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■060101断想集
■戌年だけに犬論 2006/1/1
2006年は戌年だということで、犬について考えてみよう。
犬と人間の関係というのはまったく不思議なものだと思う。種が違う生き物をわざわざ食べさせる関係が不思議でならない。しかし考えてみると人間は観賞用に植物を育てることがあるし、労働や食用としてウシやブタなどを家畜として生かしてきたのである。ただ愛玩用にほかの種を生かすという点で、犬は不思議な存在である。
犬はかわいい。なついたり、服従をディスプレイしたり、主人とあがめたり、大げさに喜びや関心を表現する様は見ていて、とても愛しくなるのである。この特質はおそらく犬同士が集団で生きるためのボディ・ランゲージから発達したものだと思われ、それが人間にも通じるところから人間はこのコミュニケーション能力に魅力を感じてきたのであろう。
私は十代のころをつづけて二匹の犬を飼ってきたが、人間より犬のほうが好きだと思うほど犬が好きだった。食いつくような好奇心や慕ってくれる表現力、喜びを大げさにあらわす無邪気さ、ほかの種でありながらコミュニケーションがなりたつという関係におおくの魅力を感じたのだろう。
人間より好きだと思ったのは、なぜなんだろうと思う。やっぱり永久に私の上位に立つことはないということで、私は安堵できたからだろうか。あるいは人間の感情的なトラブルは長つづきして苦痛大きなものに対して、犬にはこのような感情のトラブルの経験がほとんどなかったような気がするからだろうか。飼っている犬は私を批判することはないし、怒ったとしても、放っておいたらいいだけである。ストレスの少ない関係であったのである。
いまの私はマンション暮らしだから犬を飼うことはできないが、よその家の犬はなかなかよい関係が築けないと思っている。小さい座敷犬は小さいくせに吠えることが多く憎たらしいし、散歩中の犬はかわいいと思ってもそうそう頭をなでることもできない。かわりに自転車で走っていると追いかけられたり、ホームレスの放し飼いの犬に目をつけられたりと、ろくでもない関係も多くある。
犬を飼うというのは不思議な人間の行動だとつくづく思う。まるで人間に望めないものを犬に求めているようである。人間に欠如していて、犬にあるものとはなんなのだろうか。無邪気さや計算のなさなんだろうか。
言葉のない関係が癒すのかもしれない。言葉というのは人間を傷つけ、苦しめる根本のものである。犬との関係につかのまの言葉のない世界――つまり過去も未来も評価もない「いま」に癒されるからかもしれない。
犬はステイタスの要素もある。たとえば一戸建てや庭がないと飼えないから裕福さの目印になったし、ある種類の犬はとても高い値段で取り引きされたりしている。流行もあるんだな。オオカミのようなハスキー犬が流行ったり、コーギーが増えたりと、人間のファッションやトレンドのような要素もある。ステイタスのために犬を飼育する人間というのは、つくづくつまらない生き物だと思う。
20歳の時の死んだ私の友だちであった犬のことをたまに思い出すことがある。イジメたり、思いっきり叩いたことがあって悪かったなと思ったり、幸せな犬生?を送れたんだろうかと懐古したりする。またいつか私の友となる犬と暮らせたらいいのになと思う。その前に人間の家族と暮らすことが先だと思うのだが、人間の女性や子どもは犬よりもっと愛しい存在に思えるものなんだろうか。
▼1月1日のきょうもバイクでひたすら北上したが、きょうはやたら救急車が多かった。正月で浮かれて発作でも起こしやすくなるのだろうか。不思議な現象と思った。
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■貧しさと豊かさの世代の対立 2006/1/6
貧しさから出発した世代と、豊かさから出発した世代では、とうぜん必要なシステムや目標は違ってくる。その貧しさの世代がつくりあげたシステムがいまの世の中にまったく不釣合いになっているのにそのシステムを変えることができないのが現代の不幸である。
貧しさの世代はとにかく会社にたくさんのサポート体制をのぞんだ。年金やら健康保険やら、退職金やら、または解雇されないこと、そして会社を家族やふるさとのような共同体に仕立てることをのぞんだ。
これが豊かさの世代にはまったく裏目に出てしまった。すべては拘束や重荷に転じてしまったのである。古い世代にはそれはユートピアに見えるかもしれないのだが、新しい世代にはそれが労働や会社の牢獄としか見えないのである。
サポートが多くあれば多いほど恵まれた会社と思う世代にとっては、この転落にはまったく気づかない。欠乏の時代に人格形成をした人はそのときの考え方の枠組みで年が止まってしまうようである。
