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 ■051122断想集 恋愛結婚は死んだ?


 ■アンチ恋愛結婚イデオロギー            2005/11/22

 恋愛は無条件に献身的な愛をささげるものだと思われている。それに対して結婚は経済的・社会的な機能を補完するものである。こんにち、恋愛結婚とよばれるものがあまりにも経済主義的・功利主義的になったために若い男女は逃走したり、ひきこもったりすることがかなり多くなってきた。

 無条件の愛を経済功利主義とくっつけようとするから、ぎゃくに若者の憎悪をみちびくのである。あなただけを愛するといっても、じつは年収や身分を狙っているとするのなら、恋愛を美化する男には噴飯ものだろう。ロマンティック・ラブは功利主義を許さないのである。

 女性の約3割が年収400万を期待しており、約4割が600万以上希望、あわせて7割が400万以上をのぞんでいる。それに対して男性の約3割が年収200万以下、約4割が400万以下、トータルで7割が400万以下という東京都の未婚男女のデータがあらわすように、女性は経済功利主義でしか男を見ていない。これは恋愛というよりか、経済活動もしくはより有利な就職活動といったほうが近い。恋愛のイデオロギーはここで破産している。というか男女双方の憎悪をみちびくだけである。

 おまけに男の約6割が結婚のデメリットとして、自由に使えるお金が減ってしまうことをあげている。女性は約4割。若者は確実に恋愛や家族に消費するより、自分に消費したいと思っているのである。そのラディカルなあらわれが、アニメ・キャラに萌えるオタクである。かれらは愛情や性欲を現実の人間関係に求めることをすでに拒否してしまったのである。若者のいくらかが過剰に金を消費しなければならない恋愛の矛盾や欺瞞にいや気をさしていることだろう。

 恋愛感情というのは一時的なものであり、愛情は醒めたり、変質したりするものである。それを経済的な機能である終身的な結婚と結びつけたとき、なにが起こったか。愛への不信と憎悪、拒否がもたらされ、離婚の増加と晩婚化がすすんだ。崇高で無条件な愛が、経済的打算で計算される幻滅を味わわなければならなかったのである。

 90年代に「純愛ブーム」が起こったとき、一方では「三高ブーム(高収入・高学歴・高身長)」が起こった。恋愛結婚への経済功利主義に対する不信という流れで見てみると、これはシャブのように切れる効き目を何度も打ち直さなければならかったということが見えてくる。カネにとち狂っているのに、一方ではこれは「純愛」だと何度も主張しなければ自らを納得できなかったのだろう。恋愛結婚と功利結婚はここで必死に抗争していたのである。

 恋愛信仰はここで徹底的に商業化され、「恋愛資本主義」として「マスコミ・ファシズム」が起こることになった。「恋愛しろ」「セックスしろ」「彼氏・彼女がいなのは恥である・人間ではない」「恋愛しないものは人間にあらず」「童貞・処女であることは恥である」といった強迫めいた雰囲気が社会をおおったのである。恋愛資本主義は強迫と強制をともない、若者の不安を煽情することによって、巨大な「ファシズム・マーケット」として成熟したのである。

 強迫されたものは同様にだれかを強迫しなければ癒されない。恋愛マーケットに脅された人びとはオタクをターゲットにしたのである。犠牲者は犠牲者を生み出したのである。恋愛の強迫めいた商業活動に従事した者たちは、恋愛や性欲を自分の消費のみで満たそうとするオタクたちを異端の徒として非難したのである。かれらはともに「恋愛ファシズム・マーケット」の犠牲者たちなのだろう。若者たちはこの絶望と荒涼としたファシズムの嵐のあとになにを見い出すのだろうか。

 80年代に「女子大生ブーム」が起こったあと、「女子高生ブーム」にまで降りてきて彼女たちの一部は「援助交際」をおこなった。恋愛や性は商品化され、性を売買することに罪悪感や羞恥をもたない女の子をうみだした。

 というよりかこれは恋愛結婚のとうぜんの帰結である。女性はみずからの恋愛と性を資産として売買してきたのである。ジョシコーセーは「みんながやってることなのになぜ悪いのか」と思ったことだろう。恋愛結婚は隠蔽された個別的な商取引といえるが、彼女たちはそれを市場で切り売りしたのである。恋愛のみならず、自分の性すら商品化されると知ったとき、彼女たちは恋愛=処女の価値のイデオロギーなどちっとも信じなくなっていたのだろう。

