バナー
本文へジャンプ  

 


 ■050403断想集 格差社会と中高年フリーター


 ■NHK『日本の、これから 格差社会』の感想      2005/4/3

   

 スタジオ形式の番組は退屈だと思った。ほかのNHKスペシャルのように流れがスムーズでなく、見ていて安心できない。

 ひろがる格差社会を問題ととりあげたのはよかったと思う。ただ堀江貴文がいっていたように格差のモノサシを金だけに捉えたのはあいかわらずの間違いだと思う。これからはこういう金のランクだけで幸不幸を捉えないことが社会のモノサシにならなければならないのに、はじめからつまづいている。若者にはこういうモノサシに囚われない生き方や基準をもってほしいものである。

 内容はニューリッチや成果主義の見直し、規制緩和がもたらしたタクシー業界の困窮、中高年フリーターの増加、親から子へとつひきつがれる格差の固定化などであった。

 ゲストは勝ち組の注目される堀江貴文やふくれっ面の金子勝、政府のブレーンとなっているらしい本間正明、権力批判の急先鋒斎藤貴男、格差の研究者山田昌弘などであった。

 市民の声を聞くということでスタジオ参加者の声もかなり聞きとられたのだが、短いコメントがかなり危なっかしかった。視聴者参加番組といっても設問にイエス、ノーに答えるだけで意味なし。

 やはり私が問題を感じたのは中高年フリーターの増加と格差の固定化である。フリーターは金子勝がいったように年金や社会保障の失敗である。さらに人材のデフレである。それを若者問題にしてしまって、企業の政治的責任が問われないのはまったく嘆かわしいと思う。国はあいわらず国民を守らずに企業を守っているのであって、日本は人間の国ではない。総動員体制と生産マシーン国家なのである。われわれは金のモノサシだけではない幸不幸の基準を森永卓郎のように社会でアピールしあうほかない。

 格差の固定化、貧困の連鎖には長期的な恐ろしさを感じさせた。江戸時代のように身分格差の時代がやってくるのかと不安になった。しかし日本にはすでに憧れられる富裕層や文化層、支配をほしいままにする権力層といったものがイメージとしては存在しないので、格差や序列を嘆く気運も盛りあがらないと思うのである。歯ぎしりをもよわせるような羨ましさの格差はないので、格差はほんとうに問題なのかと思う。

 こういう番組がつくられるのは前時代の枠組みや問題意識からぜんぜん脱却できていないということである。近代化やキャッチアップの時代の捉え方である。それが終わってしまったから、われわれは目標を失い、失われた15年を過ごしているのであって、むかしのような一億総中流がわれわれの目標ではない。終わってしまった枠組みがあいかわらず問題と持ち出されるのは、新しい問題設定や人生目標、国家目標が見えないことをさらけ出しているようなものである。

 われわれはみんなで平均的に豊かになるという目標を失ってしまって、そのおかげで経済が活性化しない、困窮化するという事態におちいってしまっている。もう均一的な目標をもつことなんできない。だから個人的な目標や幸不幸の基準を自分でつくりだすしかないのである。マスコミや世間が煽る金のモノサシで自分の幸不幸を捉える見方は、捨てなければならないのである。





 ■中高年フリーターと正社員という「社会的保証」        2005/4/4

 30代を越えるフリーターの増加が問題となりはじめているが、フリーターはなにが問題なのだろう。心配されていることは老後の年金がないことである。つまり老後の保障のない人生は恐ろしいということである。

 正社員とフリーターはなにが違うかというと、仕事の面では正社員とほとんど変わらない仕事をしているフリーターも数多いのである。アルバイトだけで暮らしている人もかなりいるのではないかと思う。

 なにが違うかというと、会社から年金と健康保険を払われているかの違いくらいだ。つまり人生や将来を保障された人材であるかどうかということだ。会社や国に保障されているかの違いに、世間の人は大騒ぎするのである。

 つまりは会社や国に保証されているかという「ステータス」や「社会的信用」が問題となっているわけである。国が保証した人生であるかという問題がフリーター問題の根幹にあるのである。国に守られ、お墨付きをあたえられた社会的信用のある人間かどうか、それが問題なのである。

