■021123断想集
社会の入り口とひきこもり 02/11/23
学生のときに社会をみると得体の知れない恐ろしいものにみえたものである。軍隊や監獄のような会社がまっており、自分は会社に選別されないのではないかという恐れのもとに社会の入り口にたっていたものである。
私がかろうじて社会の中で生きていけるのは無知とひとり暮らしの食いっぱぐれる恐れからだろう。もし私の親に金があり、パラサイトしておれば、いつ私も自堕落なひきこもりになっていたかもしれない。
ひきこもりは問題であるとはいえないと思う。親に経済力があり、暮らしがなりたつのなら、こんなに贅沢で楽な暮らしはないだろう。はっきりいえば、戦後の日本は室内にTVやゲーム、ラジカセやパソコンなどの生活の宝物をいっぱい貯め込んできたわけだから、ひきこもりは日本人がめざしてきた至福の生活だともいえる。なんの問題もない。
外で働くことはたいへん実り少ないツライことである。だれだって早朝いつまでもふとんの中でまどろんでいたいだろう。親たちはそういう願望を殺して必死に働いてきて、子どもたちにはもっと楽な生活をさせたいと願ってきたのだが、ひきこもりはその願望を皮肉なかたちで果たしたのである。戦後日本人の願望は人との縁を断ったひきこもりであったのかもしれない。
私たちの現今のふつうの暮らしだってほとんどひきこもりに近いものだ。スーパーやコンビニで人と話されることはないし、近所のつきあいも疎遠だし、会社にいけばひとつのビルに閉じこもることになる。失業の経験の多い私はなおさらその期間中は社会から断たれた自由な時間を満喫することになる。「あ〜、これこそがなにものからも解放された自由な時間だ」と平日昼間の公園で思うわけだ。
ひきこもりは必死に働いてきた親たちのネガであり、抑圧した影の部分であり、願望であったといえる。そして親たちはその願望を自分たちの生活にとりいれることもせずに、子どもたちだけにたくした。アホみたいに働きつづける親の経済力のおかげで子どもたちは悠々自適の生活をマイホームで過ごすのである。「目的なき労働主義」のゆがんだ遺産である。
ひきこもりにしろ、登校拒否にしろ、フリーターにしろ、かれらを新しい異常のカテゴリーにいれるのはまちがっている。逆に自分たちの社会の容れものが「異常」であることのシグナルであると捉えるべきなのだ。異常なのは自分たちの社会だ。労働強迫社会、なかよし強迫観念の学校への拒否と抗議なのである。常識への挑戦である。しかしオヤジの社会は時代の変節を見抜けない。
オヤジたちは自分たちの生活と老後を守るために必死である。だから社会を変えられない。食いぶちを失えば生活設計はなりたたないからだ。オヤジたちは日本型社会主義を守ろうとして、つまり自分たちの世代を守ろうとして、新参者の企業への門戸をとざした。若者はバイトか失業せざるをえない歓迎されざる客となった。若者の失業率10%を将来の危機と捉えるものはいない。労働意欲がないと若者のせいになるのみである。
あいかわらず労働=成人説のなかで、若者の求人状況は確実に厳しくなっており、歓迎されざる若者はちょっとしたきっかけで社会への糸口を失ってしまうことになる。家の外に出られなくなるのはそのふがいなさと自責の念の悪循環におちいってしまうのだろう。自分の異常感を常識の転覆によって払拭することがたいせつなんだろう。発想を変えれば、自分は異常ではなんでもなくなる。出られなくしているのは自分の考え方のみである。
ひきこもりが危機なのは、親の経済力がいつまでもつづくわけではないという一点だけである。過去には親の遺産で暮らした金持ちの息子はたくさんいる。ひきこもりはそういうライフスタイルの一端だとみなせばいいのである。
ただ親の経済力がなくなったときはどうしたらいいかというと、もしかして長生きする親の年金にたよればけっこう歳がゆくまで生きてゆけることもできるだろうし、政府のサービスもうけることができるだろうし、崖っぷちに立たされれば人は変わるかもしれないし、またはそのときがくるまで死生観を磨いておくのもひとつの手かもしれない。経済のためだけに生きてきた親たちの遺産で生きることはなんの非難される筋合いもない。
ひきこもりはなんの問題もないのである。ただ当人が苦しいのならそれは問題と捉えるべきだ。われわれの社会は若者たちを家の中に追い込む社会をつくってしまったのである。親たちの過剰な経済信仰、孤立する近隣社会、そして断絶された企業社会が居場所のない若者たちを大量にうみだしたのだろう。問題は脱落する者ではなく、脱落者をうみだす社会の側にあると考えるべきである。
帰って寝るだけの生活 2002/11/30.
