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 ■050809断想集


 ■むかしの民家は安らぐなぁ。         2005/8/9

 服部緑地にある日本民家集落博物館にいってきました。ハイキングで山里のわらぶき屋根を見つけて、むかしの家ってなんともほっとするな、と思うようになったので、いちど見たかったのです。写真です。

これは宮崎県日向の民家です。わらぶき屋根の家って自然にとけこんでいて、ものすごく素朴な感じがするのだな。
木造だらけの部屋にいおりが囲まれています。
牛や馬の小屋です。私のおばあちゃんの家にもまだ牛小屋があったように記憶します。それにしても牛や馬はりっぱな屋根つきの小屋に住まわされたものですね。
白川郷の合掌造の民家です。20〜40人の大家族が住み、長男のみがヨメトリし、あとは通い婚だったそうです。この民家はやっぱり長野県のロケーションで見たいな。
便所ですけど、私のおばあちゃん家(徳島県)の便所は家から離れていて、夜はコワくていけなかったなぁ。
かまどです。なにか手作りっぽい、だんごを積み重ねたような稚拙なつくりでしたけど、これでりっぱに役に立ったんでしょうね。
真夏の陽射しの中、見るからに暑苦しい信濃秋山の民家。豪雪地帯だったそうで、マンモスの足みたいな外観はさぞかし寒さを防いだことでしょうね。
玄関の入り口もやたら小さくてかがんでしか入れません。入ると、左手にお馬さんの部屋がありました。ずいぶん高待遇ですね。
十津川村の板張りの民家。雨がよく降る地域だそうで、木造の家はけっこうモダン?でありました。
風呂桶です。ガスや電気がなくともじゅうぶんにお風呂に入れるものだなと思いました。
緑の山に囲まれた中で、こんなわらぶきの家を見るだけで心が安らぎます。コンクリートやモルタルの都会はちっとも安らぎをもたらさないと思います。




 ■三重県関宿の古い町並み         2005/8/16

 東海道53次47番目の宿場町として栄えた関宿を見てきました。参勤交代や伊勢詣でにぎわった様がしのばれました。

往時をしのばせる古い町並みがしっかりと保存されていました。時代劇のような人たちが町を行き交ったのでしょうか。
道路がアスファルトではなく、土の道路だったらもっといいのになと思います。ついでに馬とか江戸時代の着物を着た人を歩かせたらもっといいのに。
高札場といって、幕府のお触れや宿場の決まりが掲示されたところだそうです。これはリアルさを感じました。
そば屋ですけど、この木造のつくりはひじょうに味わいがあります。
広重が描いた江戸時代の関宿の様子です。お殿様の参勤交代なんでしょうか。
関宿を山から俯瞰するの図です。むこうは鈴鹿の海にひろがっていて、手前をいけば奈良や京都まで奥深い山々が連なります。たしかに境界に位置するところですね。
う〜ん、なんだか田舎の駅舎って感じがしますね。大阪からは天王寺で大和路線にのり、加茂で快速を降り、ワンマンカーの各停にのりかえます。約二時間ですね。

 ▼関宿の地図です。
 




 ■まったくそう思う。橋本大也さんのPassion For The Futureの「成長の限界 人類の限界」の書評での言葉である。

 「人が必要としているのは大型車ではなく、とっかえひっかえの衣服ではなく、賞賛や尊敬であり、ワクワクしたり、他人に魅力的だと思われることなのである。もう一台コンピュータやテレビが欲しいのではなく、自分の頭や感情を満たす興味深い何かがあればいいのだ。求めているのは非物質ニーズなのに、それを物質ニーズで満たそうとするといくらあっても不足してしまう。」

 われわれは賞賛や尊敬がほしい哀れな生き物である。そのために人より稼ぎ、人より高いモノをもとうとする。そういう性根が恥ずかしいと見透かせるようになれれば、われわれの競争は落ち着いたものになると思うんだけど。

