バナー
本文へジャンプ  

 


 ■050208断想集 歴史・名言・アクセス解析


 ■なぜ歴史に偉大さを探すのだろうか      2005/2/8

 古代史の本を何冊か読んでいて気づいたのだが、王国のような強大な権力を探したり、大和より以前に大和を支配した権力者を探したりする自分の無自覚な傾向に気がついた。

 だいたい人が歴史にもとめるものは天下人や戦国武将の活躍であったり、明治維新の志士たちの動き方であったり、古くなれば強大な勢力を誇ったローマ帝国であったり、哲学者の文化を築いたギリシャ文明であったり、科学の進んだ超古代文明であったりする。

 もとめられる歴史というのは、自分たちの価値観やものさしなのである。偉大なものや強大なもの、優れているもの、勝っているもの、進んでいるものなどを歴史に見いだそうとするのである。

 歴史にもとめるものはじぶんの憧れや願望のようである。そしてたぶんそれは無自覚である。ふだんは権力や権勢をもとめたいとは思っていない私でも、歴史にはそれらを求めてしまうのである。自分の無自覚な権力志向を見せられた気がする。

 人が力あるものや強大なものをもとめてしまうのはやはりそこに生命の安定があるからだろう。しかし現代人には野放しの権力志向は抑制されているだろうし、権力崇拝や国家崇拝は禁止されているはずである。それでも歴史にもとめているものは権力ではないのだろうか。

 願望である。権力や強大なものに安全や安定をもとめる。そこには現在の自分に欠けている安心や全能感、優越心があるように感じられる。われわれは自分という個人にはまったく関係がないが、権力や強大なもの、強い国家や進んだ文明などを知識の所有によって安心しようとする。そしてそこに満足をもとめようとする。

 歴史をもとめる気もちには自分の権力志向の願望がある。そして現代では国家崇拝や権力志向は禁止されているはずである。だから歴史にはその願望があふれ出すことになる。権力や強大なものを歴史に見い出そうとする願望に歴史は彩られることになる。

 人間の権力志向の危険なところは、空想や観念が際限ないことである。国家や文明という名の下に人間が蹂躙されるようになる。空想による心の安定は危険なものをふくんでいるのである。

 歴史や物語にもとめられる権力願望というものをわれわれはどう遇したらいいのだろうか。心の中の価値観や願望自身を問われるべきではないだろうか。





  富・栄誉・権力についての名言集
 ▼1999年に編んだリバイバルです。    2005/2/8再UP



 ――ヘンリー・ソーロー『森の生活』 

 ■たいがいの人間は、比較的自由なこの国においてさえ、単なる無知と誤解からして、人生の人為的な苦労とよけいな原始的な労働とに忙殺されて、その最もうつくしい果実をもぐことができないのである。……じっさい労働する人間は毎日真の独立のための閑暇をもたない。

 ■大部分の贅沢は、そして多くのいわゆる人生の慰安物は、人類の向上にとって不可欠でないばかりでなく、積極的な妨害物である。贅沢と慰安に関しては、最も賢い人々はつねに貧乏人よりもっと簡素で乏しい生き方をしてきた。

 ■どうしてわれわれはこうもせわしなく人生のむだづかいをして生きなければならないのか。われわれは空腹にならない前に飢え死にすることに心を極めている。……仕事仕事というが、われわれは大切な仕事なんかしていない。われわれは舞踏病にかかっているので頭をしずかにしておくことができないのだ。 


 ――ジャン・ジャック・ルソー『人間不平等起源論』 

 ■彼は自分の卑しさと彼らの保護とを得意になって自慢する。そして自分の奴隷状態を誇り、それにあずかる名誉をもたない人たちのことを軽蔑して語るのである。

 ■おのおのが他人の不幸のなかに自分の利益を見いだすというような商業について、人々はなんと考えてよいのだろうか。……自分の同胞の損害のなかにわれわれの利益を見いだし、一方の損失はほとんど常に他方の繁栄となるのである。


 ――洪自誠『菜根譚』
 ■豪奢な人は、いくら富裕であっても、(ぜいたくをするので)、いつも不足がちである。ところが、倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。

 ■世人は名誉や地位があるのが楽しみであることを知っているが、名誉も地位もない者の方が、もっとも真実な楽しみを持っていることを知らない。また、世人は飢えとこごえで衣食にこと欠くのが憂いであることは知っているが、衣食にこと欠かない富める者の方が、いっそう深刻で憂いを抱いていることを知らない。