 いわば公務員かそうでないかの違いである。国家に保護され、保障された人生であるか、その違いが問題となっているわけである。社会主義国家の日本の国営企業に勤めている役人かそうでないかの違いである。

 正社員というのは国の保障に守られた人間であるといえるだろう。そういう国に抱えられた人間に「社会的信用」や「ステータス」があつまったのである。

 しかし企業がコストダウンのために中高年女性パートや学生アルバイトを使い出したころから、企業は社会保障というコストの抜け道を見つけ出したわけである。将来や人生を丸抱えで保障しなければならないという重荷を捨てはじめたのである。企業はそんなコストのかかる信用を保持しなくなっていったのである。つまりは国営企業や社会主義的経営から逃げはじめたわけである。

 問題は企業が個人の社会保障まで背負わなければならないのかということである。企業はその責任から脱走しはじめたのである。

 もうひとつの問題は国や企業に守られているかという社会的信用の問題である。この社会的信用が正社員という肩書きにあつまっているために企業は雇用のコスト高から逃れられない。そしてフリーターの雇用増大へと走るわけである。

 正社員という「社会的ステータス」が雇用の高コストをつくりだし、それから逃れるためにフリーターを活用し、保障や信用のないフリーターを増大させたのである。

 問題の根幹は国に守られた正社員という社会的ステータスなのかもしれない。この安定し保証された人生をだれが責任を負うのか。もしかして企業の社会保障費を全面的に廃止し、個人のみに支払いの義務が課せられるようになると、企業もフリーターもその問題を解消できるようになるかもしれない。

 国に守られるという保障が企業の高コストをつくりだし、保障のないフリーターを大量に生み出しているとするのなら、企業の保障全廃が解決の道になるのではないだろうか。企業の社会主義の時代は終わったのである。





 ■桜と日本嫌い          2005/4/7

   冬の厳しさの後に咲く桜。

 ここ数年、ようやく桜の美しさがわかるようになってきたが、それまでの私は桜が嫌いだった。酒を飲んでの花見など虫唾が走るほど嫌いだった。「日本的なもの」が大嫌いだったのである。

 日本人が集団で好むようなもの、野球や『紅白歌合戦』、『寅さん』や帰省ラッシュなどが大嫌いだった。それらいっさいに触れまいとしていた。そのなかに花見の宴会がふくまれていた。

 いまでこそ日本的集団への嫌悪感はだいぶ和らいできたが、私はなんでこんなに日本的集団が嫌いだったのだろう。

 歴史教科書で騒がれているように学校教育が日本嫌いを教育したともいえる。アジア各地に侵攻した歴史の反省から、日本の愚かさを教える教育がほどこされたのである。日本のすばらしさや美しさを教えない教育である。自虐史観といわれたりする。

 また新聞やニュースなどが西欧に比べて劣った日本という批判をしまくった影響もあるだろう。なにかといえば西欧の先進性が偶像化され、日本の後進性が槍玉にあげられた。気づいたらそのような西欧比較のニュースをめっきり見なくなったが、いまはもう日本は西欧を乗りこえたのだろうか。

 あとひとつ、日本的集団を嫌いになった理由に「個性消費」の宣伝力もあったのだと思う。つまり「みんなといっしょであること、画一性や均一性は恥ずかしくて情けないことだ、だから人と違う人間になれ」というコマーシャリズムの力にあずかるところも大きかったのだろう。けっきょく私はそれで少量生産の高級品やブランド品を買っただけである。

 いろいろな人たちの思惑が重なって私は「日本的集団」の嫌悪感をつちかっていったのだと思う。だからアメリカのロックを聴き、ハリウッド映画を見て、ヨーロッパのコレクションでファッションを勉強し、ヨーロッパの思想や文学を読んだ。

