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■070203断想集
■会話と仲間の制空権 2007/2/3
私の職場の問題である。私の職場には三つの担当部署と集団がある。しかも会社が違う。だいたいひとつの集団はひとつの集団で仲良くなろうとする。そうとすると仲間で固まろうとする力は、外の集団に対する排斥となってあらわれる。
ふたつの集団で対立が深まると、会話の断絶がおこる。口も聞きたくないとなる。同じひとつの空間で仕事をするとなったら、仲のよいもの同士だけの会話がおこなわれる。その場で排斥され、仲間はずれにされた者は不満をつのらせ、疎外感を抱きつづける。怒りは対立する相手に感づかれるものとなり、相手はいやがらせまがいの会話や騒々しさをくり広げることになる。沈黙と会話の「制空権」といったらいいのだろうか。
私の職場では三つの集団が同居するため、このトラブルがずっとつづき、ある集団の結束が強くなり、楽しそうになると、ほかの集団は疎外感や不満をつのらせるようになっている。そして「あいつらはひまだ、仕事をしていない」となって、仲のよい集団への攻撃が仕事面や人間関係面での非難としておこなわれ、そうなるとその集団は騒々しさと楽しさのいやがらせへと転嫁する場合もあるのである。私の職場はこの問題が私の入る前からずっとつづいているのである。
私の職場は現場だからそういうときには場を移すという解決もあるのだが、このトラブルが噴出するのは事務所で三つの集団の数人がともに仕事をするときである。「あいつを黙らせろ、仕事がないんじゃないか」と沈黙者はいい、非難された会話者は楽しさと騒々しさのいやがらせに買って出るというわけである。これは会話の「仲間外れゲーム」とよんでもいいだろう。
一同が同じ場・空間に同居するオフィスではこういう問題はどうなのかなと思う。仲の良い者だけがしゃべり、仲良くないものは黙る。会話に加われないものは疎外感や仲間外れ感を強く味わう。しまいにはそれが怒りとなると、まわりも自重して静かに仕事をしてくれればいいのだが、ぎゃくに怒りを買って仲間外れゲームを発動させる場合もあるだろう。オフィスはこういう逃げ場のない息苦しさが苦手である。会話の制空権はどのようになっているのかと思う。
私は個人での会話は苦手ではないのだが、数人でしゃべっているところへ後から入ること――いわゆる「仲間の輪」に入るということがかなり苦手である。「お呼び」でない感覚に対する恐れが強いし、後から仲間に入ろうとするのは卑小に思えるし、または集団主義やその演技性が嫌いである。その退き方に失敗すると、集団への敵意や非難に捉えかねられないこともあり、私は仲間外れゲームの餌食になったこともある。だから私は仲間集団より、個人での会話やフォローを大切にするのである。
いくつもの集団が同居する空間はむずかしい。ひとつの集団は暗黙にほかの人に対する仲間外れや疎外感を強制してしまうものである。それが黙って仕事している人やひとりで仕事しなければならない者にはよりいっそう骨身に答える。その防護策として仲間との会話が必要なのだが、仕事ではそれがままならない場合もある。学校ではだから仲間集団をつくらなければやっていけなかったのである。うまくほかの集団の脅威をスルーできればいいのだが、それに失敗すると仲間外れ感は怒りとなり、反感を買った相手集団の会話と仲間の疎外攻撃を受けてしまうことになる。
私たちは仲間外れや孤立感をたいへん恐れるように観念している。たぶんそれは言葉や定義によるくくり方に根源があるのだと思う。「嫌われ者は恐ろしい、みじめだ、あわれだ」という定義、「仲間はこうでなければならない」という定義。そういう言葉のくくり方が私たちに仲間外れの恐ろしさを強く観念させ、その感情を発動させるのだろう。こういう定義の書き替えや観念の払拭をおこなえば、私たちはだいぶ平気になれると思うのだが。でもたいがいの人にはムリな注文であるが。
私の職場の問題に解決策はあるのだろうか。そしてどこの集団にもこういう問題はつきまとうものだと思う。仲間に入れるか、仲間外れにされるか、仲のいい集団の会話と排斥される者の疎外感や怒り、そして頑なな沈黙と仲間外れゲームとしての会話と騒々しさのいやがらせ。会話の制空権はずっと争われつづけるのだろうか。うまい解決策とふるまいはないものだろうか。この問題にたいする達観した方法論と知恵がほしいものである。
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■本は捨てるべきか 2007/2/4
こんな状態、いやだ。
長年の懸案だった本の整理。本棚をあふれ出して、床につみあげてゆくのはほこりがたまりやすく、乱雑で不快だ。ここは一丁、本を捨てようかという気持ちがわいてきた。
だいたい私はほとんど本を読み返さない。感銘した本でも読み返すことはめったにない。記憶力はよくなく、読んだ本の内容を忘れていることも多いのだが、どうも私に再読の習慣がないようだ。だから私の文章では人の意見の引用や、だれかれはこういうことをいっていたという文章を書くのが苦手である。というよりか、覚えていない(笑)。記憶のひきだしをひっぱり出すのもうまくない。
本棚にずらりと本をならべるのは、哲学者や学者の書斎のように壁一面に蔵書がならぶ書棚にあこがれたからだ。なにかそれはステータスや自分に図書館がそなわっているようなインテリの気分をかもしだしたものである。といっても私はその蔵書の多くを覚えているわけでもないし、タイミングよく書棚からある本をひっぱり出すというわけでもない。たんなる装飾品か、書棚の肥やしになっているだけである。
