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  古代レイライン・マップ探索


 ■大和朝廷の太陽の道をゆく            2006/9/24

 『太陽の道』 謎の北緯34度32分 (no,1)
 『太陽の道』 荒俣宏
 磐座みぃ〜つけた新聞
 奈良、太陽信仰の道

 北緯34度32分に古代遺跡や神社がならぶラインがある。春分と秋分の日の日の出と日没が結ばれたラインである。そこには大和の三輪山と二上山が相対峙し、西にいくと日本武尊(やまとたけるのみこと)が白鳥となって舞い降りた大鳥大社があり、東にいくと長谷寺、室生寺があり、さらには伊勢神宮の移転元といわれる伊勢斎宮遺跡がある。

 かつての人たちは日の沈むところに死者に国を思い浮かべ、日の昇るところに再生を願った。二上山は死の山であり、その西麓にはたくさんの墳墓がつくられ、そして日の昇る三輪山は聖なる山、神のご神体として崇め祭られた。そして季節の変わり目も生命の盛衰を司るものとして、その交差点に神社や神が祭られた。

 その太陽の道を大鳥大社から三輪山までめぐってみました。古代の人たちはどのような思いでこの太陽の道をながめたのでしょうね。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が白鳥となって舞い降りたといわれる大鳥大社です。太陽が沈むところの暗喩だったのでしょうか。
堺には日置荘とよばれる地名がのこっており、日置部といった人たちは自然暦を司った。そこにある萩原天神です。
二上山の麓には當麻寺(たいまじ)があります。死者の国への入り口だったのでしょうか。
奈良から見た二上山です。ふたつコブの山が特徴的です。この山の向こうにはおびただしい墳墓がつくられました。
太陽の道に位置する多神社です。その線上には三輪山と二上山があり、その南北の鏡作神社と畝傍山から夏至と冬至の日の出が三輪山から昇ります。
卑弥呼の墓といわれる箸墓です。むこうの山は三輪山です。
神として崇められる三輪山です。大和の人たちはこの山のあらゆる方向から日の出をなかめたのでしょう。再生を司る神でもあったのでしょう。
三輪山の麓にある大神神社です。この神が伊勢神宮にうつったといわれています。
暗くなってしまいましたが、三輪山の麓から畝傍山や耳成山の突起が見えます。むこうは葛城・金剛山脈です。
秋分の日から一日たってしまいましたが、日が沈むところ。葛城山のほうに沈んでいますが、場所が悪かったのでしょうか。

  あまり役立たない地図だと思いますが、大神神社にリンクしています。




 ■太陽の道をマッピングしてみる         2006/10/29

 ロカポDIYマップサービスを知って、「太陽の道」をマッピングしてみました。しろうとのお遊びですから、精度はかなりいい加減なものに仕上がっています。緯度がじょじょにズレています。緯度ではなくて、神社や山岳を結びつけましたので、どうも緯度が曲がってゆくようです。

 地図を拡大して、レイライン上にどんな寺社仏閣や地名があらわれてくるのか楽しめたらいいなと思っています。もっとマーカーを入れたかったのですが、反映されないこともあるみたいですので、最低限のマーカーだけを入れました。レイラインの不可思議さをさぐってみてはいかがでしょうか。

 なお左上の四つの矢印で方向を動かせます。下の二つが拡大と縮小です。マウスでも動かせます。

 

 ▼参考文献
 小川光三『大和の原像』
 水谷慶一『知られざる古代』
 吉村貞司『原初の太陽暦と固有暦』
 宮元健次『神社の系譜』



 ■三輪山の太陽の道をマッピング      2006/10/31

 宮元健次『神社の系譜』(光文社新書)を参考に三輪山のレイラインを引いてみたのですが、ロカポDIYマップは情報量が多すぎると、ある時点からの書き込みがいっさい映らなくなります。何度もしんどい思いをしてマッピングしたものが、一瞬の夢とついさりました(涙)。

 こんかいのマップも三輪山ライン上の「斎槻岳?」のマーカーが映ってませんし、二上山までのレイラインがみごとに消え去っています。限界す。

 マップの東西線が春分・秋分ラインですね。右上30度のラインが夏至の日の出、右下30度のラインが冬至の日の出。左上に向かうのが夏至の日没。左下に向かうのが冬至の日没。古代の人にとっては冬至の日没は死の国へのラインと再生への願いの日で重要です。

 宮元健次の本によるとびしっと正確にならんでいるはずなのですが、地図で引くと、ずいぶんいびつです。三輪山の三角形が小さすぎて、多神社の三角形が大きすぎ。こんなのでいいのかなという感想です(笑)。作成者の腕が悪すぎなのでしょうか。。拡大してお確かめください。二上山へのラインが飛鳥戸神社にくるのは発見ですね。


