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■020611断想集




  緊張に自分で気づけない、自分で解けない     02/6/11.


 われわれはふだんいろいろなときに筋肉を緊張させている。しかしあがるようなときの緊張は明確に意識できるが、ふだんの緊張はほぼ気づかない。そして緊張の継続はのちにこりや痛みになってはじめて自分に気づかれる。

 気づかない上にさらに緊張を自分で解けない。コチコチに固まってしまった筋肉を自分から力を抜く方法を知らない。コントロールできないからだの緊張は私たちに問題や悩みをもたらす。

 怒りや恐れ、不安、悲しみなどの感情は、筋肉の緊張となってあらわれる。しかしわれわれが気づくのは怒りの内容であったり、恐れの気持ちであったり、心だけであって、筋肉の緊張ではない。

 われわれは怒りや恐れの元となった他人や出来事は注目し、変えようとするが、筋肉の緊張には気づかず、またそれを解こうとも、ゆるめようともしない。身体感覚の着目がまったくない。

 コントロールすべきものは外部の他人や出来事ではなく、自分の心であり、筋肉の緊張ではないだろうか。外部を変えようと努力する者は、心も制御できず、そして緊張の継続を解くこともできない。そしてかれは外部の「犠牲者」ではなく、心と筋肉の「犠牲者」となる。

 精神的な問題と思われているもののいくらかは、この緊張のノン・コントロール状態からもたらされているのではないかと私は思う。心の問題ではなくて、身体の、筋肉の緊張が問題だったのではないかと思う。私たちはあまりにも身体を無視し、そしてコントロールできない。身体機能の荒波に翻弄されるのみである。

 筋肉のこりや痛み、緊張は同じ姿勢や歪んだ姿勢からもたられることもたしかにあるが、精神的な緊張から来る場合も多いのではないかと思う。ストレスがもたらされると私たちは体を守ろうとして、筋肉の緊張を鎧にする。大昔に外敵や獣から守ろうとした名残りである。この緊張は一瞬で終わるが、私たちの緊張は過去と未来を想像する能力のために長時間つづく。筋肉の鎧はいっときも脱がれることがないのである。

 継続した緊張は血管を収縮させ、酸素やエネルギーの運搬をとどこおらせ、疲労物質の排出もおこなわれず、それゆえに身体の病気や精神の問題をもひきおこす。

 われわれの自分を守ろうとする筋肉の緊張が、われわれ自らを追い込むのである。ではわれわれは緊張を弛緩させることができるかといったら、まったく自分でもできない。さらに自分の身体感覚すら気づかないありさまだ。自分を守ろうとした身体はどんどん暴走して自分を蝕んでゆくのである。

 身体のコントロール能力を手に入れるべきであることはいうまでもない。筋肉が緊張していることも気づかないのなら、緊張と弛緩の格差を自分でたしかめるほかない。そして緊張のリラックス法も自分のものにしなければならない。現代人は上半身に力を入れることが多いが、これには問題が多く、力が必要なときは下腹部に力をこめるほうがよいようである。

 身体のはたらきを知らない者は身体の犠牲者となる。われわれはあまりにも身体のコントロール能力がなく、また身体を無視しすぎではないだろうか。






  なぜ感情の身体変化に気づかない?    02/6/15.


 怒りや悲しみを感じたとき、身体の中がどのようになっているのか、われわれは知らない。怒りや悲しみの感情は感じられる。しかし身体の変化はわからない。

 頭にかーっと血がのぼったり、心臓がどきどき鳴ったり、胃が痛くなったり、足が震えたりするのはわかる。だが、筋肉の緊張にはなかなか気づけないだろうし、どこが緊張しているのもなおさらわからないだろうし、心臓がどうなっているのか、血流がどうなっているのかも知らない。

 われわれは怒るとき、背中を立てて腕に力を入れているし、悲しいときには胸を緊張させ息が苦しくなるし、不安なときは腹の筋肉を緊張させ、胃腸を痛めたりする。

 このような身体内の変化にわれわれはまったく気づいていない。怒りや悲しみの感情は気づくにせよ、身体内の変化にはまったく気づいていない。そして感情の原因となった外部の人や出来事を変えようとして、そのあいだ、ずっとその身体状態を維持しつづける。そしてそれは障害や病気に結びつく。

 怒りや恐れを感じたときの身体反応というのは、原始時代の獣や外敵と闘うときの反応そのものである。だから体を守ろうとして胸や腹の筋肉は固められるし、内臓のはたらきは鈍り、血管は出血にそなえて収縮し、血液は筋肉に送りとどけけられる。生か死かの極限状態だ。こんな状態を長く維持しつづけることが体にどんな大きな負担をかけるか想像にかたくないというものだ。