本というのは物であり、コレクションの要素をもつ。だから捨てられずに積み重なってゆくばかりである。本というのはほんらいは情報であり、知識である。つまりは物体の要素をもたないものである。テレビやラジオの電波のように視聴されては消えてゆくものである。少年ジャンプのように読み捨てにするものである。本がコレクションの要素をもつようになったのは、愛蔵版のように装丁がしっかりしているからだろう。いや、折にふれ、参照にしたり、引用したりするために蔵書はなされるはずだが、私の場合はその機能をほとんど活用していない。
いつか役立つはずだ、いつか必要になったり読み返す必要があるかもしれないという習慣はこの十年の間でほとんど私はおこなっていない。一冊まるまる読み返すなんて皆無だ。読み返す必要に駆られるのは、カールソンとかケンピスなどの心理的な慰めの本だけだろう。
私の知識欲というのは知らない新しいフロンティアを開拓することに楽しみを見い出す。ひとつのテーマの謎を見つけると、そのジャンルをごっそりと探究することに費やし、通り過ぎてしまえば、そのわだちをふたたびなぞるということはほとんどない。興味をなくしてしまう。読み返すこともない。いったら未知の世界の探索のために本は読まれるのであり、それがすんだらその知識がかえりみられることはほとんどない。
現代思想に大衆社会論に共同幻想論、隠遁・中国思想、社会生物学にメディア五感論、身体感情論に童話分析、文明優劣論、チャネリングに地理古代史、そしてさいきんのレイライン探索。ひとつのテーマをごっそり探究してしまえば、満足してしまい、つぎなる未知の領域を探して彷徨をはじめる。私の読書のパターンはこういうことをくりかえしてきたのである。だから読み終えてしまった本はほとんど価値がないのである。
たぶんむかし読んだ本は捨ててしまって大丈夫だろう。残す本と捨てる本の線引きはむずかしいかもしれないが、名だたる古典より、自分の心に感銘をあたえた本を残すべきだろう。この十年はHPにおいてグレート・ブックスという感銘した本の選別をおこなってきたので、そういう本はしっかり残すべきだろう。
古本屋に売りたいのだが、私は感銘した部分に赤線をひくのを習慣にしている。だから売り物にならない。捨てるしかないのである。
私の場合は本のどの部分を買っているかというと、初見の部分に金を支払っているのである。蔵書や保管の部分にはあまり用途がないのかもしれない。本というのはほんらいは泡のように消える言葉を文字によって凍結し、モノのように流通させるために必要になった入れ物である。どちらかといえば、いまは保管の要素が強い。泡のように時間の中に消える言葉を、ある人が必要になったときにとり出せるタイムカプセルである。そのタイムカプセルも読み終えた私にはあまり必要のないものらしい。私の場合は読み捨てジャンプでいいのかもしれない。それにしては、本は装丁ががっしりとしすぎていて、私にはその装丁の部分がもったいないのである。
さあ、この文章を書いて本を捨てる勇気がわいてきただろうか。ふんぎりはつけただろうか。いつか決断して、すっきりした本棚をめざさなければならない。私にとって読み終えた本はその時点でゴミになる、読み捨てるものであるという捉え方が必要なようである。
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■制裁集団の抑制が必要である 2007/2/10
ちょっと試論で申し訳ない。深く考えつめたわけではないので、助走のために書かせていただく。
グループや集団というのは、制裁機能をもつ。ルールや掟、または不快感を感じさせるものに抵触すると、社会的制裁を加えようとする。
グループというのは裁判官の役割をもち、また警察の役目も、刑罰執行人の権力も合わせ持っている。つまりは政治や司法であるような三権分立の権力抑制の機能をもたない。独裁権力であり、専制君主である。グループの歯止めなき行動や暴走はこのへんにあるのではないか。
人は個々人の人間関係において、なんの制裁機能もルールもない世界に住んでいる。アナーキーで自由なふるまいが許される世界である。そういうところに人が不快感や怒りをもよわせる行動やあり方を示せば、個々人は表情やふるまいによって、不快感や怒りをメッセージする。効き目がなければ、ほかの人に悪口をいったり、協調したりして、数の力を頼みとする。それが集団になればいじめになり、刑罰執行人の役割暴走がおきる。
集団のいじめというのは刑の執行人なのである。正義やルール、掟の遵守者のつもりでいる。制裁機能の固定化したものが、いじめ集団である。かれらは制裁集団となって、不快感の結果より先にターゲットを狩り出す存在と化す。制裁機能のグループ暴走がおきるのである。はじめに制裁ありきの存在になるのである。
制裁集団に正義観や道徳観がそなわっているとはとても思えない。制裁がもともと暴力的機能であり、制裁集団は正義や道徳をぶち壊す存在である。数で威圧する集団であり、道徳や正義はそこでたちまち無効になる。警察や政治権力が法の遵守者でありながら、一面では法外な暴力威圧集団であることと同じである。制裁集団は権力や力の感覚を楽しみ満足させるものになれば、正義や道徳は転倒し、暴走した権力のふるまいをおこすようになる。
制裁集団がかくだんに認識能力や道徳観念に優れている個人で構成されているとはとても思えない。かれらは暴力的であり、冷酷で残酷であるから、その集団に属しているとしか思えない。だから歯止めなきいじめや暴走はとどまるところを知らないのである。裁判官でも弁護士でもない、刑罰執行人のみの存在である。いったら頭の歯止めのない身体・言語暴力だけの存在である。集団の内部で作動する威圧力やエスカレート機能のみではらたく存在である。