 




 ■巨岩と夕日を祭る神社              2006/10/1

 奈良県吉野川上流あたりに圧倒される神社をみつけました。高台にある神社と巨岩の大きさにおどろきました。そのような自然の驚異に感嘆する気持ちが神や神社の原初にあるのだということをあらわしているように思われました。

川をはさんだ高台に神社がありました。なんでこんな高いところにあるのだろうと思いました。御霊神社といいます。
その堂からは山の向こうに夕日が沈みます。この神社は夕日を祭る神社ではないかと思いました。ちょうど夕日を浴びているのでぴんときました。
下をながめると、かなり急な階段であることがわかります。太陽の影もこちらに向かって、通り道のようになっています。
もうすこし吉野川を下ると、岩神神社があります。巨岩の大きさにただ圧倒されます。そして巨岩を祭り、神として崇めた人たちの気持ちがまだ生きていることを感じました。
明らかにこの巨岩が祭られているとわかる神社です。全国の神社はこのような自然崇拝の上に、天皇家や祟る人たちの神格化がつみかさねられたのだと思います。
吉野川上流の風景です。川に開けた山々や村の風景ってどこかしら心を和ませるものがありますね。

  東吉野村の赤+印あたりだったかな〜?



 ■太陽崇拝の奥の院をゆく          2006/10/29

 小川光三の『大和の原像』をうけて三輪山の奥にある太陽崇拝に関係のある聖地をめぐってみました。いきあたりばったりだったので、都祁(つげ)村のほうまでの収穫はありませんでした。(都祁村は山奥なので方向感覚が働きませんでしたし、寒かったので退散(笑))。

 小川光三によると、箸墓は夏至の方向の斎槻岳(ゆづきがたけ)に向かっており、その手前には穴師坐兵主神社があり、それより北の箸墓のラインには斎宮山の天神社があるといいます。春分の日の出の神をもとめて東の山塊へと向かった先には伊勢斎宮跡があるというわけです。

 古代の人の太陽にこめた気持ちはどのようなものだったのだろうと思いながら、巻向川をさかのぼって三輪山の山奥にわけいってみました。

箸墓と三輪山のショットです。たしかに箸墓が向かっている先は三輪山ではありません。
崇神天皇陵です。ここと箸墓が向かい合った先に斎槻岳があるというわけです。
穴師坐兵主神社です。箸墓と斎槻岳を結んだライン――夏至の方向にあります。神体は円鏡だそうです。
桧原(ひばら)神社です。崇神天皇の代に天照大神がはじめて祭られたとされるところです。小川光三はこのラインに穴虫峠と箸墓、伊勢斎宮を結び合わせて太陽の道としました。
磐座が祭られていました。どうして太陽崇拝と磐座が結びつくのか謎です。それにしても本殿がない鳥居と磐座だけのシンプルなつくりです。
またしても撮りたくなる桧原神社の鳥居からながめる二上山です。正確には春分・秋分ラインの穴虫峠(夕陽の沈む大穴と思われる)の方向に向かっています。
巻向川をさかのぼった先にあった笠山荒神社です。ここは箸墓と斎槻岳のラインの延長線上にあります。
神体は鏡です。大きいのがひとつ、小さいのがふたつ。やはり太陽と関わりがあるわけですね。
たまたま見つけた斎宮山の天神社です。レイラインはこういう楽しみある。ここはさいしょに皇祖神を祭ったとされる笠縫邑泊瀬斎宮とされるところです。
やはり石が祭られてる。石はなぜ神なんだろう?
天神社の笛吹奥宮だそうです。つまりこれが天照大神が隠れた天の磐戸だそうです。ううむ、なんともいえない。
都祁へ行く道すがらにあったなにかのご神体です。山中の車道にあって村おこし的なムードか漂いますが、私はどうも磐座にひきつけられます。

 
 ロカボDIYマップでGoogleマップをいじってみました。うまく表示されていますか。天神社の位置がわかりませんでした。拡大したり、動かしたりして、付近の地図をながめてみるのも楽しいかもしれませんね。航空写真は世界地図にもどりますので注意。



 ■住吉大社レイラインを引いてみる          2006/10/31

 住吉大社を中心にレイラインを引いてみたのですが、こんかいはきれいにできました。とくに夏至線と冬至線がきれいにならんだのは感激。

 住吉大社をとおる右上のラインが冬至の日没の淡路住吉神社から、夏至の日の出の石切神社につながります。右下に向かうのが夏至の日没の神戸本住吉神社から、二上山のこぶのあいだをとおり當麻時へと冬至の日の出がのぼります(一本、神戸の住吉神社のラインが間違ったまま残っていますのですいません)。もう一本右下に向かうのが四天王寺-耳成山の夏至の日の出ラインです。

