タイトルイメージ
本文へジャンプ
▼テーマは知識批判 

 


■030329断想集
 知識害悪論





   知識人の野心と権力欲     2003/3/29


 知識人は真理がほしいのだろうか、それとも権力がほしいのだろうか。また人類の進歩や幸福のために尽くそうと思っているのか、それとも自分の名誉や権力のために知をもとめようとしているのだろうか。

 知識人による二十世紀までの暴虐と殺戮の結果をみると、人間の知性と知識人を好意的に崇めるのは甘すぎるといわざるをえない。

 かれらはたしかに人類の進歩や幸福の大義のためにおおいに尽くしたのかもしれないが、その結果をながめてみると惨澹たるものである。実行者が悪かったではすまされず、知識に内在する論理の結果と考えるべきである。

 知識人はこれまでの社会を否定し、自分の奉じる思想は社会を変革できると信じていた。ものすごく放漫で、不遜な考えともいえる。そんな資格や権利はだれから与えたのだろうか。自己の知性にいっさいの懐疑をもたない尊大な自己と権力欲からうみだされたのではないか。

 自己の思想を信奉しきっていたのである。知性の万能を信じていたのである。そんな過信をうみださせるものといえば、やはり自己に対する過剰な自尊心と権力欲ではないのか。

 偉大な思想をうみだす原動力となるのは、やはりその個人の権力欲や名誉欲だろう。自己にその資格や権利があると考える。だから権威ある思想はうみだされる。自己にその資格があると思わないものはそんな大それた思想はうみださない。知識人の権力欲を疑ってみるべきである。

 もちろん偉大な思想というのは本人の思想よりか後世の人たちの評価により部分が大きい。ただそれは後世の知識人がみずからの権力欲の必要性から崇めたてるものである。みずからの権威を強めるために旧時代の先駆者を狩り出してきた科学みたいに。

 知識人は社会の支配をめざしてきた。軍人や富裕者による支配を転覆しようとこころみてきた。ルソーやマルクスは知識人による社会支配をおしすすめた。知性の万能を信じて理想社会は設計できると考えたのだが、その社会で暴虐と殺戮は大量におこなわれた。人間の知性に内在する結果だと考えるべきである。またはその思想家に内在した暴力性がうみだしたものだとも考えられる。

 知識は暴力や競争をうみだすものである。自分の考えが正しいと思えば、ほかのそれぞれの正しいと思う人との衝突や論争、いさかいが必ずうみだされるし、それに国家や軍隊の権力が付与されれば、弾圧や殺戮に結びつくのは容易なことである。

 正義はそうでない正義をうみだしてしまうためにたえず暴力をうむ。知識よりか、言葉にそなわった性質である。言葉はひとつのことをさししめすと、ほかのことを必ず排斥してしまうから、たえず敵対の契機をうむ。

 また知識は記憶力や独創力の優劣や序列をうみだすから、競争をひきだす。自分のほうがエライ、物知りだ思い、他人を軽蔑し、見下す。競争はあらそいやいさかいの火種となる。この知識の階層序列は今世紀の人間評価のシステムになっている。知識人の序列システムが一般大衆まで敷衍されたわけである。

 知識の正義と競争の論理のうえにさらに個人のはてしない権力欲が加われば、知識ははげしい権力争いへとなだれこんでゆく。われわれが手にすることになる知識にはどんな強欲や貪欲さの垢がついているか知れたものではない。

 近代の知識人というのは、科学による客観的知識信奉のためみずからの倫理性や道徳性を問われることはほとんどない。ヨーロッパ中世の聖職者のような禁欲さは要求されない。それでも聖職者はさいごには権力欲や強欲を露呈させていたのだから、近代の知識人ははるかに貪欲さの歯止めをもたないだろう。

 われわれは知識人の思想の陰に権力欲や強欲さをみいだし、その思想を警戒したり、割り引く考えをもつべきなのだろう。強い権力欲をしみこませたものほど既存社会との衝突ははげしくなるだろうし、また人々を強烈に熱中させるものはないだろう。だから危険だといえるのである。

 知識はその人と成りからうまれたものである。その人の性格や権力欲、嗜好などがまったくしみこんでいない知識などやはり不可能だというべきだろう。その知識に影響を受けたものはその欲望や無意識に応じた復讐や報復をうける。知性や知識人の信奉は警戒すべきなのである。







   権力のために知識はもとめられるのか?      2003/3/30


 知識には権威と権力がそなわっている。デカルトやカント、ルソー、ニーチェという名前に権威がないわけがないし、かれらが発した言葉や引用する言葉に権威がそなわっていないわけがない。

 人は権力が欲しいからかれらを崇めたてるのか、真理が欲しいからなのか、どちらなのだろうか。目的が真理で、のちに権力があつまるのか、それとも権力がまず先にありきなのだろうか。

