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 ■031221断想集





    心は結果ではなく、原因       2002/12/21


 心のいまの気分や気持ちを過去の結果ととらえるのはまちがいだ。いまあらたに気分や出来事をつくりだしている原因ととらえるべきだ。さもないと沈鬱な過去の呪縛から抜け出せなくなる。

 人はいまの気持ちは過去の出来事のせいだと思いがちである。結果だとみなすと、過去のいやな出来事の犠牲者となってしまう。過去の出来事にひっぱられて、いやなことやつらいことばかり考えてしまうことになってしまう。気分も最悪なままつづいてしまうことになる。

 心はいまあらたにつくりだしている原因ととらえるべきなのである。過去は一瞬にして手放すべきなのである。断ち切れば、過去にとらわれることなく、あらたな現実や未来を選択することができる。

 われわれはついつい過去の出来事を思い出してしまう。思考というのは勝手にわきだして、私たちを過去の思い出のとりこにするものだ。とりとめもなく過去の反芻をすることになる。この反芻はたいていのところいやなことやつらい気持ちを増すだけの結果に終わってしまう。さらにその気分は現実をそのような悲観的なものにかたちづくってしまうのである。

 ものごとをとらえるというのは過去の結果を見ているのではなく、現実をつくりだすということであり、なおかつ未来を決定することである。たとえばなにかの失敗があり、私はダメだと思うと、またもや失敗をつくりだす。不安な出来事があり、その気分をつづけると、不安に色づけされた現実がひきおこされてしまうことになる。

 ものごとをとらえるというのは結果ではなく、現実をつくりだすということなのである。私はダメだ、不安だ、この仕事は合わない、と認識をつくりだすと、未来はしぜんとその型枠のなかに押しこまれてしまうものなのである。心は結果ではなく、まったく原因なのである。

 人は原因であるということを見ない。過去の結果だとみなす。そして過去をとりとめもなく反芻したり、あるいは思考によって解決をはかろうとする。しかし心はいま現実をつくりだしている。最悪な気分や最悪な未来である。

 この悪循環からぬけだすためには心を原因だととらえ、過去の認識をあっさりと手放すことである。過去の認識にとらわれないことである。過去の認識をもったままでいると、過去の呪縛をくりかえす。あなたは過去の認識からずっとぬけだせない。

 頭をまっ白にしたり、空っぽにするテクニックというのはとても重要だと思う。それによって過去の呪縛からときはなたれたり、過去の気分をリフレッシュすることができる。ただ思考を捨て去ることはそうなまやさしいものではない。思考の噴出力と吸着力というものはすごいものがある。断固たる意志が必要なのだろう。

 心は結果ではなく、原因である。いままさに現実をつくりだしている。自分の考え、思ったことが、私の世界であり、現実となってゆく。それを過去の出来事の結果だとみなしたとき、過去の呪縛からぬけだせなくなる。心を原因だとみなしたとき、新しい現実と新しい自分をつくりだせるのである。







    仕事は学力か、社交性か      2002/12/21


 学力があればいい大学にいけていい会社に入れるという神話があったが、私はやっぱり社交性がなければ社会は渡ってゆけないと思う。

 どんな仕事にも社交性は必要だ。営業だって、企画であっても、接客でも、また事務でも製造でも運送でも、社交性は必要である。人間関係のないところに仕事はない。

 でも学校の教育システムってまったく社交性を育てていないんだな。学力さえありすれば、いい学校に入れさえすれば、社会生活は順風満帆といった感だ。ウソだと思う。人と話し、説明し、協同する能力がなければ、ほとんどの仕事はこなせない。

 それなのに学校の教育システムは社交性を育てるばかりか、つみとってはいないだろうか。教師が一方的に話し、生徒は聞き役に徹し、しまいには生徒はみんなの前で発言し、朗読することが恥かしいことや恐ろしいことに思えてしまう。沈黙を強いられるため、人前での発言が禁止されたものに思えるようになるのではないだろうか。

 仕事では人との折衝能力、みんなの前でのプレゼンテーション、見知らぬ人との会話などが重要になってくる。また席に座って知識を記憶するのではなく、仕事では街中に出て行動し、説明し、指示し、協同することがとても大事である。つまり仕事の行動力や計画力、自信や社交性などをそなえていないと仕事などできない。

