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 ■060325断想集



 ■権利や正義という「悪徳」              2006/3/25

 モノは売れなくなれば値段を下げざるを得ない。それによって私たち消費者は安い商品を手に入れられる。百円ショップの登場によって私たちはずいぶん恩恵をうけた。土地はバブル崩壊以後下がりつづけているが、私のマンションの家賃はすえおかれたままだ。

 不況も15年もつづけば、労働の消費者たる会社は労働者の値段を下げたいとおもうだろう。しかしモノはかんたんに値下げをできるが、労働者となるとかんたんではない。

 解雇は困難だし、労働争議の歴史があるし、政府や世論は人間の権利や道徳をもちだしてくる。よって既正社員はすえおき、これから労働市場に参入する若者や女性の賃金を下げたり、非正規雇用で対応することになる。つまりは賃下げできない保護された既正社員が犠牲者を産出中なのである。

 市場でモノの値段が下がったからといって、モノ自身は文句はいわないし、保障や保護と叫ぶこともない。人間はそうではない。保障や保護を人間の権利や道徳として要求する。労働力もまたひとつの市場の商品だという覚悟がない。福祉を期待された国家は値段の機能がはたらかない。

 ウォルター・ブロックの『不道徳教育』のなかに「学問の自由」を叫ぶ大学教授の話が出てくる。それは顧客の意向を無視して、自分のやりたいことをする自由のことである。もし「配管の自由」というものがあれば、水道管を好き勝手につなげてよい権利になるし、タクシーやウェイターの自由があれば、客はどこに運ばれるか、なにを飲まされるか、不明だという恐ろしいことになる(笑)。

 人間というのはなにかに特権や権利を認めて、それを市場原理から例外的にはずして、供給者がエラい、守らなければならない、尊厳だと主張する向きがあるようである。ぱっと思い浮かぶのでも出版文化を守るための定価制とか、医療や教育の神聖化などがある。

 それは「お客様は神様ではなくて、オレたちにひれふせろ」というわけである。「オレたちはエラいことをやっているのだから、客はオレたちのいうことを聞いて、オレたちのいいなりになるべきだ」ということなのである。配管やタクシー、ウェイターの自由まで主張されるようになると、客はおちおち他人のサービスを受けられなくなる。自由原理を理想とする経済学者はこういう供給者のギルド化にいつも阻まれたきたわけである。

 客を守るより、供給者はいつの世も政治的に強く、市場原理をぶっつぶしてきた。犠牲はたとえば労働市場からしめだされた若者や女性というかたちをとったり、売れない本なのに文化的という理由で高い値段で買わされたり、医療や教育において私たちののぞまないサービスをうけさせられたり、エラそーにされたりと、代償はどこかで高く支払わなければならないのである。

 基本的に衰退産業や落ち目なものほど政治的に守られる。市場で食えないからこそ、政治力が必要になるのだ。落ち目な芸能人が政治的に守られて毎日つまらないテレビを見せられるのはたまらないだろう。衰退した自動車メーカーのポンコツ車に乗らなければならなのは苦痛だろう。政治的に守られた飛行機に乗るなんてもっとヤバイだろう。老人は労働市場で食えないから年金が用立てられるのである。

 神聖な職業や人間の尊厳は守られなければならないと人はいうだろう。しかし政治に守られたものはどこかに犠牲をしわよせし、腐敗した態度と見当違いのサービスを無鉄砲に生み出すようになる。市場は退場や値下げのしくみがあるからこそ、うまく働くのである。守られたものはほんらいなら安い値段だったものが高価格になり、どこかで犠牲をせっせと生み出しているのである。

 人間の権利や尊厳、福祉といったものはクセモノである。正義や道徳といったものは、どこかでまちがったものを生み出す。社会主義は道徳的であったが、権力者の独裁を生んだ。正義や道徳ってどうも正義でも道徳でもないなぁ。なんでだろう?