ただ社会的制裁をすべて否定することはできないだろう。集団の制裁は個々人で対処、改善できないときにはたらかなければならないものだろう。警察や裁判のない世界は不可能である。個々人の人間関係ではそのチェック機能は集団が担うのである。
しかし集団の制裁機能においてはたらくものは、悪いものを裁くというよりか、弱者や劣者であることのほうが多いように思う。学校のいじめは社会的価値を如実に反映するかのように貧困や不潔や劣者を叩くのである。マイナスのものをプラスにひき上げるのではなく、ただマイナスのものを排斥したり、なきものにしてしまう働きしかなしていない。これはいまの社会のマイナスのものにたいする考え方や方法そのものであり、あるいは動物的価値観の強者弱者の動態そのものである。
制裁集団が道徳違反者を叩くのではなく、弱者や劣者を叩くのは、悲しいことだというしかない。われわれは社会の中にある制裁集団というものの機能や役割を考えなければならないのだと思う。この集団に対する抑制やチェック機能というものをわれわれの社会はもっていない。ひとり威圧的で強権的な独裁集団と化して、無法をふるまうってしまうのである。こういうものは密室的で、ほかの人に知られないかたちで、暴徒と化してしまうのである。
この集団から守られないかぎり、われわれは社会から守られて、安心に暮らせるという感覚をもちえないだろう。中学生のいじめ自殺などはこの問題の無力さを強力に露見しているのだと思う。私も荒んだ中学の暴力集団からだれからも守られていないと思ったものである。集団の制裁権というものが抑制される必要がある。警察の犯罪の一歩手前に制裁集団を抑制する組織が必要なのではないかと思う。
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■仲間の承認と暴力と、自由 2007/2/12
学校その他の場所において仲間をつくることは死活問題である。もし仲間ができなければそこにいてはならないような気持ちになる。いわゆる「居場所」がないというものである。人は仲間の承認なしにその場にいてはならないというルールをもつようである。
まずもって人がその場にいるためにはだれかの承認が必要である。場所というものは仲間がその存在を「許す」ものなのである。人にはこの怖れがまずある。したがって仲間から承認を失うことを怖れる。仲間は存在の生殺与奪の権限をもつのである。
仲間の承認はおもに会話のつながりや行動の同調によって与えられる。人はこの仲間の承認を得ようとして、仲間のもつ権力に翻弄されたり、服従を誓わされたり、支配されたりすることになるのである。人はこのボートから放り出されることを怖れるために、残酷なことをしたり、友人を裏切ったり、人としてのルールをふみ外したり、ときには行為が犯罪にエスカレートしたり、自分を危険にさらすことだってあるのである。仲間のルールや規範が暴走をはじめるのである。個人のモラルはかんたんに仲間の規範にふきとばされる。
仲間の承認というものはひじょうに気まぐれである。ほかに友達ができたり、魅力ある友達やグループがいればそちらにいつ移ってしまうかもしれないし、嫌いになったり、趣味が合わなくなったり、または仲違いしたりして、いつ仲間のボートは波間に消えてしまうかもしれない。さまざまな努力や無理が必要になる。ファッションや行動は同一化し、画一化し、趣味のインとアウトはグループによって決められ、人とのつきあいや会話だって決められるのである。
おまけに学校などの集団には権力闘争や階層競争、人気競争などがある。序列を争そって人は趣味やスポーツなどによる優劣が競われ、ときには人や集団を傘下においたり、人をおとしめることによって序列の上位や優越感をディスプレイしたりする。趣味やスポーツ・成績などに優れたところがないと、暴力や力によって序列の上位に上ろうとする。
肉体的な力による序列誇示は中学のころに最高潮に達する。暴力で人を抑えつけたり、人を自由に操ることによって力を誇示したり、または教師に反抗して対等な力の誇示を見せつけたりして、暴力的なヒエラルキーの上位をめざすのである。肉体的な力の誇示により中学は大荒れである。この優越競争に参加すれば、彼は残酷で冷酷で、暴力的な人間になることだろう。彼は優越や承認を得ようとしてたくさんの人たちに恐怖や迷惑をおよぼし、犠牲を強いて自尊心をようやく手に入れるのである。そしてこの暴力のヒエラルキーが実社会でふたたび返り咲くということはなく、かれが社会のヒエラルキーで上位に立ち上がることはほとんどないだろう。
学校の集団ではさまざまなヒエラルキーがもちいれられる。私は小学校時代、たんじゅんに「スポーツができる/できない」のヒエラルキーや、「気が強い/気が弱い」のヒエラルキーでグループの順位づけができあがると認識していた。私が後者のグループにいたのはいうまでもない。中学校時代は不良集団が学年のリーダーにのしあがり、男女はきっぱりと交流を失い、荒んだ暴力ヒエラルキーの社会になったが、2年3年と時間がたつにつれ落ち着き、一部の人間の話になっていったように思う。
仲間はそのような外の暴風雨から守られるためのシェルターのようなものであった。孤立や仲間がいないことは、仲間から見捨てられた、嫌われたという目印であり、人をいじめることによって上位を誇示したり優越感を得るための格好のサメの餌食になる。孤立無援の守られない海にひとり放り出されるのである。
