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 ■060301断想集



 ■若者を排斥する社会の若者バッシング        2006/3/1

 本田由紀ほかの『「ニート」って言うな!』(光文社新書)でいわれていることは、若者こそが変動する企業社会の犠牲者なのに、怠けややる気のない若者こそが悪いという風潮が盛り上がることに釘を刺していることである。

 

 なるほどなである。90年代のバブル崩壊の大不況いこう、企業は若者の新卒採用を控えたり、正社員でないアルバイトや非正規雇用で採用することが多くなった。

 こういう時代に呼応するように若者の凶悪化や犯罪がマスコミの大注目を浴びるようになった。つまりは若者が悪いのであって、企業や社会はなにも悪いことなんかしてません、と煙幕を張っているのである。

 企業社会に属する大人たちが自分たちのやましさを覆い隠すために、若者の悪イメージが流布されるのである。犯罪率は終戦後から高度成長以前のほうがよほど多く、減る一方なのに、マスメディアにハマっている人は「どんどん凶悪事件が増えている」と思わされているのである。

 ニュースというのは今日の事件が人類史上最悪の事件だと思わせて、今日の売り上げを増やし、過去の凄惨な事件をまったく思い出させないのである。そろそろわれわれはこの愚かなからくりから卒業すべきである。

 若者がフリーターやひきこもり、ニートになったりするのは、企業社会が若者に正社員の職を与えないようになったからである。若者に活躍の場を与えず、社会的活動を閉鎖に追い込むのである。そのやましさを大人たちは若者の凶悪化や怠けのせいにするのである。

 企業はもともと営利企業である。不景気になればクビを切ったり、採用を控えるのがとうぜんの経済的行為である。

 しかし日本人にとっての企業のイメージというのは終身まで面倒を見てくれる大家族のイメージである。そういうゆりかごのイメージで戦後の日本人は企業を見てきたのである。だから日本のサラリーマンは滅私奉公や愛社精神をもち、「社畜」や「会社人間」になってきたのである。

 しかしそんなものは高度成長期だけの一瞬の幻想である。社会福祉をしているような顔の企業は、大不況に突入するとたちまち、化けの顔をはがした。若者の雇用を減らし、若者の社会保険をつっぱなし、ゆりかごの中高年だけを過去の経緯と既得権がある以上守ろうとした。

 家族を守るやさしい企業というイメージの不整合のために、社会福祉から見捨てられた若者を見えないものにするために、若者の凶悪化ややる気のなさをプロパガンダに利用するのである。社会福祉が切り捨てられているという現実を見えなくさせるために。

 たしかにバブル入社以前の社員たちには社会主義的発想で守られている。それ以降の大不況期の若者たちにはすでにそんなものを与えられていない。社会主義が終わってしまったということを見ないがために、若者はひたすら叩かれつづけるのである。

 そして世の心理至上主義という風潮とあいかさなって、若者はますます自分自身だけのせいにされるのである。つまりはあなたの心や性格が悪いのであって、社会や経済は悪くありませんということだ。心理学が増長する時代というのは、社会学や経済学に悪の原因をみいだせない、改善の要求がつきつけられない時代になるということなのである。

 マスメディアはほんらいなら社会福祉を捨てた企業をいっせいに非難すべきなのである。しかそれを怠り、ぎゃくに犠牲者である若者の資質のせいにした。

 大人たちは社会主義がこの日本でもようやく終わろうとしていることに気づかなければならないのである。企業が社会福祉を過剰に期待された時代は終わり、企業はほんらいの営利企業としての顔で生存しはじめたのである。

 そのような時代に必要とされるのは企業の人権無視や労働違反に厳しく対処する権力者としての政府なのであるが、日本の政府は企業の大親玉のような存在でしかない。後発途上国として日本は全体で株式会社化されなければならなかったからだ。

 この狭間において若者はどんどんと追いつめられてゆくのである。社会福祉を担わないようになった企業の隙間はだれが埋めるのか。あるいは社会福祉で守られている者たちとの不平等はどう解決するのか。この問題が深く進行し拡大しつづけているのである。

 企業に担わせていた社会福祉の役割が終わろうとしているときに、この問題のすりかえが若者に背負わされているのである。





 ■奴隷に身分保証が与えられる社会を、
  日本はなぜつくったのか
                 2006/3/4

 サラリーマンを奴隷や社畜だと認識している人は、この日本には少なからずいると思う。私も漠然と感じてきて、どうしてなんだろうとずっと思ってきたが、どうやら根本には逆説的に国民の老後や健康を守るという社会保障があるらしいことに思い至った。