 恋愛結婚イデオロギーなんてもう死んでしまう必要があるのかもしれない。私たちは新しい認識を必要としているのだろう。あるいは恋愛と結婚を完全に切り離して、べつべつのものと考えるべきなのかもしれない。結婚とは恋愛ではなく、経済取引であり、かつ功利主義なものであると。でないと恋愛の至上性は私たちを傷つけるだけである。結婚しない男女を増やすだけである。私たちは恋愛結婚というイデオロギーのために現実をあまりにも見誤ってしまうのである。


 





 ■恋愛の売春化と男の女性拒否           2005/11/27

 本田透の『萌える男』(ちくま新書)は恋愛結婚は死んだことと、オタクの恋愛資本主義拒絶を宣言する本であった。恋愛結婚を完璧に否定する姿勢は度肝を抜かれた。そこまで言い切ることができるのかと。

 この数日間そのことについていろいろ考えてみたのだが、問いがまとめられないせいか、あまりいい考えは浮かんでいない。結婚の人類学でも読んで、結婚の本質や相対化でもさぐろうかなとでも思ったのだけど。いまのところ恋愛結婚の終焉を告げた本は出ていないと思う。

 恋愛結婚というのはバブル期に顕著になったのだが、かなり経済功利主義である。女が男の経済力を搾取するような構造が露呈した。男はミツグ君やアッシー君とよばれ、レストランやブランド品で消費するトレンディドラマのような関係を強迫された。

 このころからオタクは現実の女性を拒否し、二次元の美少女に萌えはじめ、女性は消費スタイルを落としたくないがために非現実的な年収1000万の医者と結婚したいと思い、晩婚化の道へとつきすすんだ。男と女の双方がそれそれの利益へ向かって、非現実な夢に爆進しはじめたのである。

 恋愛結婚というのはそもそも市場化や貨幣化の拒否であったと思う。カネで買われるような関係にならないことが恋愛であったはずだ。恋愛というのはそれでこそ成立する夢であったのである。しかしバブル期にむき出しになったのは、消費スタイルを維持するための男の経済力だけが求められる経済的関係であった。

 恋愛が商品化されるにしたがって、恋愛は「売春化」してしまったのである。結婚は経済化に特化しすぎたのである。経済的に得するのは女性であり、女性はその利益に盲進し、男はカネだけかよと恋愛にゲンメツし、女性という高額商品をあきらめ、晩婚化か二次元の女性に救いを求めるようになった。

 戦後の社会において女性は労働市場から閉め出された。女性の生きる道は結婚しかなかった。女性差別や男性社会への隷属化がおこなわれ、それはフェミニズムからの男女同権運動として反対が叫ばれるのだが、それは同時に女性による男性への経済力搾取という構造も宿していたのである。

 女は男に非現実的な経済力を要求し、男は女に非現実的な萌える女を要求し、恋愛は売春化し、男と女は出会うこともなく、晩婚化と少子化が進むことになった。

 恋愛というのはおそらく自然な感情であると思う。性愛のエネルギーにつき動かされるのが人間というものである。しかし四六時中、性愛のことばかり考えて暮らす人間は歴史上稀有な存在であったはずだ。人はふつう経済や政治、戦争などにおもな活動をついやすのである。70年代に政治に幻滅した日本人は恋愛にのぞみをたくしたためにそれは莫大な利益をもたらす巨大なマーケットとなった。ポップソングは愛ばかり唄い、物語は恋愛ばかり謳い、「恋愛しないものは人にあらず」という強迫マーケットとなった。

 恋愛が商品化されればされるほど、恋愛は金銭関係になり、売春化していったのである。純真な純愛を信じる男たちは、アニメアイドルに萌えることによって荒涼とした世界から目を背けるしかなかったのである。

 オタクというのは性愛の経済化にたいするけな気な拒否であったというのをわれわれは理解していただろうか。貨幣化する社会の、貨幣化されない最後の砦を恋愛関係に求めたのだろう。しかし現実にはミツグ君やアッシー君の恋愛経済の亡者のような存在があらわれ、男はえらく傷ついたのだろう。純愛はそこで死滅したことを悟ったのだろう。

 オタクは恋愛資本主義に本能的に逆らっているのである。恋愛資本主義はかれら異端者を排斥しなければ、その正統性と至上性を主張できない。ここで争われているのは意外なことに、恋愛の商品化(売春化)とアンチ恋愛商品化(純愛)である。恋愛マーケットと現実の女を拒否したオタクは、この「恋愛至上教」のひきこもり・ニートなのである。