会社に雇用を保障されない時代に人格形成した者たちは、つぎつぎとボーナスのように出る会社の福利厚生にかなり喜んだのだろう。そのときの喜びの記憶が、この古い世代には「正社員」や「定職」という確実な安定を保証するものとして脳裏に刻み込まれ、いまでも子どもに「正社員になれ」とくりかえすことになるのである。
豊かさから出発した世代はこれが当たり前の時代に育ち、そしてそれが人生の拘束や重荷となる現実を見てきたのである。また安定した職のない欠乏を経験したこともないがゆえに、会社に継続雇用されつづけるありがたみもまったく理解できない。古い世代が切望したものは、新しい世代にはもう不要なものなのである。
豊かさに育った世代にはもう旧世代のようなモノの消費に喜びを感じるような感性も少なくなっている。モノの消費は目新しいものではなくて、ありきたりのつまらないものなのである。消費はせいぜい友だちでの優劣を競う道具立てか、コミュニケーションを助けるツールくらいでしかない。豊かさから出発した世代はもうモノの消費は目標ではないのである。
そうなるととうぜんなんのために働くのかわからなくなる。フリーターやニートになるのは消費の目標もないし、会社に手厚くサポートされる必要も感じないし、なんで毎日クソしんどい労働に縛られなければならないのかと思う若者のあたりまえすぎる行動の結果にほかならない。
豊かさの世代は貧しさの世代が当たり前と思った目標をひとつももたない。それなのに貧しさの世代がつくりあげた旧態依然とした企業社会が待ちかまえているだけである。生活のために働かざるをえないから働くのだが、こんな人生楽しいともおもしろいとも思えない。だけどどうしようもない。毎日会社に通うしかない。
こういう世代間の断絶が亀裂のようにこの社会に走っているのに、上の世代はネズミ講の下の層を担う若者がごっそりいなくなっていることにまったく気づいていない。自分たち貧しさの世代のようにこのシステムを切望しつづけ,担いつづけると思い込んでいる。
豊かさの世代はもう人生のサボタージュか、ひきこもりになるしかない。上の世代が若者はまったく変わってしまったと気づくまで、若者は人生の生気をどんどん失ってゆくばかりだろう。
貧しさをサポートするためのシステムをどんどん解除してゆく必要があるのである。それは豊かさの世代には拘束と束縛と重荷のほかのなにものでもない。それはぎゃくに人生をつまらないものにする大きな足かせになってしまっている。たしかにそれには安心と安定がサポートされているように見える。だが同時に若者はそれに重苦しさを感じている。サポートするものが人生の重荷になると感じている。人生のサポートだけにそれをなかなか捨てられない。
豊かさの世代は貧しさの世代と違ったこれからの世の中を生きてゆかなければならない。カネやサポートの損得だけでは人生の楽しさを測れない時代を生きてゆかなければならないのである。だから貧しさの世代の指針はなんの頼りにもならないし、ときには幸福の阻害要因でしかない。こういう世代の断絶を世の大人たちが知らないということは嘆かわしいことであり、情けないことである。
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■本を読まないとバカになる
VS
本を読むことには価値がある 2006/1/9
養老孟司の『バカの壁』が400万部も売れたのは、もしかして本を読まない人をバカよばわりする戦略が功を奏したからかもしれない。
ひところは「本を読まない人が増えて嘆かわしい」という新聞の合唱をよく聞いた。そういう戦略でベストセラーや教養本を読んだ人がたくさんいたのかもしれない。
知性の欠如をバカにするのは、この知性や脳に価値がおかれた社会にはなかなか深刻に響く。「知性のない人は愚かな人だ」「知性のない人は幸福になれない」といった暗黙の了解がこの世にはある。そしてその恐れから学歴をめざしたり、本が読まれたりする。
私はこの知性のヒエラルキーや恐怖戦略を信用しない。ランクや恐怖から知性を身につける人はたんにファッションや外見に知性を飾る戦略を生み出すだけだと思うからだ。
知識というのはマンガにひきつけられたり、映画を見たいと思ったり、情報番組を見たいと思う気持ちと同じでなければならないと思う。見たい、知りたい、聞きたい、という欲求からはじまらなければならないと思う。バカにされたくないと思って本を読む人は、この好奇心がハナから欠如しており、知性を車やファッションのようなグレードで飾ろうとするだけである。
私は本に価値があると思うから読む。この社会はなぜこうなっているんだろう、人はなぜこんなことをするのか、この世は変えられないのか、といった気持ちから本を読む。