 学校ではさっぱりそんなものは教えてもらった記憶がない。役に立たない学問ばかりだ。たしかに学校ではともだちとのつきあいを強制される雰囲気はある。しかし同学年ばかりの気楽なつきあいだけで、他学年や他学区とのつきあいはほとんどない。社会で必要になる社交性はどのように育てられるというのだろうか。

 社会に出たらしぜんに身についたり、会社に教えてもらえるというのだろうか。その前に社交性の不安を抱えたものはどうなるというのだろうか。

 私は学生のうちに人づきあいは避けたいと規定してきたほうである。社会で目上の人や知らない人とどうつきあっていったらいいのか不安でならなかった。だから社交性が必要となる仕事はできるだけ避けてきた。選択の幅が狭まるのはとうぜんである。というか、ほとんどないに等しいといったほうがいい。

 知らない人に出会い、説明し、とりひきをまとめるといった営業なんかまるでできないと私は思った。私がやりたいと思った出版の編集なんかもとうぜん取材や折衝が必要であり、ダメだと思った。

 じゃあ、人とつきあわないですむ仕事といったら、技術系かガテン系しかないではないかとなる。私は運送、倉庫関係の仕事に落ちついた。まるで学力は必要なく、体力だけがやたら消耗するが、あまり外部の人との会話は必要ではない仕事だ。そういう面では合っていると思う。だが学力の優越基準ではそうとうのひけ目を感じなくてはならないし、対外的には誇れるものではないし、自分の好きなことをやれているのかと猜疑心にとらわれる。いまではメシさえ食えればそんなことはどーでもよくなったが。

 世間では学力さえよければいい会社いい身分にありつけると思っているらしい。でも私は社交性の基準も必要ではないかと思う。社交性がなければいい会社にありつけないのではないかと思う。

 学校や世間は社交性をあまり基準と考えていないみたいだ。社交性の欠如から社会をながめている私としてはこの要素もとても大きいと思うのだが。学校の優等生が社交性に富んでいるとは思われない。そういう学力優等生を育てても社会での行動性はうまれるものなのかと思うが。

 私に社交性がないのはむろん学校のせいではない。やはり私の考え方、生き方、性格のせいである。ただ学校は社会での社交性の必要性や能力を生徒たちに教えるべきだと思うのである。社交性というのはある程度は訓練だと思う。また人とのつきあいが楽しいと思う価値観でもある。学力だけでは社会は楽しく渡ってゆけないと思う。

 世間では学力さえよければいい人生が待っていると思われているが、これはカンちがいだろう。やはり社交性がなければ実業界は渡ってゆけない。世間は学力だけではなく、社交性の基準も人生を大きく左右することも知るべきだろう。






    哲学趣味は人に話していいものか    2002/12/28


 このHPページ上に書いているようなことは、私はほとんど人に話したことがない。思想や社会学、心理学、仏教などの話は身近な人には話さないのである。

 その理由はいろいろあるが、日常には深い哲学的な話は暗黙のタブーであるというルールがあるような気がするし、また私の職場でであう人たちは読書にコンプレックスや批判をもっていそうだし、自分のホンネにちかい部分や、自分の悩み・不安・コンプレックスをさらけだすのがいやだったり、などと複合的である。

 私のいる労働環境はあまり学歴にいるものではなく、職場の人たちにそぐわないのではないかというのも大きな理由だろう。みんなに受けたり通じる話はやっぱりスポーツか競馬とかそんな話だ。またそんなエラソーな知識をひけらかす自分がそんな職場にいることの異質感もあったりする。

 ショーペンハウアーがかつてふつうの人の精神的優越にたいする屈辱感はすさまじいものがあると書いてあるのを読んで、ムズカシイ知識をひけらかすのを私はやめようと思った。また人にエラソーに講釈をたれるような立場には立ちたくないと思ったことも一理ある。インテリや高慢な知識をもっている「違ウヒト」と思われるのも困ったことである。

 学生時代から友だちとの会話には政治や宗教などの根源的な会話はタブーだというルールがあった。そんな深くてダサイことは考えずにもっと明るく楽しく表層を楽しめという不文律があったと思う。映画や音楽の話はO.Kでも哲学の話は御法度だったのである。