そのような恐ろしさは仲間集団の中にも共有されるのは当たり前のことで、だから仲間集団の規範やルールはその内部の人間の心も襲い、はげしく締めつけるのである。友達や仲間から嫌われたり、仲間外れにされたら、たいへんだということで、激しく友だちにつがみつくことになる。友だちに同調し、趣味や行動・ファッションをそろえ同調し、規範以外のそれらや友人・恋人を選べなくなるのである。自由や個人のありのままを犠牲にして、仲間集団の安心や安全は得られるのである。社交地獄や友だち地獄と一面ではいってもいい状態になるのである。
これは会社にいっても同じようなものである。仲間として受け入れられなければ、いじめやいやがらせ、攻撃などの格好のターゲットになる。暴力がふるわれることは少ないし、学生時代よりもっと穏便であるが、仲間の規範は激しくその成員を締めつけるのである。学校も社会も変わらない。同じ集団のルールに支配されている。
個人はモラルや思いやりをもつやさしい人だと認識できる。しかしそれがひとたび集団の力学や規範に捉えられると、残酷さや残忍さを発揮するようになる。集団というものは加害者にとっても個を脅かす存在なのである。したがって、かれは集団の威を借りた人でなしとなってしまうのである。
私たちはあまりにも集団というものの性質やあり方を知らない。社会学や心理学、哲学などに目を見はるような集団についての学問研究の業績もない。驚いたことである。私たちがこんなに集団に翻弄され、支配され、苦しめられているというのにである。30年も問題視されてきた学校のいじめが解決しないのもこのような理由があるのだろう。集団の力学がちっとも研究されていないのである。いったいなぜなんだろう。
私たちはまずもって仲間の承認がないとその場にいてはならないというルールをくつがえすこと、疑問視することが必要である。そして仲間がいないことは嫌われ者でもやっかい者の目印でもないという考えをつちかうこと、自由であり、自立しており、集団の権力から自由であるという褒章が必要なのだろう。この根本の怖れを見直さないかぎり、われわれは集団の権力や暴走からは逃れることができないだろう。
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■人気ユーチューブ動画を連続して見られる「Rimo」 2007/2/17
はてながユーチューブの人気動画を連続して見られる「Rimo(リィモ)」をはじめた。MTVみたいでたいへんに好きだ。ユーチューブは検索がたいへんだった。TVみたいに流しっぱなしになれば、かなりラクになる。みなさんもご活用なされてはいかがですか。くわしい記事のほうはITmedia NEWSのほうで。
音楽チャンネルはまだ邦楽ばかりで残念である。ぜひ洋楽チャンネルもつくってほしい。それとやっぱり一覧性がほしいね。つぎにどんな曲があるのかわかるようにしてほしいね。
はてなはいろいろなサービスをよく開発してくれる。ソーシャル・ブックマークとか、私にはなくてはならないはてなブックマークとか。ブログ移行がほとんど宙に浮きかけになっているFC2ブログも、はてな日記のほうに移行したほうがいいかなと思ったりもする。ネットも検索中心から、人気編集中心へと移行してゆかなければならないわけである。遅すぎると思わないでもないが。
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■仲間の疎外感と会話外しゲーム 2007/3/1
ちょっとこの話は経験した人でないとわかりづらいかもしれない。職場でこのような経験をしたことがないだろうか。ほかの人にもわかる話なんだろうか。
職場というのはいくつもの仲間集団が同居するものである。ある人と人は仕事で仲間になり、ある人たちは気が合うから仲間になり、ある人たちは年齢が近いなどという理由によって仲間になる。
人はそれぞれある仲間からは疎外感を抱いたりする。そのかわりほかの仲間と仲良くすることにより癒されたりする。しかしその疎外感のキズが癒されがたいミゾになると、疎外感の復讐としての仲良しのパワーゲームがはじまることがある。「私は彼とはこんなに仲がいい、おまえは仲間はずれだ」と。病気である。嫉妬の病気といったらいいか。しかし仲間外れにされた者は仲間はずれ返しをしないと気がすまなくなるのである。たぶんに自分のキズを知れということなんだろう。
仲間というのはほかの者に疎外感を抱かせるものである。いったら、「仲間外れ感」である。職場でこの気持ちをいだかないよう、うまくコミュニケーションがとられる必要がある。
ある仲間の結束感が職場で強くなりすぎると、まわりの者たちには疎外感や仲間外れ感が強く感じられるようになる。その仲間はまわりの者には脅威になる。数が勝る仲間集団のパワーが暴走するのである。
この集団にとって仲間の結束を固めることはひとつの業務条件でもある。仲間としてうまく結束することは仕事のスムーズな流れも約束する。しかしそれは同時にほかの者たちにとって「仲間外れ」や「のけ者」をも意味する。その集団はまわりから怖れられる。かれらが内輪で仲良くすることは、脅威なのである。
仲間集団は不満やほかの者たちとの違和感を感じると、容易に数でのパワーを奮い出すようになる。仲間外れを宣言することによって、まわりをコントロールしようとしたり、我を通そうとしたりするようになる。会話や笑いの疎外感を抱かせることによって、そのようなパワーを発揮するようになるのである。大声で笑いや会話がおこなわれて、かれらの「なわばり行動」や「仲間はずしゲーム」はひんぱんに誇示されるのである。
