     現代のわれわれが電化製品や機械製品にかこまれて便利な生活を送れているのは、

    めいめいが「私利私欲」な経済活動に走ってきたからだ。


     それにたいしてこれまで非難されてきた女遊びや賭け事というのは、

    社会にとくべつの生産的な結果をのこさなかったからだろう。

     生産や蓄積に価値がおかれている時代には、

    ちゃんと金をまわす役割をもっている活動でも非難されてきた。

     家庭の生活を破壊するのだから、とうぜんだが。


     生産や蓄積に価値がおかれていたから、

    金銭やモノが蓄積されない活動は「利己的」だと非難されてきたのである。

     つまりその時代の社会の要請に合致しないものは、

    「利己的」だとして排斥されてきたのである。


     社会はいま蓄積から消費の時代への転換を迫られている。

     消費することによって生活の糧を得るサービス業に、

    多くの人が従事することになったからだ。

     こういう条件の社会はとうぜん消費を肯定しないと社会がなりたたない。

     金をいろいろなサービス業にばらまいてくれないと経済は回らない。

     生産活動の分が悪いのは、そういう社会的条件の変化があるからだろう。


     いまだにこの社会に勤勉の価値観が蔓延しているのは、

    おそらく生産や蓄積に価値をおいてきた世代がまだ多くいること、

    蓄積のほうが有利な産業に従事していること、などが考えられるだろう。

     直接、最終商品の消費者から金をうけとらない業界には、

    このような気分が温存するのだろう。


     社会は勤勉より消費に価値をおいた価値観に移行するべきだ。

     もうすでに産業構造がそのように移行しているのだから、

    消費を肯定するような社会的規範をつちかうほうがいい。

     それがこれからの日本を繁栄させる道なのだからだ。


     消費は自由な選択ができなければ、マーケットが成熟することができない。

     選ぶ自由があり、生き残る競争があれば、サービスはその性能を向上させてゆく。

     それなのに自由な選択ができない社会が温存しているのはなぜか。


     やはり大量生産社会に基盤をおいた官僚統制経済があるからだろう。

     かれらは生産者に有利な政策を多くとり、結果的に消費者の自由な選択を奪っている。

     そしてそこには、市場経済の旺盛な成長力はない。

     またさまざまな生き方、価値観の多様さを許さない。

     官僚には時代からの大きな転換がつきつけられている。


     さて経済を大きな目からみればこのようになるかもしれないが、

    われわれ一般の人間はそんな大きなものの見方はまず必要ない。

     われわれはもっと狭い視野の世界に生きている。


     げんざいのたいていの人は、自分の会社と学校という狭い世界のなかだけで、

    閉じ込められている人がほとんどだろう。

     そして自己の生活や利益がその世界だけにつながっているとしたら、

    ほかの社会のことはたいてい没交渉か、無関心になるだろう。

     おもにテレビという情報機関によってこの社会の出来事を知っているが、

    それがブラウン管のなかだけの一種の「虚構」にしか過ぎないことを――

    自分の世界とはまったく無関係の世界であることを、薄々感じている。

     これが現代のわれわれの現実だ。


     かつて企業活動は社会に貢献する大きな使命をもっていたかもしれない。

     自社の企業生産が即、国家の富に直結したような時代もあったのかもしれない。


     だが、げんざいのわれわれ労働者にはそのような手ごたえはまるでない。

     社会は大きくなりすぎ、組織は複雑になりすぎ、

    権限は手の届かないところにおあずけだ。


     われわれは自分の仕事が社会に貢献しているのか、

    ほんとうに社会のために立っているのか、

    だれかの役に立っているのか、まるでわからないところにいる。

     仕事に目的も意味も、そのやりがいも、組織や社会の巨大化により、

    まったく見えなくなってしまっている。


     わたしの手に残されたのは、ただ自己の利益――所得や地位の増大という、

    ちっぽけな、あまり意味のない役割だけをもとめられるだけだ。


     このような社会への貢献も意義もみとめられないポジションにいるわれわれに、

    はたして会社や仕事というものが、私利私欲に根ざしたものではない、

    と言い切れるだろうか。

     けっきょく、金儲けとは他人から富やカネをむしりとる、

    私利私欲な強欲でしかない、という気持ちが大きくなり、仕事を軽蔑するようになる。


     われわれ大人たちは子どもたちに自分の仕事が、

    自分の私利私欲ではない、社会の役に立っているのだ、

    と胸をはって言えるだろうか。

     自己の私利私欲を肯定して、なんのやましさも感じずに、

    子どもたちにそのまま伝えつづけることができるか。


     子どもたちは、自分勝手な、利己的な人間になるなとたいがいは教えられる。

     他人を思いやったり、他人を傷つけない、道徳的な人間になるようにしつけられる。


     だがそのように教える親自身が、

    私利私欲の金儲けや会社の仕事に猛進しているのだ。

     子どもたちはこの矛盾を敏感に感じとって、親や大人を軽蔑するようになる。

     若者たちの「オヤジ狩り」にはこのような道徳観の制裁という意味があるのかもしれない。

     利己主義者になるなという親自身が、私利私欲の亡者なのだ。

     はたして子どもたちはこの道徳のパラドックスに耐えられるか。


     われわれ若者たちが転職をしょっちゅうくりかえしたり、

    なかなか定職につけないのは、このような道徳にたいする違和感が

    あるからかもしれない。

     会社生活とは私利私欲に走った、利己的な生き方なのだという思いが、

    拭い切れない疑惑として、われわれ若者の心に残っている。

     「会社人間」という生き方は、私利私欲の極限のすがたにみえるわけだ。


     おそらく中年のサラリーマンにはそういう意識がないと思う。

     かれらはきちんとした定職につき、安定した職業生活をいとなみ、

    妻子をやしなうということが、至上の「道徳」になっている。

     それがかれらにはどうやら、木がはえたり、太陽がのぼったりする、

    自然な現象であることのように思われるようだ。

     だからリストラというのはかれらにとって、自然界の崩壊にも近いショックなのだろう。

     自分たちの生き方が「私利私欲」に見えるとはとても思われないだろう。

     勤勉な生き方が道徳なのだから。


     だがわれわれにはそれが私利私欲の生き方に見える。

     勤勉に働かなければ食えなかった時代と、

    豊かな時代に生まれ育った者たちとの違いだろう。

     豊かな時代に生まれ育った者たちには、

    がつがつした、私利私欲の生き方がもうガマンできないのである。

     勤勉の倫理がうしなわれたのではなく、

    私利私欲の経済活動がもう肯定できないのである。

     時代背景が違えば、善であったものも悪に見えるものだ。


     経済活動というのは利己的行動なのか、それとも利他的行動なのか。

     われわれの利己的になるなという道徳と抵触せずに、

    共存できるだろうか。


     時代的要請という点からみてみると、

    無謀な経済活動はもう社会に貢献する活動では、まるでない。

     だがわれわれは経済活動をしなければメシを食えないわけだから、

    全面的にこの価値を否定できるわけがない。

     利己的な活動と社会的な貢献がクロスできるところを求めなければならない。


     これからの時代、戦後のような経済成長はもう見込めないはずだ。

     これまでの経済成長は冷戦構造という「戦争状態」のために――

    戦争は物価高をもたらす――未曾有の繁栄をもたらしたのだ。

     アメリカの卸売物価指数の歴史をひもとくと(『大いなる代償』を参照)、

    独立戦争や南北戦争、世界大戦のときに物価はことごとく急騰をもたらしている。

     そしてそのあと約20年ほどは物価の転落を経験している。


     戦争がこの50年の経済繁栄をもたらしたのであり、

    社会主義と資本主義というライバルは物質消費の繁栄ぶりを武器にして、

    おたがいのイデオロギーを見せびらしつづけた。

     それを象徴しているのが、ベルリンの壁ができあがるまでの両体制の、

    消費の繁栄を宣伝する映画合戦だ。(NHK『映像の世紀』)

     この消費の繁栄というのは、両体制の武器、あるいは勝ち負けのモノサシ、

    だったのかもしれない。


     それが冷戦が終われば、その役割を終えてしまう。

     世界から軍事費がひきあげられ、全般的な価値の急落をひきおこす。


     このような物価、株、土地、消費の価値といったすべてが急落する時代にあって、

    勤勉や生産の価値はもうそんなに必要ではない。

     大量生産の論理も要請も必要ではない。


     戦後の日本人が生産や消費に必死に励んできたのは、

    このような大きな背景があったからだと思われる。

     バブルのときにも、株や土地の値上がりというあまり実体的ではないものによって、

    われわれは高級品やブランド品志向にたけり狂った。

     そういう背景が、われわれの志向や行動をそそのかすのである。


     これからは背景がすべてがしぼんでゆく時代である。

     経済活動も、なにをやっても儲かるような時代はしばらくはやってこないだろう。

     どんなに私利私欲に経済活動に走っても、

    あまり消費欲を刺激できない時代に入ってゆくだろう。


     パイが小さくなり、経済的に困窮するような事態にたちいれば、

    私利私欲な経済活動は、社会の道徳から大きな制裁をうけることになるだろう。

     下り坂の経済には、それに合致した道徳観ができあがる。


     そのときには私利私欲のこれまでのような経済活動、道徳観は、

    大きな転換を迫られるだろう。

     われわれは社会や世の中にためになる道徳観というものを――

    この戦後の50年の繁栄のためにすっかり麻痺したものを、

    もう一度、かえりみることが必要なのではないだろうか。





                                          (END)




      経済と道徳の相克というのは、大きな問題であることに気づいた。

      わたしの頭のなかでは、正直のところ、あまり整理されていない。

      またこのエッセーのなかで、企業集団の倫理退廃や社会倫理の崩壊を

     とりいれたかったが、うまく機会をつかめなかった。

      なんらかの文献があれば、参照でもして、また考えてみたいと思う。

                                      ――Ueshin.


    Thinking Essays



     「有閑立国」――時間をたのしむ国への転換


                                                1998/1/13.





     いまの若者たちは子どものときからテレビや映画、マンガ、

    音楽、ゲームといった娯楽のシャワーに囲まれて育っている。

     その熱中度は勉強とはくらべようもないくらい強く、

    子どもたちはその世界にどっぷり浸かり、手放せないくらいのめりこむ。

     学生のころは比較的、それらを楽しむ時間がある。


     だが社会人になれば、早朝から夜遅くまで拘束される会社勤めに驚く。

     これまで浸かってきた娯楽の世界についやす時間がまったくもてないのだ。


     このギャップはそうとうのものがある。

     これまで多くの時間を割いてきた大好きなものに、

    まったく時間を費やせなくなってしまうのである。

     長時間労働の職場に不満をいだくのはとうぜんだ。


     このギャップはいったいなんだろうか。

     子どものころさんざん遊ぶにまかせておいて、

    オトナになったらいきなりすべてをひきはなすのだ。

     会社にも社会にも不満を抱くだろう。

     おおくの若者たちが会社の言いなりになっているのがふしぎなくらいだ。


     この社会はなぜこんなに労働時間が長いのだろうか。

     なぜ、われわれの好きな娯楽の時間をもっと与えようとしないのだろうか。

     なぜこんなにも会社に拘束される時間が長いのだろうか。

     なぜこの社会はわれわれの好みの方向に進むことができないのだろうか。


     まるでこの社会はわれわれ人間が主役ではないようである。

     われわれはだれかにひっぱられて、ただひきずりまわされる奴隷のようなものだ。

     われわれ人間が主役になって、この社会を自分たちの好む方向に

    もってゆくことはできないのだろうか。


     この社会はいったいだれのための社会だろうか。

     われわれの社会ではないのか。

     われわれが楽しく、幸福に、いきいきと生きるための社会ではないのか。


     でもこの社会はそうではない。

     どうもわれわれ人間ののぞむ方向に社会はまるで進んでいない。


     社会を変えるような手段をわれわれはなにひとつもっていない。

     ただ会社や社会のなすがまま、言われるがままに従うしかない。

     またわれわれ日本人は自分の属する集団や会社にたいして、

    批判や改善を口に出せば、その場にいてはならないような気もちにさせられてしまう。

     われわれは集団の敵対者になりたくないがために、

    たとえ不満があっても、その集団の戒律になびいていってしまう。

     ホントーのところは敵対者の不満がイタイほどわかるのに、

    集団の論理を尊重して、かれをつまはじきにするような言動、態度に走る、

    あるいは傍観者になってしまう。


     政治がまるで存在していない。

     政治が個人を守るようにまったく機能していない。

     法律も、日常の生活空間にはまったく浸透していない。

     まるでわたしにはなんの憲法保証もないようである。

     個人がこのような状態だったら、社会はまず自分たちののぞむ方向に進まないだろう。

     だれも変えられない――ましてや声すらあげられない。

     こうして長時間労働の「生産マシーン国家」はその異様さをさらす時代遅れになっても、

    いつまでもやめることも、とめることもできない。

     いま、ホンネのところで日本人はだれもこの「生産マシーン・システム」を

    支持なんかしてはないのではないだろうか。

     だれがこの「女工哀史」のような毎日の状態を支持するというのだろうか。


     経営者や管理者側はどう思っているのだろうか。

     かれらも国が豊かになった現在、いままでどおりの「労働時間」でいいと

    思っているのだろうか。

     かれら自身も自分の時間とかゆとり、趣味の時間をもちたいと思わないのだろうか。

     かれらはアナクロで、勤勉を極上の道徳と思っているのかもしれないし、

    あるいは立場上、勤勉なフリをしていないとその座がアヤういか、

    あるいは人間のように血が通っていないのかもしれない。


     労働に囲いこまれてゆとりをもてない人たちは娯楽についやす時間がない。

     これはサービス業などの商売にとっては死活問題だ。

     そして日本はますますそのサービス業に頼るようになっている。

     日本がこの方向に進んでゆくとしたら、サービス業の利益や繁栄という観点からも、

    われわれ消費者にもっとゆとりある時間を与えるべきではないだろうか。


     「日本を休もう」といったJRだけの問題ではない。

     旅行代理店や観光業の人たちも、日本人の休む時間がもっと多くなれば、

    利益を得られるだろうし、それは旅行全般の質的向上をもたらすだろう。

     ゴルフ場であれ、スキー場であれ、休みが増えれば、おおいに潤うだろう。

     ただ、日本人のいっせいが休み、同じところに殺到すれば、

    楽しいどころか幻滅してしまうので、分散型の休日が好ましいだろう。

     百貨店も小売店も、囲いこまれてショッピングに訪れる時間もなかった、

    男性の消費者をとりもどす機会になるかもしれない。


     いちばん大事なのは、若者たちが多くの時間を割き、

    魅力を感じてきたメディアを享受する時間を与えることだ。

     このメディアの産業はインターネットやデジタル・テレビ、ゲーム、マンガなど、

    われわれ日本人の未来の産業や可能性を切り開いてゆくものだ。

     このメディア産業が発達するためには、仕事ではない、

    娯楽や楽しみに熱中する多くの時間がなければならない。

     まだ発展中のこれらの産業は多くの時間という土壌から、

    たくさんの可能性を増殖させてゆくだろうし、

    それは蒸気機関がのちの社会にさまざまな可能性をもたらしたような、

    変革の契機を秘めているものだ。


     たぶんこれからの人間はかつて大洋という空間にのりだしていったように、

    知識や情報といった世界にこれから乗り入れようとしてゆくだろう。

     子どもたちのメディアののめりこみ具合は、未来を予告しているといえるだろう。


     日本はこの産業が発展してゆくための、

    ゆとりの時間という土壌を養う必要があるのだ。

     これはひとり生産者ががんばればいいという問題ではない。

     消費者がそれを享受し、可能性を見つけ、改善や改良を加え、

    それが生産にフィードバックしてゆくかたちで発展してゆくものだ。

     時間もゆとりもない消費者が、進歩して洗練されたサービスを、

    そんなに必要とするわけがないのだ。

     現在のホテルなどの料金が高いのは、やはり休日が少ないからだろう。

     固まった休日にいっせいに客がつめかけ、あとのシーズンはがらがらといった客は、

    あまり上等な客ではないし、客自身も洗練されたサービスをうける資格もない。


     この日本の未来をひらいてゆく情報関連産業には、

    それを享受するに値する消費者を育てるための時間が必要なのだ。

     これまでの長時間労働に拘束されていれば、

    そのような洗練された、またその業界を発展させるような消費者は育たない。


     これまで日本人には独創性、創造性がないとひとつ覚えのように

    言われてきた非難も、それを育む時間という土壌がなかったからかもしれない。

     なにか新しい、未知の可能性を秘めたものを育てるには、

    無目的な時間が必要なのである。


     これまでの主要な産業――オールド・ジャパンをひっぱってきた自動車、電化製品、

    といった産業は、フレデリック・テイラーの科学的管理法のように一分一秒でも、

    労働にもちいたほうが効率がよかった。

     大量の製品を規格どおりにつくるためにはそのような効率化が有利だった。


     また消費者にしても、冷蔵庫や洗濯機、テレビ、車といったものは、

    使いこなすのにたいして時間はかからない。

     それらのモノを購入して所有してもらうためには、べつに時間は必要ないのだ。

     だから労働者に時間がなくてもかまわなかった。


     しかしこれからの創造化社会においては、アイデアや発想は、

    ベルト・コンベアにのせるほどの効率化をはかれるわけなどない。

     ましてやどのような方向に発展してゆくかもわからない未知なものにたいして、

    一分一秒を競う効率化など意味がないし、ときには阻害してしまう。

     作家や作曲家がウミガメのように卵を産みつづけることはできない。


     時間にたいする考え方を変えなければならない。

     タイム・カードで管理するような時間拘束はますます意味をなさなくなるだろう。


     サービス化や情報産業化への移行といった点からも、

    若者たちの不満といった点からも、この社会は時間的なゆとりを必要としている。

     いちおう、金持ちといわれる国になったのだから――いまはドツボだが、

    後進国からは憧れられ、先進国からは一目おかれる存在になった。

     日本は世界から憧れられる金持ちの国、

    憧れられるライフ・スタイルの国に転換しなければならない。


     世界は金持ちの国の文化を模倣する。

     これはイスラムにしろ、イギリスにしろ、アメリカにしろ、古今東西変わらない。

     日本はそのような方向に転換するべきであり、もうそのような段階なのだ。


     日本のアニメ・マンガは世界中を席巻しているし、

    カラオケもかなり浸透しているし、東南アジアでは日本の歌手は人気者だ。

     あとはライフ・スタイルを輸出できるようになるべきだ。

     もうそのようなブランドで影響力を与えられるようになっているのではないだろうか。

     だがいまの日本人の労働時間はロシア革命以前の「プロレタリア」なみとも

    いえるレベルと思われるので、だれも憧れはしないだろう。

     憧れられているのは、トヨタとかホンダとかソニーなどの商品名であって、

    個人ではないし、ましてやわれわれのライフスタイルなんかではまるでない。


     ほかの国にたいするイメージという点からも、

    われわれのライフスタイルは変更を迫られている。

     世界中から憧れられれば、それだけ輸出はおこないやすいだろうし、

    おおくの特典も与えられるだろうし、だいいちわれわれの誇りをくすぐる。

     ネズミのようにちぢこまってせこせこしていた日本人は、

    プライドをもって、ゆったりどっしりとかまえることができるのだ。


     ただ昨今のアメリカのように繁栄のあとには没落が待っている。

     だが古今東西、繁栄のあとにはかならず没落が襲ってくるのであり、

    それは多くの条件からいって、あらがいがたいものなのだろう。

     それはしかたがないものし、その道を選択しなくてもどっちみち没落が待っている。

     状況とその段階に合せて、日本人は変わってゆかなければならない。


     ともかくゆとりある時間を創出することが大切ではないだろうか。

     それを「有閑階級」からその名をとって、「有閑立国」とよぼう。

     われわれはゆとりと暇のある「有閑立国」をめざそうではないか。


     もうじゅうぶん働いてきたのだし、物質的にはかなり豊かになったし、

    あとは生活時間、労働時間といった時間の貧困さに目を向けるべきではないだろうか。

     この貧困さは、ほかの後進国なみ、あるいはそれ以上に、

    目をおおうばかりだという現実に気づいてほしい。

     われわれはバラック街からまだ抜け出せていないのかもしれない。


     われわれは時間的なゆとりをもった「有閑大国」をめざそうではないか。

     いまよりは生きやすく、また子どもを育てやすい環境になれるかもしれない。




                             (――終わり――)


      Thinking Essays



        利己心・道徳・経済的繁栄


                                            1998/1/25.






       この日本では経済活動にたいして道徳を問われることはほとんどない。

       犯罪や公害、環境破壊などがおこったときには、それらはおおいに問題になる。


       だが、ふだんの経済活動にそれが問われることは、まずない。

       だれひとりとして、経済活動を道徳面から考えようともしない。

       この国では、金儲けや利益至上主義、会社拡大主義などを、

      無条件に肯定してしまっている。


       それが私利私欲な活動ではないのか、といった懐疑をだれも抱きはしない。


       多くの人は個人的には懐疑を抱き、金儲けは無条件に肯定しない、

      と心のなかで思っているのかもしれないが、表面的にはぜんぜん現れてこない。

       私利私欲と金儲け主義の企業活動が蔓延している。


       もちろんわたしもそれを道徳面から非難して善行をなせだとかは言わないし、

      みずからの麻痺してしまった個人主義的生活を捨て去るようなことはしないだろう。


       わたしが問いたいのは――自分でもその問いがまだよくわからないが――

      道徳面から金儲けをどう考えればいいのか、といったことではないかと思う。


       わたしのなかには、金儲けや会社の儲け至上主義などにたいする、

      ぬぐいがたい懐疑が巣食っている。

       だから会社勤めに熱を入れることはできないのだが、

      しかし働かないことにはメシを食えない。

       この矛盾のなかで、経済の道徳的側面を考えてみたいのだ。


       経済を道徳から考えようとした人は驚くほど少ない。

       この日本にはだれも経済の道徳を考えようとした人はいないみたいだ。


       まだ探しはじめたばかりなので、たぶん多くはもれていると思うが、

      経済を道徳から探った人には、やはりアダム・スミスやマンデヴィルといった、

      利己心を称揚した人たちがひっかかってくる。

       日本では経済倫理学というジャンルの竹内靖雄という人がいるみたいだ。


       経済学の多くは、富をいかに大きくするか、富をどのように分配するか、

      あるいは景気はどうすれば浮揚するかといった問題を考えているようだ。

       道徳から考えようとした人はほとんどいないみたいだ。

       だいたい、げんざいの経済学は国の政策という面から、

      考えることが多い――それがあたり前のことのようになっているようだ。

       わたしが問いたいのは、個人的な身のまわりの世界の、

      やりたい放題になっている経済の道徳性といったものではないかと思う。


       おそらく社会主義思想というのは経済学であるけれども、

     人間の道徳的感情から、おおいに人を魅きつけるものになっていったのだと思う。

      たびかさなる恐慌や貧困の悲惨さなどによって、

     道徳的側面から社会主義思想は力をもっていったのだと思うが、

     長い実験の結果、それは計画の失敗や官僚や権力の腐敗をもたらしてしまった。


      いまは自由主義の流れが、ハイエクやフリードマンの思想、

     もしくは計画経済の失敗から、ふたたびもり返そうとしている。

      わたしもビジネス書などをいくらか読み、そうだ、

     保護主義政策はひとびとに財貨をもたらすよりか、腐敗と無気力をもたらしただけだ、

     と思うようになってきたが、だけど無条件の金儲け主義にはやはり懐疑的だ。


      ビジネス書は経済のじっさいや歴史を学ぶために参考にさせてもらっているが、

     たいがいの著者はその前提になっている金儲けになんの疑問ももっていない。

      ときには金儲け主義の考えにどっぷりつかることもあるが、

     わたしはそのような前提を無条件に肯定する気はぜんぜんない。


      なぜかれらはこのことに疑問を抱かないのかと思うこともあるが、

     たぶんかれらは貧困に陥らないための処方箋で頭がいっぱいなのだろう。

      かれらにとって振興策は、道徳的価値をもつものなのだと思う。


      しかしそれらの経済政策、むじょうけんの経済至上主義の追求は、

     昨今、顕著になってきた官僚・経営者などのトップ・エリートたちの腐敗をもたらした。


      わたしは勉強不足でよくわからないのだが、

     かれらはいまになって、なぜこれまでもおこなわれてきたと思われる行為によって、

     逮捕されるようになってきたのだろうか。

      業界からの官僚の接待や賄賂、企業からの総会屋への賄賂といったものは、

     これまでも公然とではないが、暗黙の慣行として認められるものではなかったのか。

      新しく入ってきた自由主義の流れによって、

     かれらは急激な方向転換をはたせず、悪役に祭り上げられたのだろうか。


      まるで終戦後におこなわれたパージ(公職追放)みたいなものだ。

      これによって戦後の日本は公職や企業のトップ層の若返りが可能になり、

     生き返ることができたといわれているが、いま、同じことが行われているのだろうか。

      でもGHQがあるわけではないし、だれが指示を出しているのだろうか。

      腐敗や談合の体質があらたまるのはいいことだし、

     これまでの成功体験はもう通用しないというよい例にはなるが。


      トップ・エリートたちの腐敗・失政はどうも経済がうまく回らなくなると、

     たちまち露見してくるようだ。

      経済的な失敗はかれらの無能ぶりや醜態をさらけだすことになったが、

     かれらも人間なのだから、経済の大きな転換期にはすぐに対応できないだろう。

      ぜんぜんうまくいかない経済にあたふたしていると、

     たちまち悪役に祭り上げられるのは――仕方はないかもしれないが、

     そんなに人間に完璧なまでの万能策をもとめてもムリだと思うのだが。

      感情的に非難するのはかわいそうだ。

      もちろん仕事での失敗や犯罪行為ではきちっと責任をとるべきだ。


      官僚や役人たちの公費のムダ使いにもそれなりのワケがある。

      自分の部や課の必要性は、どれだけカネを使ったかということで測られる。

      かれらはカネを使わないことにはその存在理由を認められないわけだから、

     どうしてもムダ使いでもしてカネをしこたま浪費しなければならない。

      そういうことでカラ出張などのムダ使いはおこなわれるのだと思う。


      かれらは医者と同じように、みずからの仕事を終わらせるための仕事に従事している。

      医者は病気を治すことによって、みずからを失業においこむ運命に立たされている。

      でも人間から永久に病気を追放することはできないのであるが。

      お役人の仕事もそういう性質をもつものであるが、

     それを悟らせないためには、カネをおおいに使い切ることが必要になる。

      お役所にとってのカネのムダ使いはみずからの存在価値のアピールなのである。

      カラ出張とか接待とか、感覚がマヒしてとうぜんの制度に縛られている。


      さっこんのトップ・エリートたちの腐敗や暴走は、

     集団や企業の独特の利益構造にその根があるようである。

      ほかの社会の成員たちにはそのような利益のつながりかたが見えない。


      どうもこの企業社会は、無数の集団がそれぞれの利益を追求していて、

     ほかの社会から没交渉になっているような面がある。

      ある集団内での利益構造――つまり損得勘定や慣習が絶対になっていて、

     そこに属する個人はそこから逃れられない。

      つまりある国で善であるものがほかの国ではまったくそうでないことを、

     かれらはまったく気づかないような状況におかれているわけだ。

      われわれだって自分の国で善と思われていることが、

     よその国では悪でもあることに、思いもおよばないだろう。

      われわれもひとつの会社集団のなかで、同じ環境におかれているはずだ。

      うしろに縄がまわってはじめて、この社会との感覚がズレていたことに気づく。


      われわれのたいがいの人は、この会社集団という世界だけが、

     ゆいいつの世界になってしまっている。

      ほかの社会や世界とのつながりは希薄になっているし、

     社会全体の利益や道徳、または国全体のことに考えがほぼ及ばないようになっている。

      このような状況では、企業集団の感覚がマヒしてもおかしくない。

      社会全体からのたえざるチェック機能といったものが、

     なんらかのかたちで必要だ。


      そういうチェック機能をもっていたのが、政治や官僚であったわけだが、

     業界との癒着や利益の同一化などによって、信頼するに足りないものになり、

     赤サビた船のようにいっしょに沈んでしまった。

      テレビや新聞がげんざいのひじょうに強力なチェック機関になっているわけだが、

     テレビはおもにスポンサー企業からの収益によってなりたっているため、

     どこまで信頼してもよいものか疑問だし、

     みずからもつにいたった権力のあつかいにも注意が払われていないように思われる。

      あとはインターネットからの個人の声が、利益や損得勘定にしばられない、

     チェック機能になればいいと思う。


      さて、もとの道徳の話にもどりたいと思うが、なにからはじめればよいのか、

     わからないが、身近なところから出発しよう。


      セールスマンから考えよう。

      わたしはこちらの都合も考えずにドアをノックするセールスマンが大きらいだが、

     それは自社の利益のために自分がカモにされているような気分になるからだ。

      営業活動というのは、金儲けのエゴイズムにしか思えないのだ。

      だからホントに営業マンというのを信頼していないし、きらいだ。

      その人間性まで疑ってしまう。


      だけど、そこまで営業活動をきらったら、自分の仕事すらできない。

      営業活動というのは、ほんとに私利私欲を追求する手段でしかないのだろうか。


      なぜわたしはここまで営業活動というのを嫌ってしまったのだろうか。

      まずはこちらがまったくほしくないものでも、求めているものでもない商品やサービスを

     むりやり押しつけてくるからだろう。

      こちらがひとつも望んでいないものだから、ただ向こうの都合ばかりが見えてしまう。

      向こうの都合と私利私欲だけを押しつけられている気分になる。

      一方的な都合のうえだけにセールスはなりたつから、気に食わないのだ。

      だからセールスが嫌いなのだろう。

      ドアをとつぜんノックされても、わたしは出ないし、ドアを蹴りたくなる。


      それにたいして、店はあくまでも商品をならべて、客の好きなように選ばせる。

      選択は自由だし、冷やかしも自由だし、店員の押しつけがましい態度もない。

      そういった意味で、コンビニやスーパーは繁盛するのだろう。


      百貨店やときに小さな店などは、すぐに店員が張りついてくるから、

     わたしはあまり好ましく思っていないし、ときにはゆっくり選ばせろと腹がたつ。

      多くの商品を確かめた上で選択したいのだが、それさえ許さない。

      向こうの売り上げを伸ばそうとするエゴイズムしか見えないわけだ。

      客の自主性を尊重しない店は、守銭奴のガードマンを店に立たせているようなものだ。


      相手からむりやり押しつけられるセールスに、わたしはたいそう不快感をもっている。

      それは金儲けのエゴイズムや利己主義を感じるからだろう。

      もちろんかれらだって会社から蹴飛ばされてきたのだろうし、

     生活もかかっているわけだから、その人格を疑うのはかわいそうだが、

     ほんとうにセールスなんて嫌いだ。


      むりやり商品を売りつけるなんて、道徳的に許されるものではない。

      だが、この企業社会では、そういった営業活動で多くがなりたっている。

      会社というのはすべてが営業活動のようなものであり、

     つまりドアをノックするセールスマンのようなものである。

      このように斜に構えているわたしはなかなか仕事に熱中することはできないし、

     でもそれでは自分のおまんまも食えなくなってしまう。

      企業活動は私利私欲なエゴイズムの追求ではないのだろうか。


      だけど、ふしぎなことに、この社会では自己の利己心を追求しておれば、

     社会の富の拡大や富の繁栄に結びつくようである。

      人間は自己の利己心を自由に追求しているときにだけ、

     かなりの力を発揮するようである。


      自由な利己心の追求は、社会の富と繁栄をもたらす。

      これは多くの歴史が証明している。

      アメリカの繁栄もやはり自由な経済活動のおかげだし、

     日本でも規制の少ない業界は世界的な競争力をつけ、

     ぎゃくに保護され、規制された産業は、

     競争力も発展力もない赤字産業に落ち込んでしまっている。


      自由が抑圧された社会主義国はソ連であれ、北朝鮮であれ、

     経済危機と貧困を招来しているし、競争力を欠いている。

      またたとえば、アメリカのコミック界は多くの暴力・性描写の規制をうけ、

     そのために比較的自由であった日本のマンガ界に大きく水をあけられた。

      手塚治虫はアメリカのディズニーのマンガを見習ったが、

     のちの日本のマンガ家たちは世界のいたるところにそのマンガを輸出するようになった。


      社会の道徳が力をもつようになれば――それは表面的にはたいそうすばらしそうだが、

     経済や文化の発展を阻害してしまう。

      道徳や宗教が力強く社会を覆っているような国は、

     ――たとえばイスラムやインドのような国では経済発展は見こまれない。


      社会の道徳が力をもつことはすばらしいことのように思える。

      自由経済の貧富の格差の拡大や貧困の悲惨さに、

     社会の多くの人は心を痛めて、かれらを救済する策にのりだす。

      しかしあまりかんばしい成果を得られないようだ。


      競争や優劣の差をつけるのはよくないといって、

     保護政策や関税、規制などでその業界なり産業なりを(人間もそうみたいだが)、

     守ろうとすれば、結果的にそれらの産業は衰退し、自立できなくなる。


      道徳的な思いやりは、表面的にはとてもすばらしいことのように思えるが、

     長い目でみれば、いずれもよい結果をのこさない。

      ふしぎなものである。


      人を助けたり、思いやったりする高貴ですぐれた行為や思いが、

     社会や人によい結果をもたらさないのだ。


      ただこれは経済発展や文化的繁栄に価値をおくばあいだ。

      もしそれらがどうでもよい、価値のないことと思うのなら、

     そのような結果はべつに重要でなくなるだろう。


      われわれの時代は経済にひじょうに価値をおいている。

      経済的に富むことや繁栄すること、また社会の成員が失業せずにメシを食えること、

     あるいは文化的・社会的に繁栄することにものすごく価値がおかれている。

      このようなモノサシが善や正義そのものになっているのなら、

     われわれはこの目的になんの懐疑も疑問も抱かないだろう。


      ただそれだけが人間や社会のすべての目的かどうかは疑問である。

      人類にとって経済の発達がどんな意味をもつのか、

     文化の繁栄が人間にとってなんの必要があるのか、

     といった疑問も考えてみなければならない。

      これらはわれわれにとってとても魅力的なものであるが、

     大きな目で見てみて、ほんとうに必要なのかといった問いも必要だと思う。


      経済的繁栄だけに価値をおくようになると、

     人間の私利私欲な利己心だけを称揚してしまうことになるからだ。

      こんにちの物質的繁栄の裏には、利己心の正当化という歴史が必要であった。


      なぜ産業革命がイギリスやヨーロッパからはじまったのかは、

     いろいろ理由が考えられるが、科学や技術の発展の前には、

     社会の価値観や意識の転換が必要だった。

      それを用意したのは、利己心が社会全体の利益になるという考え方なのである。


      金儲けなどの利己心が道徳的・宗教的に軽蔑されている社会では、

     経済的発展はみこめない。

      だが、ヨーロッパにおいては、利己心を正当化する思想があらわれた。

      マンデヴィルやアダム・スミスの『国富論』などである。

      個人の利己心の追求が結果的には社会に富をもたらすというこれらの思想が、

     社会に受け入れられたとき、社会は意識の大きな転換を迎えることになる。

      ドラッカーがいうには、これは1720年から1770年のあいだのどこかで、

     おこったということだ。

      こうしてヨーロッパはこんにちの物質的繁栄の時代を築くことになったのである。


      たしかにそうなのである。

      利己心の追求が、社会に富をもたらす。


      だが、無条件に利己心や金儲けだけを肯定する社会は、

     ほんとに居心地のいい社会なんだろうか。

      すばらしい、豊かな社会なのだろうか。


      街に出れば、だれもが自分の金儲けという利己心に腐心していて、

     店に入れば、売り上げを伸ばすことだけを考えている人間に出会うし、

     だれもが自分の好き勝手に行動し、追求していて、

     街の人たちはみな無関心で、共同体のつながりは失われてしまった。

      家族はとっくにばらばらになり、絆すら存在しない。


      政治家や官僚たちは自分の利益だけを追求し、犯罪を犯し、

     企業集団も同じように自社利益のために犯罪行為を犯し、

     若者たちは自己の欲望を満たすために人を殺す。

      社会からモラルは失われ、崩壊してしまった。


      経済的繁栄だけがすべての目標にして考えるのは、

     ほんとうにこの社会にとって、よいことなのだろうか。

      それだけを目標にすえれば、利己心の正当化は目的に適っているが、

     社会はそれだけを目的にしてよいものだろうか。


      ただ、だからといってわたしはかんたんに道徳の復活をもちだすような、

     軽はずみなことを言いたいとは思わない。

      道徳的なすばらしさのなかには、どうもわたしには信頼できないなにかがあるし、

     また、自分の好きなように自由に生きる生き方もとてもすばらしいことだと思うので、

     おせっかいな道徳家たちにつべこべ言われるのはタマらない。


      道徳も、もしかして利己心の追求にしか過ぎないのかもしれない。

      利他行動も自己犠牲も、社会から名誉を受けるための利己心から、

     出ているものなのかもしれない。

      称賛されることがわかっていることをなすことは、利己心ではないのか。

      名誉や称賛を得ようとする利己心が、それをなさせるのではないか。


      道徳的な人がわたしのなかで信用できないのは、

     かれらが批判している利己心は、それこそかれらの行動の動機に

     ほかならないのではないか、と勘ぐるからだと思う。

      善行や自己犠牲も、利己心がその動機ではないのか。


      けっきょく、人間は利己心の追求につき動かされているのだ、

     という懐疑が、わたしのなかにあるわけだ。

      だから利己心を批判するような、すばらしい人間にうさんくささを感じるわけだ。

      どんなきれいごとをいっても、どんなすばらしいことをおこなっても、

     やはりそれは利己心から出たものだ。

      極端に反対なことをなそうとするから、よけいに目立ってしまうのだ。

      わたしはあまりにも無私の善といったものを信頼しすぎていたのかもしれない。


      道徳的な、すばらしい人間というのも信頼できない、

     しかし金儲けの利己心だけで動いている人間も、社会も、信頼できない。

      いったいどのような社会が、わたしはよいというのだろうか。


      金儲けのエゴイズムがどこまでも許され、

     またそれに歯止めをかける社会の道徳や機関がほとんどないに等しい。

      強引な訪問販売や、友人をカモにするようなねずみ講、

     損を承知で客に商品を買わせたり、また返せない客に借金をさせたり、

     下請けにむりな受注や値段の引き下げ要求をするなど、

     この社会、企業のなかには道徳をないがしろにした行為がまかりとおっている。


      個人として、人間として、こんなヒドイことができるだろうか。

      われわれはほんとうのところ、個人としてはこんなことをやりたくない、

     と思っているのではないだろうか。

      しかし会社に入れば、そういった非情で非人間的な行為をおこなわざる状況に、

     追い込まれる。

      売り上げを伸ばさなければクビになってたちまち生活ができなくなるし、

     上司から怒られたり、侮辱される言動には耐えられないだろう。

      そうして社会人になった者たちは、個人的な道徳観をかなぐり捨てながら、

     企業や市場の非情な論理を身につけてゆく。

      そしてかれは部下をもつようになれば、

     同じようにかれらを非情な論理でけしかけるようになる。


      道徳なんか守ってられない。

      人を傷つけたくないとか、苦しめたくないとか、いやな目に合わせたくないとか、

     道具のようにあつかいたくないだとか、そんな他人の思いやりなんか、

     まず保ちつづけることはムリだ。

      企業や市場の論理でそうせざるを得なくなるのだ。

      企業や市場で生き残るのにはそうするしかないのだ。


      人間的な道徳観は、この市場の原理にまるで太刀打ちができない。


      犯罪行為におよべば、警察なり裁判所などが介入できる。

      強引な勧誘などになれば、消費者センターなどが(微力であるが)、守ってくれる。


      だが、われわれから道徳観を守ってくれるものはなにもない。

      思いやりややさしさを守ってくれる道徳律、社会的強制力といったものは、

     この企業社会のどこを探してもない。

      われわれはまるで無力で、立ち尽すしかない赤ん坊のようなものだ。


      会社のだれかが解雇されたり、ミスをおかして叱責されても、

     わたしはだれも助けることはできない。

      ただかれらと同じ立場でしかない自分を憐れんだり、おびえたりするか、

     あるいは管理者と同じようにかれが無能であるから仕方がないと思うか、

     もしくは同じように叱責し、非難するような言動に出るかだ。


      企業社会では、われわれが育ててきた道徳観はなぎ倒されるしかない。


      この社会では道徳観を守ってくれる社会的合意や暗黙の慣習、

     といったものは存在しないし、歯止めをかけるものはなにもない。

      ただ企業がその横暴な力をふるいつづけているだけだ。


      どこかにこの企業の論理に歯止めをかけるものがなにかないのか、

     市場の論理を超える社会の合意や慣習といったものが存在しないのだろうか。

      世論や社会的意識といったものが大きな奔流となれば、

     その非情な論理にも歯止めをかけられるようになるだろうが、

     そんなものはこの日本のどこを探してもない。

      テレビなどのマスコミはこのような力をもちそうだが、

     スポンサー企業が後ろ盾しているためにどこまで信頼できるかわからない。


      この市場原理の非情さがただひとつ、ゆるめられる方法としては、

     われわれ一般の人たちの、経済的繁栄の価値観を崩すことだ。

      GNP信仰や、経済大国の夢、先進国のトップ争い、

     経済的・物資的な繁栄を最上の価値におくこと――そういった意識に疑問を

     抱くようになると、おのずとわれわれの道徳観が市場原理を上回るのでないだろうか。


      経済的繁栄に最高の価値観をおく社会意識に慣らされていると、

     われわれは金儲けの利己心や市場原理に、

     なんの歯止めをかけるすべをもたないだろう。

      われわれ自身がのぞんだ目的のために、

     非情な市場原理は、それに到達する「手段」として必要となるのだ。


      さてわれわれは、経済的繁栄の渇望という夢を捨てられるだろうか。


      この経済的繁栄の夢を捨てるということは、

     この機能的で便利な物質消費社会を失うということであり、

     ときには経済的貧困、あるいは飢餓状態すら招来してしまう可能性もある。

      道徳が力をもつようになれば、われわれの自由な生き方・生活も阻害されてしまう

     可能性もあるし、文化や芸術の自由な発展も阻害されてしまうかもしれない。


      世界はもうすでに自由主義の競争のなかにふたたび入った。

      一方ではそれは経済的・文化的発展と繁栄をもたらすだろうが、

     一方では失業や貧困の増大をもたらすだろう。

      日本もその道を選ばざるを得ない。

      どっちみち護送船団の官僚統制経済のなかにとどまっていれば、

     競争力低下と貧困を招来してしまうからだ。


      このような未来というのは、これまで以上のますますの市場原理の徹底が

     待っているということだ。

      われわれはこの非情な原理のなかで生きてゆかざるを得ない。

      そしてその非情さが耐えがたくなると、さまざまな道徳的原理が復活してくるだろう。


      道徳的原理は、人間の経済的繁栄をおしとどめてしまう。

      それでもわれわれは温情的な道徳原理に守られて、

     社会的・心理的には豊かな人生を生きられるかもしれない。


      あるいは戦後のこれまでというのは、

     道徳原理が幅をきかせていたのかもしれない。

      終身雇用や年功序列、社会保障、年金制度、護送船団といったものは、

     道徳的要請から得られてきたものではないだろうか。

      これらの政策が影響をうけたと考えられるマルクス主義は、

     まさに自由主義に拮抗する道徳的原理ではなかったのではないか。


      しかしふしぎなことにこの道徳原理は、

     その意図とはべつにちがう原理を働かせてしまった。

      それは「権力」や「権威」を争奪するような原理ではなかったのではないか。

      市場原理に向かって競争するというよりか、

     権力や権威に向かっての壮絶な競争原理が働いたのではないだろうか。

      それは一流企業や一流大学、国家公務員といった権威への、

     壮絶な競争をもたらした。

      国が経済を統制しておれば、権力にむらがるのは当然かもしれない。


      競争の原理が変わるのではないだろうか。

      ほんとうの意味での市場競争がはじまるのではないだろうか。


      市場というのは、これまでの権威のように一定のものではない。

      なにが売れ、なにが力をもち、どんな方向に向かうのかもまるで未知数だ。


      この社会はどのようになってゆくのだろうか。




                   (終わり)





       経済と道徳の問題はこれからも考えたいと思っています。

       この問題に関して、心ゆくまで追求できたとはぜんぜん思っていません。

       そもそもなにを考えたいのかすら、自分でもわからないといった状態です。

       参考にする文献が少ないといったこともなかなか進まない原因です。


         参考文献

        『アダム・スミスの失敗』 ケネス・ラックス 草思社

        『経済思想の巨人たち』 竹内靖雄 新潮選書

        『歴史の鉄則』 渡辺昇一 PHP文庫

         くわしいことは、「98春に読んだ本」で。


        参考文献やご意見など、アドバイスをしてくれれば、うれしいです。

                   




   集団依存型のアノミー日本人はなぜ生まれたのか


                                               1998/1/28.





