バナー
本文へジャンプ  

 


 ■060129断想集


 ■恐怖に縛りつける社会保障             2006/1/29

 私たちは社会保障がなければ、恐怖や不安を感じたり、みじめさやあわれさを感じるようになっている。年金や健康保険がないことはたいそう恐ろしいことなのである。

 そのために私たちは会社に必死にしがみつく。会社にしがみつかないと、医者にもかかれないし、年金ももらえないと恐れている。会社に属することはそういう恐怖をとりのぞくことであり、社会的信用というパスポートを手に入れることなのである。

 そのために私たちはどこまでも会社に隷属しなければならなくなった。滅私奉公や会社人間という言葉が生まれ、「社畜」という悪称まで冠せられることになった。社会保障という人質を会社にとられているために私たちはどこまでも会社に奉仕しなければならなくなったのである。

 社会保障は人びとに恐怖の念を植えつけた。それがないことは恐ろしいことであり、みじめなことなのである。新興宗教が恐怖のマインドコントロールで信者を拘束するように、国家や企業はこの恐怖によって人びとを縛りつけてきたのである。

 国民年金法が成立したのは昭和33年のわずか50年前である。国民皆保険がスタートしたのは昭和36年であり、国民皆保険が完全達成されたのは昭和49年である。国家に健康や老後が保障されたことがいままで一度もなかった人たちはこのわずかな期間のあいだにすっかり恐怖に巣食われてしまったのである。しかも払う額はどんどん増え、払われる額もどんどん減りつづけている。

 その間、企業も社会保障を捨てる動きを加速させてきた。臨時工や季節工などを雇ったり、主婦の労働力をパートタイムにしたり、学生や若者をアルバイトとして働かせ、派遣社員や契約社員として、社会保険料の負担を逃れてきたのである。

 企業は社会保障を早々と捨ててきたのである。そしてそれは時代のズレとなり、国民のあいだに社会保障に与かれる層と与かれない層を生み出した。与かれない女性たちはサラリーマンの夫にぶら下がるしかなかったし、時代が下れば若者たちは親たちにしがみつくしかなくなった。おそらくは国家が国民の保障なんかしない時代には人々はこのように協力しあって生きてきたのだろう。

 私たちはこの社会保障が崩れ去ってゆく時代に生きているのだろう。というか、健康保険にしろ本人負担は一割から三割に増えているし、年金も健保の支払額も増えつづけているし、年金の支給年齢も釣り上がる一方である。はじめから破綻予定であり、脱走する企業や人があとを絶たないねずみ講だったというしかない。

 私たちは社会保障という恐怖に縛りつけられた意識にしっかりと向き合わなければならないのである。カルト宗教にしろ、死後の世界の恐怖に縛りつけた既成宗教にしろ、私たちは恐怖によってだれかに隷属させられるのである。支配と服従の常套手段である。良心的な宗教家ならまずは恐怖から自由にならなければ、社会への隷属から自由になれないと教えてくれることだろう。

 私たちはみずからの心の内なる社会保障の恐怖に向き合わなければならないのである。この恐怖が生涯の私たちの不自由さを生み出し、労働強迫社会を持続させているのである。

 まあ、たいがいの人は恐怖の克服より、安心の不自由さを選ぶだろうけど、私も現実問題としてはそういう選択をせざるをえないだろうけど、私たちは恐怖に釘づけになっていると自覚するだけでも人生の余裕度は変わってくると思う。

 ▼社会保障と恐怖について
 






 ■『戦国自衛隊 関ヶ原の戦い』と時代        2006/2/7

 

 子どものころに強烈な印象をのこした映画がドラマでリバイバルされることはうれしいことである。だけど過去の印象に比して、リバイバル作品はすべてに底が抜けた感じがする。

 79年当時は自衛隊が違憲かという議論が盛んで、自衛隊の存在はもっとリアルだった。この25年のあいだに冷戦は終わり、私たちが戦争に巻き込まれる危機感はかなり減った。だからこのドラマの深刻さやリアリティーはぐんと落ちた。いま、このような設定で問題を問う必要性があるのかと思う。だからすべてに底が抜けている感じがした。

