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 ■050703断想集 「優劣論」としての知識



 ■いま、考えていること。        2005/7/3

 さいきん考えているのは学問や知識の政治性ということである。自集団の優越や他民族の劣等を正当化づけるような知識や学問とはいったいなんなのだろうかと思っている。

 それにはヨーロッパ植民主義の歴史がおおいに参考になると思ったのだが、これがまた安い本で手に入る植民主義の歴史がかなり少ないのである。ヨーロッパ植民主義の歴史こそが西洋近代の歴史にほかならないし、文明の本質を告げているものだと思われるのに、なぜこの啓蒙書が少ないのだろう。

 学問はその植民地あるいは侵略の歴史に連動してきた。というよりか正当化や承認の役割をはたしてきたのである。それは科学の根拠とする客観性や中立とほど遠い、自文化優越主義や、または自己中心的な考え方とまったく変わらない。

 ヨーロッパの知識人は自分たちの文明や文化を最高価値とする考え方を強くもった。そこから他民族を段階的に序列づける進歩史観や発展史観がうみだされ、その知識は文明化の使命という強圧的な慢心をうみだすにいたり、世界各地の民族や原住民を侵略・殺戮するための正当化に利用され、または未開民族を奴隷として大量に売りさばいたりした。

 科学知識は自文化優越主義を正すばかりか、もっと強く増長させ、他民族を蹂躙させてきたのである。これは自己中心主義を拡大させたものにほかならない。科学知識はそんな偏重的な視野からさえ抜け出せていないのである。

 ダーウィンの進化論やスペンサーの社会進化論がそれらの思想をもっと増長させたのにほかならないのに、社会政治的にそれらの思想を批判した研究もあまり見かけることがない。どうなっているんだろと思う。なぜ生物学の政治性はもっと問われないのか。おおいに問題だと思う。

 私がいま考えたいと思っていることは学問や知識がいかにあてにならないかということだと思う。自己中心的で利己的な見方からいかに離れられないのか見極めたいと思っているわけである。学問の客観性や中立性を問いたい。それにはヨーロッパ植民主義と学問の関係性がおおいに参考になると思うのである。

 あと、自集団はいかに自己の優越性をつくりだすかということにも興味が分散している。自集団はなぜ優越と劣等を必要とするのか。なぜ自集団はそういう序列階層を求めてしまうのか、その問いもいまの試行錯誤の中に含まれている。学問知識も自己の優越主義からは抜け出せないのだろうか。それなら客観的な知識とはいいがたいのである。





 ■序列と差別をうみだす生物学・人類学について       2005/7/5

 人間は知識や学問に真理や客観性など求めていないのだろう。なにが優れていて、なにが劣っていて、序列はどうなっているのか、ということだけを知りたいのではないかと思う。

 学問には分かちがたく価値序列の問いがこめられていて、私たち一般人はそこから優劣価値の配列を知るのだろう。

 たとえば生物学なんて「人間」や「知能」を頂点におく考え方が根底にあり、罵り言葉があらわすように、「単細胞」や「ケダモノ」「サル」「ブタ」といった生命は下等なものだとされる。全生命は人間の知識によって優劣ランクが決められるのである。

 人類学では劣った類人猿から高等なホモ・サピエンスに進化してきたとされる。類人猿は人類にくらべて劣っているという価値基準を付与されるわけである。その前提にあるのは知能や文明、あるいは道具や言語の使用を最高価値におくドグサがあるわけである。

 そういう最高価値は無条件に最高なものなのかと問われることがあるのだろうか。そして最上なものをつくってしまうがゆえに序列やランクができ、侮辱や差別、ときには暴虐がくりひろげられるのである。

 人類学では西欧文明を文明や知能という基準で最高な価値と前提にしてしまったから、人種差別がおこり、植民地支配が正当化され、虐殺や絶滅政策までおこなわれたのである。

 われわれの知識というのは知らず知らずのうちに優劣基準を求めてしまうものである。なにが優れていて、なにが劣っているか、自分たちの無条件の最高価値という基準によって裁断されるのである。