      「Artemis Sampler」(http://www.sh.rim.or.jp/~artemis/)というホームページの

     「酒鬼薔薇聖斗を生んだ戦後日本という社会」にひじょうに感銘をうけた。


      戦後日本社会のひずみが仮借なく描き出されている。

      わたしはこういう日本社会への鋭い批判をおこなうサイトを探していたので、

     このページを見つけたときはとてもうれしかった。


      感銘をうけた部分としては、日本人は思春期の思索的懐疑の時期をへずに、

     企業の就職養成下請け機関である学校教育をうけ、そのまま企業や官公庁に就職し、

     精神年齢が大人にならないまま、組織に寄生して一生を過ごし、

     みずからのアイデンティティを育むこともない、

     という箇所がいちばん心につき刺さってきた。


      「酒鬼薔薇聖斗を生んだ戦後日本社会」はこちらから読むことができる。

      「Artemis Sampler」のホームページに行くには、こちらをクリックしてください。



      これに触発されて、ひとつ考えてみたくなった。

      なぜ日本人は組織に依存して、個人を育むことができなかったのか、

     批判能力や政治的な力、基本的人権をなぜ日本人はもつことにいたらなかったのか、

     げんざいのモラル崩壊、アノミー状態をもたらしたのはなにか、といったことだ。


      日本社会はげんざい、規範もモラルも、目的も意味も失われた、

     アノミー状態におかれている。

      どこに行くあてもなく、ただ漂いつづけている。


      官僚のトップたちや大企業のトップたちもつぎつぎと逮捕され、

     戦後日本がめざしたトップエリートたちは権力腐敗と退廃の深淵におちこんだ。

      まるでひとむかし前の政治家汚職と同じようなもので、

     それからわれわれは政治家たちへの信頼をすっかり失い、もはや相手にしていない。


      いまの子どもたちは、あるいはその母親たちは、

     めざしていた目標がここまで腐敗し、退廃したさまを見せつけられても、

     よい大学、大企業、官公庁を目指した受験戦争をつづけるのだろうか。

      まあ世の中、倫理より「カネ」だとわかり切っているからだろうか。


      企業においても、中高年たちがリストラをされ、

     これまでの目標や成功体験といったものは混乱している。

      年功賃金アップを前提に入れたマイホームローンも返せなくなり、

     自己破産や家庭崩壊、自殺が数多くおこり、もはやマイホームの夢も、

     そしてそのための勤勉な勤労の意味も失われてゆくだろう。


      若者たちは目標も規範も失われ、先人たちの退廃した姿を見せつけられ、

     どこにも行くあてのない衝動は、メディアや消費にふりむけられ、

     虚無感と孤独感が増大し、ときには犯罪を犯す。


      トップエリートたちの連続逮捕劇は、自由主義経済をはじめるための、

     これまでの官僚統制経済と成功体験を断ち切るパージ(公職追放)とも考えられるが、

     いったいだれが指示を出しているのかは、わたしにはわからない。

      ともかくこれによって官僚統制経済は断ち切られるのだろうか。

      産業の保護政策は、旧弊な産業を守ることにより、そのために競争力を失い、

     消費者へのサービスを低下させ、それはまた税金の増加へとはね返った。

      このような保護政策は、将来の傷を大きくするのみなのである。



      これまで見てきたような腐敗、退廃、モラルなき集団、規律なき社会といった

     アノミー状況はなぜおこったのだろうか。


      まず第一に答えられるのが、経済成長だけを国民すべての全目的に

     してしまったからだ。

      国民の生活、人生、家庭、地域社会、娯楽、生きがいまですべての全精力を、

     経済成長ただひとつという目的だけに結集してしまったからだ。

      それを日本国民は恐ろしいほど異様なまでに、

     自己の全目的や人生の全目標にすりかえてしまったのである。


      これは戦時経済において、国家総動員法により、物資や鉄製品などすべてが、

     軍需産業に結集されたものと同じことだ。

      この戦時体制のための国家総動員法は、戦後の現在にもそのままつづき、

     高度成長期には経済面での成功をもたらしたが、

     一般のわれわれがほんとうに幸福だったかはおおいに疑問だ。


      人生のすべては企業に捧げ尽くされ、朝から晩まで仕事、

     人権も思想の自由も認められない、すべてを統制されたような企業生活、

     子どものころからの就職するための受験戦争――

     こんな非人間的な制度に人生を身ぐるみ縛られて幸福なわけがない。


      つまりわれわれは国家の目標を自分の全人生にしてしまい、

     個人として、人間として、生きる道をすっかり放棄してきたのである。



      たいていのサラリーマンは企業を人生のすべてにしてしまい、

     人生の目的や目標にしてしまった。

      ここに日本人が個人をもたない、企業組織や国家、あるいはスポーツチームなどに、

     自我を埋没させてもなんの疑問を抱かない、恐ろしい心性を育むことになった根がある。

      日本人のたいていの人間は、国家や学校、あるいはマスコミなどに、

     教育や指示されたものを、なんの疑問も抱かずにそのまま受け入れてしまう。

      ここに日本人の精神年齢は12才で、大人にならないと指摘される病根がある。

      つまり個を育てず、ただ親のいいなりに、あるいは企業や社会のいわれるがまま、

     なされるがままの従順な集団依存型の人間になってしまうのである。


      日本人は恐ろしいまでに社会や集団にたいして従順である。

      集団にたいして批判することはおろか、内心にさえそれを抱かず、

     教育・命令されたものを即、自分のものにしてしまう習性がある。

      それは子どもたちが思春期に反抗期をもたないような、

     あるいは動物たちが親離れするとき、おたがいが決闘しあうような、

     そのような激しい段階をへずに、そのまま大人になってしまうことを意味する。

      つまり大人として一度は通り越さなければならない親=社会との、

     あつれきや反抗を一度も経験しないで、大人になってしまうのである。


      反抗期というのは、「個人」が誕生するための前提である。

      それがなければ、親や社会に従順な、個をもたない幼児精神のまま、

     大人集団への仲間入りを果たすことになるだろう。

      つまり親や社会と、自己の欲求や目標は違うのだという懐疑や疑問を内心に抱き、

     葛藤しなければ、個としての自覚=自我が生まれない。

      他人と自己の欲求や利益は、根本的に違うのだという明確な認識が

     生まれなかったら、親や集団の要請と自己の欲求がかんたんに重なってしまう。

      この時期を逸してしまったら、集団にただ流され、なびくだけの、

     個というものがない集団のロボット人間になってしまう。

      日本人はこのように自我をたもず、集団そのものの意志が自我となるような心性が、

     多くの人のこころのなかに育てられてしまっている。


      このような個をもたない社会集団が二度の世界戦争において、

     どのような惨禍をもたらしてきたか知らないものはいないだろう。

      つまり日本人は戦時中の集団心理とまるで同じものを、

     現在までそっくり抱えているということなのである。


      われわれは戦争の表面的な惨禍は反省するが、

     それをもたらした社会心理の特性といったものにまるで気を配っていない。

      まさにこの経済至上主義、会社絶対主義をうみだしているこの心性こそが、

     戦争のときの集団心理とまったく同一のものだ。

      つまり、「全体主義」、あるいは「ファシズム」の心性が、

     そのまま温存しているのだ。

      それがただ経済の「仮面」をかむり、企業絶対主義に転嫁しているだけだ。


      だから、われわれはこの企業絶対主義にぜったいに抗しなければならない。

      それはひとつの試金石である。

      戦時中のような全体主義におちいらないためのバロメーターなのである。

      エネルギーや衝動の中身は同じで、ただ表面的な仮面がすこしばかり、

     上品になんの危険性もないように見えるようになっただけなのである。

      集団埋没主義というのはとても恐ろしいものなのだ。



      個がうまれるためにはなにが必要なのだろうか。

      やはり集団や常識といったものに、懐疑や疑問を抱く心性が必要になるだろう。

      集団と自己の利益や欲求はあくまでも違うのだ、重なることがないのだ、

     という認識をもち得ないかぎり、日本人のなかに個人が生まれることはないだろう。

      そして批判や権利を口に出し、行動して、はじめて日本人は、

     精神的な大人になり、個人をもつことができるようになるだろう。


      そうなるためにはおそらく、政府や企業が与えるアメ――カネや老後の保障、

     といったものがただ国家や企業を肥え太らせているだけで、

     個人の幸福やゆたかさにはなんの貢献もしない――、

     ということを悟らなければならないのではないだろうか。

      われわれはこれらの安定や安心のために、みずからの魂や心、あるいは人権を、

     非人間的な組織に売り払ってきたのである。

      このような無責任な選択が、後続世代の幸福をどれほど奪ってきたか、

     子どもたちにどれほどの惨劇を与えてきたか、胸に手を当てて反省すべきだ。


      個人がない集団に基本的人権なんかあるわけがない。

      そもそも個人が存在しなかったら、なにも守る権利がないではないか。

      企業集団のなかでまったく個人の人権や権利といったものがないがしろに

     されてきたわけは、やはり個人というものがまるで存在しなかったからだろう。


      この社会において個人がまったく尊重されなかったのは、

     ほかにもわけがあると思われる。

      やはり、「カネ」だけが唯一の権力になってしまったからだろう。

      政治は企業などの富をもつものの「カネ」によって買われ、

     カネのない個人は人権を売り飛ばされようが、蹂躙されようが関係ない。

      カネがあることだけが自分の身を守る唯一の方法であり、権力だからだ。

      だれもが血眼になって、受験戦争や大企業をめざすのは故なきことではない。


      ともかく日本人には批判能力や政治的実行力というものがまるでない。

      サラリーマンになれば、その組織にたいして批判的になることはまずない。


      なぜこんなふうになってしまったのだろうか。


      長時間残業をサービスでしたり、過労死するまで働いたり、身も心も企業に捧げたり、

     うしろに縄が回るまで企業の利益に邁進したり、ときには不祥事のために自殺したり、

     なぜここまで日本人は企業に身も心も魂までをも売り払ってしまったのだろうか。

      そしてなぜわれわれはそこまで企業に蹂躪されて、

     なにひとつものを言わず、黙って盲従しつづけるのだろうか。


      そもそも自分に人権なぞそんな高貴なものは備わっていないと思っているのだろうか。

      企業にメシを食わせてもらっているいじょう、

     人間にはなんの人権も権利もない、というのだろうか。

      自分の実感として、このような気持ちが強いかもしれない。

      終身雇用という暗黙の慣行があれば、一生面倒をみてくれるわけだから、

     そういう後ろ向きの思考習慣におちいってしまうのかもしれない。


      国から学校教育という施しをうけ、卒業すればなんの迷いもなく企業に就職し、

     あとは企業が生涯を保障してくれる。

      すべてをおぜん立てされ、与えられた役割と自我になんの懐疑も抱かずに、

     たいていの日本人はこれを受け入れる。

      これでは日本人のなかに個人はうまれないし、深い懐疑を抱くこともない。

      ちゃんと従順に言うことを聞いておれば、一生は安泰だからだ。


      すべては社会が与えてくれる。

      われわれは赤ん坊のようにただ与えられるものをこなしてゆけばよいだけだ。


      中央官僚がその大元のコントロール指令塔となり、

     企業を統制し、学校を統制し、税金制度によって女性を家庭生活に縛りつける。

      すべては中央官僚、あるいは政府が、企業や社会のありかた、

     はては個人の生き方や人生まで拘束してしまっている。


      学校制度はたしかに貧富の差もなく知識を与えるが、

     子ども期の自由な生き方、公教育をうけない自由を与えない。

      健康保険、年金制度は、一生を企業勤めに拘束されることを余儀なくさせ、

     もしかしてもっと自由な生を送れたかもしれない人生を拘束する。


      だけど、たいがいの人はこのような自由に思いもおよびもせずに、

     政府から与えられた役割をなんの疑問も抱かずにまっとうしようとする。

      ちゃんと学校教育をうけておれば、有利な企業に就職できるし、

     会社で職務をちゃんとこなしておれば、生活も老後も安心だ。

      こうしてサラリーマンは青年期に批判も懐疑も抱かないまま、

     人権や権利、あるいはよき人生、よい社会はどのようなものかという懐疑も抱かずに、

     政府や企業に与えられた役割をちゃんと受け入れてゆく。

      いまではメディアと消費がとても魅力的なので、

     それ以上に疑問や懐疑を抱くことはない。


      こうして日本人は与えられたものだけに満足する者だけに満たされた。

      政府やマスメディアだけがものごとを決定し、指示し、命令し、

     あとの人間たちはみなそれに従うだけの人間になってしまった。

      われわれの日常のまわりには、だれも決定し、自分の意見を通す者はいない。

      父親たちはなにもいわない。

      ただ権威やマスメディアがなんらかのことを言うと思っている――

     あるいはそれらと同じことをおうむのようにくり返すだけだ。


      これは異常な事態だ。

      だれも自分の意見をもっていないし、言おうとも、通そうともしない。

      マスメディアだけが意見をいい、正義を決め、権威を通そうとしている。

      日常のいっぱんの人たちはなにも言わない。

      ただ、マスメディアだけが電波塔から命令と指示を流しつづけている。


      日常のなかで生活している人たちから、

     権威や力といったものはまったく失われてしまっている。

      父親や母親には権威も意見もまるでないし、学校の教師の権威も、

     驚くほど凋落しているし、地域にも権威をもった人は存在しない。


      われわれの日常生活、あるいは地域社会、郊外住宅地から、

     まったく権威や力といったものが失われてしまっている。

      地域社会は、まさにアノミー状態におかれている。

      そしてその真空地帯になんらかの力を伝えているのはマスメディアだけであり、

     しかしここにも権威や権力というものよりか、

     よりいっそうのアノミー状態が増幅された情報が流されているだけだ。


      この社会はまったくアノミー状態におかれている。

      まったく驚くべきことだ。


      しかもこの戦後の日本社会は、経済成長ただひとつだけを目的にして、

     あとはいっさいを無視した制度だから、その目的がある程度成功し、

     そしてそのつぎの段階にいたろうとした瞬間、

     まさにアノミー状況の深淵に落ちこまざるをえない。


      経済成長だけをただひとつの目標に削ぎ落とされた社会は、

     そのほかのモラルや規範がまったく欠落・排斥されてしまっている。



      戦後の日本人はただカネだけに釣られてきたわけだが、

     その経済偏重社会のために、まさにアノミー社会になってしまった。

      無規律、無規範、無権威、無モラル、無伝統の、

     なんにもない空っぽの社会を――経済成長という大義名分のために、

     育て上げてしまっていたのだ。

      この社会には、規範も権威もすっかり失われてしまっていたのだ。


      むかし五無主義(無気力、無感動、無関心、無責任など)という言葉が

     青年を揶揄する言葉としてささやかれたことがあったが、

     これはじつは社会の「規範力」の喪失にそのまま対応していたのではないだろうか。


      この社会は恐ろしくなるほどアノミー状態になっており、

     かろうじてその紐帯をつなぎとめているのは、

     経済・企業活動だけではないのだろうか。


      そしてしかもその紐帯をつなぎとめていたと思われる日本型経営――

     終身雇用、年功序列、家族的共同体といった制度は、

     いままさにぼろぼろと崩壊しはじめている。

      これを維持することなんてもはや不可能だ。

      これらの温情主義的経営が保たれていたのは、

     あくまでも冷戦構造下における大量生産方式が有効なときだけだ。


      冷戦構造は終焉し、世界から軍隊(=カネ)はひきあげられて、

     ライバルの失った軍事技術競争は一段落し、世界市場のパイは縮小し、

     それにつられて全般的な技術・消費競争も急速に冷えてゆくことになるだろう。

      大量生産市場も成熟化しており、新しいテクノロジーも70年代以降、

     生まれないようになっている。


      社会規範がまるで欠落したこのアノミー社会に、

     最後の紐帯であった企業共同体がいままさに崩壊しかかろうとしている。


      この日本社会になにが残るというのだろうか。


      われわれ日本人は、官僚や政府(つまりお上)の指示・命令するものを

     ありがたくいただき、うけたまわるだけで、

     それに疑問を抱いたり、批判を口にすることはほとんどなかった。

      ただ与えられるだけで、自分でなにかをつかもうとか、なにかをはじめようとか、

     人生の生き方や目標というものをみずからで編み出そうとはほとんど思わなかった。

      社会や企業、マスコミに与えられたものをなんの疑問も抱かずに、

     ただその与えられるがままに生きてきた。

      現在の大半のサラリーマンはそのように生きているのではないだろうか。


      そして個人は育たず、責任ある大人も親もうまれず、

     批判能力や政治的な力、人権といったものもほとんど育まれず、

     組織や集団の中で、個人の自由や人権、権利といったものは踏みにじられてきた。


      自分で個人というものをつくらず、ただ組織集団に寄生的によりかかり、

     それによって生き長らえようとしたから、個人を守る権利を擁護できなかった。


      ただ日本社会はあまりにも経済に特化しすぎたために、

     経済いがいの権威や権力をもつことができなかった――

     たとえば市民社会や宗教、道徳――ということも、

     われわれを組織にしがみつかざるを得なくしている大きな要因である。

      守られるものがなにもなかったら、人権が蹂躙されても仕方がないだろう。

      政治にしても、われわれ個人を守るというよりか、

     カネのある企業や団体を守る、個人と敵対するような関係になってしまった。

      なんらかの方法で個人が守られないと、

     この社会はおそらくすさまじいまでの状況を迎えるのではないかと思う。

      いつまでも非人間的な生活に耐えられるわけがないのだ。


      カネに釣られ、与えられるものだけをうのみにしてきた日本人は、

     すっかり経済軍国化したこの社会に、

     いっさいの社会規範、権威、モラルといったものがすべて失われていたことに、

     ようやく気づきつつある。


      この社会はまったくアノミー化していた。

      そのことに愕然としたのは、やはり酒鬼薔薇聖斗の首狩り事件だった。

      郊外住宅地や学校ではアノミーが完全に浸透しており、

     政治や官僚、金融や大企業ではモラルが退廃してしまい、

     サラリーマンのアノミーはじょじょに進行していることだろう。


      権威や規範、モラルがすべて失われてしまっていたのだ。


      これらが失われてしまったのは、経済一極化がそれを促進したというのもあるが、

     産業や経済がもたらす必然的帰結なのだろう。

      なぜなら産業というのは、規範や権威を打ち壊すことによって、

     発達してゆくものだからだ。


      新しい産業はそれまでのヒエラルキーや権威、秩序といったものを、

     いともかんたんにうち壊していってしまう。

      権威とか秩序といったものは、たわいないもので象徴づけられるものだが、

     それはだいたい稀少品をもつことによって表示されてきていた。

      たとえば中世ヨーロッパにおいては大量印刷ができないために

     僧侶に権力が付与されていたし、イギリス近代では中国やインドから輸入される、

     高級な絹や綿が上層階級のシンボルだった。

      日本ではこれまでずっと西洋のモノや知識をもてば、尊敬されてきた。


      そのような権威や秩序をうち壊してゆくのが産業であった。

      そしてそれらの制約がいっさいなくなってしまったのが現代であり、

     モラルや規範といったものを後ろ盾する知識も、その権威を失ってしまった。


      権威や規範のまったくないアノミー社会がもたらされてしまったのである。


      「わたしゃ知〜らないっと」。



                 (終わり)




    うれしい出版社、ザンネンな出版社


                                            1998/2/2.




     いつもお世話になっている出版社についていろいろのべたいと思う。


     まあわたしの読書傾向としては小説はほとんど読まず、

    経済や社会、心理といった人文社会科学系にかたよった興味をもっているので、

    そのあたりの出版物について語ることになる。


     ビジネス書でゆいいつ文庫を出しているのはPHP研究所くらいで、

    経済を知ろうとしているわたしにとってひじょうに重宝している。

     文庫本の安さは気軽にその本を手にとらせる。

     ただビジネス書というのは回転率がものすごく早く、

    すぐ書店から消えてしまうので残念だ。

     たしかにいまの経済情勢からいってバブル全盛期のビジネス書なんて読めないが、

    かつてのベストセラー書はなぜ売れたのか、いちど読んでみたいと思うので、

    もう手に入らないのは残念だ。

     いまでも読めるのは、長い目でみた経済の歴史を語ったような本だろう。


     講談社文庫ではたまにビジネス関係の文庫が出ているが、

    消え去るのは早いようだ。

     ガルブレイスの『不確実性の時代』とかフリードマンの『選択の自由』、

    といった名著はもう出ていない。

     これらの本をわたしは古本屋で手に入れたが、

    フリードマンの本にいたっては、がっしりした単行本がたった100円だった。


     まあビジネス書というのは出版されたそのときしか有効性はないかもしれないが、

    かつてのベストセラーというのはいまでもじゅうぶん読みごたえがあると思うし、

    またむかしの人がどのようなことを言っていたのか、

    だいたい現在の状況しか知らない若者にとっては知っておくほうが賢明になれると思う。

     現在の心理的雰囲気しか知らなかったら、バブルの超楽観主義のムードに、

    だまされてしまうようなことになるからだ。

     こんにちの超悲観的な大恐慌本というのも、なにもいまだけではなく、

    古本屋を見ていたら、いつの時代でも出ていたのだということがわかる。


     ビジネス書ではほかに徳間書店とかTBSブリタニカなどが、

    なかなかいいのを出している。

     ただちょっと前にさかのぼった名著が手に入らないのが残念だ。

     とくに社会とか歴史について語った本はちょっとやそっとで古びないと思うので、

    そういう本が読めないのはほんとに心残りだ。


     ビジネス書というのは生鮮食品なみに生モノなのか疑問に思う。

     トム・ピーターズの『エクセレント・カンパニー』なんか組織の心理的な側面を

    語っていていまでも興味をひかれるし、チャールズ・ハンディとか江坂彰とか、

    いま読みはじめてもじゅうぶん楽しめる本もある。


     わたしがのぞむのは、ビジネス書の過去の名著も、

    人文科学の名著のようにもっと手に入りやすくしてくれることだ。

     ビジネス書の「名著シリーズ」なんかあったら、過去を学べてひじょうに重宝する。

     でもあんまり売れないか。

     名著シリーズに弱いわたしとしては、のどから手が出るくらいほしい。(文庫本なら)


     ちくま学芸文庫というのはひじょうに驚いている。

     ニーチェとかオルテガ、ハイデッガー、アレント、フーコー、シュタイナー、

    といった人たちの本が文庫で手に入るのはものすごくうれしいことだ。

     千円くらいの、文庫としては高い価格になっているが、

    単行本なら4千も5千も払わなければならないから、ものすごくお買い得だ。

     人文社会科学のバカ高い本をすべてとりこんでほしいくらいだ。

     ただこういう本がほんとに売れているのかはちょっと不安なところがある。

     そんなことに負けずにこれからもよい本をどんどん世に送り出してほしい。

     ちくま新書のほうもがんばってほしい。


     岩波文庫というのはひじょうにありがたい。

     世界の名著がたった500円ぽっちで手に入るのはとてもすばらしいことだ。

     かつての名著をこんなに安く読めるのはとてもいいことだ。

     学校の教科書で名前を知るだけではなく、

    じっさいに読んでその中身を知ることは、もっと大事で重要な糧になると思う。

     世界の名著というのはなんらかのかたちで、げんざいのわれわれの生き方や社会に

    影響を与えているもので、その源をたしかめることはひじょうに大事なことだ。

     ただ、なかにはものすごく古い活字で印刷している本があったりして、

    ぜんぜん読めもしないので、それが残念だ。

     日本の古い名著も、かつての文体を尊重するより、現代語訳にしてほしい。

     意味や内容がすらすらと入ってこない本なんて、あってもムダだ。


     世界の名著を出している中公バックスもぜひがんばってほしい。

     古典名著というのは、読みたくなったときにすぐ手に入ってほしい。

     ほんとにこの名著シリーズは、思想の源に帰るのが好きなわたしは重宝する。

     ひとつ難をいうなら、ニ段組はちょっと読みにくいかな。


     講談社学術文庫も幅ひろいジャンルを網羅していて、重宝している。

     表紙のデザインもなかなか洒落ているし、読みやすい本も多い。


     岩波新書や中公新書は安い値段で、いろいろなことを学べるので役に立つが、

    なにぶん教科書的なつくりは魅力や興味を失わせてしまう。

     中公新書は歴史にちょっと強いのが特徴かな。

     講談社現代新書というのは、現代思想にかんしてひじょうに勉強させてもらった。

     魅力をもたせたり、興味をもたせたりする趣向がなかなかうまい。

     新書のなかではいちぱん遊んでいて、こんごもっと伸びてゆくところだと思う。

     岩波も中公も見習ったほうがいいのではないかとも思うが、

    ただ講談社新書は新奇性を競うために過去を古びさせてしまうので、

    カタいカラーをのこしておくのも、賢明かもしれない。


     人文社会科学系の本はほんとに高い!

     それだけ高く設定しないとモトがとれないのかもしれないが、タマんない。


     お金がないためにあきらめた本は数多い。

     ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『ミル・プラトー』(各7千くらい)、

    ブルデュー『ディスタンクシォン』(上下各7千)、シュペングラー『西洋の没落』(各5千?)

    マクルーハン『メディア論』(5千?)は、いまでも悔しくて心にのこっている。

     わたしのばあい、興味のあるときに読みそびれると、

    もうその機会を得ることはあまりない。

     だからよけいに悔しい。


     新しい本が高いのは、残念なことである。

     たとえば心理学を読みたいと思った学生は、こづかいがあまりないから、

    とうぜん安い文庫本で読むことになる。

     そうしたらフロイトとかかなり古い時代の学説をそのまま真に受けることになる。

     現在までにどんなに発展し、どんな批判を寄せられてきたかわからない。

     新しい流れを知るには、高い本を読まなければならない。

     ラカンやフランクル、認知療法や交流分析などまずわからないだろう。

     お金がないために100年前の学説しか知り得ないのはひじょうに残念だ。


     若い者ならとりわけ新しい本や作家などを好むのに、

    安い文庫本なら、大昔の作家とかちょっと古くなった本ばかりだ。

     むかしの人の本ばかりだけが視野に入るのなら、興味を失うだろう。

     新しい本こそ、安くあるべきではないのか。


     といってもあまり売れない本を安くできない出版社の事情もあるだろうし、

    専門書が高いからこそ、専門家のありがたさが高まるから仕方がないのかもしれない。

     新刊本がもっと安くなれば、専門家の権威が落ち、失業してしまう?

     まさか中世キリスト教のように本を読むなとか数学は悪魔だとかは言わないだろう。

     みんなの知的レベルが高まって、切磋琢磨できる楽しい環境になれると思うが。


     ちくま学芸文庫とか講談社選書メチエ、平凡社ライブラリーの出版とか、

    人文系の積極的な攻勢がさかんになってきたと思うが、

    さいきんこのような本はいっぱんの人たちにも読まれるようになってきたのだろうか。

     でもこのような本は駅前の小さな本屋には新刊のみがおかれているていどだ。


     『知の論理』であるとか、『ゾウの時間、ネズミの時間』、『ソフィーの世界』、

    『脳内革命』とか、知的なものがたしかにヒットするようになってきた。

     これから経済的にも、あるいは社会的にも混乱と昏迷を深めてゆくと思われるので、

    たしかに思索系の本が読まれてゆくと思うが、どうなんだろうか。

     まだまだ、そういう時代ではない?

     みんなマスコミと消費のほうがまだまだ魅力的?

     まあ、ある意味ではそのような時代のほうが幸せかもしれないので、

    思索系の本が読まれるようになるのはそんなにいいことではないかもしんない。

     むかしの人は実存哲学をよんで、死にたくなったりしたそうだから。


     高すぎる人文科学系の本の話にもどる。

     法政大学出版局、みすず書房、青土社、未来社、

    いずれもよい本を出しているのだが、高すぎてなかなか買えない。

     藤原書店というのはデザイン的にひじょうにお洒落な、魅力的な本を出していて、

    コレクション的な趣味だけでほしくなるが、バカ高い。

     工作舎のニュー・サイエンス系の本も、デザインがものすごくカッコいい。

     こういう人文系の本は古本でもなかなか値が落ちないので、ほんと残念だ。

     ミネルヴァ書房というのはたまに目につくが、値段が先に見えて、読む気を失う。

     安くなるのはムリなのか、それとも高い本のほうが読者がつく?


     トランスパーソナル心理学系で春秋社というのはとてもよい本を出していた。

     ほしい本をおおく網羅していて、そのセレクションのよさに感嘆したが、

    あるていど読んだらすぐに限界がきた。

     仏教も心理学的・認識論的にひじょうに鋭いことをのべていると思うので、

    むかしの経典を現代語訳にして手に入りやすくしてほしいと思う。


     専門書の新刊書は高いから、NHKブックスとか新潮選書は期待している。

     NHKブックスははば広いジャンルをとりあつかっていて、頼りになる。


     カッパブックスのカッパサイエンスとかビジネス系の本とかも、

    かなりおもしろいのを出しているので、ぜひがんばってほしい。

     ただ書店から消え去るサイクルがあまりにも早すぎる。


     とまあ、いろいろ出版社について言いたいホーダイいってきたが、

    いずれの出版社もこれからもどんどんよい本を出していってほしいと思う。

     本というのは、いろいろな人の知恵や知識を得ることができるので、

    とてもありがたいものだし、おもしろいものだと思う。

     わたしは出版社の内情とかどのように出版物を決めているのか、

    といったことはよくわからないが、よい本をどしどし出していってほしいと思う。

     書店で新しいよい本を見つけたときほんとうにうれしい。






     規範なき、あなたまかせ日本人の悲劇


                                                1998/2/5.




      この日本は規範と権威がまったくないアノミー社会になってしまった。

      日本人の個々人のなかから、規範や権威、目的意識といったものが、

     まったく失われてしまった。

      意味も価値も、規範も、ぽっかりと空隙になった日本人がここそこかしこにいる。


      なぜこうなってしまったか。

      官僚と政府が近代以降、あまりにも日本人をリードしすぎたということになるだろうか。

      近代化政策、富国強兵、殖産興業――これらはすべてお上がひっぱってきた。

      日本の民衆はそれらにただ従い、黙々とついてゆくだけだった。

      これが最近まであまりにも成功しすぎたのだ。

      しかも全国一律の国民学校教育は、日本人の、上のいうことにはただ従う、

     批判も文句もいわない、記憶力だけが抜群で、思考力なしの自己表現のできない

     アノミーな日本人の性質にいっそう磨きをかけることに貢献した。


      日本人個々人のなかにはなんのアンテナも羅針盤もない。

      ただ政府や官僚が方向や指示を与えてくれるか、

     アメリカとヨーロッパの真似とうしろをついてゆくだけでよいだけだった。


      これでは日本人のなかから、方向感覚や方向決定能力、

     思考力やみずからを律する自律心といったものが失われるのはとうぜんだ。

      日本人は方向感覚をみずからもたない空っぽな人間になっていたのだ。


      官僚主導型国家は、西洋化政策においてはあまりにも成功しすぎた。

      そのようなめざすべき方向や目標がしっかりと定まっている時代には、

     空っぽのみずからの規範をもたない日本人はおおいに役にたっただろう。


      が、そのために目標なき転換期にぶちあたったとき、

     羅針盤のない日本人はあたふたとドタバタ喜劇をくりひろげるしかない。


      近代化以降の日本は比喩的にいうなら、

     けわしい大雪のつもった山脈を、官僚たちがリーダーとなってつき進む、

     隊列のようなものだった。(『八甲田山』とか『野麦峠』の映画みたいに)

      目標と方向感覚をもっていた官僚たちは、吹雪のなかの雪山を

     けんめいに日本人たちをリードしてきただろう。

      だが嵐がやみ、雪どけがはじまった野原に到達したとき、

     リーダーは役割の喪失に気づきまいとし、民衆はどこにいってもいいのに、

     行くあてもなく呆然としている。

      春がおとずれた気持ちよい野原を、まるで厳寒な冬山のように、

     きまじめにリーダーたちは隊列をひきつれ、民衆たちはそれに従おうとした。


      しかし子どもたちはもう春が来て、どこにいってもいいことを知っている。

      ただかれらには、それを言葉にする能力と表現力がない。

      むやみな暴走と情動的な暴力に走るしか、表現力をもたないのである。

      官僚統制国家教育が、かれらの舌と頭脳をすっかりと奪いとってしまっていたのだ。

      しかも官僚たちは利権と生活を手放したくないから、

     意地でもこれまでどおり、かれらをしがみつかせておこうとする。


      大人にしたって変わらない。

      現実をしっかりと捉え、言葉にする能力をちゃんともっているといえるだろうか。

      自分の考えや意見、方向感覚といったものをもっているだろうか。

      学者もヨーロッパ知識の輸入に夢中になり、現実を見ていないし、

     あるいはこの国の現実を見て、かかんに批判や改善を訴えてきただろうか。

      わたしが驚くのは、現代にこれほど大きくなり、一般人の全生活をおおっている

     企業というものに、ほぼ批判的・学術書的なメスを入れていないことだ。

      かれらは現実の問題と格闘することをやめて、

     庭いじりと盆栽いじりだけにひきこもってしまったのか。

      一般人がこれほど不快に異様に思っている企業社会に、

     なんの手も打とうとしないのはなぜなんだろうか。


      この100年間にたっぷりと染みこんでしまった、

     官僚まかせ、あなたまかせの日本人の性質は計り知れないほど深刻だ。

      われわれ日本人は政治やら立法やら司法やらをすべてお上にまかせてしまった。

      まあその程度ならいいかもしれないが、

      日本人はそのような権利をあずけたときに同時に、

     みずからの方向感覚や規範、倫理感といったものもいっしょに棚上げしてしまったのだ。

      みずからの内なる道徳律を失ってしまったのだ。

      それだけでなく、思考力も表現力も、人生の生き方を決める能力も、

     国家教育によりすっかりと削りとられてしまった。


      ますます暴力的になる学生たちになんの規範も正義もしめせない教師のすがたは、

     まさにこのアノミー社会そのものを写しとっているのではないだろうか。

      ツケはかならず、支払わなければならない。

      しかもそれは人間の社会精神といったものが相手だから、

     経済軍国化のかたすみで喪失した社会精神・社会規範といったもののツケは、

     あまりにも高い。


      日本人はみずからの内なる規範を政府や官僚たちにあずけたと同時に、

     規範や秩序の「番人」となることをやめてしまった。

      地域社会や郊外住宅地から、規範や秩序を維持しようとする番人の役割を、

     だれもかれもがみずからの心のなかから追放してしまった。

      父親もそれを放棄し、母親も失った。

      放棄したというよりか、規範や権威をぽっかりと失ってしまったというほうが近い。

      まさにアノミー社会が到来した。


      大人たちは規範の番人をやめたのではなく、その力をもてなくなったのである。

      それは先にのべたように政府や官僚たちが、行政や立法をおこなうことによって、

     その権威や役割をとりあげてしまったというのもあるだろう。

      規範の番人の役割は、近代政治において、

     その役割を分業・委譲してしまわなければならなかったのである。

      それは外側だけでなく、個々人の心の中からも失われてしまったのだ。

      地域社会や親たちから、規範力や秩序維持能力が失われた。


      そのほかに考えられるのが、企業の経営形態や序列が、

     大人たちの力を無力化したという面も否めないだろう。

      父親や母親たちは、企業のなかでは役員や上司にただ命令・指示されるだけの、

     力も権威ももたないちっぽけな無力な存在にしかすぎない。

      みずからの力も自信もうしない、法の番人であることを不可能にしてしまった。

      この企業組織のなかにおいて、自分の力や規範力はなにひとつない、

     という思いは、地域社会や郊外住宅地での規範をみずからが守ろうとする

     動機や自信を失わせるだろう。


      印刷媒体の発達やラジオ電波、テレビなどの情報伝達機関は、

     地域に生きる個々人の規範力をさらにいっそう無力にした。

      これらのマスメディアはそのなかで決められた規範や正義を、

     大量の人間たちにコピーすることができる。

      その規範をコピーされた大量の人間は圧倒的に強い。

      「多数者の専制」といった状態は、19世紀あたりから恐れられてきたものだ。

      マスメディアの規範や正義の決定力があまりにも強すぎ、

     また目まぐるしく変わるため、個々人はなんの決定権も権限も失った。

      個々人の規範の番人の力はほとんど無力化される。


      ほかに都市化の進展も見逃すわけにはゆかない。

      都市はまったく無関係の人たちがよりつどう、無関心な人たちだけの集まりになった。

      それぞれの人たちの利益や生産の場は、企業だけにつながっている。

      近隣と没交渉になり、だれも地域の規範とか規律を守ろうとしないだろう。

      中世イスラムの歴史学者イブン・ハルドゥーンはこの段階をへて、

     文明は拘束力をなくし、滅亡するといっている。


      いじょう、この社会がアノミーになったのはこのような理由が考えられる。

      地域社会や親たちの規範の番人の役割が失われたのは、

     行政などによる分業体制の徹底化、市場原理の浸透、マスメディアの強大な力、

     都市化の進展、こういったものによるのだろう。

      このような権力の集中化は、地域に生きる個々人の規範力や秩序維持力、

     あるいはみずからの規範や規律を失わせるのに十分だった。

      規範は少数の支配者たちにゆだねられた結果、

     みずからの心にそのような規範をもたない人間が大量に生み出されてしまったのだ。

      まさにアノミー社会の到来だ。


      分業社会はなるほどさまざまな仕事をよりわけて、たくみに組み合わせるが、

     社会の規範においては、その分業・委託・集中化によって、

     規範にまったく責任をもたない、あるいはみずからの心に規範をもたない、

     大量の大人たち・親たちを育てるのに貢献した。


      社会の規範というのは、分業したり、委託したりして、

     個々人のなかからその役割と規律を奪いとってよいものなんだろうか。

      政治や官僚、裁判所、警察、マスメディア、そういったものに委託された、

     個々人の規範や規律、良心、正義感といったものはまったく権限がなくなり、

     責任をもたされなくなり、ついには心の中から溶解してしまうのだろう。


      規範や規律にたいしてまったく責任をもたない大量の人間が生み出され、

     無力で権威をもたない大人たちが地域社会にばらまかれる。

      そしてそのことを敏感に感じとった子どもたちが教師たちをおどし、

     ときにはサラリーマンのオヤジから金をぶんだくり、両親たちに暴力をふるう。

      地域や郊外から、規範の権限を奪われた大人たちが大量にいることを、

     子どもたちは敏感に感じとっているのだろう。

      そしてこの規範委託社会は、個々人が暴力や傍若無人なふるまいに、

     たいそう弱くなっていることを知っている。

      警察なんてその場にいなければその効力をもたないし、

     たとえたくさんの群集が見ていようが、かれらには規範の権限がなく、無力だ。

      子どもたちの暴力はそのような社会の弱体化した部分に、

     見事につけこんでくるのだろう。


      個々人の中に、規範の権限をとりもどすことが必要なのかもしれない。

      この番人の役割を個々人がもうすこし強くもたないと、

     地域社会からは規範が失われるし、家庭からは権威が失われる。

      個々人は規範からあまりにも無力化しすぎたのだ。


      そのためには政治や官僚などに集まる規範の権限を、

     もうすこし緩める必要があるかもしれない。

      かれらにすべて分業委託されてしまえば、地域や個々人、家庭のなかから、

     規律を守る権限が失われ、ますますモラル・ハザード(社会的規律の弛緩)が

     強まるだろう。

      中央官庁の権限をもっと弱くし、地方に権限をもっと委譲するべきだし、

     われわれ個々人も地域に権限が与えられれば、もうすこし自分の力を自覚するだろう。


      それからわれわれ一般人たちも、みずから規範の権限や発言権を

     強めてゆく努力をするべきだ。

      お上や官僚、政府、マスコミなどにあまりにも依存しすぎた結果、

     われわれはどんなに無力になり、あわれな盲従する人間の群れになったか、

     胸に手をあてて考えるべきだ。

      これは自分たちの権利や権限を放棄しているにひとしく、

     社会にアノミーをもたらしてしまった元凶であることを忘れないでほしい。

      これまでの政府や企業はたしかに魅力的な夢を与えてくれたかもしれないが、

     もうそんな約束はご破算だし、時代はこの流れを打ち壊す方向に進んでいる。

      これいじょう、無力さをアピールしていれば、

     われわれはただ虐げられるだけで、そして社会規範はますます弱まるばかりだろう。


      マスメディアにかんしてはひじょうにむづかしい。

      マスメディアはものすごく力をもち、個々人の権限や規範をかんたんに

     奪い去ってしまう。

      個々人はまったく無力だし、マスメディアの気まぐれな暴風に流される、

     ボウフラにしか過ぎない。

      ますますわれわれはマスメディアの暴風に吹き流される可能性がある。

      われわれはもうすこし、このマスメディアの狂暴な力というものに

     自覚的になるべきだし、無自覚にメディアに盲従する自分たちの哀れなすがたに

     気づくべきだ。


      マスメディアはそれだけ魅力的であり、捉えて離さないということもあるが、

     われわれはもうすこしこのメディアにかんして賢明にならなければならない。

      インターネットがなんらかの足かがりになってほしいと思う。

      マスメディアの暴力的な力に痛い目に合ってきたのは、

     なにもあらぬ疑いをかけられたり、スキャンダルを騒がれた人だけではない。

      流行遅れをけなされたり、みんながもっているものをもてとか強制されたり、

     ネクラだと犯罪者呼ばわりされたり、恋人がいなければ病的あつかいされたりと、

     だれでも一度は精神的に痛い目に会わされているだろう。

      犬になりきれる人や価値観がたまたま合致した人は平気かもしれないが、

     だれもがそうだとは限らない。


      企業にかんしてもわれわれはあまりにも無力だ。

      規範や規律、道徳、倫理といったものをみずから守らせるような、

     なんの力も権限もない。

      われわれはただ企業組織の論理と市場論理になぎ倒されるしかないのか。

      このままではわれわれは規範の番人となるような力をもてないだろう。


      どうすればいいかはむづかしいところだ。

      転換期の企業社会はこれからどうなってゆくか未知数だし、

     変貌してゆく企業組織はどのような権力ヒエラルキーをつくりだしてゆくかわからない。

      楽観的に考えれば、ドラッカーやトフラーのいうように知識社会に移行し、

     知識という生産手段を労働者みずからがもち、

     家と職場がいっしょになるような段階を迎えているかもしれない。

      そのときには地域の個々人の規範の権限はもうすこしとりもどされるだろう。

      だが、そのような形態はまだまだ遠い先のようだ。


      この社会は規範や規律をみずからの心にもたない、

     アノミーな人間にみたされようとしている。

      それは規範の権限や実行力を、専門業者に委託してきたからであり、

     規範のソフト面も、マスコミに奪われてしまったからだ。

      小さな村ではそれらの決定や実行はそれぞれ村の住人にゆだねられていたが、

     大きくなりすぎた社会においては、専門家に委託された。

      そのために規範に責任をもたない、しいては心に規範をもたない大人を育てた。


      小さな村に帰れということはかんたんだ。

      だが世界経済や技術・メディアの進展は、われわれの努力や願望を

     いともかんたんにおし流してしまうだろう。

      この大きな流れに刃向かおうとするのではなく、

     そのうねりの意味や変容の方向を正確に読みとり、

     それに対応する規範や規律のつくりかたを検討してゆくべきだ。


      このエッセーではここいらで一応、終えることにする。






         事件主義批判


                                                1998/2/7.



      われわれはたいていニュースから世の中を知る。

      ニュースというのは、犯罪や事件、事故を全国各地からあつめてきたものだ。

      どちらかといえば、世の中の悪いこと、暗い面、いやなことを伝える。


      もちろん必要なことだ。


      だが、問題がないとはいえない。

      事件や犯罪のほうばかりに目を奪われ、

     むしろより大きな問題があると思われる日常の世界がないがしろにされるからだ。

      事件や犯罪はそれらの日常の問題がつみかさなった後の「結果」ともいえるわけだ。


      われわれはそれらの結果ばかりに注目し、

     大きな事件に発展せざるを得なかった日常のつみかさねを無視してしまう。

      そしてそれはニュースによって衆目をあつめることになるから、

     とりあえずその目立った人物を処罰して問題が終わったということになりがちだ。


      念頭において語っていることは、たとえば中学生の暴力沙汰や、

     官僚や企業の汚職腐敗事件などである。

      事件はとかく個人に問題の焦点を合せるが、

     問題の大元はそれらの事件をもたらした企業風土や組織のありかた、

     また学校の風土や社会関係ではないだろうか。

      つまり社会集団や組織自体に問題があると思われるのに、

     事件や事故をおこした個人の問題にされてしまう。

      これらは社会生態、社会全体に問題がある。

      事件にならなかった日常のつみかさねがどんどん溜まり、

     その問題の一端がほんのすこし噴き出たものが事件となって現われる。

      それなのにニュースは社会全体まで切り込めない。


      事件や犯罪がおこらないととりあげない。

      だれか個人が処罰されるとたちまち報道熱は冷め、

     すぐにニュースはほかの話題でもちきりになっている。

      そうしてシッポを切られたトカゲはいつまでもぴんぴん!で、

     また同じ問題で、ニュースをにぎわわせる。

      バカみたいだ。


      日本には個人は罰せても、組織や集団を罰する法律はあまりないのだろうか。

      ニュースもやはり組織とか集団をひじょうに捉えにくく、

     問題の焦点を個人にもっていきがちだ。

      個人をいくら叩いても、責めても、仕方がない。

      その犯罪や事件をもたらしたのは、組織の圧力であったり、風土であったりするからだ。

      ショッカー(仮面ライダーに出てくる悪の下っぱ)をいくらやっつけても、

     ショッカーはつぎつぎといくらでも襲ってくる。

      死神博士(悪の大元)はまったく安泰だし、幹部もまだたくさんいる。


      組織や集団が犯罪や事件をひきおこしているのであり、

     それらに焦点を合せた罰則・対処法を編み出す必要がある。

      もういいかげんに個人をたたくだけで、

     集団や社会生態になんの罰則を設けないのは、やめにしないといけない。

      個人が犯罪を犯したのではなく、集団や社会生態が犯罪を犯したのだ。

      社会生態を裁き、その実態をさぐり、対処法・罰則をとりきめるべきだ。

      この現在の組織社会において、個人がなにほどの力をもてるというのか。


      たしかに事件をもたらした集団の力学を捉えるのはむづかしい。

      だが問題の原因は個人だけで、個人に責任をかぶせれば、

     それで問題が解決するというような考え方などもう通用しない。

      社会生態自体にメスを入れなければ、解決しないのである。


      もしある組織、集団の個人が事件や犯罪を犯したのなら、

     内部で解決を図るのではなく、外部からの監査役や矯正役の投入を、

     義務づけるべきだ。

      外部からのパラシュート部隊がないと、内部の生態はもう癒せない。

      (官僚からだとまた腐敗してしまうので、民間の人のほうがいいだろう)

      組織や集団の犯罪・事件は個人が起こしたと考えるのではなく、

     理由がなんであれ、組織の生態自体がひき起こしたと考えるべきだ。

      犯罪・事件を起こした時点で、もう個人の問題ではないのだ。


      ニュースは極端に事件と事故しかとりあげないから、

     ワイドショーのほうがまだ社会生態や組織に切り込む手法をもっていると思う。

      スキャンダルや芸能ネタで下品で下劣な番組も、

     その手法は社会生態や過去の生態まで切り込めるよさがあるのだ。

      現在のニュースの形態ももともと町のゴシップなどをあつめたものが、

     権威あるものとしてもちあげられてきたのではないだろうか。


      ニュースは事件や事故しかとりあげられないから問題だ。

      事件が起こらなかったら、ニュースはとりあげない。

      たいていの人の頭の中から、存在しなくなってしまう。

      これでは大きな問題でありながら、事件を起こさない問題は、

     人々の意識の片隅から忘れ去られてしまう、あるいは問題にさえされない。


      事件や事故がないからなんの問題もないということではまるでない。

      われわれが生きる日常では、大きな事件は起こらないが、

     深く、大きな問題が横たわっているのがふつうだ。

      われわれのたいていの人はこれらの問題と毎日闘い、

     格闘しているのではないだろうか。


      ニュースにとりあげられるようなトピックは、

     われわれの日常の生活ではほとんどお目にかからない。

      わたし自身の身のまわりで、テレビや新聞にとりあげられるような事故や事故を

     垣間見たことは、いままで生きてきたなかでほとんどない。

      いわばニュースというのはじっさいの生活において、

     なんの関わりもない、どこかの遠い世界の話でしかない。

      それでもわれわれはこのニュースをまるで自分の身の上に起こったことのように、

     熱心に関心をもち、行方を探ろうとする。

      もちろんなんらかの関わりはあるし、自分自身の生活に影響を与えるだろう。


      だけどわれわれ一般の人にとって、問題なのは、

     自分の日常の生活ではないだろうか。

      日常の生活や社会のなかになんの問題もないという人はいないだろう。


      マスコミのニュースは事件や事故はとりあげるが、

     大きな事件は起こらない、深い問題が進行している日常の世界まで、

     その目を向けることはできない。

      なにも大きな事件の起こらない日常の生活に、

     より大きな問題があるということにニュースはメスを入れられない。


      われわれだってこう毎日ショッキングなニュースばかり見せつけられて、

     そのことで頭がいっぱいになるが、じつはわれわれの日常の生活にも

     じゅうぶんに問題のある、解決しなければならない事柄がたくさんあるのではないか。

      わたしが言いたいのは、事件や事故だけが、毎日のニュースとして、

     問題としてとりあげることなのかということだ。


      つまりわたし自身が問題としているテーマ、企業中心社会や経済至上主義、

     あるいは社会生態の問題といった――べつにめだった事件をおこさないが、

     それでもわれわれの毎日の生活にいっそうの問題をのしかけている、

     そういった問題には、ほぼ目が向かないようになっている。

      一般の人たちは事件になったことがニュースにとりあげられ、

     そのほかのことは問題ではないように思い込むようになっていないか。

      つまり事件や事故が起こらないと、

     問題にしないような捉え方をしてはいないかということだ。


      そしてやっと事件がすでに起こってからおおいに騒ぎ出す。

      あるいは事件が起こらないと、問題にされないといえる。

      事件が起こってからでは遅すぎる。

      ましてや自分の家族や身内が事件・事故にまきこまれたあとで、

     その原因が追求されても、もう時すでに遅しだ。

      事後処理しかできないわけだ。


      事件主義というのはコトが起こらないと始まらないわけで、

     予防的なことまで手が回らない。

      犠牲者や被害者が出ないと、大衆の味方や擁護が得られないというのは、

     あまりにも危機感がとぼしく、平和ボケしすぎている。

      もし生かさず殺さずのような状態で、事件や事故がおこらなかったら、

     ニュースはその状態をなかなか捉える機会がないわけだから、

     問題はよりいっそう深刻になってゆくかもしれない。

      予知や予防という観点からも、ニュースの事件主義はそのありかたが

     問われるのではないだろうか。


      またニュースは大きな事件も、つぎの大きな事件が起これば、

     節操もなく、古いニュースは捨ててしまう。

      国民の多くがニュースによって世の中を知るわけだから、

     解決しない問題はもっとじっくり追ってゆくべきだ。

      その役割はあまりニュースに期待しないほうがいいのかもしれない。


      でもニュースという媒体だけで世の中を知る人は、

     その情報が途切れてしまえば、その問題は存在しないも同然になる。

      事件や事故だけを知り、そのあとの経過や犯人の逮捕、問題の解決を

     なにも知り得ないまま、あるいは申し訳程度にふれられるだけでは、

     ほとんど存在しないも同然になるだろう。


      というわけで事件や事故のニュースが国民のゆいいつの情報源になるというのは、

     ちょっと問題だと思う。

      もうすこしワイドショー的な事件や犯罪、あるいは社会の問題の、

     その背景に切り込んでゆく情報のほうが、もっと大事ではないかと思う。

      事件や犯罪、事故の情報だけでは、国民のほとんどはその問題の原因や背景を

     知り得ないし、問題の解決を迫ろうとする気概や追求の手をすぐにゆるめてしまうし、

     問題を予防するという点からも、あまりにも後追いになりすぎてしまう。


      事件や事故の報告だけのニュースでは、つぎの一歩になかなかつながらない。

      事後処理だけではなく、予防あるいは予期という点からも社会を捉えることが、

     大人の社会として求められるのではないだろうか。    







      まだ頭の中であまりまとまっていないが、わたしの言いたいことは、

     一般の人たちにとって問題なのは、メディアの中の事件ではなくて、

    日常の世界――自分の足元の世界――会社や学校ではないだろうか。

     若者たちが政治や社会に興味をもたなくなったのは、

    自分の日常の世界のほうが大事であって、メディアの中の事件は

    自分の日常となんのつながりも影響もないと感じるからではないだろうか。

     メディアは、一般の人たちとあまりにもギャップが生じつつある。

     われわれに問題なのは、身のまわりの世界のことなのだ。

     メディアはそのような現実に追いついていないのではないのか。





      なぜ個人はだれにも守られないのか

                                                  1998/2/17.