 勝つことが羞恥プレイとなる風潮はできないものか。といってもそれは老荘思想がめざしたことであり、アジア的停滞とかいって、ヨーロッパに侵略されてしまうのだけど。





 ■カメを捕りにいった夏休み          2005/8/20

  クサガメ (webで拝借)

 小学校のころの夏休みはよくカメを捕りにいった。コンクリートで囲まれた用水路を歩いていたらカメを見つけることができたのである。カメは好きだった。あののん気でのろまな風情を見ているととても愛らしく感じられた。

 私が育った町は大阪郊外の新興住宅と田んぼがせめぎ合うような境界だった。小学校のまわりにはまだまだ田んぼが広がり、幹線道路が遺跡発掘のために中断されていたり、雑草地やお化け屋敷のような古い屋敷がのこっているというようなところだった。そのようなところでも昭和40〜50年代の子どもたちは身近なところにたくさんの生き物の営みを見つけることができたのである。

 用水路を歩くというのはいっしゅの冒険のようなものだった。電車の下を通ったり、真っ暗なトンネルを抜けたり、堰止めた水かさが増したり、地上の道路からは見れない町並みを見たり、終点という用水路のはじまりの池を見つけたりと、未知の世界を探検する楽しみがあった。

 用水路の水かさはたいてい足元程度しかなく、石や草陰にふつうにカメは転がっていたりしたので、かんたんに捕まえることができた。どんなところに潜んでいるのか、どのあたりで見つけることができるのか、というわくわく感は宝探しみたいなものだった。

 用水路に転がっているカメはとうぜん大きく成長したものが多く、20センチくらいはあった。ほとんどはクサガメで、黒っぽくて茶色い色をしていて、独特のカメのにおいがあって、そういうにおいのするところにはカメがいそうな気がした。イシガメという黄色くて甲羅のうしろがぎざぎざになっているカメはめったに見つけられなくて、いつも探していた羨望のカメだったのだが、おそらく一、二匹をのぞいてほとんど伝説のまま終わった。

 たしかクサガメは韓国からもってきた外来種で、イシガメが日本しか生息しない在来種で、私は韓国の生き物のほうにより愛着を感じていたのだった。ミドリガメは巨大化したやつを何匹かみつけたが、たぶんあまり愛着がわかずに家にもちかえることは少なかったように思う。夜店で売っている小さなミドリガメはとうぜんかわいいのだが、巨大化したミドリガメはどうもかわいくはなかった。

 家にもちかえると、バスのユニットに十匹くらい飼っていた。いつもいつも首をのばして上に必死にはいのぼろうと、駆けずりつづけていた。パンなどをあげていたと思うが、あの食べ物を見つけてじっと注視し、かぶりつき、爪ではじく独特の食べ方はずいぶんかわいいものだった。

 カマキリもよく捕まえにいった。といってもカマキリが成長するのは夏休みではなくて、9月、10月だけど。近くにはきりん草のたくさん生えた雑草地があり、多くを見つけたものである。大きければ大きいほど、うれしかった。

 カマキリの目は大きなレンズのなかに一点黒い点があり、近くで見るとじっと人間の私を見ている気がした。バッタをむりやり食べさせているときなんか、それでも私を注視しているように思えた。いつでもこっちに目を据えているように思われた。カマキリにとって巨大な人間はどのように見えるのだろうかと思ったものである。

 オオカマキリ以外の種類はあまり知らなかった。秋が終わりのころ草の幹に卵が植えつけられていて、丸くて大きなものと、チューブのようなものの二種類をよく見つけた。中を割ると、みかんとそっくりの実のようものがつまっており、しばらくはみかんが気持ち悪く感じられた。虫かごに産みつけた卵から一度子どもがたくさん生まれたことがあり、押入れはカマキリの子だらけになったことがある。

 ザリガニはするめをつけて釣ったり、あるいはザリガニ自身の腹部をつけてエサにしたり、またはザリガニは独特の穴を掘っていたりするので腕をつっこんでひきづり出したりした。田んぼや池にはもう赤いアメリカザリガニしかおらず、ほかの在来種を見つけることはほぼ皆無だった。ツメが大きかったり、図体の大きいやつを見つけることが楽しみだった。

