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 ■051022断想集



 ■若者、ポスト近代の壁
 〜『日本の、これから』の感想〜           2005/10/22

 

 NHKの『日本の、これから――知っていますか、若者たちのこと』を見た。だいたいは若者の働くことを中心に議論されていた。

 定職か好きなことをして生きるか、就職状況の厳しさ、若者にとって生きづらい社会なのか、無職青年の犯罪件数の増加、中学生の職業体験などがとりあげられていた。

 これらの若者の悩みはすべて近代が終わったことのあらわれだと思った。近代というのは豊かになって車や家電に囲まれた生活を送るということである。その目標が終わってしまったから、レールから放り出された若者は、あらゆるところで立ちすくんでいるのである。むかしの青年からすれば、つくられたレールの上を歩くなんてまっぴらだと思っていたころに比べると、ずいぶん夢のような話なのだが。

 スタンダードがなくなった時代に、安定や定職、サラリーマンになるというひと昔前の基準がまだ生き残っているという難しい状況である。豊かさという目標の、次なる目標がまったく見当もつかないという状況が、いっぱんの若者たちにじわじわと浸透しているのだなと思った。安定のゆりかごは捨てがたいし、親はうるさいし、しかし人生の目標も意味も見いだせないという状況なのである。

 あと、宮本みち子はニートの生まれた理由を製造業がなくなったことに求めていたのはびっくりだ。だれにでもできる仕事がなくなったのだ。ではどうするかということだけど、ふと思ったのだけど、江戸時代のような商品を売り歩いたり、家や道具を修理したりするような、ささいな仕事がもう一度たくさんつくられる必要があるのではないかと思った。人力車のような人を贅沢に使う仕事が必要なのである。

 豊かになった社会というのは目標を失ったということである。そして金ピカ社会をつくるための働き手もいらないということである。そうしたらどうやってメシの糧を生み出したらいいのか。意味ある人生とはなんなのか。模索や実験が必要なたいへんに難しい世の中がやってきたということである。若者はたぶんハトが豆鉄砲を喰らったような顔をしているのだろう。

 豊かな社会は意外に新参者には生活の糧を得るのがむずかしくなるとはだれも思ってみなかったことだろう。そしてやりがいや自己実現が強迫的に求められる世の中である。この危うい綱渡りのような条件の中で、若者はどのように自分の居場所を見つけてゆくのだろうか。難しすぎる問題なのだが、まずはシンプルにメシを食うために働くことがいちばん大事である。


 ▼ポスト豊かさの社会を考える。
 





 ■むかしのカセット・テープを聴きたくなるとき         2005/10/26

  ソニーのAHF、BHF、CHFのテープ

 ふいにある唄を聴きたくなって、むかし録ったカセット・テープをひっぱりだして聴くことがある。1980年代のはじめ、私が中学のころにFMからエア・チェックしたテープだ。ふだんは死蔵しているのだが、とつぜんに聴きたくなるのである。

 聴きたくなる曲のNO.1はおそらくベッド・ミドラーの『ローズ』だ。ピアノのこおん、こおんというイントロからはじまる曲は、ふいに頭の中に想い出して、とりついたように口ずさみたくなるのである。アバの『ザ・ウィナー』もたまに聴きたくなる曲だし、コモドアーズの『スティル』、ポール・サイモンの『追憶の夜』なんかも頭の中でとつぜん鳴り出すことがある。

 そうなったら、しばらくは古い時間を閉じ込めたカセット・テープを聴きつづけることになるのである。「あ〜、この曲はいいなあ」とか「この曲は名作だな〜」と再確認しながら、1980年代の音楽の世界にひたるのである。

 中学生だった私や、中学生だったころの思い出を思いだすわけではない。その曲を新たに聴き直しているというか、新たに再発見するという感じである。はじめて聴いた曲のように「この曲はこんなにいい曲だったのか」という新鮮な感じを味わうのである。

 中学のころに聴いた音楽というのは、多くの人にとって強烈な感動や新鮮な感じを与えるものである。年をとってから出会った音楽とは、インパクトがまるきり違う。自分のからだの血と肉となるようになじんでいるものである。何年たっても、このころの曲は名曲ぞろいだったと、自分の中では感じてしまうのである。やはり中学生といういちばん感受性ゆたかなころに聴き込んだ音楽だからだろう。

