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▼テーマは霊魂と物質 

 


020318断想集
物質否定の知覚観・肉体観




  日本人の魂、あの世、神々について     02/3/18.


 霊魂や神の存在を否定してきた私にとって、身近にある神社やお寺、お盆や正月というものはまったくわからなく、ムダで、無意味なものにしか思えなかったものである。

 これらは霊魂やあの世、神といった存在を通さないとまったく見えてこないものだとやっとわかりだしてきた。しかしそういう存在を教える親や人たちがいない中で、これらの世界観が断絶するのは致し方がないというものだ。

 私はチャネリングを通して、信じるか信じないかはいまのところ明確にはできないが、霊魂や神々の世界観を身近に知ることができた。このチャネリングの知識は古来の霊魂や神を信じろというのではなくて、物質や知覚、肉体の否定を知識として教えるところが現代的で、知的好奇心がわくところなのである。

 そしてこの世界観を知ることによって、はじめて神社や寺、神、あの世などの古来の日本人が信じてきたコスモロジーとつながれることを知った。

 日本人はずっとこのような霊魂やあの世、神といった存在を信じてきたのだ。いたるところにある神社や寺、祠、地蔵などはそういう世界観がいまだに根強いことを物語っている。そもそも墓の存在は霊魂信仰ではないのか。

 都市はこういった世界観をまったく払拭し切っているが、田舎や山になんか登るとそういう世界観のシンボルをあちこちで見ることができる。私にはまったく理解できなかったのだが、どうも日本の神というのは自然の神秘や力の結集のようなもので、それが神社や木、岩、山などに宿るようである。

 日本の神はキリスト教のような特定のすがたかたちをもたない。神社にはなにが祭られているのかよくわからない。神はどこにも飛んでゆくことができ、分割することもできるので、全国あちこちに稲荷神や八幡神、熊野の神が分割されることになるわけである。お守りにも神の力が憑着するというわけである。

 死んだ人は近くの山に行き、盆や正月に帰ってくると信じられていた。谷をさかのぼったところに死者がのぼるとか、朝日の登る山は死の国から生の国によみがえるところ、日の沈む山は死者の国とか、日本人は身近な山に死者の国を思い描いていたわけである。

 こういったあの世観とか神の世界観は現代人にどんどん失われ、継承されなくなっているわけだが、考えてみたらすさまじい世代間断絶がおこりつつあると思うのだが、これらのコスモロジーの崩壊は人々になにをもたらすのだろうか。

 あの世や神は日本人の世界観や社会にとってどのような役割や機能をもってきたのだろうか。まったく損失だけだとは限らないと思うが、失われたものはいったい何だったのだろうかと思う。






   セスの知覚観・物質観      02/3/19.


 セスというのはチャネリングによって語られた存在で、『セスは語る』(ナチュラルスピリット)という本はニューエイジの原点ともいわれ、ベストセラーとなっている。この中から、たいへん興味を魅かれる知覚観・物質観について引用してみたい。

 「体の感覚器官の仕業で、あなたがたの知覚力の範囲は三次元世界に限られているのです。しかしまさにそうした感官の性質ゆえに、三次元以外の等しく存在根拠の確かな次元に対する知覚力を抑制することが可能になっているのです」

 「あなたがたは無意識の深層レベルにおいて、並外れた慧眼、奇跡と見がまうほどの明瞭さ、そして肉体を成す個々の微細胞にそなわった意識されることのない深い叡智をもって、みずから知るところの肉体を自分自身で創造しているのです」

 「体の感覚器官は、自己の体験を物理的な知覚結果に変換するよう強制します」

 「物質的現実は、現実がまとうひとつの形態であると申しあげるほうが、おそらく意にかなっているでしょう」

 「環境はあなたが形づくるものであり、まさに文字通りあなたの延長であると言えます。つまり、あなたの意識から外に向けて拡張した、物質化した思考なのです」

 「「内なる自己」は、まさに文字通り思考や感情を、それらに対応する物質的複製へと魔法のごとく変容させて体を創り上げます。……あなたがたは原子や分子を使い、基本的構成要素を「自分自身であると称する形」に創り上げることで、自分の体を築いているのです」