 ひじょうによい思い出である。生き物を捕まえにいくというのはたいへんにわくわくして、うきうきしたものである。そういう気持ちというのは年をへるごとにしたがって、失われていった気がする。あのころの世界に対する神秘さや好奇心はもう味わえないのだという気がする。





 ■高尚と低俗                2005/8/27

   『電車男』 オタクも人を助ける。

 文学や哲学を高尚と尊び、マンガやオタクを低俗と軽蔑する考えを私たちはもっているわけだが、この基準がいっているのは、性欲や自己満足、利己主義を好きなだけ追究するか、あるいはどれだけ離れるかということなのだと思う。

 低俗なものがおとしめられるのは、性欲や自己満足がとことん追究されるからだ。自分の利益ばかりを追求する人は嫌悪されたり、非難されたりする。オタクは自己の性欲や愛着をあまりにも忠実に執着しすぎるから、ほかの人に嫌悪されるのである。

 ぎゃくに高尚なものが誉められるのは、自己利益から遠くへだたった行為や趣味をおこなうからだと思われる。政治や哲学、社会について考えるのはこの共同社会の利益に貢献すると思われるだろうし、難解で深遠なことを考えておれば、われわれの社会に利益がいずれはもたらされるだろうと思われるのだろう。

 高尚なものは自己利益から離れ、共同社会に益するものだと思われており、性欲も覆い隠されているがゆえに非難からまぬがれる。自己利益を追求していないように見える。自己利益の倫理が、高尚と低俗という基準にもりこまれているわけである。

 オタクというのは自己の性や愛に忠実でありつづける強さをもっている。性欲を中心に執着するということは、この社会ではいっぱんに嫌悪され、隠蔽されるのである。オタクはそのうえに幻想によって自己の性満足を追究するがゆえに、異性の利益ももたらさないので、この共同社会の風当たりは強くなるのだろう。非難にも耐えて自分の好きなことを追求できることはかなりの強さや技術、あるいは無神経さをもっているのだと思う。

 私は自分の弱さゆえに低俗なものにふみとどまれずに高尚なものへと向かう求心力をもっている。低俗を非難する声にすぐに屈するのである。高尚なものに興味が向かうというのは、自己利益を放棄するということでもあり、低俗への非難に弱いということである。他人の言動に左右されやすい弱さをもっていることになる。

 社会は共同体の利益のために性欲や利己主義を断ち切らせようとする。われわれは低俗という非難によって自己利益を放棄するように訓育されるわけである。

 低俗なものを非難する心をもつことによって、われわれは自分の好きだったことをどんどん放棄させられて成長してゆくことになる。高尚なものが絶対的に善であり、正義や優越だとは私は思わない。それは社会的体面をとりつくろう技術でしかないと思う。

 そういういつわりのペルソナにむしばまれてゆく人生は、かつて反抗した世間体を気にする親たちとなんら変わりはしない。低俗を非難し、高尚という仮面を身につける人生には警戒したいものである。他者の利益に奉仕するだけの人生は他者のあやつり人形でしかないのである。





 ■若手作家の台頭と自己表現             2005/8/29

  綿矢りさ。かわいい。顔だけで売れる!

 若手作家が台頭しているということを、今年の三月に『クローズアップ現代』で特集していたそうである。マンガやゲームで育ち、文学を読まない若手作家たちがぞくぞくとあらわれているという。

 だるまBLOG: 文学に異変あり
 Digital Town 若手作家がつぶれる日

 文学といえば十年や二十年前は死んだといわれ、「文学青年」なんか死滅したはずである。そして古典文学から隔絶したところから新しい作家はどんどん生まれてきているのである。

 そりゃそうだろう、鬱屈した日本文学なんか死滅したほうがよかったのである。つまらない伝統文学なんか読まされるから、だれも見向きもしなくなるのはとうぜんのことなのである。