 しかもわれわれはこのような身体変化に気づかない。自分のささいな感情のもつれが生か死かの身体反応をおこしているなど気づかない。ほんとうの戦闘−逃走状態なら体を気遣うことは危機であるが、現代ではまったくそうではない。

 われわれはささいな感情においても獣に襲われるかのような身体反応を起こしてしまうのである。しかも身体反応に気づかないようにできている。そうして長時間のストレスのあとには筋肉の痛みやこり、病気となって現れるのである。

 われわれは改めて感情によって起こる身体の変化を把握するべきだと思う。怒りや恐れのとき、自分の身体はどのようになっているのか気づくべきだ。われわれはたいそう大げさな生体反応を起こしているのである。

 そのようなメカニズムを把握したうえで、上半身に力が入っているのならそれを緩めるとか、下半身に力を入れることによって上半身の力を抜くようにしたり、胸や首、肩などの筋肉のストレッチをおこなうのが賢明だと思う。

 腹式呼吸や深呼吸によって身体を落ち着けるのもいいし、指や足指の伸縮運動によって血のめぐりをよくするのもいいし、犬や猫がよくやるように体をのばしたり、あくびをしたりするのもいいだろう。

 われわれは原始時代の獣ではない。もはや生死を賭ける弱肉強食の時代にいるのではない。そのような時代にいぜん生きる身体反応を、理性の力によってコントロールすべきなのである。

 でも感情の身体変化に気づかないわれわれの大半は、いぜん原始時代の反応のまま生きているといわざるをえない。オフィスで電車の中で、死にもの狂いの原始的闘争をおこなっているのである。





 02/6/17コラム


 ■100円ショップで、今までの価格は何だったのか?

 100円ショップで生活必需品まで買える。くつ下が千円十足で買えるのはたいへんありがたい。シャンプーや歯磨き粉まで買えるし、1リットルジュースや食品、文房具、食器、お菓子も100円で買える。Tシャツとかジーンズが100円で買えるようになったら、ほかの店で買う気なんか起こらないだろうな。

 いままでの価格は何だったんだ、と思わずにはいられない。中国や東南アジアの輸入品と思うが、いちどこの価格を知ってしまうと、スーパーやコンビニですら買い物するのがもったいなく感じられる。でもまだまだすぐ近くにあるというわけではないので、いつもは買いに行けないけど。

 日本は金持ち国家になったのだから円高差益で安い買い物ができるようになるのはとうぜんなのだが、生活必需品がここまで安くなるとは驚きである。遅すぎるし、急激すぎる。生活するのにほとんどお金がかからなくなる。

 メーカーは超安売り国ととうぜん太刀打ちできないし、業種は後進国と同じことはできないし、庶民は安くなる生活費に高密度の勤労意欲を保ちつづけることができるのだろうか。いろいろなところで日本人の分岐点がやってきたという感がする。


 ■ワールドカップと暴動

 たかがサッカーの勝ち負けで国じゅうが大盛り上がりになっているが、日本はしばらく国民的熱狂というものがなかった。バブルのとき以来かもしれない。

 国民的一体感というのはたいそう人を熱狂させるものらしい。世界じゅうではサッカーの勝ち負けによって暴動を起こしたりする。人は大勢の人や国民という単位によって一体感に狂気乱舞したいみたいである。

 近代の理性ある人たちはこういう群集行動を自我をなくしたものとしてたいそう毛嫌いしてきた。心理学者も哲学者も理性の欠如を嘆く。私も熱狂的一体感には距離をおきたい。

 しかしたとえば現在のような経済的・社会的行き詰まりが逼迫するなかで、個人はその重責感や苦悩をひとりで解放できるだろうか。集団の中で苦痛を解放したいという気持ちが噴出してもおかしくない。

 江戸時代は約70年ごとに全国の人々がいっせいに伊勢参りに集まったそうである。社会の閉塞感がピークに達するころにそれは起こってきたそうだ。現在のワールドカップは平成の閉塞感のうえに起こっており、状況はよく似ているといえる。社会はどうしようもなくどん詰まりなのである。

 世界のなかでは祭りによって文明のガス抜きがおこなわれるところがある。社会というのはそういうガス抜きがなければ、耐えられなくなるみたいである。

 日本にはあまり国民的熱狂を誘うようなガス抜きがない。たまりにたまった欲求不満はとんでもない隘路をみいだすかもしれない。その前に小出しのガス抜きをみいだしたほうが賢明だと思うが。