 79年の映画はもっと仲間で殺し合うような壮絶さがあった。イデオロギーや理念で殺し合いができた。こんかいのドラマは主役の反町がずっと静観であり、どっちつかずである。石田三成の代役になろうとした渡部だってほとんどパロディか、道化である。たぶんわれわれの時代は真剣さやまじめさに生きるという底深い執着が存在しない時代なのだろう。われわれの生は軽薄に上すべりに流されているだけである。2006年の『戦国自衛隊』はほとんどおままごとか、リアルさのないゲームである。

 むかしのテーマ曲が泣きそうになるくらいなつかしかった。熱くなるのはそのくらいだけだったか。79年作品は時代の中にはかなく消えてゆく人間の悲しさを強烈に感じたものだったが、こんかいのドラマはお約束としての死があったという感じだった。

 ちかごろむかしのテレビや映画がリバイバルされることが多い。大人になった人たちが子どものころに見たなつかしさを味わう楽しみはある。だけど時代背景はまったく異なってしまっているから、現在の時代状況にまったく合わなくなっている。というか、パロディにしかなりえない。映画やドラマはやはり時代背景があってのものなのである。リバイバル作品はなつかしさの期待だけを味うためにあるようである。







 ■唐古・鍵遺跡の楼閣                2006/2/12

 

 紀元一世紀(弥生中期)に奈良にこのような楼閣があったそうです。こんな時代に大陸文化が渡ってきていたことが驚きだそうですが、人間の文化や文明の伝播は何万年も前からはじまっていたと見るべきだと思います。情報や知識が好きな人間が島国に閉じ込められて生きてきたとは思えません。われわれは現代の進歩や優越を信じたいだけなのです。




 ■「安い給料は身を助く」             2006/2/12

 だれもが給料の高い会社に勤めたがるが、目先の利益だけに捕らわれるのは危うい。たとえば、ある店で買い物をしていたら、ほかの店のほうがもっと安かったら、だれもがそちらのほうに乗り換えるだろう。従業員に関してもとうぜん同じことがいえる。

 給料が高いということはたえず安さの脅威にさらされるということである。とくに下グラフの日本の製造業の賃金カーブを見てほしい。(年齢別賃金カーブの国際比較/「社会実情データ図録」からコピペ。労作のHPですが、リンクだけにとどめておくべきなのか)

 

 日本男性の年功賃金は他国に比べて確実に上っているのである。ドイツやスウェーデンなみの水準に落とされる圧力はたえずあるわけだし、十分の一とかもいわれる中国や東南アジアの給料とくらべるともっと危ない。ましてや日本女性の30歳前後のピークから落ちる一方の賃金と比べると(年齢別賃金カーブの国際比較を見てほしい)、憤飯ものである。これに若手のフリーターも加わってゆくのである。

 中高年はそれだけの賃金に見合った仕事をしているのだろうか。優秀で卓越していて、他の追随を許さない仕事をしているのだろうか。パートやフリーターと絶対的な質の違いの仕事をしていると言い切れるだろうか。だからいま正社員は長時間労働の激務の脅威にさらされているといっていいだろう。

 中高年の賃金上昇はたまたま高度成長の黄金時代に重なったにすぎない。人件費の削減のために中高年は早期退職や実力給の再考にせまられている。むかし繁栄した安定企業ほどそういう脅威は強いのである。高い給料は身を危うくさせるのである。

 こういう時代に安い給料はひとつの防衛策になりうる。いわばデフレ時代の価格破壊戦略である。「安い給料は身を助く」なのである。

 しかも企業は女性や若者の社会保障からの撤退もはじめている。給料の高い男性はバブルのあだ花になってしまうかもしれない。給料も安いし、社会保障もないフリーターは未来の社会を生きる先駆形態なのかもしれない。目先の高い利益だけを追い求めていると、とんでもない目に合うかもしれないということである。