 ■大阪古本屋めぐり               2006/3/25

  阪急かっぱ横丁の古本屋街

 リバタリアンの本はいずれも高い。amazonとジュンク堂で目をつけておいたノージック『アナーキー・国家・ユートピア』、ロスバード『自由の倫理学』、D・フリードマン『自由のためのメカニズム』はほとんど四、五千円台だ。

 私にとって四、五千円台の本は高すぎる。よっぽど買う価値が認められないと買う気にはなれない。いままで高すぎて買えなかったドゥルーズとかブルデューの本も見送ってきた価格だ。二千円台の本が二冊買えるし、新書なら5、6冊は読める。

 さっそく大阪の古本屋めぐりだ。amazonやネットの古本屋で見つけられないわけではないが、私はクレジット・カードをもっていないし、やはり現物を見てさいごまで読めるのかの検討も必要だ。

 私は大阪市の南部に住んでいて、近辺とミナミ、キタのいくつかの古本屋を頭にインプットしている。高い本がほしくなったら、それらの古本屋をひととおりめぐる。まあ、そういう少ない本を探すときはたいてい徒労に終わるが。

 長居の福永壊徳堂?はあるていど専門書や新書はそろっているが、だいたい希望の本は見つからない。喜連瓜破(きれうりわりと読みます)の日の出書房は人文書は多いが、あと一歩のところだ。ブックオフも喜連瓜破にあるが、人文書目当ての私には魂の抜けた品揃えにしか思えない。ブックオフって愛書家の気持ちがまったくない。

 南田辺の古書店も人文書は多いが、いまいち古いのが多いのである。今里の日の出書房まで足をのばした。狭い本棚のなかに目当ての本は見つけられない。上本町に二店ほど古本屋を見つけているが、たまにしか行けない。近大の通りに寄ってみたが、大学のテキストなんかそろっていても意味がない。

 天王寺にはアポロビルと商店街に二店ほどある。期待の本がいつもないので寄るのを控え勝ち。ミナミには千日前や日本橋あたりに何店かあり、球場跡ちかくに数点集まっている。人文社会科学に強い古本屋ってそうないのだな。

 梅田にはかっぱ横丁に古本屋街がそろっている。専門書が充実した店が多いのだが、今回は目当ての本は見つけられず。大阪駅前ビルの地下の古本屋群は私の好みの本は少ないのでざっと寄るだけ。天神橋にも人気のある古本屋があるみたいだが、あまりなじみのあるところではないのである。

 私の大阪の古本屋マップはだいたいこれくらいで、探している本は見つからず、ぶらっと寄るときにはほしい本がみつからないといったことがふつうである。だから品ぞろいの多いジュンク堂か、新書の新刊をそろえた大きな書店ばかりがひいきになる。駅前の本屋に寄ることはまずなくなった。

 今回は目当ての本が見つからないのは予想していたことだ。ノージックの本をいぜんに見かけた記憶が一回あったかないていどだから、期待はさいしょからできなかった。

 いままで自転車や電車で探していた古本屋めぐりはバイクで行くようになって、効率的になったが、道に迷ったり、右折がむずかしいので(笑)、目当ての場所にたどりつくのもむずかしかった。まあ、私の宝探しはたいてい鉱脈にたどりつけない。

 神戸の三宮や京都に寄ったときには古本屋に寄ることもあるが、たぶんに多くの店を見つけられているわけではない。リバタリアンの本は図書館に頼ることにしようかな〜。図書館はあまり好きではないけど。線引きはできないし、会員にならないといけないし。

 ▼大阪古本屋マップ
 地図を組み込みましたが、正確な場所はかなりいい加減です。だいたいこのあたりにあるかなと? 多くの情報は書き込めませんので、このへんで。
 





 ■ブログに移行したいけどできない。            2006/3/30

 前からずっとブログに移りたいと思っていた。コメントはつくし、トラックバックはあるし、ファイルの管理が便利だ。

 私のサイトの最大の失敗はファイルの管理だ。いつくかの記事をまとめてひとつのファイルにまとめているために、検索した人がその記事の箇所にすぐに飛べないし、たとえば書評なら書名をタイトルにあげれば検索の上位にくるのだが、そういうこともできない。

