バナー
本文へジャンプ  

 



当サイトブックランキング
2005/1/1〜
3/31

amazonへのクリック数のランキングです。

すでに起こった未来―変化を読む眼
161
リチャード・カールソンの楽天主義セラピー

20
模倣される日本―映画、アニメから料理、ファッションまで
18
なぜ彼は本気で恋愛してくれないのか

17
捨てて強くなる―ひらき直りの人生論
15
孤独であるためのレッスン
14
世界の名著 4 老子・荘子 (4)
13
この人と結婚していいの?
12
こんな「歴史」に誰がした―日本史教科書を総点検する
11
フロイト先生のウソ
10
自由という服従
10
整体 楽になる技術
10
正統の哲学 異端の思想―「人権」「平等」「民主」の禍毒
10
若者が『社会的弱者』に転落する
10
日本人と武士道
10
自省録
9
自己コントロールの檻―感情マネジメント社会の現実
9
菜根譚
8
日本文化論の系譜―『武士道』から『「甘え」の構造』まで
8
どう生きるか、自分の人生!―今日を後悔しない生き方
8
グルジェフとクリシュナムルティ―エソテリック心理学入門
8
司馬遼太郎。人間の大学
8
自由からの逃走
8
日韓いがみあいの精神分析
8





 ■050320断想集



 ■韓国ドラマブームは西洋崇拝の終わり?      2005/3/20

   『天国の階段』

 『天国の階段』弟9話はチェ・ジウが記憶をとりもどすストーリーで思わず感動してしまいました。この物語も『冬のソナタ』と同じように交通事故で記憶を失って、愛する人と再会しながら愛し合えないという苦しみをたどるストーリーをもっている。

 こういう物語は愛する人なのに別人になるという哀しみを訴えているのだが、信頼や受容という関係が寸前のところで断たれる苦しみを味わわせる。そのもどかしさが視聴者を引きつけるのだと思う。

 同じ人が別人みたいになるという関係はわれわれもしょっちゅう味わっている。愛する人と別れたり、ふられたり、別人のように冷たくなったり、環境が変わって別人のように見えたりと。信頼があったからこそ、その郷愁があったからこそ、この物語は人を哀しませるのである。

 『天国の階段』は関西では土曜の2:30という中途半端な時間でやっているのだけど、つづけて見たくなった。私は『冬のソナタ』もとびとびだけど、ある程度は引きつけられて見ていた。郷愁的なテーマ曲や愛する人と通じ合えないというもどかしさには魅きつけられるものがあった。

   『冬のソナタ』よりこっちのチェ・ジウのほうがかわいい。

 それにしても韓国ブームである。なぜここにきてブームになったのか不思議でならない。『冬のソナタ』がなぜ中高年女性に受けたのかもよくわからない。

 日本のトレンディドラマの流れがたいそうつまらなくなっていたのはその一因だろう。もう見るものがなくなっていた。12話で完結してころころすぐ新番組に変わるし、浮かれた上辺だけの物語ばかりつくるし、深みも重みもない二十代女性向けばかりのドラマばかりつくるし、人生や社会を教えてくれるような価値あるドラマはひとつもなくなっていた。まあ、それは日本人の日常そのもの自身の姿でもあるのだろう。

 もちろん韓国の文化開放政策もあるのだろうけど、アメリカという憧れられる文化がもう終わってきたという兆しもあるからかもしれない。高度成長期のアメリカのすべてが輝いて見える時代から遠く離れて、ハリウッド映画は巨額をかける大作に堕し、イラク戦争などアメリカの悪い政治面ばかり見せられて、アメリカ離反がはじまっているのかもしれない。

 韓国ブームは西洋憧憬の時代が終わったことを告げているのかもしれない。

 われわれはようやく自分の身の丈のアジア人であることに恥ずかしさやコンプレックスを感じなくなっているのかもしれない。韓国ブームは男性アイドルがもてはやされる現象からはじまったわけだが、中高年女性からそれがはじまったのは、彼女たちが若者のようにアメリカのような突飛なカッコよさを追いかけないですむ世代であること、神社仏閣や古いものをよしとする価値観がとうぜん年をへるごとに増すだろうから、韓国という身の丈の憧れに飛びつきやすかったのだろう。