       個人は企業からぜんぜん守られていない。

       残業時間の増加をへらすすべももたないし、高密度の疲弊する労働にも

      不満をぶつけることもできないし、上下関係の屈辱的な横暴からも守られていない。

       リストラなどでさらに職の安定すら危ぶまれるようになったし、

      激務のための過労死で一生をムダに終わらされるかもしれない。


       われわれ日本の個人はなぜこれほどまでにだれにも守られていないのだろうか。


       官僚と金融・大企業の構造的癒着、大企業の総会屋との癒着――、

      この国は「ルールなき資本主義」の様相をますます露呈してきた。

       資本主義にルールがないということは、われわれ働く個人にとっても、

      守られるべきルールがまったくないということなのだ。


       カネと権力のある者にはなんでもありの、したい放題がまかり通る、

      恐ろしいほどのルールなき、気まぐれ権力構造社会なのである。


       このような戦後日本社会において、サラリーマンはものすごくおとなしく過ごしてきた。

       社会や会社に従っておれば、生活と老後はとりあえず安定するし、

      給料も地位も上昇してゆくし、マイホームも家電も少々の贅沢も手に入れることができた。

       だからサラリーマンはものも言わずにおとなしく従ってきたのだろうか。

       これらにひきかえ、少々酷な労働条件も、人権も権利もない企業との関係も、

      まあしかたがないとガマンしてきたのだろうか。


       しかしそのためにこの社会は人権も魂も売り払った無力な個人のあつまりになった。

       「生産マシーン国家」とよばれるまで異様な産業ロボット社会になった。

       ヨーロッパ・アメリカ諸国はこの異様さを「エコノミック・アニマル」とあきれ返り、

      学生たちはこの悲惨な人権なき社会に自分の将来を悲観するしかない。


       われわれは不満と憤りをもっているはずだ。

       だが、それを現わす手段も方法もまるでないことに呆然とするしかない。

       自分の手にはなんの道具もない。

       無力さにうちひしがれるしかない。


       声をあげる個人も団体もある。

       だがほとんどの日本人の反応は、アブナイ人には近づかないほうがいい、

      といった逃避的な感情のみだ。

       われわれは多くの人がこのような感情をもつのを知っているから、

      不満も憤りも、ましてや批判すらも口に出せないようになった。

       「アブナイ人」に思われたくないと思って、われわれは道具のつぎに口を失う。

       ヒサンだ。


       この日本的社会性質はどのようにつちかわれたのか。

       アブナイ人は社会から抹殺されるという権力装置は、

      みんながみんな日々このような態度をとることによってますます拘束力が強くなる。

       われわれの「アブナイ人には思われたくない」という気持ちが、

      ますますこの社会に無力な個人を増産させてゆく。


       「アブナイ人」というステレオ・タイプはどこで生産されたか。

       マス・メディア――とくにTVにほかならないだろう。

       浅間山荘事件やいくたもの過激派テロ、学生運動、

      そういった恐ろしいダイレクトな映像を見て、

      かれらは「アブナイ」、一般市民に危害を与える「オソロシイ」人たちになった。


       そしてわれわれの中で、批判や懐疑をとなえる人ですら同様になった。

       政治や思想、宗教にかかわることは「タブー」、「アブナイ」ことになった。

       そしてわれわれから、すべての批判的思考がいっさい排斥され、

      TVとマンガ、日々のうさ晴らしとブランド消費に流れ込む、

      享楽と欲望のときはなれた刹那的な時代の下地をつくりだすことになった。


       このようなことが70年代以降のここ30年内に起こったことだ。

       そしてそのあいだに起こったことは政治家のカネと汚職にまみれた事件と、

      大企業と総会屋の癒着、官僚と大企業との構造的腐敗だ。

       それでもわれわれ個人は批判的精神も、それを現わす口もまったく

      失ってしまっていて、かれらのやりたい放題の体質に手を打てなくなっていた。

       われわれ個人は、批判と改善の手段をまったく失っていたのだ。


       そしてそれは企業のなかでも同じことだ。

       われわれ個人はまったく無力の、なんの力も改善もできない奴隷の群れになった。


       国家は、国民が反抗的になったあの時代に、

      その根をつみとることにまったく成功したのだ。

       わたしはその時代の人たちがなぜ市民をまきこむ無差別テロのような方向に

      進んでいったのかわからないが、それは結果的にのちの市民や学生たちの、

      批判や懐疑の精神や言動を根こそぎにするのに役立った。

       血を流す暴力的な手段は、ぎゃくに市民と敵対するイメージをつくりだしたのだ。

       そしてわれわれ個人はまったく無力の無害な享楽的な群れになった。


       そのあいだになにが起こったか。

       政治はやりたい放題のカネと汚職にまみれ、大企業は闇の力と結託し、

      土地と株の投機的経済を加速させ、国家経済を破綻させ、

      そのあと始末に官僚と金融は自由市場のルールを踏みにじり放題だ。

       金儲けのためにはモラルもルールも虫ケラ同然だ。


       われわれ個人や市民は政治的な手段をもつことに失敗したのだ。

       そしてこの国はカネとチカラのある者たちのしたい放題、やりたい放題の、

      放逸と腐敗と無秩序の権力者天国になったのだ。


       もうこの国は終わっている。

       民主主義国家、資本主義国家というタテマエはまったく機能していない。

       ソ連とまったく同じような権力者が統制する「国家社会主義」になってしまった。

       もともとそのような封建国家だったのだが、

      やっとその暴れる獅子の正体が白日のもとにさらけ出されるようになってきたのだ。


       わたしはこの民主主義国家のしくみがどのようになっているか知らない。

       選挙もいちども行ったことがない。

       金権政治と腐敗によってあきれ返って政治家に投票する気にもなれないし、

      自分がまったく無力であり、なんの改善もできないことを知っているからだろう。

       投票してもムダだというあきらめが、国民の半数の棄権率をうむのだ。


       民主主義がどのように運営されているのかもよくわからない。

       たしか学校では行政、立法、司法の三権分立だとかの話は聞いたことはあるが、

      どうもこの国はそのようなもので動いているようにはとても思えない。

       民主主義国家の市民がここまでなにも知らないくらい、

      政治は国民の要望や要求からかけ離れたものになっているのが実態だ。


       この国はどのような実態や権力構造になっているのだろうか。

       わたしにはまったくわからない。


       司法がまったく機能していない。

       われわれの日常の生活の中に、法律という市民の味方は存在しない。

       法律に守られているなどという実感を一度ももったことがない。

       法に訴えても、企業組織などにたいしてまったく無力であることを知っている。

       訴えれば、この日本の組織社会においてその居場所がなくなるのを知っている。

       だから、横暴な企業論理に従うしかないのだ。

       われわれ個人はまるで手も足も出せない。

       ここはアウシュヴィッツなのか、極東の強制労働収容所なのか。


       大企業がものすごく力をもっているのは知っている。

       この社会のいちばんの権力者は大企業なのだろうか。

       政治家や官僚、裁判官たちはこの大企業のカネの力に買われ、

      かれらのやりたい放題の道具になっているのだろうか。


       現代に力をもっているのは政府とか政治ではなくて、

      じつはカネのある大企業だけなのだろうか。

       これではとても政治は機能しないし、企業から個人も守られない。

       このとおりの社会が実現しているということは、いくぶんは正解しているのだろう。

       個人はまったく守られていない。


       この国はカネの力をもつ「企業専制国家」なのだろうか。

       そしてその横暴な暴虐を矯正する手段も方法も個人はもたないし、

      あるいはカネの力にねじまげられたマス・メディアが煙幕をはり、

      その実態が市民から見えないようになっているのかもしれない。


       われわれはカネがこの社会の権力をもち、

      そしてヒエラルキーを形成しているという事実にしっかりと目を見開くべきだ。

       政治や官僚がほんとうに権力をもち、そして機能しているのだろうか。

       かれらは企業のカネの力に買われ、それに奉仕しているだけではないのか。

       政治が無力だったのは、これまでの歴史から充分わかることだ。

       人間ではなく、カネが権力者であることを忘れてはならない。


       この暴力に歯止めをかけるすべはないのか。

       げんざいの政治体制・政治のしくみは、こんにちのように企業が巨大化した時代に

      生み出されたのではないだろう。

       近代政治はなにに歯止めをかけるためにうみだされたのか。

       すくなくとも、企業の権力肥大化の抑制に失敗していることは確実だ。

       政治や官僚はともにその肥大化に貢献し、その権力とカネにタカるだけだ。

       つまり個人や市民を守る方向にまったく向いていない。


       権力化した企業から個人や市民を守る、

      あらたな手段の確立が必要なのではないだろうか。

       このままでは政治は企業と結託して、ますます個人はあわれに暴虐の波に

      さらされるだけだ。


       この暴走に歯止めをかける方法はどのようなものだろうか。

       げんざいの政治や官僚、法律の中にまったくそのようなものがないことは、

      われわれ自身がいちばんよく知っている。


       われわれ個人が政治や司法に守られるためにどうすればいいのだろうか。

       絶対化した大企業組織は利益と金儲けの目的を絶対化してしまい、

      モラルや社会規範はいともかんたんにふみにじられ、消え入ってしまう。

       一刻も早く、戦時経済体制のしくみを解体しなければならない。

       このままではこの社会は大きな対立と惨劇を将来に譲り渡すだけになるだろう。





  諸悪の根源――法人優遇社会と言語化されない社会


                                                    1998/2/20.






    安土敏『ビジネス人生・幸福への処方箋』(講談社文庫/495円)はすばらしい本だ。

    われわれの幸せ感がなぜ喪失しているのか、みごとに説き明かしている。

    評論家や学者ではない、実務的な仕事をこなしているからこそ書ける内容がいい。


    とくに「幸せ感を崩壊させる日本社会の構造」というチャートの、

   因果関係、相関関係をひと目でわかるようにした図がすばらしい。

    ここで紹介できないのが残念なくらいだが、安い文庫なのでぜひ直接見てもらいたい。

    幸せ感を喪失させるおもな原因は、「仕事=際限なき奉仕」と「法人優遇社会」、

   「言語化されない社会・経営」、「野放しオフィス・ビル建設」、

   「システム・アプローチによる問題解決がニガ手」などといったことにもとめられている。


    「仕事=際限なき奉仕」はもうだれだってわかり切っていることだが、

   「法人優遇社会」と「言語化されない社会・経営」の指摘にはおどろいた。

    税制面で法人が個人にたいしてどれほど優遇されているか、

   この国で法人がどれだけ手厚くあつかわれているか、思い知らされた。


    法人では経費が営業経費として課税されないのに対し、個人は全額にかけられ、

   また赤字決算のときには法人税がいっさいかからなく、5年間くりのべることもできる。

    法人は経費としてゴルフや接待、社宅などにカネをつかったほうがおトクなのである。

    つまり法人は生き残るために徹底的に優遇されているのであり、

   個人も「法人のほうがウラヤマシイ」というバカな状況を生むのである。


    また、個人は国家や社会から直接、法的保護をうけていない。

    訴訟はカネも時間もかかりすぎるし、社会的にも容認される雰囲気がない。

    それに対して、会社はカネも優遇課税もあるから、近代国家なみの法的権利をもてる。

    だから個人はそこにもぐりこんで法的保護を得ようとするし、

   税金・年金・健康保険などの手続きは会社がやってくれる。

    中には会社に就職しないとそれらの権利を得られないと勘違いしている人もいる。

    こうして個人は会社に依存することによって法治国家の保護をうける立場を確保し、

   それを失う恐怖心から、会社を宗教的=超権力的な依存対象にまつりあげてしまう。

    しかも会社には退職金と年功賃金という人質が捕らえられている。

    したがって社会の規範と会社の規範が衝突したばあいには、

   迷わず直接自分を守ってくれる会社の規範に従うわけだ。

    こんなところに会社のために犯罪を犯すサラリーマンの原因があるのだ。


    日本にはどうやら個人からはじまる民主主義国家があるのではなく、

   会社からはじまる民主主義国家が存在するようだ。

    近代法治が適用されるのは、個人ではなく、会社いじょうの存在のみだ。

    これではたたでさえ貧弱な個人が会社に抗うすべはないし、

   また言うことを聞いておれば守ってくれるなら、会社を宗教的存在に祭りあげて、

   過労死するまでの滅私奉公に尽くさざるを得なくなるのだろう。


    個人を守ってくれるのは、せいぜい警察くらいのみだ。

    あとの政治とか官庁、役所、裁判所といったものは個人を守ろうとはまずしていない。

    カネのない個人を守ることより、会社にタカっていたほうがよほどおトクだからだ。

    個人が政治や官僚に絶望するのはムリがない。

    どうもこの国は個人を守ろうとすこしも考えたことがないようだ。


    近代の政治や官僚の仕事は、国家の富や軍事力を強めることにあるのであって、

   個人の人権や権利、幸福を擁護することではないようだ。

    個人をこれっぽっちも守ろうなどと、この日本の近代国家には考えもおよばないのだ。

    国家の富・軍事力を増強するためには会社の生産性を高めなければならない。

    とくにイギリスの産業革命から100年遅れた日本では、

   会社を保護して成長させることが、軍事的な増強のために急務だった。

    さもなければ、この国は西洋列強に植民地化されるからだ。


    日本の近代国家の政治や官僚のしくみは、その要請によってつくりあげられたものだ。

    国の軍事力、そのための経済力の増強こそが第一の目的だったのだ。

    したがって個人の人権や権利、幸福を擁護する必要はない。

    近代以降にあらわれた女工哀史や戦死者の群れ、公害病に悩む地域住民、

   過労死する会社人間などのさまざまな個人の犠牲者はその帰結にほかならない。


    かつて日本の戦争は武士たち職業軍人のみの対戦だったのあり、

   農民や町民は弁当をもって関ヶ原の戦いなどを観戦した。

    それが国民すべてが参加するトータル・ウォー(全体戦)に変貌したのは、

   近代国家以降のことだ。

    世界のほかの国では、ほかの国の王が攻めてきても、

   いまの国の重税よりマシだと、外来の王を歓迎した住民たちも多くいた。

    そのような観念が変貌したのは、軍事力は一国の経済力だという認識の誕生と、

   国家と国民の利益と安全が同一だと説くイデオロギーの啓蒙からなのだろうか。

    ともかく近代国家は国民の総力戦を必要とし、国民もそれを歓迎した。

    国家の主をどこかほかの人と捉えるのではなく、一心同体に捉えるようになった。

    その結果、二度の世界大戦において膨大な市民の戦死者の群れを生み出した。


    このような流れが、現在の社会経済体制にとぎれることなく、ひきつがれている。

    一国の経済力の貧弱さは、そのまま他国の軍事力の脅威の増大につながる。

    近代経済は宿命的にそのような要請を背負っている。

    日本の近代国家はまさしくその恐れから出発したのである。


    だが、現代のわれわれはそのような感覚とかなりかけ離れたところにいる。

    経済成長は一国の軍事力を増やすためだという認識より、

   個人や国民を富み殖やすためにあるのだと感じるようになっている。

    われわれはあまりにも平和な時代に生きており、そこに立脚しているのだ。

    その証拠に目的を失った政治家・官僚は私腹を肥やすことに終始している。

    大きな戦争はもう50年以降おこっていないし、冷戦構造は終わった。

    つまり近代国家の目標は現在のところ、その意味も用途も消滅したのだ。


    このような状況で、国家総動員体制の経済戦争は、

   あまりにも意味のないスパルタ的な枠組みにしかならない。

    いつまでもこの枠組みをつづけていると、国民はいつか反乱をおこすことになるだろう。

    そのような行動に出ないとしても、社会精神の崩壊やモラル崩壊は、

   反乱のような惨禍よりもっとびとい惨劇をもたらすことだろう。

    日本人はどうもそのような病弱化してゆく国民の道を選んだようだ。

    まあせいぜい政治家や官僚はやりたい放題のウジ虫社会をつづけていればいいのだ。

    歴史と時代がどっちみち、判決と制裁を下すことだろう。



    言語化されない社会に関しては、これは日本の多くの問題の根源にあるものだと思う。

    日本の社会のしくみやありかた、じっさいにどのように社会が動いており、

   どのように権力が日本を牛耳っているのか、ほとんど言語化されていない。

    なんだかこの日本のほんとうのありかたをさらし出すことは、

   日本のみんなで守っているタブーみたいなものなのだろうか。

    また会社内部のしくみやありかたといった情報は、

   まったく言葉にされない恐ろしいまでの「秘境」のまま、放っておかれている。

    会社内部というのは20世紀最後の日本の秘境だといっていいかもしれない。

    日本のだれもがこの「禁断の地」に踏み入れようとしない。


    わたし自身がこれまでおおく本を読んできたり、フリーターなどをしておおくの職場を

   巡ってきたのは、会社という秘境の奥がまるでわからなかったからだ。

    こんな秘境になにも知らないまま、ひきずりこまれるのはタマッたものではない、

   とわたしはいくつかの秘境に潜入してみたのだ。

    でもあいかわらず、この「秘密の花園」がどのようなものなのか、いまだに不明だ。

    どのような論理や不文律で動いているのか、さっぱりわからない。


    新聞や雑誌、TVなどの会社情報は、安土敏が指摘するとおり、

   投資家や株屋の目で判断された高収益、財務体質のよい会社のことばかりだ。

    学生は就職するさい、この株屋のランキングによって就職先を決め、

   その会社がどれほど社員をこきつかうのかといったことも知らずに就職する。

    そういう情報は新聞や雑誌などはほとんど与えてくれない。

    だいたい高収益の会社ほど、人使いは荒いし、公私混同ははなはだしいし、

   社員を奴隷のようにこき使った結果、株屋のランキング企業までに成長したともいえるのだ。

    わたしの経験でも、大企業の下請けはものすごくヒドイ扱いを受けるので、

   大企業関連の下請けにはもう二度と近づきたくないと思っているのだが、

   この下請けいじめの体質は、その親会社自身にも内包されている体質なのだと思う。

    どうやら大企業はフタを開けてみれば、なんとやらといった状況のようだ。


    働く人にとっての会社情報というものを大切にしなければならない。

    つい世間がよい会社だというブランド企業に就職すると、長時間残業、

   休日・私生活の侵害や拘束などによって一生を棒に振ってしまうかもしれない。

    このような働く側からみた会社情報というのは、企業とグルになっている新聞や雑誌は

   教えてくれないから、インターネットの個人ページなどによって、

   それに抗する情報を集めることができるはずだ。

    雑誌に出ている会社ランキングとえらく違ったランキングが現われることだろう。

    われわれ個人はこのような個人からみた情報をあつめることによって、

   人間として扱われない会社には就職希望者がこないという社会的制裁を与えることができる。

    インターネットはぜひそのための足かがりになってほしい。

    情報はわれわれの一生を救ってくれるかもしれないのだ。

    過労死することもあるのだから、ほんとうにこの情報は命がけだ。


    それにしてもこの社会は言語化されていない領域がことのほか多い。

    おそらくわたしがほしい情報というのは、個人が生きるための社会と会社情報と

   いったものなので、そこらへんがこれまでの言語化された領域とズレるのかもしれない。

    わたしがいちばん恐ろしいのは、非言語的な情緒や論理で、

   社会やものごとが動いているという未知の地図のない世界だ。

    ある職場や集団に入るとき、マニュアルではなく、言外の行動や習慣によって、

   まわりを察知し、その場に馴染んでゆかなければならないというのは、

   たいへんな骨折りだ。


    この社会がじっさいにどのように動いているのか、だれに牛耳られているのか、

   言葉で捉えられないことは恐ろしいことだ。

    だから学生たちはとりあえず言語化された株屋ランキングの会社に就職しようとするし、

   母親たちは子どもたちを有名大学などに押し込もうとする。

    まるで真っ暗な映画館で出口に殺到する群集のパニックのようなものだ。

    受験戦争というのはなんだかパニックに似ていると思っていたのだが、

   やっぱりこの世界がまるで言語化されないことにもその原因があるのだろう。

    まっ暗闇だ。

    TVや新聞のつたえる情報はステレオタイプか、事件事故のかかわりくらいだ。

    われわれが日常のなかで属する会社や社会についての情報は、

   ほとんど言語化されなく、体当たりで覚えてゆくしかなく、賭けみたいなものだ。


    この社会が言語化されないのは、集団が閉鎖して外部に情報をもらさないようにする、

   なにかそのような体質が固まっているからだろうか。

    情報や言葉を禁忌するような習慣・雰囲気がどこかにある。

    言語化されない世界は文書にも記録にものこらず、

   その場にあらたに参入するものはいちいち非言語的な慣習を、

   ホディランゲージや身の振り方、行動の仕方、人々の動きかたによって、

   学んでいかなければならなくて、あまりにも非効率で、過去の学習の蓄積がのこらない。

    情報や言葉にかんしては、日本はまだ鎖国したままなのだろうか。


    批判や自己主張があまり歓迎されない社会は問題だ。

    過去の誤りや失敗をいつまでも正せないし、同じ惨禍をなんども経験しても、

   またもやふたたびくり返す、救いがたいバカな人間を生み出すからだ。

    なんだかブッ壊れてしまったおもちゃの反復行動みたいなものだ。

    これはあまりにもヒサンだが、日本社会はあまりに和とか秩序とかを求め過ぎたため、

   批判も懐疑的洞察を働かせることができなくなってしまった。


    批判や懐疑こそが社会を活性化し、進歩の原動力になるものなのに、

   どうしても日本人はこの力を封じ込めたいらしい。

    変わりたくない人や社会は、世界の流れからとりのこされるだけだ。

    思考能力も、まだ言葉のないものごとを言語化する能力も歓迎したくないらしい。

    そのような能力こそ、いままでの退屈した閉塞した社会状況を突破する道があるのに、

   どうもこの力を解放したくない勢力・社会風土があるようだ。


    こうして日本社会の情報・知識のインフラストラクチャーは蓄積・進歩することもできず、

   何世紀も前の非言語的慣習の世界によって生きてゆくことになる。

    マクドナルドのマニュアルがあればかんたんに仕事が覚えられるのに、

   日本社会はあいかわらず身体で仕事を覚える中世的な学習方法に固執している。

    日本の企業集団はあまりにも閉鎖的で、業務や知識の発展を阻害してしまう。

    知識や技術といったものは「秘教」にするよりか、

   集積・蓄積されることによって発達してゆくものだ。

    中世ギルドのように閉鎖的な職業集団を維持していたら産業革命はうまれなかった。

    日本企業は内部情報を秘匿することによって、みずからの停滞性や後進性を

   ただ後生大事に抱え込み、みずからの首を絞めることになる。


    言葉や自己主張のへたな日本人はまた、制度的チェックを有名無実化してしまう。

    これではせっかく設けた防波堤がなにも機能しなくなってしまう。

    こうしてチェック機関の働かない会社や集団はいたるところで暴走してしまう。


    日本人には論理力や思考力、コンセプト創造能力、ディベート、発表能力が必要だ。

    でもその前に日本の社会風土のなかには、これらの能力を封じ込めるような

   雰囲気や抑制といったものがあるようだから、この撤廃のほうがまず先だ。

    そのような抑制力とはなにかといったことは、またいつか考えてみたいと思う。



    いじょう、法人優遇社会と言語化されない社会について考えてみた。

    これらふたつの制度や慣習がどれほどわれわれ個人の幸福を奪っているか、

   切りがないほどである。

    なんとかこれらを撤廃、変革させてゆくことはできないものだろうか。

    みなさんもいっしょにぜひ考えてください。

    このエッセーの内容の多くは、この安土敏『ビジネス人生・幸福への処方箋』という本に

   よっているので、安い本なので読まれることをおすすめしたいと思います。






       そのほかの参考文献


         渡辺昇一『歴史の鉄則』  PHP文庫

         アンドリュー・シュムークラー『選択という幻想』 青土社

         堺屋太一の諸著作 PHP文庫/新潮文庫ほか




        わたしがのぞむ生き方と社会


                                                1998/3/1.





     わたしはどのような生き方ができる社会をのぞんでいるか。

     こういうヴィジョンを描いておくのは、わたしがどんな世の中をのぞんでいるのか、

    みなさんにもわかりやすくなると思うし、また自分にとっても漠然と描いている、

    こうあってほしい社会の姿をはっきりできるからだ。



     わたしがいちばんにのぞむ生き方というのは、

    企業や仕事に一生を拘束されない、もっと自由な生き方だ。

     一生を企業や仕事だけに費やされてしまう生き方は、あまりにも悲惨だ。

     もっと仕事や企業以外の生き方や過ごし方ができる生き方をしたい。


     趣味に没頭したり、なにもしないで過ごしたり、ぶらぶらと近所を散歩したり、

    あるいは日本や海外を旅行したり、そういう暮らし方をしたい。

     ひとつの企業に拘束されると長い休暇を得ることはまずムリなので、

    転職が自由であり、仕事から解放された人生の休暇を多くとりたい。

     失業というのは、ある意味で貯金さえあれば、勤めていれば一生得られない、

    人生の最高のバカンスにもなりうるわけで、こういう期間も多くとりたい。

     そしてそういうことに価値がおかれる、社会的に容認されるような雰囲気になってほしい。

     そこにこそ人生を生きるほんとうの意味があるのではないのか。


     現代のわれわれの生き方というのはあまりにも企業に拘束されすぎる。

     毎日毎日、会社に仕事しに行かなければならないし、休日や休暇はひじょうに少ないし、

    つかの間の休みのあとにはハードな仕事の毎日があると思うと、心が休まる暇もない。

     いまの社会はあまりにも企業が強大になり過ぎて、どこにも逃げ場所がない。

     子どものころからわれわれは受験選別という形で企業に拘束されている。

     このような心理的な拘束力は、ものすごい重圧となってわれわれの心にのしかかる。

     あまりにも企業がわれわれの一生や社会を拘束し過ぎるのだ。


     おそらくいくらかの人はなにを甘えたことを言っているのか、と思うかもしれない。

     だけど、視野をひっくりかえしてもみてほしい。

     日常にあたり前として通っていることが、絶対に「正常」だとは限らないのではないか。

     人間ならとうぜん思う欲求がぜんぜん満たされない社会のほうが、

    もっと異常で、おかしくはないだろうか。

     そしてこの当たり前の世界も、じつは超自然的にこの社会を拘束しているのではなく、

    人為的につくられたものであり、それも比較的最近につくられた仕組みにしか

    過ぎないとしたら、どう思うだろうか。

     人間の社会というのは、人間がつくりだしているものだ。

     当たり前と思っているこの社会の仕組みも、だれかがつくりだしたものにほかならない。

     自然にできあがったものでもなく、神がつくりたもうたなどと狂信でもしないかぎり、

    われわれはこの社会を変えることができるはずだ。


     企業に就職したら、おそらく一生、長い休暇を得ることがないだろう。

     企業と仕事だけの一生が全生涯を覆っている。

     人間はもっと自由で、気ままな生き方もできたはずだ。

     まったくなににも拘束されない気持ちで、毎日や長い日々を過ごせたかもしれない。


     でも現代のわれわれが得る休暇というのはたった1、2日の休日や、

    正月休み、盆休みくらいでしかない。

     この短い休みも、すぐにハードな毎日に置き換わるので、心の休まる暇もない。

     定年後には人生の長い休暇があるかもしれないが、

    歳をとってそんなものを得ても、うれしくもなんともない。

     長く働いたご褒美が、死にかけの老人に残されたわずかな余暇では、

    いったいなんのために生きているのかわからない。

     このわれわれの勤勉社会では、人間として生きるための意味がまるでない。

     人間が幸福に生きるための生活基盤がまるでない。


     かつては働かなければ食えなかったのだろうが、いまは違う。

     人生にもとめられる意味や価値観がまるで変わってしまったのだ。


     この社会のシステムは、その貧しい時代のままであり、

    新しい時代の幸福感を収奪するシステムとしか機能していない。

     産業優先と産業保護を第一に優先する思考が、個人の幸福を押しつぶしている。

     産業の利益を守ろうとしたために薬害エイズという殺人は起こされたし、

    公害病患者も、産業優先思考の犠牲者だ。

     日本のあらたまらない長時間労働も、産業優先・保護思考のたまものだ。

     お役人は産業を保護・育成することで頭がいっぱいだから、

    企業に都合のよい法律は野放しにしておき、個人の幸福や人権を奪っても平気だ。

     日本人の企業に一生を奪われる人生も、個々人の人生を楽しめないという意味で、

    「殺人」に等しい。

     じっさいに過労死も多いのだから、産業優先思考は、

    おおくの労働者を死にいたらしめる殺人的思考といえる。


     このような仕組みは即刻あらためてほしいと思う。

     お役人や政治家には、産業優先から個人優先思考へのコペルニクス的転回が必要だ。

     さもないと国民からは信頼されないだろうし、相手にすらしないだろう。


     わたしがのぞむ生き方や社会というのは、この企業や仕事の価値観をひっくりかえす、

    この一点だけにかかっている。

     この点があらたまれば、この社会ももっと楽しくなると思うのだが、

    システムは利権とか既得権益、生活とかいろいろ絡まっているようで、

    まったく変わらないようだ。


     日本人の集団主義的な自己犠牲の精神もあらたまってほしい。

     会社や組織のためにいかに自己犠牲を払うかが、

    組織や社会での評価や称賛になってしまっている。


     このような精神構造はなぜ生まれてしまったのだろうか。

     評価のモノサシがなかったからだろうか。

     市場や社会というモノサシをもたない組織は、

    評価を集団への自己犠牲の度合いによって測るしかなかったのだろうか。

     そして長時間会社にいつづけるというしょうもない評価基準によって、

    社員を評価するようになったのだろうか。


     これでは個人に幸福のない集団主義、全体主義の社会になってしまう。

     集団主義というのは平等という考えのために生み出されたのかもしれない。

     みんなが平等であるためには足並みを揃えなければならない。

     そのためにはたえず全体や集団を見渡すことが必要になる。

     こうして全体を第一にした集団主義ができあがる。


     この全体を至上価値にするという志向も、貧しい時代の発想であって、

    全体の経済的成長が個人の幸福につながるという考え方のたまものだ。

     全体がランクアップしようという時代にはよかったのかもしれないが、

    おおくが豊かになった現在、集団の自己犠牲はあまりにも時代遅れだ。

     また、じっさいに過労死や管理者の自殺、家庭の破壊、若者の離反などが

    おこっているわけだから、この方向にわれわれの幸福があるわけがない。


     全体や集団のために自己を犠牲にすることが美徳だという考え方は、

    恐ろしいものであり、日本人はその悲惨さを戦時中にたっぷり経験したはずだ。

     それでも全体主義、集団主義の考え方・社会風土はあらたまっていない。

     このような全体主義思想の恐ろしさを、日本人はおぞましいものだと思っているはずだ。

     しかし現在でも会社組織はそのような精神構造をもったままだ。


     なぜ、この全体主義的志向はなくならなかったのだろうか。

     戦前の日本を戦争にみちびいたのは、この全体主義的思考ではなかったのか。


     戦後の復興期には、みんなで経済を立て直そうという一致団結した目的が

    あったからかもしれない。

     高度成長期には会社の成長と自分の給料・社会的地位の上昇がぴったりと重なった。

     だがそれ以降、全体と個人の利益というのはどんどんひき離れていったはずだ。

     若者は会社を大きくすることや上のポストをめざすことより、

    消費やレジャー、旅行などの個人的幸福に生きがいの目的をスライドしはじめていた。

     それでも現在の企業組織には、組織のための自己犠牲が厳然といすわっている。


     個人ははるかべつの方向に走り出してしまったのに、

    組織や国家といった集団はあいかわらず、むかしの集団的拘束を維持しつづけている。

     なにがこれに歯止めをかけているのか。

     なぜ組織は新しい時代にあった風通しのよいものに変化できなかったのか。


     成功者ゆえの失敗に気づかなかったからだろう。

     日本の組織は世界に名だたる経済的成功を収めたばかりに、

    時代の変化に気づけなくなってしまっている。

     底流として変化しつづけた社会精神を認めることができなかったのだ。


     あまりにも成功しすぎた日本的組織は、自己の方法――集団の自己犠牲を

    あまりにも美化しすぎてしまったのだ。

     時代が変わり、うまくいかなくなれば、ぎゃくにますますそれを強化する方に走る。

     うまくいかないのは、自己犠牲や精神的努力がたりないのだという思考に走る。

     思考のフレームを反省してみることは、だれだってむづかしい。

     こうして集団主義・全体主義の思潮は、戦前と同じくますます激しくなり、

    多くの犠牲者を生み出すにいたる。


     いま、日本はこの段階で迷いに迷っているようだ。

     成功者ゆえの失敗は、堺屋太一が『豊臣秀吉』の生涯で描いたように、

    どうもその走り出した方向に歯止めをかけられないようだ。

     日本経済をたちあげ、成功してきた経営者たちが、

    新しい時代には、時代に適応できない悪役になるとは思いもしないのだろう。

     こうして成功者をパージできない社会は、若者に多大な犠牲を押しつけつづけ、

    将来の日本社会に大きな惨禍をのこすことになるだろう。


     たしかに組織が変わるということはむつかしい。

     部下は上司を批判するのはむつかしいし、衝突すれば出世や自分のクビが危うくなる。

     上司の権限や権力はどこからも修正も変更もされないだろう。


     ただそういう組織はいつか市場や社会状況にNOをつきつけられるときがきっとくる。

     権力や権限をふりまわして守ろうとしても、もう守られはしないだろう。


     日本というのは、下からの批判や改善力というのがひじょうに弱い。

     なかなか変わることができない。

     年齢が上のほうが無条件にエライという年齢主義的な考え方があるからだろうか。

     歳をとったらエラくなるというのは科学的に実証されるなんて思いもしないが、

    この日本では学校のときから先輩をタテるという慣習を徹底的に叩きこまれる。

     こういう精神風土があんがい、日本の変わりにくさを拘束しているのかもしれない。

     おかげで中高年の転職はひじょうにむづかしいから意地でもひとつの会社にしがみつき、

    それゆえに衰退産業から成長産業への人材移転がひじょうに阻まれる。

     日本社会が淀んで閉塞しているのは、このことにも原因がある。


     まあわたしは自己犠牲を強いらない、集団主義的思考のない社会になってほしいと

    思っている。

     もっと個人の自由や幸福、気ままさや安楽といったものを大事にしてほしいと思う。

     そんな自分勝手な、利己主義的な人間ばかりになったらどうするのだ、

    と人は目くじらを立てるかもしれないが、それこそが全体主義的な発想だ。

     全体主義の悲惨な歴史、過労死や個人の幸福のない社会などというのは、

    集団のために自己犠牲を強いた社会のとうぜんの帰結なのだ。

     たしかに利己的な人間が社会を混乱させる心配もあるが、

    これまでの集団主義的な社会がかならずしも個人の幸福を用意したとはとても思えない。

     ともかくわれわれはこの精神風土から離れる必要があるのだ。

     それがどのような結果になるかは、とりあえずオリの外に出てみないとわからない。


     利己心が肯定された社会というのはマンデヴィルが考察したように、

    あんがい社会的発展をうながすものであるわけだ。

     自分を楽しめない人、守れない人が、ほかの人を守れるわけがない。

     利己心を否定する人は、集団主義的な思考のうえで利益を得てきた人、

    既得権益がある人なのであり、抑えつけていたほうがおトクなのだろう。

     正義や正当的な論理というのは、その人の「利益」と言いかえるほうがいい。


     全体を心配し、配慮するという思考は、かつて美徳であったかもしれない。

     そのような考え方は6、70年代に学生と政府との衝突をまねき、

    それ以降の若者は全体の向上を否定し、社会を無視し、自分ひとりの幸福に向かった。

     暴力的に衝突したり、戦争に走るようでは、個人の幸福に戻ったほうがいいだろう。

     若者はそのように変動していたが、企業組織ではあいかわらず、

    集団への自己犠牲的精神が花開いたままだ。


     この世代間のミスマッチ、ギャップはなぜ埋まらないままなんだろうか。

     全体のために自己を犠牲にする生き方は、もう若者には信じられない。

     また人生を生きる意味や幸福の価値という意味でもおぞましいものにしか感じられない。

     このままでは、若者がのぞむ生き方と社会組織のあり方は、

    ますますミゾを広げるだけだろう。

     なぜ変わらない、なぜ全体主義的思考はあらたまらない?


     個々人の意識変革と社会意識の変革がもとめられる。


     会社への精神的隷属といった関係もあらたまってほしい。

     われわれはあまりにも会社の精神的奴隷になり過ぎている。

     新興宗教に隷属する人たちはおぞましいものと思っているのに、

    なぜそれとそっくりな会社への精神的隷属を忌まわしいものと思わないのだろうか。

     個人が会社集団や組織にたいして、もっと強くなれる社会をのそむ。

     全国家的に個人より法人が優遇される制度・司法判断などがあるためと思われるが、

    これでは北朝鮮のマインドコントロールされた国民となんら変わりはない。

     もっとはやくマインドコントロールが解けるようになってほしい。


     画一的・無個性な人間をよしとする社会風土もあらたまってほしい。

     どうも日本では人と違ったことをすることが徹底的に叩かれるようだ。

     とくに現代ではTVメディアの流行と違ったことをしようとすると、

    徹底的に叩かれる。

     TVメディアを「神」の存在までひきあげ、神のいわれるがまま、なされるがままに、

    従う若者や人々があまりにも多くい過ぎる。

     もうすこしTVメディアをシラケた目で見たり、醒めた目で見る必要がある。


     TVが「神」であってよいものなんだろうか。

     情報や知識というのは、だれの所有物でだれの言い分でだれの利益なのか、

    わかりにくいところがある。

     知識というのは、身近な知人の意見に感じられるように、偏見とか悪意、

    自分の立場・利益などのひじょうに狭い視野のうえに語られるものだ。

     それはどんなエライ学者であろうと知識人であろうと、TVメディアであろうと、

    変わりはない。

     とくに学者とかになると無意識の前提条件がきれいさっぱり忘れ去られている。

     それが人間の限界であり、社会や時代に規定された人間の限界だ。

     われわれはどのような知識・情報も、それを発信する人の利益とエゴと、

    まったく無関係ではないということを心に刻印しておくべきなのだ。

     さもないと他人の利益やエゴにまったく気づかないでそのとおりに行動させられる、

    あわれなあやつり人形に堕してしまうだけだろう。

                    

     いじょう、わたしがのぞむ生き方や社会についてざっと素描してみた。

     わがままや身勝手すぎるという思いが自分にもないわけではないが、

    これらはいまのあまりにも全体主義的な社会からくる反動なのである。

     自己を犠牲にして社会のために奉仕するという精神は、

    戦争時の全体主義国家を思わせて、あまりにも恐ろしすぎるものに感じられる。

     われわれはそのような教育をうけてきて、全体主義志向を忌避してきた。


     だが社会に出るとまさに嫌悪されてきた全体主義的な組織が満ち満ちている。

     このような形態はもう時代の流れにそぐわないし、

    個人主義的になった若者にはあまりにも耐えがたいものだ。


     個人の幸福が集団や組織のために犠牲にならない社会が、

    もっとはやく実現してほしいと思う。

     仕事や会社に一生拘束されることがまともな人間だという考え方は、

    長い歴史のなかでは、少数に属する異常で奇形的な考えだ。

     個人が犠牲になる社会に個人の幸福はないし、ゆえに社会は幸福ではない。

     考えなおしてほしいと思う。



    Thinking Essays



   「会社」という日本人のただひとつのよりどころ


                                               1998/3/4.




    日本人のだれもがバカのひとつ覚えのように「よい学校、よい会社に入れ」という。

    ほんとうにだれもがその言葉しかいえない。

    バカを通り越して、ほとんど「ブッ壊れたテープレコーダー」なみだ。


    親や大人はそのことばだけをくり返すだけだ。

    ほかのアドバイスがなにひとつ言えない。


    わたしが20代にフリーターをやっているときには、

   会社のだれもかれもが「定職につけ」としかいわなかった。

    そういうしか会話が成立しないのだ。

    なかには怪訝そうになぜかと心配げに追究するような人もいたが、

   たいがいの人には理解を絶することのようだった。


    むろん若い人はだいたいは察しがついていたと思う。

    もうクソまじめな会社勤めなんかやり切れないという意識が、

   暗黙の了解として若い人にはあると思うのだが、

   この会社中心社会はまず変わるわけがないとあきらめている。

    おマンマの食いっぱぐれはたまらない。


    人間は学校を卒業すれば、会社に就職するのが「当たり前」だ――、

   それ以外の生き方はないのだ、という常識がこの社会を覆っている。

    強固な思いこみが、厳然とだれもの頭の中に植えつけられている。

    この思いこみは一家に一台はかならず行き渡っている。

    TVや電話以上に個々人の頭の中にすえつけられているようだ。

    電波工事や電話回線の工事の人が、頭にコードをすげつけていったのだろうか。


    ここで考察したいのは、なぜこのような考え方が人間以前の条件として、

   この社会に巣食っているのか、あるいはなぜほかの生き方が提示、承認されないのか、

   といったことなどだ。

    この考え方が歴史的にどのようにできあがっていったかということの、

   源流にさかのぼって提示できれば、かなりこの考え方が比較的最近にできた常識だ、

   ということがわかると思うが、そのような実証は学者の人におまかせしたい。

    昭和初期までほとんど農業国だったから、戦時中の総動員体制、

   高度成長期にかたちづくられた――つまり多くは戦争のための製造品だと思うが。


    この日本社会は、会社に属することでしか、一人前の大人として承認されない。

    会社の「所属」というモノサシしか、評価基準を与えられない。

    ともかくどこかの会社に属しさえすれば、それでよしとする基準があるだけだ。

    恐ろしく単細胞で、単純な基準しか、日本人は持ち得ていない。

    日本人にのこされたゆいいつの承認は、ただ会社所属だけだ。


    この恐ろしいまでの単一価値観はいったいなんなのだろうか。

    ただ会社に属するだけが、日本人のゆいいつの世間に認められるためのスタンプに

   なってしまっている。

    なぜこんな愚かなモノサシでしか、人を承認できなくなってしまったのだろうか。

    まあ人は単純化するほど、ものごとを理解しやすくなるわけだし、

   紅白対戦とかの単純化の極みほど、ひとびとを団結させて奮い立たせるものはない。

    戦争では「正義の陣営」と「悪の権化」といういつもの常套手段の図式で闘えば、

   多くの人が心情的に参戦できやすくなる。

    資本主義VS社会主義という図式も(区別できないほど複雑で入り組んでいるが)、

   これほどひとびとの理解を助けるものはない。

    そのようなかんたんな図式で、会社に所属するという承認基準は、

   冷戦構造下の社会と、近代化経済社会のなかにおいて、

   有効な目印として働いてきたのだろう。


    会社に所属することが――とくに大企業に所属することが、

   世間に認められるゆいいつの基準になった。

    この世間ではほかに承認される基準・モノサシがまるでない。

    超かんたん図式、ヒサンなくらい貧困なモノサシでしか、人を評価できない。


    だからだれもかれもがそれを「よい学校に入って、よい会社に入って……」

   ということばでしか、いいあらわすことができない。

    それ以上はなにもいえないし、そこに入ったからどうなるとかはいえない。

    「生活が安定するとか、福祉がととのっている」とかいろいろ言われるが、

   これはおそらく後からとってつけた屁理屈であって、

   所属することでしか人間として認められないということをいっているのだと思う。


    なぜ集団や組織に所属することでしか、日本人は評価できなくなってしまったのだろうか。

    日本人はそこまでしか成長していないからだろうか。

    承認とか評価のモノサシが、まるで生育していないのだ。

    上からの西洋近代化を吸収することだけで精いっぱいで、

   とりあえずは組織とか集団にほうりこんでおれば、近代化のお墨付きはもらえる、

   ということで日本人は満足してきたのだろうか。

    組織とか集団はとりあえずは近代化を推進しているし、

   お国のために役立っているし、お国のお墨付きがもらえる
、ということで、

   日本人は評価のモノサシを所属というかんたんな目印においたのだろうか。

    組織にほうりこんでおれば、人はたえず監視の目にさらされて、

   悪いことも不謹慎なことも怠惰なことも、それが即クビや評価につながるから、

   みずからつつしんでやらなくなるわけだから、

   これほどまでによい人物測定装置、人格矯正装置はない。

    そういう測定や評価の機会をすべて、組織のなかで済ませようとしたのだろう。

    なるほど、秩序や安定を保つにはよい治安装置だ。


    だが、勘違いしてはならない。

    会社組織が測定できるのは、会社の利益や仕事に貢献しているか、

   時間を規定どおり守っているか、職務や上司に忠実か、といったことだけなのであり、

   会社の論理や利益至上主義、金儲けの価値観だけを絶対化してしまう。

    つまり社会や共同体の価値観をブッ蹴散らしてしまうわけだ。

    社会にとっての倫理とか道徳なんか育つわけがない。

    会社組織に所属するだけでゆいいつの価値基準なら、

   会社の金儲けの価値観・論理だけがまかりとおってしまう。


    日本人は会社の所属というモノサシだけで、人々を承認してきたわけだが、

   これほど無責任で、無知な評価基準はないだろう。

    なぜならそれは会社の金儲けの論理だけを絶対化する人間を、

   つぎつぎと再生産するだけだからだ。

    ともかく会社にほうりこんでおれば、まじめで優秀な勤め人だという神話は、

   会社のために犯罪を犯す、利益のために顧客や従業員の利益や命を犠牲にさらす、

   といった最近の企業不祥事によってあからさまにされた事例が示すとおり、

   とてつもない犯罪や罪悪をまきおこすだけではないだろうか。


    どこかに所属するだけで世間の承認が得られるというバカな常識は、

   もう葬り去るべきではないのだろうか。

    日本人は怠慢だったからか、会社に所属することだけを世間の承認の

   ゆいいつのモノサシにしてしまって、会社の金儲けの論理だけを絶対化する人間を

   大量に生み育ててしまっていた。

    公害がおころうが、薬害エイズがおころうが、土地価格が暴騰しようが、

   総会屋への利益供与がおころうが、官僚への賄賂がおころうが、

   日本人はあいかわらず、組織に所属することだけを承認のモノサシにしている。

    世間が所属の承認しかできないために、

   このような個人や国民を犠牲にした企業犯罪がおこってきたのではないのか。


    このような犯罪団体に仕立て上げたのは、だれなのか。

    まさに会社にほうりこんでおれば安全な人間だと思い込んだ、

   世間やわれわれの常識や貧しいモノサシではないのか。

    もう会社の所属だけでまともな人間だと評価できる時代ではないのだ。


    所属だけを承認するモノサシはおおくの苦しみを与えてきた。

    一生をひとつの会社に縛りつけられるということは想像を絶する苦しみだと思うし、

   その苦しみや痛みから逃れられないし、たまたま性の合わない企業に就職したばかりに、

   一生を負け犬や敗残者の気持ちで過ごさなければならないかもしれない。

    大企業や有名企業に勤めたからといって、その本人は幸福になるとは限らないのだが、

   まわりや世間の人にはその苦しみが理解を絶することのようだ。

    ブランド企業をやめれば、世間はバカ面をさげて疑問を呈するが、

   勤めている当人にとっては、その毎日は地獄のような日々だったかもしれない。

    学校の不登校する生徒だって同じ気持ちをもっているのだろう。


    日本人は会社に入れば幸福になるという、女性でいえば「結婚すれば幸福になる」と

   いったバカなシンデレラ・ストーリーと同程度の理解力しかもっていない。

    いまだに多くのドラマや物語は結婚してハッピーエンドという結末で終わるが、

   その後のほうが長い人生が待っているのにこれで終わりというのは、

   なんだかそれ以降の人生はこれまでの幸福の残りかすをすするしかないというのか。

    この女性の結婚と男の就職はみごとに重なり合っていて、

   ヴァージョンは違うが、中身はまったく同じものだと思う。

    物語は結婚(就職)するまでで、それ以降のことは語られない。

    大人が子どもたちにバカのひとつ覚えのようにいう「よい大学に入って、よい会社……」は、

   いい男を見つけていいだんなと結婚してハッピーエンドという結末と同じだ。

    そして世間はこの物語どおりの人生がよいものだと思い込んでいる。

    われわれはこのような物語を親からおうむのようにくり返し聞かされてきたことだろう。


    この絶望的なまでの貧困な世間の人の想像力はなんなのか。

    おそらく会社というのはあまりにも数多く無数に存在するために、

   われわれの想像力は間に合わないということではないのか。

    いろいろな無数の会社を想像できないのだ。

    業種も仕事の内容もあまりにも違うために、かんたんな図式で会社をくくれない。

    そういうことで会社をぱっと見た程度のイメージでしか思い浮かべることができない。

    シンデレラ・ストーリーのような類型化された物語はもう描かれないから、

   もう物語や想像力はそこで停止してしまって、共通の体験を共有化されるところまでで、

   物語はすべて終わってしまう。

    世間に用意された物語はそこまでであって、それ以上の情報は世間に共有されない。

    ほんとうの物語はここからはじまって、人々にとってはここからの物語を

   もっと知りたいと思うのだろうが、残念ながら世間との共有体験はここまでだ。

    個別的に問題をとらえ、問題に対処し、解決してゆかなければならない。

    つまりシンデレラ・ストーリーはもう役に立たないし、クソにもミソにもならないということだ。


    シンデレラの夢がかなって会社に就職すれば、とりあえず世間は認めてくれる。

    これまでは物語はそれですんだ。

    だが人生はそれですむわけがない。

    願いがかなったシンデレラはどんなつらい思いや辛苦をなめるかわからない。


    「所属=幸福」という図式はもう描けなくなった。

    女性でいえば離婚はどんどん増えているし、所属のもとになる家族という枠組みは、

   骨のないクラゲのように波間に溶け去ろうとしている。

    男性でいえば、会社という組織は右肩あがりの成長神話の崩壊、リストラ、

   少子化によるピラミッド構造の崩壊、忠誠心の衰退、若者の個人主義志向などによって、

   この組織も、撮影スタジオの表面だけのセットになろうとしている。


    なにが起こっているのか。

    これはまさしく近代化の終焉という事態にほかならない。

    近代化――それもあまりにも急激な近代化のためにたちあげられた組織や家族が、

   このあまりにも近代化に傾斜し過ぎた組織家族形態がぼろぼろと崩れ始めているのだ。

    日本というのはあまりにも急激に近代化をおしすすめたために、

   組織や家族がその目的だけに編成され、再編されすぎた。

    近代化の終焉という気配を察した鋭い人たちはぼろぼろと脱落していったが、

   多くの人はこの近代化の終焉という事態を明確にとらえようとしない。

    おそらくそのために失ってきた大きな深淵をのぞきこむのが恐いのだろう。

    われわれ日本人は、東欧のオリンピックに勝つためだけに育てられた、

   哀れな体操選手の少女のように、いびつに偏って成長してきたのだろう。

    「戦争の犬」といってもいいし、ある用途のためだけにつくられたサイボーグみたいなものだ。


    この近代化の終焉という事態をわれわれは受け入れるにいたっていない。

    その役割がもうすでに終わってしまったということを認めようとしない。

    だれもがそれに代わる価値観や目標を見つけられずにいるからだろう。

    そしてこれまでどおりの価値観や目標になにもなかったようにしがみつこうとしている。

    死んでしまった亡骸をいつまでも抱きしめて離せない。

    日本人には近代化の終わりという「悲哀の仕事」が必要である。

    みんなでその悲しみをのりこえないと、これまでの抜け殻にしがみつくだけだろう。


    われわれはなんのためにがむしゃらに働いてきたのか、わからないところにいる。

    なんのためにこんなに一生懸命、会社のために働いてきたのかわからない。

    それでもこれまでと同じようにまじめに働くことだけをつづけようとする。

    働くことはなにかの目的を達するための手段であったはずなのに、

   いつの間にかそれが自己目的化してしまい、自動的にそれを継続しつづけている。

    社会も組織も家族も、承認の形式もその時代の枠組みのままだからだ。

    その終わってしまった拘束着だけがわれわれを絞めつづけている。


    子どもたちはこの拘束社会の役割が終わったことに敏感に気づいている。

    それでも大人たちはそれをやめようとしない。

    それをただ「よい大学に入って、よい会社に入って」ということばであらわすしかできない。

    それがもう「幸福のサクセス・ストーリー」として、

   通用しないということに気づかないのだ。

    このボンクラ頭の大人にそれを気づかせるためにはショック療法しかない。

    犯罪を犯す子どもたちがなぜ変わらないのかと他人事のように悩むのではなく、

   自分たちこそが「変わらなければ」ならないことに気づくべきだ。

    身近なことでもそうだが、他人を変えようとしても不可能で、

   まず自分が変わらなければ、相手は変わらない。

    相手の態度や言動を規定しているのは、まさに自分自身の態度だからだ。


    いまの社会や会社はあまりにもつまらなさ過ぎる。

    西洋近代化という楽しい目標♪があったときにそれはそれでよかったかもしれない。

    しかしその楽しい目標が溶けてなくなったとき、そのつまらない、

   人々を拘束し、針のむしろのように刺す枠組みだけがわれわれを絞めつけている。

    楽しい目標がなくなったのにそのしょうもない枠組みだけを守る大人は、

   楽しみや喜びをいっさい排斥したゾンビの群れにしか見えない。

    大人たちは終わった抜け殻にいつまでもしがみつくゾンビなのだ。

    魂のないゾンビになった大人たちに子どもたちが耳を貸さないのはとうぜんだ。

    かれらは振り子時計のようにいちどセットされた永久運動をつづける、

   パブロフの犬にしか見えない。


    村上龍は自分個人の目標と価値観を見つけるしかないという。(『寂しい国の殺人』)

    それもそのとおりだと思うが、社会や会社はわれわれ個人の幸福や楽しみを

   確実に剥奪するように機能している。

    このカッティング・マシーンを止めないことにはおちおちと楽しみを見つけることなどできない。

    日本社会と日本の大人は変わらなければならない。


    個人の楽しみと喜びから出発した社会をつくりなおさなければならない。

    これまでの社会はどうしたら国民すべてが飢えずに食べることができるか、

   どうすれば自国の通貨が世界に通用するものになるかという目標によって、

   組み立てられていた。

    だから個人の楽しみや喜び、幸福といった要素は、完全に排斥されてきた。

    そのためにとてつもなくしょうもない不倒の社会をつくりだしていたのだ。

    つまらなさにかけては天下一品の芸術作品なみの完成品だ。

    抜け道もない、寄り道も息抜きもできない、超拘束社会になってしまっていた。

    このつまらない社会を変えるには、自分たちのつまらない姿を鏡でじっくりと

   観なおして、自分のつまらない毎日にしっかりと気づかなければならない。


    楽しみや喜び、おもしろさをインフラストラクチャーにした生き方を

   つくりなおしてゆくべきなのだ。

    社会を変えるにはまず自分たちがおもしろさを見出してゆくしかない。

    自分の価値観や目標を見出してゆくしかない。

    社会が変わってゆくのを待っていたら自分の人生を棒に振ることになってしまうので、

   そんなとろい世の中を待っているより、自分の楽しみを見出すことを率先するべきだ。


    もう社会や国家に期待をし、期待を押しつける時代は終わった。

    自分の足元から、楽しみや喜びを見出してゆくしかない。

    そんなかんたんなことではないと思うが、とりあえずは自分の人生を棒に振らないよう、

   走り出すしかない。

    政治や官僚なんていうのはわれわれの感覚から10年も20年も遅れている。

    そんな図体の大きいでくの坊なんか待っていたら、自分の人生が枯れてしまう。


    ただ社会と衝突してしまうようでは楽しみが相殺されてしまうので、

   そこらへんの兼ね合いはひじょうにむつかしいと思うが。




    Thinking Essays



    ビッグ・バンが必要なのは国営品の人生だ


                                                1998/3/8.