 荘子はいっている。こぶだらけのなんの使い道もない大木だからこそ、人に切られたり、乱用されたりしないので、長生きであると。





 ■ニートと軍事立国の終焉            2006/2/17

 労働の意欲や倫理がどんどん崩れ去る時代に現代はなっているわけだが、そもそも現代の労働社会は明治の富国強兵からはじまったと考えるのが妥当だと思う。

 西洋列強に侵略されないために日本は西洋なみの軍事や経済レベルに上げることが必要だった。江戸時代の封建社会で戦力になるのは武士だけで、大半の国民は国のために闘うという発想がなかった。政治権も社会保障も与えてくれない幕府に忠誠を誓う必要などありもしないからだ。

 だから明治は民主政治になった。政治権を与えられるようになった人びとは国を守ろうとする。すくなくとも「自分の国」という発想をもつようになれる。企業家にしても国のために大きくするという発想を昭和の半ばまでもっていた。年金や健康保険まで与えられるようになると、人びとはますます国家に頼ることになるだろう。

 第二次大戦後には軍事立国という目的は禁じられたが、国民総力戦システムは経済に集中させられることになった。経済というのは軍事力の基礎や土台となるものである。経済力が上らないことには軍事力にも強くはなれない。全体で生産力・経済力の向上が強制されることになる。「働くもの食うべからず」といった論理がこうして生まれたのではないだろうか。

 そういった意味で軍事立国への道は最近までつづいていたことになるだろう。だが日本が経済大国といわれるようになり、冷戦のような脅威がなくなると、軍事立国の必要はなくなってしまう。

 戦争の脅威がなくなると、政府や企業は国民を守る必要もなくしてしまう。かれらは兵隊であったからこそ、手厚い社会保障や政治権が与えられていたのである。平和な時代になるとそれらは手放されるようになってしまう。長い間、それらが当たり前に付与されてきたから、そもそも当初の目的すら忘れ去られ、はて、なんのために国民を守っていたのだろうとなる。

 現代の若者の労働意欲が落ちているのは、軍事立国が終焉してしまったからだろう。戦後には私生活を豊かにするという目的に変わってしまったが、それすらも達成された現在、労働意欲を保ちつづけるのはかなりむずかしい。

 崇高な目的など見つけられないのである。一日10時間の労働に縛られる必要がない。そういうことで労働に縛りつけていた規範や規律が外側がぱったりと倒れてしまった。われわれは軍需工場で働いていて、マイホームに車、家電と豊かになったのだが、とつぜん軍隊から解放されて路頭に迷っているのである。

 しかも世は工業社会からサービス社会になり、だれにでもできた製造業の仕事もなくなりつつある。情報社会や文化を売る時代だといわれたりする。そういった仕事はだれにでもできるものではなく、高度な才能や知識が必要であり、多くの人の働き口を与えるわけではないのである。

 ニートの増加は国民総軍隊制の崩壊をあらわしているのだろう。国民総力戦が必要でなくなるとき、かつての国家が人びとの面倒を見ないという時代が到来する。国家はそもそも人びとを守る必要を失って、ギブ・アンド・テイクが成り立たなくなるのだ。兵隊でないのなら、なぜ国家は国民を守る必要があるのだろう。

 社会は労働を外側から強制する論理や規範をなくしてしまったのである。あとは私生活を豊かにするという個人的欲望だけが労働のモチベーションになるが、もう強い労働規範は存在しない。そんなのは人の勝手だからだ。人から強制されるいわれもない。長い労働拘束を嫌って、働く気をなくすのもとうぜんである。

 労働規範がゆるゆるの時代がやってきたのである。ニートで生きられる存在というのはかつての有閑階級や哲学・芸術に昂じたギリシャ人に似ている。時間はたっぷりもっている。そしてそういう時間の豊かさは工業社会から文化の創造力が必要になるこの日本において必要となる基本的条件である。ニートからうまく文化が芽生えてくれればいいのだが。あるいは弱い労働規範のなかで生活の糧が得られる人たちがたんに増える時代になるだけなのだろうか。