世の中はわからないことだらけだし、そもそも自分がなぜこういうことをしたのか、あのころはなんであんなふうだったのか、といった自分のことすらわからない。人は自分の行動や欲求の意味や理由すら知らないのである。ましてや自分が暮らす社会がなぜこうなっているのかなんてもっとわからない。本はその意味の手がかりを与えてくれる。
現代思想家をカッコイイと思ったときがある。人間の知性の限界や深遠に到達していると思ったからだ。しかしいまは自分の身辺とあまりにもかけ離れたことを追究している気がして、ごぶさたになった。まあ、知性にはそういう深遠をのぞく高みがあるということである。
さっこんは本を読まないからといってバカにされることはほんとなくなった。本の権威もなくなったし、古典本を読んでないからといって恥ずかしいこともなくなった。平和な時代である。よいことである。知性のヒエラルキーやランクという恐怖から強制されて本を読むのは知性のファシズムを生み出すだけである。もうそういう戦略は力をもたない時代になった。
だからこそ私は自由に好きな本を読める時代になったと思う。他人の強制から本を読むなんて、本の価値を理解することはないだろう。自分の知りたいこと、理解したいことから、本は読むべきであると思う。本というのはそういう読み方をしてはじめて自分に価値のあるものになる。
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■住吉大社で山伏が。 2006/1/9
きょうは地元にある住吉大社に初詣にいってきました。なぜか山伏が願いごとの木札を焼いて祈っておりました。厳かな雰囲気がたいへんよかったです。それにしても大峰山でも駆けめぐっている山伏がどうして神道の住吉大社にいるんだろう。修験道は国家神道に吸収されていたのか。仏教であったのかなかったのか。
初詣に関しては私は一年の始まりなんて意味がないと思うタチだったのですが、まあ、中身がないとしても、そういうメリハリもあるほうがいいのかな〜と思うような三十代になりました。慣習や多数者のすることが大キライだった私もずいぶん丸くなったものです。
■若者たちのサイレントテロ 2006/1/14
日本でも自爆テロがしずかに進行している。
サイレントテロという便利な言葉を知った(はてなダイアリー)。ニートやひきこもり、晩婚化、自殺などを広義の自爆テロととらえ、社会への消極的抵抗、沈黙の異議申し立てとひとくくりにするわけである。これで若者のばらばらな行動がひとつの点で結ばれる視点が得られる。
共通の敵はこの社会のシステムである。だけどこのシステムは変えようがないし、若者は改革する政治的手法をもたないし、怒りは内攻化し、社会からの離脱や自らの幸福や生命を生け贄にささげるのである。
基本は戦後社会システムの不快感である。やってられないよと思うのだが、やるしかない。だけどたまらないから、社会的活動から後退するしかない。若者はそのような消極的抵抗をテロリズムのようにしずかに進行させてきたのである。
オウムはまだマシだったのかもしれない。目に見えるかたちでそれをやったからだが、ただ彼らはなにに対して怒っているのか正確に言葉に表現できなかった。目立つテロは氷山の一角にすぎず、はるかにおおくの若者がサイレントテロを進行させており、そしてそれよりさらにおおくの若者が不満をかかえつつ、社会に擬態しているのである。
70年代に政治の失敗をしてから、若者は政治の言葉をもたなくなった。政治は恐ろしい、アブナイとなって、若者はひたすらポップカルチャーや恋愛家族主義、美少女信仰に逃げ込んだのである。政治的変革の手段をもたなくなった若者はひたすら個人的幸福をめざしたのだが、蓄積された不満は社会からの消極的撤退というかたちをとり、この社会システムの自壊や自滅をひそかにのぞみつづけているわけである。
ニートやひきこもりは企業社会への不満、晩婚化や少子化は結婚システムや女性差別への不満、自殺はこの社会すべてにたいしての怒りであろう。若者は怒りの矛先を見い出せず、不満を言葉にもいいあらわされず、マトモな社会的活動からの撤退というかたちでその怒りをいいあらわすのである。
この社会的活動からの撤退という若者の行動を、サイレントテロという言葉でひとくくりにするのは、ひじょうに重要な視点である。若者は社会から脱落しているのではなく、社会への消極的テロリズムをおこなっているとわかるからである。ひと言でいえば、社会を変えよといっているのである。もちろんジジイの政治改革などハナからのぞめるものなどないだろう。
変革の方向は、労働社会の解体だろう。企業社会の権力の脱骨化がまず必要である。人生を労働と企業に奪われる人生は、豊かさが達成された現在では不要なものである。企業に奪われた人生を個人に返す時期がきたということである。