 日本嫌いというのは他文明を学んだり、受け入れたりするときに有効にはたらく受容器のようなものである。日本を嫌いになれば、優れた文明はすんなりと流入することになる。ぎゃくにいえば、日本讃美は他文明の拒絶である。日本嫌いというのは文明受容のひとつの方法なのである。なにも自虐や反日というわけではないのである。

 アメリカやヨーロッパに憧れた私の年代は終わろうとしている。30才くらいから仏教や東洋思想を学ぶことができるようになり、しぜんに日本の山々や景観、神社などを好めるようになってきた。ただそこには禁圧されてきたパトリオティズム(郷土愛)やナショナリズム(愛国心)の警戒を問い直さなければならないという作業が待っているのだが。

 そして桜の美しさにすなおに感銘できるようになってきたのである。冬の厳しさの対比としての桜の華やかさには目をみはるものがある。夜の中に咲く白い花はこの世のものではないように思うこともある。桜とは私にとって西洋と日本の真ん中にあるものなのである。





 ■花見とホームレス          2005/4/10

 大阪城公園には桜がきれいに咲き誇っていました。春の陽気に花見や宴会で人がごったがえす公園にはホームレスの居住群がたくさんあるのですが。。
 
桜並木がずらりと並んでいて、きれいだったのですが、宴会の席のためか柵の中には入れませんでした。
桜並木の向こうには天守閣があり、手前では宴会がおこなわれていました。桜はきれいですが、この花見客は猥雑で下品でこの日本的風習はたまりません。もっと静謐に風流に味わえないものか。
花見客であふれかえる林の向こうにはホームレスの青テントがひっそりと立っています。
大阪城公園の広大な敷地のなかには無数の青テント群がひろがっています。
手前の宴会客のむこうにはホームレスの青テントがあるのですが、酔客には関係のないようです。「自分さえよければいい」――そういう風潮はかならず禍根を残すことでしょう。




 ■コミュニケーションの苦手意識をつくる社会        2005/4/13

 自分はコミュニケーションが苦手だから負け組みだととらえたり、ひきこもりやニートに代表されるように若者の非社会性を批判する言説によく出会ったりする。

 こういう枠組みというのは個人を責める方向に進みがちになるが、そういう苦手意識をつくりだす社会や、コミュニケーションを難しくする社会の構造自体を問わなければならないのではないかと思う。そして社会が執拗に若者の非社会性を責めつづけるのはなぜなのかを考えなければならない。

 まずありきたりなことだが第一に社会自体が会話を必要としなくとも用が足せる効率化社会になっていることがあげられる。コンビニもスーパーもショップでの買い物も電車の切符もすべていっさいしゃべらなくても可能である。

 社会自体がコミュニケーションを抹殺しようかしているかのようである。会話が禁止された世の中で会話や対人関係に得意意識をもつのはむずかしいだろう。親密にもなれないし、店員を機械のように無視する関係も心苦しい。そういうなかで対人関係はこじれるのである。人を親しくおもんばかる思いやりが、冷酷な関係を責めるのである。

 学生や若者が就職や会社を怖がったりするのは、彼らが学校で大人や企業社会といっさい接点をもたずに育てられてきたからとうぜんのことである。同じ年の友だちとばかりつき合ってきて、いきなり目上の関係や年上の大人たちとすんなりつき合えるわけがない。タメ口で大人に陰口をたたかれるか、関係から退却するかになってしまう。なじんだり、自然なものになるには永らく時間がかかってしまうのである。

 若者が苦手意識をつくるのは学校教室の友だち関係にあるのだろう。ここでは友だちをむりやりつくらないと居場所がなくなったり、いじめにあったりする。遊びや社交性という強制価値のなかで何年も過ごさせられるのである。つまづいて内攻してゆくのも故なきことではない。会社では仕事という障壁があるから必要以上に恐れる必要はないのだが。

 人前で注目される不安がつくられるのも教室のようである。人前で発表するというのは教師や一段上の関係に上ることである。そういう立場からものをいうことの抵抗が固定化されれば、みんなに注目されることが緊張のともなうものになるだろう。