 私が本を選ぶさいもやはり権威を先にみる。正しいとか論理的に納得できるということよりか、権威のあるなしで本を選ぶ。人がある考えを認めるさいも、正しいかそうでないかを検証するまえに、権威だからという理由でその見方をとったり、信じたりするのがふつうだろう。論理は権威のまえでは風前の灯火である。

 自分のことをかえりみれば、私はずいぶん権威に弱い。権威ある思想家、学説に飛びつく。フーコー、ドゥルーズ、デリダなどの流行思想家は権威の塊である。もちろんかれらは人々に認められているからこそ権威がある。それでも真理や鋭い見方を手に入れたいというよりか、権威や権力がほしいとの見方はできる。知識を手に入れたいというのは権力欲のことなのだろうか。

 世界の「正しい」見方を手に入れたいのか、それともただ「権力の安心」を得たいだけなのだろうか。権力を身にまとうことにより、自己の安定や優越心を得たいだけなのか。

 これでは官公庁や大企業の権力に入ってぶら下がりたい人の心理とかわりはない。ヴィトンやエルメスのブランドをもちたがる人の心理とかわりはない。ただ知識は財界やファッション・ブランドより格が上だということで、それはつまり、より格段な権力欲の発露ということになる。

 私はむかしから実際的な経済や政治の権力にはほとんど興味がなかった。かわりに映画や音楽、マンガなどの権威には弱かった。こういうサブカルチャーの高級品を志向することにより、私は商品としての権威を買い求めていたのだと思う。それが昂じていまでは思想や知識の権威という商品を買いあさっている。経済や政治の権力は商品として売っていないから、実行力のとぼしい私はそれらで代替するのだろう。

 知識欲というのは権力欲のことなのだろうか。知識がほしいというよりか、権力がほしいのだろうか。

 人間はだれもが権力がほしいのだと開き直ることもできる。大企業に入ったり、ブランド品を手に入れるのも、権威や権力というカサのしたで安心を手に入れるためだ。知識もそのひとつにすぎないのだろうか。だとしたら知識という欲望に手放しの称賛を送ることはできない。それが人の不安や恐れをかきたてるような欲望ならなおさらだ。

 知識の権威は人を強烈なヒエラルキーに位置づける。学歴もそうだし、頭のよい悪いという基準、知識のあるなしで人は評価されたり、見下されたり、軽蔑されたりする。権威や権力のしたには侮蔑や差別が必ずある。知識はそのような選別の権力を身につけさせたり、行動の自由や嗜好を奪うこともできる。

 だから私は読書がやましい。私は人を見下したり、批判したりする対人関係をとりむすびたいとは思わない。しかし読書や知識の優越心は人を序列におき、見下す関係をつくってしまう。私は自分の知識による権力欲というツメを隠したいのである。

 なるほど権力欲や名誉欲というのはよけいな心配や不安をつくってしまうものである。老荘や仏教が知識の無用さを説いたのもわかる。人より勝とうとしたり、強くなろうとしたり、見下そうとしたりしようとすると、人との衝突やいさかいがはげしくなる。心の平安にこれらの欲望は障害になるばかりである。勝つことより、負けることに平安をもとめたほうがよいだろう。

 ただ現代は心の平安より、社会の進歩や競争に価値が認められ、それが人類の発展に貢献すると思われている時代である。権力欲や欲望はどんどん開花させることが進歩だと思われている。そういった時代というのはまるで人々の心の平安を無視して、争いや競争を推奨しているかのような社会である。人類の進歩より、人々の関係と心の平安のほうが重要だという時代はそうかんたんにはやってこないだろう。争いの原動力が断たれることはないだろう。

 私は心の平安のほうを目標にしたいが、知識欲をかんたんに捨てられるかはわからないし、おそらくまだ捨てる気もないだろう。知識欲にひそんだ権力欲というものから、知識欲の原動力を再検討したいだけである。もしそれが権力欲のなにものでもないとしたのなら、あつかいかたはそれなりにかわるだろう。 

 ただ権力欲というのは自分の心には権力がほしいというすがたをとらないからやっかいなものだ。真理を知りたい、世の中や人を変えたい、いいモノをもちたいというかたちをとり、それが権力への意志だとは気づかない。もし知識欲も権力欲のすがたをかえたものだとしたら、私は知識への信頼と興味のありかたを変えなければならないだろう。







   知識の危険な部分       2003/4/6


 知識には危険な一面がたくさんある。一般の人たちの無教養さにはそういう知識への警戒心があるのだろう。

 一般の人たちのあいだでは右翼や軍国主義、天皇制の話題には触れたがらないし、社会主義運動や過激派の活動の影響から政治の話さえ近づきたがらない人も多いし、新興宗教にハマるのもタブーである。人々はそういう知識の危険な面から逃げたがっているのだろう。思想的な危険な人物に思われたくないのである。