ほとんど病気の集団である。パワーゲームがそこまで過剰になるのは脅威や怖れがあるからだろう。結束した仲間集団はほかの仲間集団が怖ろしい。または仲間とそうでない者との線を引きたがる。仲間のグレー・ゾーンを必死にひき離そうとする。仲間集団との関係においてキズついたり、まわりの不快感や怖れを察知したり、あるいは不満や不快感の表明として、仲間のパワーや輪郭は誇示されるのである。
このような仲間集団のミゾが深くなるのはなぜなんだろう。どうしたら自然なつながりやコミュニケーションがかもしだされるのだろう。
仲間はバラ売りにされる必要がある。ほかの人たちとのうまいコミュニケーションがとれないから、その仲間集団とのミゾは深くなるのである。しかし当人たちは気づかないものである。自分たちの仲間意識がまわりの者たちに脅威や不快感をどのように抱かせているかということが。私も同じような立場にあったときもあったが、疎外感返しの仕返しをされても、まったくそんなことをする意味が理解できなかったのである。
私の職場はほとんど病気である。さみしさの精神病理といったらいいか。あるいは会話の仲間外しゲームが猛威を振るう病んだ職場である。どこをどう治せばいいのか、どのように立ち振る舞えばいいのか、かなり難しい、アヤういところにいる。
ブチ切れて殴ってやったら解決するのか、あるいは口頭で激しく怒鳴りつけるべきなのか、それともひたすら嵐が通り過ぎるまで我慢つづけるしかないのか。長たちの解決策も会話の仲間外しゲームに参入するオソマツさである。もう、集団の中で働くことはつくづくしんどいものである(泣)。ITでメシは食えないものかと思わず夢想してしまう。まあ、私は集団のパワーゲームを熟知する上でのひとつの契機・チャンスと捉えて、集団力学の知識探究に勤しむしかないか。。。
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■私の職場の壊れ具合 2007/3/17
『叫び』 ムンク
私の職場が荒れ果てている。以前はもう少しうまくいっていたのだが、請負会社二社が親会社の中で対立するという構造がもともとあり、業務が忙しくなったため、組織はぼろぼろの状態に転がり落ちようとしている。
おこわれているいやがらせの中心は「仲間はずし」である。業務の分担によって三つの部署と集団があり、その集団の勢力争いが際立っている。具体的には仲間内で騒ぐ、楽しくする、笑うといった事柄は、この会社内においては他集団にとっては脅威になる。なぜならそれは仲間から外れるということだからである。不満があれば、仲間内の会話や楽しさによって分断し、まわりの人たちへの「仲間はずし」がおこなわれるのである。
ひとつの同じ空間にいるということは、場の共有や会話の共有がおこらなければならないわけだが、仲間内のメンバーだけで会話がおこなわれる。そうするとほかの仲間外のメンバーは疎外感や仲間外れ感を抱く。これが敵意や怒気をふくんだ口調でおこなわれれば、「いやがらせ」や「はずし」として効果を発する。このような「はずし」が職場で流行し、大声での嘲笑や侮蔑をふくんだ笑いが満ち、組織はぼろぼろである。
「はずし」は集団の勢力争いの一面ももつ。われわれの集団は勢力をもっているのだという誇示や信号になる。会話は楽しかったり、仲がよかったりするからおこなわれるものだと私は思い込んでいたが、対立する集団が同居すると、勢力争いの道具として利用されることがあるのだと、私はようやく気づいた。勢力ある集団は嘲笑や威嚇をふくんだ笑いを発し、まわりの人たちに脅威をまき散らすのである。まるでチンパンジーの大きな音を立てて、グループを恐怖に陥れる序列争いと同じである。
この対立が表面に現れてきたのは、まずは業務が忙しくなったことに端を発すると思う。仕事が忙しくなったことにより、それまでおこわれていた他部署の仕事の手伝いができなくなり、自分の仕事に忙殺されるようになると、コミュニケーションもしぜんと減る。そのなかでひとつの集団から、同メンバー内においての気に喰わない奴への「仲間はずし」がおこった。嘲笑や威嚇をふくんだ笑いにより、仲間はずしがおこなわれ、分離や排斥がめざされたのである。職場はその威嚇の嘲笑の声で満ちあふれた。
私はその嘲笑に対する怒りと、はずしに加わらなかったことにより、私にもその威嚇が向かってきた。大声で笑われる、嘲笑されるといったいやがらせが、他集団に属する私にも向かったきたわけである。こうして表面からは隠れていた対立が浮上してしまったのである。威嚇集団は大声で笑いや会話がおこなわれ、まわりの者たちへの脅威や勢力をまき散らす。陰口やいやがらせ、嘲笑などが横行する。会話のはずしが私の集団メンバーに向かってもおこなわれる。
これは現場の話だが、事務所内においても同じような会話のはずしが猛威を振るって、だれもが他人の会話や笑いに敏感になり、怖れるようになる。ちょっとした物音が敵意や脅威ととられ、対立やはずしが燃え上がってしまうのである。仕事の話や仲のよさすらも「はずし」と受けとられるようになり、相互不信と相互脅威のるつぼと化す。はずしはだれもみなに恐怖をインプリンティング(刷り込み)してしまったのである。ちょっとしたことが敵意ととられ、組織はもう病気の集団となってしまったのである。
どこをどう治せばいいのかだれにもわからない。一度走り出した集団の力学をだれも止めることかできない。組織のトップやリーダーはなおさら集団の板ばさみになり、同じ情けないパワー・ゲームに参加するだけである。立場があっちにいったり、こっちにいったり、立ち位置がまったくわからなくなる。はずしの恐怖がいちばん染み込んだのは、かわいそうなことにこの管理職であるトップだろう。