いまは新しい仕事に慣れていないため、疲れて帰って寝るだけの生活である。メシを食い、ふとんのなかでだら〜とTVを見ながら、電気もTVもつけたまま歯もみがかず眠ってしまうのがクセになっている。
私の好きな本屋めぐりも読書も平日にはほとんどできず、ただ仕事と寝るだけの毎日である。疲れていると世間や物事への興味とか好奇心もわかず、茫漠たる日々を送ることになる。
日雇い労働者の唄『山谷ブルース』みたいに「♪メシ食って寝るだけ〜」の生活である。でもこんな生活は日雇い労働者だけではなく、大企業でも中小企業のふつうのサラリーマンでも送っているのが現実というものだ。私は20代のころ、こういう生活だけはいやだと思っていた。自分の時間、自分の趣味の時間が奪われるのはたまらない屈辱だと思っていた。
しかしまいはこういう生活はどうしようもないとあきらめるようになってきた。仕事を確保しつづけたり、生活を維持しつづけるためには避けようがないのだ。だから怒りも悲しみも思わずにただ日々が過ぎてゆくようにしている。
自分の趣味の時間、自分の時間をもつことはたいせつなことだ。でも自分の時間を確保しようとすると、仕事や残業の時間をたいへんに嫌うことになり、少ない自分の時間に悔恨や後悔が多くなり精神的にもあまりよいものではない。だから自分の時間に執拗にこだわるのは得策ではないと思うようになった。また悲しいことだけれども歳をとって少年のような好奇心や充実をもてなくなったこともあるのかもしれない。あるいは仕事に追われて疲れているためかもしれないが。
人はどうやってこの仕事だけの生活に慣れているのかと思ったこともあったが、おそらくそういう人は仕事の充実をイコール自分の時間の充実だと思い込んでいるのだろう。仕事を自分の充実だとみなせば残業だろうが徹夜だろうが、もっと過酷になっても喜びに変わるだろう。私はこう見なしたくなかったから、仕事の毎日への苦痛と憎悪をいだきつづけたのだろう。
仕事を自分の人生の充実だとみなせば、たしかに過酷なハード・ワークでも充実したものとなる。おそらく旧い世代の日本人は仕事と自分を分けて考えなかったのだろう。だから仕事の充実を自分の人生の満足だとみなせた。幸福な世代ともいえるし、愚かな世代だともいえるだろう。
若い世代はどうだろう。自分の趣味や消費に楽しみをみいだす世代は、仕事を自分の時間か、もしくは奪われた時間のどちらだと思っているのだろうか。若いころはつらいかもしれないが、時間の流れとともに仕事の充実をむりやり自分の充実だと思うように慣らしてゆくのだろうか。そうしなければ長時間仕事なんかしていられないものだからだ。
自分の趣味、時間を充実させようとすることは、現代の労働時間、労働慣行からすると、ツライことである。会社の都合によって自分の時間なぞおろか睡眠時間さえ満足にとれないこともある。そのような状況の中で自分の時間を充実させようとすることはものすごく苦痛なことである。しまいには時間とともに自分の趣味も好奇心もはたらかない中年になってゆくのだろう。
日本という国は自分の趣味や時間を充実させようとする政策をもてなかったようだ。会社に人々の時間を自由にさせ、個人としての時間を国が守ろうとしなかった。人々も自分の時間より、仕事の時間を選んだ。お金がもっと必要だったからかもしれないし、あるいは企業の権力が強すぎて慣れるしか仕方がなかったのかもしれない。そうして人々は仕事を人生の充実だとみなすように訓化させてゆき、自分の時間あるいは自分の人生というものを見失ってゆくのかもしれない。自分の人生を大切にしないかぎりは、消費も経済ももりあがるわけなどないのだが。
仕事だけではなんのための人生かまったくわからない。しかしこの国の人々や政府は仕事だけの国家を営々と存続させたいみたいだ。ヨーロッパの人々なら生活者や消費者としての時間と権利をとうぜんに守ろうとするのだろうけれど、かれらは繁栄と栄華をとうのむかしに経験した大人の国だからそれもできるのだろう。日本人がそうなるには繁栄しつづけることへの徒労感とか苦労とかをじゅうぶん味わい尽くしてからだろう。
私は社会に出てから十数年ようやく自分の時間の充実に必死にしがみつかないようになってきた。自分の時間を充実させようと思っても時間はただ無意味に流れてゆくだけだし、さいきんは歳をとって好奇心が薄れても仕方がないと思うようになってきたのかもしれない。仕事との対比としての自分の時間を充実させようとすると、あまりにも苦痛が大きい。