 そしてその暗黙の前提が問われることはまずない。その暗黙の前提というのはたいがい自分たちに好都合なもの――つまり自分たちが最高度にランクされる自己中心的な基準を採用するものである。あとは武力の後ろ盾があれば、だれにも文句はいわれない。

 学問や知識が客観的科学とよばれるためにはまず無前提にある優劣基準というものをすべて抜き去らなければならないだろう。それは科学とよばれるものではなくて、たんなる偏見と優越欲望でしかない。学問というのはその歴史を見ていると、この前提すら抜き去っていないように思える。

 優劣価値という人間が無前提に持ってしまう欲望――これこそ知識や学問を求める前に問われなければならないさいしょの問いではないだろうかと思う。





 ■「優劣論」としての知識        2005/7/9

 人が知識に求めるのは真理というよりか、優劣基準を見出さんがためではないかと思う。知識はなにが優れていて、なにが劣っているのかの基準や配置を知らせるのである。われわれが知識に求めているのは「優劣体系」ではないのか。

 進化論も生命の進化論というよりか、「優劣論」と読みかえたほうがぴったりくるのではないかと思う。人間は他生物にくらべて卓越しており、他生物は下等であり、生命は人類という頂点にヒエラルキーづけられるという優劣論を展開しているのである。

 そういう優劣論は人類という種が他生命にくらべて優越していなければ困る。人間の卓越した特徴として「知能がある」だの「言語能力がある」だの「直立二足歩行」だの「文明構築能力」だの、そういった特徴が必死にもちだされてくるのは人間が他生命にくらべて劣っていないということを明確化するために必要なのだ。劣等の恐怖はたえず払拭されなければならないのである。

 進化論は社会理論と結びついて、ヨーロッパは文明と先進国の最頂点であるという優越理論をうみだした。各国はヨーロッパ文明国を頂点に序列づけられ、最底辺に動物のように暮らす未開民族が布置された。

 民主主義という政治体制も優劣論に組み込まれ、劣等な封建制や王権制をとる国は劣っているとされ、あるいは歴史時代の遺物とされ、すべての国は西欧の政治体制に段階的に向かわなければならないとされた。優越しているのは西欧だからすべての国は支配される必要性があるのだとこの優劣基準は宣告するのである。優越者のとんでもない思い上がりであり、しかも客観的・中立的科学がそれを正当化づけてきたのである。

 知識は世界の中に優越を探す。たとえば歴史には、「高度な文明」だの「強大な帝国」だの「文化的に優れた国」だの「国家統一をなしどけた人物」だの、優越し、卓越したものが見いだされ、研究され、記述される。優越したものが追い求められるわけである。

 われわれは優越しなければならない。さもないと人からバカにされるかもしれないし、仕事にありつけないかもしれないし、異性にモテないかもしれないし、集団ではライバル企業に顧客を奪われるかもしれないし、地域は没落するかもしれないし、国家間では収奪や侵略がおこなわれるかもしれない。

 そういう優越願望は世界に投影される。偉大なものが世界中から知識として集められる。優越したものが知識として所有されることはひとつの安心をもたらすのである。「私」は高度な文明や卓越した大帝国の知識を所有することにより、語ることにより、「私」は他者からの優越を手に入れるのである。「私」の不安は解消されるかもしれない。

 知識は優越をめざす。たとえば日本国という集団は文化や歴史において優れていて、文明的にも早いものでなければならない。さもないと劣等の恐怖からは逃れられないからだ。万葉集や茶道や仏教建築がもちだされ、文明化の痕跡が地中の中から掘り出される。自国家はいかに優秀であり、いかに早く文明化していたか、あらゆる優越理論がひっぱりだされてくるわけである。劣等は「われわれ」を恐怖させるのである。だから知識の中においても優越していなければならない。

