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 ■050520断想集 「文明」という優劣基準



 ■「働きたくない」と貨幣経済       2005/5/20

   ブリューゲル『怠け者の天国』1567

 一日の大半を仕事に奪われ、何で自分の人生がないのかと私は思ってきた。もっと自分の時間や好きなこと、自分のための人生がほしいと思ってきた。

 働かなければメシが食えなくなるのはとうぜんである。われわれは貨幣経済の中に生きていて、お金がなければ食べ物も衣服もサービスやモノも買うことができない。貨幣経済の中で暮らしてゆくにはいくらかのお金をもたなければならない。だから私は働かなければならない。

 学生が終わるころまではだいたい親の庇護のもとで生きている。だからそれが当たり前になってしまって、働かなくともお金が手に入る環境にいる。親は働きたくないとも文句ひとつもいわずに機械のように働いているから、親のお金を当てにできる。しかしこれは一人前のオトナともいえないし、屈辱的ですらある。

 家を出るとすべての生活資金は自分で稼がなければならない。自分の時間がほしければ、働く時間を減らせばいい。しかし会社というところは人間の全時間、全人生を奪い取ろうとする。少ない時間で多くのお金を払うわけがない。少ない金で長い時間働かせようとするのが貨幣経済での会社のとうぜんの計算方法である。

 お金の経済というのはお金によって「他人のため」にサービスすることである。お金はともすれば「自分のため」だけに生きようとする人間を、お金によって他人に奉仕させようとするひじょうによくできた仕組みである。お金を必要とするためにわれわれはしたくもない他人への奉仕やサービスを強制的におこなわざるをえないのである。お金がなければ人はそんなことをしただろうか。

 この社会はなぜか必要最低限のお金を稼いだら仕事はしないといった方向に進まなかった。かわりに全人生を会社や仕事に捧げ、自分のための人生を失う。お金が増えればあれもほしい、これもほしいとなり、ステータスや高級品もほしくなり、しまいには健康保険や老後年金もほしいとなって、とうとう自分の人生を生きる時間をすべて仕事や他人のためのサービスに捧げることになってしまう。

 さいきん思い始めてきたのだが、日本人はナショナリズムや国家優越のために会社主義や労働主義をおこなっているのではないかということだ。日本国家の経済での優越を必要とするためにわれわれは労働や会社に人生を奪われなければならないのではないかと思う。日本が優越しているというイデオロギーのためにこの「勤勉マシーン国家」は止まる事ができないのではないのである。

 私はあまり働かずに少ない金で暮らす道を選びたかった。だが30代半ばを越えると求人はほとんどなくなってゆくのである。後は会社の長い時間少ないお金の計算方法に従ってゆくしかない。そして私は一日のわずかな残り時間で自分の楽しみを追い求めるしかないのである。

 貨幣経済が悪いのか、あるいは日本という国家や会社がわれわれから自分の人生を奪うのか。自由な時間、自分のための人生をとりもどせる時代はいつか来るのか。

 あるいは自分のための時間という考え方自体が貨幣経済の他人のサービスの魅力ゆえにおこる発想法なのであって、少ない稼ぎでは自分の時間などほしくなくなるものなのだろうか。他人のサービスを必要とすれば、私はもっと働かなければならず、そしてサービスを享受する時間さえ得られないというジレンマに囚われる。貨幣経済の欲望とは無間地獄のようなものである。





 ■「文明」と差別        2005/5/29

 無前提に「文明」をもつものが偉くて、「未開」なものが劣等なものだという認識が当たり前のように浸透している。たとえばそれは「先進国」や「後進国」という言葉にもあらわれているし、「都会」と「田舎」、「勝ち組」や「負け組」、「上流階級」や「下層階級」にも同じようなヒエラルキー(階層秩序)が込められているのだろう。

 「文明」という言葉や価値基準は、差別概念なのである。その優位基準があるために、劣位のものは貶められ、さげずまれ、差別され、抑圧される。

 さらにいえば、近代ヨーロッパはその「文明でない」ものたちを侵略し、虐殺し、支配してきた。「未開」で「野蛮」で「劣等人種」だから、「文明国」はそれらを自由に支配してもよいと正当化してきたのである。文明開化をとげた大日本帝国も朝鮮や中国に同じような考えをもったのはいうまでもないだろう。