 ▼戦力と交換される国民の権利
  





 ■山里風景マニア               2006/2/19

 
 和歌山県のかつらぎ町あたりの風景です。緑のグラデーションがきれいです。
 

 大阪の市街地に育ったせいか、30歳くらいにはじめたハイキングで山村風景に出会い、カルチャー・ショックをうけた。こんな心を癒される住環境があるなんて、と思ったものである。

 ただ、駅やバスからの登山は限られた地域しか見ることができない。さいきん乗りはじめたバイクによって効率的に気持ちのよい山里風景を見つけることができる。高揚感とともに何枚もの写真をばしゃぱしゃと撮った。もっと癒される山里風景を見つけたいものである。デジカメももっと高度なもののほうがいいかな。

 ▼あまりいい文章ではありませんが、私の関西のハイキング・レビュー
 「大阪周辺自然探訪」 99/4/27.




 ■ニートと年金生活者のなにが違うのか         2006/2/20

 すいません。今回は暴論です。思考実験としてお聞きください。

 ニートは働かないから悪いといわれる。そういう定義でなら、働かない年金生活者も悪である。ニート52万人に対し、年金生活者はいまは2700万人もいるのである。なぜ働かない彼らは叩かれないのか。

 むろん彼らは年金を働いているうちに払ったからである。かれらは働けるうちにしっかりと働いた。その功労と功績のために国から老齢年金が支払われる。

 だけど、働かないということを非難するのなら、年金生活者も現時点では働いていないのである。生活費を国に出してもらっているか、親に出してもらっているのか違いである。

 それぞれ言い訳はある。年金生活者はちゃんと働いて掛け金を払ってきた。ニートならどういうだろう。親によって生活できるのならなぜ働かなければならないのか、仕事はハードに長時間拘束されるし、だいいちいまは不況で社会がまともな職を与えてくれないではないかと。

 そもそも「働かざるもの食うべからず」という社会にどうして年金で暮らせる人たちが存在できるのか。自分だけの貯金や資産で食べていけるのなら、だれも文句はいわない。しかし掛け金の何倍もの年金はどういう理由で支払われるのだろう。

 年金のない昔、農家の年老いた親たちは自分たちはむかし働いてきたから、なんの仕事もしないで養ってもらうんだなんていえなかっただろう。それは働かないごくつぶしのどら息子と同じである。家族の負担を減らすためにできる仕事をできるだけしようとしただろう。いまだって農村に行けば、老齢の人たちもぴんぴん働いている。

 われわれの社会は働かないことを理想としているのである。働かなくてよい社会、または現役時代に働いて、働かないで生きられる余生を理想とした。そしてそれを自分の貯金や資産ではなく、現役時代に働いた功労として国から年金が支払われるのである。

 貧しい農家で父さんはこれまで一生懸命働いてきたから、きょうから仕事をいっさいしないで食わせてもらうといったら、肩身が狭くなるか、姥捨て山行きだろう。過去の仕事の功績が老齢時に蓄積されるということはけっしてなかったのである。

 年金生活者は過去の仕事の功績のために国に養われるのは正当だとする。ニートは過去の親の扶養義務を延長させる。むろん正当的なのは年金生活者であるが、現時点で仕事をして金を稼いでいないという点ではニートも年金生活者も変わりがない。かれらは働かないでも養われるという共通点をもっている。

 われわれの社会はどうして年金というしくみをつくったのだろう。国はどうして現役時代に国のために働いた功績を引退後に返さなければならないと思ったのだろう。もし農家で多くの仕事があるのに過去の功績のためになにもしないでメシだけ食う老人は家族の怒りや憎しみは買わなかっただろうか。

 国は老人のニートを二千七百万人も生み出してきたのである。もしそれがこの社会の最高の理想、理想のゴールだと思われているのなら、そんな遠い未来を待つのではなく、親という扶養先がいるのだからどうしてニートにならずにいられるだろうか。つまりは夢の年金生活が夢のニートを生むのである。

 はい、これは暴論です。おふざけとしてお読みください。





 ■松本清張の『指』を見た。             2006/2/23

 