 新しい作家はたぶん古典文学なんか読んでいないだろう。われわれの時代にはマンガにゲームに映画にドラマがあるのである。わざわざ時代遅れのつまらない小説など読みもしない。若手作家はおそらくそういう素養の上に、安上がりな紙とペンのみで創り上げることのできる物語という方法を選んだだけのことだろう。とくべつに古典文学や文学の伝統に思い入れがあるわけではないのだろう。

 われわれはマスコミの創り上げるヒーローに憧れて育ってきた。マスコミで憧れる人間になりたい、ならなければならないと思い込まされる少年時代を送ってきたのである。俳優やミュージシャンがわれわれのヒーローである。むかしは高級品やブランド品をもつことによってまわりの人たちから称賛されたかもしれないが、もういまは、マスコミに称賛されるということが多くの者たちの憧れられる目標になっている。

 モノによる認知から、文化や創作による認知にうつりかわっているのである。モノはしょせん他人や企業がつくった受身的なものであり、他人の創ったもので自慢するなんて情けない。自分でしか創れないものに価値がおかれるのはとうぜんである。

 90年代には文芸誌の新人賞に応募してくる者が購買者を上回っているといわれたことがある。たぶん文芸誌なんかまちがっても読まない書き手たちが確実に増えていたのだろう。小説に思い入れがあるのではない、自分を表現すること、あるいは自分を特別な存在にしたいという思いが強くなっていた人たちが小説を書いたのだと思う。

 そういう欲求が強まっていたころにインターネットというメディアが95年に注目される。自己表現、自己創作のかっこうの媒体を提供したのである。ケータイが普及してメールを打つことによる自己創作もふえた。書くこと、自己を表現することがずっと身近になった。書くことの敷居が低くなり、多くの人に自分の創ったものを見せるという機会が確実にふえたのである。

 小説は紙とペンさえあれば書ける。しかもネットとは違い、商業ベースに乗せることができるし、マスコミという後ろ盾を得ることができる。ものはかんたんに書けるという発見が、さっこんの文学を読まない若手作家の胎動を生み出しているのだろう。

 かれらは作家になりたかったのではない、タレントか有名人になりたかったのだ。世間やマスコミから賞賛され、憧れられる人間になりたかったのだ。おそらくそうでなかったら、存在しないも同然なのだろう。マスコミによる認知はわれわれの存在の根源にそこまで喰いこんでいるのだと思う。

 「一億総評論家」といわれた時代もあったが、現在は「一億総作家」の時代になろうとしているのだろう。人間は自分を認められたい存在である。ちっぽけで見向きもされない人間にはなりたくない。かつてはモノによって認められようとした人たちは、自分にしか創れない書くという行為によって認められようとしているのである。

 社会は人々のそのようなニーズの多い欲求を満たしてやるべきだろうし、確実にそのような方向に進んでゆくことだろう。書くことの評価や賞賛のシステムが必要になることだろう。根本的にわれわれは認められたい存在である。たぶん手段や方法はなんでもいいのである。社会が大きくなり、モノが満たされる世の中になると、創作という方法が必要になっただけだ。そのニーズを早く組み込むことのできる社会が必要なのだろう。





 ■自転車通勤の光と影              2005/9/13

 

 この三年ほど、自転車通勤で会社に通っていたけど、バイクにのりかえようかなと思っている。片道約8km、40分の道のりは疲れているときはさすがにしんどい。

 自転車通勤はものすごく気楽である。自転車で通える距離に会社があるのである。通勤時間は大幅に節約できるし、すしづめの満員電車に押し込まれることもない。電車で職場の人に出会う気まずさもない。

 ふつう大阪郊外に住んでおれば、通勤時間は一、二時間はあたりまえの世界だろう。私はそこまでしていきたい会社をもう見つけることはなくなった。ほとんどパート主婦の近所の職場と同じ感覚である。