 ブログなら月別アーカイブとかカテゴリ、その記事だけと自動的に収納してくれる。手動でカット&コピーするのはめんどさいのである。新しいファイルをつくるのもかなりめんどうである。

 ブログに移りたいと思うのだけど、最大のネックは過去のデータの移動である。私のサイトはもう8年もやっているから、過去ログは半端なものではない。一枚一枚コピーしていこうと思うのだけど、二、三件ですぐに挫折してしまう。過去ログを見捨てて、新しいブログに移れるほど、愛着がないわけがない。

 「有名サイトがブログにしない理由を教えて」というはてなの質問があったが、やっぱり過去ログの移行の問題があるのだと思う。いったいどうやって何年もの蓄積を移動させて、ブログに移れるっていうんだろう。

 たしかに初期のHP作成者には一方通行的な情報発信が好きな人もいるだろう。HPを従来のマスメディアのような受け手に送り手の意見を発信するものだと考えているわけである。

 基本的にHP作成者は人の意見を聞くより、自分の意見をいいたいから作成しているものである。人のコメントをたくさん聞きたい人はマスメディアでも十分だし、チャットや掲示板でもいい。自分の意見をいいたい人はより本質的な一方通行的なHPに進むのである。だからコミュニケーション重視のブログになればなるほど、HP作成の意味がなくなるというものである。

 私がHPをつくるのは自分の意見や考えを公表したいのがいちばんだが、人の意見や考えも聞きたいと思っている。むかしHPには掲示板があたりまえにあったが、私は導入しなかった。記事にたいしての意見が反映されにくいし、自分の現在の興味以外の話題にふりまわされたくないと思ったからだ。いまのブログなら記事にたいしてのコメントが付されるからいい。

 しかし過去ログが多すぎで、さいしょの一歩がまったく踏み出せない。今回もいろいろなテンプレートを見比べて、FC2ブログに開設してみたが、二、三件のコピー&ペーストですっかりやる気をなくした。ちょっと画像がコピーできなかったりしたら、「も〜、やってられっかー!」となる。

 ということでまた今回も地団太(?)を踏むだけの結果に落ち着いてしまうのか。あるいは過去ログをおいておいたままにして、身一つで新天地にのりだすか。

 人が新しいことをできなくなるのは、過去に蓄積があるからである。この愛着が変化や創造をさまたげる。過去のない人ほど新しい創造ができるのはほかのことでもいえることである。これは学ぶべき教訓である。

 いちばんいいのはホームページ・ビルダーにブログの全機能が補完されることである。できないかな〜、ホームページ・ビルダー。





 ■奈良 氷室神社のしだれ桜             2006/4/2

 

 奈良公園あたりにある氷室神社のしだれ桜がこの世のものとは思えないほど美しかったです。





 ■ブログ移行にはやくも壁か。            2006/4/3

 こんかいのFC2ブログの移行はなかなか好調だった。ホームページ・ビルダーからコピペするだけでうまく記事をアップすることができた。

 http://ueshin.blog60.fc2.com/

 調子に乗って60件ほどアップできたのだが、explorerで画像は表示できるのだが、Operaで見ると画像が真っ白で、表示されない。みなさんのブラウザではどうですか。

 なんだかブログては記事のアップと画像のアップをべつべつにおこなわなければならないみたいだ。そんなもんやってられっかとまとめてコピペしつづけたのだが、こういう方法でしか画像が表示されないとするのなら、書影の管理は膨大なものになり、途方にくれるしかない。はやくも壁か。