 優越は劣等を絶対的に必要とする。なぜなら劣等がないことには優越の区別はできないからだ。優越には暗黙に劣等が前提されている。あるいはもっとあからさまになれば、劣等への軽蔑や侮蔑がおこなわれる。さもないと「われわれ」は劣等からは優越しないからだ。劣っているものが明示されないと、「われわれ」は優越することはない。

 知識はそのなかに優劣基準を求めてきた。われわれはすぐにそこに優劣基準を読みとるのだが、人間のそのような欲望が問われたことはあまりないように思われる。優越願望とはなんなのか、優劣意識がもたらしてきたもの、そしてその克服がめざされた研究はなされてこなかったように思われる。科学は優劣と劣等を布置づけてきただけであり、助長してきただけである。心理学は劣等感の本はたくさんあるのだが、優越感の本は少ない。

 われわれはこの優劣意識や基準というものを問い直さなければならないと思う。知識や科学の中にいかに優劣基準が布置されてきたのかも見いださなければならない。優劣論のなかにこそ、人間の過ちが凝縮されているのではないかと思う。なぜ問われてこなかったのか。





 ■80年代のラジカセ物語             2005/7/11

   私の愛蔵カセット・テープ

 ラジカセが修理からもどってきた。うれしいからラジカセについてひと言。

 80年代に音楽を聴いていた学生にとって音楽はカセット・テープだった。FMラジオからエア・チェック(録音)したり、レンタル・ショップからCDを借りてきてカセット・テープに録ったりしたものである。

 驚くことにいまのラジカセにはテープ・デッキがほとんどなくなりつつあり、MDが主流になっている。これまで録りためたカセット・テープはいったいどうしたらいいというのだろう。技術は進歩するのはいいけど、むかしのソフトで聴けなくなるのは音楽愛好家への冒涜である。

 FMラジオからエア・チェックするのはなかなか苦労したものである。『FMステーション』などの雑誌を買ってきて、お気に入りの曲がかかるラジオ番組をチェックして、DJの声が入らないようにスタンバイしたり、ほかの曲が重ならないようにと、いろいろ気を使ったものである。そんなに時間と手間をかけたカセット・テープが聴けなくなるなんて、たいへんな損失である。MTVからも録ったりしていたが、容量の多いテープは伸びたりして、すぐ聴きづらくなってしまった。

 レンタル・ショップからレンタルして録ったカセット・テープも多いのである。CDは二、三千円もするから高くてしょっちゅうは買えないのである。というか、ほとんどはダビングしてカセット・テープで音楽を聴いていた。当時のヒット・アルバムというのはたしかにいまでも聴きたくなるということは少ないけど、たまには懐かしさを味わいたいのである。そういうときにハードがなければ、もう聴くことができないではないか。

 コンポは16万もかけてもっていたことがあったが、故障してもなかなか買い換えるふんぎりがつかなくなるから、故障してもすぐに買い換えられる安いラジカセのほうがいいと思うようになった。音質や迫力は私はほとんどこだわらないのである。

 パソコンで音楽を聴くという発想は私にはなかった。スピーカーが小さすぎて、音楽を聴く迫力がまったくないのである。ラジカセがつぶれたときにだけパソコンで聴いていただけだった。TVはパソコンで見るようになったが、音楽もパソコンで聴くような時代になるのだろうな。

 テープ・デッキがなくなる前に私の愛蔵カセット・テープをCDにぜんぶとりこまなければならないと思う。パソコンやiPodに入れておくことができるのだろうか。手間と時間がかかりすぎるから、おっくうなのだ。

 こんなふうにして若者は年をとるにつれて音楽を聴かなくなってゆくのだろうか。十代の音楽がなければ一時も過ごせなかった私にとって、まるで音楽を聴かない親の存在はふしぎなものだった。だけどいまの私は十代の頃のように音楽にかじりつくということはなくなっていったのである。時代は早鐘のように去ってゆく。。。





 ■検索で訪れてくる人について       2005/7/16

 なぜか村山節の「東西文明800周期説」で検索してくる人が多い。800年ごとに東西文明のピークが入れ替わり、これからはアジアの時代になるというものである。なぜ検索してくる人が多いのでしょうか。

