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020329断想集
無心・投影・崇り




  無心とは非情のことなのか    02/3/29.


 基本的に人は過去を継続して生きる。過去にあったことがらを現在にもってくる。しかし思考消去という思考のコントロール法をおぼえると、過去を捨てるわけだから、とうぜん過去にいつまでもこだわる人と衝突がおこる。

 相手の怒りの対処法としては良い方にはたらく。過去の怒りにしがみつかなければ、相手は私の怒りを期待しているわけだから、過去の怒りを捨てた私の態度に相手は肩透かしを食らう。人は怒りの内容ではなく、態度に反応するのである。

 怒りを捨ててみると、怒りの関係というのは恐怖にもとづいているというのがよくわかる。人が私のことを怒っているのではないかという恐怖が、自分をかばおうとする怒りを発動させるのである。

 人間関係というのは過去にあったことがらの贈与交換である。過去の出来事の反応を、現在のその人にお返しする。いまはほとんどの人がこういう思考と感情のパターンに従っているから、私のような思考のコントロール法を身につけた者はさっぱり理解できないようである。過去を捨て、いまを生きるという方法をほとんど知らない。

 過去の消去が悪い方にはたらくのは、楽しいことやうれしいことの過去の継続をしなかったばあいである。人は怒りと同様、喜びやうれしさも過去からの継続を期待する。だから過去を捨てる私は、過去の反復を期待する人には私の態度に肩透かしを食らう。せっかくうれしさや楽しさを期待しているのに、その態度はなんだということになり、憎悪や怨みを買うことになる。

 いまのたいていの人はこういう過去の感情の反復・交換パターンのルールに従って生きている。だから過去の感情や交換規則を捨てさせてくれないし、そのルールを守らない行動が人にはまったく理解できない。怒りを捨てる私はいいやつに見えるし、喜びを捨てる私はけしからんやつだということになる。

 人の悪口や陰口も過去のこととして捨ててみて気づいたことは、それを放っておけば、人は調子にのって増長し、どんどんとそれを言いふらし、まわりの人にかなり感染することである。これには参る。思考を捨てるようになって二度ほどこういう経験をするようになったが、おそらく陰口を無視して流す私が抵抗もできない弱いもの、格好のいじめられ役に見えるのだろう。自我を守るルールに破れたと思われるからだろう。良寛や井上井月らが子どもに笑われたり、石を投げつけられたシーンが思い浮かぶ。

 思考や感情、過去を捨てることは心の平安にはよい。しかし過去を反復する人たちのルールとはどうも折り合いが悪いことが多い。また孤独に強くなったり、ひとりで平気でいられることも、まわりの人たちの不安をかきだすようである。感情のコントロール法をまったく知らないほとんどの人には、感情にひきずりまわされるのが当たり前になっているから、感情に従わない私が理解できなく、不安を誘うことが多々あるようである。

 まあ、人のルールとあまり離れるのはよくないのだろう。過去の反復というルール、感情の表出規則には、感情にひきずりまわされずに、適宜に従うことが必要なのだろう。これらは心の中だけのパターンだけはなく、社会のオキテでもある。オキテに従いつつ、心を飼い慣らすことが肝要なのだろう。

 人間関係とは言葉である。想像力の増殖である。言葉や思考がせっせとつくりだしている過去の絵空事に過ぎない。しかも他者の心と思っているものも、自分の想像力、自分の心に過ぎないことに人は気づかずに、自分の心がつくったものに苦しめられる。

 こんな空しい心の習慣はさっさと捨ててしまえばいいのだが、ほとんどの人はこれに従っているため、感情の喜怒哀楽の嵐にふりまわさることになるのだが、それが人間社会のルールならある程度は従うしかないのだろう。






   思考を捨てることの倫理性     02/4/5.


 悲しみや恐れ、不安に襲われたとき、思考を捨てることの効果はバツグンである。考えなければ、それらはいっさいなくなる。心の平安を保つためには思考および過去をぽいぽいと捨てることが大事である。

 しかしどうも人間関係においては必ずしもその方法がよいとは限らないようだ。はっきりとはわからないが、人々が味わう感情の流れを共有しないため、それに抗って平安を保ってしまうがゆえに、人々から不評を買うのだろうか。あるいはたんなる私自身の性格の歪みがもたらした問題なのかもしれないが。