 21日に松本清張原作の『指』を見た。後藤真希主演で、スターがのしあがるために数々のスキャンダルを背負わなければならなかったという話だ。まだティーンエイジャーの人にはゴマキの役は衝撃的だったと思う。

 私は貧乏人がのしあがるためには女の性すら売らなければならかったという話に思えた。高岡早紀という愛人や萬田久子というパトロンをもち、ゴマキはスターの道を駆け上ってゆく。彼女を追うレポーターも仕事のためには男や女と寝る。松本清張は貧乏人が成功するにはそんな常人なみではない努力や代償が必要なのだと怨念を持って、言っているように思えた。

 われわれの社会というのは、成功や名誉を手に入れようとする社会である。すなわち自分でない羨望される者になろうという社会である。それらのために自分を見失った者には最後に破滅が待っている――そういうメッセージは,昭和の『人間の証明』や『砂の器』『飢餓海峡』という映画でもつたえられてきた。清張の作品がさいきん多くドラマ化されるということは、上にのぼりつめるためになにか大切なものを失った人たちがたくさん見受けられるようになったからだろうか。

  

 このドラマでもうひとつ考えたかったことは、芸能人の性はなぜ衝撃的なのだろうかということだ。大人だったら性に関係のない者はいないはずなのに、芸能人の性的なことは衝撃的なものとして、その写真集やゴシップが売れる。

 芸能人は私たちの愛着や所有の商品である。自分のものだと思っていたのに自分のものでなくなった――芸能人が性をさらすということは、私たちにそういう衝撃をもたらすのである。失恋の衝撃なのだろう。そして芸能人は失恋の痛みすらセンセーショナルな商品として人びとに消費されるのである。私たちは所有と非所有の狭間を芸能人にいつもビンタされるのである。


 ■オルタナティヴな生き方。
 テレビの『銭形金太郎』(2/22)で、年収40万円のビンボーさんの生き方をやっていた。徳島の山奥にひとり暮らし、月一、二ヶ月出稼ぎで40万稼ぎ、家賃は年間一万円、あとは自給自足の暮らしである。世界を放浪していて、ネパールの坊さんの生き方に触発されて、もう20年近くそういう暮らしをつづけているそうだ。

 こういう生き方をほんとうにやっている人も人知れずいるんだと驚いた。私なんかそういう生き方に憧れているんだが、社会が変わることばかり期待して、自分で実践しようとしない。まだ標準からこぼれ落ちることを怖れているのだ。

 すぐ人は病気になったらどうするんだとか、働けなくなったらどうするんだとか心配事ばかりまくしたてるが、人類は何万年もそんなものなしに生きつづけてきたのだ。文明の病気である。あるいは家畜の心配といってもいいだろう。生きれるときには生きて、死ぬときには死ねばいいのである。明日の心配など明日にさせればいいのである。いつか私にもそういう生き方ができるか。





 ■なぜ働かないことに有能感を感じるのか       2006/2/24

 内田樹の研究室で2/22日、「不快という貨幣」でなぜ若者は学ばないことや働かないことに有能感や達成感を得るようになったのかと問うている。この文章に興味をもって一句一句読んで、はて、なんでだろうと真剣に悩んだのだが、なんのことはない、私もそういう論理で生きてきたのである。

 諸悪の根源は物理的の「労働は苦役」を読んではっと気づいた。会社の奴隷労働から逃れていることに有能感を感じているのである。

 この世間は会社という牢獄に支配されている。生活の糧を得ようとしたら、一日の大半を、人生の大部分を会社に拘束されなければならない。この地上のいたるところには見えない監獄があり、私たちはその鎖につながれて身動きもできないのである。

 だからこそニートの若者は働かないことに有能感を感じるのである。いわば授業をサボって校舎裏でたばこを吸ったり、映画や繁華街に遊びに行くようなものである。ほかのヤツらは教室とか教師に拘束されているけど、オレたちは違うんだというわけだ。オレたちだけが自由の特権を得ているんだという優越感である。