私はもうこの病気の集団から逃げ出したいと思っていた。標的は私に向かってくるし、攻撃はとうぜん人の弱いところに向かってきて、私のコミュニケーションの不具合が格好の標的になる。「おまえのせいだ」みたいなスケープゴートがけっこう私に向かってくるのである。たぶんに私には集団の会話に加わらないこともあって、対立を燃焼させた原因は私にもあると思う。いじめにも加わらなかったことも私への憤懣をかきたてたのだろう。いったら私は対立の矢面に立つ標的であり、集団の流れを喰い止める存在である。また私には集団を融和させて、コミュニケーションをとりもつ役割も期待されているのだが、その役割も力不足により果たせなかった。
とりあえずは私は部署を変えてもらうことによって、ほかの階で働くことができるようになったので、ひとまずは落ち着いて働ける環境を与えてもらった。だが、はずしの脅威からまったく隔絶されたわけではない。逃げ出したほうがいいのか、でも後釜のメンバーは人手不足らしくなかなか見つからないそうだし、ヤバイ状況は予断を許さない。
この病気の集団に再生の道はあるのだろうか。どうなれば解決の兆しは見えてくるのだろうか。沈黙を破る騒がしさや人の会話は脅威である。そのなかで人をつなぐ会話はおこなわれなければならない。それすらも「はずし」や「勢力確保」と捉えられる。だれかこの病気の集団に解決の道を見い出せる人はいるのだろうか。この集団の「なに」が癒されなければならないのだろうか。いつかこの集団にそんな「春の嵐」がやってきたこともあったなと思い出せる時期がくるのだろうか。。。
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■そろそろブログ移行の頃合かな。 2007/3/18
FC2のブログ作成画面
ブログに移行を考えたのは去年の4月くらい。それから約一年ほどせっせと手作業でこのHPのアーカイヴをブログに移していたのだか、もうすっかり手が止まってしまった。
めんどくさくて、たまんない! 本文をコピーして貼りつけるのはいいが、写真はコピーできなくてべつの方法でUPしないといけないし、だんだんやる気がなくなってきた。2年間分くらいのアーカイヴをコピーしてこれ以上はむりだ。
こちらのHPで本文を書いてブログにもUPするというやり方を並行しておこなってきた。このままHPでやりつづけたらいいのか、ブログに移行すべきなのか、決断できないのである。
ネックはブログより、ホームページ・ビルダーで作成したほうが使い勝手がいいのである。ビルダーのほうでは写真の大きさをかんたんに調整できるし、コピーですませられるし、本の画像もあつかいやすいし、なによりも全体のレイアウトを見ながら文章を書けるのがいい。ブログはこれらの調整ができないし、やろうと思ったらワケのわかんないHTML言語をあつかわなければならない。だからこのHPにとどまったままなのである。
しかし同時並行状態はどうもおかしいし、むだである。写真サイズの調整はビルダーでおこなって、ブログにUPするという方法もあるし、ビルダーの11バージョンではブログのレイアウトを考えながら作成もできるらしい。
過去の10年近くのアーカイヴを移行できないのは残念であるが、割り切るしかないだろう。そしてこのHPのアーカイヴは忍者ホームページかどこかの無料ホームページに置かせてもらうことにしようかと思っている。げんざいのInterQプロパイダーは月四千円と高いのである。前は年間二万だった。ホームページ容量のために払っているのだから、HPが動かせるのなら、このプロバイダーからさっさと縁を切りたい。
ちょうどこのHPを書きはじめたのは十年前の1997年の春くらいからである。ことしはHP作成にかかわってもう十年目なのである。このころからつづいているHPはどのくらい残っているのだろうか。いい節目の年だから、いい頃合でもある。
ブックマークやはてなアンテナを利用されているみなさまにはたいへんご迷惑をおかけしますが、そろそろ決断の頃合かなと思っています。いつか移行をお知らせできる桜の咲く季節が来ると思いますので、よろしくお願いします。
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■ブログでは「新刊・注目本」情報をUPしています。 2007/3/25
「考えるための書評集」
http://ueshin.blog60.fc2.com/ このさいブックマークの変更を願いします。
ブログのほうでは私の「新刊・注目本」情報をUPしています。私は本屋に行くとまずは新書の新刊書を見てまわりますが、その労をはぶくために新刊情報をUPしてみようという試みです。書店に行く楽しみであったわけですが、それがブログでできてしまうと外に出回る楽しみが減ってしまうわけですが(笑)、わざわざそのために書店まで行くのも面倒なことですしね。
ブログでの新刊UPはG-Toolsというアマゾン・アフィリエイト支援ツールをつかえば、かんたんだからです。こちらのホームページでは本の画像をいちどマイ・ピクチャにとりこんで、貼りこむという作業を(ローカルな環境だから)、しなければならなかったわけですが、ブログならネット上でそれをおこなうわけですから、手間が省けるわけです。
HPビルダーでそれをおこなえば、こちらの画面では画像は×印として表示されます。画像はネット上にあるからです。そういう画像の前で文章を書くのはつまらなさすぎます。きれいな画像を見ながら文章を書きたいですしね。といってもブログ上でもソース文しか見えないわけですが。
このローカルな環境でHPをつくるか、ネット上でブログを書くかという作業はけっこう問題で、一長一短があります。HPビルダーでHPをつくると、全レイアウトを見つつ、画像もとりこみながら、完成した時点でHPをネット上に送れます。