 ■富貴の家の中で生長した者は、その欲望は猛火のように盛んであり、権勢に執着することは激しい炎のように盛んである。

 ■栄位のゆえに我を人が尊ぶのは、この身につけた高い冠や大きな帯のためである。微賎のゆえに我を人が侮るのは、この身につけたもめんの衣服とわらぐつのためである。そうとすれば、もともと我を人が尊ぶのではないから、どうして喜んでおられようぞ。もともと我を人が侮るのではないから、どうして腹を立てておられようぞ。

 ■権力の強い者に従い、勢力の盛んな者に付くという人生態度のわざわいは、(権勢の座から失脚したとき、当然であるが)、非常に悲惨なものであり、またその報いも非常に早い。(これに反して)、心の安らかさを住み家とし、気楽な生活を守るという人生態度の味わいは、(一時的な濃厚さはないが)、きわめて淡白であり、またその楽しみも最も永続きするものである。

 ■(人間の欲望には限りがない)、物を得たいと欲ばる者は、金を分けてもらっても、その上に玉をもらえなかったことを恨み、公爵の爵位を与えられても、その上の領土を持つ諸侯にしてくれなかったことを恨む。このようにして権門豪家でありながら、我からこじき同然の心ねに甘んじている。
 (これに反して)、ほどほどで満足することを知る者は、あかざのあつものでも、よい肉や米よりもごちそうであると思い、布で作ったどてらを着ても、高価な皮ごろよりも暖かいと思う。このようにして貧しい庶民でありながら、心ねは王侯貴族よりも満ち足りている。

 ■財産の多い者は、莫大な損をしやすい。だから金持より貧乏人の方が、失う心配もなくてよいことがわかる。また地位の高い者は、つまずき倒れやすい。だから身分の高い者よりは身分のない庶民の方が、(つまずく心配もなく)、いつも安心してられてよいことがわかる。

 ■高い冠に幅広い帯をつけた礼装の士人も、ふと、軽いみのに小さなかさをつけた微服の漁夫や農夫たちが、いかにも気楽に過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、うらやましいと思わないでもなかろう。また、豪家なじゅうたんの上で暮らしている富豪も、ふと、竹すだれの下で小ぎれいな机に向かって読書している人が、いかにも悠然として静かに過ごしているのを見て、(気苦労の絶えないわが身と比較して)、慕わしい気持を起こさないでもなかろう。
 それにもかかわらず、世人はどうして、尻尾に火をつけた牛を駆り立てるように、また、さかりのついた馬を誘い寄せるように、(功名富貴を求めることに血まなこで)、そうしてばかりいて、自分の本性にかなった悠々自適の生活をすることを思わないのであろうか。


 ――マルクス・アウレーリウス『自省録』 

 ■それともつまらぬ名誉欲が君の心を悩ますのであろうか。あらゆるものの忘却がいかにすみやかにくるかを見よ。またこちら側にもあちら側にも永遠の深淵の横たわるものを、喝采の響きの空しさを、我々のことをよくいうように見える人びとの気の変わりやすいこと、思慮のないことを、以上のものを囲む場所の狭さを。 

 ■死後の名声について胸をときめかす人間はつぎのことを考えないのだ。すなわち彼をおぼえている人間各々もまた彼自身も間もなく死んでしまい、ついでその後継者も死んで行き、燃え上がっては消えて行く松明のごとく彼に関する記憶がつぎからつぎへと手渡され、ついにその記憶全体が消滅してしまうことを。

 ■もうしばらくすれば君は灰か骨になってしまい、単なる名前にすぎないか、もしくは名前ですらなくなってしまう。そして名前なんていうものは単なる響、こだまにすぎない。人生において貴重がられるものはことごとく空しく、腐り果てており、取るにたらない。

 ■名誉を愛する者は自分の幸福は他人の行為にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にある思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思うのである。

 ■昔さかんに讃めたたえられた人びとで、どれだけ多くの人がすでに忘却に陥ってしまったことであろう。そしてこの人びとも讃めたたえた人びともどれだけ多く去って行ってしまったことだろう。