 劣ったものたちは「優れた」自分たちが支配しようが、管理しようが、あるいは虐殺しようが自由なのである。自分たちが優れているからそれは認められるばかりか、文明を導くための「義務」とさえ思わせるにいたるのである。とんだ自分勝手な、迷惑どころではない優越基準である。

 「文明」という価値観はいったいなんなのだろう。先進的であり、高度であり、優越しているという「思い上がり」をもたせるそれはなんなのだろう。差別や排除や支配をもたらすその概念や価値観にはなにが秘められているのだろう。

 われわれだって「田舎」より「都会」に住みたいと思うだろうし、なにもない「田舎」をバカにしたり、「金持ち」に憧れて「貧乏人」をさげずんだり、「ブランド品」をもって「安物」をけなしたり、「知性」を誇って「低能」をおとしめたりするだろう。そういう優劣基準の大元みたいなものが「文明」概念なのである。

 「文明」を優越基準としたばかりに、差別や虐殺や侵略、植民地化はおこなわれてきたのである。「文明」というきらびやかな価値観はとんでもない「悪魔」としかいいようがない。無前提に「文明」は優れているという「イデオロギー」には染まりたくないものである。「文明」を反省せよ。





 ■『戦国自衛隊』の思い出       2005/6/3

 『戦国自衛隊』 4935e

 


 リバイバルされるそうなので、むかしの『戦国自衛隊』についてひとこと。

 79年に公開されたこの映画は好きだったなぁ。私は12才で、この年代に見る映画というのは、原体験になるくらい身体に染み込むものである。TVでやるたびに何度も飽きずに見た。

 なによりもほとんどの登場人物が死んでいってしまうことにそうとうの衝撃をうけた。いさましい千葉真一や反逆的な渡瀬恒彦、弱虫の男とか、それぞれ個性がきわだっていて愛着がわくから、みんな殺されるのはそうとうショックである。

 時代は彼らをどこにつれてゆくのか、どういう展開になってゆくのかまったくわからないから、ひじょうに引きつけられて見た映画だった。

 彼らは現代的な兵器をもっているがゆえに戦国時代の天下をとれると踏むのだが、戦国時代の圧倒的な兵力の前に彼らは敗退する。そして景虎の裏切りにより彼ら全員は殺されてしまう。生き残ったのは当時の女性と生きようとした男だけだ。

 タイムスリップものというのは、時間の中にはかなく消えてゆく人間の生を浮き彫りにするのである。だからものすごく悲しい余韻を人の中に残してゆくのである。歴史の塵となってゆく人生を如実につきつけるわけである。

 絶望的な物語であるが、だからこそ悔いのない人生を生きようというメッセージになりうるのである。

 ひさびさにリバイバル映画を見に映画館に足を運びたくなったが、『猿の惑星』のリバイバル映画はなんの良さもなかったので、どうしましょうか。

 ▼リンク
 Yahoo!動画 - 戦国自衛隊
 当時の予告編が無料で、本編は380円で視聴できます。






 ■おお、道頓堀が歩けるようになっている。ばっくり。     2005/6/6

 




 ■「文明」という優越感       2005/6/15

 文明に属する国民は優越感をもち、非文明国を蔑視し、差別し、ときには教授したり、侵略したりする歴史がくりひろげられてきた。文明という概念は「人間」と「人間でないもの」をつくりだし、支配や侵略、虐殺の正当化の理由にもつかわれてきた。

 「文明」という言葉はものすごい裁きの言葉なのである。

 「文明」というものはなぜそこに属するものたちに過剰な優越感をもたせ、そして属さないものを蔑視し、生殺与奪の権利まで与えられたように思わせるのだろう。

 「文明」というのは優越意識の塊である。神や暴君に近い権利意識まで与えうるものである。そのなかに知識や科学がふくまれているのはいうまでもない。知識の優越意識が蔑視や暴君のような権利意識を与えるのである。

 文明はなぜ人びとにそのような尊大な権利意識や優越意識を与えるのだろうか。強大な権力や武器をもつがゆえにもたない者たちを自由にする力を得られる。まずは武力の特権がその背景にあるのだろう。

 武力の優越感のうえに知識の正当化や精緻化がおこなわれ、たとえば文明啓蒙の使命感や人種や国民の優劣階梯などに科学的根拠が与えられる。武と知がつづけば、富がそのあとにくるのはいうまでもない。その三つの強大なパワーが、優越者の自己正当化として組み合わされ、優越者の矜持は天にも昇るようにとどまることを知らなくなる。