  日本人であることの優越感を満足させてくれる仮説であるが、文明の繁栄をそう単純には割り切れないと思う。ある時代にひとつの文明だけが繁栄を誇っていたとはいえないと思うし、繁栄というモノサシ自体が疑わしい。

 日本人は世界の中心になるという価値観や優越感を捨ててほしいものである。たとえばオリンピックで金メダルをとるために身も心もぼろぼろになるような人生を、ふつうの市民は望んでいるのかと聞いてほしいものである。そういう優越感のために人生の多くを失いたくないと私は思うのである。

 検索の話のついでだが、このサイトへは大学から来てくれる人が多い。東大や早稲田や慶応なんか、私がぜったいに行けなかった大学から来てくれるのはたいへんうれしい。教授か学生かはわからないけど。

 それにしても大学っていろんな名前の大学があるものだなと思う。私は全国の大学名をほとんど知らないから、アクセス解析の「〜-u.ac.jp」というドメインでそれが大学名であることを知るのだが、全国にはいろいろな大学があるのだなと思う。

 私としてはこのサイトはふつうの社会人が多く見てくれることを希望するのだが、思想や読書や社会科学はそういう一般の人がもっと興味をもってほしいと思うのである。こういう好奇心というのは、映画や情報番組や音楽を楽しみにする気持ちとほとんど変わらないと私は思っているから、ぜひとも敷居を感じないでそういうことに興味をもってほしいと私は願うのである。

 この社会はどうなっているのかと知ることがいちばん必要なのは社会人であるはずなのに、学校にいっている学生たちしか学問に興味をもたないというのはかなりまちがっていると思う。学問というのはニュース番組や情報番組以上に社会を知ることだと私は思うのだが。



 ■きのうは東大阪市にある大阪府立中央図書館にいってきた。近代的で豪華な建物で、空間もかなり広々としている。資料もかなり揃っている。府立中之島図書館みたいに狭くない。

 

 それにしても地下鉄中央線と近鉄の二倍料金がむかつく。もよりの荒本駅に行くには、中央線と近鉄の初乗り料金を払わなければならないのである。サギみたいな気分である。

 荒本駅付近にはカルフールというたしかフランス資本のショッピング・ビルがあって、郊外のだらけた雰囲気がただよっていた。人気はあるみたいだったけど。エスカレーターが階段型ではなくて、スロープ型だったのは驚き。ショッピング・カートのまま上れるのである。おおお、倒れる〜。で、もう撤退?        2005/7/17




 ■まあ、いちおう紹介しておきますが、神戸市立博物館でやっている「ベルリンの至宝展」をみてきた。人がかなりいっぱいいたので、じっくり鑑賞できなかった。10月10日までやっています。

  

 私の印象としては、ヨーロッパを崇拝する人がまだまだたくさんいるんだなと思った。美術を愛好するという価値は私にはよくわからない。ボッティチェリの『ヴィーナス』やマネの『温室』を見られたのはいいことだったのか。私としては古代エジプトの石の図版やメソポタミアの黒いウル像?が見られて感動だった。

 私はヨーロッパの「泥棒」博物館として見たかったのだけど、この展示品のどれだけがヨーロッパの強権的権力を背景に奪われたものなのだろうか。

 いちばん感動したのは空いていた常設展にあった杉田玄白の『解体新書』の初版が見られたことだった。洋学はここからはじまったのである。

 私としては国立民族学博物館のほうが想像力がふくらんで好きである。世界の民族のさまざまなものが集められている。昼過ぎからでは全部は回れないほどじっくり見てしまう。万博跡には太陽の塔がまだ立っている。       2005/7/18