また社会主義の解体も必要である。国家や企業が年金や健康保険などの生命の保障の権力を握ってしまったから、人々は生命を人質にとられ、自由を強奪されてしまったのである。生命の保障権を握られているから、若者はサイレントテロをおこすしかないのである。
変革がおこせないのなら、たぶんこの社会は若者のサイレントテロとともに自滅か自壊してゆくほかないだろう。世の大人たちは若者の一見ばらばらな社会的活動からの撤退が社会への怒りという一点に収斂されることを悟るべきである。ひたひたと足元から崩れ去ってゆくのを指をくわえて待ちつづけるのか。
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■知識が金で流通するということ 2006/1/17
本を書くということは、社会になにかメッセージを発したいはずである。しかし金で買われないとそれは知られることはないし、金でしか流通しない。かれがメッセージしたいものは、このような方法でしか流通しえないものなんだろうか。(ネットの話はひとまずおいておくとして。)
しかもメッセージがおおくの人に届いたことの意味より、売れたことの価値のほうが大きくなる。メッセージが届いたかより、売れたことのほうを喜ぶのである。(音楽でも映画でも同様だと考えてほしい)
本を書くのならメッセージをおおくの人に届けたいと思うだろう。本は知識を全国に流通するには最適なものであるが、しかしそれは金の扉に閉ざされている。金を出して買われなければ、知識が開かれることはない。
知識はなぜこのような金に阻まれる、閉鎖的なものになったのだろう? かれは自分の書いたこと、調べたことを価値あるものと思い、おおくの人に読んでもらいたいと願う。金は知識を流通してくれるが、到達点で金によって阻まれるのである。
本はメッセージの流通を助けるよいしくみだが、同時に流通を阻むのである。メッセージしたい知識は流通を助ける金によってふたたび拒絶されるのである。かれの知識は金を払う者にしか届かない。かれのメッセージはおおくの者に閉ざされるのである。知識は金によって閉ざされる。
かれは売れたことを喜ぶ。金の扉に閉ざされた知識を、金によって開かれたことを喜ぶのである。メッセージがおおくの人に届くことより、売れたことのほうを喜ぶ。地中に埋められたメッセージが発掘されるのを喜ぶのである。
金と労働は知識の伝達を阻む。ほんらいは知識に金の価値なんかなく、伝えたい、知らせたい、教えたいものがあるのみであったはずである。金によって阻まれるものではなく、人々の口を通して伝えられるものであったはずだ。本は、あるいは金や労働は、知識を阻むものにしたのである。
本に対してテレビやラジオは無料で知識が伝えられるふしぎなものである。他企業が広告することによって、知識や音楽は無料で伝えられる。雑誌も広告がおおく載せられるが、無料ではない。本はなぜ広告を載せて、無料にならなかったのだろう。
知識は金で売られるものになって、生計や職業としてなりたつものとなった。知識が職業としてなりたつ以前には、知識は演説や遊説として運ばれたのだろう。学校は教室という閉鎖的な空間をつくることによって、知識を金で買われるものとした。そして本というパッケージ化は、職業著述家を生み出したのである。
伝えたい知識が有料であり、金で買う者にしか伝えられない本というしくみはいったいなんなのだろう。知識の伝達はそれによって拒まれるのである。知識は人びとの共有財産にも知恵の蓄積にもならない。
ネットはいまのところおおくは無料で情報がつたえられる。有料や職業としてなりたつまでにいたっていない。電話という情報の中身が有料であるわけがないように、おおくの人が発信できるメディアは知識を無料のものにした。空間や商品として阻まれることがないがゆえに、ネットの知識は無料のままである。新聞ですら無料である。ネットは人びとの可能性なのか、あるいは知識生産者としては金のならないものにありつづけるのだろうか。
▼知識の歴史(私は未読ですが、読んでみたい本)
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■他人のための仕事と自分のための人生 2006/1/19
仕事とは他人のためにサービスをおこなうことである。他人に奉仕してはじめてお金がもらえる。さっこんでは仕事に自己実現とかやりがいとかをもとめて、自己の満足ばかりを追い求めるという傾向になっているが、仕事は他人の満足のためにおこなわれるものである。自分の満足になんかだれも金を払ってくれない。
いつも思うのだけど、金はよくできたしくみだと思う。自分の利益ばかり追求しがちな人間に、他人へのサービスを強制的におこなわせるシステムをビルドインさせているのである。他人への奉仕をしないと、金を稼いで、他人のサービスを受けられないのである。