 ■騒音の基準

 初夏になると、私の住むマンション密集地帯の人々が窓を開けるようになって、恒例の隣家の騒音に悩む時期がやってくる。私の部屋のすぐ隣はマンションで、とにかく他人の部屋の音が丸聞こえになる。

 他人の部屋の笑い声や話し声が丸聞こえになるのは、あまり快いものではない。のぞき聞きしているみたいで、心が落ち着かないのである。

 Hのアノ声が聞こえるのは色々研究できてためになるから悪くないが(?)、朝までつづく笑い声や大きな話し声はほんとうに腹がたつ。眠れない。自衛策としていつもヘッドフォンをして眠ることになる。

 ほんとう、どこまでガマンすべきなのかわからない。どこからが苦情をいうべきなのかわからない。眠れなくなって腹がたって穏和な私でも壁をたたいて穴が開いたこともある。

 いぜんの上の部屋の住人の朝までつづく笑い声にしびれを切らして大家さんに苦情の手紙を出したこともある。ほかに隣のマンションの女性に上の階の騒音に相談をうけたこともある。でもなぜか直接にはいえなくなるんだな。ポストに苦情の手紙を入れようとしたこともあるが、気が引けるのだ。

 騒音の基準というのはいったいどこに引けるんだろうか。対処策としてどうすればいちばんいいのだろうか。クーラーがつくまでの期間だけだが、きのうは上の部屋のカップルの声で眠れなかった。騒いでいるわけではなかったのだが、丸聞こえだった。これは私がガマンすべきレベルなのだろうか。耳が痛くならないヘッドフォンを買うべきなのか。坐禅して動じなくなるべきなのか。






  <いま・ここ>の瞬間の拒否      2002/6/20.


 自分のおかれている環境を拒否する人は多いと思う。会社や学校、家庭などが自分にはふさわしくないと思う。なんとかその環境から逃れたいといつも思っている。

 環境の拒否というのは、おそらく自分の感情の否認もつながると思う。怒りや悲しみをすぐに悪いものとして排斥しようとする心だ。これは人に見られたくないとか、道徳的によくないとかの思いから起こると思う。

 しかし感情の拒否は失敗する。なぜなら起こった感情を拒否するとぎゃくにそれは強まるからだ。感情のアクセルは踏まれてしまったのだから、それを止めようとして、ほかの感情のアクセルをまたもや踏みこんでしまう。最初の感情はしぜんに収まるまで待つしかないのだが。

 われわれはカン違いする、ある感情はほかの感情で抑えることができると。しかしそれは別系統の感情を発動させたにすぎない。抑える感情は、押さえつけ、食いしばる筋肉を発動させるだけである。ひとつの体にふたりの人間が別々に指示を出しているようなものだ。

 ヒュームは自分の中に「私」を探しても、感情や感覚しか見つからないといっている。つまり感情を抑えつけたり、コントロールする「もうひとりの私」などいないということだ。私たちはこうして「私」というもうひとりの存在を生み出してしまう。この架空の存在を生み出してしまうのは、感情の拒否である。

 この感情の拒否は、容易に現実の拒否につながる。<いま・ここ>の拒否である。終わった瞬間瞬間を流せない。過去を流せない。終わった瞬間瞬間にいちいちつまづく。過去の記憶や想念にせきとめられるのである。

 われわれは瞬間への抵抗をおこなう。瞬間を受け入れられないのである。流せない過去は思考となって、われわれを流れる時間からせきとめる。こうしてわれわれはいっときも<いま・ここ>の瞬間を生きることができないし、現実の拒否をおこないつづけるのである。

 思考とは現在の拒否である。流れる時間の拒否である。なぜわれわれはいまの瞬間を受け入れられないのだろうか。おそらくわれわれはいろんなことへの拒否を義務づけられているからだろう。マイナス感情の拒絶、劣位の環境の否認、そして行動への非難、あるがままであることの批判がさまざまな人から投げかけられる。しまいには自ら全世界への拒否を背負うようになるというわけだ。

 われわれはいっときもこの世界を受け入れてはならないのである。さもないと進歩も発展も向上も認められないからだ。そのかわりにわれわれは自己否認や瞬間の拒否という十字架を背負うことになった。

 現実否認の結果に苦しんだ人だけがおそらく現実受容の大切さに気づくことができるようになるのだろう。自分を責め、環境を憎み、家族を否認した人がどんな結果になるかは想像に難くない。現実をありのままに受け入れられるようになるのは、自分のさまざまな拒否の瞬間に気づいたときだろう。

 そのときにはすべての瞬間を受け入れ、後悔も悔恨も、恐れも悲しみもない、流れる瞬間に身をゆだねることができるのだろう。



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