 ――ショーペンハウアー『幸福について』 

 ■対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。

 ■他の人たちに見られるような、単に実際面だけの生活、単に一身の安寧をめざしただけの生活、深みの進歩がなく単に延長的な進歩しかなしえない生活は、この知的な生活に比べれば悲惨な対照をなすものだけれども、彼にとっては単なる手段にすぎぬこうした生活を、世の常の人は、それをそのまま目的と認めざるをえないのである。

 ■富や権勢をこそ唯一の真の美点と見て、自分もその点で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢にのみによって測ろうとする。――ところでこういったことはすべて夫子みずから精神的な欲望をもたぬ人間だということから出てくる帰結である。


 ――荘子 

 ■お前さんは名声をとうとばれているようだが、名声というものは公共の道具、財産であり、自分だけが欲ばって多く得ようとしてはならないものだ。
 富をよしとして追求するものは、自分の財産をゆずることができず、高い地位にあることをよしとするものは、人に名誉をゆずることができず、権力を愛するものは、人に権力の座を与えることができない。これらのものを手にしているときは、失うことを恐れて震えおののき、反対にこれを失えば嘆き悲しむ。しかも、このあわれむべき状態を反省することもなく、休むひまもない営みに目を奪われているものは、天から刑罰を受けてとらわれの身となっている人間だというほかない。

 ■会うものは必ず離れ、成功するものは必ず失敗するときがあり、きまじめで角のあるものは挫かれて辱められ、地位が高くなれば批評の的になり、何事かを行なおうとするものは妨害を受け、賢明であれば謀略にのせられ、暗愚であれば欺かれるという始末である。これでは世のわずらわしさからのがれようとしても、どうしてそれができようか。あわれというほかない。

 ■小人は財貨を追い求めて身を破滅に陥れ、君子は名声を追い求めて身を犠牲にする。

 ■天下の人びとは、こぞって外物のために自分の身を犠牲にしているといってよい。ところが、仁義のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを君子とよび、貨財のために身を犠牲にすれば、世間ではこれを小人とよぶ。自分の本性を犠牲にしていることでは同一であるのに、君子と小人の区別をつけるのである。


 ――老子 

 ■欲望が多すぎることほど大きな罪悪はなく、満足することを知らないほど大きな災いはなく、(他人のもちものを)ほしがることほど大きな不幸はない。ゆえに(かろうじて)足りたと思うことで満足できるものは、いつでもじゅうぶんなのである。 


 ――寒山 

 ■貪欲心の旺盛な人間は好んで財産を集めるが、これはあたかも梟が子供を愛するようなものである。その子供は成長すると母親を食べてしまう。財産が多くなればなるほど、かえって自分の身を害することになる。財産を人に恵むなどして無くすれば福が生じ、財産を蓄えるのであれば災難が起って来る。財産も無くまた災難も無ければ、青空の雲の中で翼を自由にはばたくことができる。 

 ■世間の人がうまく体裁をつくろうのを別に羨ましく思わない。世間の人が心身を使い果たしているのは名利のためであって、あらゆる貪欲をもってして自分の体を前進させている。夢幻のようなはかない人生は、あたかも燈火の燃え残りのようなもので、末は墓の中に身を埋めることになりはしないか、そうなるに決まっている。

 ■俗世間の人々を見ると、塵や埃が立ちこめてぼうっとしている道を気忙しく歩いて行く。人生における究極または肝心なことが何であるかを知らずに、いったいどうして船着き場を見つけようとするのだろうか。栄華というのはいつまで持続するのだろうか。親族というものはほんの暫くの間の血のつながりである。たとえ莫大な黄金が自分の所有になるにしても、林の下での貧困な生活にはとても及ばない。


 ――吉田兼好『徒然草』 

 ■財宝を持っていると、自分の身を守る上に、事を欠くようになる。と同時に、害を引きよせ、煩を招く媒介となるものだ。利欲に迷うのは、とんでもなく馬鹿な人なんだ。

 ■蟻のように集まって東西に急ぎ、南北に走ってい人間ども。彼らがせわしそうにしていることはいったい何だ。生命を貪り求め、利欲を求めて、飽きるときがない。待ち受けているものは、結局、老と死にすぎない。