 ブログに移れると思った一瞬はうれしかった。記事ごとにファイルを分けることができるからだ。検索ヒットの当たり方やリンクのたどり方はかなりよくなる。カテゴリや月別の自動収納はたいへんありがたい。

 でもそれも水泡に帰すか。うまく移る方法はないものだろうか。なんだか、がっくりだ。ブログの本とかパソコン雑誌で勉強するしかないのかな〜。





 ■序列の幸福と主観の幸福              2006/4/5

 「下流社会」や「階層社会」という言葉が世間をにぎわすようになったが、人を脅かして得するのはだれなのだろう。

 商売なら人の恐怖を煽って儲けるのが常套手段である。たとえば「カッコ悪い」「哀れだ」「なさけない」と脅して上級品や高級品を買わせるようにそそのかすのは、どこかしこの商売にもみられることだ。

 あなたは「下流だ」と脅していちばん得するのだれなんだろう。まずはそういう恐怖を利用してマスコミや知識産業が儲かる。注目が集まる。そして下流社会から逃れ出そうとする奔流を生み出すことだろう。「NON-下流商品」が売れるわけだ。

 私はこの流れは、もう働いたってこれ以上豊かにも幸福になれないと近代社会を投げ出した若者への攻撃ではないかと思っている。モノの豊かさや仕事に生きがいを求める人生の休止や停止する若者への阻止をもくろんでいるのではないかと思う。

 でも「下流になるぞ〜、下流になるぞ〜」といくら脅したって、労働ばかりの毎日やこれ以上増やしたいモノなんかあるものかというものだ。

 そもそも下流や上流ってなんの序列やヒエラルキーなのか。上位にくるものは人々が無条件に羨ましがり、憧れられるものなんだろうか。デカいけど必要のない邸宅、会社でのちっぽけな地位、終電間際までの労働、そんなものがヒエラルキーの上位なのか。こんな生活のほうがよほど下流域だ。

 戦後の社会というのは序列によって幸福になれるとシステムづけられた社会だ。いい大学にいけば幸せになれるとかいい会社に入れば幸せになって偉くなれると序列づけた社会だった。序列によって幸福の量が決まると信じ込まされた社会である。

 人が幸福になったり豊かになるのはヒエラルキーの上位に来ることだった。つまり人との比較においてでしか幸福はないと決めつけたのである。勝者にしか幸福はない。そういう信仰は戦後の社会にうまく機能したのだろう。

 でも人との比較や優劣、序列だけにしか幸福がないと見なすのは、人生の大いなる失敗であり、錯誤である。人との比較においてでしか幸福がないのなら、敗者はすべて不幸であり、救いのないことになってしまう。また、一位になるのはたったひとりしかいない。ほかのすべての人が敗者ならみんな不幸な社会ではないか。

 私たちは序列の幸福にすっかり慣らされてきたのだが、人が感じる幸福というのはそんなものではない。序列やヒエラルキーのほかに幸福や満足はいくらでもあるし、そんなもの以外に人生は幸福を見い出すべきなのである。

 ヒエラルキーでしか幸福を見つけられない人の人生は不幸でしかない。比較ではなくて、主観において幸福は見い出されるべきなのである。人と比較しての幸福なんか見い出すべきではないのである。

 序列のないところに幸福を見い出す。たいがいの人は序列なんかと関係なく、自分のいるところに幸福や満足を見い出していることだろうし、また見つけるべきなのである。序列にしか幸福がないのなら不幸のままである。

 だからヒエラルキーを煽る人には、せいぜい私の主観の幸福をじゃまされないよう相手にしないほうがいいのである。人がどのように序列に入れたり、下層に押し込めようが、私は私の主観の幸福を見い出せばいいのである。下層を恐がらせる人には、ヒエラルキーの中で一生苦しめばいいと見放してやるべきなのである。もうヒエラルキーの人生なんていりません。