 武知富と組み合わさった優越者にはもはや他者の自由も権利も価値観も存在しなくなる。かれらは人間でないものであり、動物なみの生き物であり、あるいは停滞し、退行した人類と決めつけられるのである。

 われわれは文明化した生活を便利で役に立ち、手放せないものと思っているが、じつのところ、権力や優越意識、または他者を支配したり、自由にしたりする権利を手に入れるために欲しているのではないだろうか。ほしいのは優越感である。そしてそういう他者に脅かされないための防御のために必要とされるのではないだろうか。

 問題の核心は、優越感とそれがうみだす他者への暴力である。文明に浴する優越感には警戒したいものである。文明とは他者への差別であり、暴力であることに自覚的でありたい。われわれ文明人は南北インディアン虐殺の子孫なのである。





 ■『赤い疑惑』とは親の悔恨の物語だった。        2005/5/16

 

 きのう石原さとみ主演の『赤い疑惑』を見た。77年に放送された山口百恵の『赤い疑惑』は見ていたはずなのだが、記憶はほとんどなく、血液型の「RH−」型というのが選民っぽくてうらやましかったことくらいを覚えていただけで、はじめてこんな話だったのかと納得した。

 眉間にしわを寄せて呻かざるをない内容だった。じわじわと放射能に侵されてゆくさまは、ものすごく心がつらくなった。こんな悲壮な物語はあまり見たくはないんだけど。『世界の中心で愛を叫ぶ』のドラマ版はつくりものぽくてあまり感情移入はできなかったが。

 気づいたのは、この物語は親の視点が中心になっていることだ。若者中心のラブストーリーというよりか、親が子どもをいかに幸せにしてやるかといったことが中心になっていた。これは意外だった。

 17歳という若い女性のこれからを親の過失で失わせてしまうことへの悔やみが胸を締めつけるのである。「輝かしい未来」を約束できない親の悔恨が、この物語の中心テーマになっていたように思う。

 親の悔やみで気づいたのだが、この70年代半ばというのは高校進学率が90%を越えたあたりで、60年代の60%から完成の域に達したころで、親が子どもの輝かしい未来を保障しなければならないという想いが、このドラマへの当時の人々の熱中を生み出したのではないかと思った。

 子どもの「輝かしい未来」への親の義務感が、それを断たれた娘の凄惨さから、いやがおうにも盛り上げられたのである。いうならば「受験戦争熱」にくべられた薪木だったわけである。げんざいは17歳の高校生に「輝かしい未来」があるとはとてもいえなくなったけど。

 この『赤い疑惑』がリバイバルされたのは韓流ドラマ・ブームの原点だということだろうと思うが、たしかに死を前提にした恋愛や兄妹の恋なんて韓国ドラマにありそうだ。さいきんの日本のドラマは見る気もしないほどつまらなくなったが、この原点は現代人の心の琴線にいまも触れるものだろうか。これを機にドラマの再生がはじまればいいと思うけど。





 ■人生は「想起」でしかない。        2005/5/19

 『ジェイコブス・ラダー』 4935e

 
  

 きのうサンテレビでやっていたのでまた観た。『ジェイコブス・ラダー』は私の好きな作品である、というか、じわじわと衝撃を与えた作品である。

 ベトナムから還ってきた元アメリカ兵が戦闘のすまさじさを何度もフラッシュバックしながら日常を送る物語で、すべては衝撃のラストに収斂する作品だ。アメリカに還ってきていたと思っていたが、これらはすべてベトナムで見た死の直前の白昼夢だったわけである。

 不可思議で不気味な雰囲気がいい。謎だらけの雰囲気が私には惹きつけるものがある。ただ退屈に感じる人もいるだろうけど。

 アメリカの日常が死の直前の白昼夢にしか過ぎなかったというラストが衝撃なのは、これはわれわれの時間の感じ方をも表わしているからだと思う。終わったことや過ぎ去ったことは、もはや記憶や思い出としか思い出せない。それは空想とか、存在したか存在したかもわからなくなるレベルのものである。