 私は労働至上主義にたいする疑問があったから、とうぜん職場でであう人にはそういう話はすべきではない。利益と金儲けを目的にあつまった人にそういう疑問は口に出すべきではないと思うし、また立場も危うくなる。だから自分のホンネに口をつぐむことがすっかり習い性となった。だからネットは口をつぐまないですむハケ口である。

 哲学趣味を話さないほかの理由には、自分の関心のベクトルはやはり自分の不安や悩み、コンプレックスと関わりがあるから、そういう面がひっぱりだされるのも困るというのもある。自分の興味を話せば、自分の弱さ、弱点が知られるというわけだ。だからとくに心理学には口をつぐみ、自己啓発は恥ずかしくて人に話せないだろう。

 仏教やニューエイジの話などはなおさらできないだろう。新興宗教にたいする批判の目はかなりあり、そんなことを話せば人から変人あつかいされるのは学習済みだし、私自身も宗教の勧誘にはかなり嫌悪を感じていたし、オウム以降はなおさらだろう。ただ人に話さなければどんな本でも自由に読んでもいいだろう。ひとり暮らしは他人に読み物をのぞかれる心配がなくていい。

 そうやってひとりで哲学を楽しんでいるうちに私は自分の興味を人と分かち合いたいという興味を失った。自分さえ楽しめれば人にわかってもらわなくても結構だと思っている。私は人に合せるための趣味が嫌いで、自分だけで楽しめるための趣味をもちたいと思っている。人に知識があるんだぞと認めさせたい認知の欲求は、それを客観的に分析した本を読むことによりだいぶ減ったと思う。

 まあ、まったく人と哲学の話をしたくないというわけではない。げんに人に見せるためにこのHPを書いているし。ただこのHPは顔の見えない日記みたいなものだから、あまり人に向かって話しているという気がしない。だからこそ自分の好きなこと、ホンネがじゅうぶんに吐露できるというわけである。面と向かった会話だったら、日常の会話のルールによりいろいろな制約や禁止、気づかいをこうむることだろう。

 顔を会わせる人とすこしくらい読書の話をしたい気もないわけではない。ただどこまで禁止のコードにひっかかるかわからないし、自分の内面をさらけだす危険性も意識しないわけにもゆかない。またまわりの人から自分たちと違う人種と思われることも集団からの疎外感をつくってしまってヤバイのである。

 ということで私の興味あることはほとんど人と話さない。私の趣味が読書であるということも、ときには人に話さない。一般ウケする話をやはり選ぶ。こういう制約はどこまでもち、どこまで破ってもいいのかなと思う。話せば人は私の話に興味をもってくれるのだろうか、それとも一線を引かれたりするのだろうか。ちよっとくらいカミングアウトしても大丈夫なのだろうか。みなさんはどう思いますか。






   若者の没落と守られた中高年     2002/12/29


 宮本みち子の『若者が≪社会的弱者≫に転落する』(洋泉社新書)をよんだ。若者が社会−経済的に層的なものとして没落しはじめているのに、大人はそれを若者の怠けぐせとしてバッシングして危機を隠蔽していると指摘した本だ。

 なるほどなと思った。若者が層的に「社会的弱者」に転落しているととらえる視点は、流動的になっていた若者の状態を的確にとらえなおすいい機会になると思った。

 若者はいまは空前の失業率と就職難に直面している。学卒者の何割かは就職できないでいる。それなのにマスコミはしかたなくフリーターになったたとしてもやる気がないからだとバッシングし、企業から若者をしめだしているということに目をふさごうとしている。

 それが危機や問題とおもてにでてこないのは、若者は中高年の親にパラサイトできるから生活の困窮に直面しないからである。うまくできていると思う。

 企業は中高年に高い賃金を払い、政府は年金などでかれらをてあつく守る代わりに、若者の賃金を低くすえおくか、アルバイトで雇い、しわよせをかれらに押しつけ、その肩代わりを、また実家で親がしているというわけである。

 そのツケは若者の自立の遅さ、大人として独立できないこと、晩婚化としてあらわれているのである。パラサイトの構造というのは企業の年功賃金――中高年には高く、若者には安くの世代間ギャップが、家庭にもあらわれているということなのだ。そして若者はいつまでも大人になれないで親もとから離れられないでいるというわけだ。