 平安を保つためには他人の感情の配慮を捨ててしまう場合もある。それによって他人から怒りや怨みを買い、陰口や批判を流す無神経さにさらに腹を立てられ、その神経の図太さを確認する意味もあるのだろう、陰口はほかの人にも広まり、誹謗中傷の攻撃にさらされることになる。

 どうも思考を捨てるということは、はたから見ると、無視や冷淡や薄情だと見られるのだろうか。感情のルールに従わないため、かなりの非情な人間に見えるのかもしれない。

 過去を捨てるということは、人間社会の一般ルールである過去のギブ・アンド・テイクの関係も断ち切ってしまう。怒りや怨みを捨てることはよいほうに働くが、喜びや楽しさを継続しないことは薄情さや冷淡さの印象に結びつく。人は過去を捨てさせてくれないのである。そして人々は条件づけられた感情のほかのあり方をまったく想像できない。

 人に思考のコントロールの方法を伝えることもできるが、このような心理的なことがらを日常の場面で語ることはひじょうに難しいものがある。プライバシーに触れられたくないという心理が働くのか、それとも心を語ることは即、宗教だと警戒されるのか、心理的なことがらというのは日常の会話では軽度のタブー状態、アンタッチャブルな話題である。だから思考を捨てる方法と、過去の商取引の関係は衝突しつづける。

 個人の平安は、人間関係の平安をもたらすとは限らない。社会が抜け落ちる。個人の性格や歪みをそのまま正当化や承認してしまうことになり、他人や社会からの修正や要請をうけつけなくなってしまう。思考を捨てれば、そんなものはかんたんに無視できるからだ。

 思考を捨てる修行をしてきた禅の修行僧や仏教僧はこのような問題をどのように解決してきたのだろうか。このために仏教僧は世俗や家族から離れる必要があったのだろうか、それとも私の思考を捨てる方法があまりにも誤った隘路にはまりこんでしまったのだろうか。

 思考を捨てつつ、過去の商取引の関係をパフォーマンスするという技能も必要なのだろう。私はどうも自分だけの心の安寧をめざしすぎたため、社会との軋轢が肥大したようだ。感情にのみこまれずに、一般の人たちのように感情および過去の関係を演じる訓練が必要なのだろう。さもなければ、人間社会のルール違反は手痛い罰則をこうむる。

 カミュの『異邦人』は母が死んでも悲しまず、人を殺しても罪悪感をもたず、ごうごうたる群集の非難にも動じなかった。思考を捨てる方法の行き着く先にはこのような恐ろしい可能性もある。ただ、よくよく考えてみれば、怒りも復讐も捨てられる人間が、人を殺す動機も意味などありはしないので、憂慮する必要性などないと思う。

 感情のコントロール法を身につけるということは、一般の人たちが無意識に従う感情のルールに抗うことである。したがって一般の人には理解できず、感情のルール上から外れた無情で冷酷な人に思われる可能性がある。

 ふつうの感情の感じ方をしない人は、人間らしさやあたたかさを欠いた人間に見えるのである。感情というのはそれほどまでに自然的で本来的なものと信じられており、これが文化的、人工的に条件づけられたパターンだとは人はほとんど気づけない。

 思考や感情というのは、まったく虚構の世界である。しかしこのまやかしの世界を生きないと、人間らしさの資格さえ剥奪されかねない。この危険性を鋭く認識しつつ、衝突やあつれきを癒す方法をみいだしてゆかなければならないのだろう。それとも私の知識自体が誤った方向に進み過ぎたのだろうか。。。







   仲間に入ることの拒絶     02/4/14.


 私は仲間の輪に入ることがとても苦手である。なかなか集団になじめない。集団や三人以上での会話のキャッチボールがからきしダメである。

 それなのに、私は孤独と孤立の正当化と理論武装ばかり増強してきた。まずは自由論や集団・大衆批判からはじまり、個人主義の確立や依存や甘えの関係の拒絶をめざしてきた。

 さらには批判するだけではどうしても心や感情が集団に負けてしまうので、思考を消して感情をなくすという心のコントロール法も手に入れた。孤独や孤立がかなり平気になったのである。

 そうすれば、こんどは私の属する集団のほうが泣きはじめた。なかなか仲間にとけ込めない私を批判したり、陰口ばかりたたかれるようになった。

 個人行動を好む私にたいして相手は自分は嫌われているのではないかという恐れをもよわせたり(だから人は私に陰口をたたく)、集団の同調行動のオキテにダメージを与えたようである。