 しかし無教養が正義であり善であるというのは行き過ぎである。知識を超越したうえでの無知ならりっぱなのだろうが、無知の無垢さを信じた戦略はただの愚かさの正当化にしかならない。知識の無条件の信仰も危険だが、知識のない無知蒙昧も同じように危険である。

 知識にはリテラシー能力や倫理が必要なのだろう。触らぬ神に崇りなしではなくて、知識の取捨選択能力がもとめられるのだろう。ある見解や解釈をとったおかげで、どのような影響や結果がおこるのかを見越した上での知識選択がもとめられるのだろう。むずかしいことだが。

 人々に危険な知識と思われている代表は政治思想だろう。街宣者は走るし、敵対者は刺されるし、爆破テロ、数々の闘争や大量殺戮で知られる社会主義運動などが、人々の警戒心を誘う。まあ、権力の階層とはそういうものなのだろう。

 政治思想が危険になるのは、支配をめぐる権力争いだからだろう。民主主義や社会主義思想のおかげで一般国民もその桧舞台に上がれる幻想が訪れた。争いは熾烈を極め、貴族や武士の内輪もめで終わっていたそれは国民全体にまで拡大された。

 民主主義や社会主義は知識人がうみだした思想である。地位も低く、食うにも困っていた知識人が、カネと権力を握ろうとした野心のおかげでうみだされたともいえる。政治や経済や国民、旧来の権力層もコントロールできるとしたその知性万能主義は、数々の犠牲者や大量殺戮をうみだしながら、二十世紀末に終焉をむかえた。しかしその残滓はまだまだ多く残っており、知識屋の反省はどれほど深くおこなわれるのだろうか。

 人権、平等、民主、福祉などの博愛主義はたいそうすばらしい言葉だが、保守主義が批判するように全体主義をもたらしてしまうものである。国家権力があまりにも肥大しすぎるためである。人間の社会を支配するには人間の知性はあまりにも貧弱すぎて、人為より自然にまかせたほうが賢明である。まるで老荘思想みたいである。知識人はおのれの知性の限界を悟り、過信を戒めるべきなのだろう。

 教育はどうなのだろう。教育は知識自体を目的にするのではなく、知識を人物評価の道具にしてしまった。選抜、断罪システムとなり、人々の階層と差別体系をせっせとつくりだしてしまうのみになっている。人々の無教養主義に一役買うようになっている。このような教育知識は、知識の名を汚している。

 精神分析は人間心理の深い闇を照らすものと思われているが、これも断罪や差別システムに一役買うようになっている。精神科医はその存在ゆえに病名をふやし、病気の範疇と患者のマーケットをひろげてしまう悪作用もつきまとうものである。またすべての問題を個人の心理のみに押し込めてしまうがゆえに社会順応主義のテクノロジーにもなりうるので、精神分析には強い警戒が必要だと思う。

 危険といえば進化論もずいぶん冷酷無比な理論である。適者生存、弱肉強食、自然淘汰という説はビジネスの過酷さを正当化させる。それが社会ダーウィニズムみたいにひろがりを見せれば、優生思想などもうみだされる。この思想に救いや憐れみはあるのかと思うが、福祉や計画経済の限界が露呈したように、人間の限界もあらわしているのだろう。

 知識といえばテレビもショービジネスになったり、センセーショナリズムになり過激化したり、断罪の権力を手に入れたりといろいろ問題があるし、アニメは少女への性的幻想へとたえず吸引されているし、ポルノも性の商品化をひきおこしたりとさまざまな問題がある。

 テレビや雑誌の多くは企業の宣伝・広告屋であり、政治、権力批判はくりひろげても、企業社会や消費社会への批判能力はおそろしく劣る。消費社会への肯定・礼賛思想にあふれており、この批判能力欠如はキケンな域に達しているといえるだろう。批判、悪口を口走ることのみが正義だとは思わないし、社会肯定は人間の長所をひきのばすことに貢献すると思うが、この無反省ぶりは頭をなくした人間みたいで不気味ある。

 知識は人類の貢献や遺産といった善的な面ばかりではなく、やはり悪や危険な面もたくさんあるというのが事実である。知識人も無私無欲の貢献者ではなく、やはり野心や権力欲、名誉心の強い強欲で貪欲な性質がひそんでいないともいえないだろう。職業人、商売人としての性格がないわけもない。知識の環境汚染チェックや品質・欠陥評価、倫理がおおいにもとめられるといえるだろう。







    知識人は没落すべきである        2003/4/12


 本を読まないとダメだとよくいわれるが、本にはたいして実益がない。だからみんな本を読まなくなって、ロックや映画やマンガ、テレビのほうをおおいに楽しんでいる。こちらのほうが多くの人にとって有益なのである。