 さわやかに晴れている日は自転車通勤はとてもここちよい。川べりのジョギング・コースを川と空と風を感じながら、すいすいとこいでゆくことができる。距離の苦痛もそんなに感じることはない。

 ただ雨の日と冬の日々は最悪である。雨はカッパを着ていても中に浸透してくるし、冬の寒さはまるで氷の海を泳いでいるような厳しさである。でもやっぱり電車に乗ることを考えれば、自転車の気楽さは手放しがたいのである。

 電車というのはゆいいつの公共空間だと思う。世間のいろいろな人に出会うから、世間とつながっているという気持ちを味わうことができるし、私の場合は読書と、帰りに本屋に寄る楽しみがあった。たまたま、いまはかなり迂回しなければならない電車より、自転車のほうが早いから、自転車で通うことになったのである。読書と本屋の楽しみはなくなったけど、家には早く帰れるようになった。

 ただ仕事で疲れているときはさすがにペダルが重い。原付はスクーターは格好悪いと思うが、ふつうのオートバイ・タイプならまあまあいいかなと思う。といっても私は原付免許すらもっていないのである。試験の勉強をしようと思っても、なかなか本を読む気が起こらないし、頭に入らない。

 おまけに50ccのオートバイって小っこいのだな。ほかのオートバイと比べたらかなり見劣りする。商品というのはそうやって序列をつくって人に高いモノを買わせようとするのである。またオートバイの世界とピープルって独特だと思う。なんだか「オレたちはカッコいいんだぜ」、「ワルなんだぜ」みたいな雰囲気の世界に入るのもいやだな〜。

 しかし私の夢は通勤のほかにキャンプ・ツーリングがある。大自然の中で気が向いたところにキャンプを張って、いろいろなところを走り回ってみたいのである。ネットで見ていたりしたら、「たまらないー」と思ってしまう。はやくバイクに乗れるようにがんばりたいと思う。

 必ず受かる原付免許のとり方
 

 頭に入らない!





 ■『女王の教室』と世間の悪             2005/9/17

  『いい加減、目覚めなさい』

 『女王の教室』の最終回をみた。かなりよいドラマであったと思う。ただ終わりのほうに見せ場とかどんでん返しとかなくて、鬼教師の過去やこのような教師になった経緯とか理由が説明されなかったのは残念であった。

 この真矢先生というのは、意図的に世間の悪を体現してみせた教師ということになるのだろう。生徒たちが世間の悪や不条理に立ち向かう術や勇気を与えたのである。

 対する現実の教師は、世間の理想や夢を与えようとやっきになっており、まるで現実を隠蔽するかのようになっている。というか、ほとんど平等や民主主義をプロパガンダする「メルヘン学校」になっている。でも子どもたちだって、すでに学校空間において、そんなのはありえないと理解しているのだと思うが。

 ただ、悪を体現する教師はドラマとしてのメッセージの力はあると思うが、現実にはこのような権力者はぜったいに許すべき存在ではないと思う。しつけや教育のために暴力を正当化する輩はいくらでもいる。これを許したら、児童虐待だって正義になってしまう。

 厳しさを教えるのは人為的なものであったら反発を生むだけだが、状況的な厳しさは人を学ばせると思う。私も経験上、人為的な強制はだれが屈するかという怨念を生み出すだけだったが、状況的なものには学ぶものがあったと思う。人はこういうときにこそ、ほんとうに学ぶのだと思う。

 『女王の教室』はメルヘンを教える学校に対してのアンチ・メルヘンであったわけだ。平等や民主政治は学校で教えるようにまともに通用しているわけなんかないし、人間社会は権力や政治力で人が虐げられたり、おとしめられたりするところである。理想や夢を教える民主主義教育ははたして子どものためになっているんだろうか。キレイ事を痛快にブッ壊してくれるドラマであった。

 それにしても、意外なことにこの数年間、ドラマの名作に出会うことが多くなった気がする。個人的な好みであるが、この『女王の教室』や『僕と彼女と彼女の生きる道』、または『砂の器』、『天国の階段』(日本版)といった心を揺さぶる名作に出会った。