 「眼鏡や補聴器が体にとって人工物であるように、内なる自己にとっての体の感覚器官は基本的に人工物なのです」

 「あなたがたは言葉を創造するのと同じほど確実に、物体を創造しているのです」

 「感情や気持ちを象徴的記号である言葉に置き換える時と同じくらい、そうと気づかず努力もなしに、みずからの肉体を形づくっていることに気づくのは、それほど容易ではないようです」

 「人類は己の息づかいと同じほど、意識することなく自動的に物質としての対象物を創り出しています」

 「あなたがたは物質的な存在である自分を気にかけるあまり、いま以上の知覚情報がきてもそれらを扱いきれないとか、個としての自分が維持できなくなるのではないかとの恐れから、知覚の拡大にみずから限界を設けているのです」

 「すべての物質的な「現われ」を有しているものには、あなたがたには知覚できない別の形態も存在します。あなたがたには、それらが特定の「振動周波数」に達し、凝集結合のすえ物質化したと思われる、その瞬間の現実だけを知覚するのです」

 「現在あなたがたは、みずからの物質的肉体だけでなく、あなたがたが「時間」と解釈しているものの特定の振動周波数にも焦点を合せています。歴史のなかの現時代以外の諸時代も、いっせいに存在しています。……繰り返して申しあげますが、あなたがたは単にそれらの振動周波数に同調していないだけなのです」

 「基本的にあなたがたの知るところの「時間」は存在しません。そして、すべての被造物は同時に存在しています。……あなたがたの言う「過去」も「現在」も、地上における時代のすべてが存在しています。……あなたがたはただ、極めて限定された時空間座標の場に意識を絞り込んでおり、それらを現在の現実として受け入れ、他のすべての体系から己を閉ざすことを選んでいるだけなのです」

 「あなたがたは自分たちの観念を分子や原子のうえに換置させるという、一風変わったやり方で原子や分子を使っています。そして特定の流儀に従ってそれらを知覚します。……物質としての対象物は「あなたがそれを固体であると信じているとき以外は固体ではない」というのが真実なのです。……あなたがたが存在しない物体を用いて、どれだけのことをやり遂げているかは驚嘆に値します」

 まさに驚嘆する知覚観が語られているわけだが、物質も肉体も自分が創造しているといっているのである。そしてその知覚だけに焦点が合うように設定されているがゆえに、その他のありようが見えなくなっているということだ。時間すらそうであるという。

 チャネリングというのは神秘思想家を超えていると思う。神秘家でもここまで語られる人はいないと思う。あとはこの知覚観をどれだけ自分のものにできるかということだ。





   ラムサの物質観・肉体観     02/3/21.


 ラムサもチャネリングによって語られた存在である。その著『ラムサ――真・聖なる預言』(角川春樹事務所)から、物質観・肉体観について語られた箇所を引用したい。

 「神が最も至高な形で表れたものとはいったい何だろうか。それは思考である。父なるもの、人間が自分の人生を創出する舞台、すべてのものの生命の力、そして生命物質とは、広い意味で言うと、思考である。思考こそが、過去、現在、未来を通じて存在するすべてのものの究極的な創造主だからだ。

 身体の分子構造、細胞組織を互いにつなげているのは、神の真の姿である壮大で崇高な思考だ。思考なしにはあなたの身体は存在せず、物質さえも存在することはない」

 「身体は、真の存在=自己を構成している、変動する光でできた最も複雑で高度な電気系統を宿すためにつくられた。あなたの本当の姿は身体の大きさがあるものではない。実は、ほんの小さな光の点なのだ!