 気づいたことはこの集団と私の関係はまさに自分の心のなかの構造や葛藤をそのまま表わしているのではないかということだ。孤立をのぞむ心と孤独に耐えられない心が叫びあっているのではないかと思った。これまで私が味わってきた孤独の痛みをかれらに感じさせているだけではないかと驚きにとらわれている。

 思えば、依存と自立は私の長いテーマだった。他人や集団に依存することからずっと脱しようと闘ってきたのだった。理由はよくわからなかったが、とにかく私は自立と個我の確立をよしとし、依存を徹底的に排除しようとしてきたのである。

 なぜこんなに依存をかたくなに拒もうとするのだろうかと思い巡らしていたとき、中学のときの友だちとの関係に思いあたった。仲のいい友だちがいたのだが、彼はともかくほかの友だちともたくさん仲良くしていた。私は放っておかれるような状態になり、怒りか嫉妬を感じるようにでもなったのだろう、友だちが私のところに戻ってきても、黙っていたり冷たい態度をとるようになった。心の抑圧と複雑な葛藤は、思春期のここからはじまっているのかもしれない。

 大学のとき、巡り合わせの悪さからとても仲のいい友だちから心ない仕打ちをうけることになった。私はとても深い痛手を負い、そこから親しさや親密性といったものを恐れるようになり、依存を憎み、ひとりで立ってゆくことを目指すようになったのかもしれない。

 こういうことはいまだからこそ俯瞰できるようになったのだが、そのときは自立をめざさなければと思いこみ、依存が嫌いという頭があるだけで、なぜこんなに依存が嫌いなのか顧みることはあまりなかった。私は依存や集団の親密性を嫌いになった理由から癒すべきであったのかもしれない。

 信頼していたり、親しさを感じていた友から裏切られるようなことは、無邪気に一体感を感じていたがゆえに、とても痛い経験である。恋人に裏切られるようなことも同じようなものだろう。人はこの痛手をのりこえて成長してゆかなければならないのである。

 しかし私はどうものりこえる道を誤ったのかもしれない。親しさや親密性の手をひっこめるばかりか、自分から拒絶するようなことをしてきたのだ。親しさに壁を築いたのである。怒りや恐れがそうさせたのだろう。

 親しさが裏切られたとき、私たちはどのような心の癒しかたをしたらいいのだろうか。すっかり怖がり屋や怒りに満ちたものになった親しさの欲求を解き放たなければならないのかもしれない。

 病になった親しさの欲求をあたたかく、やさしくつつんでやるべきなのかもしれない。癒されない心の傷はまわりの人も傷つけ、私の心の中の痛みが癒されるまで、何度でも同じ痛みを報せつづけるのだろう。





   嫌いな他人は自分自身だと認めること     02/4/17.


 嫌いな他人は自分自身の認めたくない部分である。だから嫌いな人にいちいち感情的になる。無視できないのである。

 心の投影ってむずかしい。なぜ嫌いな他人が自分の嫌いな部分なのか、ひじょうにわかりづらい。

 私たちは自分と他人はまったく別物だと思っている。他人の嫌いな性質は、自分とまったく別々だと信じている。しかし他人に思うこと、感じること、解釈することは、すべて自分の心の中でおこっていることだ。すべて自分の心だ。心は分けることができず、自分も他人も区別がない。

 人は自分の嫌いな部分を見まいとすると、かわりに他人の中にそれを見つけてしまう。感情的にガマンできないものはどこにも見つけられてしまう。自分自身の心のひっかかりが、そのまま覗き穴として固定してしまうのだ。

 私たちは不用心に人の批判や陰口、悪口をいっていると、まさに自分自身のいやなレパートリーを公開していることになる。自分の嫌いな部分を他人になすりつけているだけである。気づいたときは赤面せざるをえないし、人がいっている陰口はかれの欠点だと知ることができる。

 人は他人の心、主観を直接知り得ることはできない。だから嫌いな他人の行動を理由づけするときには、自分の心のなかから同様の心の動きをもってこなければならない。つまり自分自身の心なのである。こういう仕組みに気づかずに人は今日も自分の欠点を公開しつづける。

 けっきょく、自分自身にない性質は他人にあっても気づかないのである。だから他人に見えるものはすべて自分自身だと考えてよいのである。

 われわれは嫌いな他人を見つけたら、それを自分自身のなかに見いだすべきなのである。認めたくないからこそ、他人のなかに見出すのだから、容認することはとうぜん困難な話になると思うが、容認しないことには人生をメチャクチャにしてしまう。生涯を自分の影との対戦と抗戦にムダに奪われてしまうことになるからだ。