 われわれの死の直前にも、人生はもはや空想とか想起でしかない。存在したかも存在しなかったかもあやふやになる。おそらく死ぬときの人生の感じ方とはそのようなものだと思う。だから宗教では想いとか心、思い出にしがみつくなといっているのである。この『ジェイコブス・ラダー』が衝撃なのは、われわれの人生のそのようなはかない砂のような感じ方を表わしているからだ。

 新しい恋人や離婚した家庭、交通事故で死んだ子どもと生きているときに出会ったりするのはなぜなんだろう。人生の後悔や悔恨がそれらの想起を思い出させたのだろうか。

 ベトナムで攻撃性を誘発させる幻覚剤がつかわれ、仲間同士で殺しあったというストーリーも出てくるが、これは戦争の本質を表わしているのだろうか。

 なお、『ジェイコブス・ラダー』というのは『旧約聖書 創世記』に出てくる「ヤコブのはしご」のことで、雲の切れ間から射す光のことをいい、ふだんでもよく見かける神々しい光のことである。天の門と考えられている。日韓ふたつのドラマ名にもなった『天国の階段』のことである。





 ■「高度な文明」という優劣基準         2005/6/25

  

 われわれはさまざまなものに「高度な文明」を探している。SF映画の宇宙人は「高度な文明」をもっているがゆえに憧憬や畏怖の存在であったりするし、古代史ではどんなに早く、どんなに大きな「高度な文明」が発達していたかで優劣が競われていたりする。

 歴史の原初であるエジプト文明やメソポタミア文明など四大文明も歴史上初めて高度な文明をもったがゆえに評価されているのである。

 つまりは、あらゆるものにわれわれの「高度な文明」の評価基準が投影されているのである。文明の高低度というのはわれわれの根本にある優劣基準なのである。

 高度な文明を求める求心力はとうぜんのことである。文明の利便性や優秀さは疑問の余地がないくらいそれを追い求める必要性を正当化させるものである。

 ただ、問題は「高度な文明」という価値基準が優劣序列をつくりだしてしまうことに大きな問題が潜んでいる。そのおかげで劣等者とラベリングされたものは、支配や略奪や虐殺が正統的なものとしておこなわれてきた歴史がその問題の危険性をつげているし、内部でもはてしない競争や差別、蔑視がおこなわれてきて、われわれの精神や肉体に安寧をいっときももたらさない原因となるものである。

 「高度な文明」という人類の至上目的はわれわれ人間を序列づける大元みたいなものである。おかげでわれわれは「都会と田舎」という優劣価値から抜け出せなくなったし、「頭がよいか悪いか」の基準からも逃れられないし、「金持ちや貧乏」、「先進や後進」――つまりは「勝っているか負けているか」、「優秀か劣等か」の優劣基準から自由になれなくなったのである。

 「高度な文明」はわれわれを序列づけ、階層づけるヒエラルキー装置なのである。

 われわれはこのヒエラルキー装置の優劣基準の上でたえず優秀か劣等か、勝っているか負けているかを評価づけられなければならないのである。

 願わくば、こんな観念や虚構、あるいは言葉による優劣イデオロギーから自由になって、優劣感や競争から自由になる精神や世界を手に入れたいものである。われわれはこんなつまらない基準のためにどんなに人生や自由を失ってきたことだろう。失ったのは人が自由に生きる権利である。

 このイデオロギーはまず自然環境の恩恵から生きる自然的な暮らしを破壊し、憎悪した。ほかのすべての生命がそうであるように自然の恵みで暮らす生き方を、「動物的」なものとして、そのような生き方を剥奪してきたのである。いわばわれわれは「動物」から概念上に隔絶するために「高度な文明」を必死に追い求めてきたのである。ヨーロッパの「進化論的トラウマ」といっていいかもしれない。

 われわれはこの「高度な文明」というイデオロギーの無条件の讃美から自由にならなければならない。おそらくそれは恐れから始まっているに違いない。私たちはこの概念に疑問をもつことからはじめなければならない。





 ■『天国の階段』を見終わって       2005/6/26

 

 韓国ドラマは数多くやっているがこのドラマはすんなりと物語世界に入り込むことができた。まあ、メロドラマの最たるもので、ストーリーのおもしろさのためにはあらゆる要素や材料を入れてもかまわないといった姿勢にはある種の潔さがある。

 そのためには現実から飛翔しても、ご都合主義と批判されても、初志を貫くわけである。そういうストーリー至上主義が日本には失われた気がする。ドラマにもとめられるのは高尚さや芸術度ではなく、バカみたいともいわれようとおもしろさを追究するのが一番大事だということである。