 女性ももちろん純愛を謳っているはずだ。愛かカネかと問われれば、だれもが愛と答える。しかし女性はあまりにも消費経済にとりこまれすぎたのである。自分の消費スタイルを死守するためには金を重視せざるをえない。したがって男に過剰要求である高額贈与を求めてしまうのである。そして男はますます恋愛ひきこもりになってゆくのである。

 こんがらがった糸はどこで解きほぐせばいいのだろうか。なかなか考えが整理できないので、今回はこのくらいにしておこう。





 ■夙川(しゅくがわ)オアシスロードの紅葉        2005/11/27

 

 ここは兵庫県西宮市にある夙川沿いの公園です。紅葉の並木がひたすらきれいでした。大阪にはこんないい雰囲気の川の景色を楽しませてくれるところはないぞと思いました。

 一ヶ月前ほどに買った原付バイクでいってきました。モータリゼーションを味わうのははじめてなので大阪から四方八方に足をのばして、エンジンで動く乗り物の醍醐味を楽しんでいます。

 いままで電車の駅という「点」からしか神戸を知りえなかったわけですが、バイクのおかげで神戸を地続きの「線」としてようやく把握できそうです。もちろんバイクは徒歩や自転車のように景色を楽しむというよりか、通り過ぎてしまうことが多くて悔しい思いをします。それでもやはりモータリゼーションの地図と風景の拡大は、なるほど楽しめるものがありますね。




 ■二上山がまっ赤に染まっていました。         2005/12/4

 

 二上山(にじょうざん)がものすごくきれいでした。奈良県側からの写真ですが、この時期の二上山はほんとうにきれいにまっ赤に染まります。ふたつコブの特徴ある二上山ですが、古代からこの山は奈良入りのランドマークとなってきと思われます。

 ふもとには公園が整備されていて、住宅街に育った私は、自然の生き物を用水路や田んぼでしか捕まえることができなかったので、近くにこんな山があったらどんなに楽しめたかと思います。

  二上山のある地図です。




 ■奈良盆地                     2005/12/7

  

 二上山からみた奈良盆地。この平地から日本の国がはじまったと思うと感慨深いものがあります。むこうの山垣とこちらの山並みがこの盆地を守っています。(写真は雲の陰が残念です)



 ■天王寺のストリート・ミュージシャン        2005/12/11

 

 週末になると、大阪・天王寺(てんのうじ)の駅前はストリート・ミュージシャンでいっぱいになります。こういう風景はもう何年目になるのでしょうか。

 90年代までの若者は一方的な消費者やお客さまとして、ただ消費するだけの受け手のみの存在でありました。自分たちからなにかをつくりだそうとする文化はすばらしいものがあると思います。人がつくったものだけを買う人生は、だれかのいいなりだけに終わる人生です。

 お客さまとしてだれかがつくったものだけでグレードを競うような人生は、踊らされ、だまされているだけだと思います。私たちはそういう人生にもっと抵抗すべきだと思います。大企業や産業社会のお仕着せの人生はもうたくさんです。





 ■高学歴者は権力志向なのか                2005/12/14

 学歴でまったく理解できないことは、高学歴の者はすべて社会的地位や権力ある立場をめざすのかということである。

 優秀な大学を出れば、とうぜんのように大企業とか成長企業、中央官庁をめざすものだと思われているが、頭脳優秀な者はそんなに権力志向なのか疑問である。

 私の学生時代を思いだせば、成績のよい者はとてもリーダー格や集団を率いるトップに向いているようには思われなかった。かれらは教室の隅にいる従順なおとなしい存在にしか見えなかった。生徒にバカにされたり、いじめられたりするおとなしい教師にダブって見えてしょうがないのである。

 成績順に社会のヒエラルキーがつくられたりしているが、私は学生の人気企業のどこに魅力があるのかさっぱり理解できなかった。なんか株価や利益の大きい企業が人気のトップに踊り出ていたように思うが、そういう価値基準がまったく魅力的に思えなかった。

 人の価値観はまったく多様である。たとえば将来、芸術家やプロスポーツ選手、タレントなどになりたいと思っている者には、大企業のヒラエルキーや官庁の番付のようなものはまったく魅力がないだろう。トップや権力をめざさない者にも、世間でいっぱんに流通する企業のヒエラルキーもまったく魅力にうつらないだろう。いったいだれの価値基準に従って、世間のヒエラルキーができているのか不思議でしょうがなかった。