 老後や健康が守られる社会保障は人々の究極の理想であるのはわかるが、それは逆説的に生涯の国家や企業への隷属をもたらすのである。人間のいちばんの根本的な不安を解消する人質が、国家や企業にとられるのである。私たちは喜んで奴隷になり、生涯を保障された人間に堅実な身分を見るようになるだろう。

 このような理想のパラドックスは社会主義国家によって実現された。地上のただひとつの雇用主に国家がなってしまえば、それにNOをたたきつけた人は餓死か、強制労働収容所に送られるしかなくなる。スターリンやポルポトの国家ではそれが現実におこったのである。フリーターやニートは社会主義に対する反抗が、日本的なかたちで遅くに花開いたものなんだろう。

 日本では共産主義は国家のみが担うのではなく、会社内で共産主義がおこなわれた。解雇を法的に困難なものにし、老後や健康の保険料が折半され、終身雇用である。日本人は会社を社会主義国家の理想として運営しようとしたのである。私にはまったく理解できなかったが、昭和の国鉄民営化や解雇不当裁判などで人々が争っているとき、奴隷から解放されるのになぜ反対するのか不思議に思ったものだった。

 企業は経済的機能のことである。儲からなくなれば倒産するか、コストの高い従業員を情け容赦なくクビにするのが経済的機関というものである。企業に社会福祉を担わせようとした日本には、企業の倒産を防ぐ経済政策がおこなわれたり、解雇を困難にする法的権利が与えられたりした。いわゆる護送船団である。

 このような経済に反する介入がおこわれると、経済は逃げ道を探す。国家に法的に守られるということは高コストを招き、売れないのにさらに高くなりさらに売れなくなるという悪循環をおこす。

 クビもできない、保険料も払わなければならない正社員を雇うより、パートや非正規雇用を雇おうということになり、より安い給料で働かせることになる。いったらそれがげんざいの正社員の適正価格なのだろう。社会福祉に守られた人たちが、こんにちの女性や若者の低賃金や保険料の削除をもたらしたのである。守られた社会福祉がぎゃくに犠牲者を多く生み出すのである。

 企業が担ってきた社会福祉は、90年代の社会主義国家がドミノのように崩壊したように、いままさに瀕死の状態になろうとしているのである。そういう中でも人々もまだ必死に社会保障に守られた身分保証に必死にしがみつこうとしている。国家に守られた終身保証という身分から外れることは、われわれに怖れと羞恥をもたらすからだ。

 医者にもかかれない、老後はホームレスになるしかないという不安はそうとうなものである。だから社会保障は身分保証をもたらした。社会保障が完成されるまでは人間はそういう不安を当たり前のものとして生きてきたのに、この何十年かのあいだに守られてきた日本人はすっかりその恐怖と羞恥の倍加を支払わなければならなくなったのである。

 日本人は社会主義の夢に夢中になるあまり、自分たちがどんどん自由を放棄して、奴隷状態に近づいていっているという自覚を失っていったのである。ぎゃくに企業の奴隷のような存在が、いちばんの身分保証が与えられる世間をつくってしまったのである。男女ともども喜んで奴隷として隷属することに恥じることのない大量の人を生み出したのである。

 人間が老後や健康の不安から生涯逃れることなんて不可能なのである。人類は何万年もの間そういう厳しい現実を当たり前のものとして受け入れてきたのである。そういう不安を解消するという理想はぎゃくに人類の歴史に過酷な運命を刻んできた。われわれはこの逆立ちした価値観から目を醒ますべき時期にきているのである。





 ■一週間ネットにつながりませんでした。       2006/3/18

 先週の金曜日からフレッツADSLにつながらなくなった。ローカル・ディスクのCばかりにデータが貯まって、ディスクDは空っぽのままだったので、移動させていたらおかしくなったのか。

 きょうNTTの人に来てもらって、直してもらった。回線がおかしくなっていたのと、フレッツの接続ツールがおかしくなっていたらしい。

 ネットにつながらない一週間はつまらなかった。なによりも公共の場にものを表現することのできないつまらなさはひとしおだった。私はともかくHPにものを書くのが好きらしい。公共の場にものをいいたいという欲求は、おそらくはマスコミに憧れる心性によって生み出されたのだろう。

 毎日の習慣だったアクセス解析とamazonのクリック数のチェック、それとはてなアンテナのブックマークの更新情報を断たれるのは、ほんと味気なかった。ぶらっとネットをのぞくこともできない。本を新しく買ってもHPの更新できないし、感想も書けない。なによりもネットに発表できないとなったら書く気もなくした。