 韓国人はほとんど日本人と同じ顔つきをしている。中国人となるとちょっと違和感を感じる顔を見るようになるが、親近感は西洋の白人と比べるべくもない。

 ポップ・カルチャー、メディアというものは国境というものをなんのこだわりもなく通り越してしまう。文明や文化、情報や知識というのはほんらいはこういう性質のものであるはずである。あるいは人だってそういうものだったと思う。漁民や交易は国境というものをほぼ感じないで行き来していたと思われるし、そのもとでの文化伝播はかなり活発におこなわれていたはずである。

 政治や国民国家という縛りが人びとの自由な交流を阻んできたのである。なぜそういうことが必要であったかというと、その国の王や首長が自分の利益や権益を守るために必要であったこと、自国の権力者や勢力者も同じような権益をめざしていたからだろう。その他おおぜいの民衆や庶民はそういう縛りに利益や権益があったかはわからない。

 ポップ・カルチャーやメディアは国境をやすやすと越える。自国がメディアが宣伝するような政治的権利など容易にのりこえる。政治メディアがさえぎっていた鉄のカーテンから見えてくるのは、鬼でも化け物でもない普通の人たちの表情や感情である。ポップ・カルチャーは政治的国家を覆せるのか。






 ■東大寺の大仏さんを見てきました。    2005/3/22

 みなさんは奈良の大仏さんは見たことがありますか。修学旅行とかで一度は見たことがあるんですかね。きのう見に行ったので写真で大仏さんを拝んでください。

 奈良はなぜかのんびり安らぎますね。奈良公園とか春日大社とか中心部にやたら緑が多いからでしょうね。

威厳ある大仏殿ですね。横に伸びる直線がきれいですね。
おお〜、ひさびさに見た大仏さんです。やたらデカいのに圧倒されつづけました。
華厳教の大仏さんだとあとで知りました。「一瞬に永遠があり、一滴のしずくに全世界がある」という壮大な世界観をもっています。現代の量子力学やフラクタル幾何学の先取りです。
ガイジンさんがたくさん見ています。がりがりのキリストに比べて、こっちのゴッドは豊満だなあと思ったりするのかな。
となりの仏像と大仏さんのうしろが金ピカになっています。なぜ大仏さんは青銅なんだろう。大仏さんも金ピカならえげつない成金趣味に見えたでしょう。
奈良時代、すでに華厳経と唯識論は成立していました。唯識とはこの世界は心の現れであるといった心理学的な学問をとなえました。学問はほんとうに進歩したのかという気がします。
幼い女の子が鬼の面に興味しんしんです。こういう年代はどんなことでも神秘的に感じられるんだろうな。かわいいので一枚。
毎年一月に山焼きされる若草山にのぼりました。東大寺、興福寺、春日大社の領地争いからはじまったといわれますが、ヤケクソになって坊さんが山を焼いたりするか。
逆光になってしまいましたが、若草山からは奈良盆地を一望できます。むこうには生駒山があり、海からの障壁となり、奈良はぐるりと山垣に囲まれているわけですね。京都にも似ています。
わら葺屋根の茶屋です。春日大社の近くにあります。わら葺屋根はのどかでいいなあと思えます。心が安らぎます。現代のコンクリ住宅なんてちっとも安らがない。

 『唯識のすすめ』 岡野守也 NHKライブラリー
 
 仏教の心理学、唯識を勉強してみますか。

 『華厳経をよむ』 木村清孝 NHKライブラリー
 
 水滴に全宇宙が宿るとはどういうこと?

   東大寺周辺の地図です。



 ■大阪のホームレスの青テントはなくなりません。     2005/3/26

 とうとう定着した観のあるホームレスの青テントです。いっこうになくなる気配はありません。

青テントは97年からいっきょに増えました。山一證券や長銀がつぶれた年です。それから8年、青テントはなくなりません。
大阪市内に拡散したのは、西成の日雇い労働者たちが阪神大震災のブルーシートを学習した結果だといわれています。その前にかれらは仕事がなくなり、家に住むという発想を捨てざるを得なかったわけです。




 ■ネットはTVをとりこめるのか       2005/3/27

   

 ライブドアの堀江貴文はどうやらTVの視聴者をオークションサイトにとりこみたいらしい。もうすこしネットの壮大な未来を構想しているのかなと思っていたが、自社利益だけの狭いものなのか。

 ネットの未来がどうなるかということは、ネットが騒がれた96,97年くらいまでは興味をもって本を読んだりしていたが、さいきんは興味が向くこともなかった。

 ネットというのはかなりローカルなメディアに落ち着いてきているんじゃないかという感がしないでもない。個人がメディアをもてたとしても、TVのような圧倒的な視聴者を呼び込めることなんてほぽムリだ。国民の多くが集中的に継続的に見にくるようなサイトはいまの時点ではのぞむべくもない。