 私も二十代のころはバイトをサボって平日の公園をぷらぷらしたり、どこかへぶらっと出かけることに満足を感じたものである。みんな労働に拘束されている社会に私ひとりだけ自由と気ままさを手に入れているんだと悦に入ったものである。

 新聞によると何ヶ月もの失業は恐怖のなにものでもないみたいだが、私にとっては人生の最大のバケーションだったのである。こんなに労働に拘束されない毎日を手に入れているのに、なんで恐怖しなければならないのかと思ったものである。もちろん人並みに仕事が見つからない不安もないわけではなかったが。

 内田樹という人はさいきん人気が出ているようだが、こんなことも知らないのかという感じである。これは世代によっていえることなのか、あるいは優等生と不良の違いなのか。私が内田樹という人の本を一冊も読みたいと思わないのはこういう断絶があるからかもしれない。

 働かない、会社に拘束されない優越感というのは、ずっと昔からあったはずである。ヒッピーやフーテンなんかそうだし、日本人はフーテンの『寅さん』を愛してきたのである。19世紀アメリカにはヘンリー・ソーローという元祖フリーターがいたし、仏教僧や隠遁者の系譜はまさしく働かない、立身出世をめざさない優越感を感じてきたのだろう。

 働かない優越感はべつに目新しいものではない。いつの時代の人も金持ちになって働かない自由を得ようとして、ますます労働地獄に絡み取られるのが世の常というものである。

 この日本はなぜか働かない優越感をもつ文化なり階層なりが昭和や平成に存在しなかったのが不思議である。イギリスでは支配者の価値観に対抗する形で、労働者文化がある。日本では学校に反抗するかたちの不良集団というのは存在するのだが、なぜか社会に出るとぱったりと対抗者文化というものがなくなってしまう。

 おそらくは「標準」や「ふつう」「まとも」などの同調圧力が強かったのだろう。マジメなサラリーマンとして働き、郊外に家を建て、家族で暮らすというライフスタイルから外れることをたいへん怖れた。または高度成長の夢が輝かしかったから、会社の福利厚生に絡みとられたということもあるのだろう。

 ただそれが奴隷労働や監獄としての企業社会という息苦しさが強まるごとに、若者たちはこの社会の脱走を夢見るのである。そして働かないことに優越感や選民意識を満足させられるようになるのである。

 問題は厳しすぎる企業拘束と労働束縛である。大多数の人が金や暮らしのために馬車馬のように働かざるをえない。だから親の扶養に頼れる若者はかれらをバカにして、自分は優越感にひたれるのである。

 若者たちはいっているのである。あなたたちの奴隷労働の哀れなすがたを見てみろと。

 だけど彼らもいつかはこの奴隷労働の社会に入ってゆかなければならないだろう。メシは食えないし、贅沢はできないし、将来人並みの生活ができない怖れもある。しかしそのときに企業社会にもぐりこむことはできるだろうか。

 私としてはこの流れが加速して、大きな集団をかたちづくり、新しい文化や生活なりを生み出してほしいと思うのである。奴隷労働と企業拘束から抜け出す文化や生活をつくってほしいと思うのだ。そのときはこの労働拘束社会はもうすこしはゆるやかな、ゆとりのある、人間らしい生き方のできる社会になっていることだろう。






 ■なぜ山肌は心を和ませるのか。           2006/2/26

 

 山の緑を見ていると、なぜか心が癒される。なぜなんだろう。人によってはたんなる風景にしか思わない人もいるだろうけど、少なくとも私はほっとする。祖先が長く森の中で暮らした記憶があるからだろうか。山あいに囲まれた山村を見ると、もっと気持ちが落ち着く。私のご先祖さまは長くそういう環境で暮らしてきたのだろうか。私のご先祖さまは山で狩をしたり、沢をのぼり山を切り開いて田畑を耕してきたのだろうか。

 ▼山はなぜ心を癒すのか
 



ご意見、ご感想お待ちしております。
 ues@leo.interq.or.jp

   
inserted by FC2 system