 本を読まないとバカになるというのは知識人の商売道具が売れなくなるのは困るということである。著作者や出版社、新聞社、教育者の価値が下がり、食っていけなくなるから、無知な人をバカにして不安を煽って、活字の価値を高めようという商業戦略なのである。

 書物や活字に権威があったのは、民主主義や社会主義、経済管理などに知識人の手腕が期待されたからである。知識人は政治や経済のユートピアを自分たちがつくれると豪語し、食えない自分たちの職業を花形産業にし、権力の中枢にすえることに成功し、知識の先兵である教育者を社会に充満させたのである。

 知識人と教育者は近代の大躍進産業である。政治、経済、教育と社会のすべてにわたっての商業独占権を獲得した。しかしかれらの大成功は社会主義の大量虐殺、民主制の総力戦戦争、経済統制・福祉主義の破綻などのさまざまな惨劇や失敗をもたらし、その壮大な空想の産物と知性万能主義は音を立てて崩れた。

 もはや活字による知識産業は没落した。人は過大な知性支配の夢を捨て去った。書物や学問に過大な夢をもたなくなった。おそらく昔の人がそうであったように人々は日常の生き方や楽しみを教えるロックやマンガ、映画などの狭い世界に帰ることになった。

 本を読まない、世界情勢を知らないと嘆くのは知識産業者の最期のあがきである。権威の失われた活字・学問産業の攻撃宣伝である。多くの人にって本を読まなくとも、世界を知らなくとも、いっこうに平気だし、困ることもないし、人生が楽しめないということでもない。

 もはや知識人の壮大な大風呂敷きにはだれもついてゆかなくなった。かわりにサブ・カルチャーや車、恋愛、ファッション、グルメなどの楽しみはいくらでもある(それに付随して持たない脅迫力は激しいが)。知識が欠けていたところで人にバカにされることはないし、ぎゃくにクライ、アブナイとバカにされるだけである。人生の価値や目標はさまざまで、知識人が格付けるヒエラルキーなどほぼ脅迫力がない。

 だからといって知識人が没落しきったわけではない。教育者という知識人が全国隈なく存在し、人々を学問知識によって選別、差別づける体制をつづけている。知識人はいまでも人の選別と人生コースを支配している。この巨大な知識人の恐竜は今後倒れることがあるのだろうか。

 私個人は読書と学問の楽しみは知っているつもりである。しかしこの知識がどれほど実益に結びつくのかは疑問だし、知識を追究する楽しみのみに終わってもよいと思っている。つまり愛知者は社会を知性で支配する夢を手放して、奇特で変人的な学問の趣味に帰るべきではないのかと思うのである。そのほうが安全で謙虚で自然な学問・知識のすがたではないのか。

 学問に興味のない学生に資格取得のためのムダな知識を教えるより、知識は少数の変人の楽しみに帰ったほうが健全ではないかと思うのである。オタクの領分に帰るほうがマトモではないかと思う。知識は権力欲や商業欲などによってあまりにも大風呂敷きを広げ過ぎて、ムダなものをとり込み過ぎではないのか。謙虚に、知性とおのれの限界と害悪を自覚すべきではないだろうか。







   批判は世の中を生きやすくしたか?       2003/4/20


 思想書や学術書の多くは批判でなりたっている。マスコミもジャーナリズムも多くが批判を語る。批判は権力や現状社会の改善や向上に役立つし、目からうろこが落ちるような視点を与えられるので私も好きだが、批判に問題がないわけでもない。

 恨みつらみや不平不満をかこちつづける人間がしあわせなわけがないし、現実や適応を拒否しつづける人間をつくってしまうし、また社会や人々を批判することでヘンな優越感をもたせたりするし、批判することが知識の役割だと思いこんだりしてしまう。

 人の悪口や陰口をしじゅう叩く人はあまり気持ちよいものではないし、褒められたものでもないし、自身が不幸で悲惨で壮絶である。しかし学問やマスコミにかんしてはそれが正義や義務だと思われてきた。そんな陰口叩きがわれわれの知識の指導者であってよいものだろうか。

 自分が毎日顔をつきあわなければならない人たちの批判や非難をしじゅう抱きつづける人間はずいぶんと苦しい毎日を過ごさなければならないだろう。息苦しい毎日がしあわせなわけがないし、適応や順応がむずかしくなり、環境から滑り落ちて、落ちこぼれてゆくばかりだ。

 学問やマスコミが批判をおもな仕事とするのは改善や向上、進歩をめざしているからだろう。欠陥や欠点をあぶりだすことはたいへんに重要な仕事だ。しかし現実を拒否し、拒絶し、否定する心性をただつくりだすとしたら、こんなにメイワクでつらい仕打ちはない。