 ――アンゲルス・シレジウス『瞑想詩集』 

 ■最も貧しい人こそ最も自由な人
 財産の乏しい人は何より自由である。だから正に心貧しい人ほど自由な人はないのだ。

 ■放念した者は損をしても悩まない
 この世にまったく所有欲をもたない者は、たとえ自分の家を失ってもその損失を悩むことはない。

 ■平穏無事を求める者は、多くのものを見逃す
 人よ、けちけちと自分の財産だけを守ろうとすると、あなたはもはや真の平安の中に住まなくなるだろう。

 ■欲の深い者は足ることを知らない
 足ることを知っている者はすべてをもっているのだ。欲深く多くを求める者は、どんなに多くのものを得ても、まだまだ足りないと思うのである。

 ■賢明な集め方と愚かな集め方
 守銭奴は愚かな者だ。彼は滅びゆくものを集めようとしている。施しを好む者は賢明な人間だ。彼は滅びぬものを得ようとしている。

 ■賢者と守銭奴の金のしまい場所
 賢者は賢いから金が入ると寄金箱に入れてしまう。ところが守銭奴はその金を心の中にしまい込もうとするから心の休まる時がないのだ。

 ■富は心の中にもつもの
 富はあなたの心の中になければならない。心の中にもたなければ、たとえ全世界を所有したとしても、それはあなたの重荷になるだけだ。


 ――ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』
 ■私たちは、昔の人々が貧乏を理想化したのが何を意味したのかを想像する力さえ失っている。
 その意味は、物質的な執着からの解放、物質的誘惑に屈しない魂、雄々しい不動心、私たちの所有物によってではなく、私たちの人となりあるいは行為によって生きぬこうという心、責任を問われずともいかなる瞬間にでも私たちの生命を投げ出す権利、――要するに、むしろ闘志的な覚悟、道徳的な戦闘に堪えるような態勢、ということであった。

 ■たいていの場合には、富を得ようとの熱望と、富を失いはしまいかという恐怖心とが、おもに臆病を生み、腐敗を広めているのである。貧を恐れない人が自由人となっているのに、富に縛られている人が奴隷たらざるをえないのである。


 ――ジッドゥ・クリシュナムルティ『未来の生』 

 ■この財産は自分のものだ、他の誰にもそれを渡したくないと思うから、私たちの所有物を保護してくれる政府を作り上げてしまうのである。……君たちが権威を生み出してしまうのは、安全な行動のしかた、確実な生き方を求めているからだ、ということだ。まさに安定を追求すること自体が権威を生み出し、そしてそれゆえに君たちはたんなる奴隷、機械のなかの歯車になり、何も考える力も創造する力もなしに生きる羽目になるのだ。


 ■私たちは、自分に確かさを感じさせてくれるものを望み、多種多様な保護手段を備え、内面的ならびに外面的な保護物で身を固める。自分の家の窓と戸を閉めて内にこもると、私たちはとても安心し、安全で、煩わされないでいられると感じる。……私たちが恐れ、自分自身を閉じれば閉じるほど、それだけ私たちの苦しみはつのる。

 ■君が野心的なとき、宗教的にまた世俗的な意味で君がひとかどの者になろうと努力しているとき、もし君自身の心をのぞきこんでみれば、君はそこに恐怖の虫がいるのを見出すことだろう。
 野心的な人間は、誰よりも一番恐れている人間である。なぜなら彼は、あるがままの自分であることを恐れているからである。彼は言う。「もし私がいまのままの自分だったら、私は何者でもない。それゆえ、私はひとかどの人間にならなければならない。知事、判事、大臣にならなければならない」

 ■私たちはより多くを望む。成功を望み、尊敬され、愛され、見あげられること、強くなること、有名な詩人、聖者、雄弁家になること、総理大臣や大統領になることを望む。……この切望は私たちが不満であること、満足していないことを示している。……そしてより多くの衣服、より多くの力等を手に入れることによって、自分の不満から逃避できると考えていることを意味している。……私はただ、衣服や権勢、車といったものでそれをおおい隠したにすぎないのだ。

 ■自分が重要だということの気持は、必然的に葛藤、苦闘、苦痛をもたらす。なぜなら、君はたえず自分の重要性を維持しなければならなくなるからだ。







 ■富田林・寺内町はけっこういい雰囲気でした。     2005/2/12

 大阪には珍しく、江戸時代の商家がのこっているところがあります。富田林の寺内町です。ちょっと寄ってみたら江戸時代の雰囲気がのこっていて思わず感動しました。写真でお見せします。