対してブログでは記事単位の書き込みしかできないのでレイアウトを見ながらの作業はできないし、自分で撮った写真は一枚単位でUPしなければならないという面倒な作業があります。コピー&ペーストができないわけです。これがブログの最大のネックですね。
ブログはかんたんだという触れ込みでしたが、レイアウトやカスタマイズしようとすると、ものすごくやっかいです。HPには作成ソフトがあるのだからブログにもないのかと思っていたら、あるみたいですね。ブログ・ソフトとかブログ・アプリケーション、ブログ・エディターとか名称が統一されていないのが悲しいですし、なんかネットでも雑誌でもまとまった情報が入りにくい。
とりあえず見つけた「xfy Blog Editor」というブログ・エディターをインストールしてみたのですが、なんだろうなと思います。ローカルな環境でやる意味があまりわからないし、肝心のテンプレート取得は「致命的なエラーが出ました」という表示が出るし、私は全体のレイアウトを見ながら作業をしたいだけなのです。それと画像のコピー&ペーストとサイズ変更だけ。あとひとつデザインの変更くらい。使う意味がよくわからないという感じですね。
私のブログ移行の目的は、ファイル管理の利便性とコメント・トラックバックの魅力だったと思います。こっちのホームページでは記事単位のファイル管理ができていないし、新しくページをつくるのもけっこう面倒です。だからブログ移行をのぞんだわけですが、ブログにはブログの面倒なことや、うまくいかないこと、わからないこともいくつもあります。ま、それでもかんばりたいと思います。ブログのほうのご愛顧のほうをよろしくお願いします。
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■さいきんのドラマ評三作。 2007/3/25
さいきん三作ほど釘づけになったドラマがあった。『ハゲタカ』と『ハケンの品格』、『華麗なる一族』である。どれもこれも社会派ドラマであり、ドラマは社会に風刺や批判をふくんだメッセージをもってほしいものだとあらためて思わせた。
『ハゲタカ』は企業買収をあつかった経済ドラマで、スピード感や迫力、人間ドラマや過去のトラウマ、男たちの怪演などがきわだっていて、鳥肌がたつくらい引き込まれて見た。とくに鷲津政彦を演じる大森南朋の感情を抑えたクールな演技が怖ろしさすら感じさせた。
鷲津は自社銀行の貸し渋りのため自殺した町工場の男のトラウマを背負って、アメリカに渡りハゲタカ・ファンドとして帰ってくる。「腐った日本を買い叩く」といって、不良債権にまみれた死に体企業を買いあさり、売りさばいて利益を得る冷徹な資本主義の男として帰ってくるのである。「日本的なるもの」を容赦なく切り捨て、従業員もかんたんに切り捨てる。日本的人情やしがらみが日本の悪であるかのように、また自分の心の傷を癒すかのように、その方法で日本の再生を願うのである。
対する銀行の上司であった柴田恭平演じる芝野健夫はその日本的なるものや従業員を守ろうとする姿勢を守り通そうとする。その対立を主軸に老舗旅館やワンマンおもちゃメーカー、総合家電メーカーを舞台に、「企業はだれのものか」「日本をどうやって再生するのか」といった問いが投げかけられたのである。
私にはそもそも「企業は私のものだ」とか「日本のものだ」とか、「従業員が守り通すものだ」という観念がまるでない。企業にとって私は単なる下っ端の雇われ人でしかないし、上に行きたいとも毛頭思わない。だから「自分たちの企業」と思われるものが買い叩かれようが、どうなろうが、知ったこっちゃない。転職するだけである。私はそういう集団や共同体に自我を賭ける生き方を嫌悪してきた。
鷲津にはなれないが、資本の論理を通す鷲津のやり方はとうぜんの論理だと思う。自我や「私」を会社に染み込ませてはならないと思う。というよりか、そんなものは「私」でもなんでもない。会社というのは顧客にサービスを届ける「一機関」でしかないと見なすのが妥当だと思う。会社や従業員を守るより、もっと身軽に人が自由に移動できる市場づくりのほうがもっと大切だと思う。
そういう日本人のメンタリティとされるものは、堀江貴文が買い叩こうとして企業上層部の反感を買い、犯罪人に仕立て上げられたように、日本の権力層とぶつかるのかもしれないが、若い人たちにはもうそういうメンタリティは崩れ去っているのだと知っておいたほうがいいだろう。
どうもむかしの日本人は売れなければ市場から撤退するしかないという当たり前の市場の論理を、会社や従業員をまずまっ先に守らなければならないというヘンな使命感をもってきたために、ねじれた会社愛着の精神を醸成したようである。私は会社や従業員を守ることより、まずなによりも人材市場の開拓と再学習の可能性を開けるべきだと思う。売れなくなったら新しい市場を目指すしかない。あたりまえのことだ。私は鷲津のような冷酷な人間にはなれないが、会社にしがみつこうとする日本人のメンタリティはまちがっているとその破壊には賛成である。会社は顧客のためにあるのが市場の大前提だ。
なおこのドラマは放送延期されていて、柴田恭平が肺ガンになったり、中村師童が交通事故で降板になって松田龍作に代わったりといわくつきのドラマであったようである。
『ハケンの品格』はまあマンガみたいなドラマだった。さまざまな資格をもったハケン社員がスーパーに活躍しながら、正社員を小バカにするというトンデモ・ドラマだった。ありえない。たんなる派遣社員のためのウサ晴らしだったのか、これは。
それにしても篠原涼子がいろいろカッコイイ役柄を演じているが、私はどうもこの人がカッコイイとは思えない。『anego』とか『アンフェア』とか。ほんとうに憧れられているのかな〜。この年代にぴったりの女優が不在ということではないのか。