 批判は改善と結びつくときのみ効用があるのだろうが、それが不平不満と恨みつらみの日々を蓄積するのみとなるのなら、批判の効用はかなり疑わしい、というよりか害悪のみである。

 西欧に遅れて近代化をめざした日本は西欧と比較しての後進ぶりをしじゅう宣伝してきた。知識人やマスコミはそれを指摘するだけでりっぱな仕事をしていると思いこむようになっている。知識人は西欧の輸入品の絶賛を広告し、日本品を叩く輸入商社の役割ばかりしてきたことになる。車や家電の世界的レベルにくらべて知識はかなり劣っているのだろう。

 谷沢永一はそういう進歩的文化人を国賊だとか売国人だとか悪魔の思想だとか罵っている。西欧との比較において日本と国民を罵り、侮蔑し、軽蔑する知識人は許せないということだ。(『反日的日本人の思想』『人間通でなければ生きられない』PHP文庫)

 たしかに批判ばかりする学問やマスコミの話ばかり聞いていると、日本はとんでもない遅れた国で、非近代的で非合理的で呪術的で村社会的で権力迎合的で、国民は無知で無力で自由がなく平等がなく搾取抑圧されている悲惨な人民ということになる。知識人の言説は救いがない気持ちにさせる。

 ただそれを谷沢永一のように国賊だとか売国奴とか罵ったり、一方的にそういう面からしか解釈しないのは行き過ぎのように感じる。批判は近代化の改善や進歩のためになされるのは常識や自明の理であり、国を破壊したり売るためのものでないことはだれもが了解しているだろう。

 しかし知識人の批判はずいぶんとこの国を暗い、陰鬱なものにしたことだろう。いくら改善や進歩をめざしてのことだといえ、現実や社会をそのようにかたどるということは、われわれの社会観はおおよそそれらによって決定される。批判は改善より現実の醜い姿をわれわれの頭に刻印するばかりである。震え上がり、絶望し、諦めるしかないだろう。

 人間はずいぶんと批判がお好きのようである。劣悪視し、侮蔑し、軽蔑するのが大好きである。それによって優越感がめばえたり、知的に感じたり、正義や公正の感情が満足させられるからだろうか。商業としての学問やマスコミはそういう国民の心情に徹底的に迎合したといえるだろう。知識産業は怒りや恨み、不平不満のカタルシスを売る商売なのだろうか。恨み産業。

 批判が正義で知的なのなら、この世を肯定する姿勢はかなり育ちにくくなる。社会や世界を肯定することは、自分を認めること同様、人生の幸福と安寧にとってかなり重要というか、必要不可欠のものである。自分を認めることによって人生も世界も幸福なものになる。自身や他者、世界を批判、否定しているようなら幸福になれるわけがない。

 しかしそこが進歩史観とひっかかるところなのだ。肯定すれば、欠点や弱点からの改善や向上がのぞめなくなる。だから自分も社会も世界も認めてはならないのである。欠点や欠陥を見つけ、改善することが進歩と幸福の道なのだと考える。現状肯定はこの世界や自分を低いままにとどめると考えられているのである。

 ただ人間というのは欠点を叩いてもあまり進歩はのぞめないものである。長所をのばさないと伸びるところもない。こういう長所をのばすという志向が知識産業には劣っていたといえるのである。

 しかし長所を肯定するということは、敗戦によって罪悪史観に染まった日本にとっては危険なナショナリズムに結びつくということで御法度になった。日本を自慢してはならないのである。そうすると右翼や軍国主義になると怖れる。この警戒はもちろん必要であるし、自慢や増長する人にたいする不快感もわれわれには強い。

 でも批判や否定ばかりでは人はしあわせになれないし、醜悪な世界観をつくりだすばかりである。批判は割り引いて捉えなければならない。批判の世界とはまたべつに肯定する世界もつくらなければならない。人生を楽しみたいと思っている人は批判や否定ばかりに心をわずらわされないだろう。かんたんな人生のコツである。あまり批判ばかりに心が奪われないようにしたほうが賢明というものである。







   学問・マスコミは悪口商社なのか?      2003/4/24


 人の悪口ばかりいう人は醜い。人の悪い面しか見れないし、自分はそんなに聖人君子なのかと思うし、人を悪し様に罵る様だけで性格の悪さがもろ見えである。だから私は人の批判は嫌いである。

 だけど現代思想や社会学を好んでおれば、知らず知らずのうちに社会批判の知識ばかり頭に入ることになる。いく年かの読書のうちに私の頭は社会や人々の悪口や陰口ばっかりでいっぱいになっている。社会科学というのはたんなる人の悪口の高級品にしか過ぎないのかと思える。

 権威ある知識は批判ばっかりである。マスメディアも批判ばっかりしている。権威ある知識をありがたがっていると、批判ばかりの恨みつらみの不平不満家になってしまう。

 知識人が批判をおこなうのは改善や反省、よい社会よい生き方をめざしているからだと表向きには考えられる。しかし言葉や本は行動でも実践でもない。結果も責任も問われないたんなる垂れ流しである。だれかから嫌われたり、険悪になったりすることもない。