 ネットができる前はひとりでも私はいまのHPのような考えるためのエッセイをずっとつづけていた。人に見せるためではなくて、自分のために社会や心についてモノローグをつづけていた。HPを開設してからは人に見せるための思索という割合がだいぶ強まったようだ。

 フレッツにつながったことだし、これからも私の書きたい欲求を満足させてゆきたいと思っておりますので、よろしくお願いします。





 ■働かない人生を国家目標にしろ!(笑)             2006/3/21

 いま、リバタリアンの本をいろいろ物色中だが、リバタリアンは国家の介入を減らせば自由な商業がおこなえて自由になれるという。う〜ん、なんかね、経済の放任にそんなに自由があるのかと疑念に思うところもある。私は会社で働くことほど不自由なところはないと思うからだ。

 そもそも20世紀に人々が社会主義のとりこになったのは、働かない悠々自適の人生がおくれると宣伝されたからではないのか。人が金持ちになりたがるのは働かないで贅沢な暮らしができると夢見ているからではないのか。基本的に人は働かない人生を一度は夢見たことがあるはずだ。

 ホンネのところでは働かない人生を夢想しておきながら、この社会はどんどん労働から降りられない社会をつくってきた。ますますカネが必要になる社会になっている。グルメやらファッションやら、家電やら海外旅行、マイホーム、車、そして健康保険や年金。人が生きるためにますますカネと労働の重荷が必要な社会になってしまったのである。少子化はこの重荷の帰結だともいえる。

 私たちは贅沢な暮らしを手に入れようと思えばますますカネが必要になり、ますます働かざるを得なくなり、夢見た働かなくてもよい人生はどんどん遠のいてゆくばかりだ。私たちは贅沢だけどそれを楽しむ時間もない労働の人生か、それともそんな贅沢より働かない人生のどちらのほうが望みだったのだろうか。

 私は会社に生涯を拘束される人生より、贅沢はできないが自由な時間がたっぷりある人生のほうを選びたい。会社で仕事ばかりしていたら、いったいなんのための人生かと実存的に悩まなければならなくなる。必要なカネだけが稼いだらあとは休むといった生活が理想なのだが、現実問題としては転職先がないのでひとつの会社に長時間拘束されるしかない。

 私たちはなぜ目標をまちがえてしまったのだろう。生涯を保障されているけど、金ぴかのバカ消費と奴隷労働の人生をなぜ選びとってしまったのだろうか。ひとえに私たち自身の肥大した欲望のなせる業である。自分のあれもこれもほしいと欲張りが通ってしまう民主政治と福祉国家のせいである。私たちは自分の欲望の重荷にたえかね、そしてみずからの首を絞めているのである。

 私たちはもう一度働かない人生が目標になるような社会を生み出せないものだろうか。いまの二十代やニート、フリーターならおおかた賛成してくれるだろう。もちろん国家や企業が保障してくれる人生なんかまちがっても望むべきではない。それは家畜と奴隷への道である。私たちは人生のモラルとプライドにおいて自分の生活の糧は自分で得るべきである。なおかつ働かない時間をおおく手に入れる。そんな人生や思想が生み出せないものだろうか。

 国家は民衆にカネをもっと稼いでもらわないと税収でうはうはの生活ができないから、消費振興と労働主義イデオロギーを押しつけてくるのはまちがいない。国家とは他国との競合のことだからだ。国家は民衆をぎゅうぎゅう働かせて血税をむさぼりとることしか考えないから信用できない。

 私たちはカネで得られる楽しみを減らしてゆくしかない。そうすることでしか自由な人生は得られない。消費と保障の人生は奴隷の人生である。私たちは豊かだけど、どうしようもなく陰鬱で重苦しいこれまでの世代をたっぷり見てきた。このような人生のわだちを踏まないためには、なにかを失わなければならないのである。どっちみちこれからは保障が不可能な世の中になるから、自由を選ぶしかないと思うのだけど。






 ■日本の原風景               2006/3/25

 

 山のふところに抱かれた山里風景が日本の原風景というものだろう。この写真は大阪能勢町あたりのスナップです。激しく郷愁される山里風景に私はいつも癒しを感じるのである。

 ♪うさぎ追いし かの山
 小鮒釣りし かの川
 夢はいまも めぐりて
 忘れがたき ふるさと

 〜山はあおき ふるさと
 水は清き ふるさと



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