 ■大阪桜めぐりの写真                   2006/4/9

 大阪の桜をめぐって写真を撮ってきました。いたるところに桜の公園がありましたが、とくによかったのは、古い建物とマッチした水間観音と、永楽ダムのまわりに咲く桜がよかったです。

阿倍野区の桃ヶ池に咲く桜です。高架の電車からも見えて、まいとし春を感じたものです。(画像が暗くてすいません)
ことしもきれいに咲いた桜の下にはホームレスの小屋があります。97年から建てられたとして、もう9年目の桜を迎えたわけです。
大阪城も桜の名所で、人だらけです。むかし私が桜を嫌いだったのは、集団からの疎外感を感じていたからでしょう。宴会の桜はお下劣でキライでした。
お堀の上から見る桜。大阪の象徴としての大阪城の桜は、大阪人の名誉心をくすぐるものなんでしょう。
大川ぞいにはきれいな桜並木がつらなっています。こちらの岸には大阪城、手前に下れば、中之島です。
貝塚市の水間観音も川ぞいに桜並木が迎えてくれます。
暗くてわかりにくいですが、歴史のある水間観音に桜はとてもマッチしています。聖なるものをいっそう、ひき立てています。
水間観音の本堂ですが、クラシックな建物はいいな〜と年をとった私は実感するようになりました。「古いものに価値がある」ということと、何百年もの月日をそこに感じさせるからでしょう。
熊取町の永楽ダムには桜並木がずらりととり囲んでいて、桜の回廊を湖面沿いに通り抜けることができます。山の爽やかな空気と湖、冬の厳しさのあとに咲く桜と、これ以上の組み合わせはありません。
またまた暗くてすいませんが、阪南市の山中渓(やまなかだに)には川をとりかこんでの桜並木がつづきます。山奥という清涼感がまたいいわけです。





 ■保障好きな日本の働きたくない私。        2006/4/13

 フランスで若者の暴動があったが、フランスは雇用の保障がずいぶん手厚いらしい。五週間のバカンスはあたりまえだし、病気で5年たっても給与の8割が支払われているらしい。こんなに雇用が守られた国で、若者だけが理由もなしに解雇できるとなったら若者は怒り出すだろう。

 日本との共通点は賃金カーブの上昇である(安い給料は身を助く(四番目の記事です)。 年功賃金みたいにまっすぐに急上昇である。

 おそらくはこのような年功賃金が市場競争の硬直をもたらしたがゆえに、若者の解雇の自由化がおこなわれたのだろう。日本では政治家がそんなことを断るまえに勝手に若者の非正規化や賃下げはさっさとおこなわれているが。

 保障か、自由かは難しい問題である。経済学者がしゃべりまくっているはずなのだが、どちらがいいのか私にはさっぱり見当がつかない。

 私は日本のサラリーマンの「社畜化」や「滅私奉公」の人生に腹をたててきたから、市場主義のほうが人生の自由をもたらすと、だいたいは思っている。社会保障が奴隷の人生を導くのだと思っている。年金や健康保険が社畜や滅私奉公の人生から降りられなくさせている元凶だと見なしている。だから「保障をもっとくれー」という人には「もっと牢獄に入れてくれー」という声に聞こえるのである。

 私はなによりも働かない人生の選択肢がほしいと思っている。海外旅行にいったり、趣味や勉学に励む時期をもてる人生があってもいいんじゃないかと思う。しかし保障のばっちりなされた社会では、途中で降りられるような選択肢はない。保障は隷従の人生だと思うのである。

 労働者を守るのは労働組合ではなく、ほかに転職先があることだといったのはミルトン・フリードマンである。国家や特定企業だけから保障を与えられると、そこから抜け出す自由はなくなる。解雇された企業に再雇用されようとする神経が私には理解できない。だから転職先がいくらでもあることは、自由を守ることになるのである。