 批判というのは人を高みに立たせる。優越感を満足させるものである。自分は人と違うんだぞ、愚かな大衆ではない、愚昧な行動はおこさない、物事を高所からより冷静に鋭利に見られる、と人の自尊心をくすぐる。社会批判の根底にはこのような人をけなして下位に置くことで得られる優越感がある。

 人をけなして得られる優越感には欠点がある。自分はなにもできなくなってしまう。自縄自縛になってしまうのである。あれもこれもしてはならない、できないと自らを縛りつけてお地蔵さんになってしまうのである。なるほど書斎の賢者は一歩も外に出れない。理性の賢者も同じである。

 大衆社会をけなして消費社会をバカにして管理社会を批判して権力を煙たがれば、自分はその圏内に属さない優越心は得られるかもしれないが、社会に適応することも人生を楽しむことも無邪気に生きることもがむしゃらに邁進することもできなくなる。

 批判というのは拒否であり拒絶であり否定である。ありのままを受けいれて肯定的に生き、人生や世界を愛することの拒否である。かれはこの世界の楽しみも喜びも愛も拒否するのである。世界を嫌い、否定し、呪い、不満の塊になるのである。

 かれは改善や進歩がいつかやってくればいいと考えるだろう。しかし完成までにはタイムラグがある。おそらく永遠にその時はこないだろう。批判は世界の拒否だからである。世界の否定なのである。現在を拒否すれば永遠に肯定できる世界は手に入らない。

 批判から得られる優越心や自尊心にはとんでもない代償が必要である。自己と人生と世界の拒否である。かれは世界を楽しめない。世界を受け入れられない。呪いと恨みと憤りのなかで人生を生きることになる。

 学問やマスコミは批判ばかりをわれわれに植えつける。その知識をうのみにし、そういう見方こそが正しいと思い込むようになれば、われわれは呪いと恨みの塊と化してしまう。アンチや反対、NOばかりを唱えることにしか自分の存在価値を見出せなくなってしまう。

 「正しい、あるべき」世界を目の前にぶらさげているのかもしれないが、いま現在のかれのすがたは罵り、文句ばかりいうたんなる不満家のみである。人の悪口や陰口ばかりたたく人と同じように醜く、信頼できない。

 学問やマスコミは人を罵り、バカにし、蔑む人ばかりである。そしてこういう人たちがエラクて、ありがたがられて、ふんぞりがえっているというのは、なんともヘンな社会である。悪口をいって「すっきりさわやか」恨み呪い解消産業なのか。「あるべき、正しい」社会というお題目がなくなれば、かれはたんなる罵詈雑言の輩にしか過ぎない。

 人生の姿勢としては罵らず、恨まず、怒らず、悲しまず、この世界を受け入れ、肯定的に楽しみ、積極的に喜びを見いだす人のほうがよりよき人生を生きられるのではないか。拒否よりこの世界を受け入れ、よきところを伸ばす姿勢のほうがはるかに人生としては好ましい方向ではないのか。

 批判や改善の必要性がないわけではない。ただオリの中からだれかの悪口をヒーヒーいいつづけるのはよき人生からほど遠い。批判しても世の中は変わらない。言葉は空回り、虚空に消えるだけである。恨んでいるうちに人生は終わる。世界を肯定することから出発する知識のほうがもっとも重要なのではないかと思う。

 学問やマスコミはなにを売ってきたのだろうか。恨み呪いの解消や発散、解毒剤、またはけなすことの優越心、自尊心? こんな商品ばかり買いあさっておれば、醜い不平不満の中毒者になるだけである。世界を肯定的に受け入れる姿勢の商品のほうがよほどよい。






  ポジティヴ社会観、ネガティヴ社会観     2003/4/29


 一時期、ポジティヴ思考という考え方が流行ったが、その考えにならえば学問やマスコミはネガティヴ思考一辺倒ということになる。悪いこと、劣ったこと、醜いこと、そんなことばかりほじくり出している。

 学問やマスコミはネガティヴ思考の病魔にさいなまされているのだろうか。重症である。というか、それが正義であり、義務であり、仕事と思い込んでいるようだから、重症の自覚もない。自分たちが悪口、陰口、罵倒ばかりしている不満家という自覚もない。

 改善や進歩、正義をめざしての言論であることにはウソいつわりはないのだろうが、それによって世界観、社会観を形成される私たちはずいぶんと陰惨な世界観を植えつけられるものである。

 人殺しはあちこちに起こるし、政治家や官僚は腐りきっているし、大企業も不祥事だらけだし、西欧にはいつまでたっても遅れているし、企業には希望がないし、学生の学力は低下しているし、日本経済はがたがたである。