 とちゅうで気づいたのだがこのドラマは『冬のソナタ』のチェ・ジウ版ということだ。記憶を失ったり、失明したりするのは、ヨンさまではなくて、女のチェ・ジウのほうなのだ。いわば『冬のソナタ』のひっくりかえった続編みたいなものである。

 それとこの物語は兄弟の愛憎劇が主なテーマになっている。ふたりの兄弟(とような兄)の男に愛されるチェ・ジウが主人公になっており、それを嫉妬する妹が、グローバル・グループという巨大企業の金持ち男を奪い合うという物語になっている。

 少女マンガの『キャンディ・キャンディ』も二人の男に愛されて、片一方がだめになってももう一方の男がいるわ、みたいな物語が女性には大ウケするみたいである。しかも相手は大企業の御曹司というもったいぶった大金持ちである。つきそいの男を数人つれて歩き、そのなかには白人も従わせている。女性の願望を満たすウヒヒの物語になっている。

 兄妹でくりひろげられるオイディプス構造が主軸になっているわけである。兄弟間の確執はだれもが覚えがあるものだと思うが、そういう欲望や願望の原初的なかたちをあらわした点でこのドラマは韓国で40パーセントの視聴率をとるほど人気が出たのだろう。

 いもうとは姉をうらやましいと嫉妬し、ふたりの兄は妹をほしいと思い、母は妹にその男をあてがおうとする。兄妹でぐちゃぐちゃである。家族の親愛の情を断ち切って、外の男に愛情が離脱する段階の家族のドラマなのである。しかし、はて、われわれはそんなに家族の愛情に執着したものだろうか。

 私がこの物語を好きになったのは、チェ・ジウが5年間の記憶をとりもどす回からだったと思う。失われていた愛の絆が思い出される瞬間はそれは感動したものである。断ち切られていた愛がとりもどされる様は視聴者としてはこんなにうれしい瞬間はない。

 音楽もメロウな曲がなかなかよかった。とくにエンディングで使われていたSonaの『会いたい』が短いながらも陶酔的でよかった。なんでも日本版では『アヴェ・マリア』が使われなかったが、どんなふうに変わっていただろう。

 チェ・ジウという女性はかわいく見えたり、ふつうに見えたり、ころころ変わるなと思った。日本でもこの顔は美貌の部類に入るんだろうか。いまの日本の基準からいえば、目が細すぎるのではないかと思う。いまの日本では南方系の目の大きな娘のほうがウケるのである。





 ■ドラマ『女王の教室』と不平等社会     2005/7/2

 

 このドラマはやった、と思った。ナマぬるいウソっぱちの学校平等幻想をみごとにひきはがして、競争社会の縮図を子どもたちに叩きこもうとしている鬼教師という物語に、強烈なメッセージ性を感じた。

 第一話は成績の悪いふたりの生徒にトイレそうじや給食などの雑用を罰としてすべて与えるものであった。天海祐希演じる女教師はこの世は平等社会ではなく、恵まれた6パーセントの者だけが幸福を享受できると生徒たちに説く。

 その他9割のおおぜいは安い給料でこきつかわれ、高い税金を支払うだけの存在だ、そういう連中は愚かにバカをやっていたらいいのだと罵る。こぼれた給食も成績のよい順だけにくばられ、あとの大方は行き渡らないエピソードに強烈な皮肉がこめられていた。

 そうなんである。この世は競争社会であるし、階層や不平等社会である。学校だけがバカみたいな平等思想を植えつける。このウソっぱちの欺瞞のせいで、社会の不平等になじむのに時間がかかってしまう。というか、学校自体が生徒たちを強烈に序列づける選別機関なのに、どうして世の親たちは平等の園を願うのだろう。ウソっぱちのオリの中は社会適応を遅らせるだけである。

 この鬼教師はこのままつっ走ってゆくのだろうか、それとも改心するのだろうか。私としては鬼教師は平等や同情をもつようになる当たり前の結末に堕してほしくない。それこそが現実の社会の姿というものだからだ。人びとの平等神話を見事に打ち砕くダースベイダーのような存在でありつづけてほしい。