 あなたが宿っている身体は、魂を運ぶ単なる車であり、この物質界に生き、遊ぶことを可能にするために選ばれた、洗練された手段にすぎない。にもかかわらず、この手段でしかないものを通して、あなたは自分の本質が自分の身体だという幻影にどっぷり浸ってきた」

 「この次元が物質の密度を持つのは、思考が、光というある特定の周波数の波動まで拡張され、それがまず減速されて電磁波となり、さらにそれが物質の総体となり、この次元の固体となるに至ったのです。つまり、この次元の物質というのは、光の周波数を遅くして、それを最大密度の形態まで落としたものだということです。

 ここにあるものが同じ密度を持つためには、すべてが同じ周波数で振動しなくてはなりません。ですから、あなたの身体は、いますわっている椅子と同じ周波数で振動しているのです。あなたにとってこのレベルが存在しているというのは、あなたの肉体、つまり、あなたの化身にある感覚器官が、物質という、光の周波数の中で最も低いレベルを感知するようにつくられているからなのです。

 本質の部分でのあなたは、物質の密度よりも高い周波数を持つ光のエネルギーですから、もし物質でできた化身を持っていなければ、この次元にある物質の中を通り過ぎてしまうことでしょう。つまり、身体が、その密度と感覚器官を通して、この次元にある物質を知覚し、体験し、それと関わっていくことを可能にしているのです。

 脳の能力がすべて使用可能な状態になれば、身体をコントロールしてその波動の周波数を上げ、物質の周波数領域を出て、光の周波数領域に入ることがいつでもできるようになります。これは昇華とよばれているものです。

 この次元から昇華した者たちは、死という、究極的なものを支配したのです。思考の力を通して、身体の分子構造の周波数を高め、光の存在のレベルに身体とともに行けるところまで持っていき、そうすることで死を完全にバイパスしてしまうのです」

 「すべての物質は光によって囲まれている。皆の世界にいる科学者たちも、光の周波数を下げる、あるいは減速してやると、どうも固体物質になるらしいとの感触を持ち始めている。では、この光はいったいどこからやってきたのか? 思考である。つまり神だ。ある想念を持ち、感情の中にこれを抱くとき、その想念は光の波長を持つ波動へと拡大していく。

 光の分子の動きを遅くして、それを凝縮すると、プラスとマイナスの極がある電磁場、つまり皆が電気と呼んでいるものになる。想念を電磁場よりもさらに減速、凝縮させると物質になる。そして物質は、形体と呼ばれる分子・細胞構造体となる。そしてこの形体は、創造に必要な観念として魂が思い描いていた想念によって、ひとつの形に保たれているのである。

 すべての創造過程は、まず速度がまったくないもの、つまり思考をもとに、それを速度のあるもの、つまり光へと拡大し、その光を減速して、これやあれや皆のまわりにあるものすべてを創造する、という形をとる。

 愛すべき主たちよ、在るものすべての美と輝きを、自分の思考過程を通して創造したのは、あなた自身なのだ。想念から光へ、光から電磁場へ、物質へ、そして形体へと、考えることで、感じることで、すべてを創造し存在させてきたのは、あなた自身なのだ。思考が光へと下りてきた存在であったあなたは、自分がなった光に思いをめぐらせ、自分自身であるその光を愛したのだ。そうすることによって、光をさらにもう一段下げて電磁場をつくり出した。神はあなたの思考過程を通じてこの電磁場になったのだ。その電磁場に思いをめぐらせたとき、あなたはそれをさらにもう一段下げて、物資体、あるいは「凝縮した思考」をつくった。

 皆が存在を初めてまず最初にしたことは、「思考から物質をつくる科学」を認識することだったのだ」

 「一般に信じられていることとは裏腹に、あなたの脳が思考をつくり出しているわけではない。脳は、意識の流れから思考がその内部に入ってくるのを許すだけなのだ」

 「限界のない想念を受け取れば受け取るほど、身体はさらに大きく振動し、あなたはだんだんと光を発するようになってくる。それは、あなたが身体を固体の密度から光へと逆行させ始めたからなのだ」

 ここでとりあげたのはおもにラムサの物質観・肉体観であるが、ラムサのいっているいちばん大事なことは、限界をもうけるなということである。限界をもつ思考をもつと、絶望や病気や肉体、死などに閉じ込められてしまい、それらをつくったのがほかならない自分自身だということがわからなくなるということだ。

 限界のある思考をもつことがわれわれを限界のある存在に縛りつけてしまうのである。ゆえに限界をいっさい信じてはならないとラムサはいう。

 それらから解き放たれたとき、われわれのできること、われわれの世界、時間、空間、肉体、死、といったいっさいの信念を超越できるという。それらすらわれわれの思考がつくった限界に過ぎないとラムサはいうのである。





  ハイキングの山、死者の山     02/3/24.