 FMでエア・チェックした曲は、曲順がそのカセット・テープにしかないものになるので、曲の並び方も強い印象として残っているものである。この曲が終わったら、つぎはこの曲だと完全に刷り込まれているのである。いわば、ひとつのセット曲というか、つながりある曲になったりして、またその調和やハーモニーも楽しませてくれるのである。

 80年代に音楽を聴いていた中学生はいまやもう30代や40代になっていることだろう。むかしの曲を聴きたくなる人も多いようで、80年代のコンピレーション・アルバムが出ていたりする。でもそういうアルバムは自分の好みでない曲がたくさん入っていたりする。もう編集アルバムをつくる気力のない世代にとってはかなりやっかいな話である。私は中学のころに録ったテープを残していてよかったなと思うのである。

 ただ、さいきんはもうすでにテープ・デッキのないコンポやラジカセが多く出回るようになっている。そんな話は聞いていなかったぞ、といいたくなるところだが、時代や技術の変化はこのように容赦のないものなのだろう。永遠と思っていたものもいつかは古びたり、消え去ったりするのである。

80年代ロック&ポップス・メモリー
 やっぱり80年代ロックだぜ!

 





 ■本離れの時代に本好きを叫ぶ。          2005/10/28

 

 本を一ヶ月に一冊も読まない人が半数以上いるそうである。読売新聞の調査によるとだから学校の授業が大事だとか、新聞の教育が大事だとか、いっている人が多いようである。

 げーっである。そういう連中が読書をいちばんつまらなくするのである。エンターティメントに優れていないと、みんなにそっぽを向かれるだけである。TVやマンガやゲームがある時代になぜ本なんて読む気が起こるというのだろう?

 私も十代はまったく本を読まなかった。マンガにTVに音楽、映画があれば、十分であった。活字なんか読めなかった。

 ただ本を読むことは知的であるというイメージや憧れはあったのだろう。私が本を読むようになったのは、読書もファッショナブルであると知らしめた村上春樹の『ノルウェイの森』と出会ってからだと思う。ファッションのブランドに凝っていた私は、知的なブランドを求めたのだと思う。かなり遅れて「ニュー・アカデミズム」の思想家にハマった。思想には深遠で、超越したなにかがあると思ったのだ。

 読書はカッコイイとか、ファッショナブルであるとか、優れている、といったイメージがないとたぶん多くの人は本を読みたいと思わないだろう。基本的に人の行動の多くは、人にいいように見られたいという動機に占められていると思う。そういうカッコよさを呈示できない行為は、たぶん人から求められるものになりえない。

 ひと昔まえは読書や知識がカッコイイとか、ファッショナブルであった時代もあったようである。エリートであるといったイメージも付帯していたときもあったのだろう。いまは読書にそういうイメージはまったく欠如してしまった。クソまじめで、権威や政府に盲従する優等生みたいなやつや、クライといったイメージしかないだろう。

 本の著者は映画俳優やロック・ミュージシャンのようにカッコよさを宣伝しないと、かれらと互角には闘えないだろう。見た目のカッコよさというものが、やはり多くの人が是が非でも身につけたいものなのである。

 読書界は本離れを毎年のように嘆くのではなくて、見た目のカッコよさというものを磨く必要があるのだと思う。戦略としては本を読まない人をバカだとかけなす方法もあるのだが、マイナスの要素から強制的に人に本を読ませてもたんなる飾りに終わるだけだろう。車のようにグレードやヒエラルキーをつくって、「いつかはクラウン」のような序列を叩き込むのも方法かもしれない。

 本を読まない時代に私はとりわけよく読む部類に入るのだろう。「これはなんでだろう」「これはなぜこうなっているのか」と追究するために本を探す習慣を身につけてしまったから、読書はやめられないのである。自分の疑問を解くために本は欠かせない道しるべとなったのである。そういう謎解きの方法を知ってしまったから、私は読書の楽しみから離れられなくなったのである。

 多くの人がいうように本を読まなくてもなにも困ることはない。なんの損失もない。養老孟司のいうように「知らないことは存在しないこと」である。存在しないことの欠如はなんの痛みももたらさない。

 ただ、世の中はわからないことだけらけで、悩んだりすることが多々あると思う。そういうときに数々の知見や洞察、知恵が凝縮された優れた本と出会わないことは損失になると思うのである。

 本というのは二千年以上も人間の知恵を伝えるゆいいつのメディアだったのである。世の中を少し知ることで、あるいは悩みの解決法を知ることで、私の人生はすこしはマシなものになるかもしれない、読書はそういう機会を与えてくれるのである。TVやマンガは情感は味わせてくれるが、直接にはそういうことを教えてくれないのである。