 ■読書感想文なんか書けなかった十代のころ      2005/7/23

 いまでこそ私は週に2、3冊は本を買いこんでおくほどの本好きになったが、十代のころは本なんかまったく読めなかったし、読書感想文も支離滅裂なものしか書けなかった。

 ことしも夏休みの季節がやってきて、新潮文庫角川文庫集英社文庫の夏の100冊が広告をにぎわすようになると、なにも読めなかった十代のころを憶い出すのである。

 活字の想像力がまったくなかったのである。小説を読んでいても場面やシーンをひとつも思い浮かべられなかった。本なんか読めなくても、マンガやTVや映画というもっと魅力的なメディアがあるのだから、まったく必要なかったといっていいと思う。世界を知るにはこれらで十分だったのである。

 私が活字を本格的に読めるようになったのはようやく20歳過ぎだった。村上春樹の『ノルウェイの森』や『漂流教室』の小説版を読んで、小説ってこんなにおもしろいものなのかと思わせてからである。それでようやく現代作家の小説や海外名作の本をかたっぱしから読むようになった。哲学書を読むようになったのは、謎や疑問を解き明かすという方法を知ってからである。

 十代のころは小説が必要なかったのである。学校で教えられるような名作古典もなおさら少年の世界には関係のないもので、抵抗感を増しただけだった。年齢には年齢にあったメディアがあればいいのであり、むりに活字を強制することは活字嫌いをうみだすだけである。

 子どもにはマンガというものすごく魅力的なメディアがあるのだから、学校が古臭い活字至上主義にこだわらないで、マンガという世界観の読解方法こそを学ぶべきである。そのほうが現代少年の感受性や想像力を広げるには正しい試みだと思う。学校はアーミッシュみたいに時代の拒否をしているとしかいいようがない。

 大人になってから活字を読むようになる人と、まったく読まなくなる人もいると思う。いわば読書や知識に価値や可能性を見出せるかどうかだと思う。たしかに活字でしか表現できない世界はかなり広大なものであり、それは映画やテレビではぜったいに学べない世界観を提示しているのであり、この欠落はおそらく社会や自己の理解の妨げになり、過ちや失敗の壁になんどもぶつかる一因をつくってしまうことになるだろうと思う。

 知識や読書はしょせんは優越感の道具といっていいかもしれない。豪邸やブランド品や車のような人より優越していることを知らせるための道具にしか過ぎないかもしれない。ただ知識の優越感はそれすらも客観や批判する視点を手に入れる契機にもなれるもので、ほかの優越の道具よりためになるとは思うが。

 私がもし十代にもどるとしたら、十代の読書は古典名作より、小説のおもしろさを知るために冒険小説やSF小説を読みたいと思う。子どものころというのは世界の神秘や謎に魅かれるものであり、そういう醍醐味を味わせてくれるのはやはり冒険やSFである。まちがっても古典名作の日常のビョーキみたいことには興味が向かわないものである。

 十代のころは小説なんか読めなくてもいいと思うが、知識や読書には価値や可能性があると覚えておいてほしいものである。本を読まない大人は過ちや失敗から学べないだろうと思う。ただ小説から学ぶものが多いかは私にはわからないが。





 ■『女王の教室』は権力の寓話である。       2005/7/24

  

 ■『女王の教室』は、さいしょは平等社会のウソっぽさを告発するドラマだと思っていたが、第四話まで見終わって、これは完全に理不尽な権力者をあらわすドラマに思えてきた。

 はじめは成績の悪い生徒に罰をあたえるものでしかなかったが、ドラマが進むにつれ反抗・抵抗する生徒には徹底的に罰をあたえるという姿がみえてきた。仲良し共同体を志向する生徒にはいじめのような暴力が加えられるのである。

 これは権力論であり、政治学である。実社会の権力というのはこのように理不尽なものであり、恣意的なものである。つまり判断や論理というものは権力者のさじ加減ひとつでつくられるということである。

 これが社会のほんとうの姿というものである。とくに企業社会とはこのようなものである。権力をもった者とはこのような非合理な力をもつものである。

 政治では平等や民主主義が謳われて現代はしごく平和な世界に思えてしまうのだが、企業などの社会では理不尽な権力構造がまかりとおっているというのがごく当たり前というものである。『女王の教室』はその権力のありさまを如実にあらわしたドラマにほかならない。学校のいじめはこのような構造からうまれるものである。