 権力や業績で企業や官庁のヒエラルキーはできていると思うのだが、たまたま学校で成績がよかった者はおしなべてすべてそのような組織に属するのが当たり前なのだろうかと思う。学歴優秀な者はみんな権力志向やトップ志向に染まっているとは思われない。たまたま学力に秀でていたばかりに、トップの権力集団に属さなければならないというのはかれらの性質や価値観に合致するものなのだろうか。

 学力の優秀さと社会の権力は重なり合うものなんだろうかと思う。従順な学歴エリートと、力や押しでのさばるような権力者は、かなりかけ離れた存在のように思う。学歴エリートは権力者の資質があるのか、というよりか、かれら自身権力の中枢に座ることをのぞんでいるものなんだろうか。学歴と権力はかなり異なったもののように思えるのだが。

 私は世間のヒエラルキーというものがまったく理解できない。そもそもトップに位置する価値観をまったく共有しないからである。私にとってまったく価値のないものがトップに階層づけられるなんてことが、とうぜん私の理解をはばむ。この世間で流通するヒエラルキーというのはいったいだれの価値観に従っているのだと思う。

 世間に宣伝・洗脳するのがうまい連中がおそらくそのヒエラルキーをつくっているのだと思う。しかし私にはそういう価値観を共有しないから、この価値基準がてんで理解できないし、そんな基準でがんばろうとか勝ちたいとかもまったく思わないのである。

 世間にあるヒエラルキーはほんとうに人びとの魅力や憧憬にかなうものか、はなはだ理解に苦しむのである。





 ■学歴と幸福はいっさい関わりない          2005/12/23

 戦後の日本は一流大学に入りさえすれば、幸福になれるという単純なモノサシを信仰してきた。そのために人間のランクや序列がかんたんに測れるという単純きわまりない世の中ができあがっていた。

 一流企業に入ってたくさんの金や安定が手に入れば幸福になれると思っていたし、ランクや名誉も上るものだと信じられてきた。カネと学歴さえあれば幸福であるというきわめて単純な図式を人びとは信憑してきたのである。

 しかしご存知の通り、そんな単純なモノサシは崩壊した。一流企業に入ってもリストラされたり汚職にまみれたり、長時間労働の地獄であったり、人権無視の会社であることはざらであるし、得るものより失うものが大きいのではないかと人びとは気づきはじめてきた。

 価値観の多様化も大きい。そもそも人の幸福や満足は各個人それぞれにたいへん違っているのが当たり前である。それがたったひとつのカネと学歴のモノサシだけで、幸福が決められてきたのである。こんなバカな話があるか。

 この人たちのモノサシというのは、権力欲や名誉欲、強欲の権化みたいな人たちの価値ランクである。おおくの人はそんな欲望ばりばりの生き方なんかめざしたいとは思わないだろう。ほとんどの人はそこそこでいいと思うものではないのか。

 みんながみんな強欲の果てに得られる地位やランクなんかほしいとは思わないだろう。それなのに戦後の日本はその強欲のモノサシで幸福のランクが決められると信じてきたのである。いわば権力の権化のランクを信仰してきたのである。

 ひじょうに間違っていると思う。われわれの多くはそんな権力も権勢もほしいとは思わないだろう。それなのに権力のランキングが幸福であるという信念や規範をわれわれは固く信じてきたのである。

 いったいだれがこの単純なモノサシを洗脳したり維持してきたのだろうか。単純極まりないランキング装置としては、やはり学校の洗脳や選別の力が大きいのだろう。単純に一本の線の上に人間を序列できるそのモノサシは、あたかも人間の幸福のランクがあるように見せかけるのに十分であっただろう。戦後の日本は学校業界のマーケットの犠牲になったのである。

 そして戦後の社会主義のせいでもある。社会主義というのは平等をめざすためにモノサシを一本にしなければならない。でないと比較もできないし、平等も測れないからである。社会主義は人びとのモノサシをただ一本だけつくったのである。カネと幸福という単純な一本のモノサシだけを。

 さっこん流行の民営化はこのようなモノサシの崩壊も導くものである。政府の宣伝する一本だけのモノサシも解体されるということなのである。

 このようなモノサシを信仰しておれば、上の序列からかんたんに人間の幸福の序列もつくられる。低いランクの人たちは不幸でみじめだという物語はかんたんに流布される。どうやらそうではないという気分はバブル前後あたりから深く進行していたのだろう。エリートの崩壊はその帰結にすぎない。

 幸福というのは人の序列によって決まるのではない。それは強欲者たちの信念にしかすぎない。幸福は人の序列の外にあるものである。序列比較は人の幸福を壊すものでしかない。おそらく自分ひとりの楽しみや喜びを知っている人は、そのことをしっかりとわきまえているはずである。