     10数年前の東欧の四角い車を覚えているだろうか。

     世界に受け入れられていた日本の洗練された車に比べて、すごく古くさく感じたものだ。


     しかし日本人の人生は、あの東欧の車のままであちこちを走り回っている。

     つまり選択肢のまるでない「国営品」の人生のまま、生きている。


     われわれ日本人がなにげなく生きている当たり前の人生コースというのは、

    まさに国営品のほかにまるで選択肢がない国の専売品ではないだろうか。


     いい学校に入って、いい会社に入ってという人生しか選択肢がない。

     まったくほかに生きかたがなく、ひとつも選べもしない。

     これが国営品の人生ではなくて、なんといえるのか。

     こんな古くさい、時代おくれの選択肢でしか生きられない人は、

    社会主義国の国営企業の「同志」でしかない。


     そう、われわれは社会主義の国営品の人生を生きているという事実に

    気づかなければならない。

     人生にまるで選択肢がないというのは、まさに社会主義国家ではないだろうか。


     いまビッグ・バンが必要なのは金融業界だけではなくて、

    まさにわれわれの人生ではないだろうか。


     このような目で見てゆくと、金融業界の護送船団方式とか、

    官僚への接待・癒着といった問題がとりざたされているが、

    これはかれら金融業界だけの問題ではなくて、まさに日本人ひとりひとりにも、

    直接につきつけられている課題なのではないか。

     これはまさにわれわれ日本人個人個人の生き方が問題にされているのではないか。


     われわれ日本人の人生も、官僚や政府によって守られてきた。

     自分の勤めている会社や業界などの保護や規制、または学校や教育、

    老後保障や健康保険など、国民への多くの護送船団方式があった。

     もちろん個人には犠牲を強いられたり、ある産業だけが優遇されたりと

    いろいろ不公平や腐敗の極みがあるわけだが、われわれ国民はなんらかの恩恵を

    かれらから受けてきた、あるいは期待してきたのではないだろうか。


     そのような保護がとりはらわれようとしているのが金融業界であって、

    あのドタバタ汚職劇は、もし国民の人生も自由化されたとするなら、

    あんなふうにみすぼらしくバタバタと悲喜劇をくりひろげるかもしれない。

     もしあなたが急に明日から政府のかずかずの保障がなくなる――

    年金も医療保険もなし、学校もなし、となったら、どう対応するだろうか。

     国民の特権を利用して、政府パッシングの世論をまきおこし、

    最終的には、ワイロとかの罪でひきはなされることになるかもしれない。

     そこまで金融にしろ、国民にしろ、政府と癒着してきたのだ。


     もし政府の保障がない個人の自由化・ビッグバンの波がやってきたら、

    たしかに不安なことかもしれない。


     だが若者や新しい世代はこれまでの国営品の人生や組織というのは、

    どんどん息苦しく、やりきれなく思うようになっている。

     人生を幼少期から老後まで、だれかに一生を拘束されてしまうからだ。

     また中古品の着古した人生しか送れない。

     これはたまらない。

     ものすごく息苦しく、不幸なことだ。

     なぜならたったひとつの選択肢しかない人生なんて、

    人間として生きるうえでの自由がまったく存在しないも同然だからだ。

     生まれながら、監獄の鎖につながれているのと同じだ。


     かつての人たちがもとめた保障や安定はぎゃくに、

    子どもたちをその誕生時から鎖につなぐ監獄にしかなっていない。

     むかしの人が必死になってもとめたかずかずの保障が、

    まさか子どもたちにどんな苦しみと足カセを課しているのか理解もできないだろう。

     政府から保障や安定をあたえられることはとてもすばらしいことと思っているからだ。

     だが、親たちが安心して赤ん坊を入れたベビー・ベッドは、

    赤ん坊自身には煉獄のカマドになっている。


     けっきょく、政府の保障する条件というのは、

    政府の指定するコース――よい学校に入って、よい会社に入って――

    でしか得られない。

     そうするとますます競争と息苦しさがあいまって、脱落者が増えてゆく。

     登校拒否や学校中退の増加はこのことを現わしているのだと思う。


     また政府の保障の意味も、国民が豊かになるにしたがって、

    その存在意義も失われていった。

     もう政府が保障しなくても、国民は豊かな生活を送れるようになっている。

     そんな時代に政府の保障をもとめて一心不乱によい学校やよい会社をめざせ、

    というのはあまりにもムリがありすぎる。

     こんな時代に政府の国営品の人生は、あまりにも窮屈で古くさすぎるのだ。


     電化製品や車、ファッションなどの商品はいくらでも選べるのに、

    人生となるとたったひとつの旧弊な中国人のような国民服しかないというのは、

    あまりにもギャップが大きすぎ、バカらしすぎる。

     商品でこんなに選りどりみどりに選んでいる国民が、

    たったひとつの人生コースしかないというのは、どこかおかしいと感じるだろう。

     男は会社に一生釘づけ、女は家庭に一生釘づけ、得られるのはおもちゃだけ――

    なんかおかしいなぁと感じずにはいられないだろう。

     まだその不満が明確な意識になっていないだけだろう。

     国営品の人生の役割はもうすでに終わっている。


     なぜこんなに国営品の人生が、ここまで一国のほとんどの人に

    課せられるようになったのだろうか。

     国営品の人生が、社会で生きるためのゆいいつのパスポートになってしまっている。

     だから学校というのはひじょうに苦しい空間になっている。


     国家というものがものすごく信頼されてきたのだろう。

     国家のお墨付きをもらってはじめて、社会でよい職を得る権利を得られる。

     狭き門と国民からの信望がひとつになって、

    国営品の人生は多くの人が得ようとするチケットになった。

     国家の信頼が絶大な時代だったのだ。


     国が選別する人間を企業は競って採用してきた。

     それだけ国のお墨付きが信頼されてきたのだろう。

     だが学校が選別するのはペーパーテストのよしあしだけだった。


     実社会の技能を必要とする企業はおおむねその選択基準を採用した。

     国の威力がこの社会すべてに浸透している。

     この国は社会主義の国ではないのか。


     われわれ国民にしても、あまりにも政府を信用し過ぎる社会主義国の人民みたいだ。

     国の選別や国が与えること、国の要求などにあまりにも素直に応え過ぎる。

     国営品の人生になんの疑問も抱かないばかりか、ますます希求する方向に走る。

     みんながみんな国のお墨付きをめざして、かけ馳せ参じる


     社会の現実が厳しかったり、自分ひとりの力で食べてゆくのは、

    たしかにむつかしいことかもしれないが、自分ひとりの力でやっていこうとか、

    自分の生きたいように生きるとか、生き方の選択とか、

    みずからの気概といったものがまるでない。

     ますます依存したり、順応する方向にばかり向かう。

     ほんとうにこの国の人たちは大丈夫なんだろうか。

     白状すれば、わたし自身もそんな自立的な生き方ができるとはいえないが、

    横ならびとか大勢順応主義とか、寄らば大樹の陰のような生き方はしたくないと思っている。

     不様だし、なさけないし、みっともない

     でもこの国の人はほとんどそう思わないらしい。

     神経が麻痺しているのか、そこまで飼い慣らされたのか、

    それとも依存が国民のとうぜんの権利だと思っているのだろうか。


     でも国家と国民が相思相愛の時代はもう終わった。

     このような国民を保護し、生活を保障するようなやり方は財政を破綻させるし、

    保護政策は産業の方向がすでに決まっている時代にだけ有効な方法だし、

    この政策のバックボーンとなった社会主義国家は崩壊した。

     時代の流れがすべてこれまでの政策と衝突するようになっている。

     もうこのような依存と甘えの世界を形成することは、

    世界の流れからいってもう不可能になりつつあるのだ。

     ヨーロッパの真似とうしろをついてゆくだけでよかった近代化の時代は終わった。

     またヨーロッパとアメリカもこれからの方向を手探り状態だ。

     世界的に社会の意識はひとつの踊り場を迎えている。


     日本はこれまでで守られてきた世界から、

    自分の足で歩き出さなければならない。

     もう手本を示してくれるランナーは見当たらず、そうするしかないのだ。

     なさけない話だが、日本ははじめて大人の段階に踏み入れたのだ。


     国営品の人生というのは、子ども向けの「乗り物」だったのだろう。

     どこに行ったらいいかわからない、なにをしたらいいのかわからない、

    どう生きればいいのか教えてもらわないとわからない――そういった人たちのための、

    時代に適したひとつの羅針盤だったのだろう。


     でももうどこにもその羅針盤はない。

     また、選択肢のない国営品は新しい世代には大きな足カセとなってきた。

     若い世代には国営品の人生はジャマものになり、不要なものになりつつある。


     この国営品の人生をゆいいつの人物評価の基準にしている上の世代は、

    もうこの絶対化された基準を打ち破るのはむつかしいかもしれないが、

    若い世代はこの基準に縛られず、自分独自の人生を切り開いてゆくべきだ。

     この国営品の人生から脱け出せば、古い社会からはなかなか受け入れられない

    かもしれないが、自分の人生を生きたいと思った若者たちはどんどん自分の人生を

    切り開いてゆく努力をしてゆくしかない

     世の中はひじょうにゆっくりとしか変わらないかもしれないが、

    世の中はたぶんこの方向に変化してゆくだろう。

     国営品の人生は、エリート神話の崩壊とともにどんどん値を落としてゆくだろう。


     戦後の民営化は、JR、JT、NTTとおこなわれ、最近は金融業界(?)の民営化が

    おこなわれているが、日本人の人生の民営化と自由化はいつおこなわれるのだろうか。

     国民自身がまだまだ望まない?

     選択肢と自由と望みのない人生がそんなにいいのだろうか?

     安定の代償が、つまらない人生の鎖というのはあまりにも高すぎる。


     ビッグバンが必要なのは、まさにわれわれ自身の意識ではないだろうか。




      Thinking Essays



    見えない規範、見えない言葉のタブー


                                               1998/3/13.



    この国ではどうも「言葉」というものが意味をなさないようである。

    言葉でいわれることがなんの実行力もないし、真実は語られないし、

   ほんとうの社会のあり方や規範といったものが言葉で語られることもないし、

   対話や議論、論理といったものが成り立たない。


    このエッセーでは、ダブル・スタンダード――見えるルールと見えないルールについて

   語ろうと思うのだが、「規範」というものはひじょうに捉えにくい。

    見えない規範と語られない社会の姿といったものが整理できていないかもしれないが、

   ともかくわたしの捉えられる範囲で語りたいと思う。


    言葉はあらゆるところで禁忌されている。

    ほんとうの規範のありかたは明示されないし、

   批判や改善の要求が口にできないようになっている。


    日本には積極的な規範がなく、消極的な規範しかないといわれる。

    「これをするな」「あれをするな」「こんなことをすれば、だれだれから嫌われる

   といわれて、「こうしろ、ああしろ」という積極的な規範がない。


    日本人がいちばん怖れるのは、人々や世間から「恐怖の対象」と見られることだ。

    人々から恐れられることを極度に怖れる。

    「犯罪者」や「精神病者」、「貧乏な人」といったものに見られることを極度に怖れる。

    これらはほとんどTVニュースなどから与えられるわけだが、

   この恐怖をもよわせる映像が、日本人の絶大な消極的な規範となっているようである。

    あまり表立ってこのことが指摘されることは少ないと思われるが、

   このTVニュースのオソロシイ人たちに見られたくないという消極的な精神は、

   いわゆる「空気」となってのちのちの社会ムードをずっと拘束するようである。


    この30年ほどは全共闘とか赤軍とかのテロ化による恐怖がわれわれを捉え、

   すっかり政治や哲学について語ることがタブーになってしまった。

    そのためにみんな「ネアカ」と「根バカ」になる消費ブームがもたらされた。

    そのあいだには「犯罪を犯した人物像・経歴・精神病歴」などにたいする恐怖が、

   規範をかたちづくっていたりした。

    つまりTVニュースの映像やその世論が規範を下支えしていた。

    連続幼女殺人事件はメディアに埋没する若者や社会に強烈なショックを与えた。


    しかしオウム事件や「女子高生ブーム」あたりから、嫌悪されるべき対象が、

   ある特定の人たちには、憧れられる対象に変わってきた感がある。

    現在の中学生たちのナイフ殺傷事件などの報道は、

   逆にかれらの行為をますます煽っているかのようになっている。

    一度そのような方向に火がつけば、「みんながやるものは自分もやらなければならない」

   という集団主義的傾向をもつこの社会ではますますエスカレートするばかりだ。

    メディアがブームばかりか、規範までつくりだしている。


    この日本社会では規範やルールというものが明確に口に表されない。

    日本人を律している規範がほとんど語られず、的はずれで、

   どう聞いても規範とならないようなきれい事だけが、表立っていわれる。

    日本社会はほんとうの規範を絶対に口には出さないようだ

    お口をにごして、不明瞭で、抽象的な言葉だけが語られる。


    このお口のエチケットは、「だれも傷つけず、自分も傷つかない」ことが、

   あらゆる行為を支配する公理になっているからだろうか。(中島義道『対話のない社会』)

    「ああいうオソロシイ人にはなってはいけません」とほんとうのルールをエライ人が語れば、

   たちまちだれかが傷ついたり差別発言になってしまうから、タブーになってしまう。

    おかげで、だれもがそれで律しているはずの規範が語られず、

   だれもが聞き流してしまうようなしょうもない訓戒がたれ流されるだけになってしまう。

    坊さんの寝そうになる念仏となんら変わりはない。


    規範が「悪い人」によって組み立てられているため、規範が語られない。

    直接的、具体的に語られないから、お口の規範はどんどん意味をなさなくなる。


    ほんとうの規範を語ろうとしないから、規範がどんどん現実とズレてゆき、

   どんなものなのかさっぱりわからなくなる。

    お口の規範はますますほんとうの規範からズレてゆき、役に立たなくなる。

    日本人は「人と違うことはしてはならない」という至上の規範をもっているのだが、

   口ではみんな「個性だ、多様性だ」と合唱する。

    規範が語られないからか、ともかく「みんながやっていることは安心だ」と

   みんなが流れる方向にいっせいに流れ出すから、その反動だろう。

    この「多数者絶対主義」というのは、そのときのムードに流され、ときには暴走してしまう、

   という恐ろしい性質をもっていたり、その基準がまちがっていたり時代に合っていなくても、

   だれも変更させることができないという退行性をもつ。

    だからだれもかれも個性を主張するのだが、いっこうに改まらない。


    個性的で人と違うことをやろうとすると、たちまち反発をうけるのがこの社会だ。

    口でいっていることとじっさいの行動がまるで違う。

    頭と口だけが先走りし過ぎて、自分の足元をまるで顧みないからそうなるのだ。

    「あれがほしい、これがほしい」とみんなで言いまくるだけで、

   みずからの絡まった足元をまるで見ようともしない。


    言葉の合唱は、この国では暗黙の規範を変える力をまるでもたない。

    坊さんの念仏ほどに意味のない言語に昇華してしまっている。


    言葉がここまで役立たずの骨抜きになってしまったのは、なぜなんだろうか。

    言葉は政治家の街頭スピーカーか、公約なみになっている。

    まあ集団の規範とか力学は、たったひとりの言動ていどでは、びくともしない。

    暗黙のルールのほうが百倍も千倍も強い。

    これは日本社会における個人の無力さにもつながっているのだろう。

    われわれはこの集団の暗黙の規範というものにまったく手をつけられないようだ。


    このびくともしない暗黙の規範は、言葉によって追究されないことからもくるのだろう。

    この社会の実態とか権力構造、差別構造、暗黙の規範といったものは、

   まったく口にされないし、明確にその姿が追究されることもない。


    明治以降の100年以上、たえず西欧というお手本があったから、

   そのお手本を「絶対に正しいもの」として、ただ輸入するだけでよかったからだろうか。

    西欧は「正しい」、「間違いはない」、「うらやましい」といって、

   日本的規格をまるで無視して、西欧的規格の導入がさかんにおこれわれた。

    日本の社会がどのような規範やルールで動いているのかといったことが、

   まるでかえりみられず、ただなんでもかんでも舶来品を上にすげかえた。

    おかげで自分たちがどのような規範で動いているのか、まるでかえりみられない。


    このことが大きな間違いのもとなのであって、まずは自分たちの規範を、

   「遅れたもの」、「古いもの」、「迷信」だとかの断ち切るべきものとしてながめるのではなく、

   まずはそのあり方や効用を検討してみなければならない。

    上から舶来品をむりやり乗せつけても、接合点がまるで見出せないから、

   ひとつも根づかずに舶来言葉が上すべりだけに終わってしまう。

    日常の生活や慣習の接合点がまるでないから、

   舶来品の規範や法律、学問は、われわれ一般人の世界にまったく入り込めない。

    ダブル・スタンダードといわれるゆえんだ。


    まずはじめに「なぜか」といった追究が大事だ。

    なぜこのような規範があるのか、どういう効用・用途があったのか、

   なぜこれまできちんと機能してきて、社会に受け入れられてきたのか、

   そういった追究が必要だ。

    だがたいていの場合、すげかえるべき新しいモデルがすでに西欧にあるから、

   そのような追究なしに新しい首はすえつけられてしまう。

    規範を古い捨てるべきものとしてながめるのではなく、

   まずそのルールがどのようなものか、しっかりと言葉で表す必要がある。

    その作業がおこなわれないと、これまでと同じようにまったく、

   慣習や規範が改まらないままに終わってしまう。


    事件や問題がおこっても、社会の対応は同じだ。

    性急に応急処置をほどこすだけで、すこしもその問題の構造的原因にまで、

   追究の手を入れようとしない。

    口をついて出るのは「対応策」や「改善策」ばかりで、

   どのような生態や風土のうえでその問題がおこったのか、原因の解明がおこなわれない。

    これではまるで足を切ったのに、頭にサロンパスを貼るようなものだ。

    日本人はいつもどこから血が出たのか、なぜ血が出たのか、

   そういった追究よりまず先に口から「サロンパス!」という言葉がほとばしり出る。

    原因の追究――なぜこの問題や事件がおこったのか、

   どのような生態や風土のうえにその問題はおこったのかという追究が必要だ。

    そのあとにはじめて、処置の場所や処置の方法がもとめられるべきだ。

    丸暗記だけで育ってきたから、問題や原因を追究する思考能力が、

   日本人全員に欠けているというのか。

    これらの能力は比較的かんたんに育てられると思うが、

   この社会は既得権益や変化を嫌う体質をもっているからか、

   社会にメスを入れられることをひじょうに嫌う。

    言葉や批判のタブー・禁忌があらゆる人にまで浸透していて、

   そのつぎの行為や行動の抑圧とタブーが社会の隅々までゆき渡っている。


    言葉で語られなければならない。

    問題を発見して、原因を追求し、それを解決する思考力が必要だ。

    でもこの社会は事実を表すことが禁止されている。

    原因や源泉といったものは、集団や組織の恥部・タブーとされる。

    社会に開かれていない。

    そうして問題はいつまでもつづいてゆく。


    これはとてつもなく大きな問題であり、功罪である。

    組織や集団の内部が丸抱えにされ、外部にその情報がひとつも漏れないようにされる。

    組織内部の情報鎖国がこの社会の当たり前の姿だ。


    またこの社会は、情報や知識のライトの当て方がいびつに歪んでいる。

    この社会、とくに企業社会のほんとうの姿といったものがなかなか現れてこない。

    財務状況や企業業績、新製品といったビジネス状況は表わされるのだが、

   人間が住んだり、生きている社会としての企業の姿はほとんど表されない。

    ビジネスは表わされるのだが、人間の営みとしての企業社会といったものが、

   まったくわれわれには知ることができない。


    この社会にはまるで経済学者がいったような経済合理性だけを追究する

   「経済人」という概念しか存在しないというのだろうか。

    人間や社会の営み、住みかといった角度からこの社会がとらえられることはない。

    TVでは新製品、新商品のCMだけが流され、無害で憂さ晴らしだけのエンターティメントや

   バラエティーといった情報だけが、われわれのとろけた脳みそに送り込まれる。

    またTVや新聞では事件や事故だけが伝えられ、

   一瞬のスポットライトが当てられると、その部分もまたもや闇の底に沈殿してしまう。

    TVや新聞といったものはどこを向いているのだろう。

    けっきょくは、カネが得られるスポンサー企業、あるいは権力だけなのだろうか。


    社会のほんとうのあり方や実態、権力構造とかどのような力関係で動いているか、

   といったことがほとんど言葉で表されず、規範も言葉に表されない。

    ほんとうにこの社会はクレムリンなみに重い扉が閉じられている。


    カレル・ヴァン・ウォルフレンの『日本/権力構造の謎』(ハヤカワ文庫)といった本は、

   はじめてこの社会はどのような力関係で動いているのか、はっきり知らせてくれて、

   とても驚いた。

    逆に日本社会の規律や力関係、権力とはこのような恐ろしいもので、

   見えない規律を破ってきたかもしれない自分の姿が恐くなったりもした。

    このような権力構造のあり方が、日本のほとんどの人に――たとえば、

   TVや大勢の人たちが目にふれるメディアに表わされることはほとんどない。

    こういう状態が、日本のマスコミの大きな問題だと思う。


    われわれ一般の人たちは言葉を奪われている。

    いったいだれからというと、むづかしいのだが、

   われわれは批判や疑問を発する言葉を奪われている。

    だれかというと、やはり見えない規範――口にされない裏のルールだと思う。

    批判や疑問を口にすることはタブーだということを、家庭からはじまって、

   学校の教師や先輩との関係、企業での上司や幹部との関係などとにおいて、

   徹底的に叩き込まれる。


    批判や疑問はタブーなのである。

    そしてその問いかけがなければ、思考力が育つわけがない。

    社会はいっこうによい方向に改善されないし、大きな過ちや失敗に気づいたときでも、

   このシステムの方向転換がまるでできないようになっている。

    子どものころから懐疑や疑問という思考力を根こそぎにされれば、

   時代の大きな曲がり角にはいつもみんなでいっしょに共倒れだ。


    懐疑や疑問がタブーになったのは、全共闘や赤軍などのテロ化や過激化などの恐れが、

   政治や哲学について考えることを禁止してきた面もあると思う。

    社会のムードにこのようなものがあり、学校教育では自分の疑問や好奇心より、

   ちっとも興味もわかないような古い学問知識を徹底的に暗記させられて、

   好奇心や思考力が根こそぎにされる。

    TVや雑誌はいくらでもおもしろいものを提供してくれるし、至れり尽くせりだ。

    考える必要もないし、マスメディアが提供する偏った世界だけを世界だとおもいこむ。

    これまでの消費社会は比較的人々が気に入ってきたのだろう。

    だから大多数の人は社会や政治について懐疑や疑問を発することはなかった。


    だけどとんでもない

    大衆がそっぽを向いていたあいだの政治や企業はしたい放題やりたい放題の

   権力肥大や構造的癒着・汚職を平然とおこない、国民をまったく無視する社会システムを

   きっちりと仕上げていた。

    この社会は企業が人々の全人生や家族、地域家庭まで呑み込み、

   個人が豊かに自由に生きるための基本的な部分がまったく奪い去られていた。

    「企業専制国家」のような状態になっていても、人々はなんの手も打てずに、

   ただ黙々と企業の社畜となっているだけだ。

    人々から疑問や不審の声があがらないというのが異常だ

    思考力がなくなるということはここまで人々が無力になることなのだろうか。


    たぶん権力への恐れもあるのだろう。

    批判や懐疑を口に出せば、たちまち企業や集団は当人を村八分にする。

    この企業の村八分を政府は抑制するよりか、まったく助長してしまっている。

    そして世間の人は声をあげる人たちに冷たい。

    ひじょうによくできた国家の権力構造が、いっぱんの人たちにまではり巡らされている。

    これはたしかに批判や懐疑を抱くことはむづかしいだろう。


    でもこんな状態のまま、グローバル・スタンダードに追いつけるというのだろうか。

    規範は明確に言葉に表されないし、国民はみんながやっていることにレミングの集団の

   ようにいっせいに走り出すし、懐疑や批判の声が国民からぜんぜんもれてこないから、

   制度疲労の政治・社会システムが旧態依然としたまま、まるで改善することもできない。

    馬車馬のように国民を牽引する時代には適合したのだろうが、

   道もコースも方向もまるで定まらない時代に無思考・無批判の集団主義的日本人は、

   集団で破滅するしか方向が見つけられないのではないだろうか。

    いま、国民をこのように訓育した権力者たちは、

   大きなふたつの選択肢を選ばざるを得なくなっている。

    おとなしい国民といっしょにタイタニック号か、自由な国民の力をとき放つかだ。

    こんな連中と国家心中なんてまっぴらごめんだ。


    われわれに必要とされているのは、批判や懐疑力、思考力を身につけることであり、

   改善策や改革案だけを先にもってくるのではなく、この社会が実際のところ、

   どのような規範やルールで動いているのか、正確に言葉で捉えることではないだろうか。


    「言葉」でこの社会が正確に描かれることが必要なのである。



                          (The End)




    見えない規範、言葉のタブーについて、以下の書物が参考になります。

      なぜ日本人はここまで言葉を奪われてしまったのか、みなさんも考えてください。


     中島義道『<対話>のない社会』 PHP新書

     安土敏『ビジネス人生・幸福への処方箋』 講談社文庫

     山本七平『「空気」の研究』 文春文庫

     中根千枝『タテ社会の人間関係』 講談社現代新書

     カレル・ヴァン・ウォルフレン『日本/権力構造の謎』 ハヤカワ文庫





      企業社会で生きるということ


                                              1998/4/1.




     企業社会で生きるということがどういうことなのか、いまだにわからない。

     なにを目指し、どんな目的をもち、なにを得るために働くのか、

    どのようにして仕事や会社とつき合っていったらいいのか、わたしにはよくわからない。


     ほかの人は疑問に思わないのか不思議に思う。

     疑問に思うわたしが子どもじみていて、ほかの人にはまったく迷いがないのだろうか。


     たしかに働かなければ食えないし、家族がいればそんな疑問を抱く暇もないだろう。

     だけどわたしの中には企業社会にたいする強烈な疑問と不快感がある。

     ひとつの会社でこのまま一生を終えてしまうのかと思ったらぞーっとするし、

    毎日同じ仕事ばかりで空しくてたまらないと思ったりする。

     日本企業はおそろしいほど長時間、従業員を拘束するし、

    人格や心まで会社に捧げ尽くさなければならないようになっている。


     人生の楽しみや人生を生きる意味がまったく顧みられないようになっている。

     いつもこんな人生でいいのか、こんな社会のままでいいのかという疑問がよぎる。

     だけどこの社会はちっとも変わらないし、

    ほかの人たちはもくもくと仕事勤めに精を出している。

     だれも疑問に思わないのか、こんな人生のままでいいと思っているのか、

    わたしには不思議でならない。


     企業での目標や目的がなかなか見つけられない時代になっている。

     地位やポストをもとめる目標は、ポスト不足や成長経済の停滞でほとんど

    不可能になっているし、若い世代はそのような競争を軽蔑した目でながめている。

     日本社会ではポストを得るのは実力主義ではなく、上司への媚びやへつらいが、

    その最短コースだと子どものときから知っているからやる気をなくす。

     入社してみれば、下積みの年功序列でぜんぜん芽が出せない。

     組織がこのような構造をもっているのに新入社員を「指示待ち症候群」

    だとか名づけたりする。

     なにもできないように若者をがんじがらめにしているのは、

    企業や社会にほかならないのに、それを若者のせいにする。

     会社組織や社会はもう完成してしまって、それを壊したら上の者になにをいわれるのか

    戦々恐々だから、若者たちはぜんぜんおもしろみがなく、不満が鬱積する一方だ。


     若者たちは既存の組織の規律や慣習に服従するようにしつけられて社会に出る。

     だが会社ではなにができるのか、どのような貢献を会社にもたらすことができるのか、

    といった問いをつきつけられる。

     このような事態は学生のときには予想もしていなかったことだ。

     少年時代には学校や社会からさんざん規律や同調の技術ばかり叩きこまれ、

    そうすることが正しいことだと思いこんできた学生にとってはひどい仕打ちだ。

     同調を学んだ学生にできることはただ上司のいうことをよく聞く、

    昨日のくり返しをするだけの進歩のない社員になるだけだ。

     同調だけを教える学校は責任をとれ、そのような社会風潮は責任をとれ、

    といってもすべてのツケは自分個人の身の上にふりかかってくるわけだから、

    同調技術だけを磨いてきた自分にも責任があるといえる。

     ただこれまでどおりの服従と同調だけを教える学校をつづけてゆけば、

    大きな惨禍を将来に譲りわたすだけではないだろうか。


     学校はこの企業社会で生きてゆく技術や情報を教えない。

     この欠如は学校を卒業する子どもたちにとっては大きなハンデだ。

     わたしも学校のときにもうすこし職業や企業社会にたいする知識を得ていたなら、

    社会に出てこんなに迷わずにすんだのになと思う。

     学生時代にほとんど働くことに対する心構えができなかったわけだ。

     しかも社会に出たら、敗者復活戦はなかなかむつかしいときている。


     学校では企業社会のことはほとんど教えられない。

     職業社会のなかでのスキルづくりやキャリア計画などをまず教えない。

     小学校のときには「働くおじさん」などとかいって退屈なテレビを見せられたり、

    牛乳だけが楽しみな工場見学に行ったりなんかする。

     でも小学生にとって仕事はまだまだ遠い現実だ。

     社会に出る年齢に近づくにつれ、受験戦争などで忙しくなり、

    そういった大事な授業が疎遠になる。


     学校で教えることはあまり社会では役に立たない。

     学校が社会に出るための準備機関だとしたら、なぜもっと企業のことを教えないのだろう。


     この社会はなぜか仕事や企業で生きるということの情報や知識が、

    ほとんど与えられない。

     企業社会の情報や働くことについての知識がぜんぜん得られない。

     テレビではエンターティメントや食べ物番組、恋愛などのドラマばかりであり、

    新聞では事件や事故だけが与えられる。

     人生の長い期間を過ごすはずの会社や仕事についての情報がほとんど流されない。

     なぜなんだろうか。


     サラリーマンの父は家から遠くのところで働いているから、その姿を見ることができない。

     働くということや仕事というものがどのようなものなのか、

    直接、父から教わる経験もかなり少ない。

     だからこそ、学校や情報機関の役割は大きいと思うのだが、

    たとえばテレビなんかは働くことにたいする心構えをまず教えない。

     かわりに魅力的な商品や遊びばかりを四六時中教える。


     けっきょくのところ、この日本社会の最大の消費者は学生であり、

    大人になれば、一日中会社や仕事に拘束されて消費者にはまずなれない。

     このような偏った需給関係があるために、学生がその自由な時間の大半を

    受け持たされるのは日本経済の牽引役としての消費者の役割なのだ。

     このいびつな消費構造があるために学生はどんどん骨抜きにされる。

     社会に出てはじめてこの社会がどのようなところであり、

    どんなひどい構造をもっているのか思い知らされることになる。

     こんな構造をもっておれば、日本経済の落日はかなりハイ・スピードになることだろう。


     豪華な商品がならぶ店先とはまったく逆に、

    その裏に回れば、ムチでも打たれそうなひどい舞台裏が待ち構えている。

     こんな二重構造をもった日本経済は維持するに足りないと若者は思うだろう。

     ピカピカの商品を得るためには牛のようにムチ打たれるのだ、

    もうこんなものいらないとなってしまう。

     日本企業はこのような二重構造から、企業にも楽しみを求められるような社会に

    脱皮するべきではないだろうか。


     企業社会があまりにもつまらなさすぎる。

     つまらないから、仕事や会社の内実がテレビなどによって世間に知らされることが

    ないのだろうか。

     また企業の格付け、ヒエラルキー、ウラの権力構造といったものが

    なかなか表わされることがない。

     こんなことで企業発展がこれから見込まれるだろうか。


     出世やポストの夢はほぼないし、新しい事業や新しい商品を創造しようという気概を、

    多くの若者たちはもたない。

     イノベーションが必要な時代に、そんなことより安定企業に入ることだけをのぞむ

    若者たちが大量生産される。

     大人や親たちも安定や同調だけを求め過ぎたため、変化を嫌い、抑えつけ、

    社会は保守的になり、ちっとも進歩も革新もおこなわれない。

     革新が嫌われるだけではなく危険と思われる社会はずぶずふと沈みこむ一方だろう。


     過去を守ろうとし過ぎる社会は若者にちっともチャンスがなく、

    ますますやる気や活力を殺ぐばかりだ。

     きっとこの社会はかなり硬直化してしまっていて、だからつまらないのだろう。

     中学のころに自分の将来が見えて絶望した少年たちは、

    他人を自殺にまで追いこむイジメと殺人にしか楽しみを見出せなくなるのだろう。


     死後硬直しかかっているこの社会を甦らせるにはどうしたらいいのだろうか。

     冒険や夢が描ける社会にならなければならない。

     いまの社会はこれとまったく逆の守りと失敗を恐れる人たちだけを生み出している。

     守るものがなくなったときにはじめて冒険や挑戦が描けるのだろうか。

     それは日本経済の崩壊にしかその活路はない?

     創造的破壊が必要なのだろうか。

     キツイ事をいうが、雇用を守っていたら社会はますます停滞することになり、

    自由な競争社会、自由な資本主義のルールはまったく芽生えず、

    若者たちの冒険や挑戦の意欲はどんどん失せてゆくだけだろう。

     今日のために未来は犠牲になるか、未来のために今日は犠牲になった方がいいのか。

     まだ生まれていない子どもは言葉がないし、昨日を守ることはもはや不可能だ。


     だけどわれわれはもっと金儲けだけを望んでいるのだろうか。

     企業社会がつまらなく思えるのは、金儲けだけの価値観にすべてが

    覆いつくされているからだろう。

     こんな金儲けの価値観だけで覆われた社会や会社なんかいやだ、

    とだれだって思っていることだろう。

     若者が出世やポストに望みをかけなくなり、安定だけを望むようになったのは、

    やはり私利私欲の金儲けの価値観を軽蔑しているからだろう。

     だけど金儲けをしないことにはメシを食えない。


     この日本社会は金儲けの価値観を嫌っているのか、あるいはそれが最高の価値なのか、

    よくわからない。

     安定や大企業をめざす若者や母親のメンタリティには、

    金儲けの価値観を否定する道徳観があるから、それがのぞまれるのではないだろうか。

     あまり実社会の私利私欲の競争の矢面に立ちたくない――、

    それが安定志向を生み出してきたのではないだろうか。


     出世やポストをのぞまない若者の心には、金儲けを軽蔑する気持ちがある。

     だから保守的や堅実志向になる。

     新しい世代には会社や金儲け以外の価値観をなんとか見出そうとする流れが

    あるわけだが、この社会はほぼ方向転換ができないようである。

     会社の集団主義的傾向をつき崩そうとしても、変化は遅々として進まない。


     最近は金融ビックバンという自由化の流れがあるが、これは金儲けの競争を激化させる

    方向に進むのか、あるいは集団主義的な金儲けの価値観が崩れ去ることになるのか。

     稼ぎたい人間は思いっきり働き、あまりのぞまない人間はもっとゆったりと

    生活できる個別的な自由を手に入れられる時代になるだろうか。

     一糸乱れずみんなで勤勉を強制される時代から、

    人それぞれの価値観で生きられる時代になってほしいものだ。


     ビッグバンにともなって自己責任や企業家にならなければ生き残られないなどと、

    がむしゃらに働くことをあおられるわけだが、これからの若者はそんな競争を望むだろうか。

     親のように会社に呑みこまれた人生を送りたくないと思っている若者たちが、

    果たして牛のようにがむしゃらに働こうとするだろうか。

     われわれは仕事や会社にたいしてかなりネガティヴに捉えるようになっている。

     会社が人生や人格まですべてを奪いとってきたからだ。

     だから仕事に人生を賭けようなどとは思いもしなくなった。

     こんな社会の仕組みで、仕事への情熱などもてるわけがないのだ。

     情熱は仕事以外のなにかに求めようとする流れがこれからもっと強くなることだろう。


     企業不祥事や官僚汚職、大企業の倒産などいろいろ起こったが、

    大企業や官公庁をもとめる人生コースはこれからもまだ根強い信仰がのこるだろう。

     ただ受験戦争が加熱すればするほど、マスコミがそれを報道するたび、

    その競争からドロップアウトしてゆく人たちは増えてゆく。

     そのような輝かしい人生の目標が目の前から消え去ったとき、

    つまらない企業社会のありのままの姿があらわにされる。

     働くことや会社というのはつまらなくて、ツライ毎日のくり返しなのだが、

    大企業とかエリートコースという神話があるあいだは、それは緩和されていた。

     その魅力的な神話がなくなったとき、われわれはこの打ち捨てられた夢の残りかす

    としての会社勤めにどのように耐えてゆけばいいのだろうか。


     企業社会から魅力的なオブラートはとり去られた。

     またほしい商品や家電などもほとんどないし、出世やポストの夢もほぼない。

     革新的な企業家精神は、中途半端に年功序列や集団主義的な根回しが残る組織では、

    ほとんどつぶされるか、既成の組織からはその芽がつまれる状況もある。

     社会が固まり過ぎて、ぜんぜんおもしろ味がない。


     こんな状況の中でどうやって働くことの楽しみや魅力を見出したらいいのだろうか。

     多くの大企業や中堅企業が倒れても、まだこの社会では革新的な企業家や、

    冒険をもとめるサクセス・ストーリーといった神話がまったく立ち上がっていない。

     夢も目標もない。


     ただ毎日毎日、同じ仕事のくり返しと同じ顔ぶれだけの集まりに

    耐えてゆかなければならない。

     このつまらない会社勤めを、目標も夢もしぼんでしまった時代に、

    どうやって適応してゆけばいいのだろうか。


     日本の企業というのは、約7割が中小企業だという。

     のこりの3割が大企業で、マスコミにとりあげられたりするのはほとんどこれらの企業の

    ことであり、終身雇用もこれらの大企業だけの特権だったとも言われている。

     大企業の下請けなんか思いっきり親会社にいじめられてヒドイ状況だが、

    こんな企業で大半を占められているのが日本のほんとうの姿だ。

     マスコミはこれらの大企業の姿だけを捉えて、大半の企業を捉えていなかったことになる。

     そして母親や子どもたちはマスコミにとりあげられる有名企業をめざそうとする。


     マスコミにとりあげられることも、知名度もほとんどない約7割を占める中小企業に

    勤めるのがほとんどの人だ。

     そして上昇志向や安定志向をたたきこまれた若者にとっては、

    これらの企業は魅力のないものに映る。


     働くことや会社に勤めることはほんとうにつまらない。

     よくみんなこんなつまらないことに毎日毎日耐えられるなと思うのだが、

    わたしだけが特別に職業倫理のタガがはずれてしまったのだろうか。

     最近の就職氷河期に就職した若者たちはウカれたバブル世代と違って、

    そうかんたんに転職しないと思われていたが、どうやらそうではないようだ。


     まあみんなそれぞれの仕事のおもしろ味や目標を見つけていることだろうし、

    楽しみを見つけようと努力したり、ほかに楽しみを見つけて耐えているのかもしれない。

     与えられたことが変えられないのなら、そこに楽しみを見出してゆくことが、

    人間のたたえられるべき才能だ。


     みんな、こんな目標やほしいモノがない時代によく働くと感嘆するのだが、

    でもそんなことを言っておればメシも食えないし、会社から爪はじきにされてしまう。

     社会から信頼されて働くには、つまらないことでもこつこつこなしてゆくことが、

    いつの時代でもいちばん大切なことなのだろう。


     怠け者でこらえ性のないのわたしはやっぱりいまでもビンボーだし、

    仕事ではなかなかうまくいかない。

     みなさんはわたしのようにネガティヴにならずに、

    ポジティヴにこのビジネス社会を渡っていってほしいと思う。


     ネガティヴにしかこの企業社会や仕事を捉えなれないわたしが悪いのか、

    それともこの社会があまりにもネガティヴに捉えるしか仕方がない状況になっているのか。

     だけど社会の状況を嘆いていても、そのツケがふりかかるのはいつも自分だ。

     自分の世界や結果をつくりだしているのは自分にほかならないのだから、

    必要な批判はしても、建設的な生き方をこころみるべきなのだろう。

     自分のおこないはかならず自分にふりかかってくるものだ。






   旧い価値観と勤勉の強制力はなぜなくならないのか?


                                                  1998/4/5.



    日本が明治以降めざしてきた近代化はすくなくとも終焉したはずである。

    そしてアメリカの土地や会社を買いあさった80年代に、これ以上の経済膨張は、

   もう日本人には豊かさや満足をもたらさないことを知ったはずだ。

    これまでの目標や目的がいっさい終ってしまったのだ。


    われわれは発展途上国のメンタリティと勤勉観を捨てなければならない。

    われわれはもう山を貫いたのに、まだ宙を掘りつづけるようなことをしている。

    終ってしまった生産力過剰と勤勉にしがみついても、もうそこにお宝はない。

    われわれ日本人はたとえていえば、お宝を探して山を掘っていたのが、

   いつの間にか山堀りが最高の価値になり、山を貫いてもまだ宙を掘っている。

    こんなバカな国民がいるか。

    あまりにも長い間、山堀りに熱心になったため、なんのための山堀りかという目的を

   すっかりと忘れてしまったのだ。


    日本人の勤勉と会社というのはまるでこの通りになっている。

    目的なき経済成長が盲目的につきすすめられている。

    たしかにわれわれ個人が社会や国家の目標や目的といったものを捉えるには

   あまりにも大きすぎて、自分がどの位置に立っているのか見えにくいだろう。

    しかしどうやら近代の目標が終ってしまったらしいことは、デフレ経済の進展や

   大企業の倒産・リストラ、学生たちの暴走、家庭の崩壊などなどで、

   ぼんやりとは感づいているはずだ。

    大きな曲がり角、転換期に来ていることに感づかないほうがおかしい。


    でもなぜこれまでの価値観と慣習といったものは変わらないのだろうか。

    発展途上国の勤勉と会社が絶対だという価値観が社会をがんじがらめにしている。

    なぜこの近代化の分厚い鎖を解きはなつことができないのだろうか。


    目標が集団や社会のなかで忘れられてゆくのは、なぜなんだろうか。

    人間の集団というのはみずからが取り決めや規律をつくっておきながら、

   逆にそれに支配されて、操られるという性質をもっている。

    旧い慣習や習慣といったものは多くの人が嫌っていても、

   その形式に従わざるを得なくなっていることが往々にしてある。

    この日本人の勤勉と会社絶対主義もその最たるものだ。


    目標や規律があまりにも長い時間つづくばあい、それは個人の中で、

   常識や当たり前として根づいてしまう。

    常識や自明なものは、空があったり雲があったりする次元と同じものとなり、

   それが疑われることも点検されることもなくなり、絶対視されたまま存続する。

    こういう常識とかものの考え方といったものは本人にもいちばん気づきにくいもので、

   この思考の枠組み以外に価値観や世界観があるなんて思いもしないほど絶対化される。

    時代や世代ごとにこのパラダイムは変わってゆくのだろうが、

   旧い世代は旧いパラダイムを遵守しつづけるのだろう。


    時代の変化が目立ってきたり、転換期がやってきても、

   もうなかなかその価値観の変化の意味がさっぱりわからなくなる。

    自分たちの時代の価値観やパラダイムでものごとを見ているからだ。

    また価値観の変化を理解しようとしたり、それをとり入れようなどとは

   思ってもみなくなるのだろう。

    価値観を変えるということはいろいろな関係やつながりを再編成することにもなるので、

   人はおっくうがるのだ。

    社会というのはある時代の価値観によってヒエラルキーづけられていたり、

   家族の関係や組織のありかたが決められたりしているので、価値観の変更は、

   自分の身のまわりの世界の崩壊にも等しくなってしまう。


    日本はだいたい1970年あたりを境に大きな価値観の転換を迎えたようである。

    貧乏だから国や会社を大きくしようだとか、出世やたくさんの家電を手に入れようだとか、

   そんな目標とか夢は終っていた。

    もうそんな目的を追いもとめても仕方がない、軽蔑するという心情が、

   若者のあいだに広がっていた。

    もうそれらは頭打ちなんだから、努力するのはバカげているとなる。

    だがわれわれの意識とはまったく逆に、この30年間企業社会はますますそれを

   強化するほうに走っていったように感じられる。


    このようなズレ、ギャップはなぜ起こったのだろうかとわたしは不思議でならないから、

   哲学やビジネス書を読み漁らなければならなかったのだが、

   社会においては、個人の願望と社会の価値観は一世代はズレてしまうのだろう。

    子どもたちの現実とオトナたちの現実は一世代の差が歴然とある。

    かれらの現実が社会に反映されるまでには、そのくらいの時間が必要なのかもしれない。


    しかしそれにしてもこの企業社会はなぜこんなに硬いのだろう。

    あまりにも硬すぎて、まるで価値観の変化を受けつけない。

    企業が価値観の変化をまるで受け入れようとしない。


    だからそんなガチガチの勤勉主義で働いていてももうダメなんだ、

   逆にそれは未来の先細りと惨劇を招くだけだと言ってみても、

   まるでびくともしない。

    まったく若者がのぞむ社会や生き方をさせないではないか。

    若者の生き方や人生を会社がまる抱えにしてしまったら、

   文化も消費もひとつも育たず、未来は枯渇するだけではないか。

    なぜこんな愚かなことをするのだろうか。


    勤勉の価値観が足をひっぱっているのだ。

    この価値観で成功してきた者たちは、享楽や消費の価値観が出てくるようなら、

   いままでの繁栄はつづかないと思い、価値観の流れとまったく逆に、

   その価値観の頭打ちをおこなう。

    かれらの心配にしたらもっともなことだろうが、なぜなら勤勉こそがこんにちの繁栄を

   もたらしたのであり、その抑制力がなくなれば日本はふたたび貧困に陥ると怖れる。

    だから消費の価値観が強くなればなるほど、勤勉の価値観で抑えつけるのだ。

    自分たちの価値観がいつでも普遍的なもので、いつの時代にも合うと盲信している。


    またその抑制には年功序列による既得権や自己保身があるのだろう。

    せっかく高い地位にのぼったとたんにそれを放り出すなんてたまらない、

   といって勤勉の価値観が時代の変化とまったく関わりなく補強され、

   同じように年功序列の保身を願う部下も若者もひとつも批判が言えなくて、

   ますます組織が時代の要請からかけ離れてゆく。

    勤勉で自己犠牲の強い社員が猛烈に働けば、組織は儲けることができるかもしれないが、

   社会や時代の流れを無視して、軍隊的な方向に進んでおれば、

   いつか消費のニーズは捉えられなくなり、また未来の消費者も文化も育たない。

    どうも年功序列型の組織が、社会の奔流をまるで阻害したようだ。


    消費とか経済とかいう前に、人間として生きる意味がこの社会から抹殺されている。

    豊かになれば、自分らしい生き方や楽しみを求める気持ちをもつのはとうぜんなのに、

   会社はそれらを奪いとって、経済至上主義を貫いている。

     発展途上国の勤勉の強制力がいまだにあまりにも強すぎて、

    人生を楽しんだり、好きなように生きたりすることが罪悪視されてしまっている。


     人間の生きる意味とはほんらいこのようなものではないだろうか。

     だけどこの国では働いて自分の人生を捨てることが最高の価値になっており、

    人間らしい生き方、人生のほんらいの意味がまるで剥奪されている。


     勤勉の価値観が全世界の普遍的な価値観で、いつの時代にも通用する価値なんて

    大マチガイであって、西洋世界でもおそらくこの価値観が見直されていて、

    そのような価値観のうえに労働時短などが進められている。

     環境破壊や資源枯渇といったものは経済至上主義の反省をつきつけている。

     世界はいまこのような潮流に向かっているのに、日本はまたもや戦前の植民地主義が

    西洋ではとっくに捨てられているのにひとりその方向に邁進したことと、

    同じことがくり返されている。


     西洋では70年代以降、大きなテクノロジーが発明されなくなったが、

    たぶん経済や技術の方向性に人類の発展や幸福を見出さなくなったからだろう。

     ヨーロッパやアメリカの人たちはほかの方向を見出そうと模索しているのだ。

     そんなところに経済猛進主義の日本製品が輸出されてかれらの生態系をブッ壊す。

     かれらはもう経済の発展をがむしゃらに願ったりするメンタリティを捨ててしまって、

    その世界に安住しようとしているから、秩序を乱す日本に腹を立てるのだろう。


     日本はあまりにも急激に国家をあげて生産に傾斜したから、

    そのしくみや価値観が絶対視され、正義になってしまっている。

     会社が共同体やムラの役割をひきついだために、ここの規律が絶対遵守され、

    このほかの反対意見、批判がまったく通らないようになっている。

     われわれは会社ムラ以外よるべきところを失い、そのほかの価値観と規律が、

    効力や力を発揮することがまず不可能になっている。


     会社はわれわれの生き、生活し、友や知人を得る唯一の場所になり、

    ほかの会社との共通の地盤やつながりといったものがまったくなくなってしまった。

     だから会社の規律や慣習が絶対視されてしまったのだ。


     しかし若い者たちにとって会社以外の人々を結びつける共通の基盤といったものが、

    テレビという情報の世界において生み出されつつある。

     テレビの価値観や共通世界といったものが、人々を結びつける基盤になっている。

     若者のあいだ、あるいは主婦のなかで、この価値観と規律が猛威をふるっている。

     この共通のつながりはこんどはインターネットというメディアによって、

    またまた強められる方向に進んでいる。

     会社の規律と価値観が絶対化される基盤は、これらの人々のあいだでは、

    じょじょにつき崩されつつあるのだ。

     かれらは会社以外によるべきところをもっているからだ。


     しかし会社の絶対主義の価値観はなかなか崩れない。

     働かないとメシを食っていけないし、夢を食べて生きるわけにはゆかない。


     われわれ日本人はあまりにも経済の貧困や破綻を怖れ過ぎている。

     だからその価値観から逃れられない。

     ホームレスになるのがコワイとか、老後の生活が保障されなかったらどうしようとか、

    あまりにも経済全般に怖れを抱き過ぎなのだ。

     それが経済絶対主義の価値観を下支えする。


     もちろんそれはとうぜんのことであって、現実的な生活の心配はわきまえるべきだ。

     だがあまりにも怖れ過ぎるのはよくない。

     たいがいそれは取越し苦労に終るのだが、怖れ過ぎるとその価値観に捕えられてしまう。

     その不安がわれわれの全行動を支配するようになってしまう。

     不安や怖れがわれわれの人生をハイジャックするのだ。


     われわれの怖れというのはたいがい社会的体面を保てるかどうかということだ。

     この見栄があるためにわれわれはなかなか気を休めることができない。

     この価値観や欲望を捨てられれば、われわれはどんなに楽になることか。


     これまでの社会的体面の価値観はどんどんその値を下げてゆくだろう。

     なぜなら家電とか車、マイホームといったものは多くの人がもってしまったら、

    その優越性はまったくなくなってしまうからだ。

     そんな価値観はだれも見向きもしないものになる。

     貧困を必要以上に怖れる必要はない、そんな価値観はどんどん低落しているのだから。

     若者が破れたジーンズや小汚い格好をワザとするようになったのは、

    もう貧困の怖れには囚われていないというメッセージなのだ。

     できればこれらの不安を捨ててしまって、よけいな心配をやめて、

    もっと解きはなたれた生き方をこころみるべきだ。


     経済的な価値観はどんどんデフレをおこしている。

     インフレをおこしているのはそれ以外の価値観――たとえばテレビやインターネット、

    といった情報であり、それは経済以外の価値観である。

     物質的多寡で優劣を測れるような価値観ではない。

     これらの世界にわれわれは将来を見出すべきなのだ。

     経済ばかりを怖れ過ぎていたら、新しい時代の価値観は理解できないだろう。


     われわれは経済以外の目標や目的を見出すことができるだろうか。

     そうしなければならないのであり、人間の幸福という意味でも、

    われわれは経済以外になにかを見つけなければならないのである。


     それでも会社はわれわれの全人生を収奪しており、

    休暇や余暇は毛のはえた程度しか与えられないし、

    生き方やものの考え方、価値観の自由まで剥奪している。

     人間存在の自由をことごとく奪っているのが、現在の会社だ。


     会社は人間の価値観や幸福なんかどうでもよい。

     利益や売り上げ、存続が目的なのだから。


     われわれは会社に幸福や豊かさ、価値観、生き方を全部依存してきた。

     しかし近代化が終わり、経済が成熟化し、人々が多様な価値観を追究するようになると、

    会社はまったくそれに応えられなくなるばかりか、逆に幸福や価値観の自由さを

    収奪する方向にさまがわりする。


     もうこのような時代には会社は幸福を与えてくれるものではなく、

    ただわれわれから幸福を剥奪する寄生虫でしかない。

     新種のウィルスは宿った生物と共生できればいちばんよいのだが、

    ときにはその宿られた生物を死に追いやってしまうこともある。

     会社はいまそのような存在になってしまったことを理解しなればならない。


     だけれども、とうぜんわれわれの価値観と会社の論理は対立する。

     とくに日本の会社は、人件費を残業でまかなおうとする。

     もうこのような方法を許すべきではない。


     われわれの幸福や価値観はもう会社からは与えられず、奪いとられる一方なのだ。

     会社生活や会社に滅私奉公することがほんとうに幸せなことなのだろうか。

     経済成長や経済の夢が頭打ちになった現在、

    われわれはこれらに夢をたくすのではなく、新たな夢を模索しなければならない。


     子どもたちがこんな価値観なんてクソくらえだってことはいちばんわかっている。

     いまの会社絶対主義の社会はもう輝かしい将来も、希望大きな未来も、

    与えてくれないことをいやになるほど思い知らされている。

     流行や時代の流れをいちはやくキャッチするのはやはり子どもや若者たちであり、

    社会が高圧的であるから、しかたなくこの社会に従っているにすぎない。


     大人たちよ、早くこの至上価値を捨てて、子どもたちがもっと希望のもてる社会や、

    人々のありようを模索してゆくべきなのだ。

     子供たちの不満はやはり大人の不満でもあり、

    大人たちはもうすこし計算高くふるまっているに過ぎない。


     なんとかしてこの旧い勤勉の強制力を捨てるべきではないだろうか。

     大人たち、とくにオヤジの価値観はもうこの時代にはまったく通用しない。

     これ以上、自分たちの旧い価値観に操を通そうとしたら、

    もっと痛い目に合うのは、たぶん自分たち自身だろう。


     もはや、過去の栄光や勲章とともに心中しなければならない時代なのだ。






                
          アンチ上昇志向!  ANTI-AMBITION MAN!