 その上で学校や金、会社というモノサシだけでは測れない幸福をみんなが見いだすという物語にしてほしいと思う。スホーツや芸術の成功神話はもっと厳しいと天海に切り捨てられていた。ただ成功や優越というモノサシと違うところで幸福や満足を見いだすのがその他のおおぜいの人たちの生き方であろうし、またそういうモノサシだけで社会が単純に割り切れるわけがないからだ。

 そういうモノサシを後生大事に奉っているのは学校や教師、マスコミなどのそのモノサシで上位にくる連中だけである。自分たちの利益を守っているだけなのである。知識産業のプロパガンダ、あるいは広告戦略にだまされてはいけない。

 脚本は遊川和彦だけど、私は『十年愛』が好きだった。ハマちゃんの落ちこぼれるさまが破滅派っぽくてよかった。『真昼の月』や『幸福の王子』なんかもよかった。ちょっと期待できそうなドラマである。主役の女の子がちょっと少年っぽかったけど、なんとなく小学校のクラスの好きだった子を思い出しそうになった。





 ■Googleの検索にひっかからなくなりました。だれかなぜか教えて。
 いままでこのHPへの半数以上はGoogle検索で来てくれた人が多いと思うのですが、いきなりぱたっと止まってしまいました。なんでだろ〜。    2005/7/3




ご意見、ご感想お待ちしております。
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イデオロギーとしての、
メッセージとしての、
「日本論」

「日本論」をイデオロギーとして読んだり、どのようなメッセージ性を与えられるのか、考えながら読みたい。

『南島イデオロギーの発生』 村井紀
 

政治学者としての柳田国男。

『柳田国男讃歌への疑念』 綱澤満明
 

国民の故郷を創造した人。

『日本人という自画像』 ましこ・ひでのり
 

アイヌ・沖縄は日本か。

『文化ナショナリズムの社会学』 吉野耕作
 

文化のナショナリズム性。

『生業の歴史』 宮本常一
 

仕事から日本人を見る。

『海に生きる人びと』 宮本常一
 

農耕民族ではない日本人。

『日本残酷物語〈1〉貧しき人々のむれ』 宮元常一監修
 

遠くない貧困の記憶。

『日本多神教の風土』 久保田展弘
 

精霊崇拝は残っている。

『日本の景観―ふるさとの原型』 樋口忠彦
 

風景とはナショナリズム?

『日本人の心の習慣』 大村英昭
 

煽る文化、鎮める文化。

『清貧の思想』 中野孝次
 

清貧を尊んだ日本人。

『大江戸生活事情』 石川英輔
 

民主主義の悪役。

『あの世と日本人』 梅原猛
 

霊魂崇拝は絶滅したか?

『日本古代史と朝鮮』 金達寿(キム タルス)
 

朝鮮人が日本をつくった?

『古代史の秘密を握る人たち』 関裕二
 

古代史はイデオロギーか?

『天皇家はなぜ続いたのか』 梅澤恵美子
 

起源は「つくられる」。

『景観から歴史を読む』 足利健亮
 

景観に刻まれた歴史。

『地名から歴史を読む方法』 武光徹
 

地名とは歴史の化石。

『反日的日本人の思想』 谷沢永一
 

進歩的批判か、反日か。

『「家族」と「幸福」の戦後史』 三浦展
 

郊外という日本。

『人間を幸福にしない日本というシステム』 ウォルフレン
 

タイトルが良すぎる。

『日本 権力構造の謎〈上〉』 ウォルフレン
 

「生産マシーン国家」。

『「日本株式会社」批判』 内橋克人 佐高信
 

この国の会社批判の少なさ。

『空気の研究』 山本七平
 

場の空気に流される日本人。

『「日本株式会社」の昭和史』 小林英夫ほか
 

国家総動員体制としての戦後。

『その日ぐらし』 高橋克彦・杉浦日向子
 

日本人は勤勉ではなかった。

『文明の生態史観』 梅棹忠夫
 

日本優秀説。

『日本史探訪 国学と洋学』 角川書店編
 

江戸時代の思想家たち。

『模倣される日本』 浜野保樹
 

文化輸出の時代。

『パラサイト日本人論』 竹内久美子
 

壮大なおふざけ文明論。

『夜這いの民俗学・性愛論』 赤松啓介
 

貞操のなかった日本人。

『日本の童貞』 渋谷知美
 

セックスを強迫する日本。

『張形と江戸をんな』 田中優子
 

女性の神話に物申す。



   
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