 だいたい、いまでもパソコンは高すぎる。いまだに20万もする。2,3万くらいで手に入るのならTVと戦えるようになるだろうが、ローカルなメディアを見るためには高すぎるのである。かわりにケータイが普及したが、画面が小さすぎる。

 ネットはだれもがメディアをもてるようにしたが、TVや新聞のような集中型のメディアにはなれない。拡散してゆく一方のメディアだ。ローカルなたこつぼのようなメディアが多くの人に知られずに存在している状態がいまのネットではないだろうか。

 ほんらいの人と人のコミュニケーションとはそういうものだ。マスメディアが一極に集中する異常なコミュニケーン構造をつくりだしてしまった。ネットはそれを自然の状態に近づける発明になったのだろうが、ぎゃくにそれは人のメディアの力を拡散して弱める方向に進むのだろう。

 そういう中でライブドアはとつぜんTVをとりこむようなテロリストのような行動に出たが、ネットが大のマスコミをのみこむなんてことはいまの段階では無理な気がする。拡散してゆくネットに、一極に集中したいマスメディアの視聴者をどれだけとりこめるというのか。

 時期尚早な気がする。未来的にはネットはTVと融合してゆくのだろうけど、多くの人にとってネットはなくても困らない存在に落ち着きつつある。ネットをやらない人に聞いても、ネットができてなにかが変わったかと聞くと、なにも変わらないというだろう。ネットはこのくらいの活用しかできなものなのか、それともまだまだ可能性を活用できていないだけなのか。

 ネットは細々としたローカルなメディアで終わるのか、それとも社会構造を変えてゆくメディアになるのか。ことしでネットが騒がれた1995年のネット元年からちょうど10年目だ。ローカルなメディアにすっかり落ち着いた感があるが、マスメディアの一極的な権力をつぶす意味でもネットはがんばってほしいものである。





 ■受験秀才に志はあるのか       2005/3/31

  

 昭和の愚かな軍国化への坂道を転げ落ちたのは、受験秀才によるものだという考え方がある。たしか司馬遼太郎や渡部昇一がいっていたと思うが、資料にあたったわけではないので定かではないが。

 明治や戦後のはじめには危機意識をもった国家を案じた志士たちがあらわれる。それがしだいに受験秀才たちに占められるようになり、坂道を転げ落ちたり、暴走に転じたりするようになる。

 そもそも受験秀才は国や社会のために競争に打ち勝とうとするものだろうか。自分の将来のよいポジションや利益のために優秀な成績をとろうとするのではないのか。そういう者たちが国を運営する官僚や役人、大企業のエリートになったりするのである。

 受験秀才がこの国の行方を決めるとはずいぶん不幸なことである。かれらはよい国や社会をつくりたいと志したりするのだろうか。成績がよいばかりに誤って国のトップに立ってしまったという具合に思えてならないのだが。

 よい国や社会をつくりたいと思って国のトップをめざそうとする人たちがこの国にどれだけいるというのだろうか。

 学校の競争がめざすものは知識の学習能力である。優れた国やすばらしい社会をつくるための競争ではない。学校というハコモノはこの国の舵取りにどういう人材を送り込もうとしているのだろうか。

 ひとつの時代が終わろうとするとき、危機意識から新しい国をつくろうと志す者たちがあらわれる。それがしだいに自己の安寧や立身出世を目的にした受験秀才に占められるようになり、国は破局や終末へと転がり落ちてゆくことになる。

 国家のトップやエリートたちがこのような者たちに占められるシステムを考え直さなければならないのではないかと思う。受験秀才たちはかならずしも優秀ではないと断じることはできないが、彼らの履歴と目標は国家の舵取りとはまったくべつのところにある。

 国家は受験秀才とは違うべつの選抜システムをいままさに必要としているのではないだろうか。もちろん理想に燃えた知識人やイデオローグもまた危険である。かれらは頭の青写真のために現実を殺戮するからだ。つぎなる時代の目標に叶った現実的な行動が行える人、そういう人が選ばれる必要があるのではないだろうかと私は思う。





 ■TVキャプチャーボードをつけました。      2005/4/3

    

 狭い部屋にパソコンとTVのモニターがふたつ並ぶというヘンな状況を解消したくて、TVキャプチャーボードをつけた。

 キャプチャーボードはたくさんあるので迷ったが、とりあえず見えればいいということとリモコンがあるということで、バッファローの九千円くらいのものを買った。

 画像はやはりあまりきれいではないが、パソコンでTVが見えるのがとりあえずはうれしい。それと私はビデオをもっていなかったので、活用の幅がひろがりそうで楽しみである。