派遣社員をとりあげたという点では社会問題派ドラマとして評価できるのだが、派遣の低賃金や低待遇という悲惨な扱いがまったく深刻にメッセージされていない、というよりか隠蔽されているんじゃないかと思わせた。スーパーウーマンが派遣で活躍したとしても、この深く重い分断は埋めようがないのである。
派遣やパート、フリーターなどは「身分」である。人格に押されたスティグマのような羞恥や劣等感を刻印するのである。たんなる給与額や社会保険の問題ではなく、人格上の問題とされるような雰囲気を刻印させられることが、ほんとうの大きな問題なのだと思う。
日本の労働者というのは全人格を会社に捧げてこそ正社員だという暗黙のルールがある。派遣やパートはその否定であり、欠落である。いったら「人格を認められない」、「仲間ではない」、「われわれではないやつら」ということで、差別や劣等、疎外を押しつけられるのである。派遣やパートはそういう感情的な疎外感をたえず感じなければならないから、非正規雇用は感情的な問題としてくすぶりつづけるのである。正社員でも零細企業なら派遣並みに低い給料も多いのだが、それは問題にならないのである。
『ハケンの品格』はこういう差別や疎外という問題をまっ正面からとりあげたかというと、そうではなかっただろう。いじめや差別、格差、侮蔑といったシリアスな問題はテーマにはならなかった。かれらは将来どうなるかの。格差の未来はどうなるのか。たんにスーパー派遣ウーマンが窮地を救うというウルトラマンなみのマンガであった。これはウルトラマンへのオマージュなのか。こんなドラマになんの意味があるのか。このドラマはやっぱりシリアスでなければならなかった。でないと社会へのメッセージにはなんの効力も影響もない。
ただひじょうに印象に残るエピソードがひとつあって、派遣のコンペを会社に出した主任の責任が問われたときに部長をとどめさせるために、部長の自慢である剣道でわざと負けてやるシーンが圧巻だった。部長は剣道場で子どもたちに負ける姿を見せられない。その自負を逆手にとって部長に要求を呑ませたのである。これは権力者の自尊心をコントロールするというとんでもないワザだと息をのんだ。
さいごに『華麗なる一族』。大そうなドラマだった。ぎゃくにその大そうさが浮いているように感じられなくもなかったが。
こういうドラマがいまどきつくられたのは、私は理想や希望のなくなった時代への批判ではないかと思う。カネ儲けや利益のみに囚われた日本人への批判であると思う。キムタク演じる万俵鉄平の自死はそのことを象徴しているのだと思う。
それともうひとつカインとアベルの物語もふくまれていたように思う。カインとアベルの物語は旧約聖書にある兄弟殺しの罪の物語である。兄カインが嫉妬のために弟アベルを殺してしまうのである。『華麗なる一族』には父と息子の祖父をめぐっての葛藤の物語がある。このテーマともうひとつのテーマはどう結びつくのだろうか。
父万俵大介は銀行を大きくするために息子の理想を追いつめるような裏切りをなし、かれを自死に追い込む。それは祖父への嫉妬のためであった。父-息子の葛藤が理想と守りという対立に重ねられた物語と読むことができるのだろうか。
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■コウテイペンギンの過酷な子育て越冬 2007/3/28
NHK『プラネットアース 第八集 極地 氷の世界』を見て感動した。コウテイペンギンたちは南極の氷点下60度になる真冬のなか、オスたちは四ヶ月もなにも食べないまま、卵を守りつづけるのである。ハドルというおしくらまんじゅう状態でおたがいに寒さをしのぎあいながら、陽ののぼらない真冬を乗り切るのである。
四ヶ月もひたすら卵をあたためたまま、耐えつづけるのである。ブリザードは吹くわ、太陽はのぼらないわ、メスたちは海に戻ってしまうわ、ただただ忍苦のひと言である。寒いからみんなで固まりあう。よくこんな子育て越冬方法を考え出したものである。
コウテイペンギンは身を守る術をなにももたない。捕食者に狙われるとひとたまりもない。もっとも無防備になる卵を守る時期、捕食者、いやほかの生命すらひとつもいない南極の過酷な環境の中で、卵をあたためつづけるのである。クマの冬眠に似ているかもしれないが、ペンギンは穴を掘る腕すらないのである。
メスたちが食べ物をお腹につめて帰ってくるシーンが感動的だった。どんなにオスたちはこの日を待ちわびたことだろうか。そしてオスたちは海に戻るわけだが、そこで力尽きるオスたちもいることだろう。
生まれた子どもたちはこの極寒の環境の中で、母の身体のあたたかみやほかの子どもたちのあたたかみを頼りに生きのびなければならない。親をなくした子はほかの同じように子を失った親たちの奪い合いの末、その体重で押しつぶされて死んでしまう。親からはぐれた子どもたちの群れはおたがいの身体であたためあうが、寒さや心細さはすさまじいものがあるだろう。
極寒の過酷な地に生きる生き物は生きるということの尊厳を感じさせる。一歩間違えば、すぐ死が間近にある過酷さの中で生きているのである。カメラマンの星野道夫がカナダの極寒の地に魅せられた意味がわかる気がする。そしてこんな苛酷な環境の中で、子育てをしなければならないコウテイペンギンたちの追いつめられた状況に哀悼の念を感じないわけにはいかない。かれらの安息の地はほかの生命が存在しない極寒の地、南極にしかないのである。
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