                                            1998/4/15.




     世の中には「よい学校に入って、よい会社に入って」という上昇志向がある。

     だれもがそれをめざすわけだが、そこに入ったからといってどうなるのか、

    ということなどはあまり問題にならない。

     みんながそれをめざしているから――どこに行くかはわからないけど、

    とりあえずその後についてゆけとなる。


     われわれは上へ上へとめざしてきた。

     みんなが押し進めているから、その方向につっ走ってきた。


     だが、上に行くということはそんなにいいことばかりで、オイシイことばかりなのか。

     エリートだとか大企業の格を得られるだとか、つぶれないとか、福利厚生がいいだとか、

    いろいろ特典はある。

     その反面、ずっと競争がつづいたり、朝から晩まで家庭と私生活を犠牲にして

    がむしゃらに働かなければならないし、責任や決断は重くのしかかってくる。

     ときには人を欺いたり、クビを切ったり、道具のように扱わなければならないときもある。

     最近では公務員の倫理腐敗がはなはだしく、人徳がまるで失われている。

     人の上に立ったり、上層階級に入るということはそういうことだと思うが、

    この国ではそういうことがあまり知らされずに上へ上へとめざす。

     上昇志向というのは、道徳や人格を切り捨てることではないのか。

     エライ人成功した人は、道徳的に信用できないという気持ちをわれわれはもっている。


     まあいまさらそんなことも言うまでなく、人々の上昇志向はどんどん落ちている。

     そこそこの暮らしと安定があればいいというふうになってきている。

     人々は分をわきまえた暮らしに落ちつこうとしている。


     がむしゃらにつっ走るなんてもううんざりだと思っているわけだが、

    どうも会社とか経済というのはそういうことを許してくれないらしい。

     ケツをあおられ、人生のほとんどの時間を仕事に拘束され、

    自己犠牲の奉仕が称賛されているようだ。

     もう生活や地位などの上昇志向はそんなにないのに、

    会社は上昇志向を仕事の原動力にしようとしている。

     ケーキを口いっぱいに押し込められている気分だ。


     だけどそこそこの上昇志向をもたないことにはメシも食えない。

     ビジネス書なんかでは「〜ができなければ生き残れない」といった、

    うたい文句によって不安に火をつける。(書籍の売り上げに火をつける?)

     でも今のところそんな上昇志向なんかもてるものなのか疑問に思う。


     上昇志向とか見栄とか虚栄とかがなくなってしまったら、

    たしかにその日暮らしでもビンボーでもホントに平気になってしまう。

     上昇志向はわれわれの生活水準の下支えになっているといえる。

     というより「人並み志向」の強迫観念のほうが日本人の場合には強いかもしれない。


     上昇志向なんて地獄の特訓みたいで、もうしんどい。

     だけど一方では、下のランクや地位に落ちることはやはりツライのである。


     職業に貴賎とかランクとかはないとタテマエでは教えられるが、

    やっぱり厳然とランクがあるのはたしかである。

     ホワイトカラーは肉体労働やブルーカラーより地位や評価が高いし、

    銀行員や商社マンは、建設業界や現場の仕事より評価は高い。

     現在の人気・花形産業はやはり停滞産業より格が高くなる。

     中小企業やとくに下請けは、親会社からかなり差別され、虐げられ、イジメられる。

     職業には差別と階層といったものがたしかに存在する。


     表立ってこの職業ランクが表わされることはないから、

    わたしはそれを知りたいと思っていたが、なかなか知ることができない。

     ピエール・ブルデューなんて社会学者は『ディスタンクシォン』という、

    趣味の階層といった本を著していたが、趣味にも階層があるのだ。


     だいたい若者は3K(キタナイ、キツイ、キケン)の職場を避けるといわれたが、

    これまでのそういう暗黙の職種の階層を反映しただけのことだ。

     多くの人は肉体労働よりホワイトカラーをめざす。

     地位や出世のランクでは上位に位置されるからだ。


     だけど上昇志向や出世主義はしんどい。

     道徳的にもあまり好かれなくて、学校では平等主義がスゴイところまできている。

     そのタテマエの地ならしが、いじめなどの優劣表示を生み出しているとも考えられる。


     上昇志向を捨てればラクになれるのだが、もしかして人から差別されたり侮蔑される、

    下層階級ではないのか、といった不安も抱かなければならない。

     上昇志向はもうしんどいのだが、一方では下のレベルに見られることもツライ。

     会社にノルマでケツをあおられたり、ポストをエサに馬車馬のように

    働かされたりするのはうんざりなのだが、下層階級にもなりたくない。


     現在この国は一億総中流だとか均質な平等社会だとかいわれたりする。

     でもわたしの実感としては、階層という分類は職業の種類によってあるみたいだ。

     階層というものはテコでも動かないように見えるから、

    自分の階層が下層に位置されるのはショックである。

     上昇志向はしんどいが、一方では下層階級になるのもイヤなのである。

     上はもうあまり望まないが、下層には位置づけられたくないと複雑なのである。

     上が視野から消え去った分、下との違いばかり目につくのかもしれない。


     上昇志向というのはもうだいぶその意味がなくなってきた。

     車とか家電とかほとんどの家庭にゆきわたり、

    消費の面ではあまり上を目指してもしかたがない。

     官僚とか大企業といった従来のエリートコースも地に落ちた

     まだまだだいぶ堅実なのかもしれないが、官僚なんかカッコイイと思う人なんか、

    以前からだいぶ少なくなってきたのではないだろうか。

     大企業のサラリーマンはバブル時代に三高といって絶大にもてはやされたが、

    山一のように大企業がつぶれれば、タダの人である。

     なかには妻からブランド企業に勤めるあなたと結婚したのに、

    とサイテーの侮辱をいわれることもあるかもしれない。


     もしかしてこれらのエリートは古いタイプのエリートコースで、

    いまはテレビとかラジオとかの権力や憧憬が強くなっているのかもしれない。

     この業界に上昇志向の強い連中がいまは集まっているのではないだろうか。

     工業社会の権力ピラミッドと情報社会の権力ピラミッドの新旧交代だ。

     ソフト業界やゲーム業界、インターネットなど、こちらをめざした人生ゲームがはじまる?

     まだ情報社会の「上がりコース」や「成功の既成コース」はできあがってないみたいだし、

    その姿も明確ではないから、過渡期のいまはむずかしい時代だ。


     実験や冒険が必要な時代であるようだけれども、

    まだまだ旧来の安定コースのほうが安全のようにも見受けられる部分もある。

     リスクを負うより、リスクを負わない旧来のコースのほうがまだ安全にみえる。

     実験的な生き方は、旧来の道徳や慣習に反抗するようなかたちになるので、

    カドを立てないで生きようとする者たちは既成の人生を選択しようとする。

     この日本社会はどこまで変わることができるのか、かなり不透明だから、

    やはりみんな慎重にならざるを得ないのだろう。

     社会の「変わる部分」と「変わらない部分」を見極めることが大事である。


     消費での上昇志向はかなり少なくなり、組織での上昇志向も頭打ちだ。

     旧来のコースでの上昇コースはかなりむづかしくなっている。

     現在は「人並み」から落ちこぼれる恐れが、過当な競争をつくりだしている。

     これから社会は全体のレベルをこれまでどおり維持することができるのか、

    それともぼろぼろと脱落者を増やし、全体のレベルを落とすことになるのだろうか。

     落ちたほうが見栄をはらずにラクに生きられる部分もあるのだが。

     レベルが落ちる者はかなりツライ気持ちを味わわなければならないかもしれないが、

    ものは考えよう、上昇志向人並み志向のためにがむしゃらに働かなければならない

    暮らしから脱却できるかもしれない。

     安逸とか怠けられる生活にもそれなりの価値や喜びがあるものだ。


     上昇志向や人並み志向は日本経済の成長のための原動力となってきた。

     これらの向上心のために日本経済は豊かになり、とても大きくなった。

     だけどその分、失ってきたものも大きいのである。

     ガツガツ、せこせこしてばかりいて、余裕やゆとりある心は失われた。

     上昇志向という目的があるときには寄り道なんかしているヒマはない。

     またこの国ではみんなでいっしょにという幼児的な強制力がひじょうに強い。

     人それぞれの好きな生き方、自由な生き方をさせないという点でひじょうに不幸なことだ。


     上昇志向は一国の経済を拡大成長させる。

     かつての大英帝国はジェントルマンの地位を得ようとして経済成長をもたらした。

     上流階級のシンボルであるキャラコなどの輸入衣料を手に入れようとして、

    繊維の産業革命はおこった。

     アメリカも車で女性をデートに誘うという向上心が経済をもりたてたともいえる。

     日本なら月給制のサラリーマンなら女性が喜んで団地妻になってくれるといった、

    そのような原動力が高度成長をもたらしたといえるのではないだろうか。


     いまから見れば、バカげているようにみえる。

     上昇志向というのは後からみれば、滑稽で、バカらしいものかもしれない。

     そのときには光り輝き、とても手に入れられそうもない憧れの対象は、

    それを手に入れたあとは、どうってことのない、たいしたものでないものに転落する。


     上を向いている者は上のことばかり情報が入る。

     たとえばアメリカやヨーロッパの情報や知識はかなりつめこまれるが、

    アフリカやイスラムの人々の暮らしや価値観といったものはほとんど入ってこない。

     自分たちの価値観だけで世界を切りとり、価値のない世界は切り捨てられる。

     上昇志向の強い人たちの世界観とは、その価値観のランキングばかりだ。

     日本全体がこのような価値観をもっているわけだ。

     われわれは知らず知らずのうちにこの価値観の情報に洗脳されている。


     よってイギリスが英国病などとかいわれて没落しはじめたとき、

    ランキングから落ちたイギリスは、日本人にとっては哀れな存在だった。

     しかし当のイギリスにとってはランク外の生活はあんがい、

    のんびり、豊かに暮らせて幸せだったかもしれない。

     上昇志向の世界観しかもたない貧困な日本人はそんなことを夢にも思わない。

     上昇志向をもつ社会は、そのほかの価値観ランキングを受け入れることができない。

     余裕のない、ぎすぎすとした一直線の思考しかもつことができない。


     そういう意味で、平等をめざす社会からは嫌悪の対象である階層社会というのは、

    上昇志向をもたずに無理せずにラクに暮らせる社会ともいえる。

     だれもが平等に上昇する機会をもつ社会(タテマエ?)は、チャンスも大きいが、

    がむしゃらに上をめざす暴走や競争を激化させるしんどい社会だ。

     日本のばあいはなおさら、下のレベルの人間もいっしょに上にひきあげようとする、

    底上げ的な社会だから、よけいに過負担だ。

     みんなで人並み志向や上昇志向を押しつけ合う、苦しい社会だ。

     この国に参加したものは否応なく長期のマラソン人生を余儀なくされる。


     階層社会はラクだ。

     はじめから上昇する機会は失われており、希望も大きな夢も抱かなくていい。

     おのずと気持ちにもゆとりと余裕がもたらされるだろう。


     上昇志向をもつ社会はどこまでいってもその足をとめることができないのだろう。

     明日になればもっとよい明日があるという社会はいつまでも幸福になれない。

     今日はいつも不満と渇望にさいなまされるからだ。

     上昇志向はけっして今日を満足させてくれない。


     おまけに不満と不安は雪だまるま式に増えてゆく。

     豊かになった現在の人は老後の心配までして不安でいっぱいだが、

    かつての貧しい人たちは老後の保障などまるでできていないのに、

    借金までしてテレビや冷蔵庫を買っていたそうだ。

     上昇志向は不満と不安の中身まで急上昇させてくれる。


     だから上昇志向をあまりもたずに分をわきまえてふつうに生きようとする若者は、

    豊かな時代においての賢明な生き方を実践していることになる。

     ただ下のレベルに落ちることについてはひじょうに敏感という過渡的な時代、

    しっかりと割り切ることのできない時代の狭間に立たされているようだ。


     階層社会はかつてわれわれが叩き込まれたように、

    まったく流動性がなく、自由のない社会とはいえない。

     上昇志向者にとっては怒りのシステムのなにものでもないが、

    ほどほどでよいと思っている者たちには都合のよい社会である。

     江戸時代は階層社会だといわれるが、案外その階層はゆるかったらしい。

     みんなでがむしゃらに走りつづけなければならない社会よりマシだろう。


     階層というのはある時代の価値観によって階層づけられる。

     社会のおおかたの人はその価値観を信奉して、このヒエラルキーから抜けきれないが、

    そのような価値観がすべての人にとっては絶対とは限らない。

     たとえばもしボウリングのピンを多く倒すことが最高の価値とする社会が

    あったとするのなら、そんな社会でトップをめざしても仕方がないだろう。

     支配者や権力ヒエラルキーをめざす価値観もすべての人が得たいとは限らない。

     そういうことはそういうことが好きな人にまかせておればいいのであり、

    そのほうがほかの人はラクで自分の楽しみを追究できるかもしれない。

     政治に関心をもたない若者たちがまさにそういう生き方をしている。


     階層社会は支配者がしたい放題で、民衆を虐げるという捉え方があるが、

    こういう危険性はたしかにある。

     だけど現代の日本社会も権力者たちの腐敗がはびこっており、

    手直しがまるでできないことでもあまり変わりがない。

     どんなすばらしい看板をもっている社会でも、けっきょくは、

    権力者がしたい放題にのさばり、民衆を虐げるものなのかもしれない。


     日本社会はもしかすると階層社会が進行しているのだろうか。

     上をめざさない若者はそのような社会を受容するかもしれない。

     職業の世襲は政治家や芸能界、経営者などの世界でひんぱんにおこっているし、

    世襲を機会平等社会への挑戦だとする声はあまり聞こえない。

     明治に若返りをはたした社会はあんがい、

    年老いた階層社会に逆戻りしているのかもしれない。


     消費での上昇志向もあまりないし、出世志向ももう頭打ちである。

     若者たちはがむしゃらな競争はもううんざりだと思っている。

     日本のばあいはとくに自由な市場競争より、大企業や国家保障への「奴隷競争」

    のようななさけない歪んだ競争のかたちなので、よけいにゲロ吐きものだ。


     足るを知り、あまり多くを求めない社会になってゆくのだろうか。

     もうバリバリの上昇志向はしんどい。

     成熟化した社会とは精神的にも多くを求めない大人の社会になるのかもしれない。

     もうこれ以上多くを求めるのはへとへとだ。






   豊かになればすべての問題が
       解決すると思っていた親たちの貧しさ


                                                  1998/4/19.




    いまの親たちは豊かになりさえすれば、すべての問題が解決すると思い込んでいた。

    だから豊かになった現在、中学生の犯罪や暴走にあれほどの衝撃を抱くのだ。


    かれらは――いや日本人のほとんどの人は富が全問題の終焉をもたらすものだと、

   まるで宗教の救いのように思い込んできた。

    貧しい時代にはこのような物語りが成立していた。

    日本人は一心不乱にこの宗教の信者になり、かなりファナティック(狂信的)な

   経済至上主義を盲信してきた。

    富を得ることによって、われわれを悩ませるすべての問題は完結するのだと、

   いまの中高年以上の人たちは思い込んでいる。


    子どもたちとの断絶はここに生まれる。


    豊かになればすべての問題が片づくのではなく、

   新たな未知の問題のはじまりにしかならない。

    豊かな時代には豊かな時代に特有の問題が生まれる。


    富が問題の解決をもたらすと思っていた親たちはこのことが理解できない。

    かれらにとっては死後の安らぎをもたらすはずの「富の国」では、

   おおいに満足し、幸福に暮らせる天使だけが存在するはずだと信じ切っている。


    でもそんな都合のいいハナシなんか、詐欺師のだまし文句でしかない。

    それにそんな夢や希望が抱ける人たちはあくまでも坂をがむしゃらに

   昇っている人たちだけであって、これはまったくかれらだけの共同幻想だ。

    この幻想の耐用年数はわずか高度成長の期間でしかない。


    この「富裕=幸福」の幻想にひたっていた人たちはまったくほかの価値観を排除した。

    その狂信のツケが、目的なき豊かな時代になったとたん、噴出しだした。

    この幻想は目的に到達したとたん、そのメッキと矛盾をぼろぼろと露呈せざるを得ない。

    なぜなら終ってしまった目的はその意味も価値もなくなるからだ。

    おまけに今日の不満を明日の希望にすりかえる方法は、

   そのような不満の思考習慣を形作ってしまうがゆえに永久に幸福になれない。


    キリスト教とか仏教の死後の楽園や天国の約束のほうがもっと高級だった。

    なぜなら死後にしかその結果はわからないのであり、死人は口なしだからだ。

    もっと長いタームで人々は幸福感にひたっていられる。

    富の救いはわずか数十年でしかない。


    富の救いに依存した人たちはまるで奴隷のように、

   豊かさをもたらす会社や国家にしがみついた。

    豊かな時代に生まれた子どもたちはそのなさけない姿がたまらないのだ。

    富のためならどんなにミジメな格好をさらしてもかまわない、

   といった姿勢が我慢できないのだ。

    豊かな時代においては貧困がミジメなのではなく、

   富の権力にしがみつく大人たちの姿があわれなのである。


    親にふるわれる家庭内暴力や校内暴力、会社人間を避けようとするフリーターや

   派遣社員、結婚しないOLたちはそういうことのメッセージだ。


    かつてヨーロッパ中世では教会に死後での救いをもとめて人々は隷属した。

    そのために宗教改革がおこった。

    いまの時代はその時代に似ているが、隷属からは完全には離脱できていない。

    隷属のほうが安定を得られ、リスクは少ないようであるし、世間的にも容認されている。

    だが近い将来、そういう安全地帯こそがもっとも危険になるのだろう。

    依存すればするほど、ひとつの会社以外の市場価値がまるでなくなるからだ。


    豊かさは歴史の終わりなのではなく、新たな問題のはじまりでしかない。

    新しい認識と価値観は新たな問題や悩みをもたらす。


    物質的富はそれだけでは満足しない人々を大量に生み出す。

    なによりも物質的富を得るために編成された人々の価値観、システムが、

   いちばんの不幸をもたらす要因に見える。

    かれらは富の救いのために隷属し、なさけない姿をさらしているからだ。

    その弱々しい姿が、子どもたちの親への怒りとなって表われる。

    物質的富の段階では、そのために編成された組織からの解放が、

   いちばんに願われるのだろう。


    豊かになれば、拘束されていたものから解放されたくなる。

    目的を達成したのなら、その手段は捨てられるべきものだからだ。

    しかし手段が目的化したこの国では、たとえば勤勉が美徳になったまま、

   そこから抜け切れない。

    勤勉は富への手段にしかほかならないのだが、勤勉自体が至上目的化してしまっている。

    生産ばかりに励んでも消費する者がいなければ、勤勉自体が意味をなさない。

    こんな美徳をもった国では、経済がうまく回らなくなる。


    富は新たな課題と問題をもたらす。

    富がすべての救いをもたらすと思っている人たちにはそのことが理解できないようだ。

    頭が死後硬直してしまっている。


    一本道の坂を登りつめれば、そこにはどこにも行くあてのない大平原がひろがっている。

    富はそういう茫漠とした不安をもたらす。

    目的も方向もなくなり、これまでの価値観も序列も意味をなさない時代がやってくる。

    貧乏な発展途上国の価値観でこれからの時代を乗り切ることは不可能だ。


    まずは貧乏時代の価値観と序列を払いのけることが第一歩だ。

    これは豊かな時代においては、豊かさを阻害するカセにしかなりえない。


    豊かになればすべての問題に解決がつくのではなく、

   新たな問題を生み出す出発点でしかない。

    カネと商品がともかくたくさんありさえすれば幸福だと見なす考え方は、

   貧乏な時代のひとつの「宗教」でしかない。

    いまはこの宗教をかなぐり捨てることが、大人たちに求められているのではないだろうか。


    物質的富を得た時代にはなにが求められ、どのような価値観が求められるのか。

    旧い貧乏価値観をとりのぞかなければならない。

    そんなものは新しい時代の「不幸の手紙」でしかない。

    不幸の手紙を子どもたちに押しつけようとする大人たちはいま一度、

   自分たちの信条が不幸の信任状になっていないか、考え直してほしい。

    「あなたたちはなんのために生きているのですか?」




                (終わり)



                      1998/4/27.





    水辺や水中で過ごしたから人類は生まれたというアクア説(水生類人猿説)がある。

    水の中で暮らしていたから二足歩行になり、体毛がなくなったというおもしろい説だ。

    ほかのサルに比べて体毛がない丸裸状態になった説明には優れている。

    人間の皮膚はイルカやカバに近いのだろうか。


    チンパンジーやゴリラと人類を画する進化の一線が見つからなくて、

   それはミッシング・リンクと呼ばれている。

    約一千万年前から二百万年前のアウトラロピテクスまで空白なのだ。

    その化石は海中にあるというのはなかなか目のつけどころがスルドイ。

    人類に進化したのはこれまでサバンナ説とネオテニー説があったが、

   たしかにこれらの説もそれなりの説得性がある。

    サバンナ説は森林から草原に暮らす必要に迫られたというごく当たり前の説だ。

    ネオテニー説はサルの幼児期に成長がとまった状態が人類だという説だ。


    アクア説はかなりの発想の飛躍がある。

    森林から海へ生活の場をいきなり変えたわけだ。

    そして体毛がなくなり、二足歩行になったということだ。


    この説はとても惹きつけられるのだが、いろいろ批判的に見たくなる。

    なぜ現在のわれわれはかつて暮らしていたはずの水中生活に快適さを感じないのか、

   なぜふたたび陸上に生活の場を変えたのかといったことなどだ。


    水の中ではわれわれは溺れてしまうし、窒息してしまう。

    そのようなところで長い間、生活しようとするだろうか。

    海辺や川辺に暮らし、漁師のように食べ物を水中の生き物に求めたのだろうか。

    水のなかならたしかに肉食獣に襲われる心配はないし、食物も豊富だ。

    ソーいえば「貝塚」なんて化石がよく見つかるから、人類は農耕時代に先駆けて、

   「漁業時代」というのを経てきたのだろうか。

    そのあいだに体毛が薄くなり、水中で抵抗の少ない体毛のはえ方に変化し、

   すぐ溺れてしまう四足歩行から二足歩行に変わったというわけだ。


    だけど水の中で暮らす動物のすべての毛がなくなるというわけではない。

    ビーバーとかかわうそとかは裸になっていない。

    陸上の動物ではゾウやサイがほとんど裸だ。

    大型の動物になると体温を保つには体毛より皮下脂肪のほうがよいというわけか。

    われわれはカバのような生活をしていたのだろうか?


    水中の生き物を食料にした類人猿が人類の先祖なのだろうか。

    漁師のような生活をしたサルが人類を生んだのだろうか。

    人間は水中の中で何分も息をできるわけではないから、

   水中の生活に完全に適応したというわけではない。

    イルカとかクジラは陸上の哺乳類が海中の生活に適応した種だと考えられているが、

   人間はそこまで進化しなかった。

    体毛をなくし、二足歩行という人類の特徴を手に入れて陸地にもどってきた。

    水中の生活は頭脳の発達もうながしたのだろうか。

    水の中で長く暮らすのなら脳が重くなってもあまり関係ないということもある。


    水中だけの生活に適応する前になぜ人間は陸に戻ってきたのだろうか。

    かつて追われた陸上の生活を克服する道具や技術を手に入れたからだろうか。

    たとえば火やなんらかの道具などだ。

    火は水中で冷え切ったからだをあたためるには役に立っただろうし、

   海中生物をとらえるために手が敏感になり、そのために手が器用になったのかもしれない。

    そうして人類は生存のレベルをアップさせて、その生活能力を片手に、

   ふたたび地上の生活に舞い戻っていったのだろうか。


    人類はほかの類人猿とちがって水中生活をはじめたから、人類になったのだろうか。

    水際の生活が人類を進化させた?

    われわれは水の中ではじめて人間になったのだろうか。


    このアクア説はひじょうに突飛だが、魅かれる説だ。

    ミッシング・リンクとよばれる期間の化石が海底から発見されてほしいものだ。







   なお参考にしたものは、毎日新聞4/26書評「中村桂子評『人は海辺で進化した』

  エレイン・モーガン著どうぶつ社刊」とデズモンド・モリス『裸のサル』河出書房新社です。

   テレビの『特命リサーチ200X!』の河童のミイラを探れば、水生進化論にぶちあたったという、

  ちょっとこれは子どもダマシではないかという内容にもすこし触発されました。





  モノ貧乏/時間貧乏――「暇であること」の復権を!


                                              1998/4/29.




    現代の恐ろしいまでの「時間貧乏」はいったいなんなのか。

    なぜこれほどまでにわれわれは時間を失ってしまったのだろうか。

    ミヒャエル・エンデの『モモ』の「時間泥棒」みたいにわれわれは哀れだ。

    時間はかつての空気や水のようにいくら使ってもタダの資源なのだろうか。

    どんなに汚しても、どんなに使い込んでもよいものだろうか。


    とんでもない、わたしは時間がほしくてたまらない!

    貴重な自由な時間がもっとほしい!

    会社や仕事に人生のほとんどの時間を奪われるなんてヒサンすぎる。

    人生の時間を奪われるなんてまるで殺人なみだ!

    時間を返しやがれ! バカも〜んが。


    カネもモノもない時代ならともかくいまはモノがありあまる時代だ。

    モノより時間のほうがはるかにほしい。

    時間の価値はもっと見直されてしかるべきだし、若者もそう思っていることだろう。

    時間をクズだと思っている人は「貧乏哲学」の十字架を背負った人たちだ。

    もうそんな十字架を未練たらたら振り回すのは、はた迷惑だ。

    「はた」を「楽」にする「はたらく」ではなく、はた(ら)「苦」だ。


    チャールズ・ハンディがいっていたように若者たちには報酬を金銭で与えるより、

   時間を報酬として与えたほうがもっと働くのではないかというとおりだ。

    若者たちは時間がほしい、自分の好きなことに費やせる自由な時間を求めている。

    またそういった無目的な時間は将来の文化や消費をきっと育てることだろう。

    満員電車につめこまれることがイヒヒ!な会社人間や団塊世代は、

   空き時間にもなにかの用事をつめこまないと気がすまないのかもしれないが、

   それはもう化石時代の考え方に変わっている。


    これからはモノカネがないことを貧乏とするモノサシではなく、

   時間がないことを貧乏だとするモノサシをもちいたほうが、

   よりわれわれの心情に合致するのではないだろうか。

    仕事や会社に時間を奪われ、追われている人間が貧乏で貧困で、

   サイテーの境遇なのだ。

    このような価値軸をもちいると、バリバリに仕事をこなすビジネスマンや経営者が、

   サイテーの貧困者層であり、逆に時間がたっぷりありあまった昼間から酒をのんで

   昼寝しているホームレスの人たちがサイコーの富裕者層になる。

    ドーだ、まいったか!

    このような価値観の逆転もできるのではないだろうか。

    そのようなパラダイム・シフトも現代では可能ではないのか。


    もうモノとかカネをいくらもっていても大して見向きもされない時代だ。

    これ見よがしにモノを見せびらかせても、たかが知れている。

    旧石器時代のブランド好きの女たちにはまだモテるのかもしれないが。

    アフリカの「部族」みたいな女子高生はまだそういった株が高い?


    時間をありあまるほどもつことがステータスとなる社会的合意はできないだろうか。

    おシャカさんなんかは「ホームレスのススメ」を説いており、

   じっさいにホームレスが最高の社会階層になるような社会をつくった。

    『ブッダのことば(スッタニパータ)』(岩波文庫)にはホントにそう書かれている。

    まあでも現代ではあまりにもかけ離れ過ぎているけど。


    時間の価値はもっと見直されてしかるべきだ。

    カネやモノをたくさんもつ前にまず時間のほうがもっと大事だ。

    時間がなければ、カネやモノをたくさんもっても仕方がない。

    それでも日本人はバカ丸出しでカネやモノをかき集めてきた。

    墓場で金銀財宝にそい寝しても意味がない。


    日本人は生活や将来にあまりにも恐れを抱き過ぎる。

    資源がないだの貧乏だの老後の生活ができないだの、

   政府のプロパガンダにあおられて、強迫観念的に生産と貯蓄にハゲんできた。

    これは本末転倒だ。

    生活より生産のほうが重要になる人間の生活など恐怖症(フォビア)なみだ。

    生活できないなら、ほかの生き物がすべてそうであるように「のたれ死んでやる!」

   くらいの尊厳と気概をもてないものだろうか。(あくまでも心の中だけの勇気で……)

    蓄積された恐怖感がわれわれを縛りつけて身動きできなくしてしまうのだ。


    まあそのおかげで現在のたいがいの家庭には電化製品とか車が行き渡った。

    でもこれからは時間の富裕さを目指すべきだ。

    時間はあまりにも貴重品になり、稀少品になった。

    時間は欠乏して、窒息しかかっている。

    こんな時ほど、時間の価値と渇望が高まるときはないだろう。


    時間観念を変えることはできないだろうか。

    時間は交換価値がないからか、ぜんぜんその重要性をかえりみられなかった。

    生産と労働に使われてのみ、その価値が認められていた。

    価値とか目的、意味のない時間の用い方は、怠慢や無益だとして退けられた。

    それはたしかに生産や労働という目的のある価値観にはムダなものだ。


    だが人間の人生や生活には、有用や有益などの「条件的価値観」だけでは測れない

   意味や価値があるものだ。

    このような価値観をもう一度掘り起こして再発見することが必要だ。

    「役にたつか」「利益や得につながるか」「有用か」といった価値判断ばかり

   用いて生きてきたから、われわれは片時も心休まるひまもないのだ。

    条件的価値を捨てることが必要だ。


    意味とか価値とか有益とかいったものがまったくないことに、

   重要性を求める価値観をいまいちどルネッサンスするべきだ。

    これまでの思考の呪縛からとき放たれる必要がある。

    さもないとわれわれは永久に不幸なままだろう。

    ユダヤ差別を生んだ優生学というのはそういう思考枠組みのとうぜんの帰結なのである。


    目的や有益さがない価値観を再評価するにはどうしたらいいのか。

    われわれ自身がその価値観を奉じ、認め合ったらいいのではないだろうか。

    ほめたり、評価したりして声をあげることも大事だ。

    時間たっぷりのホームレスの楽しさも(限定つきで)評価したらいい。


    むかしのプロパガンダ屋なら、反対の価値観をもっと明確にするために、

   その価値観にランクづけられた歴史や物語りを宣伝合唱したものだ。

    経済合理性を追究しなかった中世ヨーロッパは「暗黒の時代」だとか言い聞かせて、

   新興商人や資本家たちは自分たちの活動に有利な社会をつくった。

    また社会主義者たちは、資本家は労働者階層を搾取し、食い物にする大悪漢であり、

   歴史は王や貴族、資本家などを民衆や市民がうち倒してゆく必然性をもつものだと教えた。

    このような階層の歴史観は、現在では国家や官僚が国民を守ると善人ヅラしながら、

   国民を食い物にするためのプロパガンダにひじょうに効果的に利用されている。

    明治以降の近代産業社会の推進者たちは、江戸時代は差別と階層、飢餓、

   農民の貧困がハゲシィ暗黒の社会だったと思い込ませて、その推進力をあおった。

    近代科学者たちはむかしの人は太陽が地球のまわりを回っていると思い込んでいた、

   と笑い者にしてその社会的地位を高めた。(民衆の専門家依頼心はまるで同じだが)

    いろいろ悪い例と物語をはっきりとさせ、新しい時代の価値観と目的を、

   凹凸がぴったりと当てはまるように民衆に植えつけていったわけである。

    とくにヒドイ歴史を言い聞かせることは、恐怖を植えつけ、嫌悪の対象を明確にし、

   はっきりと教訓と方向性を教えるわけだから、ひじょうによい訓育方法だっただろう。


    もし目的を追求しない社会をつくろうと思えば、

   金儲けやエゴイズム、モラル崩壊、管理統制社会、超ビジー社会など、

   枚挙にいとまがないほど、「チョ〜極悪歴史絵巻き」がつくられることだろう。

    もしその宣伝広告が成功すれば、「近代の人間はなんてキチガイじみていたんだろう、

   かわいい息子よ、そんな人間に育ってはいけませんよ」と教え諭されることだろう。

    近代ビジネス社会はそこまで醜悪さをさらす社会だ。


    ちなみに「文明の衰退」もひとつのプロパガンダにほかならなく、

   物質消費社会にいちばんの価値をおいた基準から創作されたものだ。

    文明は衰退したのではなく、みんな疲れて文明を見捨てて投げ出したのだ。

    もちろんこれもひとつの見方にしかほかならないが、

   これからの時代には文明の「イチ抜けた〜」の歴史観のほうが合致するだろう。


    時間観念を石ころからダイヤモンドに磨かせるにはどうしたらいいいのだろうか。

    時間観念をゴミなみにおとしめている社会観念とはどんなものだろうか。

    やっぱり今日よりは明日のほうがよくなっているという「進歩史観」だろうか。

    時間はよりよい明日のためにもっと短縮し、圧縮するべきもの――捨てられるべきもの、

   という観念にこの進歩史観は導いてしまうのだろうか。


    進歩史観の土台には、ダーウィン以降の進化論がある。

    生物の進化論は厳然とした世界観をうちたて、われわれを逃れられないようにする。

    みごとにその世界観に呪縛してしまうわけだ。

    生物は進化してこそ生き残るという世界観は、人間の世界にも適用される。

    進化論は人間社会のイデオロギーにほかならなく、

   このために現代の超ビジネス社会は、その下支えと道徳的容認を得ている。

    ダーウィン理論が、経営者や資本家、われわれにがむしゃらの経済信仰をもたせていると

   するのなら、われわれはこの進化論を捨て去るべきではないだろうか。

    進化論なんてものはたんなるプロパガンダにしか過ぎないのではないか。

    のんびり、こころ豊かに生きたいと思うのなら、この世界観は点検すべきだ。

    このことに関しては今村仁司『作ると考える』講談社現代新書がくわしい。


    近代ビジネス社会では「多忙であること」に価値がおかれ、

   「暇であること」は断頭台に追いやられる。

    中高年の人たちは昼間からぶらぶらしていると近所の目が気になって、

   いたたまれなくなるそうだ。

    こんな意識をもち、そのような社会観をもっている人たちこそが、

   この多忙の価値観を押しつけ合っているのだ。

    専業主婦たちがこの「多忙強迫症」を男たちに押し売りしているのだろうか。

    自分たちの生活基盤をつき崩す昼ブラ男はたしかに脅威だろう。

    でもこのまま自分たちのために男たちを食い物にしてうれしいものなんだろうか。

    暇であることの社会的評価をみんなで高めたいと思わないのだろうか。

    まあもちろん女性たちにも社会進出をこばむ壁があるのはたしかだけれど。


    男たちにも多忙に価値をおく勤勉精神はなぜ抜け切らないのだろうか。

    こんな自分の人生を殺害するような価値観をよくもつものだとわたしは感嘆するが、

   自分たちをミジメだとかアワレだとかあまり思わないのだろうか。

    多忙という自己犠牲の宣伝と販売が会社人間の業務内容と評価方式だったから、

   しかたなく自己犠牲の営業成績をあげてきたのだろうか。

    それともほんとにマゾヒズムがかれらの快感になってしまったのかワカラナイ。


    リストラや失業が盛んになり、かれらはこれからも多忙さに価値をおくだろうか。

    失業期間中にでももう少し暇のシアワセ感を味わってもらいたいものだ。

    中高年の人たちが変わってくれないとこのままキチガイ多忙社会は同じままだ。

    「暇であること」の価値観とよさをみんなで認め合おうではないか。


    「多忙であること」のみっともなさやアワレさをあぶり出すことが必要だ。

    この価値観を自慢にする人たちの追撃を開始しよう。

    ロボットでもいいし、機械でもいいし、イヌでも奴隷でもパブロフの犬でもなんでもいいから、

   そのあわれさや異常さを露見してやれ。

    多忙さに社会的評価や称賛なんか与えてはならない。

    そんな価値観を称賛するとわれわれはもっと忙しく立ち回らなければならなくなる。

    メイワクなんだよなー。

    あちこちを駆け回る多忙人はバカだ、あわれなぶただ。

    みんなで軽蔑してやれ! 侮蔑してやれ!


    かわりにホームレスの豊かな時間とのんびりした生活をほめたたえようではないか。

    もちろん生活困窮という点ではめざすべきではないが、

   時間のリッチマンとして、われわれはこの点を見習いたいと思う。

    社会はそのような意識や評価をもったほうがいい。


    いまはそういう時間感覚のパラダイム・チェンジが望まれるのではないだろうか。

    「暇であること!」――これまでの会社人間が見つけられなかった幸福は

   ここにあるのではないだろうか。






     「理想社会」というパラドックス
             ――中川八洋『正統の哲学 異端の思想』私感


                                                1998/5/12.





    ひとびとが望むすばらしい理想は、いつも暴虐や虐殺に転嫁する。

    歴史が同じ過ちをなんどもなんどもくり返し見せれば、これはもう理想それ自体のなかに

   その残虐性が組み込まれていると考えるしかない。

    理想そのものの中に「悪」がある。


    中川八洋の『正統の哲学 異端の思想』(徳間書店)という本にはとても驚いた。

    マルクスやスターリンなどの共産主義がどのような残虐な歴史に陥ったかは知っているが、

   まさか人間の解放をもたらしたと思い込んでいたルソー思想のなかに全体主義の志向が

   あるとは思ってもみなかったからだ。

    フランス革命もロシア革命に先駆ける全体主義国家の先駆けにほかならなかったのである。


    ルソーは国民は自己とあらゆる権利を国家に譲渡し、そのことによって国民は平等となり、

   また群集は盲目であるから立法者が強制と教育によって指導するのが理想の国家だとした。

    つまり自由ゼロ財産ゼロになってはじめて平等になった国民を非凡な独裁者がひきいる

   かたちが、ルソーのめざした理想社会であると、中川八洋は解釈している。

    もしルソーの思想がこのとおりのことをめざしていたとするのなら、

   たしかにこれはソ連共産主義とまるで同じだ。


    平等と進歩を理想とした社会は過去や伝統を破壊する。

    平等や進歩を阻むのは過去や伝統であり、民衆を搾取しているのは資本家たちであり、

   それらを破壊しないことには平等や進歩、または民主主義は訪れないと考える。

    フランス革命やロシア革命はそれらを破壊して新しい社会をうちたてようとした。

    しかしこの破壊したもの自体――貴族や共同体、地方といった中間組織が、

   これまでの国家の暴虐から守っていたのであり、これらがなくなると裸で放り出された個人は、

   権利ゼロ自由ゼロ財産ゼロのまま国家に直接蹂躪される。

    これがフランス革命やソ連などの全体主義国家でおこった大量虐殺のメカニズムだと

   トックヴィルやハンナ・アレントは指摘している。


    これは驚きだ、過去の伝統や紐帯こそが国家からの暴虐を阻止していたとは――。

    それらの中間組織を破壊したからこそ、アトム化し孤立化した個人は、

   国家に要望を集中させ、そこにファシズムや全体主義がうまれるというのである。

    過去や伝統を破壊することが、だれにも頼ることのできない個人を生み出し、

   それが全体主義の独裁者へと集結してゆくというのである。


    われわれのたいていは民主主義だからファシズムのような全体主義国家には

   陥らないと思い込んでいる。

    だが民主主義だからこそ専制政治でも見られないほどの

   残虐な全体主義国家が生み出されたのは歴史が示すとおりだ。

    国家権力を制限していた既成秩序を破壊するからこそ、

   全体主義がうみだされるというのである。

    既成秩序を改善や改革さえすれば、よい社会がうまれるはずだと

   ぼんやりと思い込んでいたわたしにはショックだった。

    階層や不平等、エリート階級、特権をもつ地方の存在、そういったものこそが、

   国家権力の圧制から人々を守るクッションだったというのは驚きだ。


    既成秩序の破壊こそ、自由や平等、人権や主権、民主が守られる道だという考えと、

   真っ向から対立するのが、中川八洋が唱えるところの保守主義だ。

    この流れにはバーク、トックヴィル、ベルジャーエフ、オルテガ、アレント、ハイエク、

   といった人たちが連なるそうだ。

    逆に全体主義思考を導く平等や進歩、人権などの概念を唱える系譜が、

   デカルト、スピノザ、ルソー、ヘーゲル、マルクス、スペンサー、サルトルなどとされている。


    われわれは平等や人権、民主などは善いことであり、それを主張するのが、

   よい社会をつくるのだと思い込んでいる。

    だがそれは過去や伝統を否定することになるから、高貴さや名誉、美徳を育てる土壌

   となるものが破壊され、人々のレベルは低俗化・低級化し、モラルが崩壊してしまう。

    伝統や過去の中に人々の質的向上をうながす高貴さや名誉、栄誉といったものが

   あったのだが、平等や人権をもとめる人たちはその土壌を破壊してしまう。

    無秩序で公徳や美徳のない刹那主義、享楽主義の社会に陥ってしまうというわけだ。


    いままでわたしはぼんやりと既成秩序(=封建社会)を破壊することがよいことだと

   思い込んでいたが、この『正統の哲学 異端の思想』を読んではじめて、

   過去の否定がどのような悲惨な結果を導くか、ということを思い知らされた。

    保守主義の考えはいままで触れることもあったのだろうが、この中川八洋の著作のように、

   理路整然と進歩主義の弊害といったものがはっきりと説明された本は初めてだ。

    日本ではマルクス主義が社会科学に多くの影響をいまも与えているらしく、

   この保守主義(伝統主義)という立場にも耳を傾けることが必要だと思う。


    われわれは過去は悪の巣窟だ、既得権益を破壊すればよい社会が訪れると、

   ともかく思い込んでいる。

    不平等はとにかく悪だ、人権や権利を主張することは善いことだ、と信じている。

    だが果たしてそうなのか。

    無条件に肯定しているわれわれの主張や権利は社会を絶対に良い方向に導くのか。


    過去や既得権益を破壊してゆくのが戦後の現代社会だった。

    なにもかもを破壊してゆくのが戦後の民主主義社会だった。

    果たして現在は過去より良い社会といえるのだろうか。


    世の中から権威あるものは失われ、名誉ある人も栄誉ある人も皆目ゼロだ。

    私欲と金儲けと私腹を肥やすことだけの低俗な大人たちに満たされ、

   人々は自社企業の利益と体面だけに囚われ、企業犯罪のために人を犠牲にし、

   薄っぺらなカッコよさとおもしろさだけを演出する人だけが憧れられる。

    権利や利益だけはいくらでも要求し、責任や義務はてんで問われない。

    人々の連帯意識もまるでなく、しかし生き方やライフスタイルでは恐ろしいまでの画一化が

   進む一方、人々の心のつながりはてんでばらばらだ。

    過去のうさんくさいイデオロギー色のあるものはすべて脱色され、

   そのために連帯のさいごの砦としてのファッションなどの画一性が残るのかもしれない。


    われわれは自由や平等を声高に求めるあまり、丸裸でこの世界に放り出されてしまった。

    国家意識がまず破壊され、政治の信頼性が崩壊し、いまは経済の信頼性が失墜している。

    権威や伝統、イデオロギーといったキナクサイものはすべて廃棄処分することが、

   戦後の正義であり、善となった。

    まさにトックヴィルやアレントの指摘する中間組織の破壊ではないだろうか。

    なにものからも守られるものを失った個人は、現在の権力――国家や企業、マスコミに

   蹂躪され、自由ゼロ生命尊重ゼロの圧制にさらされる。

    われわれはとにかく過去の紐帯から脱け出しさえすれば、自由の楽園が待っていると

   思い込んでいるが、それは新たな圧制や自由ゼロの入り口でしかない。

    われわれは新たに口をあけた脅威の正体を知らないから、喜んでその中に入りこむ。

    それがフランス革命やロシア革命、またはポルポトの大虐殺に起こったことではないだろうか。

    企業の過労死もまた、伝統を破壊した社会の守られなくなった個人の犠牲者だろう。

    国家は個人を守るのではなく、企業を守る専制を敷いている。


    階層や不平等、伝統、権威、既得権益を破壊する傾向は、

   産業化とともにその手を携えてやってきたのだろう。

    産業化はもたざる者たちをもてる者にするための道具であり手段であり運動だった。

    そのような流れのなかでデカルトの理性主義、ルソーの平等思想、スペンサーなどの進化論、

   マルクスなどの社会主義が起こってきたのだろう。

    要は優越した人たちをめざす運動が産業化であり、大量生産であり、

   その思想面を埋めるのが、いくたもの哲学者や知識人たちの仕事だった。

    思想面での突然の跳躍が行われると、現実との軋轢が生じ大量虐殺がおこる。

    マルクスが共産主義を打ち立てなくとも、テイラーの大量生産のシステムによって、

   プロレタリアはブルジョワジーの物質的レベルを享受できるようになった。

    ヨーロッパはきわめて不平等な社会だったからこそ、産業化が進行したのだろう。


    こうしてどこまでも平等の地ならしが進んでしまうとその原動力を失ってしまう。

    ヨーロッパやアメリカはこの段階に達してしまったのではないだろうか。


    国家に全信頼をたくし、国家以外の中間組織を破壊してきたのが近代だ。

    われわれはありとあらゆる権利や生命尊重、教育や福祉までを国家に要求してきた。

    その一極集中は逆に専制国家より恐ろしい全体主義体制を導く。

    なぜならすべての権利は国家に集中してしまうからだ。

    われわれは自由や平等をもとめ、過去を否定し、ますます国家に依存する。

    結局、そこには国家の権力を制限する歯止めがない。

    同時にわれわれは国家権力を抑制していた中間組織、権威、伝統といったものを、

   自由や平等を抑制するものだとして破壊してきたために、両輪のように

   国家依存の度合いを強め、ますます全体主義国家に近づいてゆく。

    自由ゼロ権利ゼロ生命尊重ゼロの圧制国家体制ができあがる。


    われわれはなにもかもを国家に要求しないほうがよいのだろう。

    国家はわれわれの自由や権利を尊重するよりか、

   それらを剥奪する権力に転嫁してしまう両刃の剣でもある。

    国家の要求を増大し、一方ではその権力抑制のクッションだった中間組織を、

   伝統や権威は悪だとして破壊してゆけば、個人は国家権力から守られなくなる。

    国家総動員や一億玉砕といった戦時体制は、そのようにして生み出されたのではないのか。

    現在の企業の専制状態のような社会も、完全雇用や労働条件改善という要求を

   国家に集中した結果、ひきおこされたものではないだろうか。

    自由や平等、権利などの国家への過大な要求は、逆にわれわれの自由を

   ますますゼロにしてゆくパラドックスに満ちたものである。


    われわれは権威や伝統といったものをますます破壊する方向に走っている。

    それらこそが悪であり、自由や平等を剥奪する元凶だと思い込んでいる。

    ルソーの平等思想、ダーウィンの進化論、マルクスの社会主義に影響されているためか、

   それとも進歩と拡大を是とする産業化の当然の帰結なのか。

    過去や伝統、権威を保持しようという声はほとんど聞こえてこない。

    ときにはそのような声は戦前の国家主義への逆戻りだとして恐れられる。

    わたしもそのように思っていたから、ともかく過去を否定することが善いことだと思っていた。

    この中川八洋の著作に出会うまで、過去の否定が全体主義への道を開くなどとは、

   夢にも思ってみなかった。

    こういう人が現在のほとんどの人ではないだろうか。


    過去の破壊、権威や伝統の否定、不平等への嫌悪、こういった思潮の流れの中で、

   たどりついた現在は果たして過去よりよい社会になったのだろうか。

    われわれは権威や伝統といったよりよいもの、心のよりどころとなるものをもっているか。

    精神の高貴さや気高さ、名誉や栄誉といったものを誇れるか。

    企業や金儲けだけが群を抜いて価値をおかれる社会に、

   はたしてわれわれに自由や権利は存在するのだろうか。

    わたしがいちばん問題とするのはこの企業の権力肥大化であり、

   家族や地域、因習の不自由から脱け出した先は、企業専制への網ではなかったのか。

    過去を否定する社会はこのような結果を導いたのではないだろうか。


    過去を破壊するからこそ、企業の専制や人間の低俗化、モラル崩壊などが

   起こってきたのではないだろうか。

    過去の破壊がなにをもたらしたか、われわれは自問するべきだろう。


    ただやはり伝統や権威にはなんの問題もないのかという疑問がのこる。

    搾取や暴力、暴虐、差別などはまさにその中で育まれたのではないのか。

    保守主義はこれらへの批判や懐疑をなにひとつもたないというのだろうか。

    過去や伝統のなかにこそ自由を守る砦があるというのは、

   あまりにも現状維持的、満足せる者たちの保身のためのイデオロギーではないのか。

    これは進歩や平等、人権といった概念をあまりにも信奉する人たちの世界観、

   イデオロギーに染められた結果だともいえるわけだが、このような疑問もたしかにのこる。


    この問題はもうすこし保守主義に関する本を読んだあとで考えたいと思う。


    理想社会はその信念とは裏腹に圧制や暴虐に陥る。

    人間の知性の限界なのだろう。

    ひとりの人間の理想のためにほかの人々は配置や方向を決められる道具になる。

    将棋やチェスの駒のように人々は操られる。

    その理想をもった当人の頭にはまさに理想を具現した世界になるのだろうが、

   社会のすべての人がその理想を共有するとは限らない。

    あっち行けこっち行けと指一本で指示される人たちには大迷惑だ。

    そしてその軋轢がホロコーストや選別をうむ。


    ある人の理想社会はかならず理想から逸れる人たちをぶった切らざるを得ない。

    そういった理想のために人々を排斥する正当化の理論をつくったのが、

   ルソーやヘーゲル、マルクスの思想だった。


    このような残虐な歴史を見たあと、われわれは理想社会の創出に警戒すべきなのだろう。

    だれか専門の高級な人たちが理想社会をつくれるなどとは、

   人間の大いなる過信やおごりなのだろう。

    人間は社会がなぜできているのか、文明はどのようにしてできあがったのか、

   文明にとってなにがいちばんよいのか、人間にとって幸福はなんなのか、まったくわからない。

    そんな人間のひとりであるだれかが、理想の社会をつくれるなどと過信してはならない。

    社会主義の歴史が示したとおり、人間にはそんなことは不可能だ。

    そしてその全体主義への圧制への礎はいまも築かれているのではないだろうか。


    過去の破壊や否定はよりよい社会をほんとうにつくれるのか、

   保守主義とよばれる人たちの思想を手がかりに考えてゆきたいと思う。






     平等とはほんとうにいいものか


                                                 1998/5/24.