 あと、真横に向かう春分・秋分ラインが難波宮と春日山、住吉大社と法隆寺、もう一本はラインが引かれていませんが仁徳天皇陵-龍王山ラインがあります。右上に向かうのが等乃木神社-高安山の夏至の日の出ライン、もう一本が応神天皇陵-春日山の夏至の日の出ラインです。

 参考にしたのはもちろん宮元健次『神社の系譜』(光文社新書)です。拡大してレイラインをなぞり、どのような神社仏閣、または山岳や地名があらわれるかご確認ください。

 



 ■高安山レイラインを検証する             2006/11/5

 

 こんかいのレイラインは生駒山系につらなる高安山が主役。冬至の日の出が高安山からのぼる地点は大阪天神橋にちかい座摩(いかすり)神社であり、夏至の日の出が高安山からのぼる地点は高石市の等乃木神社である。

 このことが書かれているのは、大和岩雄の『天照大神と前方後円墳の謎』(六興出版)であるが、さっそくマップにおこしてみた。角度的にふたつとも30度をこえて大きすぎのようだ。本の図では高安山と住吉大社が春分・秋分ラインのように書かれているが、右上がりになりすぎ。住吉大社は法隆寺が東西線である。淡路の岩屋神社を結ぶには高安山-住吉大社ラインは角度がいいかもしれないが、住吉大社の東西線ではちょうど明石海峡をとおってしまう。

 大和岩雄によると、高安山手前にある岩戸神社の洞窟から太陽がうまれ、淡路島の石屋神社の洞窟に没すると古代人は観念していたという。正確な東西線をあらわしていないようだが、すこし早めの春分ラインに意味があったということにしておこう。

 淡路島までのラインは情報量オーバーのためか線が反映されなかったが、高安山-等乃木神社-淡路の由良の門はなかなかきれいに一直線にならんだ。『古事記』にあるように等乃木の巨樹の影は高安山と淡路にかかったのである。それは等乃木から見て高安山に日がのぼる夏至と、淡路島左端あたりに日が沈む冬至の日のことをあわしているのだろう。高安山から見て淡路島の左端に太陽が沈むとき、つまり太陽がいちばん衰える冬至に太陽の再生が祈られたのだろう。

 ちなみに等乃木神社から見て二上山雌岳に日がのぼるのは春分と秋分の日であり、夏至には高安山からのぼり、冬至の日の出が見られるのは金剛山である。古代人はこの山アテによって田植の時期を知ったり、太陽の復活を祈ったりしたのだろう。

 高安山に冬至の日の出を見る座摩神社はもとは大阪市中央区石町にあり、神功皇后の鎮座石があるそうだが、移転先の久太郎町は百済の当て字であるとはおどろきだ。ちかぢかこのレイラインめぐりの写真をアップしたいと思います。



 ■高安山レイラインを訪ねる            2006/11/5

 難波にとって高安山のある生駒山脈は太陽ののぼる山塊でもあります。古代の人は季節の節目に高安山に日がのぼる地点に聖地をおいてきました。冬至には座摩神社、春分・秋分ラインあたりには住吉大社、そして夏至には等乃木神社といったように高安山は季節の目印でもあったようです。

 また古代の人は太陽は洞窟で生まれ、西の洞窟に沈んだ太陽は地下の黄泉の国を舟によってはこばれると考えていたようです。高安山の手前には岩戸神社の岩窟があり、そして淡路島の岩屋神社には洞窟があるそうです。