 番組のBBSには一万二千件の賛否両論の声が寄せられ、打ち切りをのぞむ声も多数あがっているが、人間社会の権力のほんとうの姿をあらわしたドラマは、目をそむけずに正視すべきだと思う。ウソっぽいタテマエ平穏主義はもういらない。「残酷の童話」のように社会のほんとうの姿をあらわしているのである。

 子どもにとってはキツイ話かもしれないが、将来に遭遇する権力の理不尽さを知るためのよい記憶になることだと思う。ドラマで見たシーンのような現実といつか出逢うことになるかもしれない。あるいは学校の教室こそ理不尽な権力構造がうずまいている空間ともいえるかもしれない。





 ■集団優越の神話         2005/7/31

 ことしに入って古代史や歴史学、イデオロギー論、植民地主義の歴史と考察してきたのは、集団の優越感についてである。自集団を優越させるために知識や学問はどのように利用されるのか考えたいと思った。つまり知識は自集団を優越させるためにどのように歪んで見せられるのかということを知りたかったのである。

 古代史や歴史を読んでいると、自集団の優越や優秀さばかりを見せつけられている気がしていやになった。個人的に自慢話ばかりする人はきらいだし、優越を見せつけるに人はその劣等さを見てしまうし、優越の陰にはかならず他者への軽蔑の感情がはりついているし、国家的には戦前の優越神話への警戒感があるわけだ。

 そもそも歴史とは「事実」をあらわすよりか、いかに自文化が優れているのかを示すモニュメントに過ぎないのかという懐疑もある。これは客観的な歴史というよりか、戦前の「皇国史観」と大同小異ではないかということだ。

 その優劣序列の暗黙の前提になっているのが、あまり人に意識されることがないみたいだが、「文明」という尺度である。つまりヨーロッパ的な物質文明を最高におく価値観である。この暗黙の至上価値にむかって、歴史の痕跡は前面に押し出されたり、序列づけられたりする。文明の進歩度合いという大前提のもとに歴史は拾い集められてくるわけである。

 歴史はこの大前提の価値観自体を意識したり、問うことがあまりにも少ないのではないかと思う。ヨーロッパ的物質文明が神のように崇拝されて、その善悪が問われることがない。すこしでも物質文明の神に近いものが評価されるのである。あまりにも当たり前の価値観になっているために、その無前提の価値観が忘れ去られているのである。

 物質文明という神は序列をつくりだす。もし劣っていたり、遅れていたり、未開や野蛮であったりすれば、神に近いヨーロッパが侵略や虐殺をおこなってもよいと正当化されたり、「文明化の使命」という美名のもとに支配されたりする。文明度に優越した国は、優越感の果てに世界中を支配し、あるいは暴虐のかぎりを尽くしてもよいと自らを正当化したのである。自集団優越主義の恐ろしさがここにあらわれている。

 植民地主義の時代に科学や知識はそれらの暴虐に貢献したのはいうまでもない。そもそも知識とは優越序列の道具自体ではないのか。ヨーロッパの白人は、アフリカの黒人やアジア・アメリカの黄色人種を劣等人種と見なし、支配や絶滅の正当化に利用された。「文明という優越感」は近代の世界中の大量の人種の殺戮をまねいたのである。

 このような事態にたちいった理由を探るには、根本に戻って、集団はなぜ優越や卓越を目指すのかという問いからはじめなければならないと思う。集団はなぜ競い合い、優越が目指されなければならないのだろうか。人間はなぜ自集団と他集団を区別しなければならないのだろうか。このような集団の競争の理由を探るには戦争論あたりにあるのだろうか。集団はなぜ競い合うのか、そのような考察をおこなった社会心理学の本はないものだろうか。

 いまのところの私の考察はこのあたりくらいまでである。知識や科学がいかに自集団の優越の道具になり下がっているか、このことをしっかりと頭に焼きつけて、これからは知識と対峙したいと思う。なにが科学だと思う。





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