 デビー・フォードの『「嫌いな自分」を隠してはならない』(NHK出版)は、なかなか理解しがたい投影や影のとりもどしについて教えてくれている。もちろんかなり参考になったが、私としてはもうすこし認識論的な説明がほしかったところだ。

 この本のなかで驚いたことは、影というのは悪い部分だけではなく、よい部分も他人に投影しているということだ。偉大な人に見るのは、自分自身の偉大さなのである。自分にない性質は他人にも見えない。

 私たちは自分の偉大さや長所、才能さえ自分自身に認めないのである。そうして影になった部分は、社会的に尊敬される人物へと向かう。それが自分自身のものとしてとりかえされたとき、私たちはほんとうの自分自身を生きることができるのだろう。

 投影と影ってむずかしいけど、これは自分自身を謎とく重要な鍵となるものだ。そして自分と他人というカンチガイの区分も消滅させてくれる。私たちは自分の心のみとしか出会えないのである。





  霊と崇りの心理学     02/4/19.


 むかしの日本人は死後の生や霊魂、神々などを信じていた。死者は山にのぼり、いずれ祖先の霊となって子孫を見守り、神々は山や木、岩などの自然に宿ると考えられていた。

 自己の命や心をすべて肉体に閉じ込め、外界の現象を機械的に説明する現代人には信じられない話であり、むかしの人はどうしてこういう世界観をもつようになったのかと思う。まだぜんぜん深く検討していないのだが、「軽はずみ」に考えてみたいと思う。

 かれらはどうも自分の心を自己の肉体にとどめておかなかったようである。自己の心のはたらきを外界や環境にまで押し広げて認識していたようだ。自己の肉体内に閉じ込められるべき怒りや悲しみなどの感情は外界に投影されていたのである。だから自然現象に怒りや怨みの主体をもとめたのである。

 自己の心や感情は肉体を超えて外界に流れ出ていた。そして環境のあらゆるものは命があり、霊があり、怒りや怨みなどの感情があるとされた。自然現象の原因は人間自身の投影となったのである。

 死者はなぜ魂として生き残ると考えられたのだろうか。死者を供養することから考えると、生前の後悔や悔恨、もしくは死から救えなかった残された者の感情の癒しが考えられる。死者を慰めているのではなく、残された生者を慰めているのである。外界の対象におこなうことは自己におこなうことである。

 平安時代になると権力者のあいだで敗者の怨霊が恐れられるようになる。崇りを鎮めるために空海などの仏教僧が政治界にまで力をもつようになる。

 死者の怨みが病気や災害をひきおこすというロジックは現代人には考えられない。怨みは個人の肉体内にとどまるはずである。ましてや死者が力をもつはずがない。この場合も怨まれた者の被害観念の連鎖増大を癒す必要があったのだろう、加持祈祷が必要になる。

 むかしの人は自分の心や感情を外界の霊魂や神々に託したのである。いわば外界の対象に投影してそれを鎮めることによって、自己の感情も癒した。

 童話に出てくる怪獣や悪魔というのは、心理学によると自己の心にある攻撃欲や悪い部分であるといわれている。それを外界に怪獣や悪魔として実体化・具体化するわけである。死者の霊や怨霊といったものもそういうメカニズムと同じものなのだろう。

 むかしの人は自分の心を自然環境に投影したのである。そして投影された対象を鎮めたり、なだめたりすることによって、自己の心も鎮めたのである。外界の霊魂や神々というのはすべて自己の心の投影だということができる。

 現代人は外界を自己の心から切り離し、環境や自然を機械的に説明し、心や感情のすべての原因は自己の肉体内にもとめられることになった。いいや、心は商品経済に流通するものだけに投影されるようになっただけだろう。たとえば会社や学校、家族や商品、サービスなどだけに限定されただけだろう。われわれはそれらのものに心を流れ出しているのである。

 ここでは霊魂や神々は心の投影だと考えてみたが、それらの存在すべてを否定するのはあまりおもしろいものではない。霊魂や神々が存在する世界というのは世界に神秘性と魅力を付与するものだし、われわれが理解する以上の心の最善の用いかたを与えるものであるかもしれない。あるいはほんとうに存在する可能性だってある。かんたんには霊魂や神々は否定されるべきではないのだろう。




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『「嫌いな自分」を隠そうとしてはいけない』 デビー・フォード NHK出版


   
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