 ▼人類の叡知
 





 ■近代の世界の名著に思うこと        2005/10/30

 

 中公新書から『世界の名著』(河野健二編)という本が出ている。スーパースター列伝みたいで、好きな本だ。世界のスーパースターを一望につかんだような気にさせられる本である。また世界の知の系譜を手に入れたようにも思わせる本である。

 ただ『世界の名著』と銘打ちながら近代ヨーロッパの名著しかとりあげていないのがかなりの偏りを感じさせる。インドや中国やイスラムの名著がまったく視野に入っていないのである。金持ちや権力のもっている国だけが、人類の叡智を生み出してきたとはとても思えないのだけど。

 これらの近代の名著の語ってきたことは政治や社会のことであったりした。マキアヴェリの『君主論』やモアの『ユートピア』、ホッブスの『リヴァイアサン』などは、新しい時代の政治や理想が語られていたようである。

 デカルトの『方法序説』やロックの『人間悟性論』、カントの『純粋理性批判』、ニュートンの『プリンキピア』などがとりあげられているが、これにスピノザの『エチカ』を加えれば、いかにこの時代の人たちが知識の実証主義にとりつかれていたか、またはそれだけ知の確実性というものが揺らいでいたかとわかるものである。

 ルソーの『社会契約論』やアダム・スミスの『国富論』は新しく民主政治や資本主義を生み出す原動力となった本であるが(ダーウィンの『種の起原』も加えたい)、ただちにそれに反対するようなバークの『フランス革命の省察』やトクヴィルの『アメリカのデモクラシー』、またはマルクスの『資本論』のような本が出たことは、人類の賢明な知識を感じさせるというものである。

 現代の私からしてみて、これらの名著はその時代の要請に答えた本であり、現代に通じる問題だとは思いがたいものがあるのだが、問題意識にばりばり共感する本もあった。ミルの『自由について』、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』、フロムの『自由からの逃走』である。これらは画一化・均質化する「多数者の専制」という問題をとりあげていて、現代でもまったく脅威に思われる問題だと私は思うのである。

 20世紀に最大の影響を与えたのは、マルクスの『資本論』、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』、フロイトの『精神分析入門』、ダーウィンの『種の起原』である。これらの本は国家を動かしたり、人間観の変換をせまる本であった。人間は知識が変わることによって行動も変わるのである。

 これらの世界の名著は多くの人にとっては教科書でおぼえた単語にしか過ぎないだろう。またその思想の中身はだいたいはほかの情報から得ていることだろう。

 私もこの本の中で読んだのは45冊のうちの半数にも満たない。こういう本が読みたくなるのは、名著に触れてみたいとか、世界の名著と呼ばれものの中身を確かめてみたいという野望(?)がなければ読もうとも思わないだろうし、この『世界の名著』のようなカタログ本からその興味を引き出されないことには読みたいとは思わないだろう。そういう意味でこの『世界の名著』は世界の知の頂点に触れるための優れたガイドブックなのである。


 





 ■バイクにすこしは慣れました。         2005/10/30

 金剛山麓からの眺め

 バイクを手に入れて二週間め、きょうは大阪から法隆寺、五条市にまわって河内長野へとぐるっと戻ってきました。何キロくらいだろ? 4、50キロはあったのかな。疲れた。疲れたけど、どのような疲れなのか、自分でもよく把握できない感じだ。

 ようやく慣れてきた感じである。一週間めは車の通らない道で練習し、二週間めからは通勤に使うようになったが、渋滞や再発進でエンストを何度もおこした。とろとろ走っているときは半クラやクラッチを握りしめて乗り切らなければならないのかな。

 車との関係はどうも左はしをとろとろ走っていると勝手に抜かしていってくれるようである。ただ狭い二車線で追い抜かすのが難しい状況では、迷惑にならないよう必死に4、50キロは出してしまう。きょうはメーター限度の60キロを出して走ってみたが、まあ私は走り屋ではないのでそんなに感慨はなかった。車にぜんぜん追いつかれなかったら残念な気持ちがしたり、並んだりしたら「おおーっ」と思ったりした。公道を走るというのは「オトナ」の感覚を与えてくれるものなんだなと思った。