 学歴と幸福はいっさい関係がないという社会の世論、コンセンサスができあがる必要があると思うしだいである。学校業界の餌食から早く脱することが必要なのである。





 ■企業社会の不満が下層化に隠蔽される流れ        2005/12/24

  下層化のプロパガンダ男たち

 山田昌弘がTVに出ていて思ったのだけど、ニートやフリーターを「下層化」にとりこもうとしている流れや策略みたいなものを感じてしまった。

 かれらは不況や構造的要因で働けないのもあるが、ほんとうのところは企業社会への不満が根深いところにあるからだと思う。「社畜」や「会社人間」になりたくない、「監獄企業」に入りたくないという怒りが若者にあるはずである。

 「働いたら負けだと思っている」というニートの若者の気分が代表するように、若者はこの生産マシーン国家を全身で忌避したいと思っているのだ。

 山田昌弘や三浦展が煽っていることは、このサラリーマン社会への不満を隠蔽して、その不満層を、下層化や貧困層の転落へとすりかえているのである。

 私の信頼する愛すべき学者たちがこういう策略を意図的におこなっているとは思いたくないが、政府のプロパガンダ御用学者に陥っている情けなさを感じている。この人たちは一度も奴隷のようなサラリーマン社会に不満や怒りを感じたことはないのだろうか。

 かつては佐高信やカレル・ヴァン・ウォルフレン、奥村宏のような人たちが、少ないけれど、企業社会への批判をおこなっていた。企業への滅私奉公や宗教化の批判をした佐高信、「人間を幸福にしない日本というシステム」「生産マシーン国家」などの名称で鋭く批判したウォルフレン、「工場の前で民主主義は立ちすくむ」「会社本位主義は崩れるか」といった奥村宏などがいたはずである。

 若者はこの怒りをもっと肌や気分で感じていたはずである。フリーターやニートはそのような気分の帰結としてあらわれたのである。

 ちかごろの若者の下層化の論説の流れを見ていると、この怒りを忘却して、若者は下層化に落ちる哀れな層というイメージにとりこまれていると感じる。不満を社会全体の問題としてとりあげるのではなくて、あくまでも下層化する連中だけの問題に押し込めようとしているかのようだ。

 ふーん、学者とはこのようなことをするのかと思った。社会全体の問題を、下層連中の問題にお蔵入りさせてしまうのだ。この問題は企業中心化されすぎた日本という国家全体の問題のはずである。それが下層連中だけの問題に棚上げされてしまうのである。この学者たちは意図的にやっているのだろうか。それとも問題の所在をカネだけの換算にしてしまったから、不満が見えなくなってしまったのだろうか。

 この情けない男たちのプロパガンダにだまされてはいけない。問題は大手をふって暴虐の限りをつくす企業社会のあり方である。私たちはこの強大になりすぎた権力を抑制する手段を、どこかにみいだすべきなのである。その調停役を国家がとりおこなわないから、不満は若者にニートやフリーターとして蓄積するのである。

 いままで政府は企業の監督であり、リーダーであり、個人の味方ではなく、敵であった。だから労働者や個人、消費者は守られなかった。新興の発展途上国はこういうかたちをとるものである。これから政府は企業と個人のレフェリーとならなければ、だれからも信頼されなくなるばかりである。

 いったいつになったら、企業権力の抑制策はおこなわれるようになるのだろうか。みなさんは若者の下層化を煽る連中にだまされないでください。


 ▼日本企業社会批判
 




 ■銀行預金を差し押えられました!          2005/12/27

  差押調書と配当計算書

 恐ぇぇぇ〜! 数年前の市民税の不払いの差押え予告がきていたのですが、放ったらかしにしていたら、マジで銀行預金を差押えられました。がび〜ん。。。

 なにより恐ろしいのは、銀行の預金残高を調べられたこと。どこでどうやって、私の銀行を見つけ出したのだろう? 9万ほど払戻請求権が確保されていました。

 数年前の差押え予告のときは昼間どうせ家にいないから放っておいたら何事もなく終わったのですが、逼迫する大阪市財政と関係があるのか、見事に強奪されました。

 貧乏人からカネをとる前に、WTCトレードセンターとか舞島、咲島埋め立ての赤字の責任をどうとるか反省しろっていうんだ。お役人のムダ遣いや私腹のために失業期間中の市民税を奪いとるなんてどうにかしている。目に見える私の利益に還元されるのなら、イタイ出費もガマンできるというものだが。