この一向宗興正寺別院が寺内町(じないまち)の中心です。宗教自治都市が築かれたわけですね。高野街道と大和への街道が重なるところから商業が栄えました。
いい感じの窓枠ですね。いかにも日本文化というか、江戸時代の粋って感じがしますね。
古い町並みといえば、一ヶ所だけぽこりと旧家が残存している町が多いなかで、この富田林は通り丸ごとが旧家の面影をのこしていて、いい雰囲気があるのだな。
通り自体が木造建築や白壁の蔵に囲まれていたりしたら、江戸時代の町並みに迷い込んだような気がします。
あとは道路が舗装されていない土の道であったり、石畳であったりしたら、もっと雰囲気があったのになと思います。

  富田林の地図です。





 ■きんぴかぴか金閣寺!      2005/2/13

 室町時代の北山文化といわれるところを歩いてきました。金閣寺と賀茂神社を見てきました。金閣寺は「なんじゃ、これはー?」とやっぱり思いましたね。写真です。

下賀茂神社に行くには長い林の参道を通り抜けなければなりません。威厳と尊厳のランドスケープがうまくデザインされていると思いました。
下賀茂神社の摂社ですけど、池がうまく配備されていて、境内の風格を高めていました。
賀茂川には流れの段差がいくつもつけられていて、景観の快さを増していました。カモやサギも人を怖れずにたくさんいました。京都は水や自然を見せる工夫がうまいんですね。
上賀茂神社には立砂といわれる神山をかたどった砂がつき固められていました。なんだかよくわからないよー。これを乳房だと思うのはまちがいなのかな。鳥居は子宮の入り口だというし。
境内には川が流れているんですね。自然の景観が、世界が象徴されているわけですかね。
「出たー!」という感じでした。きんぴかだー。成金趣味なのか、崇高な極楽浄土を写しているのか、迷うところです。
裏側から見たところです。あれ、一階が白壁だ。間近で見ているとここは人が住んだり、くつろいだりするところではない感じがしました。こんなところで修行したり、茶を立てたりしても居心地悪そう。
太陽の光を浴びて、強烈に光っていました。たしかにこの世にはない極楽浄土みたいだ。でも金まみれの世界って欲まみれじゃないのか。。
境内にはわび、さびの極致のような建物も多くありました。
黒川紀章の京都駅ビルです。かなり個性的で近未来的です。これも神社仏閣に負けず劣らぬの名所だなあ。
白くぼうっーと京都タワーがそびえ立っていました。かなり俗っぽい発想のタワーですね。

  ▼京都はむやみに歩いて、たいへん疲れるのだな。バスでは近距離すぎるし、市内では地上を走る電車が見当たらないし。で、ひたすら歩くことになる。





 ■派遣会社の仲間意識の失敗      2005/2/16

  

 2月5日に放送されたNHKスペシャル『フリーター漂流〜モノ作りの現場で〜』はネットでなかなか反響が大きかったようだ。派遣のフリーターたちがたらい回しにされるさまを映していた。

 私も派遣のバイトは何度か経験したことがあるからこんなことはなんの驚きもないことだ。派遣というのはほとんど人間扱いされていなような気分になる。また会社の仲間という意識からも疎外される。

 仕事はすぐに見つかる。ハンコと履歴書さえもっていけば仕事を見つけてくれる便利さがあるからついつい頼ってしまうのだが、派遣は会社の仲間意識という一体感から強烈な断絶感を味わわされるから、何度か経験してもう近づくのはやめようと思うようになった。

 工場も派遣会社も日本的な会社の仲間意識というものを引き裂くから、ものすごい失敗をしていると思う。「獣の集団があそこにいる」ような感覚になってしまうのである。

 日本の会社は仲間意識でいっしょに仕事をがんばろうという感覚でモチベーションをつくっている。仲間となら少々つらくとも、苦しくとも、がんばろうという気持ちで仕事をしている。

 工場や派遣会社はその感覚を引き裂き、「人間」でないような違和感をひきおこす。心がすさみ、仕事よりか集団の中での居心地の悪さから派遣はすぐ辞めてしまい、だから工場や会社はますますひんぱんに派遣バイトをとりいれることになり、人間扱いされない感覚を派遣バイトに味わわせるようになるという悪循環におちいる。仕事がキツイという基礎があるわけだが。

 これから派遣を利用したいと思っている人にはやめておいたほうがいいと私はいいたい。仲間意識から疎外されるというものがどんなものか味わうだけである。派遣でない会社を探すべきである。派遣でもアットホームに接してくれるところもあるだろうが、工場系に「人間らしさ」はまず見つけられないだろう。