 上っ面のトレンディ・ドラマが消えてくれたおかげで、あるいはOLのウケを狙ったヒット作が消えたおかげで、芯の強い心に残る名作は着実に生み出されているんだと思う。じつは若い女性向けのヒット作が、ドラマの質を落としていたのかもしれない。

 ▼ファイルの最後のほうにも感想あります。(直でなくてすいません。)
 050703断想集 「優劣論」としての知識 2005/7/31 『女王の教室』は権力の寓話である
 050520断想集 「文明」という優劣基準 2005/7/2  ドラマ『女王の教室』と不平等社会





 ■滋賀県の蓬莱山にのぼってきました。        2005/9/18

 

 蓬莱山(ほうらいさん)はびわこバレースキー場で有名なところ。山から琵琶湖をながめてみたくなったのですが、くもっていて、対岸までは見えませんでした。ここはくっきり晴れた日にのぼるべき。

 堅田からバスでのぼって、一時間は急坂ばかりでものすごく疲れ、尾根道は平坦で楽だったのですが、ハエとはねアリの大量発生で、アフリカのウシ状態。休憩どころではなかったです。ファミリーでいっぱいのびわこバレーではぱったりいなくなったのがふしぎ。殺虫剤をコーティングしているんでしょうか。スズメバチも怖かったです。九月、十月は繁殖期らしいので気をつけましょう。

 それにしても、滋賀県の女子高生のスカートは短い。校則なのか、流行なのか。不良なのか。

 ▼ガイドブック(お世話になっております。)
 関西日帰り山歩きベスト100
 






 ■ギャル系はなぜ早婚なのか
  
生存戦略の違いはなぜ生まれるのか        2005/9/21

 なぜある人はエグセグティヴをめざしたり、ある人はヤンキーになったり、またはフリーターになったりするのだろう。なぜ女性のある人は専業主婦をめざし、ある人は男のように働こうとし、ある人はふつうのOLをめざそうとするのだろうか。

 三浦展の『下流社会』の「階層化による消費者の分裂」を読んでいて、ふと思った。三浦展は消費者の分裂を、女性は、お嫁系、ミリオネーゼ系、かまやつ女系、ギャル系、ふつうのOL系にわけた。男性は、ヤングエグセクティブ系、ロハス系、SPA!系、フリーター系にわけた。

 たとえばギャル系というのは渋谷にいそうなハデな女性だが、けっこう専業主婦願望が強く、早婚である。これはヤンキーのタイプとまったく同じである。親や学校に反抗することがそのまま家庭や子育てに直結するのである。なんかこのタイプの繁殖戦略は遺伝子にくみこまれているという感じがする。さっさと「上って」しまうのである。でも若くして子育てするから暮らしはキツく、つぎの代にも生き方は遺伝するのである。

 エグセクティブ系とかミリオネーゼ系というのは、キャリア志向である。ステータスを好み、人がよい、ほしいと思ったものをほしがり、文化的・創造的な趣味は弱い。世間体のマシーンみたいなタイプである。高所得なのだが、労働マシーンのように生き、外側の甲羅を飾ることだけに熱中する中身のない人間だという気がする。アイデンティティを世間におくからいいように世間に使われているといえなくもないが、稼ぎはいいのである。世間受けすることが最適生存戦略であるという遺伝子をもっているのだろうか。

 私は趣味や自分らしさを最高と思う人間だから、完全にフリーター系だ。かまやつ女系というのも手に職やアーティスト志向をもつので、フリーター系にのりいれているのだろう。趣味や自分らしさにこだわる人間は企業社会で食いっぱぐれやすく、三浦展はこれから下流階層におちぶれるといっている。

