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 御堂筋ぶらぶらスナップ        2004/5/16




 大阪・御堂筋沿いを南からぶらぶら北に歩いてみました。街中で写真をかまえるというのは恥ずかしくもあり、勇気もいるものです。人にとっては価値のない街中の写真を撮る気恥ずかしさがありますし、人の写真を勝手には撮ってはならないみたいな暗黙の了解もあると思いますからね。

 まあ、私なりに大阪の表情を切り取ってみました。私がふだん大阪で見ているものと思っていることを感じくれればいいなと思います。


難波駅から南海通に向かいます。ここは心斎橋へとつづくミナミの中心街です。さあ、ここからはショッピングと人々の歓楽と欲望の集合がはじまります。
南海通の中。人でうじゃうじゃ。ゲーセンやフード・ショップ、ファッション・ショップが並び、活気にあふれています。大阪の消費欲望の中心です。消費が人生の最大の娯楽・目的になった人たちが毎日集まってきます。
いわずとしれたグリコの看板がある道頓堀。クレジットカードの広告が目立ち、借金無間地獄の現代を垣間見せています。食べることから金転がしの毎日へ。
長堀通をこえると高級ブランドショップが並ぶようになりました。ルィ・ヴィトンです。ここらはいぜんは完全にオフィス街か、卸問屋の地域だったはずですが消費街が拡大しています。生産より消費の時代へを象徴しています。
こちらはカルティエです。むかしはデパートの中に入っていたものが路面店が増えました。ブランドへの欲望と需要が拡大したということです。
南御堂です。五木寛之がNHKでいってしましたが、むかしの大阪人はこの御堂の近くに商売の地をかまえたかったそうで、けっこう信仰心が大阪人にはあるそうです。私にはなんの寺か身近にいてもわからなかったけど。
高架の下にある船場センタービル。卸問屋がずらりと並んでいます。車の移動・輸送のための高速道路に押さえ込まれ、閉じ込められたようにも見えます。卸問屋の活気は外からはうかがい知ることができません。
北御堂の仏像。はじめて見たのですが銀ピカの仏壇にはびっくりしました。ここは何? 大阪のカネへの欲望の象徴? 金銀財宝教の殿堂か?外には蓮如と親鸞の銅像が雨ざらしの中、立っていました。
北浜にある緒方洪庵の適塾跡です。福沢諭吉などを教えたそうです。こういう知の伝統が大阪にあったことは頼もしいかぎりです。
緒方洪庵の銅像です。医者であり、蘭学をものにしたそうです。明治以前には学校がなかったような教え方をされますが、江戸時代にもそれぞれ階層別の学校がたくさんあり、多くの人が学校に通っていたそうです。
中之島中央図書館です。そんなに本は充実していなかったと思いますが、ここで自習する学生さんはぴりっと身がひきしまるみたいです。場所に力を借りるとはけしからんと思いますが、まあ人の勝手です。
堂島川の橋の下にホームレスの青テントがつらなります。高度成長の時代にホームレスはいなかっただけの話です。経済成長と国家の保障のもと、人々は自由に生きる権利さえ失っていたのです。奴隷の保障か? 自由の恐怖か?
堂島川に高速道路が走ります。江戸時代には廻船でにぎわったこの川はひっそりと役目を失っています。川が輸送の主役だった時代、川はもっと輝いていたんでしょう。川ってもっと楽しい空間であると思う。
堂島アバンザにあるジュンク堂。知の殿堂だ。書店に知のサロンのようなものがあれば、文化の厚みも増えるのにと夢想したこともあるが、いまはひとり知を楽しむほうがいい。
大阪駅前ビルのシャッター・ロード。日曜日だからふだんより店が閉まっていますが、このさびれ具合が私には心地よい。人ばかりの梅田のオアシスでもある。
梅田の旭屋書店のビルです。むかしは哲学書の専門書が山のようにあると思いましたが、ジュンク堂ができてからは負けています。
大阪の文化をつくりだしてきた阪急電鉄です。宝塚や芦屋の高級住宅街、阪急デパートなど電鉄がハイカラなことをしてきました。南海沿線に育った私としてはちょっとうらやましい。
ここはたまらん。人がなんでこんなにいるのかといつも思う。JRや地下鉄から阪急にのりかえるときの回廊。人でうじゃうじゃ。うぎゃーっ。
うわぁ、ここも人でうじゃうじゃ。梅田の地下街です。地下街というのはスキマや人の逃れるところ、隠れる場所がないから窮屈で緊迫した場所に思える。地下街ってあまり心地よくない。





 ▼写真というのは目のコピーと移動である。目というのはほんらい自分のいる場所のものしか見ることができないものである。写真はその場所に規定された目の移動や複製を可能にした。

 私たちは自分のいるところや行ったところしか見ることができない。写真はそういう場所につなぎとめられた目の移動を可能にしたわけである。

 われわれは写真によって目や場所の共有を可能にしたのである。もちろんこれは目だけの話である。写真は音もにおいも肌感覚も伝えてはくれない。実体験としての可視やその場所に存在したという実感はともなわない。

 したがって多くの欠損感を写真はわれわれにもたらす。欠損感をおぎなうため、われわれはその写真の場所へと身体を、五感を移動しなければならないわけだ。

 欠損が欲望の発火装置である。われわれは多くの目を共有することによってそれだけの数の欲望も手にすることになった。荘子は山中の村以外出たことがない人を幸せだといったと思うが、多くの目を共有するわれわれは幸せになれたのだろうか。




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