 そもそも市場経済に生きるわれわれはなぜ保障が与えられるのだろうか。なぜ正当な当然の権利として、雇用の保障は主張できるのだろうか。市場で売れなくなった商品は退場するほかないのだが、この市場原理に逆行する権利や権力はどこから生み出されるのだろうか。そしてまたそれはいったいだれが保障を采配する権利をもち、そしてそれを判別する知識はだれがもっていると見なされるのだろう。

 それらをぜんぶ政府に要求していたら、政府は権力やカネが集りつづけ、巨大な暴君としてふるまう危険はないのか。私は彼らに守られることによって、彼らに牛耳られ、彼らに人生を決められてしまわないのだろうか。私の好き勝手に生きる自由をかれらに売り渡していないのか。 お役人の天下りや無駄遣いが非難されているが、かれらに権力を与えるのは、なんでも政府に頼ってしまうわれわれ自身ではないのか。

 保障は高くつく。割高な給与や解雇の禁止はほかの者の雇用や給与の削減、社会保障のカットにしわ寄せされる。先ほどの賃金カーブでは男性は年功賃金で定年近くまで上りつづけるのに対し、女性は三十代から下がりつづけ、おそらくはこれからの非正規の若者もそのような賃金傾向をなぞってゆくことになるのだろう。つまりは男性正社員を守るためにほかの者たちが犠牲になっているのである。社会保障はのちの世代に犠牲を強いるかたちになっており、年金の世代格差にも似ているといえる。

 日本はすっかりと保障がステータスになった社会である。みんなが「正社員になれ」というのは社会保障のシートにつけということである。われわれは自由や人生の選択肢がどんなに奪われているのかなんてちっとも気にかけない代わりに、保障される人生がわれわれの身元証明になっている。

 こういう保証がもとめられる社会というのはほかに多大な犠牲を強いているのである。たとえば大半はパートになる女性であったり、新しい世代であったり、または割高な市場価格や非効率な生産性、創造性の滅却、不況などに転嫁させられているのである。保障されるステータスは社会全体に高コストをかけているのである。

 とはいっても労働者がかんたんに切り捨てられるばりばりの市場原理社会になったら、社会主義やリベラリズムが生まれた凄惨な資本主義の時代に逆戻りである。市場主義に傾いたと思ったらすぐにリベラルの声が戻ってくるように、いつも同じ地点に戻る。まったくわからない問題である。

 私はただただ少ない労働で少ない金でもいいから、後ろ指を指されずに自由に生きられる社会になってほしいのである。





 ■原付の初心運転者講習をうけてきました。         2006/4/15

 去年十月にとった原付免許が早くも違反4点。さっそく初心運転者講習の春のおさそいをうけました。

 二点は一方通行だからまあいいとして、二点は21qスピード・オーバーである。原付で30q制限は不可能である。車の流れを考えたら30qで走ることは、車の迷惑や邪魔になることである。二輪レーンがあればいいが、車が追い抜けない狭い車道で30qで走る「根性」は私にはない。

 しかも警察からは罰金を一万ずつカツアゲされ、ダブル・ビンタ状態である。この法規がなぜ存在して、だれが決めていて、変えることははできないのかと思う。いままで警察のお世話になることなく生きてきたが、ポリさんが憎くなった。

 でも捕まってからなるべく40qで抑えるようにしたら、あんがい車の流れが先に行ってしまい、マイペースで走れることも発見。必死に車に合わせる必要もないのだと知った。原付はそういう乗り物だと観念するまで、車の「アイデンティティ」で走ろうとしていた。

 初心運転者講習は4時間。また一万も巻き上げられた。警察は強奪や窃盗という犯罪者の顔ももつのである。警察官の登場はなく、教習所の教官とのだらだらとした安全講習である。

 内容は適性検査、教習所でのコース巡回、外に出ての安全運転、危険予測のテストとそのための質疑応答、といったものである。三人で受け、平日しかやっていない。教習所の教官の態度はやわらかく、たんなる安全講習のなにものでもない。強制でなければ、一万の価値はない。