私も仕事を人生の充実だと考えるように転換したほうが、健康上にはよいのかなと思う。そっちのほうが現代では生きやすい。働かなければメシが食えないわけだし、いまの社会では趣味の充実を仕事より高級で尊重させるものだと考える人は、あるいは実践を褒める人はたいへん少ない。「労働マシーン」になることが評価の高いことだ。生きるためにはそうマインド・ブレッシュしたほうがいいのかもしれない。
ホームレスになる自由がもどってきた時代 2002/12/2
現代のだれもが好き好んでホームレスになりたいとは思わないだろう。げんざい急増中のホームレスも職や家を失った結果、やむをえず路上に寝泊まりせざるをえなくなったと考えられるだろう。
ただホームレスのなかにはみずからのぞんでなる者やその境遇をたのしんでいる者も中にいるようだ。こういう嬉々としたホームレスをみていると、われわれはあらためてホームレスになる自由が奪われた時代に生きていたのだと気づく。
いままではホームレスになる自由がなかった時代といえるだろう。きちんとした勤め、きちんとした家をもたなければ、まともな人間じゃないという常識があたりまえのようにあった。
経済はどんどん成長してゆく、給料もどんどん上がってゆく、出世のチャンスもある、家電やクルマ、マイホームなどほしいモノもたくさんある、といった状況のなかで人々はそういう常識をつちかっていったのだろう。そういう生活を維持できる土壌があったのだ。
だがかつては乞食や浮浪者といった人はあちこちにあふれていたのではなかったか。そういう人たちが姿を消していったのは、だれもが職にありつける経済成長のおかげもあっただろうが、たしか浮浪罪とかの取り締まりもあったと思う。浮浪者たちは路上から消されていったのである。
ホームレスになる自由が奪われていったのである。もちろんホームレスはみじめで、あわれで、悲惨なものである。人々は人間らしい生活をさせようと経済援助やら教育やらをほどこし、または牢獄に収容したのだろう。そして人々にふつうの「人間らしい暮らし」をさせていったのだろう。
われわれは勤めと家をもつふつうの人となった。ホームレスという可能性はほんのわずかな人のものだけになった。
街中から乞食や浮浪者といわれる人たちが一掃されてだいぶたってから、ながらくつづく経済不況のためにホームレスとよばれる人たちがあらわれだした。公園や河川につづく青テントにさいしょはとまどいと奇異を感じたが、現代の警察や政府はかれらを排除したり収容したりはしないようだ。政府も国民もかつてのようにこういった人たちを排除しようとする気力や気概、あるいは目的意識を失ったようだ。つまり救おうとか消そうというはっきりした意識をもたなくなった。
これは政府も国民も標準的な暮らしを人々におこなわせようという意識を失ったことを意味する。つまり生活の標準モデルを強制しようとする意識が、人々からも政府からも失われたということである。これは静かであるが、とてつもない変化ではないだろうか。なぜなら人々の画一性の相互強制力がなくなったということだからだ。
われわれは人々からなにかを強制されるということがなくなったのではないか。つまり生き方やスタイルの自由がより広がったということだ。生き方の自由はホームレスも含まれる。われわれはふつうの人がおこなうべき標準的な暮らしをしない人たちにも寛容になりつつある、あるいは口出しもしないようになりつつあるのだ。
標準的な暮らしをつづけるのはラクではない。会社に毎日通いつづけなければならないし、仕事はツライし、キツイし、耐えることガマンすることは山ほどあるし、そんなツライ思いをしてようやくもてるのは家や家電やクルマや、はたしてほんとうに必要なものかといえるものばかりだ。
ホームレスになれば必要なのは食費だけだ。電気代も水道代も家のローンも払う必要もない。ただ食べるためだけの生活ができる。だれも好き好んでこんな生活はしたくないだろうが、人が生きてゆくために必要な稼ぎとはほんのわずかにすぎないことを思い知ることができるだろう。このような生活をしてみて、はたしてたくさんのローンや支払いが必要な生活にもどってゆけるだろうか。