この社会は貨幣社会である。金を稼ぐためには、他人への奉仕をおこなわなければならない。そしてその金によって他人の奉仕を受けられるチケットを手にするわけである。お金とは他人の奉仕のチケットである。
他人の奉仕をほしいと思えば、たくさん他人に奉仕しなければならない。そして文明社会ではたくさんの他人の奉仕が必要なため、際限なく他人の奉仕をおこなわなければならない。自分の利益や満足を追求すればするほど、他人への奉仕をおこなわなければならないのである。貨幣とはほんとうによくできた皮肉なシステムだ。
他人への奉仕ばかりに費やされて、いったいだれのための人生か、なんのための人生か、わからなくなる。人はほんらい自分勝手であるから、他人への奉仕を行わずに他人からの奉仕だけをほしがる。つまりは働きたくない。
自分の好きなことだけして暮らしたいと思う。働かなければ他人の奉仕は得られない。文明社会はたくさんの他人のサービスでなりたっている。食べ物にしろ、服にしろ、家にしろ、すべて他人がつくったものである。自分ひとりではなにもできない。しかもある一定の文明レベルに達しないと「人間」と認められない。そしていったいだれのための人生かと嘆きながら、きょうも他人への奉仕にもくもくと明け暮れるのである。
「他人のため」といってもちっとも無償の愛や奉仕でおこなわれるのではない。金を得られなければ、どれだけの人が現在の労働量を保持しつづけられるだろうか。私益のために利他行為はおこなわれるのである。
無償の愛や親切は、家族や友人、知人のあいだだけに限定される。貨幣は人間の私益を利用しながら、社会への貢献を強制的におこなわさせるのである。もし他人への奉仕をおこなわなければ、かれはホームレスとして、この奉仕社会から捨てて置かれる。かれは強制的な利他社会から、チケットのない者として排除されるのである。人間はちっとも無償の愛や親切をもたないのである。
他人への奉仕地獄から逃れるにはチケットをたくさん手に入れるか、他人からの奉仕を減らすしかない。たいがいの人はチケットをたくさん手に入れようとして、よりいっそうの奉仕地獄に追い込まれるだけである。みんながみんなチケットをほしいがために技術やサービスの基準を上げて、文明の「フツー」や「マトモ」から降りられなくしてしまったからだ。自給自足に近い社会なら、より自分のために生きられたといえるかもしれないが、だけど他人の高度な技術やサービスは発生しなかったのである。
私は毎日仕事ばかりしていて、いったいだれのための人生かと思う。もっと自分のために生きたいと思う。時間をくれと思う。そのためにせいぜい他人からのたくさんの奉仕をあきらめるしかない。高度な他人のサービスをたくさん得たいと思うのなら、ますます高度な他人への奉仕が必要になるからだ。自分の人生の時間を抹殺しかねない金というものには注意したいものである。CMや広告で魅力的な他人のサービスが流されるが、それを手に入れるために私はどれだけ他人の奉仕に時間を奪われなければならないのか。
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■働く量を減らす社会はできないものか 2006/1/22
もし平日の一週間がすべて自由であったら、私たちはどんなことをしていただろう。会社に拘束されないで、そういう自由な時間を得ることも私たちの人生には可能であったはずである。まるで刑罰を受けているように私たちの人生の時間に自由はないのである。
働きづめの人生をなぜ私たちは選択してしまったのだろう。
私たちは金のかかる生き方をのぞみすぎたのである。必要最低限の物資で生活をストップさせる選択をもちえなかった。グレードやステータスを競う消費競争をおこなうがために、私たちはますます労働と金に拘束された。それは世間や異性に対する誇示や競争のために際限をもたなくなった。私たちは他人に対して、見下される恐怖の病気にかかってしまったのである。いったいだれのための人生なのだろう。
社会保障も私たちの人生を労働に釘づけにした。老後の生活保障や健康保険のために、私たちは働かない自由を剥奪された。万が一の人生のために、私たちは自分の人生を失うという本末転倒な結果におちいってしまっている。この社会保障を家族や親族ではなく国家に依存したために、私たちは無償の保障を失ってますます金に依存することになり働きづめになったのである。
私たちはこの過ちにおちいった人生の方向を変えられないものだろうか。金と社会保障にしがみつく既得権層にとって、ほかの人生を想像することはまず不可能なのだろう。かれらにとってそれは理想やステータスの具現であり、ユートピアなのである。