 しかし録画の音が出ない状況にぶちあたって、ヘルプやネットで探し回ったのだが解決しない。画面にあるプレーヤーの音量のつまみをあげればいいだけのことであった。どこにもそんな解決法は書かれていなかったぞ。

 それとCPUがずっと100%使われ、パソコンが遅いという状況がつづいて、TVのせいかなと思っていたらウィルスに感染しているみたいだ。tcpsvcs.exeというファイルがCPUを100%ずっと占領している。ウィルスバスターでは気づかれず、タスク・マネージャーだけで終了させることができるが、すぐ復活している。なんなのだろうな。

 ビデオにはスナップショットの機能がついていて、気に入った画像をたくさんコピーしそうだが、このネット上に公開するのは著作権にひっかかるのだろうな。よいものを見つければ人に見せたくなるもの、自分のHPに貼りつけたくなるものだが、あくまでも引用か参照程度のコピーにとどまるべきなんだろう。

 パソコンでTVが見られるというのは、ほんとうに静かであるパソコンを見違えるものにする。ネットもTVもこのパソコンで見られるとなったら、このパソコンを使うことがやたら多くなる。活用の幅が変わりそうである。





さいきん来ないご意見・ご感想お待ちしております。 
 ues@leo.interq.or.jp

■おすすめ
人生論の古典■

『自省録』 マルクス・アウレーリウス
岩波文庫
 

「心を消去せよ。さすれば何の悩みもない」

『キリストにならいて』 トマス・ア・ケンピス 岩波文庫
 

『聖書』につぐ世界第二位のベストセラー。

『老子・荘子』 世界の名著 中公バックス
 

逆説の中に真実がある。

『菜根譚』 洪自誠 岩波文庫
 

達観した人生観。

『陶淵明全集〈上〉』 岩波文庫
 

栄達から脱落した生き方。

『捨てて強くなる―ひらき直りの人生論』 桜木健古 ワニ文庫
 

競争的価値観を笑え。

『清貧の思想』 中野孝次 文春文庫
 

無欲の高貴さをめざした古来の日本人の生き方。

『寒山拾得』 講談社
 

仏教的厭世観。

『幸福論』 アラン 集英社文庫
 

考えないことをすすめた哲学者。

 『徒然草』 吉田兼好 角川ソフィア文庫
 

世をはかなむ仏教観。

『幸福について』 ショーペンハウアー 新潮文庫
 

批判的人生観。

『ウォールデン 森で生きる』 ソーロー ちくま学芸文庫
 

元祖フリーター。

『自由からの逃走』 フロム 東京創元社
 

自由を恐れる人々。

 『自由論』 ミル 岩波文庫
 

多数者の専制を警戒せよ。

『シレジウス瞑想詩集〈上〉〈下〉』 岩波文庫
 

神秘思想家の心の持ち方。

『愛と怖れ』 ジャンポルスキー VOICE
 

他人を攻撃するとは自分の怖れである。

『未来の生』 クリシュナムルティ 春秋社
 

中古品ではない生き方へ。

『存在の詩』 ラジニーシ めるくまーる
 

安らかな心へ。

『どう生きるか、自分の人生!』 ウェイン・ダイアー 知的生きかた文庫
 

自分の考えと現実は同一ではない。

『道は開ける』 カーネギー 創元社
 

希望がもてる生き方。

『積極的考え方の力』 ピール ダイヤモンド社
 

前向きさを忘れたときに。

『生業の歴史』 宮本常一 未来社
 

かつての日本人の生きざま。

『大衆の反逆』 オルテガ ちくま学芸文庫
 

みんなと同じであることに満足する人たち。

『孤独な群衆』 リースマン みすず書房
 

画一化する哀れなわれわれの姿。

『欲望と消費』 イーウェン 晶文社
 

消費に慰めを求めるわれわれ。

『無能の人』 つげ義春 新潮文庫
 

脱落する生き方。

『旅へ―新・放浪記〈1〉』 野田知佑 文春文庫
 

就職を拒んだ若者の彷徨。

『インテレクチュアルズ―知の巨人の実像に迫る』 ポール・ジョンソン 講談社学術文庫
 

知識人の野望と欲望。

『夜這いの民俗学・性愛論』 赤松啓介 ちくま学芸文庫
 

性とは人間の生きざまである。


   
inserted by FC2 system