 趣味や自分らしさをあらわすことがこのタイプの生存戦略なのだろう。でないと生きている甲斐がない。計画性や将来展望も弱い。そんなものより大事なのは自己表現である。このような自己顕示がおそらく異性獲得になんらかの利得をもたらしたのだろう、かれらは必死に自己をほかから異ならせようとするが、おかげで稼ぎが得られない。このタイプは自己顕示のために死滅してしまうタイプなのだろう(笑)。でもそのような存在は文化的な創造力で経済の源をつくってゆくのだろう。

 女性のお嫁系は専業主婦志向で、いまだに年収一千万の医者とか弁護士と結婚したいといっている。現実感覚のなさが特徴で、たぶんそれが女のチャーム・ポイントなのだろう。子どもを生み育てるふつうだが、当たり前の生き方を強烈にのぞむのである。私にはこのような女性のはがゆさが信じられないが。でもこれが人間の生きる王道なのはまちがいない。シンプルな女性の生き方は、ゆるぎなく彼女たちの子孫を繁栄させるのに役立ったのだろう。

 ロハス系はスローライフ志向、SPA!系は仕事をするしかないタイプ、またはふつうのOLといったごくふつうの生き方を目指そうとする人たちが世の中の大半を占めるのだろう。かれらは世の中の中庸をめざす。たぶんかれらは左をみて右をみて上下をみて、中央に位置する生き方を本能的に、遺伝的にもっているのだろう。道を外さないのがいちばん安全な生き方だと知っているのだろう。ただ時代に翻弄される弱みはあるのだろう。

 人はそれぞれの生存戦略をもち、先祖からひきついだそれによって生きてゆくものだと思われる。もちろん時代や本人の性格によるものも大きいだろう。われわれはその戦略によって人生の目指すところが異なるのである。それは種族の違いくらいの差があるのかもしれない。こういう生き方の違いが、遠い未来に種の分化を生み出したりしちゃったりして。





 ■『電車男』、『黄泉がえり』、落武者。            2005/9/23

 『電車男』は感想を書くのがむずかしい。ネットの距離感を冷静に語りにくいからだ。

 ドラマではじめて接することになったが、シンプルな感動物語であると思った。純愛物語と友情物語がたいへん感動を誘った。毎週みていました。

 初恋が成就すること、人と人が信頼しあうということが、原初的なかたちで描かれていて、それは人として生きているからにはたいへん感動的な物語であるわけで、それは恋愛でも、ネットの住人とでも共有され、感動をよんだのである。

 ただ伊藤美咲が積極的に電車男に惚れる理由の説明がとぼしかったような気がするが。完全に伊東美咲が「上」の人間である気がしたが、まあ恋愛でも女が「下」の人間に惚れるということもあるわけで。でもなんだか主体性のない女性にみえたが。初恋のときの理想化された女性というものをひさびさに想い出した。

 オタクが女性とつきあえるのかが物語の大きな柱であったが、男と女の趣味がちがうのはとうぜんのことである。たぶん双方理解できない。オタクは恋愛市場への立てこもりであるから、その反発ってかんたんに癒せるものなのかなあと思った。

 そしてこの物語はネットの時代を宣伝する物語でもあった。地理的にも、関係的にも関わることのない人たちがネットでつながる時代がいまやってきたのである。これは歴史上すごいことである。その感動や共感を『電車男』は高らかに謳いあげていたわけである。ただネットの共感物語を無条件に讃美する気にはなれないが。


 映画『黄泉がえり』は感動したなあ。なんだかひさしぶりに作品世界にずっとひたりたくなった映画であった。竹内結子がじつは黄泉がえりだったなんて、うまいつくりであると感銘した。

 「失うことではじめてわかる大事なものを大切にしなければならない」――この映画は死人が甦るという不思議な現象をとおして、そのことを痛切に訴えているのだろう。


 落武者。おもしろすぎ。『水10!』の番組。笑いのツボにひさしぶりにハマってしまった。

 それにしても落武者というのは、なんでこんなにおぞましくて、気持ち悪いんだろう。哀れさもひとしおである。

 笑いはこの哀れさをもとに、そのみじめさと、臆病さをあぶりだして、われわれにおかしさをもたらした。ビビッている人間を笑うおかしさである。タイの陸軍特殊部隊でのフィクションともノンフィクションともしれない構成が緊迫をもたらした。ひさしぶりに腹をかかえて笑った。「『ぷっ』すま」の記憶絵心テスト以降だ。