ホームレスというのは生活のリ・ストラクチャリングになるものだ。ホームレスをする人がふえるというのは、生活の幅がひろがるということ、暮らしの立て方の幅がおおいにひろがるということだ。だれもがめいいっぱい働いて、めいっぱいモノをあつめるという生活をしないでもよいということだ。稼ぎもモノもすくない生活を選んでもよくなるということだ。ホームレスは人々のライフスタイルの幅をひろげる契機になるだろう。
日本はこれからむかしのように乞食や浮浪者をたくさん抱えたもとの社会にもどってゆくのだろうか。人は自由だけれど、人の生き死にも自由――つまり放ったらかしにされる時代になるのだろうか。それはキビしくさみしい社会かもしれないが、すくなくとも生き方の幅と選択の自由はひろがるだろう。
2002年、ことし考えてきたこと 2002/12/7
ことしの前半は興味が薄れてあらためてふりかえると、われながらあまりにも一般性のないことに没入していたんだなと思うが、霊魂のことについて考えてきた。霊魂があるかないかということより、そこから得られる知識と、むかし人々が霊魂とともに存在する世界観に生きていたことに不思議な感をおぼえた。
ことしはハリー・ベンジャミンの『グルジェフとクリシュナムルティ』(コスモス・ライブラリー)という本とであってから、だいたい方向性が決まった。
この本にはまだあやふやな理解だった自我の虚構性がはっきりのべられており、それとわれわれがしじゅうおこなっている「内なるおしゃべり」――他人が自分をどうあつかったとか自分の価値賛美キャンペーンなどを頭の中で語りつづけること――の愚かさに気づかせてくれて、たいへんに感銘した。おかげで心を清澄にするいい契機になった。
この考えは神秘家のグルジェフがもとになっているから、グルジェフの本を何冊かたてつづけに読んだのだが、あまり得ることはなかったと思う。
心の幻想性や身体の幻想性に気づいてから、もっと怪しい知識もOKという気持ちになり、チャネリングの本を数冊読んだ。『バーソロミュー』(マホロバアート)、『エマヌエルの書』(VOICE)、『ラムサ』(角川春樹事務所)、『セスは語る』(ナチュラルスピリット)はスゴイ知識だなと思う。霊界の存在が語っているということになっているが、そういう霊的な世界観はかなりアヤしいのだが、心理的な知識にかんしてはまったく非の打ち所がないことを語っており、学びがいがあった。
チャネリングの本を読んでから、霊魂の実在性を信じてきた古来の日本の霊魂観をさぐりたくなって、日本のむかしの民俗学あたりを読んでみた。日本は霊魂というものの実在を信じ、それは怨霊や神となって政治すら動かしてきた歴史があったのである。霊魂は愚かな迷信としてしりぞけられないほど、歴史を大きく動かしてきたのである。
そのあと片山洋次郎『整体――楽になる技術』(ちくま新書)にであい、ある感情は身体をどう動かしているのか、筋肉から知りたいと思うようになった。たとえば怒りは背中の筋肉を固めたり、不安や恐れは胸や腹の筋肉を固めるといったことなどだ。こういう感情と筋肉の関係を知り、感情のコントロールをもっと容易なものにしたいと思ったのだ。こういうことを追究している人も本もあまりないみたいだ。
しかたなく身体雑学の本などをいくらか読み、精神と病気のかかわりを解明する心身医学に歩をすすめたが、病気を精神分析的に解明する知識はいまはかなり御法度みたいだった。精神的に解釈しすぎると科学でなくなるからだろう。でも精神的な病気観は役に立つと思うし、おもしろいと思うんだけど。
そのあとは失業中の金欠のため百円本を中心におもしろうそうな小説をてきとうにさがしもとめた。純文学/大衆文学という分け方に縛られずに、ともかくおもしろい物語をみつけたいという気持ちで本をさがした。なにがおもしろいのかわからないから暗中模索だ。ポール・ギャリコ『雪のひとひら』、ケン・グリムウッド『リプレイ』、北杜夫『輝ける碧き空の下で』(新潮文庫)などがとくによかった。
まあ、ことし考えきたことはだいたいこんな感じだ。グルジェフ、チャネリング、霊魂の民俗学、心身医学、小説といった感じだ。あまり社会的、経済的なことは考えなかったな。おもしろい小説をさがしつづけるかはまだわからない。評論系の本のほうが価値があり、おもしろいという感もあるから、もどるかもしれない。
それは興味ひかれる本との出会いしだいである。そういう本にであえば、ひとつのテーマを深く掘り下げる楽しみができる。こういう読書がいちばんたのしく、充実している。これはお金がなければできない。高い単行本を買えないと専門的なテーマ読書はまずできないからだ。仕事をしっかりとつづけて、来年は深く掘れる読書ができればいいなと思っている。