 そういう学校で育ってきた学生が就職でいきなり自己表現をもとめられるのである。無理な注文というものである。

 若者がコミュニケーションを恐れるようになる要因はほかにはマスコミでおもしろいタレントが人気になるようにおもしろさや社交性の強制力がかなり強くなっていることと、非社会的な人間を責める言説に満ちあふれていることだろう。

 タレントのような社交性が始終すべての人に必要だとされれば多くの人が参ってしまうだろう。とくに若者はマスコミの圧倒的な影響力をうけ、マスコミを崇拝せざるを得ない環境に住んでいるのだから、その強制力はかなりのものである。非社会性は犯罪報道の中で暗に責められたりする。そして必要以上にコミュニケーションの苦手意識をもつ若者がつくられるというわけである。

 個人を責めるより、社会自体や世論・マスコミのなかに問題を見つけるほうが妥当なんだと思う。解決の糸口はそこから開けてくるのではないかと思う。





 ■非社会性を人はなぜ叩くのか        2005/4/16

 われわれの社会では非社会性は非難の的である。犯罪を犯すだの、成長できないだの、就職できないだの、人格に欠陥があるだの、ありとあらゆる陰湿なイメージをふっかけられる。

 どちらかといえば現在で問題なのはその実体よりか、そのメッセージ自体が若者を追い込んでいないかと問うことこそ重要に思える。強迫観念のように若者を追いつめていないだろうか。

 なぜ社会は非社会性をそんなに非難するのか。友だちがいなかったり、おたくであったり、ひきこもりやニートであったとしても人の自由であるし、勝手だし、人にとやかくいわれる筋合いはない。非社会性は人に迷惑をかけるものなのか。ぎゃくにもっとも人に迷惑をかけないひっそりした人たちではないのか。

 非難する人たちは怖れているのだと思う。自分の中のそういう部分を投影しているのだと思う。自分の非社会的な部分を必死に叩いているのだろう。

 そもそもわれわれの社会は経済の効率化やサービス化をめざしてきて、徹底的に非社会的な社会をつくってきたのではないか。いっさい話さずともモノやサービスが買える社会をわれわれはつくってきたのではないか。非社会性をめざしてきたのはだれなのか。

 人間の社交や交流も経済サービス化したために社会性を失わせたのはだれなのか。われわれは人と会わなくても古今東西の有名人の話やお笑い、歌などを本やTV、新聞などで見聞きすることができるのである。人と会うことの魅力の大半はメディア産業に奪われてしまったのである。このメディア産業をブッつぶしてしまえば、われわれは社交というものに強烈に飢えることになるだろう。しかしそれは不可能というものだ。

 このような社会でわれわれは自身の非社会性にやましさを感じ、怖れているのである。そして社会性が育たないことを知っているからこそ、非社会性を非難しなければならなくなったのではないか。社会性が魅力でないサービス化社会の功罪なのである。

 非社会性を非難する人なんか相手にしても仕方がないのだろう。われわれ自身こそがメディアやサービスによって非社会的な社会を押し進めたのである。反省するなら若者を叩くより、産業を問え。この非社会的なサービス社会をわれわれは手放せるというのか。

 そしてそのツケは社会性を育てられない若者の大量出現となって現れたのである。この非社会的な社会をやめられない以上、非社会性に寛容になり、容認し、非社会的でも生きやすい世の中をつくってゆくしかないだろう。そういう社会や若者をもとめてきたのはわれわれ自身ではなかったのか。





 ■『若年無業者』フォーラムin大阪の報告      2005/4/16

   ライトの加減できちんと写っていませんでした。

 今日は「若年無業者の実情と支援を考えるフォーラム」にいってきた。桜が満開の造幣局の対岸のエル・おおさかでおこなわれた。

 斎藤環と玄田有史がナマで見れたのがよかった。玄田有史は少々投げやりっぽい人であったこと、斎藤環はダンディでおちついた印象をもった。小杉礼子のつぎの資料は衝撃だった。
http://www.keizai-shimon.go.jp/special/vision/life/03/item4.pdf