 山道にはさすがにバイクがたくさん走っていた。カーブを楽しみたいのはわかるが、気温はぐっと下がったので、私は寒さに震えて、早く山から降りたかった。

 バイクは自転車のように気軽に止まって景色を楽しんだり、公園で休憩したり、車線の関係や駐車スペースなどで店に入りにくかったりする。そこらへんは残念だったりする。

 右折や車線変更はエンストの心配からまだ抵抗があったりするが、むりせず、左折でUターンしたり、小道をぐるりと回ったりする方法も使いながら、じょじょに慣れてゆくことにしよう。

 はじめは車道に出るということにものすごくビビっていたが、やはりエンストのような基本的な操作が身についていなかったからだろう。車との関係も心配したが、まあゆっくり勉強していけばいいだろう。あとはこれからは寒さに強くなる方法を考えないとな。

 ちなみに自転車で通勤していたころ、道ばたに人が通っても無関心でそっぽを向いていた犬がいたのだが、私がバイクでメットをかぶって通ったところ、驚いて私の顔を見つめていた。犬もしっかり人の顔を見ているものだな。





 ■差押えの予告がきました。           2005/10/31

  「きみは「赤紙」を見たことがあるか!」

 3、4年まえの失業期間中の市民税未払いの「差押さえの予告」がきました。給料と銀行預金が差押さえされるそうだ。

 「ぎくっ! ぎゃーっ!」と思うところだが、私は何年かまえに一度経験したことがある。そのときはお金がなかったので「だれが払えるか!」と思って放っておいた。ほんとうにヤクザみたいな税務署か警察官かでもやってきて、むりやりカネを巻き上げられるのだろうかとビビったが、何事もなかった。

 どうして失業期間中にカネをむしりとられるのだろうと思う。会社から市民税が支払われていないということは失業期間中だということがわかるはずなのだが、収入がない人間からなぜ税金を奪おうとするのだろう? ぎゃくに失業手当が振り込まれてほしいくらいなのだが、お金がとられるのである。一年前の収入に対しての税金ということはわかるのだが、そのとき失業していたら払えるわけがない。

 政府とは強盗であると唱えていた学者もいたが(『二十世紀を動かした思想家たち』)、無収入の人間からカネをとろうとする役所は血も涙もない強盗である。しかもそのお金は役人の無駄遣いやハコもの、必要のない公共事業など、私の利益にまったく還元されない浪費に費やされるのである。

 私の目に見える利益に支払われるのなら納税の妥当性を感じるのだが、いままで税金を払っていても一度もそんな思いをしたことがない。いったら、お金を払っているのに商品を渡されない詐欺みたいなものであり、それはエライさんの無駄遣いに使われるのである。まさしくカツアゲにあった気分である。

 税金の使い道をみずからが選択できるようなシステムはできないものか。ロクでもない政治家を選挙で選ぶよりか、カネの使い道を納税者みずからが決めるほうがよほど政治は浄化できると思う。名づけて「金権政治」。主婦や大蔵省のように財布のひもをにぎったほうが力を持つのである。

 小耳にはさんだところによると税金には時効があるみたいである。今回も何事もないように祈っておこう。元祖フリーターのヘンリー・ソーローは税金の不払いを主張したみたいだが、私も勉強しておこうか。よい子のみなさんはちゃんと納税しましょう。

 





 ■天川村の水はきれいすぎ。             2005/11/4

この川の透明度はほかに見たことがありません。しばし呆然。
澄んだ川と紅葉の色が絶妙な美しさをなしていました。山の上には霧がかかり、神秘的な雰囲気がありました。
天川弁財天社。有名なところらしいですが、なにもないので拍子抜け。

 天川村は奈良県のまんなかあたりにある渓谷の美しいところ。電車とバスで阿倍野から4500円もかかるから行けなかったのですが、原付バイクでいってきました。往復100qくらい、4リッター500円程度でいけたのはずいぶん安上がり。

 309号線をひたすら南下すればよかったのでラクでした。原付バイクというものがどういうものかよくわかりました。50qを出していても車に追い抜かれるし、車の列に追いつくこともありません。あとはこのことに平気にならなければ。

 バイクがあれば、やはり地つながりの感覚がだいぶ広がりますね。私の近畿の地図は電車とマウンテンバイクでいける距離でしかつながっていなかったのですが、これからはその感覚地図がだいぶ書き換えられることになると思います。ただ、バイクは徒歩のようにあちこちに止まって景色を楽しむことができにくいなあ。

  天川村の地図です。





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