    平等とは果たして善なのか。

    この国では自由より平等のほうが求められる。

    自由が少々圧迫されても、平等のほうがより大事なようだ。

    人の自由な生き方・ライフスタイルを剥奪しても、平等のほうがより望まれる。


    若者たちにとって果たして現在は居心地のいい状態なのだろうか。

    みんなが同じような暮らしや生活をし、同じような趣味や行動様式をもち、

   価値観や評価も経済でのモノサシひとつしかない。

    不気味で、圧迫的で、異様に見えないほうがおかしい。


    このような歪みはどのように芽生え、どこで発生してきたのか。

    このような現在の結果を招来させたものは歴史上のどのようなものなのだろうか。


    平等、なのだろうか。

    みんながみんな同じであることを理想とした結果なのだろうか。


    平等思想はルソーによって唱えられ、マルクスによって国家の手にゆだねられた。

    経済での平等、政治での平等が求められ、民主主義ができあがった。

    平等があまりにも強く求められたばあい、階層や序列は悪になり、

   その要求は国家権力と手をむすんで、性急な過去の破壊がおこなわれた。

    平等の要求は自由を奪うばかりではなく、正義の名のもとに生命すら奪ってきた。


    問題は、平等な社会は果たして幸福な社会かということだ。

    みんなが同じような人たちに満たされた社会がはたして楽しい社会といえるだろうか。

    不気味で、不自由な、おもしろ味のない社会ではないのか。


    もちろんそんな心配はご無用だ。

    どんなに平等をもとめても、けっきょくは不平等はどこでも発生するからだ。

    もっとも皮肉なことは、平等をもとめたために国家に権力が集中し、

   逆に不平等がそこに巣食ってしまうということだ。

    経済的な平等をもとめていたら、政治や権力での不平等を国家にもたらしていたというのは、

   ソ連共産社会で明確になったことだし、日本でもそのようなことがおこっている。

    平等という看板はほかの不平等の目隠しになる。


    平等なんかもとめて得られるものだろうか。

    権力者が公平に分配して配分することなんてできるのだろうか。

    もともと人間という動物は序列や優劣をもとめてやまない生き物であり、

   ひとつの不平等の剥奪は、同時にほかの優劣競争の出発をうながすだけではないのか。

    生来の人間性を無視して平等社会をつくろうとしても不可能ではないのか。

    知性万能主義がまかりとおった18世紀から20世紀という時代は、

   完璧な平等社会が人間の知性によって完成できるという思いこみに満たされた時代だった。


    かつては経済的レベルと政治要求の平等という明確な目標があった。

    みんながみんな同じものをもとめた。

    それが問題なのである。

    その結果、この社会は優劣のモノサシや目標がまったくひとつに統合されてしまった。

    価値観や評価のモノサシが現在では経済というたったひとつのモノサシしかない。


    現在の社会が経済というモノサシひとつしかないのは、この平等思想の結果なのか。

    ほかの文化や芸術、宗教、人格や個性という多様で豊穣な価値観が、

   この社会からまったく駆逐されてしまっている。

    おかげで尊敬や畏敬の念が抱けず、名誉ある人や立派な人間といった、

   憧れられる人物像が破壊され、だれもが低俗なレベルになんのやましさも抱かない。

    カネという量で測れるものでしか、この社会では評価されない。

    有効や有益、効率といった条件価値だけがこの社会を呪縛している。

    経済での平等をもとめた歴史の結果、この貧困な単一価値はできあがったのだろうか。


    経済での不平等という物語が、社会での評価を画一的なものに集結させたのである。

    人間の価値は経済という単一価値のみで測られるようになった。

    正義と悪という単純な物語に脚色されたために、多様な価値観が追撃された。

    平等にとって人々を序列化・優劣化する価値観は不平等の根源であり、悪だからだ。

    さまざまな価値観を追撃した廃墟には、カネという哀れな量的なモノサシだけが残った。

    人間の価値が質ではなく、量で測られる。


    不平等を根絶させようとした社会は、金という量的なモノサシだけを突出させた。

    権威や多様な価値観は、不平等の根絶という正義のために破壊された。

    科学という量的に測られる客観的な世界観だけを絶対だとした知識も、

   多様で豊穣な価値観を根絶させるのに役立ったのだろう。

    近代の科学や思想の流れや運動は、カネの価値だけを突出させた歴史に

   ことごとく貢献してきた。

    近代というのはカネの正当化にすべて収斂するための時代だったのだろうか。


    カミもホトケも信じられない、カネだけが信じられる――その正当化があらゆる方面、

   科学や政治・社会思想でおこなわれた時代だったのか。

    カネという絶対的に生命を保証するものを国民・大衆ひとりひとりにすべて

   ゆきわたらせるのが、近代化の社会思想の目的であり、民主化だった。

    つまりカネの民主化だ。

    こうして近代の流れをみると、かつての宗教の歴史にもあったように

   カミやホトケの専門家集団の独占から、一般大衆への民主化に似ているといえる。

    だれもがカネ(カミ)という生命の保証をもとめ、争った時代だったわけだ。

    それが国家の力添えという方法論を得て、カミの民主化がおこなわれた。

    カミを国民ひとりひとりに平等に分配・配当するのが近代の理想となった。


    カネは国民に等しくゆきわたらさなければならない。

    不平等があってはならないと有利な地域社会や特権階級、

   特権的家族などのかたよりの均質化と破壊がおこなわれる。

    カネの平等分配が理想となってその偏りをもたらすすべてのものが破壊され、

   カネというモノサシと評価だけが突出化し、絶対化する。

    つまりカネの絶対化だ。

    ほかのモノサシや評価を失った人たちはそれを求める人と社会だけを再産出しつづける。

    カネの奴隷を再生産するために最適な社会システムができあがる。


    平等化がもたらしたものは人間の低俗化・低級化だけではないのか。

    無秩序・無規範の放埓な人たちだけを生み出したのではないのか。

    もちろん歴史には不平等や暴力、支配といった悲惨な現実があったわけだが、

   平等を実現するにしたがって、人間の高貴さや気高さといった誇りは

   失われていったのではないだろうか。


    平等な社会は人間のレベルを落とす反面、不平等はできるだけ追放される。

    権威や序列も消去される一方、恣意的で場当たり的な正義や規範――

   つまり自己中心主義や利己主義がまかりとおる。

    不平等な社会では人間の権威や名誉が保たれる反面、

   支配や暴力がまかり通るという大きな代償を支払わなければならないのかもしれない。

    その状態のどの側面をピックアップするかという問題である。

    近代の平等をめざした社会は階層社会の悪の側面ばかりを強調してきたわけだ。

    その代償として権威や名誉といった人間の高貴さといったものを失った。

    あるいは社会の毅然とした規範やルールを失わせてしまった。

    おかげで要職につく人でも名誉よりカネと快楽を追究する人たちだけに満たされた。

    社会が名誉や高貴さを評価せず、カネの多寡だけで人を測るのだから当然だが。


    平等化の風潮は現在もつづいており、これが正義であるという固定観念も

   かんたんには人々の心の中から消え去りはしないだろう。

    わたし自身も不平等があれば、ついいら立ちと平等を反射的にもとめている。

    階層や序列がわたしの前に立ちふさがるとすぐに平等や民主的ではないと

   腹をたてるわけだが、そのような要求は同時に権威や名誉といった尊厳も破壊する。

    いたるところにある不平等もたまらないが、平等社会はどこかにいびつな圧力がかかって、

   自由が尊重されないし、人は他人とそっくりであることにガマンもできない。

    どちらのほうをとるほうがいいのだろうか。    

    平等化の流れは行き着くところまで行き着かなければ気がすまないのかもしれない。


    現代は経済の平等も政治での平等も――もちろん不平等はあちらこちらに残っているが、

   かつての目標はかなり達成されたのではないだろうか。

    そうすると今度は社会の活力や原動力を失い、国家が国民の平等を保障できなくなった。

    近代というのは国民の不平等を原動力に国家の権力がかなり集中した時代であったが、

   政治経済での平等を達すると、国家はどんどんと信頼を失墜していった。

    平等な社会は人々の夢や希望まで平等に奪いとったのではないか。


    「人間の不平等にふたたび敬意が払われるようになる時がこよう」と鋭い名句を

   ブルクハルトは吐いたそうだが、その時はもう間近に迫っているのかもしれない。

    もちろんまだまだ不平等に目くじらをたてる風潮も根強く残っているが、

   平等化がもたらした人間の堕落を反省してみると、立ち止まって考えたくなるだろう。


    平等思想は経済とカネだけのモノサシ・評価だけの社会を生み出したし、

   国家権力の肥大化をもたらし、人々の自由や尊厳を奪ってきた。

    名誉や高貴さを失わせたのも、権威や不平等を嫌った平等思想のためではないのか。

    現代の政治腐敗や官僚腐敗、自堕落な人間、ルールなき社会をもたらしたのも、

   やはり平等をもとめた社会の帰結ではないのだろうか。


    平等思想のみがそれらをもたらした唯一の原因だとは言い切れないかもしれない。

    それは市場社会や資本主義社会の帰結かもしれないからだ。

    市場はより多くの消費者をもとめ、貴族や宮廷の限られた顧客より、

   壮大なマーケットである大衆に顧客を求めるだろう。

    市場原理の落とし子が平等思想だともいえるわけだ。


    こうして平等の拡大、権威や規範の破壊がおこなわれ、平等が曲がりなりにも

   達成されたとき、すべてが破壊された社会に人はなにを見出すのだろうか。

    優越や上昇が禁じられた社会は、人間の希望や夢を生み出せるだろうか。

    だれもが同じような人間に満たされた社会に人々はなんの目標を見出せるだろうか。


    われわれは不平等は悪だという固定観念をもっており、

   たしかにそのような信念にも信憑性がある。

    だがその反面、高貴さや権威といった人間の優れた部分も破壊してきた。

    不平等の中にこそ、権威や名誉といった尊厳も存在していたのではないのか。

    平等にはよい側面もあるが、不可分としてある悪にも気をつけなければならない。


    人間社会はどんなに平等をめざしても、どこかに必ずその抜け道を探し出す。

    人より優れたいという優越願望を心の中から追放することはできないからだ。

    優越願望は経済の原動力であり、それが枯渇すると経済は活力を失う。

    現代はそのような時代ではないだろうか。

    だとするのなら平等より不平等が――つまりその悪の側面ではなく、

   社会の活力をつくりだしたり、創造力を発揮させたり、高貴さや権威といった、

   不平等の効用が求められる時代ではないだろうか。


    平等が失われることを郷愁して悲しむ時代ではない。

    現代は平等ゆえの悲しさや哀れみを感じる転換期なのではないだろうか。







   ヤメられないトメられない暴走日本人に
       必要なストッパーとはどのようなものか

                  ――大勢順応主義社会の悲劇――


                                               1998/6/1.




     日本人は一度ある方向に走り出したら、みずからを止めることができない。

     支配的な風潮や世論に押し流されて、制御不能になる。

     念頭においているのはもちろん経済暴走主義であり、エコノミック・アニマルであり、

    生活や命より大事な本末転倒の会社専制主義であり、遠くには軍国主義である。

     このような暴走日本人に必要なストッパーとはどのようなものなのだろうか。


     従順さや服従心、規律正しさ、謙譲さといった生真面目さがアダになる。

     日本人にはどこか従順さに美徳をおく風土がある。

     これはまだ儒教的精神がのこっているためか、

    それとも年功序列システムが社会を覆っているからだろうか。

     目上の者に従順に従う人たちがよいという道徳はときには諸刃の剣になる。

     そのような道徳心がハリケーンのような暴走にも従順な集団を生み出す。

     このような性向はやはりレミングの死の行進と同じになるわけだから、

    もう少し賢明であるはずの人間はレミングといっしょに海の中にどぶんになることはない。


     暴走日本列島にはストッパーとなる装置をビルトインしなければならない。


     日本には支配的な勢力にたいしてアンチを唱える人や違った生き方をする集団などが

    あまりにも少なすぎて、不気味なほどひとつにまとまり過ぎる。

     正月の行事なりゴールデンウィークなりバレンタインデーなり、

    みんな愚かな牛のごとく集団でつっ走って、ほんとうに情けなくなる。

     こういうのは慣習が圧制的で、まるで自由や個性のない明証なのだから、

    日本人はもっと警戒心をもつべきだと思う。

     北朝鮮の国民を笑ってなんかいられない。


     権力にも立法、行政、司法と三権分立というバランスが必要とされているわけだから、

    従順一本やりの日本人だけで社会が構成されるのは問題だ。

     体育会系の目上の者には従順なタイプの人間が日本にはおおぜいいるとするのなら、

    それらに批判や懐疑を唱える一定の人たちが必要なのではないだろうか。

     社会が暴走しないためにはそのような逆方向に作用する力や反作用が

    必要なのではないか。


     立法と行政はイケイケの経営者と脳ミソ筋肉体育会系のサラリーマンとするのなら、

    そこに横ヤリを入れる懐疑・批判系の脱力系の人たちが司法というわけだ。

     社会が健全に存続するためには、イケイケ一本やりではなく、

    醒めた、ネガティヴなタイプの人たちも一定数、必要と認めるほうが、

    社会は暴走をくいとめられ、健全にはたらくとは考えられないだろうか。

     体育会系の脳ミソがバネのようなイケイケタイプの人たちばかりだと、

    社会は一度一方向に走り出したら、愚かにもその目的を達しても、

    またなんのために走っているのかも理解不能で、そのまま暴走しつづける。

     いまの日本社会、会社人間はそのような人たちに満たされている。

     社会はストッパーとなるタイプの人たちをビルトインすることが必要なのではないか。


     楽観系の人たちと悲観系の人たちもそれぞれの用途があって、

    やはりそれはアクセルとブレーキの役割を巧妙に果たしてきたと考えられる。

     ポジティヴばかりだと足元がおろそかになるし、

    ネガティヴばかりだと石橋をたたきすぎて一歩も踏み出せない。

     それぞれの性格傾向も社会にとってはそれなりの効用と用途を果たしているのだ。


     仲井久夫がいっているような先とり的構えの分裂病親和者と、

    蓄積の強迫症親和者が社会にそれぞれの役割を果たすように、

    ――あるいは逃げろ逃げろのスキゾと強迫蓄積のパラノという分け方もあるが、

    同じような性格タイプの人たちばかりに満たされれば、最後には破滅的になる。


     日本にはどうもストッパー役となる人たちの効用が認められていない。

     人間類型を一本に絞るのが好きであるようだ。

     目的追求には適した類型であるかもしれないが、そのシステムに過剰適応してしまって、

    このシステムはブレーキを失い、意味なき暴走が止まらなくなってしまう。

     「日本株式会社」というのはまさに目的が終焉しても、

    なおも理由なき暴走をつづけるブレーキなき暴走列車そのものだ。

     あまりにも過剰適応した目的追求型社会は、その不満分子を走行の最中に

    ぜんぶ放り投げてしまうから、もはや止まる術を知らない。

     おそらく社会の道徳と人間のタイプがそのようにしてしまうのだろう。


     不満分子は社会が盲目な暴走をしないためには一定数、必要なのではないか。

     一斉粛正なんかしてしまったら、社会の暴走を止められなくなってしまう。

     ひとつの目的に合致するだけがよい社会なのではなく、

    やはり社会は無方向な道筋をのこしておくほうが賢明である。


     反撥や不満を抱く人たちがいるからこそ、社会は曲がりなりにも健全性を保つと

    考えたほうがよいのではないだろうか。


     日本社会や日本企業は不満がひとつも漏れないような社会になっている。

     不満や批判、懐疑を一斉粛正してしまって、その効用がひとつも顧みられない。

     イケイケ支配者と従順な大衆だけで満たされた社会の行方は目を覆うばかりだ。

     暴走しつづける車輪の下でだれかが「グギギー」と踏みつけにされていても、

    疲労過労死していても、暴走日本列島は止まる術を知らない。

     従順型の人間を大量生産すれば、ブレーキがどこにもない社会ができあがる。


     現在日本社会はまさに破滅的状況の一歩手前ではないか。

     オウムじゃないがハルマゲドン一歩手前であり、あるいは20年前に流行った

    ノストラダムスの1999の7の月にこの世の終わりが訪れるのを心待ちにしているのか。

     蓄積型のパラノ人間は豊かになれば自分の出番がなくなるので、

    戦前もそうだったように蓄積した富の一斉破壊を目論んでいるのだろうか。


     従順一本槍の人間ばかりを理想とするのではなく、どこかにそれを否定したり、

    道を外れる人たちを、社会はその効用を認め、一定数確保すべきではないのか。

     従順な人間が社会に支配的な至上価値を否定なんかできやしない。


     いわゆる社会に支配的な「空気」ができあがってしまって、だれも「水」を差すことが

    できない状況というのは、まさに軍国日本が経験したことではないのか。

     同じことが戦後日本でもくり返しおこなわれている。

     なぜそうなったかというと、やはりこの日本社会は方向づけを明確にし過ぎて、

    その目的に過剰適応する従順な人間ばかりを大量生産してしまうからではないのか。

     人間を同タイプにする圧力や制御が過剰にはたらている社会だ。

     このような圧力は戦後にも圧倒的だし、戦前にもあったのだろう。

     受験戦争や会社人間への圧力をみてみれば一目瞭然だ。

     この機構が目的達成などによってうまくいかなくなると、破滅的・破壊的状況に

    日本は陥る――あるいは戦前に陥ってきた。


     このような社会というのは対外的には経済で成功したと思われているときでも、

    ひじょうに圧迫感や不自由感が強い悲壮な社会であるし、一度うまくいかなくなると、

    なだれを打ったように破壊的・破滅的状況にまっしぐらで、どの時をとっても最悪の社会だ。


     単一目的に集結しすぎる社会構造が問題なのだ。

     社会の目標や生き方は盲目的で、無軌道で、放射線状に拡散するほうがいい。

     それを単一目的に手を加えようとするのが、日本社会の悪弊だ。

     これからは逆にそのように働く力を抑制するのが社会の勤めではないのか。


     われわれ自身もだれもが同じような人間になることを――

    あるいは同じタイプの人間をほめたたえることに警戒しなければならない。

     だれもかれもが「安定」がいいだとか、「大企業」がいいだとか、

    「マジメ」がいいだとか、一億総絶賛するのではなく、たえずほかの評価も探すべきだ。

     社会がまったくひとつの評価だけにこり固まりはじめたとき、

    日本社会はまたふたたび危険水域に入ったと気づくべきだ。

     懐疑する精神、大勢順応主義になびかないことが暴走社会の歯止めになるだろう。


     日本はなにか問題があれば、すぐ手を加えたり介入したりするが、

    それを求めたとたん、自由や多様な生き方が圧殺されることに気づかなければならない。

     かつてのイギリス人がいったように、「警察に家の中を調べられるようなら、

    街の犯罪をガマンするほうを選ぶ」というように自由の剥奪にもうすこし敏感になるべきだ。

     日本人にはこのような気概はなく、やがて生き方が画一的になる。


     問題はどうすれば、支配的風潮に否定的となるストッパー的な人たちが育ち、

    社会に認められるようになるかだ。

     有識者や政治家だけにそのような人たちがいればいいのではなく、

    やはりどんな小さな集団にでも少数は存在していてほしいものだ。

     こういうタイプは一定数どこにでもいるのだろうが、家庭や学校があらゆる手を駆使して、

    そのような芽を削ぎ落としてしまうのだろう。

     キケンであるとか協調性がないのだとかワガママだとか、

    世間に笑われるだの落ちこぼれになるだの恐怖を植えつけ、集団に従順な人間をつくる。

     またそれに迎合的なマスコミや有識者がこれにいっそう加担する。


     はみ出し者には社会を逸脱させないための一定の効用があるのだと

    われわれは認識するべきではないだろうか。

     そのような「異人の効用」といった神話や世評を日本は培うべきではないのか。


     しかしこのようなタイプの人たちを人為的に制作しようとすることは、

    従順な人たちの製造とともにオゾマシイことだ。

     従順な人たちを大量生産しようとする思惑や道徳の力を抑制すれば、

    きっと社会は異質な人たちをおのずと生み出すと思う。


     従順なタイプの人間ばかりほめたたえていると、けっきょく支配的風潮に

    ボウフラのように押し流されていって、社会を破滅的状況に導いてしまう。

     異質さに寛容でなければ、同じように自分たち自身の異質さや自由も

    奪われており、多様さや自由な生は自分のものにならないばかりか、

    愚かな日本の舵取りたちと仲良く心中で、海の藻クズになってしまう。

     批判的・懐疑的な人を日本人は危ないと思いがちだが、

    自分たちの奴隷的状況と破滅的暴走を食い止めてくれるのは、

    彼らしかいないのではないだろうか。






      平成不況について思うこと


                                                  1998/6/20.




    円安、株安、債券安のデフレ・スパイラル懸念がつづいている。

    失業率は4パーセントを超え、倒産はひっきりなしだ。

    不況はもう6、7年もの長いあいだづついており、景気が回復する兆しはいっこうになく、

   悪循環的に悪いほうに落ちてゆくばかりだ。

    こんなに長く深刻な不況は戦後日本にはなかったのではないか。


    ただこの不況のふしぎなところは、街中になかなか壮絶な様相が現われないことだ。

    不況不況といわれていても、失業者がどっと街にあふれ出すとか、ホームレスが目に見えて

   増加したとか、そういった目に見える変化はあまり見受けられないように感じる。

    テレビや新聞、雑誌は深刻な不況の様子を伝えるが、街中を見ているだけでは、

   いつもどおりの生活や商売がつづいており、なにも変わらないように見える。

    飢えや家を追い出されるといったような深刻な不況は、

   豊かになった平成の世の中にはもう存在しないのか。

    ちょっとの不況(どころではないが)くらいではこの日本はびくともしないほど、豊かなのか。


    マスコミで伝えられる深刻な不況と、街角でのギャップはどう解釈すればよいのか。

    6、7年つづいている不況でも豊かになった国では、壮絶な飢えは無縁なのだろうか。

    豊かな国の不況とはそんなに深刻にならないものなのだろうか。

    インドネシアの暴動は発展途上国特有の現象にとどまるものなのか。


    それとも後からじわじわと目に見える形で不況は深刻になってゆくのだろうか。

    強盗の数や自殺者の増加が目立っているが、社会秩序の崩壊にまではいたっていない。

    今月からゆとりローン返済が倍に跳ね上がるそうだが、破産者の噂もあまり聞かない。

    いまのところまだみんな貯金があったりしてなんとかしのげているだけなのか。

    1200兆円もの資産があるのなら、ちょっとくらいの長い冬ではびくともしないのか。

    でもこの資産は少数の金持ちがおおよそを占めており(あるいは老人)、

   大勢の人(とくに若年層)はそんなにもっていないものだと思うが。


    有効求人倍率は0.5を下回ったそうである。

    求職者の2人に1人は就職できない計算だ。

    お恥ずかしながらわたしは去年と今年ハローワークに通っていたが、

   今年のほうがはるかに目に見えるかたちで失業者の数は増加したのがわかった。

    統計どおり若者の数は多いが、転職市場の狭い中高年者もわりあい多かった。


    失業率は4パーセントを超えたそうだが、統計よりもっと多いはずである。

    転職情報誌が何冊も出ているのだから、ハローワークに届け出る人はもっと少ないはずだ。


    転職情報誌などの年齢制限はほとんど20代までであり、中高年の受け皿がない。

    転職市場は年功序列や終身雇用が崩壊する時代といわれていてもこの状況であり、

   年功序列あるいは年齢差別的な意識がつよく、中高年の転職はかなり難しい。

    根強く残っている年功賃金が行くあてのない中高年を生み出している。

    また衰退産業からの転職者は知識や技能、年齢、あるいは年功序列のせいで、

   新しい産業に容易に移ることができなく、ミスマッチがおこっている。

    コンピュータ関係の求人は多いのだが、製造関係などに勤めていた中高年の人たちが、

   その業界になんか転職はできない。

    転職市場がぜんぜん開けていないことが、不況や倒産で放り出される人たちの受け皿を

   シャットアウトしている。


    皮肉なことに中高年にはおトクな年功賃金がみずからの転職市場を閉ざしている。

    右肩上がりの経済成長時代にできあがった年功序列体系が、

   中高年の失業が増加する新しい時代にほとんど対応していないのだ。

    いまだに社内失業者が100万200万人ともいわれており、これから放り出されるのが

   本番だとするのなら、企業は中高年の受入体制は整えられるだろうか。

    年功序列意識が残っていたり、若年層だけを求人対象にしつづけるなら、

   行くあてのない中高年が大量に生み出されることになる。

    企業は中高年の役割や貢献を考えなおすべきだし、

   中高年の人自身も年功賃金や高い給料をあきらめるしかないのかもしれない。


    これがアメリカなどでいわれている中流階級の没落というものだろうか。

    これまでの中流階級の経済基盤であった工業関係の仕事がどんどん値を落とし、

   あるいは必要がなくなっているのである。

    工業社会のシステムがその用途を終えようとしている。

    製造業や建設業などこれまでの雇用を吸収していた業界が地盤沈下をおこしており、

   これらの業界から放り出された人たちはなかなか容易には新しい業界にはうつれない。

    専門的な知識や技能が必要ではない新しい産業はあまりできあがっていない。

    工業社会の衰退とともにその担い手であった中流階級も没落してゆくのである。


    これまで工業社会を支えていた働きバチたちはこのような状況をどう思うのだろうか。

    かれらが支え、経済成長を担ってきた繁栄の時代が終わろうとしている。

    人生のすべてを捧げ、夢をたくしてきた経済はその絶頂期を下り落ちようとしている。

    栄光の時代は終わり、過大な夢はもはや過去のものだ。

    経済には地位や所得、権威といったいくつもの希望や夢が埋もれているように

   思えたのかもしれないが、もはやそのような希望の源泉は尽きた。

    経済はわれわれの夢や希望をかなえるフロンティアではもはやない。


    もっと早くからこのような状況ははじまっていたと思うが、日本人はそのような変化に

   対応しようとはせずに経済や会社への夢を追いつづけた。

    夢の源泉が枯渇しようとしているのにそこにしがみつづけようとした。

    方向転換できない人たちは経済没落の衝撃をモロにかぶる。

    夢の残りかすにしがみつき、泡のように消える夢に愕然とするばかりだ。

    経済が夢や希望のなんでもかんでも叶えてくれると思うのは幻想でしかない。

    経済に夢をたくす社会、あるいはそれを強制する社会は、

   その夢がついえた新しい時代にはまったくその空しさを露呈する。

    日本人は目を醒ます必要がある。

    経済ばかりに過剰な夢をたくすのは、たまたま戦後の成長期と重なったから

   可能になった偶然なのであり、もはやこれからはそのような希望は抱けない。

    経済に過剰な夢を捧げられるような時代ではない。


    とまあ、わたしは経済至上主義に過剰に傾く日本社会にたいして思うのだが、

   この不況の原因は経済フロンティアの消滅だけとは限られないかもしれない。

    大不況にあえぐ日本を尻目にアメリカは好況を謳歌しているからだ。

    経済先進国のアメリカが好況なら、日本にも希望がないわけではない。

    この不況は不良債権が片付かないことだけが原因なのかもしれない。

    不良債権が銀行の貸し渋りなどをひきおこし、カネの流れを阻害するから、

   経済全般が冷え切ってしまっているのだろうか。

    橋本政権の緊縮財政も経済を冷え込ませている。

    経済に夢を抱けないからだけではないかもしれない。


    ただやはり長期的にみてかつての経済成長はあまり見込まれないとわたしは

   予想していたから、アメリカの好況は意外だった。

    上がってゆく株価にバブルではないのかとはらはらしながら見ていた。

    最近はアメリカの株価はバブルだとかいわれているようだから、

   アメリカの好況はあんがい実のないものだったのかもしれない。

    世界の豊かな資金がアメリカに集まっただけではないのか。


    先進国はもう経済にあまり大きな夢を見出せなくなっている。

    車や家電、鉄道や建築といった20世紀半ばの繁栄をもたらした市場マーケットは

   もう成熟しており、未来にはそのような大ヒット群はあまり見当たらない。

    目新しい産業はインターネットやコンピューター、携帯電話といったものくらいしかない。

    先進国は新産業の枯渇という現象がおそいかかっている。


    日本はこの不況から脱することができるのだろうか。

    将来にたいする不安がかつてないほど強まっている。

    ひとつの会社にまじめに勤めていても中高年になればリストラでお払い箱に

   なるかもしれないし、倒産してしまうかもしれず、転職市場もあまり開けておらず、

   転職できたとしても年収ダウンで、将来が安心できない。

    また老齢年金も破綻してしまうかもしれない。

    先行きの不安がまたまた景気に冷や水を浴びせかける。


    生活安定を至上目的にした生活設計を立てられないことが、

   これまでの安定意識の強い日本のサラリーマンに恐怖に近い不安を抱かせる。

    この安定志向はかんたんには捨てられないだろう。

    世界的にも大恐慌の教訓いらい、福祉や保障などの安定志向が強烈に強まったわけだが、

   時代の転換期にはそのような安定は約束できない。

    この安定志向とどう折り合いをつけるかということが将来を決定するのだろう。

    もとめても得られないものを求めつづけるか、あるいはリスクに挑戦してゆくか。

    何十年もの長いあいだ安定意識が強まったわけだから、これはなかなかむづかしい。

    社会意識の転換のむずかしさが不況の足をひっぱっている。


    安定は過去にばかりしがみつく心性をつくりだし、未来をつくろうとはしない。

    われわれは既成産業の安定ばかりを目指し、新しい商売をはじめようだとか、

   ベンチャー精神だとか、そういった進取の精神がまるで欠落している。

    日本人には自営業者のスピリットといったものがまるでなくなっている。

    わずか50年前ほどは日本人のほとんどが農家の自営業者であったのだが。

    雇われサラリーマン根性が未来の枯渇を招くのである。

    でも組織の中で働く以上、無限責任は抱けないし、儲けた全部が収入になるわけでは

   ないから、自営業者のスピリットには歯止めがかかるのはとうぜんだ。


    社会全体がそのように教育してきて、また安定と世間体をそこで用意してきたのだから、

   とつぜん社会からその約束のご破産を告げられても、われわれは急に変われない。

    子ども時分から叩きこまれてきた安定意識は容易に抜け切らないだろう。

    安定の枠外は、生活苦や日雇いといった批判してきた暮らしなのだからとうぜんだ。

    新しい世代の人間はこれらのその日暮らし的な生き方に不安を覚えるよりか、

   挑戦や刺激の多い楽しい毎日だと思うほうがよいのではないだろうか。

    安定の毎日同じことのくり返し、終わらない日常、監獄のような毎日、

   といった生活よりかなり楽しい人生になるのではないだろうか。

    そういう意識の転換が、安定の約束できない時代には必要になるのではないだろうか。


    でも安定をもとめる意識はいぜん強い。

    先行きへの不安がサイフのひもをかたく閉めさせ、景気にますます冷や水を浴びせかける。

    すべてが悪材料ばかりで、悪循環的に悪いほうに落ちてゆく。


    この底なしの不況から脱することはできるのだろうか。

    これから不況は常態になってゆくのだろうか。

    景気というのはなにをきっかけに上向きになるのかわからない。

    自然といつの間にか景気回復がおこっているかもしれない。


    やはり不良債権の抜本的な解決が必要なのだろう。

    いつまでも手をこまねいて解決を先送りしていたら、ますます悪化するばかりだ。

    国鉄清算事業団のように赤字分を銀行からひきはなせばいいのだろうか。


    ただ長期的に見て右肩上がりの経済成長が終ったのはたしかで、

   新しい右肩下がりの時代に社会構造が対応できていないことが、

   われわれに先行き不安を抱かせる。

    安定した未来のかわりになにがあるのかわからないので、景気はますます冷える。

    このような新しい時代に適応した新しい社会意識が醸成されるまで、

   われわれは混乱やとまどいの時期を通り抜けなければならないのだろう。

    新しい時代への試練、もしくは鍛練といっていいかもしれない。

    この時期をくぐり抜けたら、社会は常識や意識を変えているのだろうか、

   それともべつだんの変化もなしにつづいているのだろうか。


    経済が右肩下がりしか見込まれないとしたら、経済にばかり入れ込むのではなく、

   日本人はもっとなにかほかの価値観を探すべきだとわたしは思う。

    経済がうまくゆかないのなら、もっとほかの楽しみや希望をみいだそうではないか。

    この長期不況は経済ばかりしか目が向かない日本人が必然的に陥る循環ではないのか。

    景気にしか一喜一憂できないのなら、不況期にはほかの希望や喜びがなく、

   悪いほうばかりに目が向いて悪循環的に落ちてゆくばかりだ。

    ほかの楽しみがあれば、経済が少々うまくいかなくなっても平然としていられる。

    多元的な価値観の要請が不況からつきつけられているのではないだろうか。






   リチャード・カールソンの本が売れているそうだ


                                               1998/7/6.




    リチャード・カールソン『小さいことにくよくよするな!』(サンマーク出版)が売れている。

    ビジネス書の週間ベストセラー・ランキングで一位になっていたし、

   近所の中くらいの書店にも平積みになっていた。


    リチャード・カールソンの前著『楽天主義セラピー』という本は、わたしにとっては、

   心の革命をおこした本だが(わたしをブチのめした十冊の本にあげている)、

   世間的にはそんなに話題にならなく、そんなものかなと思っていたから、

   新著がベストセラーになったのはびっくりだ。


    春山茂雄『脳内革命』という戦後最大に迫るベストセラーを出した出版社から

   出ているから話題になったのか、それとも心理学のコーナーではなくて、

   ビジネス書のコーナーにおかれているから関心を集めたのだろうか。

    ベストセラーをあまり読んでいないから売れる理由はあまりわからないし、

   ベストセラーがどのような要因によって生まれるのかもわたしはよくわからない。

    「全米500万部突破の大ベストセラー」という帯のコピーが効いたのか。


    わたしにとっては、リチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』(春秋社)という本は、

   革命的な書だった。

    かんたんにいえば、考えることはよいという価値観を「そんなことはないんだよ」、

   とあっさりと論理的に否定してくれた、わたしにとってはひじょうに革新的な本だった。


    考えることは無条件によいことだと思い込んでいたわたしは、毎日毎日憂鬱な思いを

   抱えながら、それでも毎日考え込むうつうつとした日々を送っていた。

    かなり落ち込みがひどくなっていたから、否定的な思考は捨てればいいという、

   カールソンの『楽天主義セラピー』にはびっくりした。

    落ち込んでいるときだからこそ、その思考を捨てるという方法を試してみたら、

   その効果は抜群だった。


    かんたんにいえば、「くよくよ気にするな」ということなのだが、

   そういう言葉は日常、親や知人によくかけられるものだが、

   皮肉屋で懐疑的な者にとってはそういう言葉をかけられるとよけいに反発して

   ますます怒りや憂鬱に駆られるものだ。

    「わたしのほうがエライんだ」といわれたような気がしてよけいに腹がたつものだ。

    そういう反発を抱かずに、思考というものがどんな悪循環の鎖につながれているか、

   論理的にひじょうに納得できるかたちで説明してくれたのがこの本だ。

    ほんとうにかんたんなことなのだが、考えることはよいという前提をもっている自分や

   世間の風潮があるところでは、そんなかんたんなことも受け入れられない。

    そうして考えることをくりかえして、悔恨や後悔の毎日がずっとつづくことになる。


    まるで悩むことに愛着があるようであり、自分をメロドラマの主人公にしたがっているようだ。

    まあドラマとか映画が「うじうじ悩む毎日と生活はよい」といわんばかりのストーリー展開を

   くりひろげているから(でないと物語は成立しない)、これらの物語に影響されやすく、

   模倣したがるわれわれは、みごとにヒロイックな役にハマってしまうのだろう。


    世間には考えることはよいことだという前提や常識がある。

    だから「くよくよ気に病むな」というアドバイスをかけられても、

   思考することによって物事を解決するのがよい方法だと思い込んでいる者にとっては、

   思考を捨てるというテクニックはまず受け入れようがない。


    思考に価値がおかれているから、思考を捨てることは自我の消滅にも等しい、

   恐ろしいことにも思えてしまう。

    思考というのはわたしの一部でしかないのだが、思考に価値がおかれた社会では、

   思考だけがゆいいつの「わたし」になり、頭の中のわたしだけがすべてになってしまう。

    またそれは新興宗教のマインド・コントロールされた信者と同じではないか、

   と人は思い込んでしまうことになる。

    批判精神と思考を失ってしまったら、自分自身が自分でなくなると思っているわけだが、

   新興宗教をパッシングする人たちはマスメディアや経済社会という自分たちの社会への

   批判精神がとくべつ発達しているようにはまず見えないし、思考を捨てるというテクニックは

   自分を傷つけるさいにはそれを適宜使用したらいいのであって、

   すべてに適用する必要はないとわたしは考えている。


    思考に人はますますしがみつき、そしてその思考というのは、

   自分を傷つけたり、悲しませたり、はらわたを煮えくり返らしたりして、

   ますます物事を困難に複雑なものにする張本人でもあるのだ。

    思考に価値がおかれている社会では、思考のこのような悪い面に気づかずに、

   ますます鋭利に自分を傷つける思考の技を磨くことになる。


    カールソンのいっていることはこういう思考の悪い面に気をつけろということだ。

    思考は無条件によい結果ばかりを導く最高の能力ではない。

    ときには自分を傷つけ、過去と未来の苦しみと牢獄に閉じ込める張本人であり、

   究極的には存在しない虚構の不安や恐怖をつくりだす源でもあるのだ。

    だからときには頭を空っぽにして、過去も未来も捨てて、

   いまに生きることが肝心だとというのがカールソンのメッセージだ。


    カールソンのいっているくわしい内容については、わたしのエッセーに書かれています。

    過去や未来を捨てるという心の習慣や、思考や過去というのは虚構である、

   という主張はひじょうに大事だと思いますので、ぜひ覚えておいてほしいものです。

    「思考は超えられるか」というエッセーにまとめていますので参考にしてください。


    参考にカールソンの本を読んでから、思考の否定的側面を探ろうとしたわたしは、

   ウェイン・W・ダイアーなどの自己啓発書や、アウレーリウスやエピクテトス、アランに

   そのような類を見つけ、またケン・ウィルバーやクリシュナムルティ、ラジニーシなどの

   トランスパーソナル心理学、大乗仏教などの書物をつづけて読みました。

    ストア哲学のアウレーリウスやエピクテトスには思考や判断力を捨てることの安らかさが

   うたわれており、仏教になるとその段階を超えて世界との一体感を目指しています。

    トランスパーソナル心理学というのはアメリカ心理学からの東洋宗教のリニューアルです。

    書評「トランスパーソナル心理学は恐怖や悲しみを終焉させることができるのか」で。

    思考を捨てる、思考は虚構であるという考えはこれらに見つけることができました。

    ボディワークやヨガにまで踏み込んだところで、この追求はとまっています。



    『小さいことにくよくよするな!』という本はこのような主張を系統的に説明するというよりか、

   いろいろな心のテクニックをコラム的に紹介するタイプの本だから、

   カールソンの思考を捨てろという方法はそんなに前面には押し出されていない。

    もちろん頭を空っぽにする効用は随所に織り込まれている。

    『楽天主義セラピー』のほうが思考の悪循環を系統的に説明していて、

   カールソンのまとまった主張を知るには、こちらのほうが全貌を知りやすいと思う。


    世界を変えるのではなく、心を変えることによって世界を変えるという本が、

   カールソンであれ、『脳内革命』であれ、自己啓発であれ、だいぶ売れるようになってきた。

    もちろんこんな考えは二千年前からローマでもインドでもあったわけだが(ストア哲学や仏教)、

   世界を変えようと躍起になってきた近代西洋の流れが一段落して、

   ふたたび世界より心を変えようという考えがふたたび盛り返してきたようだ。

    アメリカ60年代におこったヒッピー・カルチャーの実験的な流れが、

   90年代の不況の日本で花開こうとしているのか。


    戦後の経済成長期には世界より心を変えるというのは禁句だった。

    経済を成長させるためには心はたえず欲求不満と欲望にさいなまされていないと困る。

    心の不満が未来への経済成長への原動力になってきたからだ。

    あなたの不満は稼いで、電化製品や車、マイホームを買うことによって、

   解消しなければならない、というのが戦後社会が奉じた信念であり、

   あるいは強制された(?)因襲だった。

    心の不満は電化製品や車に転嫁された。


    それが90年代になってほしいモノはもうない、景気はどん底だという時代になって、

   『脳内革命』やカールソンの本のような、心を変える流れが顕著になってきた。

    かつての日本にとって精神や心の問題にふれることは、

   精神病院に直結するような、恐ろしいタブーの問題としてフタをされていた。

    心の不満はそれ自体が治されては困る、電化製品や車によって解消されなければならない、

   という経済社会の要請が、精神問題にフタをしていたのだろうか。

    つまり心の不満はそれ自体の問題として解消されては元も子もなかったのである。

    だから人は世界を変えることに躍起になった。


    いまは心を変えて幸福になるという考え方がどんどん勢力を増しつつある。

    これは心の不満を経済成長に転嫁しないという考え方である。

    日本人はこれからこのような道を選択するのだろうか。

    春山茂雄の『脳内革命』はそのような転換点のターニング・ポイントになるのだろうか。

    経済に夢が抱けなくなった時代には、心の中に夢と平穏をもとめようという気持ちが

   強くなるのは当然の流れだ。

    日本社会はこの転換点があまりにも遅すぎた感があるし、

   まだまだこの転換が飽和点にも達していないようだ。


    われわれは経済成長の夢を捨てて、心の平和を大事にする社会に転換するのだろうか。

    歴史をふりかえれば、仏教という心の平穏をめざした心の流れがある。

    もちろんいまの仏教はあまりにも観光産業や葬式産業に傾き過ぎている。

    アメリカからの心理学の成果、トランスパーソナル心理学などが、

   心の平穏の道を指し示してくれるかもしれない。


    いきなり宗教への世界に逆戻りするなんてことはないと思うが、

   (宗教には数々の愚行と腐敗の歴史が刻印づけられているから)、

   経済絶対社会から徐々に心を大事にする時代に変わってゆくのではないだろうか。


    世界を変えても心はいつも満たされない。

    「心を満たすのは、心自身しかない」ということに気づいたのが、

   経済成長期――あるいは近代化の終焉をむかえた豊かな国がたどりついた結論、

   なのではないのだろうか。

    モノカネに満たされて豊かになっても、いっこうに気持ちは晴れないからだ。

    この流れは読書界だけの流行に終わるのか、それとも社会意識の潮流を変えてゆくことに

   なるのか、もうすこし時がたってみないとわからない。







   上からの制度化と自分から変わろうとしない日本人


                                               1998/7/21.