 これは卒業しても就職しない比率を表したもので、この赤線の伸びを見よ。四割もの卒業者が就職しないで卒業するのである。学校からの新卒就職がまったく機能していないのである。あとはフリーターや非正規雇用、ニートやひきこもりに吸収されてゆくわけである。企業という船は学校から放り出される若者を波間に見捨てているのである。





 上図のグラフは働いても家事もしていないいわゆるニートの若者比率である。二割といえばほぼ70万人の若者が宙ぶらりんなまま漂っているわけである。(現在は85万人と推定される)

 キャリア支援がいろいろ行政によってなされるだろうが、そんなもので追いつくわけがないと思った。企業社会は若手の働き手をまったく必要としていないのである。若者とこの社会の将来はいったいどうなるんだろう。

 気休めをいうのなら、若者は遊びたい盛りだから学校もなく就職もしない期間は天国だろう。寝て暮らせる若者たちを生み出したのだから、豊かさをめざしたオヤジたちの勤勉国家の夢は叶ったのである。

 ただいまある状態は未来にほぼそのまま延長されることは中高年フリーターや中高年ひきこもりでじかに見ることができた。ニートはそのまま未来に延長されたまま推移するわけである。目をふさぐことのできない緊急な社会問題であることはまちがいない。

 これは若者の問題ではなくて、完全に社会の構造上の問題、企業社会の問題といえよう。不況や景気が悪いままだと企業は長期的な展望をもたずに若年採用の枠を抑えるか、外すかにしてしまった。企業に甘い政府も放ったらかしである。あとは後々に社会に禍根をのこすだけである。

 それは市場メカニズムが正常に働くための過渡的状況なのか、それともこの社会が崩壊する序曲になるのか、私にはわからない。はたして若者は沈没する船より先に海に放り出されてしまっただけなのか。





ご意見・ご感想を求めるためにこのHPはつくられています。
ぜひご一筆を。
 
 ues@leo.interq.or.jp

エッセイを書かしめた
おすすめの本たち

タイトルの意味は書評のみならず、エッセイも書かしめるほど感銘した本ということです。

「諸悪の根源――法人優遇社会と言語化されない社会」 1998/2/20.


「「理想社会」というパラドックス――中川八洋『正統の哲学異端の思想』私感」98/5/12.


『思考は超えられるか 第一部』 1997/6.


「孤独への疾走――ショーペンハウアーの社交論」 1998/8/24.


「ヘンリー・ソーローの省エネ労働観」 1998/8/15.


「漂泊の人生に癒しを求めて」 1998/10/12.


「陶淵明の隠遁と脱俗について思う」 1998/11/15.


「変性意識状態とはなにか」 99/2/20.


「認知療法として読むトマス・ア・ケンピス『キリストにならいて』」 99/1/10.


『わたし自身の中の『ハマータウンの野郎ども』 99/8/31.


▼申し訳ないです。これ以降のエッセイはファイルの中の一作品になります。じかにリンクしていません。書影が目印になります。

人間の比較序列を超える断想集 99/10/30.


「あなたの心が悪いのです」断想集 2000/2/29.



交換と規範の感情学についての断想集 2000/3/17.


社会的感情論と隠蔽の断想集 2000/4/3.


「私」も「世界」も虚構? 00/5/30.


一滴のしずくの中の全宇宙 00/7/12.


終身愛と「有料セックス資本主義」 00/8/30.



秋のつぶやき断想集 00/11/20.


冬の散歩道 00/12/15.



時代とサブ・カルチャー 01/1/31.


視覚の帝国、嗅触覚の蔑視 01/4/18.


童話の解釈と感覚の復権 01/4/3.


若者は「脱所有」「脱消費」をめざすのか 01/9/30.


孤独を責めない心をつくる 01/11/9.


心も感覚もない 01/12/16.


物質否定の知覚観・肉体観 02/3/24.



無心・投影・崇り 02/4/19.


021221断想集 2003/1/1



専門家の恐怖と個人の無能 2003/2/11



040118断想集 2004/2/29


040523断想集 2004/6/14






   
inserted by FC2 system