 現代のハイキングは市民の明るい、爽やか過ぎるレジャーである。人々は山に自然の雄大さや風景を求め、あるいは植物や鳥類をもとめ、スポーツとして楽しんでいると思う。

 私は老荘の山水思想とか隠遁思想とかを少々かじっているうちにじっさいに山々や自然の風景を楽しみたくなり、山のぼりをはじめた。都会で汚れた心には自然の清涼さや雄大さがとても心地よいのである。私は山中には人がひとりもいなくて、のびのびできることも密かに気に入っているが。

 いくつもの山をのぼってみて気づいたことは、とんでもない山奥にけっこう寺があったり、お地蔵さんや石像があったり、ふもとには神社やなんらかの祭られているものがあったりして、山のいたるところに信仰の形跡が認められるのである。山全体がご神体のような三輪山のようなところもある。

 神も仏も信じない私はそういうところはただの通過点に過ぎなかったのだが、じょじょに人々が山に抱いてきた信仰というか、厳かな気持ちとつながりたい、知りたいと思うようになった。

 その接点は、死者や霊魂であることに気づいたのは、チャネリングによる霊の存在を身近に感じてからだった。死者や霊魂を通さないと山の信仰は見えてこないのである。

 つまり古来、日本人は山に死者の霊魂ののぼるところを思い描いていたのである。死んだ人の霊魂は近くの山に昇り、しばらくすると先祖の霊となり、子孫を見守り、盆や正月になると帰ってくると信じられていたのである。

 どうして山が死者の霊魂が昇るところと思われていたかというと、太陽や月が沈み、甦るところが山の彼方だったからだ。太陽や月が沈むところは死者の国であり、ふたたび再生するところが山の稜線だったわけである。山は死と再生をつかさどるあの世だったのである。

 霊のある者は仏になったり、神になったりした。だから山は聖なるものであり、神が降臨したり、宿るところであったりしたのだ。山々には神秘や自然の脅威を感じさせる滝や巨岩、巨木などがあり、人々はそこに神が宿ると信じた。

 また山は狩猟採集時代には食糧をもたらす自然の宝庫であったし、農耕時代には川や水の流れ出でる源があるところであり(龍というのは水の神である)、こうして山々は人間に恵みや生命をもたらす神々のいる聖なる場所になったのである。

 これらはいまの私にとってはただの「情報」にしか思えない。山々に霊魂や神がいるといったリアリティや実感はほとんど感じられない。古来の日本人はこれらを現実の世界そのもの、実感ある世界観として感じていたのだろうか。

 山々や自然の神はその後、時の権力者の神格化や結託と結びつき、どんどん人間社会の権力構造の写しに過ぎない様相を呈してきたように私には思われる。人間の権力者は神の力を借り、あるいは神自身になり、ときには怨霊が恐れられて神として鎮められたりした。死者の霊魂が神になると信じられていたら当然のことだろうが、権力者は多くが神になるのである。

 こうして権力者に利用された神は信じないほうがよろしいというものであり、現代の都会人は信仰の源であった自然の恵みと切り離されて、みごとに死者や先祖の霊、神々の山々という世界からシャットアウトされてきたわけである。

 われわれは死者の世界を失ってしまったが、現代のハイカーたちはそのような記憶のかすかな痕跡を手かがりに山にひきつけられるのかもしれない。

 山の夜といえば心霊スポットになり、霊というとコワイ幽霊しか思い浮かばないわれわれは、やさしく見守る先祖の霊や、豊穣をもたらす神々と断続し、その悪く恐ろしいい面しか記憶からひき出せなくなったようである。先祖供養や鎮魂の儀式を忘れたわれわれは、恐ろしい魂の鎮め方も忘れたようである。



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『ラムサ―真・聖なる預言』 角川春樹事務所

   
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