 適性検査は明らかに悪い例がわかる質問ばかりである。あなたはスピード狂ですか、イラチですか、あなたは車依存症ですか、あなたは自己中ですか、等々。

 教習所でのコース巡回は私は三人の先頭を走ったのだが、まったくコースが覚えられず、私の記憶力の悪さが決定的に露呈。じつは私はさっきやったことの記憶力がかなり悪いのである。ぎゃくに危険予測は強いから、「未来とりこし苦労型」の心のかまえをもっているのかもしれない。「こういったら人はどう思うだろう」「こうしたら人は傷つかないか」といったたぐいに心の多くを費やすのである。そのかわりさっきやったことの重要性は認識しないのだろう。

 あと2点で免停である。たぶん近々の予定だろう。私は仕事でもそうだが、失敗という限界にぶつかるまで、その過ちに気づかないのである。いったらどこまで探索できるか、壁にぶつからないとわからないのである。

 違反点数のことは私は知らなかった。原付の参考書には見当たらなかったような。6点で免停、15点で免許取り消しだ。行政処分はうまくできいていて、点数や免停が増えるごとに処分の長さや罰則が増えてゆく。
交通違反の基礎知識(行政処分)

 罰則はほんとうに交通事故を防ぐものだろうか。ほんらいは事故を防ぐという目的が最大のものであるが、けっきょくそれを罰則させる警察との怨恨や憎悪、駆け引きだけを増殖させている気がする。まずは自由であるはずの大人のプライドを引き裂き、感情の交換原則がそこから働くと、負債を返そうとする関係になる。人間関係の根本的なルールである。リバタリアンなら交通違反の罰則はどう見なすのだろうか。





 ■ブログ移行は順調です。             2006/4/16

 いちおう報告しておきますが、HPからのブログ移行は順調です。一件一件コピベしていて画像がアップされないという間違いもありましたが、ブログとの違いも理解しましたのでとどこおりなくアップはすすんでおります。ただ画像をコピペできないというのがかなり煩雑ですね。

 http://www.interq.or.jp/leo/ues/home/top.htm
     ↓ 移行中。
 http://ueshin.blog60.fc2.com/ 「考えるための書評集」(こそっとタイトルをいじってます。)

 ブログのほうでは移行が完了するまで、旧い記事をトップに表示されるようにしています。バックナンバー特集やリバイバル特集としてお読みいただければ、たいへんありがたい。更新サイトの宿命として旧い記事には目もくれられないという悪弊もありますからね。

 一件一件のコピぺはたまらない作業ですが、過去の自分の考えや表明をもう一度ふりかえることができて、それはそれでたいへん楽しいものです。みなさんにも、古い記事だから価値がないとは考えずに、ぜひ読んでもらいたいものです。すぐに古びる時事問題にはあまりふれていません。

 ブログ移行の第一の目的はファイルを単一記事のみにして、検索の上位にくるようにすることと、その記事にリンクやトラックバックが貼れるようにすることです。いくつもまとめてひとつのファイルに放りこんでいたら、どこにお目当ての記事があるか不親切ですものね。

 FC2ブログは項目を変えたり、記事をプレビューしたりすると、すぐ設定項目が消えてしまうのが難です。保存するたびにPING送信で更新情報が飛んでしまうのは、ひんぱんな修正には抵抗を感じます。あと記事記入欄をもっと大きくしてほしいこと、プレビューの幅を調節できるようしてもらいたいと感じています。

 ブログの全移行はいったいいつになったら終わるのか皆目見当がつきません。なんせ97年からこのHPははじめられていますので、8年間の蓄積がありますからね。さじを投げ出したり、休止してしまうともかぎりません。

 もしすべての移行が完了すればブログのほうをメインにしたいと思っています。あるいはふたつのサイトの同時アップがめんどくさくなって、早々とブログのみになるばあいもあると思います。そのときにはみなさんにはご迷惑をおかけいたします。





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