 工場にこんなに人間らしさがなくなったのは効率化や合理化がとことんまで進んだためか、それとも工場は以前からこんなもので豊かさを知った若者たちが逃走したからこうなったのか、状況は悲惨なものである。

 この日本の労働状況を知らせる番組に反響があったということは、おおかたの日本人は日本の労働現場というものはこういうものだということを知らなかったのだろう。これが働くということであり、労働社会というのはこういうものだ。

 学校や社会はそれを若者に知らせなさすぎるのだ。物語や消費の甘い夢ばかり見させられる若者はなにも知らずにこの過酷な労働社会に出会うことになる。

 日本は戦時中につくられた国家総動員体制が経済や会社の仕組みにそのまま存続した社会である。つまり軍国主義が経済の中にのこっているのだ。だから個人や人々は守られない。国家の勝利システムのために個人はだれにも守られないのである。このシステムはニートやホームレスの増加によって、ソビエトのように自家崩壊するまで待つしかないのだろう。






 ■アクセス解析でようやく読者の姿形が見えた。    2005/2/19

 アクセス解析をはじめてまだ一ヶ月はたっていないが、読者の声や存在をはじめて身近に知ることができてたいへんよかったと思う。カウンター数だけではわからない読者の行動や要望が読めて、自分のささやかなHPづくりもムダではなかったのだと思えた。

 カウンター数によって私はトップページの来訪者数ばかり気にしていたが、7年もの蓄積がある私のサイトではほかのページの来訪者が多いことも知ることができて、トップページをそんなに気にすることはないことを知った。

 アクセス解析でいちばん意外に思ったことは、このサイトはリンクから来る人より検索ワードから来る人が多いことだ。思いもしなかったことだ。ネットはTVや新聞のように受動的なメディアになると思っていたが、能動的に自分の探し物を見つけようとする多く読者の存在を知った。受身の読者ばかりではないことはネットの大きな可能性だ。

 今月の検索ワードランキングだ。どちらかというと、ほかの検索と重ならない一度だけの検索ワードのほうが多い。668位まである。

   
1 書評 2.3% 23
2 自由という服従 2.1% 21
3 日本書紀 1% 10
4 地名 0.9% 9
5 「宮崎アニメ」秘められたメッセージ 0.8% 8
6 関裕二 0.7% 7
7 歴史 0.7% 7
8 社会学 0.7% 7
9 心理学 0.7% 7
10 感想 0.7% 7
11 由来 0.6% 6
12 地形 0.6% 6
13 批判 0.6% 6
14 大阪 0.6% 6
15 大衆教育社会のゆくえ 0.5% 5
16 プロフィール 0.5% 5
17 画像 0.5% 5
18 嫉妬しない方法 0.5% 5
19 写真 0.5% 5
20 天皇のルーツ 0.4% 4
21 岸田秀 0.4% 4
22 日本 0.4% 4
23 万物斉同説 0.4% 4
24 荘子 0.4% 4
25 ヌード 0.4% 4
26 山形浩生 0.4% 4
27 地理 0.4% 4
28 スタイリッシュエフェクト 0.4% 4
29 感じない男 0.4% 4
30 森岡 0.4% 4

 『自由という服従』が上位にきているのはオススメしない本だけに残念である。『宮崎アニメ〜』からたどってくる人が多いのは、やはり新刊本の書評を読みたい人が多いということだろう。読者の要望に応えるには新刊本や話題書をとりあげる必要を感じたのだが、やはり私は自分の読みたいものもかたくなに大切にしたいと思う。『感じない男』は思っていたより少ないな。検索ワード数からフィードバックを活かしてゆきたいとも思う。

 生ログから検索内容をたどれるのは、読者の行動や要望を知るうえでたいへん役に立つ。まるで読者の目のように検索や結果を見ることができるからだ。これは検索内容をたどれたのかとか、失敗だとか、うまい検索でこのページにたどってこれたなとか、いろいろ知ることができる。また話題や流行のワードを知ることもできて、フィードバックに活かすこともできて思わぬ収穫だ。