     日本人は自分から変わろう、自分たちから変えてゆこうという意識をまずもたない。

     いつも上から与えられるだけで、その枠組みに拘束されたままでなんの文句もいわない。

     制度が不合理で時代遅れになっていても、みずから変えようとも思わない。


     与えられたものになんの疑問も抱かないのが日本人である。

     そしてそれをそのまま受け入れるのが日本人である。


     これでは西洋から輸入された民主主義とか人権が根づくわけがない。

     このような制度は自分たちから変えよう、変わろうと思う人たちに満たされた社会では

    有効に働く仕組みなのかもしれないが、自分たちが変えられるわけがないと

    思い込んでいる社会ではただの借りモノにとどまる。


     日本人には世界を支配し、制御しようとする意志があまり強くない。

     与えられた制度や慣習をそのまま受容、適応しようとする。

     抗おうとか、コントロールしようという意志や全能感がはじめから欠落している。

     西洋近代社会は神に変わって、世界を人間がコントロールしようとしたときに

    誕生したのではないのか。

     日本人は与えられた世界をそのまま受け入れる。


     制度や慣習は自分と関わりのないところで誕生し、自分の手にも及ばないもの――

    日本人のたいがいの人は思っているのではないか。

     日本人にとっての世界とはまだ呪術的段階、神話的世界にとどまっているように思える。

     制度や慣習は人間の手によってつくりだされたものと考えるよりか、

    世界にもともと存在する「超自然的」なものと思っているようにさえ感じられる。

     与えられた制度をそのまま受け入れる日本人はまさにその結果だ。

     だから制度や慣習を変えようとも露とも思わない。


     たしかにマスコミや新聞では批判や改善の声は多く聞かれるし、

    政治への声高な主張をおこなっている人たちもいる。

     だけどそんな人たちはごく一部であって、わたしのまわりを見渡しても、

    世の中を変えようといきり立っている人なんてまずひとりも見たことがない。

     みんな社会や世間のありようにそのまま適応してゆくだけだ。

     そもそも自分の意識すら変えてゆこうとも、あるいは社会や制度のありかたに

    疑問をもつことなんてまずないようだ。

     世間や政治にモノを激しく叫んでいるのは一部のインテリや利益団体だけであって、

    一般のたいがいの日本人は偉大な沈黙の民だ。

     世界は神々がつくりたもうたもので、触らぬ神にタタリなしが日本人の行動様式だ。

     これでは時の権力者や支配者に都合よく操られるボウフラの民になるのは当然だ。


     わたしはべつに政治的な改革や変革を期待しているのではない。

     もっと日常的なことを語っている。

     社会的な意識や生き方などをみずからが切り開いてゆく気概くらい、

    もってほしいと思っている。

     みずからがみずからの意志と好みで自分の人生・生き方を生きていってほしいと

    思うのだが、日本人のたいていの人は政府が決めた制度や仕組み、マスコミから

    与えられた情報や指針によってあまりにも自分の方向を決め過ぎる。

     制度に与えられたお仕着せの生きかたではなく、みずからの自立的な生き方を

    推し開いていってほしいと考えている。


     毎度毎度の提言で申し訳ないが、世間や会社に与えられた仕事や労働だけの

    人生ではなく、もっとほかの生きがいややりがい、人生のあり方をみずから

    切り開いていってほしいものだ。

     会社から与えられた人生しか日本人には選択の幅がない。

     みずからが人生を律しようとする意志がまるで存在しない。

     これでは自分の人生ではなく、会社や国家から与えられた人生にしか、

    過ぎなくなってしまうではないか。

     わたしの人生は「借りモノ」のままでいいのか。

     「お仕着せ」の人生だけで、満足していてもいいのか。

     「MAID IN カイシャ」の人生ではなく、「MAID IN ME」の人生だ。


     女性でもそうだ。

     政府が決めた主婦のパートタイムの税金の上限とか、

    息のつまりそうな専業主婦の生き方だけで満足していていいものか。

     自分の人生の可能性を限定せず、そしてだからといってすぐ政治に走るのではなく、

    まず自分の生き方や意識から変えてゆくべきだ。


     問題があるとすぐ政府や役人に文句を言う前にまず自分の意識や、

    社会の意識を変えてゆく努力をするべきだ。

     なんだか日本の場合はいつも政府にがみがみ文句ばかり言って、

    自分たちから変えてゆこうとは思わないみたいだ。

     社会のことを問題にしているのに政治だけに駆け込むのは、

    いちばん重要な社会という段階をすっとばしてしまっている。

     社会なき政治とはいったいなんなのか。

     まずは一般の人たちに向かってモノを言わなければならない。

     声をあげる人たちと政治だけがつながって、ほかの人たちは全然無視だ。

     なぜこんなヘンなことになっているのだろうか。

     サイレント・マジョリティはただの観客で、盲従の民と思っているからだろうか。

     政治が変えるのではなく、一般の人が変わらないと問題は解決しない。

     あまりにも一般大衆・中流階級が無意味な存在になり過ぎている。


     いつもだれかからの指示待ちで、自分の人生を切り開いてゆこうとしない。

     カイシャや学校、政府や政治家、官僚、マスコミの決めた人生だけを生きようとする。

     与えられた人生だけだ。

     画一化され、規格品のような人生や人間ばかりで世の中つまらなさ過ぎる。

     このような様相というのは、まさに自由のまったくない証拠ではないか。

     ぜんぜん人間らしくないし、ほんとうにこんな人生のままでいいのか疑問に思う。

     もっと自分なりの人生、自分の好きな生き方を率先しておこなえばいい。

     そのような社会をつくりだすことがこれからの日本の課題ではないのだろうか。


     明治以降の近代日本は国家・官僚主導型で西洋化をめざしてきたため、

    上からのお達しをそのまま受け入れる規格品の日本人を大量生産してきた。

     一般の日本人も国家のめざす方向とその志向が合致したためか、

    従順型の日本人を増殖させてきた。

     明治以降ではなく、西洋の啓蒙思想以降から、知識によって打ち立てられた理想を

    国家全体で追求する社会体制ができあがりはじめたのかもしれない。

     一般大衆が知識や理想をもつ専門家集団に率いられる社会が、

    最高の社会制度であると近代以降考えられるようになった。

     そうして産業化、植民地化、平等化などが国家主導でおこなわれるようになった。

     一般大衆はただ国家に率いられる従順な集団となった。


     だが現在のところ、国家や官僚が未来の大きなヴィジョンを提示できなくなった。

     これまでの理想であった社会主義や福祉国家もご破産になりかけている。

     もう国家や専門家の提示する夢やヴィジョンに依存していてもしかたがない。

     市場経済の進展により好みも嗜好も多様化し、おおくの大衆は専門家に提示される

    理想だけではとてもその欲求を満たしきれなくなった。

     もうだれかに頼るのではなく、自分ほんらいの好みや趣味によって生き方を決めるべきだ。


     専門家集団はわれわれの生をもう満足させてくれない。

     満足のみか、阻害・剥奪する段階に踏み入れているのかもしれない。

     中央集権は全国一律の規格化された人生をあいかわらず強制しつづけているし、

    このような人生は高度資本主義社会の現代においてもうその役割を終えている。

     われわれは自分自身の生き方を享受する段階に踏み入れたのではないのか。

     世間に容認された規格品の人生はこれからの幸福をもうもたらさないだろう。

     大量生産の工業社会はもう曲がり角に来ているのだから。


     自分たちから変わってゆかなければならない。

     だけど変わろうという気配はまるでないようである。

     こんなに長い不況で、しかも企業のリストラ・倒産が盛んなトンネルのような時代に、

    人々はそこからなんの教訓もひきださず、時代の変化の意味も読みとっていないようだ。

     ただ、だらだらと景気が上向きになるのを待っている、いつもどおり景気が

    よくなるのを待っているだけで、なにかを変えてゆこうとはまず思っていないようだ。

     あいかわらず日本人は与えられた人生を生きようとしている。

     景気も政治家まかせで、自分から変えてゆこうとはあまり思わないみたいだ。

     こんな元気のない個人がますます景気を冷やす。


     与えられた人生から脱出するには、懐疑や批判する精神が必要だ。

     なぜこんな生き方しかできないのか、なぜこんなに不自由なのか、

    なぜ自分の人生はぱっとしないのか、そういったことを懐疑することが必要だ。

     でないと与えられた人生をそのままくり返すことになる。


     日本人は原理的思考というのがまずできない。

     ものごとの原理・原則を考えてみようとはまず思わない。

     そんなことを考えるまでもなく、カイシャや国家がこれまでさまざまな役割や指針を

    与えてきてくれたから、人々は酒宴やパチンコに酔っていればよかった。


     しかしこれからはそうはいかない。

     もうだれかが人生の指針や幸福を与えてくれる時代ではない。

     もう国やカイシャはわれわれの幸福や安心を与えてくれるところではない。

     自分の不幸や悩みは国家やカイシャが解消してくれるのではなく、

    みずからがみずからの個別問題として解決してゆかなければならない。

     そのような目にあったとき、はじめて人はみずから考えようとするのだろう。

     ものごとの原理を考えてみないと解決しない問題が山積みになったとき、

    はじめて日本人は原理的思考というものをおこなってみるのだろう。


     日本人は原理的なことをまず考えてもみようとしなかった。

     経済大国になり、エコノミックアノマルと揶揄されるようになっても、

    「なんのための豊かさか」、「なんのために働くのか」、「なんのために生きているのか」、

    そういった懐疑がゼロのまま、経済至上主義で暴走してきた。

     わたしはこの生活や人生よりカイシャや仕事のほうが大事だという逆立ちした日本人を

    見てきてほとほとあきれ返っているのだが、やはり原理的思考の欠落にも

    原因があるのだろう。


     詰め込み教育の学校教育だけに問題があるとは思われないが、

    日本人はもっと原理的思考や批判的精神をつちかうことが必要だ。

     疑問や懐疑から開けてゆく知識の方法を身につけるべきだ。

     学校教育というのはすでにできあがった知識であり、だれかの頭によって考えられた

    知識なのであって、いわば完成品のパッケージされた商品と同じだ。

     既製品ばかり与えられていると、新商品を創造できなくなる。

     新しい現実の問題に対処するためには、新しくゼロから考えてみる必要がある。

     そのような原理的思考ができないと、いつまでも現在おこっている問題の

    根本的解決ができないままだ。

     日本人には「哲学」が必要だ。

     原理的な哲学がない人たちはいつまでも世界の荒波に翻弄されつづけるのみだ。

     自分の人生、自分のために生きることはまずムリだろう。

     そうして他人や権力に都合よく利用されたまま、人生を終えることだろう。



     現代の日本の不幸の大半は、自分の人生を生きられないことに

    起因しているのではないかとわたしは思う。

     与えられた人生、与えられた幸福、お仕着せの目標――そんな他人からの容れ物

    ばかりで、自分の自由な生き方、好きな人生といったものが送れない。

     もうこれまでの学校や会社、国家から与えられてきた目標や人生は、

    楽しみや幸福をもたらす容れ物ではまったくなくなっている。

     つまらないし、窮屈だし、さして希望や夢のある将来が待っているとはとても思えない。


     こんな時代には自分なりの生き方を創り出し、自分のための人生を生きるべきだ。

     国家や会社のために投げ打ってきた人生ははたして後続の世代に尊ばれ、

    ありがたがれるものだと信じることなんてだれができるというのか?

     将来、いまの会社人間も戦前の沖縄で崖から飛び降りた女性たちと同列に

    並べ立てられているようになっているかもしれない。


     上からの指示を待っていても、われわれはもう幸せにはなれない。

     それなら自分たちから変わってゆくべきだ。

     自分たち自身が創造してゆかなければならない。






    生活保障という恐れが
        未来の牢獄をつくりだす


                                               1998/8/4.



     学生たちは自分たちの決まりきった将来を考えて、心底ぞーっとする。

     一生ひとつの会社に釘付られるしか仕方がない自分の人生に恐れをなす。

     夢も希望もないし、偶然や自由、冒険や歓びの入る隙間もない。


     これほどまでに自分の人生が決められ、拘束されているのはなぜなのか。

     これほどまでにつまらない将来の人生しか、選択の余地がないのはなぜなのか。


     わたしが思うには、親や世間が口々にいう「安定」への渇望があるからだ。

     安定や生活保証をもとめるコインの裏側には、拘束され隷属する人生が刻み込まれている。

     だれもが生活安定をもとめ、危険やリスクを避ける社会の帰結は、

    人生の歓びやおもしろさを徹底的に削ぎとる社会でもあるのだ。

     さもないと生活安定の人生は提供されない。


     皮肉なものである。

     だれだって生活は安定していてほしいだろうし、生活保障も得たいだろうし、

    老後の生活だってばっちりと保障されていたいと思うだろう。

     戦後社会はみんながみんなそれをもとめた。

     戦後まもないころの飢餓や貧困、生活苦の経験と記憶がある世代には、

    生活安定、生活保障という社会保障は光り輝いて見えたことだろう。

     人間はたいてい現在の状況の反対項をもとめる。

     生活が苦しいときには生活安定を、病気のときには健康をといった具合だ。

     貧乏や生活苦が当たり前だったこれまでの世代が安定や生活保証をもとめるのは

    とうぜんのことでもある。


     また世界の流れとして福祉国家、社会主義化という思潮があった。

     国家や政府が、資本主義の荒廃や破綻から人々を守るという政策が、

    20世紀の先進国を洗っていった。

     政府が「ゆりかごから墓場」まで保障する社会制度ができあがった。

     ドラッカーがいうには欧米の世界制覇は、機械、資本、武器の卓越性よりも、

    「社会による救済」の約束によっていたというくらいだ。

     それだけ生活への保障は全世界的に求められていたわけだ。


     現在、老齢年金や健康保険、雇用保険、あるいは終身雇用や退職金、

    といった社会保障がわれわれに与えられている。

     あらゆる社会保障が政府や企業から与えられており、われわれの生活は

    たくさんの保険や援助によって守られている。

     しかしその代わりにわれわれはどんな代償を支払わなければならなかったのか。


     社会保障はわれわれから自由な生、生き方を奪い去ってしまった。

     安定や保障はわれわれの人生を拘束し、閉じ込め、隷属させる。

     それらを得るためにわれわれはどんな負担を強いられる羽目に陥ったか。

     学歴競争や会社人間化、会社絶対主義、個人生活や家庭の犠牲、

    といった外面的な社会現象のみならず、心の空虚さや精神の崩壊といった

    莫大なツケまで支払わなければならなくなった。

     人生のコースが決まっており、老後にいたるまでの会社拘束が生涯に渡っておれば、

    人生に早々と見切りをつけてしまうしかないし、希望や夢も見出せない。

     80年代にはサブカルチャーやファッション、レジャーに希望や夢が託されたが、

    はたして人生の空虚さや精神のむなしさの空隙を埋めるにはいたらなかった。

     そして90年代にはどこにも行く当ても目標も見当たらず、ただ惰性でつづいているだけで、

    政治や官僚が悪いといったマスコミのヤジが叫ばれているだけで、

    われわれの人生コースや計画人生の拘束から脱出する道はどこからも提示されない。

     行き場のないガスの溜まり場のような状態にこの日本社会はなっている。

     学生たちが討論の話題になることは多いが、かれらの感覚は鋭いと思うのだが、

    不満の元凶や原因をどれだけ言葉や説明にできるかはむずかしいところだ。


     結局のところ、安定や生活保障は牢獄の人生をもたらしてしまう。

     保障のためにわれわれは微塵たりとも身動きできず、生涯にわたって拘束され、

    自由や好みや歓びといった基本的な感情が満たされないまま、

    がんじがらめにされた人生を終えなければならない。

     つまるところ安定や保障はわれわれを「奴隷」にしてしまう。

     「賃金奴隷」の上に「保障奴隷」という二重のクサリに絡みとられてしまう。


     皮肉なことであるが、われわれ若い世代にはそういう気持ち、気分が強い。

     貧乏な時代の苦労が刻印されている世代には、生活保障と安定のどこが悪いんだ、

    すばらしいことじゃないか、と押しつけるかもしれないが、それはまったくの死角だ。

     大企業や公務員などの親がすすめる安定した生き方も同じことだ。

     親たちには生活保障という安心は光り輝く望みであるのかもしれないが、

    若者たちにとってはそれは将来の拘束と隷属、牢獄しか意味しない。

     まるで奴隷になるのがいちばんの安心だと聞かされているようだし、

    親といっしょに墓場に入るのがいちばんの安全だと招き入れられるようなものだ。

     好奇心に満ちた若者はまだまだ冒険とチャレンジを欲している。

     逆に親たちは恐れと疲労から、安定と安心のみを渇望している。

     これは年齢上の感じ方の違いでもあるのだろう。


     この世代間ギャップは親と子の理解しがたい断絶をもたらしている。

     親は安定と生活保障は疑うこともできない至上の目的になってしまっているから、

    子どもが登校拒否になんかなったらおろおろする。

     かれら親たちはそうなると「古典的」にわが子のホームレス像を想像して脅える。

     現在では少々学歴が劣ってもメシを食える時代だし、フリースクールや大検などの

    ほかの進学コースも先達のおかげで現在では充実してきているわけだから、

    もうそういう恐れはかなり時代遅れだ。

     親たちはあいかわらず20年前の「現実」しか認識することができないのは、

    いつの時代でも変わらない真理のようだ。


     なによりも「将来のために現在を犠牲にする」という姿勢、発想自体がもう彼らにはない。

     そんな生き方は目の前の親のくだらない人生でもううんざりになっているからだ。

     現在を犠牲にしたらいつまでも楽しめないし、現在の苦しみが将来に補償されるなんて

    保証はまったくないわけだし、見返りが老人の余暇ではあまりにも損失が大きすぎる。

     また産業や広告でも助長されているのはいうまでもないことだ。


     安定や生活保障という人生計画は、感情や本能といった情動レベルを

    かぎりなく抑圧して達成されるものだ。

     知性や理性が最大限に活用され、情動が抹殺される。

     それが福祉国家や社会主義という知性万能主義がもたらした帰結である。

     楽しみや歓びまで抹殺して得られた安定や生活は、

    そこまでして手に入れるべきものなのか。


     戦後日本はそういう理想や目的を信じてやってきたわけだ。

     ある程度の豊かさが達成された現在、そういうやり方がもうガマンできないところまで

    きているのは当然の結果だ。

     けっきょく、自分の人生や楽しみを犠牲にして得られたものはなんだったのか。

     官僚や政府の利権や特権であり、企業の権力肥大だけではなかったのか。

     われわれ個人はなにも得ることがなく、ただ政府や企業を肥え太らせただけではないのか。

     企業や国家にたいする自己犠牲は永久に見返りがない。

     ただそれら自身の権力増大と利権の増大をもたらすだけなのだ。


     われわれの生活への恐れというとてつもない恐怖の堆積は、

    それをアテにした政府や企業というウジ虫の肥大化を許しただけではないのか。

     そして社会保障の財源はどんどん膨らみ、深刻な状況になりつつある。

     みんなで一定の額を出し合い、それを分配するという方法は、

    それに吸いつく利権者たちを生み出し、また内外状況の変化により財源は破綻してしまう。

     国家による社会保障という壮大な幻想はもはや不可能になりつつある。


     国民みんなが支え合って、国民ひとりひとりの生活を保障するという企ては、

    すばらしい理想に思えたかもしれない。

     病気のときや働けなくなったとき、老後のときに生活保障があれば、ほんと助かる。

     だけどそういう不安を前提にした計画はどこまでも要求が増大し、

    計画や資金は増大せざるを得ない。

     そしていつの間にやら生活不安からの解放といった当初の目的は、

    逆に自由な生の束縛と拘束、支配へと変わってゆく。

     新しい世代は生まれながらにして牢獄に閉じ込められることに終着する。


     たしかに安定や生活保障をだれもが求めるのは当たり前のことだ。

     しかしそれがある一点を越えると、逆に人生の自由を奪いとってしまう。

     不安や心配を出発点にしているから、それには切りがないし、

    際限なく要求は膨らみ、また依存と拘束への傾斜も強まってゆく。

     そして新しい世代は赤ん坊のときから借金ローンづけにされ、

    その返済のために不自由で束縛の多い人生を余儀なくされる。

     生活保障という恐れは新しい世代を自分たちの安心のために担保に入れるのだ。


     生活の恐れは切りがない。

     病気をしたらどうしよう、ケガをしたらどうよう、働けなくなったらどうしよう、

    と万が一のことばかり考える。

     その万が一のことばかりに人生の大半を費やされる愚かしさには気づかないで、

    生活保障への欲望は際限なく広がりつづける。

     恐れには切りがなく、とどまるところを知らない。

     人間の想像力は起こりもしない未来の不安を創作することにかけては天才的である。

     われわれ庶民の恐怖の創造力は、ゲーテもシェークスピアもまっさおだ。


     そういう恐れや不安の対処法を国家全体で制度化したのが福祉国家だ。

     そしてそれでも恐れはとまらないから、ますます安定志向と保守化が進展する。

     政府だけではなく、企業もそれに応え、終身雇用などの保障を与えてきた。

     国全体が豊かになればなるほど生活保障は充実させることができるし、

    なおかつそのためにますます保障を守るための恐怖が増大させられる。

     恐怖から防衛しようとすると、今度はその築いた壁が逆に崩壊しないかと

    また恐怖にさいなまされ、その循環は永久にくり返される。

     これはクリシュナムルティが指摘する心のカラクリだ。
    

     安定への望みが逆に若者の人生を拘束し、自由や挑戦のある精神を失い、

    産業や市場は停滞し、未来の先細りを招く。

     皮肉なもので安定や安心の過剰要求のあとには、市場の停滞がやってくる。

     当然といえば当然だが、安定の計画的人生のために好奇心やヨロコビ、楽しみ、

    といった情動が禁圧されるのだから、産業や市場は新しい創造ができずに停滞してしまう。

     安定や保障はいきいきとした人間精神を破壊してしまう。

     安定をもとめた途端、その結果はすでに出ていたのだろう。


     安定と生活保障という望みの代償はあまりにも大きい。

     なによりも計画的人生は若者の生きる意欲、生きる歓びを減退させてしまう。

     つまらない、拘束された、干からびた人生だけが待っている。

     これでは将来の人生に期待がもてず、絶望してしまうしかない。

     われわれの社会は、わたしの育ってきた実感として、

    20年前以上からこんなつまらない人生コースが重たくのしかかっていた。


     この生活保障や安定という望みがクセものなのだ。

     たしかに現実問題として生活安定はのどから手がでるくらい切実にのぞまれるものだ。

     だけどそれが臨回点を越えるところ――すなわち人生の歓びや楽しみ、好奇心を

    抹殺しても求められるようになると、それはみずからの首を絞めるように転化するのだろう。

     必要以上にもとめられると、今度は逆にそれが人生を支配し、拘束してしまう。

     こうなれば、後はひたすら人生の歓びの減退と衰退がはじまってしまう。

     変化は年とった人たちにはゆでガエルになっても気がつかないのかもしれないが、

    若い連中には一大事だ。

     人生の歓びや楽しみを抹殺した、干からびた人生を強制されるのはたまったものではない。

     安定への大合唱は逆に人生資源の枯渇化をもたらしたのである。


     しかし実際問題として毎日の生計のことを考えると安定はほしい。

     当然のことであるし、この目標はおおいに追い求めるべきだろうし、

    安定と保障をわたしは否定するつもりはない。


     ただし人生が恐ろしいほどまでにつまらなく、やりきれなくなるようなら、

    精神や感情の充実や歓びを求めるべきなのだろう。

     要はどこいらで歯止めをかけ、恐れに囚われないようにするかということだ。

     現在は行き過ぎた安定と保障をもとめた結果、人生が牢獄化してしまっている。

     恐ろしいほどつまらない人生コースしかわれわれには選択の自由がない。

     これでは生きている意味も歓びもない。


     これはもう安定への恐れを意識的に打ち破るしかないのだろう。

     安定志向をどこかで捨てなければならない。

     老後の生活保障なんて年をとっても働くことにしてチャラにしてしまえ。

     人口構成からいって年金はかなりヤバイし、われわれが年をとれば高齢化社会の

    到来であり、老齢になっても働くことが一般化しているかもしれないからだ。

     といってもわれわれの多くには安定志向が骨の髄まで染みついている。

     さまざまな生活保障を得られないことは、死活問題にまで感じられる。


     これは死生観にも関わってくるのだろう。

     現在のわれわれは長く生きよう生きよう、健康に大過なく生きようとする。

     個人の生を目いっぱいひきのばすことがわれわれの最大目標だ。

     100才以上生きた人が有名になったり、表彰されたりする。

     まるで腫れ物に触るように人生を守ろうとしている。


     そのために生活の不安をことごとく除去しようとする。

     若死にするかもしれないとか、太く短く充実した生をまっとうするだとか、

    風の吹かれるまま気ままに生きるとか、破滅的に野垂れ死にするような美学とか、

    まあそういった潔い人生観がなくなってしまった。

     人生を無菌室に入れることに熱中して、われわれの生はとてつもなく生まじめになった。

     そのような人生観もわれわれの人生をつまらなくする遠因にもなっているのだろう。


     TVの動物もののドキュメントなんか観ていたら、年老いたり、病気にかかったりした

    動物たちは野垂れ死にしたり、肉食獣に食べられたりして潔く死んでゆく。

     これが生命あるもののごく自然な姿であると思うのだが、

    こういう死生観を現代人はすこしはとりもどしたほうがよいのかもしれない。

     守りに守られた人生は無菌室の中で、危険はないかもしれないが、

    多くの歓びを知らずにその生を終えなければならなくなる。


     戦後50年、われわれは多くのセーフティネットに守られてきたが、

    そのために人生は多くの束縛や拘束に縛られ、つまらないものになってしまった。

     安定のカラをうち破ることが必要なのではないだろうか。

     安定の牢獄か、安定のない自由か、どちらを選ぶべきなのだろうか。


     自分の人生のなにに価値をおくか――

    そのことによって人生の選択は変わってくるようである。


     せめて若い人たちには安定の殻を破って、冒険とチャレンジの生き方を

    選択してもらいたいものだ。

     そうすれば、この閉塞日本もすこしは楽しいものになるかもしれないのだが。





        ヘンリー・ソーローの省エネ労働観


                                             1998/8/15.




     「もし私もたいていの人々のように午前も午後も社会に売るというようなことになれば、

    人生は私にとってもはやなんの生きがいもないものとなるにちがいない」

     これは『森の生活』(岩波文庫)という本を書いたヘンリー・ソーローの言葉だ。


     現代のわれわれはこれとまったく正反対の生き方をしている。

     午前も午後もあるいは深夜まで社会に自分を売り、それは生涯にわたってつづく。

     まったく自分のための時間、人生がない。


     ソーローはそんな人生を投げ打って自給自足の生活やフリー・アルバイターの道を選んだ。

     定職をもたず、さまざまな職業に従事した。

     教師や測量士、庭師、農夫、ペンキ屋、大工、石工、日雇い労働者など。

     ソーローの言葉を借りるなら「わたし自身としては日雇い労働者の仕事がいちばん

    独立的であるということを知った」――なぜなら「彼の雇い主は何ヶ月にもわたって

    思案をめぐらし一年のはじめからおわりにいたるまで息を抜くひまがない」からだ。

     かれの生涯は自分の好きなことに自由に没頭できることはまず不可能だろう。


     現代のサラリーマン社会は自分のために生きるということがまずできない。

     生活の糧を得るために一年中あるいは生涯にわたって企業に拘束される。


     こうなった原因はソーローによると現代人は多くの物を手に入れようとするからだという。

     「いくつかの要りもしないてかてかの靴だの、雨傘だの、空っぽなお客のための

    空っぽな客間だの、家具だの」、そういったものを手に入れようとするため、

    「人は道具のための道具になってしまった」とソーローはいう。


     「諸君が目の利く人間ならば、人に会ったとき、その人が彼の背後に所有している

    すべての物――さよう、彼が自分のものでないような顔をする多くの物まで――

    台所道具や彼がとっておいて焼きすてようとしない安ぴか物にいたるまでを見、

    そして彼はそれにくびきをかけられ何とかして前に進もうともがいているように見えるだろう」


     ソーローはこのような状態に対して「わたしは自分の罠を引きずらなければならないのなら、

    それが軽いものであり、わたしの急所を挟まないものであるように気をつけるべきだ。

    だが、はじめからそれに手を出さないほうがいちばんかしこいだろう」といっている。


     けっきょくのところ、われわれは多くの物を手に入れようとして、

    逆にその道具の奴隷になってしまっているのである。

     ソーローはこのような状況をバカらしいと思い、自由が奪われる罠だとして、

    できるだけ簡素な生活をこころがけ、社会の従属を拒否し、精神の自由をもとめた。


     旅行に関してもいちばん早い旅行者は徒歩で行く人間だといっている。

     なぜなら鉄道を使えば、運賃を稼ぐための労働に費やす時間が必要になり、

    しかるべき運賃を稼いだ後でないと目的地に着けない。

     これは人生に関してもおなじことがいえる。

     楽しみを将来にとっておいて、そのあいだ働きつづけていると、

    ようやく余裕ができたころにはもう楽しむだけの弾力と欲望を失っていることだろう。

     カネで得る楽しみとはそのような愚かな結果がついて廻るのだ。


     わたしがこのようなソーローの考え方に出会ったのは二十代の半ばころ、

    フリーターから社員の仕事を探そうとして購入した転職情報誌の書評からだった。

     木原武一の『続大人のための偉人伝』(新潮選書)という本にソーローの紹介が

    なされていたのだが、サラリーマンや会社人間の拘束感、束縛感にかなりの不快感を

    もっていたわたしはたちまちこのソーローの考え方に影響を受けた。

     そうだ、そんなに物を欲しがらなければ、そんなに働く必要はないんだと思い、

    自分の時間をできるだけ確保できるように努めた。

     だけど現代では生活費を稼ぐためにはふつうのサラリーマンなみの労働時間を

    費やさなければ生活できないし、また社会保障とか将来の心配も積み重なって、

    こういう生活はワリが合わないと感じるようになった。


     正社員とかふつうのサラリーマンとか社会保障とか、世間一般がよいとする人物像

    から遠ざかることにもやはり不安や心配も積み重なる。

     カネがなければ結婚もできないし、妻子を養うなんてことはとてもムリだ。

     そういうことでわたしはソーローのように割り切ってこれらのすべてを捨てるようなことは

    とてもできそうにもないし、そこまでの勇気も自信もない。

     そんなに反発しないである程度世間に迎合してもいいんじゃないかと最近は思う。

     自分はどうやらそこまで強い人間ではないということがよくわかってきたんである。


     ただあまり多くの物を欲しがったり、多く欲望は抱かないようにするべきであると

    思うのはいまでも変わらない。

     世間でもちょうどあまり欲しい物がない時代に突入している。

     消費やレジャーの見せびらかし優越競争をしているより、

    先行き不安の心配のほうがもっと深刻でせっぱ詰まった関心だからだ。


     これまでの世間というのは、中流階級という「広告費」がひじょうにかかった時代だった。

     まじめなサラリーマンという広告も多大な費用を必要とした。

     人生を捨てるほどまでして、われわれは中流階級というイメージを世間一般や

    郊外住宅の近所の人たちに広告して廻らなければならなかったのである。

     マイホームという中流ステータスの広告費は30年ローンもの莫大な費用がかかったし、

    マイカーという宣伝塔、幸福な家庭の演出料、大学出の証明料、一流企業に属するための

    会員費など、さまざまな中流階級の広告費がわれわれに必要だった。

     ソーローだったら、これらは自由を奪う罠に映ったことだろう。


     都会というのは隣の人がだれなのか、何者か、まるでわからない。

     ということでわたしはこういう者ですという広報が、マイホームやマイカー、

    ファッションや持ち物で広告される必要があった。

     企業がテレビや雑誌、新聞などでしょっちゅう広告しなければならなかったように、

    われわれ人間もかなりの広告費を費やさなければならなかったのである。


     他人や世間に広告するために生涯を費やす人生とはいったいなんなのだろうか。

     人間が人間の恐怖の源になってしまっている。

     貧乏でないことを広告しなければ許されない狭隘な雰囲気が世間を覆っている。

     人は隣人を信用していないのであり、その人そのものやその人のありのままが

    認められるということがまず不可能になってしまっている。

     そして劣等感に蹴飛ばされないために人は多大な広告費を家計から計上する。

     「わたしは〜ではないですよ」という悲痛な叫び声の広告があちこちから聞こえてくる。

     そして自分自身の楽しみ、自由な時間というのはますます削りとられてゆく。


     われわれは「貧乏」や「劣等」というイスとりゲームの鬼にならないために、

    自由を奪いとる世間体の罠から逃れられなくなっている。

     こういう競争と自分自身の楽しみや好きなことは、果たして同じものなんだろうか、

    と問う必要がある。

     自分自身の人生や好きなことを捨ててまで、莫大な広告費を支払わなければならないのか。

     世間への広告は一生をかけても終わりはないだろう。

     広告なんてものはわれわれの日常にあるように、たとえばダイレクトメールなんか

    すぐにゴミ箱行きだし、テレビCMも一ヶ月後には記憶の片隅にもない。

     あなたの世間向けの広告費も同じ運命になるにちがいないのだ。


     いまはちょうど中流階級の広告がさしてありがたがられるものではなくなった。 

     広告を指標にする歓びより、自分を指標にする歓びのほうが

    もっと大事なのではないだろうか。


     多くを求めるから、われわれは生涯を労働に奪われる。

     自分の人生というものが空っぽになってしまい、自由がなくなる。

     多くを求めず、簡素な生活を心がければ、自由な生活が送れるのではないだろうか。

     ただ現在のわれわれは物がもっと欲しいというよりか、生活の保障への恐れのほうが

    もっと大きくなり、囚われるもとになっている。

     ソーローの時代に比べて贅沢で高級すぎる心配なのだろうが、

    世間一般の人たちはいつも要らぬ心配の鎖につながれて生涯を送るものなのだろう。

     いかにこれらの心配事から解放されて生きるかが、従属しない自由な生を送れるか、

    平穏な心をたもちつづけられるかの分かれ目なのだろう。

     「安心のバーゲン」のような中世の免罪符のようなものが売りに出されれば、

    われわれは生活保障という幻想から目を醒ますことができるのかしれない。


     多くを求めなければ、自由な生を送れるかもしれない。

     だけどわれわれの経済社会は人々がもっともっとをもとめることによって、

    市場は回ってきた。

     みんなが多くを求めなくなれば、経済は縮小せざるをえない。

     だけど経済成長や景気がよいだけでほんとうに人間の幸福と直結するのかは

    おおいに疑問だ。

     金銭や交換できるもの以外のなにかを求めることによって、

    逆に人間の情緒的な幸福感は増すことだって考えられる。

     われわれの不幸は貨幣に換算できる交換できるものだけを求めてきたことに、

    その充足感の不足があったのかもしれない。


     経済的な交換価値だけで物事を考えていると、いつも見返りや報酬を求めることに

    なってしまうが、行為や活動それ自体の満足が報酬だっていうこともある。

     ボランティアや人助け、愛なんてものは、報酬をもとめてではなくて、

    それ自体から受ける満足が報酬なのである。

     交換的価値だけで物事を考えていると、そういう人間の情緒的な活動動機

    みたいなところが理解できなくなってしまう。

     これは満たされない不幸な心のはじまりだ。


     経済が縮小したって、景気がよくならなくてもかまわないではないか。

     みんなが物質的なモノ、交換できるモノを求めない社会は、

    情緒的な満足におのずから向かう――向かわざるを得なくなる社会ではないだろうか。

     それだったらハッピーじゃないか。

     カネもモノもないし、多くを求めない社会は、心の楽しみを工夫することになるだろう。

     思い出してほしいが、カネのなかった子供時代のほうがいろいろ工夫したりして、

    心に残る思い出も多かったのではないだろうか。


     カネで得られる楽しみは逆説的に労働に自分の人生を奪われてしまう。

     バカみたいである。

     ほしいモノのために一生を労働に奪われ、手に入れたときはカンオケの中だ。

     これじゃ、あまりにも浮かばれない。


     カネで買うほしいモノがたくさんある社会では、自分の自由な生、自分の時間を

    際限なく労働に費やさなければならない。

     維持費や管理費があまりにもかかるために目いっぱい働かなければならず、

    ぜんぜん乗る時間がない高級車と同じではないか。

     これではあまりにも逆立ちし過ぎている。


     消費社会というのは、逆説的に自分の時間をもてない。

     構築や維持、労働にあまりにも時間がとられ、人生の時間がなくなってしまう。

     このようなことに気づいた賢明なソーローはフリーアルバイターや自給自足の生活を送った。


     われわれはソーローのような信念をもてないかもしれないが、

    金銭的望みは逆に人生の時間を奪うというパラドックスを忘れないようにしたい。






     孤独への疾走――ショーペンハウアーの社交論


                                                1998/8/24.




      「われわれがしたことのある気兼ねや心配のほとんど半分までが、

     他人の思惑に対する配慮から生じる」

      ショーペンハウアーは『幸福について――人生論』(新潮社)のなかでこういっている。

      つまり「人間は終始一貫、他人の意見、他人の思惑の奴隷となっているのである」


      だから「他人の思惑にはあまり重きを置かぬよう忠告すべきである」といっている。

      「この名誉欲という動機を理性的に見て妥当と肯かれる程度まで抑制し引き下げること、

     すなわち不断に責めさいなます棘をわれわれの生身から抜き取るのがいちばん

     よいことは明らかである」

      「名誉というものにしたところで結局は間接的な価値をもつだけで直接的な価値を

     もつものではない」


      人間関係は正直にいってメンドくさいし、じゃまくさいし、しんどい。

      気を使うことも多いし、嫌われていないかとか悪く思われていないかとか、

     いろいろ気を回すことが多くてツライ。

      わたしは中学生のころからそういった関係から早く逃れたいと思っていた。

      「会話」なんてぜんぶムダだと気づいてとても驚きもした。


      しかし学校というところは友達がいないと「居場所」がなくなる。

      意地でも友達をつくり、しがみついていないと、

     そこに存在すること自体がひじょうにむずかしくなってくる。

      そうして毎日毎日、同じ「仲の良い」友達と顔をつき合せなくてはならない。

      鎖のような関係である。

      どんなヒマつぶしの話をしようかとか、どんな気分の面持ちをするべきだとか、

     どうやって友達と合せようだとか、話題づくりをどうしようだとか、

     関係を悪くしないようにするにはどうしたらいいのかとか、気に病むことばかりだ。

      だから早くそんな鎖のような関係から逃れたいと思っていた。


      大人になればこんな毎日顔をつき合せたような付き合いから逃れられるのだと思っていた。

      高校の電車通学で、高校のグループ通学とちがって大人たちはひとりで

     通勤している人がほとんどだったからだ。

      この窮屈な関係からどうやって逃れるかということが、

     わたしが大人になるにしたがってつちかっていったテーマだった。


      そういったときに仲の良い友達とちょっとショックをうける経験をしてから、

     わたしは人生にたいするエネルギーを一挙にパワー・ダウンした。

      人からいいように思われることの衝動がいっきょにブッちぎれてしまった。

      それまではカッコよく見られようとDCブランドで着飾ったり、楽しい思いをしようとか、

     若いころの血気盛んな時期を過ごしていたのだが、いっきにそんなことをしても

     ムダじゃないかという気分に落ち込んだ。

      心理学や哲学書のような読書をするようになったのはそれがきっかけだった。


      そういった落ち込んでいた時期にもっと厭世的でペシミスティックなショーペンハウアーの

     思想にひきつけられていったのは当然の帰結である。


      いまから10年近く前にこの本を読んだと思うのだが、あらためて読み直してみると

     ひじょうに自分の捉え方や行動様式にしみついていることにびっくりしてしまった。

      群れることにたいする批判的なみかたや、拒絶感、拒否感といったものが、

     拭いがたく自分の中に沈殿している。

      そのために仕事での集団、グループの付き合いや距離感にひじょうにツライ思いを

     しなければならなかった。

      群れることの拒否感は人一倍強いのだが、一方では集団からぽつんと外れることや

     仲間外れになることがことのほか苦手で不安でもあったのだ。

      毎日鎖のようにつながれた関係、集団というのはなんとか逃れたいと思っているのだが、

     一方では集団から疎外されるさみしさや孤立感というのもひとしお感じる。

      その微妙なバランス感覚がひじょうに心苦しいのである。


      ショーペンハウアーは群れから離れることと自立する幸福を説くのだが、

     集団から疎外されることの恐ろしさにはあまり言及していない。

      集団から外れると、そこにいてはならないような気持ちや存在してはならないような

     気持ちにさいなまされる。

      だいたい学校でも会社でも、人とのつながりだけが存在の許可や容認を

     下しているようである。

      つながりがなければ、そこにいてはならない、存在してはいけないという気分になる。

      人はそういう恐ろしさに蹴落とされて、毎日どうでもよいツマらないおしゃべりを

     まくしたてたり、いつも集団で群れようとするのだろう。

      そういうことに腹を立てているわたしはますます黙り込み、集団から離れ、

     そしてその場にいてはならないような疎外感に恐れおののくことになる。


      わたしはあまり会話を楽しみに思ったり、人付き合いが好きだというわけではない。

      たぶんわたしはマンガや映画、音楽などのマス・メディアが好きだったから、

     人付き合いの魅力がことさら乏しいものに思えたのだろう。


      しゃべることのなにが楽しいんだろうと思ったりする。

      そういう人間は会話する目的がないから、いきおい会話の内容は

     人に合わせ勝ちになり、だからよけいに気苦労がたまり、会話がつまらなくなる。

      また会話自体にもうがった見方が出てきて、みんなは楽しいふりやおもしろいふり、

     会話のムードに合せようとしたり、たいへんだなと思ったりする。

      上下関係のある会話も気まずくてタマんない。

      みんな媚びとか調子合せで会話したりするなんてよくやるなと思う。


      しかし会話だけが人とのつながりなので、会話しなければ集団から

     疎外されていってしまう。

      会話することしか人とのつながりがないと気づいたとき、わたしはとても驚いた。

      こんなムダなことでしか人とのつながりは得られないのかと。


      集団から外れてしまえば、会社でも学校でもそこにいることがむずかしくなる。

      みんな仲良しゴッコとか楽しい会話ゴッコとかよくやるなと思いつつも、

     集団から疎外されることも恐ろしい。

      だからゲンキよくみんなと愉快にしゃべらなければならない。

      これはシンドイ。


      そういったわたしの捉え方にさらに追い討ちをかけたのがショーペンハウアーの

     社交界の洞察と孤独へのススメである。

      「すべて社交界というのものはまず第一に必然的に、人間が互いに順応しあい

     抑制しあうことを要求する。

      強制ということが、およそ社交には切っても切れないつきものである。

      社交は犠牲を要求するが、自己の個性が強ければ、それだけ犠牲が重くなる」


      「ふつうの社交界で人の気に入るには、どうしても平凡で頭の悪い人間であることが

     必要なのだ。

      だからこうした社交界では、われわれはほかの人たちと似たり寄ったりの人間に

     なるために、大いに自己を否認し、自己の四分の三を捨てなければならない」


      「人間が社交的になるのは、孤独に耐えられず、孤独のなかで自分自身に

     耐えられないからである。

      内面の空虚と倦怠とに駆られるためである」

      「自分自身に耐えるよりも、他人に耐えるほうが楽だからである」


      「全く自分自身のあり方に生きていて差し支えないのは、独りでいる間だけである。

      だから孤独を愛さない者は、自由を愛さないというべきだ。

      人は独りでいる間だけが自由だからである」


      みんながやるからやらなければならないこと、みんながやっているから

     あまり好きでないことでもことさら好きであるようなふりをすること、

     人に合せるために趣味や好みを合せること――そういったことに反発を抱いていたわたしは

     このショーペンハウアーの考え方がつよく染みわたった。

      ただショーペンハウアーの考え方にはちょっとひがみ過ぎではないかとか、

     他人を卑下したり軽蔑したりする傾向もところどころ見受けられるので、

     そういうところになびくつもりはあまりなかった。


      正月とかゴールデン・ウィーク、盆休みの集団同調行動、

     あるいはマスメディアのいうことは正しいといった暴力に腹を立てていたわたしは

     このショペンハウアーの考え方を身に携えて、孤独の道へと進んだ。

      むりに人に合せたり、同調しなければならないのなら、

     孤独なほうがいいと考えるようになった。


      20代の前半というのは孤独がつらい時期でもある。

      学生のころの友達づき合いがまだ残っており、ほかの若者はみんな遊び回って、

     楽しんでいるものだという思いこみがあるから、そこから外れることはことさら孤独感を誘う。

      孤独自体がつらいのではなくて、ほかの人から外れている、とりのこされている、

     といった気持ちがつらいのである。

      これは孤独感というより、劣等感や異質感といったものだな。


      20代後半になると学生のときの友達付き合いはだいぶ減り、

     会社での人付き合いはある程度距離をおけるから、かなり孤独に慣れる。

      おかげでわたしは自分の好きなことに没頭することができた。

      学生時代なら哲学とか読書なんかやっていたら、そんなクライことをするな、

     とかみんなに言われて、自分の好きな嗜好をあきらめざるを得なかったかもしれない。

      オタク的な趣味をもっていたり、マニアックな嗜好をもっている人も同じだ。

      だいたいふつうの人は「一般受け」することばかり目指すから、

     ひとつのことにのめり込まさせてくれない。

      妨害したり干渉したり、よってたかって凡庸な人間として角を削ごうとするから、

     なにか自分の好きなことがある人は孤独になったほうがよいかもしれない。
     

      わたしは自分の好きなことを選んで、友達付き合いをだいぶ捨てた。

      もういまでは孤独は平気すぎるくらい平気だし、たまにこんな孤独にしていて、

     いいのかなとふっと思ったりもするが、これが当たり前になったからなんとも思わない。

      たまに失業期間中の「バケーション」では何週間も人と口をきかないこともあるが、

     ドーでもいいことだ。

      まるで「都会の仙人」みたいな生活だが、都会ではそういう暮らしも可能なのである。


      ただそういうわたしも会社に属してそこの人間関係、集団との関係を

     渡っていかなければならないので、それはそれは疲れる。

      会社というところもやはり集団の輪といったものがあって、

     そこに入らなければ、疎外感を感じたりものすごく居心地が悪くなったりする。

      とくに仲の良い集団のばあいではなおさらだ。


      社会学者のウィリアム・ホワイトは『組織のなかの人間』(東京創元社)でいっている。

      「まことに集団は参加を促し、参加を要求するが、集団はある種の参加――

     その集団独特なやり方での参加――を要求するのである。

     集団とよりよく統合すればするほど、そのメンバーは自分自身をほかの方法で

     表現する自由をそれだけ制約される」

      「より多くの参加ということは画一性と不可分に結びついている。

      (関係が)うまくいっているがゆえに悩んでいるのである」


      ひじょうに薄ら寒い洞察である。

      仲がよくなればなるほど、自分らくしあることができなくなるのである。

      だからわたしは人や集団とある程度の距離感をおきたいと思っている。

      そうしたら今度は集団からの疎外や冷たい関係に悩まなければならなくなる。

      ヒジョ〜に難しいところである。


      まあいまではわたしも人と適当に仲良くしたり、集団に参加することも覚えていった。

      ショーペンハウアーや大衆社会論を読んだあとあたりは、

     集団に参加することの反発というものがものすごく強くて、

     集団からの疎外感というものをかなり強く味わわなければならなかったが、

     いまはそういった反発もかなり薄らいだ。

      集団になんか勝ち目はないのだ。

      そんなに反発しないで適当に同調するしかないのである。

      自分がなくなる、自分自身らしくなくなるといっていても、

     集団から疎外されることの恐ろしさもひとしおではないのである。

      テキトーな同調技術というものも集団のなかではやはりどうしても必要になるものだ。

      そんなに片意地はって、ヤマアラシになる必要はないだろう。

      肩の力を抜けばいいのである。


      ――以上、集団からの自立と依存に関してのわたしの変遷である。







    漂泊の人生に癒しを求めて

                                               1998/10/12.