 事実であるのだろうが、これらもものの見方を変えればポジティヴな解釈を描くことはいくらでも可能である。悪いことは無視したり、矮小化したり、よいことばかり拡大解釈することもできる。

 戦後のマスコミや学問はずいぶんとこの社会をネガティヴ一色に染めあげたものである。マスコミや学問が世界をネガティヴ色に塗りつぶしたから、われわれには希望も夢もなくなったとも考えるのは拡大解釈しすぎか。もしそれが知識産業の仕事と必然的な帰結とするのなら、情報社会の功罪も大きいというものだ。

 知識産業がネガティヴ思考に染まるのは改善と進歩をめざしてのことである。目はそちらを向いているはずなのだが、じっさいは悪口と罵倒のみに完結する醜い人に堕している。

 知識人は行動や実践をまったく伴なわず、責任も問われないから、文句や裁きはいくらでも安全地帯からおこなえる。当事者でないから部外者の特権としていくらでも文句と講釈はたれられる。卑怯で放漫な人たちである。かれらがもし当事者として行動したのなら、同じ過ちはおこなわないと保証できるのだろうか。この点には反省が必要である。

 知識界がネガティヴになるもうひとつの理由はポジティヴ社会観の危険性を戦時中に経験したからだろう。社会がポジティヴに表象されれば、軍国主義や侵略主義、民族主義などの自文化優越主義があらわれて手がつけられなくなる。現代でいえば北朝鮮のプロパガンダやスターリン主義のような全体主義に究極のポジティヴ社会観があらわれているといえるのだろう。

 ポジティヴな社会観というのは、意外や他国や国民を危機に陥れる危険なものである。その反省から戦後の日本は国家や権力のネガティヴ・キャンペーンに必死になり、ポジティヴ・キャンペーンを厳重に警戒してきた。

 社会のネガティヴ観は向上や改善の意欲や原動力をうむ。しかしその反面、怒りや恨み、嫉妬だけの人間や世界観をうみ、不平不満の人生と毎日になってしまうという悪い面もある。劣った部分、悪い面、いたらない点、醜悪な部分しか見えなくなり、世の中を嘆き、呪う悲惨な人ばかりをうみだしてしまう。ネガティヴが正義の世の中は、不平不満家の繁栄と増殖をほめたたえる社会である。

 人生において不平不満をかこちつづけることは不幸で悲惨なことである。世の中のよい面、すばらしいこと、楽しいことに目を向けられない人間はやはり悲惨な人生である。拒否と否定、拒絶の人生は、みずからの人生の破壊といえるものである。

 しかし知識界というのはどうも批判や否定、ネガティヴがお好きなようである。それが正義や権威、真理、正統なものとまかり通っている。正義や権威を信じると、それが実現されないからと、われわれはずっと世界を呪うことになる。正義や理想を信じることは、究極的には不平不満家になることともいえるのである。

 知識を選択する基準が必要なのかもしれない。その情報を仕入れたとき、不快になるか、快になるかの基準をもったほうがよいのかもしれない。正義や理想を基準にするのではない。その知識を抱いた結果、現時点において自分の心情は晴れやかになるか、不快になるか、を基準にするのである。

 ネガティヴな面ばかりに目を向けるのは人生の破壊であり、損失である。怒りや呪いに縛られた人生ほど苦痛に満ちたものはない。賢明な人生の選択としては、そんなつまらないことに人生の時間を費やしてはならないのである。それは人生観だけではなくて、社会観にもいえるものである。

 思えば私もずいぶんとネガティヴな世界観を身につけてきたものである。たぶんネガティヴが正義であり、賢明であり、正統であると思い込んできたのだろう。しかしネガティヴは自虐的であるし、自分の人生や幸福を阻害する経験をいくつか重ねてきたような気がするし、ひるがえってみるのなら自分の人生の幸福や楽しみをひとつひとつつぶしてきたように思える。

 極端にポジティヴに行き過ぎるのはまちがいだろう。ネガティヴな知識がもたしらた姿勢と態度を客観的に反省してみる必要があるのだろう。正義や権威の知識ではなく、態度や気分が重要なのである。世の中を呪い、恨むようになる知識ははたして正当な知恵といえるのだろうか。

 ただポジティヴ社会観にはやはり警戒心がある。愛国心、民族主義、ナショナリズム、自文化優越主義――ポジティヴ社会観の結末がこれしかないとするのなら、かなりの注意が必要である。極端から極端に揺れ過ぎるのはよくない。いまはネガティヴ社会観のおぞましさを察知できるような目をつちかえればよいと思っている。自分の人生の幸福と楽しさという点から社会像は捉えられるべきだと私は思うのである。