『ダ・ヴィンチ』のブック・オブ・ザ・イヤー2002について 2002/12/9
『ダ・ヴィンチ』という雑誌は創刊から一、二年は買いつづけた。ヴィジュアル系の本の雑誌ということで、読書をファッショナブルなものにした試みはエライと思う。
だけど私が好きな思想や社会学はほとんどとりあげられないので、いつか読むのをやめた。思想家やアカデミズムもヴィジュアル的にとりあげればカッコいいと思うんだが、『ダ・ヴィンチ』のベクトルは、コミックとかミステリーのほうに傾いたみたいだ。思想はカッコイイとひっぱる試みは可能と思うんだが。
今回はことしのブック・オブ・ザ・イヤーについてのべたい。でもほぼ読んでいない本ばかりだが。ことしの一位は村上春樹の『海辺のカフカ』だ。純文学系ではダントツだ。たぶんアメリカ的なカッコよさをもった作家はほかにいないということだろう。オンリーワン作家だな。
二位はマンガの『ONE PIECE』だ。「人生のドラマが集約されている」というが、私はあの絵柄だけで敬遠したくなるが。三位は宮部みゆきの『あかんべえ』。一冊くらいは宮部みゆきは読んでみたいな(『火車』とか)。あと江國香織とか高村薫、乙一とかいう人が入っている。ミステリーは人気みたいだが、私はどうも犯人をさがす話のどこがおもしろいのかわからない。マンガの浦沢直樹の『20世紀少年』というのは「ともだち」に支配される日本を描いていて、「ともだち至上主義」にアンチを唱えた本だとしたらエライ。
ノンフィクション系では日野原重明という医者の『生き方上手」という本が評価が高かったみたいだ。なぜこういう本を読みたくなるのか私にはよくわからなかった。斎藤美奈子の『文壇アイドル論』は私もおもしろうそうだと思った本だ。
海外文学では『ハリーポッター』系のファンタジーが人気があったりする。『ハリーポッター』がうけたのは「隠れた才能」モノだったからだろう、よくは知らないが。アレックス・シアラーの『青空のむこう』はよかったみたいですね。『リトル・ターン』は飛べない鳥の話で、五木寛之っぽい。しみったれていると思うが、心の浄化はあると思う。
評論家があげた本はやっぱり玄人っぽい。リチャード・パワーズ『ガラティア2.2』は難解そうだが、ピンチョンみたいにワケわからんのかな。コリー・ウィリスという人が臨死体験をえがいた『航路』はおもしろいのかな。
マンガでは『黄色い本』というのが評価が高かったみたいですね。身体は現実を生きながら頭の中は本でいっぱいになっているというのはたしかに問題だ。いしいひさいちの『現代思想の遭難者たち』は思想家をよくギャグ・マンガにできたものだと思う。
まあ、以上あげた本はことごとく読んでいない。それなのに一言いう意味はあるのかと思うが、まあ世間の話題にもすこしばかり触れたいということである。
ことしのブック・オブ・ザ・イヤーというのはいまの時代の流れを反映しているといえるのだろうか。ベストセラーとかはあまり時代と関係ないように思うが、どこかに時代の反映があるのだろうな。
私のことしはあまり社会・経済的なことは読まず、霊魂とか身体とか時代とかかわりのないことを読んでいた。景気が落ちてゆくばかりで希望がないから社会的な変化に興味がなくなったということもあるかもしれない。もう社会の変化に目を向けてもしかたがないという気分なのかもしれない。あるいは目を向けたくなったのかも。希望のない時代はとうぶん終わりそうもない。
35歳、年をとるということ 2002/12/15
35歳になって年をとったという感はまったくないが、やっぱり若いときにくらべていろいろ変わった。いちばん変わった点は生活の比重が大きくなったということだろうか。働くこと、お金を稼ぐこと、お金のやりくり、生活のこまごまとしたことが人生のメインとなってきて、趣味とか遊びの比重がしらずしらずのうちに低くなっていたことに気づく。
家庭をもっていたらなおさらだろう。生活や仕事、子どものことに追われて、とても自分のことや趣味の時間にかまける暇はなくなっていることだろう。生活感にあふれるということである。若いときみたいにカッコつけるということが重要でなくなり、いかに安いものを賢く買うかということに重点がおかれる。若いときに熱中したブランドなんかほとんど興味をなくしている。