 個人情報のプライバシー問題もあると思うが、個人名も特定できないことだし、べつに知られたって嗜好や傾向がわかるくらいで読者のアンケート調査に答えたくらいと思うのも妥当なんだろう。もし気になるようなら津村ゆかりさんのアクセス情報と個人ログで足跡を消す方法を探られてはいかかでしょうか。

 ドメインを見ていると会社から見ている人もいることを知る。仕事中でも見ていたりして、いいなと思う(笑)。出版社から来ている人もいるが、仕事上の必要から見ているのだろうか、それとも遊び? 大学から来ている人は光栄なことだが、教授が見ているのか、学生が見ているのかはわかりません。残念。

 時系列アクセスや週間アクセス、月間アクセスなどは見に来ている人がいるとか、多い少ないがわかったりするが、べつだんなにかに利用できるものではないみたいである。書評やエッセイの更新によってアクセスの変化を読みとることが必要なんだろう。

02/18(Fri) 71 129
02/17(Thr) 86 159
02/16(Wed) 90 201
02/15(Tue) 82 141
02/14(Mon) 83 126
02/13(Sun) 76 130
02/12(Sat) 62 107
02/11(Fri) 73 102

 アクセス解析をはじめてたいへん得ることが大きかったと思う。なによりもサイト運営では読者の影や形もまるで見えないのである。ほんとうになにも見えない。いわば客が一人もいない観客席に向かって歌を唄っている売れない歌手みたいなものである。だからアクセス解析は観客の具体的な姿や形をようやく見せてくれる貴重なものである。

 このサイトは7年もつづけておりながらアクセス数が増えない寂しいサイトである。アクセス解析で読者の要望や声を聴きとることによって、読者の喜びや楽しみを増やしていこうと思うしだいであります。ほかの人気検索ワードや話題のキイワードの動向も気にしつつ、読者の声を活かしてゆきたいと思っておるのであります。

 ただやはり自分の知りたいこと、考えたいことを優先にするのは曲げないつもりです。自分のためのサイトだからだ。そのなかに読者の要望やフィードバックを折り込んでゆきたいと思う。それが自分の喜びにもなれればいいと思う。






 ■なぜ犯罪報道はマニアック・マーケットを叩くのか      2005/2/21

 犯罪が起こるたび、おたくやロリコン、ゲームやマンガなどの趣味が叩かれることになる。

 もういい加減にしてほしいものである。その趣味をもっている人たち全員が犯罪を犯したわけではないのに、全員が犯罪者のような目で見られることになる。

 たとえばフジテレビ社員やソニー社員のただひとりが犯罪を犯したからそこの社員はすべて犯罪者だとされるようなものである。こんな原因究明でいいのか。報道被害という損害を考えられていないのか。

 マスコミはとにかくマニアック・マーケットを叩くのが好きみたいである。人の趣味やマーケットというものはどんどん昂じてゆくものである。興味外の者たちにはそれが理解できないだろうし、怪しさや嫉妬心を抱いたりし勝ちである。

 マーケットで売られているということは世の中の正当な商行為であるという認識をもたらすだろうし、マーケットからは積極的に楽しめ、買え、上等な客になれという声も感じることだろう。顧客間においても競争が生じ、コレクションやグレードが競われることになる。マーケットはどんどんエスカレートしてゆくことになる。マーケットの世の中に生きている以上これは推奨されていることだし、どの業界にも見られることである。

 マスコミはそこを犯罪報道と絡めて叩くのである。新しいマーケットやマニアック・マーケットの利益や業績のおこぼれをもらいたがっているかのようである。

 犯罪報道はその性質上売れているマーケットの悪い面としかつながれない。いままであったようにインターネットやケータイ、マンガ市場のネガティヴ面ばかりにつながろうとする。彼らにとって新しいおいしいマーケットは毒を吐くことでしか利益を頂戴できないのである。

 マニアックさや性的嗜好は犯罪報道によって抑制される必要があるのだろうか。マーケットはいくらでもその世界を推奨するものだが、犯罪報道はいつもその抑制をおこなおうとする。犯罪報道はこんにちの道徳抑制たりえるのか。バタイユ流にいえば、禁断ゆえの快楽をますます増すだけに作用しているように思えるのだが。






 ■TV『ラ・ストラーダ 道は何を運んだか』に批判意識はない。       2005/2/27

    ローマ帝国のアッピア街道

 2/26にフジテレビ系で『ラ・ストラーダ 道は何を運んだか』という番組をやっていた。道の歴史についてなにを語るのかと思っていたが、まあこういう教養番組は好きです。