 政府とはやっぱり強盗であり、泥棒である。国家権力とは恐ろしいものだ。政府はこうやって貧乏人をアナーキスト(無政府主義者)に育てるのである。

 ▼アナーキズムへ
 





 ■性愛関係とは市場経済である。            2005/12/31

 まったく考えがまとまっていないのだが、いちおう書きだすことにしよう。

 近代からの性規範というのは、セックスを生殖のためのものと快楽のためのものにきっぱり分けた。というか、セックスを生殖のためにするものだとして、それを一夫一婦制のなかに閉じ込めた。

 そのために抑圧された性は、売春やポルノ産業、AV産業などの巨大な市場をうみだすのである。つまりは人間の性は生殖に限定されるのではなく、快楽のためにおこなわれるということだ。厳しい性抑圧が、巨大なマーケットを必要とするのである。

 いわば闇市場と同じで、麻薬やピストルは禁止されるから高額な価格で取り引きされる。禁止されて高額にはね上がったのは生身の女性の身体であり、性である。性を禁圧された男性は、生涯の終身保証を約束して女性を囲うか(結婚)、ポルノ産業や性風俗産業にお世話になるしかない。

 高潔な主婦は売春婦を憎む。憎めば憎むほど、自分たちの価格は吊り上がるからである。性市場を闇に葬れば葬るほど、売春婦と自分の価格は高騰するのである。売春婦サマサマである。売春婦と主婦の価格は連動しているのである。性のおあずけは自分の価格を高める。

 しかしもちろん女性にも性欲はあるし、恋愛物語に昇華するだけでは不満は解消されないだろうし、禁圧された性関係は、おそらくはファッション産業の無闇な商品競争を激化させるだけなのだろう。女性たちは淫乱でないことを必死におたがいに守りあうように牽制し、それは自分たちの価格が吊り上がるからだが、おかげで男たちは巨大な性産業やオタク・マーケットに逃げ込む構造をつくりだしたのである。

 さっこんの晩婚化はこのことと関係があるのだろうか。女性の価格は高騰するし、消費の女王のために男は奴隷労働に従事しなければならないし、こんなことだったらアニメの美少女に萌えているほうがラクだし、AV産業のほうがナマ身の女性よりカネがかからないし、ラクだ。そうやって男はすごすごと恋愛市場から敗退していったのである。

 女性たちは男性支配社会に抗するかたちでキャリアをめざした者たちも一部にいたが、二重給与構造は変わらないし、男に囲われたほうがいまだに豪勢な消費生活を享受することができる。キャリアをめざせば、結婚もできないし子どもも生めない。男に囲われたほうがラクそうだと思うのだが、満足する消費レベルを維持できる男はいないし、イケメンもいない。男と女の関係は凍結するばかりである。

 そうして生涯一人の人だけに愛と性を捧げるロマンティックラブ・イデオロギーにもとづく一夫一婦性は破綻をきたそうとしているのである。不整合は結婚前の長いOL時代や結婚後の長い主婦生活にあらわれ、それはOLの海外でのリゾート・ラバーやイエロー・キャブ、主婦の不倫願望などによって表出したりするのである。

 これは一夫一婦制がもうダメなのかということなのか、それとも恋愛結婚イデオロギーが破綻しかかっていることなのだろうか。あるいはガス抜きの要求が高まっているだけのことなのか。

 結婚市場というものがなんらかの要因によって硬直している。経済市場なら売れなくなったら大安売りするのが当たり前のことなのだが、こと人間のこととなると尊厳やプライドといったものがあるから、そうやすやすとは安売りできない。自分たちが市場経済に売り買いされている商品という自覚もないし、したがって破綻の原因も市場に求めるということもない。ガンコな性規範や性道徳が感情レベルで埋め込まれているだけである。

 われわれは市場の中で取り引きされる商品にしか過ぎないと見ることで、これからの男女関係の展望は見えてくるのではないだろうかと私は思う。

 ▼参考文献
 

 ▼ちなみに主婦は専業の売春婦だと知ったのは、私にとっては岸田秀の『性的唯幻論』や森永卓郎の『非婚のすすめ』などがはじめてだと思うが、こんなことははるか昔、大正時代の知識人によってやかましくいわれていたことが田崎英明編『売る身体/買う身体』からわかったし、ボーヴォワールもいっていた。私たちは恋愛至上主義によってそれを必死に隠蔽もしくは忘却してきたのではないだろうか。





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