 古代人の太陽信仰の死と再生の世界観を身近に感じようと、高安山レイラインをめぐってみました。

 
高石市にある等乃木神社です。大樹の影が高安山、淡路島までとどいたというところです。本殿は高安山方向に向かっていて、うしろから夏至の日の出がのぼるはずです。
等乃木神社-二上山雌岳ラインには聖徳太子御廟所があります。住吉大社-法隆寺ラインにも聖徳太子が関係していることになりますね。太陽信仰を仏教でおさえこんだんでしょうか。四天王寺-耳成山ラインもあります。
太子町あたりから見る二上山。等乃木神社から春分・秋分の日に日の出が拝めるはずです。もちろんいまは見えませんが。冬至には金剛山からのぼります。
大阪市中央区天神橋あたりにある元座摩(いかすり)神社。冬至の日の出が高安山からのぼる地点です。神功皇后の鎮座石が祀られています。なんか亀裂が走った石です。
生駒山麓にあった心合寺(しおんじ)山古墳が復元されておりました。古墳とは誕生の場である子宮が再生の象徴として象られているのでしょうか。
高安山中腹にある岩戸神社です。岩の壁がご神体なのでしょうか。大和岩雄によると女陰のかたちをしているそうな。
こちらは天照大神高座神社です。こちらも岩の壁が祀られているような。岩戸神社とは隣り合わせです。白竜明神の穴が太陽の生まれ来るところと考えられたのでしょうか。だいたい住吉-法隆寺ラインにあります。
滝の行場があって、この二社は水と岩の聖地であったように感じられました。太陽信仰はどのように結びついたのでしょうか。
生駒山脈の稜線はなだらかで高安山はひじょうに見つけにくいです。気象レーダーがあるからかろうじて見分けられるくらいです。
住吉大社第一本宮です。地元にいてあまり古さとか由緒が感じられないのですが、たぶんに街中にあるからでしょう。レイライン上で重要な位置にあります。石切、法隆寺、二上山、神戸、淡路と結ばれます。
高安山の南西の高尾山には鐸比古明神という巨岩がむかしは祀られていたようです。羽曳野市あたりの古墳群が見渡される展望のよいところです。
住吉-法隆寺レイランからはすこし外れますが、信貴山の朝護孫子寺です。斑鳩あたりが見渡せます。
そこで火渡りがおこなわれていました。この山伏のような人たちは住吉大社でも見たことがあるような。
生駒山麓から夕陽が沈むのが見えます。生駒山脈の神々というのは、ほんとうに数多く存在するのですが、少なからず夕陽と関わりがあるのかもしれません。



 ■神になろうとした家康               2006/11/9

 

 人間が神になろうとした際にどのような仕掛けが用いられたのか、家康の例をとって考えてみたい。もちろん参考文献は宮元健次『神社の系譜』(光文社新書)である。

 地図のいちばん右側は江戸城であり、それを北極星のほうにたどると日光東照宮にたどりつく。それを南西に下ると家康がさいしょに葬られた久能山東照宮、西にたどる家康の母が子授け祈願をした鳳来寺、そして生誕地である大樹寺、さらには日吉大社にたどりつく。

 この日吉大社はまっすぐ南下した三輪山の神が再生したものであり、三輪山からはまっすぐ東に向かうと伊勢斎宮跡になる。つまり皇祖神である天照大神のレイラインにあるわけである。

 じっさいにラインをひくと日吉大社まではすこし左上がりである。すこしブレがあるが、家康が葬られた東端と、天照大神が祀られている西端は東西ラインにつながるわけだ。日吉大社から東端に葬られた家康は神として再生するというわけだ。

 また葬られた久能山と江戸城からの北極星ラインには日光東照宮が設けられ、その久能山のラインには富士山がある。家康は神としての天皇になろうとしたのである。

 人間が神になろうとしたとき、このような装置が用いられたのである。おそらく古代の天皇もこのようなレイラインを用いることによって、神として再生することを願ったのだろう。それは太陽の死と再生が象られている。夕に死に、または冬至に死んだ太陽は、朝、東の空に再生するというわけである。太陽の道は神の再生の道のりでもあったのである。家康は太陽と北極星の力を借りて神になろうとしたのである。



 ★(2006/11/11) たいへんです。ロカポDIYマップがダウンロードされない状態がつづいています。せっかくつくったレイラインの地図が表示されないのはたいへん困った状態です。ほかの地図作成サービスはなかなかいいのが見つからないし、困ったことです。ちかぢか、復旧する見込みであることを祈りながら、しばらく状況を見てみたいと思います。どうしよう。。

 (2006/11/12) ロカポDIYマップの障害について有限会社ロケージングさんにメールを送ったのですが、社長さんから返信をいただき、ありがとうございました。Googleが急に新しいV2に移行したらしいです。世界中で同様の報告があったそうです。しばらくマップのダウンロードができない状況がつづくと思いますが、もうしばらくお待ちください。

 (2006/11/13) 復旧したようです。社長さんありがとうございました。みなさんには地図を拡大して、神社や地名をチェックしてみてください。レイラインの新たな発見があるかもしれませんね。でもアクセス数が減ったように、みなさんはレイラインには興味はないのかな〜。