     仕事が強烈に忙しくて心も体も疲れ果てていた。

     その疲労からか、むしょうに漂泊の人生を送った人たちの生涯を知りたくなった。

     あるいは自然とか森林、旅などから受ける癒しを求めていたのかもしれない。

     自分でもよくわからない、ただそういった種類の知識をむしょうに渇望したくなった。


     たまたま読んだ中野孝次の『清貧の思想』にものすごく感動したせいもある。

     「持たない生き方」「心の平安と高雅さをもとめる心」というものに強烈にインパクトを受けた。


     それまでわたしは仕事と会社だけに呑みこまれるサラリーマン人生から

    なんとか遁れたいと模索していたから、ヘンリー・ソーローなどの影響によって、

    稼がない生活というものを、(ほんのちょっぴりだけ)、目指していた。

     『清貧の思想』も同じようなことをいっているのだと、

    先入観で思い込んでいたのだが、この本はかなり違った。

     なにが心の豊かさなのか、心の高雅とはなにか、過去の日本人の中に見出し、

    そのために現代日本人の卑しさや醜悪さを強烈に逆照射していた。

     高雅や高貴さに生きた人たちの系譜を示されると――しかもこの日本という同じ国に

    かつて生きて暮らしていた人たちなのである――現代日本人はなんて醜いんだと

    呆れ返るほかない。


     持たない生活、貧困のなかでの清廉、静謐な生き方、そういった人たちを目の当たりに

    されると、欲望と情欲のみに生きる現代日本人は酒池肉林の地獄絵みたいだ。

     かつての日本人には欲を断ち切った生き方、心の高雅さをもとめる精神、

    清らかな心をめざす生き方、世俗からの隠遁といった生き方が存在していたのである。

     鴨長明や吉田兼行は世俗から隠遁し、西行や芭蕉、良寛は旅や漂泊に生きた。

     考えてみたらこの国には漂泊や隠遁に生きた人たちは仏教の影響からして、

    数限りなくいたはずなのである。

     昭和に入っても日本人の漂泊や隠遁の想いは強いらしく、

    寅さんや木枯らし紋次郎、子連れ狼、カムイといった人たちがヒーローになったし、

    ムーミン谷の隠遁者スナフキンもカッコよかったことを思い出した。


     しかし社会に出て仕事に縛られた毎日の中で「隠遁」や「脱俗」という言葉すら忘れていた。

     そういう人生の選択肢も――転職の選択肢だけではなく――あるのだと思い出した。


     現代のわれわれは「一流大学」に入って、「一流企業」に入ってというような、

    狭くて偏ったサラリーマンの人生コース・人生観しかもっていない。

     そういう生き方と人生しか知らない。


     欲望や情欲にしてもそうだ。

     マイホームであるとか新車であるとか新製品であるとかブランド品であるとか、

    あれもこれも欲しい、地位や権限、世間体、金銭は際限なくもとめろ、

    女や豪華な食べ物はいくらでも手に入れろ、欲のない人間はツマラナイ、

    カネを欲しがらなくなったら人生オシマイだ、みたいな世界観しかもっていない。


     欲望の留め金を放した生き方が賞賛され、それ以外の生き方、人生観を知らない。

     世界はそこで閉じている。

     人生のモデルはひじょうに狭く、偏っている。

     ほかの生き方を知らないし、知らされもしないし、可能性すら及びもつかない。


     なぜこんなに醜く卑小な人生観だけになってしまったのだろうか。

     やっぱりテレビなんだろうか。

     タダほどコワイものはないメディア――それがテレビだ。

     テレビというメディアに頭からどっぷりと浸かり、その世界観を客観的に、

    距離をおいて(それを異様なものとして)、見ることができなくなってしまっている。

     新興宗教の信者たちの世界は異様に見えても、われわれテレビを観る者たちも、

    じつは異様な世界に住んでいるかもしれないということにはまず思いもつかない。

     慣れとは恐ろしいものだ。

     テレビの価値基準だけが「世界」なのである。


     テレビというメディアは四六時中、新製品・商品の宣伝を流している。

     こんな広告タレ流しの世界ばかり観ていて頭がイカレないほうがオカシイ。

     広告宣伝の価値基準だけの世界のみがわれわれの「世界」であり、

    それ以外の価値基準の世界があるということすら忘れている。

     われわれは完全にテレビ界の住人なのである。


     ここでは欲望の蛇口に栓は、当然ない。

     欲望に栓をするのはこの団体では最高の犯罪である。

     禁止要項を破った者に対しての罰則は、イジメや世間からの疎外、仲間外れである。

     ニュースやプロ野球の結果、人気番組を見なかったあなたは次の日、

    仲間や職場の人たちから仲間外れになっていることを知るだろう。


     欲望の無際限の解放は、知識や科学によってそのドアを開け放たれたのだろう。

     知識や科学はわれわれに無限大の可能性を信じさせ、

    人間にはなんでもできるのだという神のごとく全能感をもたらした。

     同時に欲望の無際限の解放というドアも開け放った。

     近代の科学・知識信仰は、そのすばらしい表面とは裏腹に

    欲望の無条件の追求をも人間にもたらしたのである。


     知識の追求それ自体が欲望にほかならないのだから。

     欲望は知識の追求という想像力によって点火される。

     知識はわれわれの欲望社会、消費社会のベースにほかならない。

     われわれの欲望は知識や情報などによって――つまり「知る」ことによって

    わきあがるのであって、なにも知らないところに欲は立ち上がらない。

     まさに知識は欲望である。


     科学や知識が悪いものだという認識をまずわれわれはもたない。

     この社会では最高善や無条件に賛美されるものになっている。

     しかしそれはカネや名誉、地位などの欲望の無条件の賛美にも通底しているのである。

     ブランド品、電化製品、カネ、地位をもとめる人々の欲望は、

    知識人たちの世俗版・一般ヴァージョンにほかならない。

     
     かつての日本人には欲を捨てて心の高雅さや安らかさにいちばんの

    価値をおく生き方が尊敬され賞賛もされた時代の流れがあった。

     カネやモノを多くもてば幸福になれるのではなく、それは逆に心の自由を

    奪うカセになることを先人たちは知っていた。


     現代のわれわれは欲望がもたらす因果関係を結果論的に知り得るまでには至っていない。

     大半の人は、欲望がもたらす結果の苦しみ、欲望があるがゆえの苦悩といったものを

    ほんとうの意味で体験していないのだろう。

     だから欲望の無条件の賛美と称賛が危ぶまれることはない。


     それはそうだろう、戦後の日本社会は経済の絶頂期にあったのだから。

     働けば働くほど儲かる、経済や会社は大きくなる、車や電化製品もいくらでも手に入る、

    といって欲望の無限に充足できる時代環境がそろっていた。

     欲望ゆえの苦悩・苦痛を経験しないですんだ。

     しかしこの経済満帆期はたまたま戦後の経済復興と市場マーケットの拡大、

    それと冷戦という擬似戦争状態がもたらした幸運にほかならなく、長くはつづかない。

     これから日本人は欲望がかなわない苦悩と直に直面することになってゆくだろう。


     これは先人たちがいっていた、快楽はそれの得られない苦痛をかならずもたらす、

    といってきた経験をわれわれに与えることになるのだろう。


     けれども若者たちはもっと早くから欲望がかなわない事態に直面してきた。

     ではなくて、欲望の目標や対象がない事態だ。

     これまでの経済成長期の欲望や目標がことごとく魅力のないものや

    ツマラナイ、目指すべきものでなくなっていて、それでもその社会制度・風潮が

    つづいているこの社会で生きてゆかなければならなかったのである。

     この苦悩、憂うつ、やり切れなさは大変なものである。

     いまの大人たち、既得権益を握っている社会層にこのやり切れなさが理解できるだろうか。

     若者たちは彼らよりはるかに早く欲望の苦悩という問題と格闘しなければ

    ならなかったのである。

     欲望がかなわない苦悩ではなくて、中身のない欲望を押しつけられる苦悩だ。


     個人的な話に戻るが、わたしは会社に呑み込まれる人生、

    仕事しかないサラリーマンというものに怖れを抱いていた。

     こんなのは人間の人生じゃない、人間らしい生き方ではないと思っていた。


     だけど現代ではそのような社会で生きるてゆくしかない。

     出世欲なんかまるでゼロだし、自分ではない「会社」を自慢する大人をケイベツしているし、

    稼いでもぜんぜん使うことがないことに気づいたし、牛のように働かされるなんてまっぴらだと

    思っているわたしが、この会社社会で生きてゆくのはかなりシンドイ。

     ほしいモノもあまりないし、マイホームなんか買う気もしんどすぎて捨ててしまったし、

    所帯をもつ気もあまりおこらないし、そもそも仕事にたいするモチベーションが

    ほとんど立ち消えになっている。


     そんなわたしが忙しい仕事に巻き込まれるなかで、

    漂泊放浪の人生に心の渇きを癒そうとするのはとうぜんの帰結である。

     最近はほんと書店に行って漂泊流浪の本ばかり漁り回っていた。

     でもじつのところわたしは案外、定住民的な生き方がからだに合うみたいで、

    一時の宿にするつもりだったアパートにはもう10年近く住んでいるし、

    旅行はほとんどしなく、海外旅行といえば、四国?くらいだ。

     大阪からほとんど離れなく、西は山口、東は東京、北は富山くらいまでしか

    行ったことがなく、それもそれらはあまり本格的な旅ではない。

     旅行というのは行ってみてもぜんぜんおもしろくなく、かつての小学校時代の

    観光名所巡りにはあまりにもくだらなくて、憎悪!を燃やしていたくらいだ。

    
     それでも束縛や忙しさからなんとか逃れようとして、わたしの心は漂泊や脱俗、

    隠遁などの生涯を送った人たちの生き方を渇望した。

     生活や仕事、世俗から、身も心も断ち切った生き方にひかれたのである。

     束縛や忙しさの生活のなかで満たされない心を、じっさいに漂泊や放浪は

    できないかもしれないが、心だけでも満たそうとしたのである。

     心の癒しがあるかもしれないと茫漠と思ったのである。


     世俗を捨てた生き方、持たない生活、漂泊に生きる人生――そういった生涯を

    送った人たちは、代表的なところでは空也や西行、一遍、良寛、

    山頭火といった人たちがいるようだ。

     隠遁、脱俗という生き方では鴨長明や吉田兼行、蕪村といった人たちがいる。

     ただあまりくわしいことはわからなくて、書店ではあまり漂泊や隠遁についての

    まとまった本は少なく、またかれらの生き方を紹介した本もたいしてわたしの渇きや癒しを

    満たしてくれたわけではないので、自分の中で知識が根づかなかった。

     一遍と西行の漂泊の人生を読んでみたが、ほとんど心の渇きは癒されなかった。

     自分でもどんなことに癒しを求めているのかもよくわからない。


     なにもかもを捨てた人生を現代に生きるわたしでも送ることができるのか、

    といったことを知りたいと思ったのだろうか。


     捨てれば捨てるほど心の安らぎは得られる。

     財産や名誉、地位は求めれば求めるほどその苦悩をも倍加する。

     快楽は得られない苦痛や不安をかならず与えるからだ。

     心の平穏は得られないだろう。


     逆に名誉や財産、地位を捨てた生き方はのぞむものが少ないから心が苦しむことは

    少ないし、しかも返って生きていることやただ存在していることにすら

    喜びを見つけられるのだと先人たちはいっている。

     それが人間の最高の宝なのだとかれらは語っている。

     捨てる生き方、清貧の思想、シンプルライフ、そういった生き方が過去の聖人や賢人に

    求められてきたのは、そこに心の充実がいちばん多くあるからなのだ。


     現代人なら名誉や財産、地位を捨てる生き方は、願いがかなわなかった挫折や

    敗北ゆえの敗者の怨み言にしか過ぎないと一蹴するだろう。

     負け犬のたわごとに過ぎないとかれらはますます闘志を抱くみたいである。

     これが欲望社会の優劣価値なのだから、劣者に蹴落とされないために――

    かれらは負け犬になることの恐怖や哀れを感じて――ますますその心の痛みを

    カバーするために欲望の充足を求めることになるわけだ。

     かれらは負け犬を哀れだと思ったがゆえにその怖れる心に追い立てられるわけである。

     どうやら地獄というのは自分自身でつくりだすもののようである――

    人をけなしたがゆえに。


     欲望というのはそもそも劣等感や欠損感というものからわきあがるものかもしれない。

     足りない部分、欠けている部分を補おうとして欲望は生まれ、

    しかしその苦しみや悲しみはたえず心から離れることはないから――

    つまり心の判断基準はいつまでもつきまとうから、欲望が満たされようが、

    どうなろうが、悲しみはついてまわることになる。


     われわれは自分のものごとの捉え方、判断というどこまでもついてくるものに

    苦しめられていることに気づかずに、どこまでも欲望を追い求める。

     欲望は達成されたり充足されたりしていつか必ず終わるときがくるが、

    わたしの心の捉え方や判断はいつまでも終わることはない。

     それがわれわれを苦しめるのである。


     捨てる生き方は自分を苦しめる心というものに濁りなしに近づくための

    方法なのかもしれない。

     心の充足は心それ自体のなかにあるのだ。


     漂泊の生き方は人生のほんとうの豊かさとはなにかを問いかけている。

     なにかを所有しようとする生き方はいつも心乱される。

     そもそもなにも持たないでも人間は十分満たされており、

    そのほうがなおいっそう心安らかに生きられるようである。


     捨てる生き方はいちばんシンプルで、いちばん幸せな人間のあり方や

    心の平穏さを教えてくれる。


     現代のがしがしに縛られ、いまにも窒息しそうなこの経済社会は、

    多くの所有を――それがモノであれ安定であれ保険であれ知識であれ――

    際限なく求めたがゆえの不可避的な苦しみなのかもしれない。


     漂泊の生き方のなかに人間存在そのものに自足する心の豊かさがある。





     ご意見お待ちしております。    ues@leo.interq.or.jp 





     「漂泊と放浪について読んだ本」はこちらです。

     リンクです。隠遁と世捨てについての貴重なホームページ「隠者の森へ」
     荷風や芭蕉、般若心経などの文章、旅についてのページがある。
     このページを読んで隠遁と世捨て、厭世の心構えと誇りをもてたらいいのだけれどね。






PHOTO ESSAY  心象風景紀行


1998/10/25.














































































































































































































































いかがでしたか。
心はさわやかになられましたか?

試行錯誤でこのようなフォトエッセイを創ってみましたが、
心が安らかになることができたでしょうか?

ご覧くださいましてありがとうございます。







なお、ネイチャーフォトのすべてはインプレス『Internetホームページ用素材集
Photoコレクション』のきれいですばらしい写真の数々を
掲載させていただきました。感謝します。




自然が語りかけるもの











































































































































































































































掲載写真−『PHOTOコレクション』インプレス







      陶淵明の隠遁と脱俗について思う


                                              1998/11/15.




    慌ただしさと忙しさに追われ、漂泊や隠遁に心の癒しをもとめたわたしは、

   たまたま書店でぱらぱらとめくってみた陶淵明の書物に心惹かれた。

    東洋的諦観というか、心を鎮めるような言葉がたくさんつづられており、

   いまのわたしの心境にとても心地よく溶けこんできた。


    漢詩を味わうような高邁な趣味をわたしはもっていないが、さいわいなことに、

   岩波文庫の『陶淵明全集(上下)』(松枝茂夫・和田武司訳注)には現代語訳がついていた。


    漢詩の味わいかたといったものはどういうものかよく知らないが、

   現代語訳を読んでいるだけでも心綻び、心あたたかになる。


    この随想では隠遁と脱俗という生き方を、この現代語訳から受ける印象の範囲で、

   語ってみたいと思う。


    陶淵明は脱俗と隠遁の人である。

    生活のためにいやいやながら官僚社会に仕官していたが、「帰りなんいざ」といって、

   たびたび嘆くことになる田園での清貧な生活に戻った。


    「帰りなんいざ――役人をやめた現在こそ正しく、かつての生活があやまりだったことに

   やっと気づいた」というあたりは、ふっと一瞬泣きそうになった。

    現代のわれわれはサラリーマンとして企業社会に呑みこまれてゆくしか仕方がないが、

   わたしはいつもそのような毎日に疑問と虚無感を抱いてきたから、

   この詩は泣きそうになるくらいわたしの心に染みこんできた。


    われわれはあやまった生活を送っているのだろうか。


    田畑を耕し、自然とともに生き、俗世界から解き放れた生き方こそ、

   ほんらいの人としての在り方なのだろうか。


    われわれはあまりにも自然とともに在る生き方から正反対のものになっている。


    都会のアスファルトとコンクリート、車の排気ガスと騒音といったものは、

   まるで自然ではないし、働く環境も機械やコンピューターに囲まれ、自然の環境と

   ほど遠いし、他人や世間の評価や虚栄心ばかりに振り回されている。


    どれもこれもが陶淵明が愛した自然と程遠いものだ。


    人工のものや人為のものばかりに追い立てられている。


    「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす」というのは環境だけではなく、

   われわれの内なる自然――心についてもまさに当てはまる。


    といっても現代のわれわれは自然からあまりにも程遠いところに来過ぎてしまった。

    自然とともに生きる農村の暮らしといったものは、われわれの記憶自体にはもうない。

    だいたい祖父母の世代で農村生活の記憶は途絶えている。

    帰るところはすでにもう、ない。


    生まれたときから都会に住んでいるものにはもう自然には帰れないのだろうか。


    せめて心のなかだけでも自然に帰りたいものだ。

    心のなかの自然とは心の安らかさである。


    こころとはほんらいそのような安らかな自然を内にもっているのではないだろうか。


    しかしじっさいのわれわれは人為や人工の汚濁や汚染で心乱されて生きている。

    欲望、虚栄心、名誉心、金銭欲、エゴイズム、安定、保身……。

    おかげでわれわれの腹の中はまっ黒だ。


    そしてその欲望の裏面には心配や苦悩、悲しみ、不安、恐れが必ず張りついている。

    「欲望をお買い上げのあなたにはもれなく苦悩もセットでついてきます」という具合だ。


    このような世俗との絆を断ち切ろうとしたのが陶淵明だ。

    かれは世俗との縁を切って、超然とした田園生活に戻ろうとした。


    世俗の名誉や地位などとは縁を切ろうとした。

    千年や万年後にはどんなに名をなしたところでだれも覚えていないし、

   墓場の中の死者はもう体も名も消え去ってしまい、そんなことを露とも知らない。

    この世の心残りといえばただひとつ、思う存分酒を呑めなかったことだといっている。


    そうである。

    名誉やカネをめざしたところで100年後にはだれもかれもが棺桶の中だし、

   歴史に名を残したところで、自分の体も心も消滅してしまっている。

    どうせ死んでしまう人生、世間との気兼ねなど捨ててしまって、

   ほんらいの自分――日常の生活のなかに平穏をもとめるほうがいいのではないか。

    名誉や地位、聖なんてものは求めず、ただ毎日の平安のみに満たされるのが、

   人間としての自然の在りかたではないのだろうか。

    それを陶淵明は平生の酒に象徴しているのではないだろうか。


    なぜなんだろうか。

    なぜわれわれはこんなに世間に繋がれて生きているのだろうか。


    なぜ人は世間での名誉や栄誉をそんなに欲しがるのだろう。
   
    世俗や世間はそれほどまでに大きな見返りを与えてくれるというのだろうか。


    わたしの子どものころを思い出せば、歴史の中に名を残さず、

   無に消えていった多くの人たちに怖れを抱いた。

    歴史には多くの名を残した英雄や賢者がいるが、それに比べてまったく歴史にも残らない

   多くの人たちの生はあまりにもはかなく、空恐ろしいものだった。   

    死の恐怖を、歴史に名を残すことで解消できるようにぼんやりと思っていたのだ。


    このように思うのは名前と自己を混同してしまっている。

    自分が死んでしまったら、名前が残ろうが残らまいが、自分は消滅してしまっている。

    死は名を残すことによっても解消されない。


    歴史についての知識はそのような死の払拭を可能にさせるように思い込ませてしまう。

    この世になにか残すことが、死から逃れようとする自我が望みを託す唯一の頼みになる。

    われわれ人間は写真であるとか、創作物であるとか詩であるとか、墓であるとか、

   さまざまなものをこの世に残しておこうとするが、それはやはり無に帰す自己の存在を

   この世に刻印したいがためになされるのだろう。


    歴史は歴史に名を残す人物たちを羅列するがゆえに、意味なく無に消えていった

   おおぜいの人たちを逆に浮き彫りにする。

    自我は名前の存続により、自己の存続を図るのである。

    歴史は人物の名を残すために死を恐れた自我はそのことに望みを託すのである。


    だけどけっきょくのところ、無に帰した自己にはそのことはなんの関係もない。

    自己は体も心も消滅してしまっているのだから知りようもない。

    心、意識、思考というのはそのような愚かな希望を夢想してたくらむのである。


    われわれの名誉や名声への欲望は死の恐怖がなせるものなのだろうか。


    こういう恐怖は死について考えないことに限る。

    考えないことは存在しないことであり、怖れは考えなければ存在しない。

    死の恐怖は考えることによって呼び覚まされるものだ。


    陶淵明のいうように人生の大きな変化に身をまかせてただよい、喜ばず恐れず、

   この生命が尽きるなら尽きるでよい、と諦観するのが心の平安にはいちばんよい。

    へたに死についてこねくりまわすと恐怖を増大させるのみである。


    世間や世俗に釘つけられるのもまた死の恐怖からだろうか。

    われわれはとかく世間やまわりの人たちに認められようとする。

    忘れ去られたり、世間から孤立したり、嫌われたり、評価されなかったりするのを

   とかく避けようとする。

    だからこそゆえに、おおいに世俗の毎日は苦しいのだが、

   それでも人はこの世俗の中に突き進んでゆく。


    自我は他人の頭の中に印象を残そうとやっきになっている。

    人に認知されないことはこの人間社会では極端な場合は死にもつながるわけだから、

   ましてや子どもの場合なら親に認知されなかったらなおさらだから、

   われわれは人に認められようとやっきになるのだろうか。

    「死ぬのなら死ねばいいだけじゃないか」といったような東洋的諦観を身につければ、

   名誉も評価もどうでもよいものになるのではないだろうか。


    陶淵明のように隠遁と孤高の境地に生きられれば羨ましいなと思う。

    世間の価値基準や貴賎、優劣、上下なんてどーでもいいじゃないか。

    そんな他人のつくりだした基準なんて、しょせんは他人の気性に合った規格にしかすぎない。

    なにが良くてなにが悪い、なにが偉くてなにが低い、なにに価値をおかれて

   どの価値が低いか、そういったものは世間の人たちがつくりだした価値基準でしかなく、

   絶対でもなく、超自然的に決定づけられたものでもなく、時代時代でうつり変わってゆくものだ。


    自分の価値観とそっくり重なり合うことなんてまずない。

    ましてや自分の価値基準も年齢や考え方によって転変変化する。

    世間に合せるより自分に合せるほうがよほど幸せだ。


    現代では大企業に入社するとか、エリートコースにのっかるとか、

   金持ちになるとか、豪邸に住むとか、そんな価値観がよいものとされている。

    しかしわたしはそんな価値観がこれっぽっちもよいとは思わない。

    どーでもいいことだし、羨ましいとも思わない。

    だるいだけである。

    わたしがそんなものをめざそうとするとよけいな労苦をしょいこむだけだ。


    メディアや読書に心惹かれてきたわたしはそれだけで満足なのであって、

   金持ちになることや地位が高くなることなんてまるでどうでもいいことだ。

    世間の価値なんてどうでもいいし、社会的慣習や多数者の画一的な奔流に

   押し流されるだけなんて、腹立たしくていやだ。

    世間は世間で勝手にやっていたらいいのだ。


    陶淵明は名誉や地位を捨て困窮の生活を送った清貧の先人たちに憧れを抱き、

   官から身を引き、迷ったり、ときには悟りの境地に到ったりいろいろしながら、

   隠遁の生活を送った。

    世俗から離れることは心の平安をもたらす。

    世間の価値観というのはそういう心の平安を決してもたらしてくれないものなのだろう。

    さっさと見切りをつけたほうが自分のためにはよいのかもしれない。


    カネや名誉を求める生き方と、心の平安をめざす生き方。

    どちらがいいのだろうか。


    カネや名誉の欲望をどこまでも拡充する生き方はそれなりに体験や経験ができ、

   いろいろおもしろい人生かもしれない。

    それはそれなりに楽しいのかもしれない。

    ただそれにはやはり苦労と苦痛はついて回る。


    心の平安をめざす生き方はカネや名誉、地位といった欲望を捨てたところから、

   そのような安らかな境地がはじまる。

    心の豊かさとは外界に欲望を求める生き方を降りる地点にある。

    恐れたり、不安になったりといった心乱される平生からおさらばすることが、

   心の平安を求める生き方である。


    どちらがいいなんかはわたしには一刀両断はできやしないが、

   欲を満たそうとする生き方より、はじめからそれを望まない生き方のほうが、

   心安らかに生きられるのは当然のことである。


    陶淵明のように隠遁と脱俗に生きられればいいなと思う。

    陶淵明が生きた時代からもう1500年もたち、現代では隠遁といった生き方が

   あまり見かけられなくなった。

    隠遁に生きる現代人といったものがイメージしにくくなった。

    仏教寺院にはそのようなものはさっぱりない。

    あえていうなら現代では田舎暮らしがそのようなことを志向しているのだろうか。


    わたしは都会の中でサラリーマンやら中流階級やらそういった生き方しか知らず、

   そのようにしか生きられないと思い込んできて、

   なんかとかこの拘束や閉塞から逃れ出たいと思ってきた。

    1500年も前に生きた陶淵明からその手かがりはつかめられるのだろうか。

    現代でも隠遁や脱俗に生きる人たちは山林や海浜の中に数多くいるのだろうか。

    このような生き方はどこにも行くあてを失った閉塞現代人のひとつの道標を

   与えてくれるのだろうか。


    でもそんな人知れない生き方はちょっとわたしには淋しすぎるかしもれない。

    都会育ちのわたしは人家のない林間地帯の恐ろしいまでの沈黙と闇に

   圧倒されたことがあるから(街灯のない心細さ)、ちょっと恐ろし過ぎる。


    とりあえずはこの陶淵明の詩集をなんども読み返し、心の渇きが癒されればいい。




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      欲望社会と賢者にみる人間の品位


                                                1998/12/4.







     現代では人間の品位や品格を誉めたたえることがなくなってしまった。

     人徳や高雅さ、高貴さといったもので人が評価されることがまるでない。


     現代では金持ちになったり、高いブランド、モノをたくさんもったり、事業を成功させたり、

    大企業に属したり出世したり、地位をもったりすれば、人々から誉めたたえられる。

     いずれもその人格や人間そのものではなく、その人がつくりだしたり、

    もったり得たりする対象にその評価・称賛が寄り集められる。

     あわれででもある。


     日本社会は戦後の五十年間、貧困から立ち直るという大義名分のもと、

    経済的繁栄というただひとつの大目標のみを追い求めた。

     人々はより多くのモノを、より多くのカネを、より大きな地位と名誉だけを追い求めてきた。


     物欲や金銭欲、名誉欲を戒めたり、非難するような社会的雰囲気は皆無であった。

     欲望を抑制する、欲を卑下する、といったような美徳はまるでなかった。


     TVでは人々の物欲は無限に引きだされ、企業内では無限の拡大欲と出世欲、

    所得向上だけが吹きこまれ、めざされている。

     家庭でも同じことだ。

     母親は子どもにエリートコースを歩ませようと受験戦争に叩き込み、

    父親には所得向上と地位向上、家屋拡大の欲望を日ごと押しつける。


     こういう欲望の無際限の肥大化をだれも咎めないし、卑下も非難もしない。

     だれもそれを白い目で見たりしない。


     このような社会状況の中で、だれが政治家たちの終らない汚職を非難できるというのか?

     だれが官僚たちの支配や不正を非難できるというのか?

     教職につく者たちの頻発する性犯罪をはたしてわれわれは裁けるのか?


     かれらはまさにわれわれ自身の鏡であり、われわれ自身そのものの姿である。


     われわれ自身がかれらの出現を容認するような社会の下地をつくっている――

    もっといえば、かれらを「褒め称える」ような社会風潮をつくりだしているのである。


     カネやモノだけがめざされた社会の帰結はとうぜん、人間の堕落である。

     品位や品格の失墜である。


     たたえられるべき賢者も、賞賛されるべき人物もいない。


     経済的繁栄の下で犠牲にされたものはまさしく人間の品格そのものである。


     このような欲望の垂れ流し社会において、下卑た支配者、エリートたちが

    跋扈するのは当然の流れである。


     このような社会的空気を胸いっぱいに吸い込んで育ってきたわれわれはおそらく、

    この世界がどんなに異常で、逆立ちしたもなのか、なかなか気づきにくいだろう。

     汚れた川に住む魚たちがその汚濁を知らないように。


     かつての日本や中国の賢者たちは、みずからの欲を捨てることによって、

    人々から褒め称えられてきた。

     カネやモノ、名誉に囚われる生き方を捨てて、いさぎよく、

    飢えや貧困、超俗、隠遁の中で、その生を生きた。


     流れとしては仏教のブッダや数々の名僧たち、中国の隠遁や老荘思想、

    およびそれらに影響をうけた中国文学者、日本文学者たちなどがいる。

     かれらは貪欲や欲望を捨て、世俗の栄達や名誉も捨てて、自然を愛で、

    清澄な心のもと、その生を全うしようとした。


     みずから欲を捨てる生き方がかつてのこの国で褒め称えられてきて、

    人々の憧憬の的になっていた時代もあったのである。

     欲望を解き放った現代日本からは信じられない話だが。


     かつての賢者たちは人々に欲を断ち切った生き方のモデルを指し示すことで、

    いつの時代でもそうであっただろう――欲に流れがちの人間の心を戒めてきたのである。


     といってもかれらはもともと人々の貪欲さを戒めるために

    そのような生き方をしたのではない。

 
     そこに心の平穏――心の安らぎ、心の清らかさがいちばん多くあるからなのだ。


     欲望を追い求める生き方は多くの苦しみ、苦痛をもたらす。

     多くを求めるがゆえの苦しみに直面しなければならない。


     心が穏やかで晴れ晴れと澄み渡った様子になるには、

    そのような波風立たせる欲望は大いなる災厄である。

     ゆえにかれらは欲を断ち切ろうとしたのである。


     そのような脱欲・脱俗の生き方をした人たちを社会の上位に立てていたということは、

    社会全体もそのような生き方を志向してきたのである。

     欲に駆られて生きるより、欲を捨てる生き方が賞賛されてきたのである。


     現代社会の上位者、称賛される人たちと比べると鮮やかな対比をなす。

     現代では欲望の達成、名誉の獲得、地位の拡大をなした者のみが、

    賞賛、崇拝される。

     社会的価値を体現した者たちがそうなら、下位の者たちも押しなべてそうである。

     貪欲と欲望の無限拡充がこの社会の合言葉である。


     欲望の解放は、西洋的な科学技術、消費社会の進展をもたらしたのは確かだ。

     そのようなモラル・バリアをうち破らないことには、

    われわれが現在享受するこの技術文明の進展をもたらさなかっただろう。


     ただこの欲望解放社会は、やはり人間の心の荒廃をももたらした。

     人間の品位や尊厳の堕落である。

     下卑た犯罪、貪欲な人々の行動にこの社会が満たされたのは、

    やはり欲望の無限拡大がはじめから内包していたものだったのだろう。


     文明や技術発展、経済的繁栄のもとに犠牲にしなければならなかったものは、

    われわれの心の美しさや清らかさだった。


     犯罪やゴシップにみられる現代人の醜悪さは、

    われわれ自身そのものが心の清澄さを失ってしまったからにほかならない。


     貪欲の汚濁にまみれた現代人はこのまま心を汚染しつづけるか、

    それとも心の浄化をおこなう道に踏み入れるのだろうか。


     ただ古来の賢者たちもやはりまったく欲を捨てたわけではないようである。

     賢者と褒め称えられること、歴史に名をとどめること、あるいは書物や文書を残すこと、

    そういったことはやはり名誉欲を極限にまで捨てたわけではない証拠である。


     隠遁にしろ、脱俗にしろ、名前や文書が残るようでは、

    まったくの世俗を捨てたことにはならない。

     名誉や名声を希求しているわけだ。


     現代では夢や目標という欲をもつことは基本的に善とされるが、

    かつては欲を捨てたと「見られる」ことに評価が集まった。


     欲を捨てて脱俗するという「名誉」があったわけだ。


     カネや社会的地位は捨てるが、それらを捨てることの「名誉」である。

     いわば社会的地位に積極的に殴り込みをかけるような名誉ではなく、

    逆にそこから消極的に逸脱することに名誉があったわけである。


     世俗的価値観にギラギラと生きるより、

    それらからあっさりさっぱり身を退くことに称賛が集まった。


     こういう欲から降りる生き方は、社会や文明が成熟期から衰退期に向かうころ、

    にわかに脚光を浴びる思想や生き方なのだろう。

     ギリシャでもディオゲネスやエピクロス、ゼノンといった「後ろ向きの経済思想」を

    もつ人たちが現れたし、中国でも儒教に代わる老荘思想、仏教思想などは、

    無為自然や出家などという経済世俗からのドロップアウトを説いた。

     下り坂の社会はギラギラとした欲を嫌い、心身ともにあっさりと生きたくなるものなのだろう。


     ヨーロッパ=アメリカ文明、および日本はそのような段階に

    踏み入れようとしているのだろうか。

     技術的、経済的な壮大なフロンティアの夢を描けなくなった社会は、

    自然と心の油ギッシュな欲望を敬遠するようになってゆく。


     のぞましいことでもある。

     欲望に生きた社会はとうぜんその完成期には夢が潰えた分だけ、

    醜悪で悲惨なまでの貪欲な人たちがクローズアップされやすくなるのだろう。

     目につくのは我と我が身の欲望と保身、栄達利欲のみ――。

     なんじゃ、このエゲつない世相とは……?となってしまう。


     それがまさに現在おこっていることではないだろうか。


     そういった時代には逆に欲に生きない、欲を捨てた人々に称賛が集まる。

     金銭欲や物欲に囚われない、それらを捨てた人たちに名誉が付与される。


     名誉の型が積極的な面から消極的な面へと移り変わるのである。


     皮肉なことでもあるが、欲望を捨てるという「名誉欲」が人々にわきあがるのである。


     だけれども貪欲な人々に満たされた社会に食傷気味になった人たちは、

    とうぜん欲を断ち切った人たちのその清廉さ、潔さを感じるだろう。

     少なくとも目の色を変えて自分を利用したり、むしゃぶりつくそうと貪欲にこり固まっている

    人より、欲と世俗を捨てたあっさりした人のほうが安心できるだろう。


     いまのところこの社会はそのような兆しをほとんど見せていないが、

    心の高雅さに生きた人たちの系譜をたどった中野孝次の『清貧の思想』はベストセラーとなり、

    貪欲にこり固まった現代人に心の反省を迫った。


     衝撃でもあった。

     汚い水しか知らなかった魚がはじめて清らかな流れを知ったようなものである。


     ただ、欲を捨てたり、世俗から離れ住んだり、隠遁するといった生き方は、

    どうも究極に欲望を捨てたというわけではなくて、欲を捨てるという名誉欲まで

    捨て切ったわけではないようである。


     難しいところである。

     その欲まで捨ててしまうと世間にはぜんぜんその生き方、思想はつたわらず、

    世人はまるでかれらの潔い生き方のモデルをも知り得ない。

     損失でもある。

     そして名誉もない。


     人間というのはどこまでも世間や社会の名誉や評価を求めてやまないものなんだろうか。


     世間に少しもその見聞が知られない欲を捨てた人というのは無数にいたのだろうか。


     でもこうなると「世を捨てた人」と「世に捨てられた人」の区別は

    ひじょうにつきにくくなる。

     はたしてわれわれは「世に捨てられた人」に賢者の相を見るだろうか。

     現代では地下街や繁華街に寝そべるホームレスたちに、

    すこしでも賢者の面影をうかがうことができるだろうか。


     「世を捨てた人」であるからこそ、われわれはかれらを賞賛するのであって、

    「世に捨てられた人」を賢者と認めるわけではないだろう。

     ただ欲を捨てるという欲すら捨てた人をわれわれは見分けることはできるだろうか。


     いずれにせよ、真の賢者にとってそんなことはどうでもいいことだ。

     かれらには世俗の価値判断、評価などどこ吹く風である。

     だれがどう評価しようが、見下そうが、非難しようが、まるで意に介さないのが、

    賢者というものである。


     人間たちがことごとく切り分ける事物の世界を超越している。

     そのような煩悶なき心の境地をめざしたのがかれらである。


     安らかさ、平穏、清らかさ、清澄さ――そういった心の世界に賢者は住まう。


     人々の考え、意見、判断、噂や悪口、分別、そんなものはどうでもいいことだ。

     それらがみずからの心を汚し、心を苦悩の大海につき落とすことを知っている。

     賢者の心は空っぽである。


     できれば欲や煩悶に流されがちなわたしもかれらの心のように清澄になりたいものだ。



     ご意見お待ちしています。    ues@leo.interq.or.jp



       98年 知の収穫ベスト10


                                           1998/12/23.






     ちまたでは一年をふりかえった読書特集があふれているので、

    わたしもこの一年の知の収穫についてふりかえってみます。


     今年読んだ本のベスト10です。

     あくまでも今年出た本ではなく、わたしが今年読んだ本のなかから選びます。




      中野孝次『清貧の思想』 文春文庫

      洪自誠『菜根譚』 岩波文庫

      『陶淵明全集』 岩波文庫

      藤原新也『全東洋街道』
 集英社文庫

      中川八洋『正統の哲学 異端の思想』 徳間書店

      竹内靖雄『日本の終わり』 日本経済新聞社

      高橋健司『空の名前』 光琳社出版

      村上龍『寂しい国の殺人』 シングルカット社

      ケネス・ラックス『アダム・スミスの失敗』 草思社

      石川英輔『大江戸生活事情』 講談社文庫




     とまあこんな具合になります。

     遅蒔きながら読んだ『清貧の思想』がいちばん影響を与えたことになります。

     秋以降その『清貧の思想』の影響のもと、わたしの読書傾向は漂泊や放浪、

    東洋的癒し、中国思想へとがらりと変わります。



  戦後近代化の誤り


     それまでは経済には道徳がないのではないかといった経済思想系のテーマ、

    これからの経済や生きかたといったテーマの本を探っていました。

     『アダム・スミスの失敗』は経済学にはなぜモラルがないのかを探った好著でした。
  

     竹内靖雄の『日本の終わり』は戦後日本の総決算ともよべる本です。

     けっきょく戦後の日本は「国家社会主義」をやってきてその閉塞感があらゆるところに

    噴出しているのが現在であると総括していえます。

     社会主義というのは会社や国家というオオヤケのために自己を犠牲にするという発想

    であり、その鬱積が逆に個人の自由や消費に噴出せざるを得なかった、

    なおかつその原動力が経済的繁栄をも導いたという因果な結果のオチがつきます。

     国が豊かで個人がある程度富んでも、個人は不幸せというのはこういうことです。


     生産が不幸だから消費に幸せが求められる、だけどそれは生産の不幸の代替であり、

    仕事の不幸は消費では補えないし、消費がゆきづまれば永遠の不幸です。

     会社のありかたや社会主義的な発想が検討されなければならないのは、

    いくらきらびやかな消費で不幸を隠し立てしても高が知れているということです。

     モトを断たなきゃニオイはなくならない。

     だからわたしは会社至上主義の世の中に対して異を唱えているのです。

     なんでみんなは会社のありかたや社会主義的な発想が、自分たちの不幸や閉塞感を

    もたらしているということに気づかないんだろうとわたしは不思議に思います。


     まあけっきょくはみんな退屈なんです。

     仕事以外にすることを失ってしまった。

     情熱をそそぎこむ対象も仕事以外の崇高な時間の過ごし方もわからなくなってしまった。

     だからみんな会社や仕事にしがみつく。


     村上龍はそれを「寂しい大人たち」と表現する。

     『寂しい国の殺人』は近代化の終焉という事態を明確に語っている記念碑的な著作だ。

     もう国家や会社のためにがむしゃらにガンバル時代は終わったのだ、

    そんな目標は空回りしかもたらさない、それが近代化の終わりというものだ。

     国家の幸せから個人の幸せをめざせ、

    それが近代化終焉のつぎのステップだと村上龍は唱えています。

     だけどこの国の寂しい大人たちは働きアリとして仕立て上げられ、それ以外の生きかたも、

    崇高な目的も情熱もまったく知りません。

     寂しさが募る一方です。

     かわいそうな大人たちですが、みずからの生きかたをみずからの信条によって律する

    ような生きかたをしてこなかった本人が悪いのであり、それはかれらのツケです。

     あとはせいぜい昔を復興しようとして人に迷惑をかけないよう願うばかりです。


     中川八洋『正統の哲学 異端の思想』は近代の平等思想、進歩思想が

    もしかして過ちでないのかと気づかせてくれた驚くべき本です。

     理想や正義と近代に信じられてきたものもじつは近代特有の禍をもたらしてきたという

    保守主義の思想はあまりそういう意見を聞かなかったわたしには驚きでした。

     学校で習った民主主義的理想を頭から信じて疑わない人には必要な書物でしょうね。




  漂泊と隠遁にもとめる心の安らかさ


     心が汚れてしまうので清い話に戻します。

     秋以降仕事があわただしく猛烈に忙しかったのでわたしはその荒ぶる心を鎮めようとして、

    ようやく『清貧の思想』を手にとってみました。

     清貧の思想といえば「ビンボーのススメ」と思われて敬遠した方もいると思いますが、

    これはビンボー自体が目的ではなく、心の幸福、心の平安はもたない生きかたにあるという

    考えから来ています。

     つまりモノをほしがったり、なにかを得ようとすれば、苦しみから逃れられない、

    その発想自体が苦しみを連れてくることであり、ゆえに心の豊かさには

    副次的にビンボーが適うのだということです。

     まあ「知足安分」ということですが、われわれはそれをすっかり忘れている。


     中野孝次はそのような心の平穏をもとめた古来の日本人たちの系譜を示したわけです。

     良寛であるとか、兼好、蕪村、芭蕉、西行といった人たちを紹介しました。

     古典文学になるから読解は現代人にはむづかしいだろうし、

    なかなかその趣きは捉えにくいかもしれませんが、日本には伝統的に

    そのような清い人たちが実際にいたのだという話はなにか胸に迫るものがあります。

     「日本人の忘れ物」というものはあまりにも言葉がアメリカナイズされてしまったために

    日本古来の知恵を学ぶことができないという点にもあるのかなと思います。

     古来の日本人たちはなにも欲望に駆れられるだけに生きてきたのではなく、

    それを捨てることによって心の豊かさの境地に生きた人たちもいたのです。

     現代ではそういう人たちはまったく賞賛されもしないし、世間の表面にも浮かんでこない。


     われわれは欲望の馬にひきずり回されているが、

    かれらはそれを制御して心の平安を得ようとしたのです。

     清貧の生きかたというのはそういうもたない、捨てる生きかたのことです。


     わたしはこれらの日本人の系譜のなかから隠遁に生きた人たちを知りたくなりました。

     世間を捨てるという生きかたもあるということをすっかり忘れていたし、

    もしそんな生きかたもできるのならこの息苦しいサラリーマン社会から逃れることも

    できるかもしれないとかすかな希望を抱いたわけです。


     隠者の文学では吉田兼好の『徒然草』や鴨長明『方丈記』、与謝蕪村などが

    主なものですが、わたしはどうもこれらには興をそそられなかった。

     わたしは仕事の忙しさに荒ぶる心を鎮めたかったのですが、

    自分でもどんなものにいちばん心が癒されるのかわからない。

     隠遁でもない、では漂泊や旅にそれはあるかもしれないと思った。

     仏教者には西行や一遍、空也やら空海やら漂泊に生きた人には事欠かない。

     けれどもかれらの伝記を読んだところでぜんぜん心に響かないし、癒されもしない。

     そのへんの模索は読書録のなかに跡づけられるかもしれません。

     「98秋に読んだ本――漂泊と放浪への憧れ」


     仏教はちょうど一、二年前すこし読んだ。

     このときはリチャード・カールソンの『楽天主義セラピー』に影響をうけて、

    思考を捨てる、心を捨てるというテーマのみを追い求めた。

     思考を捨てれば、心を乱したり不快にするものはいっさいない、

    という考えは衝撃的でした。

     心の浄化だけを目的にラジニーシやクリシュナムルティ、ケン・ウィルバーなどの

    トランスパーソナル心理学などの本を追い求めていった。


     それから一年、今度は仏教者の捨てる生きかたというものを学ぼうとしたわけです。

     仏教というのはやはり先人たちの知恵が多くあるのかもしれません。


     ただじっさいの仏教僧は政治家たちと近しいこともあって、

    権力志向――あるいは権力そのものであったという幻滅は否めない。

     また極楽浄土や仏性、念仏などといった日本仏教の歴史は、

    浄土や神仏という物語をまるで信じられない現代人にとってはほとんど学ぶところが

    ないのが残念でもある。


     さて古来の日本のなかに癒しを求めていて気づいたことは、

    日本文化というのはけっこう癒しの要素があるかもしれないということです。

     古い絵巻きなんか見ていたら案外ほっとするようなところがある。



  自然と風景の癒し


     自然や風景にも癒しがあり、そのへんにもわたしは触手をのばしてみた。

     高橋健司の『空の名前』という天気図鑑の雲の写真はぼんやりとながめているだけで、

    心はほんのつかの間、雄大な空を思い浮かべて穏やかにほっとなる。

     この写真集は47万部売れたそうだが、日本人もこういう「無用」なものにやっと

    目を向ける余裕もできるようになったんだなと気づかされます。

     癒しは無用のもののなかにあるのであって、「有用」なものにはないのだろうな。


     風景写真や自然にも癒されるものがあります。

     雄大な山々の写真集とかに魅入ったり、ハイキングの写真集なんかをながめたりして、

    心の癒しをもとめた。

     自然の風景というのはある程度心が澄んでないとそのよさが味わえないんだと思う。

     澄んだ心をもつ人は自然のよさがわかるだろうし、自然の美しさを知る人は

    心も澄んでいるのだろう。

     いままで自然に美を感じなかったわたしはやはり心が濁っていたのだと思います。


     この時期に二作ほどフォト・エッセイをつくりました。

     藤原新也の『印度放浪』や『全東洋街道』という写真集をながめていて、

    どうしてもつくりたくなった。

     詩的な紀行文、人々のすさまじい生きかたをあらわにした写真――

    藤原新也の写真はとてもひきつけられるものがある。

     それでネイチャーフォトと随想の創作欲がわいてきた。

     ネイチャーフォトを背景に詩や随想をのせるという類書はそんなにはよいものが

    なかったので、かなり実験的で模索的なものになった。

     癒しの写真や文章は見るよりつくったほうがより癒されるのかしもれませんね。



  中国的安らかさ


     癒しを古来にもとめる旅はまだつづきます。

     日本的伝統をもとめていれば、その元にはやはり中国がある。

     隠遁思想の起源をもとめれば、それも中国からおこっている。

     政局の危機を避けて山間に隠れ住んでいたものが、老荘思想と結びつき、

    山水をたのしむ方向へと変わってゆく。


     文学にも癒しがあるかもしれないとたまたま書店でめくってみた『陶淵明全集』の

    言葉言葉がみょうに気にかかり、気持ちよいし、心にぴったりくる。

     読んでみたらなおさらまたいい。

     脱俗や隠遁、名誉や栄達を避ける心、清貧をめざそうとする生きかた、自然を愛する気持ち、

    どれもこれもひじょうに心地よく心に染み込んできた。

     これはよい詩人と出会えたなと思います。


     ためしに杜甫は読んでみたけど、あまりわたしには合わないようだった。

     漢詩や唐詩がわたしの心に響くかはまだよくわかりません。


     洪自誠の『菜根譚』はものすごくよかった。

     これほどまでに人生に達観していて人生訓として優れているものはない。

     基本的には「知足安分」ということを語っていると思うのだが――

    つまり足りない部分を見るのではなく、足りている部分を見るという心の観点は、

    すべての物事に適用してしかるべきだと思う。

     この心の観点ほどすばらしい教えはないと思うのだが、

    人はえてしていちばんかんたんで気づきやすいものほど最も気づきにくいものだ。


     「思考を捨てる」というカールソンや仏教の教えはあまりにもかんたん過ぎることなのに、

    思考好きだったわたしはこんなかんたんな一点にまるで気づかずに、

    どんどんと苦痛や悲観を蓄積していった。

     「知足安分」も足りない部分ばかり見つめておればいつまでも満たされることはない、

    というしごく当たり前のことだが、その当たり前さが気づかれない。


     これらの知恵はふだんだれでも口にすることだが、逆にそれを論理的に

    説明することがなく、押しつけ的に発せられるために人はこの深遠な知恵を敬遠してしまう。

     論理的に説明されないためにこの言葉の有用性がなかなか気づかれない。

     カールソンの『小さいことにくよくよするな!』というベストセラーは、

    その当たり前の知恵を論理的に説明したから受け入れられたのだと思う。

     「気にするな」とか「くよくよするな」とか人はしょっちゅう口にするのだが、

    だれもそうすることの効用やそうしないことの損害を論理的に説明しなく、

    ただ押しつけてしまうがゆえに反発や無視をまねく。

     当たり前のことに気づかずにつまずく、というのがどうやら人間の性質のようある。


     西洋近代というのは知足安分や思考を捨てるという心の制御を捨てて、

    心のまま欲望のまま従うところにその発展をみた。

     科学技術文明の発達は心が賢明になっておればここまで進展しなかった。

     すぐに満足し不足を感じず、考えもしない愚かさをもっておれば、

    科学技術はもちろん発達しない。


     だけどかれら個人個人の心の中は幸せだったかは疑わしいところだ。

     不満や不足があるから技術は進歩したのであり、不満を抱えつづける人間が

    満たされているわけはない。


     まあ極端に傾かず、心の性質を知り、中庸であることが大切なようですね。


     右肩上がりの経済が終わり、現在の日本は行く先のない踊り場に立たされてます。

     「知足安分」を社会のシステムにした江戸時代に学ぶべきものがあります。

     石川英輔の『大江戸生活事情』はそのような江戸の知恵を教えてくれます。


     古来中国人の知恵や癒しを探る探究は現在もつづいています。

     今後は「老子」「荘子」を読み、「寒山拾得」も読むつもりです。

     もしなんらかの収穫があれば、この誌上でお目にかかれると思います。


     うーん、中国三千年の知恵はすごいものがあるな〜。




     ご意見お待ちしています。    ues@leo.interq.or.jp 





  98年に読んだ読書録です。


    「98冬の書物 東洋的心の平穏―中国人の達観」 (1998/12/20更新)

        無性に魅かれる日本的・東洋的な心の平穏をもたらす書物たち。

    「1998秋 放浪と漂泊への想い」 (98/10/29更新)

        清貧の思想、漂泊の人生といった本などを読んでいます。

    「1998夏 日本の正体―これからの生き方―民主主義」 (98/8/10更新)

        日本社会のほんとうの姿とはどのようなものだろうかなど探っています。

    98春 経済と道徳―経済思想史―社会規範」(約30冊)

        テーマは経済と道徳の関係はどうあるべきなのか、といったことなどです。






                         1998/12/30

                                                



     人間は意識の中の世界が「世界そのもの」だと思っている。

     意識で捉えた自己を「自己そのもの」だと思っている。


     野口体操の野口三千三はこれに対して、

    非意識的自己こそが主体ではないかという説を考察している。

     意識的自己は生きものにとっては特殊な存在様式ではないのかといっている。


     意識的自己は非意識的自己がそれを必要なとき、使い利用するものだという。


     現代人は逆に意識的自己が主体であり、自己そのものであると思い込んでいる。


     しかし人間の意識がおこなえることはごくわずかだ。

     考えたり、思ったり、記憶したり、行動の判断を下したりするだけだ。

     あとのいっさいは意識が司っているものではない。


     たとえば身体である。


     身体を養っているのは意識ではない。

     心臓をつねに働かせているのは意識ではない。

     髪の毛を伸ばしているのは意識のはたらきではない。

     身体の手足を動かせるのは意識がなすからではない。

     ものが見えるのは意識のおかげではない。

     音が聞こえるのは意識のはたらきではない。


     おおよそ意識は身体の働きに関しては関わっていない。


     意識は理性、意志、思考といったものを用い身体のヌシのようなエラそうな顔をして

    ふんぞり返っているが、身体の毛や爪さえ成長させる力をもたない。


     意識のなせる事はほんの毛ほどのものであり、非意識的自己が主体であるという

    考えはしごくもっともなことである。


     では身体を養い、成長させ、たえず動かしている主体とはだれか、

    あるいはなんなのか。

     すでに述べたように頭のなかで考えている「わたし」ではない。

     身体自身がおのずから司っていると考えることにしよう。

     あるいは自然が為せるものである。


     意識は自分の為すことが微少で微弱であることに謙虚でなければならない。

     身体の働きに意識がしゃしゃり出てきたら、スムーズな身体の活動は妨げられる。

     武道でも運動でも行動でも、意識するがゆえにぎくしゃくしてしまうことがあるのは

    これまでの経験でだれでも一度は体験したことがあるだろう。


     身体――あるいは非意識的自己に任せ切ってしまうことが大切であるようである。

     そして意識には眠ってもらわなければならない。


     意識的世界・意識的自己に愛惜を感じ過ぎるのはあまりよくないようである。

     たいがいの宗教ではこれらをなくしたところに至福の境地を見出している。

     この意味するところは重要である。


     意識は創造する――苦悩や悲嘆や恐怖を。

     世界のどこにも存在しない空想をわざわざ自らによって創り上げるのである。

     不足や不満を見出してしまうがゆえに。

     それはいまここにない幸福や向上、進歩を求めるがゆえにである。


     意識を捨てたところに人間の最高の境地、最高の能力があるようである。

     しかしこれほどやっかいなことはない。


     われわれは意識の虜になっている。

     頭のなかの意識でしか毎日を送れなくなっている。

     意識的自己はまるで非意識的自己の座をのっとろうかとしているようである。


     人間は意識的自己つまり脳の発達をめざしたがゆえに

    非意識的自己の潜在能力をすっかり侮るようになってしまった。

     かずかずの宗教家や思想家が何度もその過ちを叫びつづけてきてもである。


     意識や思考がそれほどまでに魅惑的なんだな。


     身体がおいしい食べ物、きれいなもの、よい音を自然に求めるのと同じだ。

     かずかずの宗教家がそれは悲嘆にしか行き着かないと言いつづけてもだ。


     だいたい人々は意識を捨てる方法がわからない。

     意識にまといつかれて、いっときもそれを離れることができない。


     思考はつぎつぎへとやってきては意識的自己をたぶらかす。

     思考はもともと意識がつくりだすものではない。

     頭のなかにその端緒となる映像や言葉が脳裏に映し出されて、

    そこから思考の増殖、やりとりがおこなわれてゆく。

     あとは思考の連想や習慣となった回路によって思考のジェットコースターが延々につづく。


     わたし自身もこの意識からどうやって離れたらいいかいまだに暗中模索だ。

     せいぜい頭に感覚を集中させないで身体の感覚を集中させるような試みは

    たまにはおこなうが、やはり思考や意識の魅惑に負けている自分に気づくというありさまだ。


     ということでこのエッセーは非意識的自己がどれほど重要なものなのか、

    自分自身に再認識するための励ましということになるわけだ。


     身体のはたらきや成長には意識はほとんど関わっていない。

     非意識的自己が人間の主体であると考えるほうが妥当である。






    関連エッセー「思考は超えられるか」
     リチャード・カールソンのセラピーに刺激されて考察した思考の虚構性についてなど。


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