 古代の琥珀の道や塩の道が紹介されたり、ザルツブルグの塩(ソルト)の道がサラリーの語源であるということ(サラリーマンとは塩男?)、ローマ街道の車輪幅はげんざいの鉄道の車輪幅と同じである、馬車生産の産地のハンガリーのコチュ村がコーチの語源ということ、など歴史雑学が多くまなべた。

 なぜ道についての歴史かと思ったが、日産が提供をおこなっていたからだった。番組中の登場人物が日産車の宣伝をするあたりはうまいつくりだなと思ったが、日産宣伝者だけがこういうふうに道に興味をもつだろうけど、一般人が道にそんなふうに興味をもつかと思った。

 道が発展してゆくことによって自動車文化が花ひらいたと自動車帝国の讃美のような番組になっていたのだが、批判的視点がまったく入れられないのが無料テレビ番組の限界だ。自動車文化が肯定的だけに捉えられるのはものすごく片手落ちの教養である。公害がある、交通事故死がある、無益な物質・消費社会の立役者だ、遊びや集いの場を街から奪った、目的ばかりで過程を楽しめない社会をつくった、など批判はいろいろもりこむ必要があるだろうけど、広告でなりたつテレビにはムリな話だ。

 たいそうな歴史ロマン番組だと思ったが、たんに道の雑学的知識が得られただけの番組だったのかもしれない。私も道の何かについて知りたいと思って見たわけではないので何について探究すべきだったといえないけど、道ができることによってなにが変わったか、どのような効用や害悪があったのかと考えてくれればよかったのに思う。

 「道は偉い、なぜなら日産が儲かる」みたいなテーマならこれは教養番組ではない。宣伝番組である。あとから思えば、そういう番組であった。教養はやはり本のようにお金を払ってでないと身につかない。タダほどコワイものはない〜。

    『ターミネーター3』

 テレビではじめて『ターミネーター3』を見たのだが、期待していたわりには感想も書けないような低調な映画だった。『T2』のような液体金属ターミネーターのような衝撃はないし、女ターミネーターのすごさやしつこさはあまり感じられなかったし、ストーリにもおもしろみがなかった。4作目につなげるための中継ぎ作品にしか過ぎないみたいだ。

 シリーズ作品でいえば、『エイリアン』は二作目がものすごく恐ろしくてよい出来になっていたが、後の作品はてんでよくなかった、『バック・トゥ・ザー・フューチャー』はまあ三作目までおもしろいままだった、古くは『猿の惑星』は4作目以降はほぼ印象にのこらない、といった感じでシリーズは出来不出来が極端だ。

 でも『ターミネーター』ってあまり深いテーマがなくて、ターミネーターの驚異で見せるような映画だったので、中身がむきだしになっただけなのかもしれない。核戦争の脅威はだいぶ薄くなったし、『T2』のような精神病院(因習ともとれる)への批判のようなドラマもなかったし、『ターミネーター』はもう芯が抜けてしまったのだろう。4作目は『猿の惑星』4作目のようにコーネリアスとジーラが抜けてしまったようなますます遠くなる映画になるのだろうな。





あなたの思ったこと、感じたこと程度でいいですから、
気軽にメールしましょう。
 
 ues@leo.interq.or.jp




























































 Special Thanks!

 ヘンリー・ソーロー『森の生活』 神吉三郎訳 岩波文庫
 


 ルソー『人間不平等起源論』 小林善彦訳 中公文庫
 


 洪自誠『菜根譚』 今井宇三郎訳 岩波文庫
 


 マルクス・アウレーリウス『自省録』 神谷美恵子訳 岩波文庫
 


 ショーペンハウアー『幸福について』 橋本文夫訳 新潮文庫
 


 『老子 荘子』 小川環樹 森三樹三郎 中公バックス
 


 『寒山拾得』 久須田文雄訳 講談社
 


 吉田兼好『徒然草』 今泉忠義訳 角川文庫ソフィア
 


 『シレジウス瞑想詩集(上)』 上田重雄・加藤智見訳 岩波文庫
 


 ウィリアム・ジェームズ『宗教的経験の諸相』 桝田啓三郎訳 岩波文庫
 


 ジッドゥ・クルシュナムルティ『未来の生』 大野純一訳 春秋社
 



   
inserted by FC2 system