 若者は不況のしわよせを低賃金やアルバイト、もしくは学卒者の就職難というかたちで背負わされている。これはたしかすでにバブル以前からはじまりだしていたことだと思う。低成長の時代になるとまず女性がパートして使われ、つぎに学生バイト、そしてフリーターとして人材のデフレはすすむ一方、中高年の賃金はインフレをなかなかやめなかった。

 学卒者はかつての「金の卵」のようには歓迎されない客となっていたのである。若者はこのような状況にどう適応していったかというと、不登校や中退、無気力、ひきこもり、フリーター、無業者となってあきらめや諦念のため社会から逃避するしかなかったのである。

 西欧では若者の転落はすでに製造業の衰退にともない80年代にははじまっていたそうだ。独立志向のつよい西欧ではそれが十代のホームレスとなってあらわれた。日本では成人してもパラサイトが許される社会だから、社会に参画できない若者はひきこもりや家庭内の葛藤となって内部に鬱屈してゆくしかない。

 若者の社会参画はかなりむずかしくなったのである。学校から企業への橋渡しの有効性がほとんどなくなり、若者は社会に入る糸口を容易にみいだせない。しかも職業スキルも経験もないうえ、企業社会の現実に無知で、過酷な労働にも忍耐を忌避する気持ちがつよい。もう親の庇護のしたで社会から逃避するしかないだろう。

 不況と低成長のしわよせは若者にいっきょにあつまっているのだが、それは親の経済力と若者の無抵抗主義のために、若者の危機は隠蔽され、怠け根性としてバッシングされている。マスコミや既得権益のある中高年はうまくやったものだと思う。

 若者は未来の社会をそのまま体現している。バイトか無業で、親の経済力の庇護のしたに暮らし、なかなか独立も結婚もできず、職業的習熟も身につかない若者が層としてあらわれだしたとき、この社会はいったいどこに転がってゆくというのだろうか。

 若者は西欧なみに層として没落してゆくことを危機問題としてとらえ、社会政策として一刻も早く対策をうつべきなのだろう。企業は世代間の賃金格差を少なくすること、若者を育て、社会保障の問題にむきあわないと、そう遠くない未来にしわよせのツケを深刻なかたちで払わされることになるだろう。

 ドラッカーみたいに未来はもうはじまっているといえるだろう。若者は社会参画ができずに層として社会から没落してゆくのである。正規雇用や社会保障から見放された若者はどんどん増えてゆくことだろう。こういう未来は産業の成熟・衰退により予測されていたことだ。

 われわれはせいぜい金銭消費ライフスタイルの価値観を捨てて、貧しくても楽しく生きる価値観とライフスタイルをあみだしてゆくしかないだろう。豊かであったかもしれないが、会社人間の歴史的ヒサンさをバカにして楽しく生きるしかないだろう。







    無縁社会とホームレス        2003/1/1


 それまで会社勤めをしていたふつうの人がかんたんにホームレスになってしまうのは、この日本は血縁や地縁などの絆がすっかりとたちきられた無縁地獄になったからだと指摘する風樹茂の『ホームレス人生講座』(中公新書ラクレ)をよんだ。

 ふかく反省させられた。自由をねがい、慣習をきらい、孤独をのぞんできた私の理想のみちびく先が鋭く批判されていたからだ。

 無縁とは人々の理想ではなかったのか、それなのになぜ、と頭がぐるぐる回転した。戦後の日本人はまさしく自由やお金のために地縁や血縁をたちきり、会社縁さえも忌み嫌い、濃密な人間関係や滅私奉公を避けるのを理想としてきたのではないか。それが倫理退廃やホームレスをみちびいたとしたら、われわれの理想とははたして正しいものだったのかと反省さぜるをえない。

 地域社会というのはもうほとんど崩壊している。となり近所のつきあいや地縁といったものは都市にしろ郊外にしろ、地方でもほぼないのではないだろうか。会社に勤めたり、郊外にマイホームを買うため、われわれはかんたんに地縁や血縁、故郷をすてた。土地や地域、そしてそこに住む家族や友人、歴史の愛着より、会社やお金、仕事、消費、マイホームをえらんだ。