ご意見、ご感想お待ちしております。
 ues@leo.interq.or.jp

ALWAYS 80'S

 80年代ミュージックを懐かしもう。

 『透明な音楽』 S.E.N.S 
ドラマの名曲がたくさん。

 『Themes』 ヴァンゲリス
 

神秘的な曲。

 『SAND CASTLE』 浜田省吾
 

どろどろのバラード。

 『Like a Virgin』 マドンナ
 

やっぱりインパクトがあったな。

 『リメンブランス・デイズ』 ドリーム・アカデミー
 

さわやかなさみしさ。

 『ヒッツ!』 ボズ・スキャッグス
 

オトナのバラード。

 ラヴ・ミー・トゥモロウ (シカゴ16)
 

バラードの名曲。

 『フォーエヴァー・ラヴ ~ヒストリー・オブ・エア・サプライ 1980〜2001』
 

さわやか〜。

 『Gold』 アバ
 

『ダンシング・クイーン』で泣ける。

 『グレイテスト・ヒッツ』 クィーン
 
 
『地獄へ道連れ』がイチバン。

 『グレイテスト・ヒッツ』 ベット・ミドラー
 

陶酔的な曲。

 『Cry Like a Rainstorm, Howl Like the Wind』 リンダ・ロンシュタット
 

『ドント・ノウ・マッチ』 名曲。

 『99 Luftballons』 ネーナ
 
あどけない顔のわき毛が。

 『Listen Like Thieves』 インエクセス
 

マイケル・ハッチェンスのかっこよさ。

 『Hits』 フィル・コリンズ
 

『アゲインスト・オール・オッズ』は最高のバラード。

 『スクリーン・テーマ BEST 〜NHK3万人リクエストによる映画音楽大全集』
 

名作と名曲ぞろい。

 『スリラー』 マイケル・ジャクソン
 

すごかった。

 『ベスト・オブ・アラン・パーソンズ・プロジェクト(2) ライムライト』
 

バラードがものすごくいいんだよな。

アンモニア・アヴェニュー アラン・パーソンズ・プロジェクト
 

あたたかい『ドント・アンサー・ミー』 ビデオがよかった。

 『フラッシュダンス』 ― オリジナル・サウンドトラック
 

流行りましたよね〜。

 『シングルス 1969〜1973』 カーペンターズ
 

心の詩ですね。

 『サイモン&ガーファンクルのすべて』
 

うん。名曲がたくさん。

 『愛と青春の旅だち』
 

テーマ曲は最高。

 『ニューヨーク52番街』 ビリー・ジョエル
 

『オネスティ』が入ってるよ。

グラス・ハウス
 

『ガラスのニューヨーク』 タイトルが曲の内容と違うような?

ストレンジャー
 

哀愁の口笛と『素顔のままで』

パープル・レイン プリンス
 

いい曲は多かったけど、キモかわいい?

フープラ スターシップ
 

『セーラ』は名曲だったなぁ。

Can't Slow Down ライオネル・リッチー
 

バラードが名曲ぞろい。

レフティー アート・ガーファンクル
 

感動的な名アルバムと思う。

ザ・ベスト・オブ・アート・オブ・ノイズ
 

バック・ミュージックにもってこい。

MCMXC A.D. エニグマ
 

グリゴリオ聖歌のロック調にブッたまげた。

ベスト・オブ・ジェームス・テイラー
 

ピクニックみたいな唄。


▼感想のほうはこちら。
 80年代ロック&ポップス・メモリー 2005/7/2
 やっぱり80年代ロックだぜ!

 リクエストがあればまた感想を書いて見たいと思ったりして。



   
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