    読書人の陥穽       2003/5/7


 権威ある知識というのはけっこう悪口の高級品が多い。人をバカにして優越感を抱くというものだ。人をけなすことが高級な知識と思い込むようになるのなら、とんでもない転倒というものだ。品性の低い、下劣な人間になるだけである。

 読書というのはいい面ばかりではなく、やはり悪い面もたくさんある。その面も警戒しないと、知識の蓄積はたんなる悪業のつみかさねになるだけだ。

 知識の蓄積が思い上がりやうぬぼれ、ごう慢さを生みだすとしたら、読書はあまりほめられたものではない。それが人をけなしたうえでの優越感から派生するのなら、なおさらである。読書人はこういう陥穽に気をつけなければならない。

 知識のない者からすれば、知者はたえず自分の無知を告発し、不安にさらし、羞恥をもよわし、恐れを呼び覚ますものである。人間の知識欲にはじつはこの人を見下す欲望があり、人を劣位におき、序列にはめこむ願望があるのかもしれない。このような優越願望の陥穽には警戒すべきである。

 人間の知性の限界もわきまえるべきだ。人間の知性がなんでもかんでも支配・制御できると思い上がるのは、社会主義の無残な失敗から学ぶべきだ。絶対や真理を主張するのも対立を生み、人間社会においては危険だとみなすべきなのかもしれない。

 読書は人を賢明にしてくれるのかもしれないが、他人の醜くて悪い行いを反省すれば自分はなにもできなくなる。他人の行いの批判や否定は自分の自由や自然さの否定のようなものである。言葉はほんとうに賢明さをかたちづくるのか疑わしく思える。

 人間行動の分析や観察はなぜか拒否や否定に傾きがちだ。分析した人間行動を読めば、それを拒否する気持ちがわきあがった。愚かさを拒否すれば、自分はほんとうに賢明になれるのだろうか。ただ自分の束縛や拘束にしかなっていないのではないかという気がする。

 人間の愚かさははじめから否定するのではなく、その愚かさを容認したり肯定しなければならないのではないか。拒否から生まれる賢明さは、行動と実行のない虚偽のものではないかと思う。概念による自己の抑制はほんとうに賢明なことなんだろうか。

 他人の欲望を否定するということは自分の欲望も否定するということだ。自分のことも肯定できなくなる。自己や世界を否定した人間ははたして賢明な生き方をしているといえるのだろうか。

 読書は孤独を好ませる。概念や観念は愛するようになるが、生身の個人や目の前の人の軽視を導く。マンガ・オタクと同じようなものである。読書人は元祖オタクである。紙や言葉のような虚構のどこにも存在しないものに強く執着することは、人間の生としてはやはり不自然なものではないか。書物や知識を愛し過ぎることはどこか不自然であることを頭の片隅にとどめておくべきである。

 さてこれまで知識の批判や弊害について考えてみたが、私はもちろんこれからも知識や読書をいままでどおり楽しんでゆきたいと思っている。知識を全否定するために知識批判をおこなったのではない。知識の悪い面を認識した上で知識はとりあつかわなければならないと思うのだ。知識は副作用が思いのほか大きいから使用上の注意が必要というわけである。

 知識批判をおこなった書物が驚くほど少なかったのは意外というか、批判精神の強い知識界の大きな欠陥であると思う。ほかのことには激辛なのに自分の足元だけはひたすら甘い。自社製品を絶対に批判しない商業広告と変わりはしない。個別批判は感情的になりがちだから、一般的で普遍的な知識批判が適合的だと思うのだが、知識にたずさわる者はその欠陥や弊害もちゃんと紹介すべきだと思うのである。





■知識批判に役立った本
 『「心の専門家」はいらない』 小沢牧子 洋泉社新書
 『フロイト先生のウソ』 ロルフ・デーケン 文春文庫
 『脱学校の社会』 イヴァン・イリイチ 東京創元社
 『知識人の生態』 西部邁 PHP新書
 『気流の鳴る音』 真木悠介 ちくま文庫
 『科学者とは何か』 村上陽一郎 新潮選書
 『インテレクチュアルズ』 ポール・ジョンソン 講談社学術文庫
 『人間通でなければ生きられない』 谷沢永一 PHP文庫
 『反日的日本人の思想』 谷沢永一 PHP文庫
 『ブッダのことば』 岩波文庫
 『老子・荘子』 中公バックス


あなたのご意見・ご感想ぜひお待ちしております!
     ues@leo.interq.or.jp

前の断想集 知識を批判してみる 2003/3/22
         専門家の恐怖と個人の無能 2003/2/11

|TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|


























































































デカルト

カント

ルソー

ニーチェ

■Googleイメージ検索で拾ってきましたが、これらの画像は著作権があるのでしょうか?



フーコー

ドゥルーズ







































































































































































































たとえばこんな人。























谷沢永一
   
inserted by FC2 system