 ■太陽の死と再生と性交                2006/11/17

  住吉大社の鳥居に日が昇るの図

 地図上に並ぶ古代の神社や遺跡、または山岳や古墳。これらをレイライン(光の道)とよぶが、古代人はなぜこうも季節ごとの太陽の日の出・日没にこだわったのか。

 季節の節目を知ることは古代人にとってはひじょうに大切なことだっただろう。稲作民にすれば、田植や稲刈の時期を知る目安になっただろうし、採集狩猟民にとっては獲物がおおくあらわれたり果樹のなる時期を事前に知ることができただろう。そのような目安をある地点からの日の出や日没の場所で観測すれば、かなり正確に予測できただろう。

 さいしょは山アテやストーンサークルでおこわれていたようなものが古墳や神社に移行し、その形跡が現代でもレイラインとして残っているものだと思われるのである。

 しかし太陽は観測のみがおこなわれたのではなく、それは崇拝され、または祭祀される神でもあった。太陽神はエジプトが有名であるが、メソポタミアやギリシャなどでも世界中にひろく信仰されていたものである。太陽はおおくの人類にとっての神であったのである。

 太陽は朝にあらたに生まれ、そして日没に死ぬ。または夏至に最盛期を迎え、冬に死ぬ。太陽は生命のように死んで再生すると思われていた。エジプトのヌート女神の図をみれば明瞭だが、冬至に太陽を呑みこみ、女陰から太陽を生み出している。太陽は生命の誕生のように思われていたのである。

 太陽はどこで生まれるのか。子宮のような洞窟が想定され、レイラインの東西端にその場所は選ばれたのである。あるいは日の昇る山自体から太陽が生まれると思われたのか。西に沈んだ太陽は夜のあいだ、地下の黄泉の世界を舟によって運ばれるという神話もあった。エジプトのピラミッドには太陽の舟が埋蔵されていたりする。

 太陽は再生し、季節は巡り、生き物たちは生命を循環する。季節や生命、太陽にこのような死と再生があるのなら、人間にもあるはずだ。自然のサイクルがこのようなものであれば、人間も死んだのち、ふたたびよみがえるはずだ。古墳やピラミッドにはこのような再生の願いがこめられているのだろう。古墳は子宮や羨道が模せられていると考えられる。古代の豪族や天皇は太陽のようにふたたび生まれ変わるのである。神となって。

 日本神話には箸や機織の梭で女陰を突いて死ぬ話が出てきたりするが、これは太陽が冬至の日に弱まって死ぬ話の象徴に思われるのである。死と同時に性交がおこなわれ、あらたな生命が誕生する。つまりは人間が神となって再生するのである。古代の天皇や豪族はこのようなことを願った。太陽の神と交わることによって死んだのち、神となって再生することを願ったのである。だから冬至の日の出や日没の方向に冥界や死の国が想定され、豪族や天皇はそこに葬られ、神としての再生が願われたのである。レイラインはこのような道のりをへるための重要な筋道であったのである。

 古代人の性はしたがって神への再生を願う神聖な行為だったのであり、または豊穣や繁盛を願う祈りでもあったのである。神への捧げ物であったのである。かつて祭りでは性交が自由におこなわれたり、婚前に新婦が神官や仲人に捧げられたり、神殿で操が売られたりしたのは、神への貢ぎ物であったのである。男たちは神の身代わりだったのである。神社仏閣の近くにラブホテルが多いわけがこれでわかった。(というか、参拝宿泊者の宿がそのようなホテルになったとも考えられるが)

 この自然界が死と再生のサイクルに満ちているのなら、人間も同じように死と再生をくりかえすはずだ、そしてそれは性交によっておこなわれ、または願われたり、祈られたりしたのだろう。性は神に近づくことであり、または神を生むことであったのである。

 現代でも残る神社仏閣、または山岳や古墳のレイラインというのは古代人のそのような死と再生への祈りの痕跡なのである。この世界は死と再生の生命のサイクルに満ちているのである。その代表格が太陽であり、皇祖神である天照大神の姿でもあるのである。太陽は冬至に死に、性交によってあらたに生まれる。自然界のあらゆるものは人間の性交のような受胎と誕生をくりかえすのである。レイラインはその世界観のかたちに残ったものなのである。

 ちなみにキリストの誕生を祝うというクリスマスもこのような世界観の冬至の祭りだと考えられるのである。キリストの死と復活も、冬至に太陽が死に、あらたに生まれ変わる話が土台になっていると考えられなくもない。そしてその禁欲のキリスト教のクリスマスがセックス・デイになったのは、太陽の再生を願う性交の儀式が継承されていると思えば、納得できるのである。

 世界はいまだに太陽神に満ちているのだといえるのである。キリストは天照大神と兄妹もしくは親戚だったのか(笑)。エジプトのツタンカーメンもむろん兄弟である(冗談です)。





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