若者たちにとってそれは北朝鮮のような強制労働収容所にしかみえないのだが。だから若者たちはフリーターやニート、晩婚化や少子化という人生のモラトリアムにより沈黙の抵抗=サイレント・テロをしずかに進行させてきたのである。若者たちは人生の自爆テロをおこなうしか、この社会に異議申し立てをおこなう手段をもてなかったのである。声なき抵抗である。
私たちに必要なのは、ふつうやまともや社会保障というステータスの基準に疑念を呈することだろう。私たちはこれから落ちこぼれることを怖れて、際限なき人生の喪失に囚われているのである。ふつうやまともの基準がどんなに人の人生を奪うものなのか、じっくり反省していただきたいものである。
私はせいぜいこれらのワナに囚われない人生の防衛を自分でおこなうしかないのである。金のかかる人生の価値と意味を問い直すべきなのである。それらは私の自由な人生を失うほどに価値あるものなのかと。グレードやステータスのために金に捕らわれて、働きづめの人生に閉じ込められるのが、私の人生ののぞんだことなのだろうか。
私たちは平日の一週間になんの仕事ももたない人生の選択も可能なはずである。豊かな社会になるとはそのような社会をめざしたのではないか。それなのにいつまでたっても長時間労働は終わらない。だまされているのか。人生の方向に迷ってしまったのである。金持ちになろうとするほど、人生が労働に拘束されることはないことを、しっかりと悟るべきである。
▼中国思想に学べ。
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■若者の人生のストライキを防ぐために 2006/1/26
若者は人生のストライキをおこなっているのである。フリーターやニートは働くことの拒否、ひきこもりは社会的活動の後退、晩婚化や少子化は家事や育児、女性差別のもの言わぬ抵抗なのである。ニートの若者の「働いたら負けだと思っている」という発言はそのことをあらわしている。
若者はこの社会システムへの全身での抵抗をおこなっているのである。自分の人生を捨てるほどまでにそれは不快なものになっているのである。自身の人生を自爆テロに供するほど、耐えがたきものになっている。
ただし、かれらはそれを言葉にできない。自分たちがなぜそのような行動をしているのか、社会に説得させる理論をもたない。マスコミのような表出手段をもたない。政治的手段や政治に訴える方法ももたない。社会が変わらないのなら、自分の人生をストライキするしかないと、各々が個人で人生の足をとめるしかないのである。
現行の社会システムは抜本的に若者に合わなくなっている。だが社会を変えることもできないし、どのように変わればいいのかもわからない。もしひきこもりやフリーター、独身OLが40代にさしかかろうとするのなら、若者の人生のストライキはかれらが成人するころの20年前、1985年前後からはじまっていたことになる。その間、社会はなんの効果的な変革はちっともおこなえかったのである。
若者の人生のストライキをやめさせるために、かれらのほんらいの人生を生きてもらうためには、社会は変わらなければならないのである。あるいはかれらはすでに自分の環境を自分に合わせてつくり変えてしまったのかもしれない。「いらない」ものを捨てていって、社会的活動や労働、結婚や出産を捨ててしまったのかもしれない。人生を疑える者にはそれらはすべて「いらない」ものの沸点に達してしまっているのである。
若者が自分の全人生を捨てるまでの社会システムはいったいなんなのだろうか。いったいだれのための社会なのか。なんのための社会なのか。なぜこの腐り切ったシステムは変えられないのか。
変える方向は労働時間を減らすことと、社会保障を解体させることだろう。個人は企業に全人生を拘束され、社会保障は人生を企業や国家に人質にとられる。若者はそれらを嫌って、沈黙のストライキをおこなってきたのである。結婚や出産の拒否も女性にだけ押しつけられた性別役割への異議申し立てである。若者たちは社会の根本の変革をのぞんでいるのである。それは自分の人生を引き換えにしてでも、得なければならないものなのである。
若者は人生のストライキをひそかに進行しつづけている。そして社会の大人たちはそのことに気づかない。どのように変わればいいのかもわからない。100年後には人口が半分になるこの国はそれほどまでに生きたくない社会なのである。若者の人生のストライキを防ぐために、この社会はこれまでのシステムを大きくご破算にしなければならない総決算の時期にきているのである。もう非常事態である。
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ご意見、ご感想お待ちしております。
ues@leo.interq.or.jp
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