 都会には人とのつながりも近所とのつきあいも、土地の愛着も共有する歴史もない。われわれはさまざまな縁や歴史、宗教、共同体をそこでたちきった。それらは封建的で、古い因習をまとい、息苦しく、忌み嫌われるものだった。そして都会に出てきて、私たちは人とのつながりを失った。

 都会では会社での縁が強力なものとなった。会社に住居を用意してもらったり、社会保障や家族手当をつけてもらったり、また友人や知人、婚姻相手をみつけたりした。会社は家族や地縁にかわるあたらしいつながりとみなされることもあったが、自由と慣習批判の思考は強力で、会社人間や滅私奉公への批判はそれらの縁もたちきろうとした。会社はしょせんは利益集団なのである。不況期のリストラによりそれらの幻想もきえてしまった。

 国家や会社による社会保障も家族や親族の縁をたちきることに貢献した。年金や健康保険があたえられるのなら、確実にあてになるとはかぎらない家族や親族、近隣の人より、国家と会社がもっと大事になる。老後保障をもとめてわれわれは血縁や地縁をたちきり、孤立し、会社と国家のみにぶらさがることになった。セーフティネットは会社と国家のみしかないのだからますますそれにしがみつかざるをえない。そしてますます血縁や地縁からひきはなされた。

 人間は血縁や地縁、共同体の帰属意識がなによりも大切だという人もいる。それが自分のアイデンティティを保障し、生きる目的や理由をあたえてくれるものだったそうだが、産業の構造転換によりわれわれはそれらの絆からたちきられた。帰属する大きなものを失ったわれわれはモノを所有することによりその穴埋めを代替し、ますますモノにたよらざるをえなくなったということだ。ほんとうにもとめているのは、絆や帰属意識だというのである。

 戦後の日本は敗戦と加害者意識により、国家や地域を愛することをタブーとした。国や土地を愛することは軍国主義につながりキケンであり、民主主義に反することになった。地縁や共同体とのつながり、歴史はますますたちきられ、われわれは根なし草となり、国や地域、歴史からまったくたちきられた何者でもないものとなり、親から子に伝承されるものもなにもなくなった。

 われわれはすべての縁からたちきられたのである。血縁や地縁、土地の歴史、共同体、国。そして会社にしがみつき、孤立的に経済と生産、消費のみにいれあげたが、それだけでさまざまな縁からたちきられた巨大な穴を埋めることなどできるわけがない。人々からきりはなされ、金とモノだけでなぐさめられるだろうか。

 国や地域、歴史からたちきられたわれわれは規範やモラルも失い、私益のみに奔走するしかない。愛するものは国家でも、社会でも、地域でもない。ただ自分だけである。自分とカネだけである。家族も親族も、地域の人ももう守ってくれない。頼りにならない。自分ひとりで守らなければならない。企業や官僚、組織の不祥事やモラル・ハザートはだれも守ってくれない時代の裏返しではないだろうか。

 われわれはさまざまな大きなものを忌避することが理想であったはずだ。それは自由であり、先進的であり、民主主義的だったはずである。しかしそれがみちびいたのは、無縁社会と孤立主義、私益主義、経済・消費主義だった。血縁や地縁、歴史からたちきられたわれわれは心の中に大きなむなしさを抱え、落ちてゆく経済の中でただこれまでの労働・消費主義をつづけてゆくほか道をみいだせない。ふとしたはずみで経済からはじかれた人々はだれにも助けをもとめられず、かんたんに路上や公園におっぽり出されることになる。

 われわれはふたたび血縁や地縁、共同体の歴史といった絆をたいせつにする道をみいだすことができるだろうか。それともわれわれが歩んできた経済至上主義と無縁主義はまちがいではなく、このままもっと進めるべきなのだろうか。共同体の絆をたいせつにするべきかもしれないし、いまさらそんな道にもどれるのだろうかとも思う。経済合理性のために失った共同体の絆をとりもどすべきか否か、分岐点にいることはまちがいないだろう。




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『若者が<社会的弱者>に転落する』 宮本みち子 洋泉社新書y









































































『ホームレス人生講座』 風樹茂 中公新書ラクレ

   
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