大きく変わったもう一点は、自然の風景が好きになったということだ。子どものころ遠足なんかで山や渓谷につれていかれる意味がまったくわからなく、嫌いだったのだが、いまではすっかり自然好きになってしまった。緑の風景がたまらなく心を癒すのである。この変化は自分でも驚きだ。
子どものときに大好きだった映画やロックはかなり興味がうすれた。べつにそれらがなくてもほとんど気にならなくなった。熱中度が話にならないくらい低くなった。なんでなんだろうな。子どものころの世の中の学習期間が終わったということなんだろうか。
音楽のヒット・チャートはもう20代半ばころから、これはもう子供向けのものなんだなという感がしてきた。大人になった自分が聞くには恥かしい気がしてきた。いい曲があっても、十代のようには感情移入できなくなっていた。醒めてしまったんだな。いまはふう〜んという感じで外側からながめる感じだな。
あんなに好きだった映画を見なくなったのは、私が哲学や社会学などの活字を好むようになったことと関わりがあるのかもしれない。物語には没入できなくなったのだ。
ぎゃくに十代のころは小説や学術書は読みたくても読めなかった。活字を想像力で組み立てる頭の力が育っていなかったのだろう。高校のときは読めなかったものが大学のころには読めるようになったのは、なんだろうな、活字に価値をおく環境に身をおいたからだろうか。ちょうど村上春樹の本がファッションになっていたころだ。しぜんに言語能力が育っていた。この裏側には映画や映像への興味の低下がある。
TVはよく見ているほうだ。仕事で疲れて帰ってくれば、TVでのぼんやりした時間が心を落ち着けてくれる。ドラマであったり、バラエティーであったり、ニュース番組であったり、安らかでささやかな楽しみだな。活字が好きな一時期TVを否定したこともあるが、いまは無邪気な楽しみを否定するつもりはない。
マンガは小中学校は熱中して読んで自分でもマンガを書くほどだったが、早くも高校のときには飽きていた。やっぱり子どもっぽいと思って卒業したのかな。でもいまはマンガ市場が拡大して大人でも当たり前にマンガを読んでいるが、私はどうもマンガを読みたいとは思わない。否定する気もないけど。
人がつくった作為的なものはトータルに興味をなくしていると思う。ファッションとかモノとか、デザインものとか、そういうものの優れたものをほしいという欲求はほとんどなくしている。産業に踊らされているということに気づいたり、価値のランクづけみたいなことに興味をなくしたりして、よいものを求めるという気持ちはなくしている。これはオトナになったということか、産業のニヒリズムにとらわれているということか、それともたんにお金がない、稼ぐ力がないうことだけなのかもしれない。
友だちは25くらいまではひんぱんに遊んでいたが、友だちが結婚するころにはつきあいはなくなっていった。いまはいつもひとりだ。いまさら友だちと遊びにいくところなんてないと思う。まあ、子どものころから大人になれば友だちはいなくなるものだと思っていたから、べつになにも思わない。
恋愛にはほとんど興味をなくしている。十代のころには一途な想いみたいなものをもっていたが、いまはそんな思いこみはなくなった。女性を人格の思慕の対象と思うより、肉体や性愛の対象とのみ見ることが多くなった。オッサンになったということだな。でも私は経済力がなく、結婚する夢もなく、ほとんど性欲すら枯れかかっているというしだいだ。
健康面で年をとったという感はほとんどないが、歯は二十代後半にぼろぼろと欠けてしまって、銀歯が多くおおっていてサイボーグみたいだなと思ったりする。
35歳というのはふつうなら結婚して子どもがいて会社でも中堅にさしかかり、そろそろマイホームのローンを支払いはじめ、若者のマーケットから外れたという年齢だろう。私はもう若者でもないし、家庭をもったり父の立場になったりするという大人にもなっていない宙ぶらりんな状況にいると思う。35歳にふさわしい家庭をもつべく勤めるべきなのか、それともこのまま脱力とミーイズムで全うしようか。35歳というのはもう人生の半ばの折り返し地点を過ぎたと考えるべきなのである。
ご意見、ご感想お待ちしております。
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