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020211断想集
顔と肉体を解き放つ




   感情を抑える文化における顔     02/2/11.


 日本というのは感情を抑える文化だと思う。悲しみや怒りをあまりあからさまにしてはならない、人に見せてはならないという文化だと思う。

 どんなことでもたじろがず、不動心をたもつことが理想のオトナだと思われているところがある。演歌でも悲しみにぐっと耐える姿が日本人の涙を誘うのである。

 なぜこのような感情を抑える文化になったのだろう。和やみんなで仲良くがたいせつなこの国では、人と衝突したり、不和になるのはご法度であったから、感情を見せない習慣が根づいたのだろうか。

 感情を抑える文化はとうぜん顔を読まれないようにする技術が発達したことだろう。そうすれば顔を読む技術も発達する。日本人が人の気持ちを読みとる技術に長けているというのもこんなところにあるのだろう。ちなみに平安時代の女の人が眉を額の思いっきり上に描いたのは、感情がよく現われる眉を隠すためだったという説もある。

 日本人の祖先が中央アジアの寒冷適応したモンゴロイドだったとすると、その腫れぼったい顔からはなかなか感情が読みとれない。だから読顔術が発達したということも考えられるだろう。

 おかげでアメリカ人などからは日本人は能面のようで、なにを考えているかわからないといわれる。アメリカ人はもっと感情を現わす文化であり、自己表現しなければ生き残れない社会だから、日本人の無表情ぶりは理解不可能だろう。

 ヨーロッパではかつて貴族社会においては思っていることと顔に表わす表情はまったく違うことが当たり前であった。権謀策術のまかりとおる社会では当然だろう。それが市民社会になると、思っていることはそのまま顔に現われることが理想となり、つくられた表情は嫌われることになった。美しき魂は顔をとりつくろう必要もないのである。心が全面ガラス張りになった社会は、うかつに悪いことも考えられないのである。

 フロイト以降の精神分析によると感情を抑制することは重大な精神病理をもたらすことになっている。日本にもこのような感情を抑えるのはよくないという考え方が入ってきたと思うが、感情抑制の日本文化の低層でどのような衝突が起こっていることだろう。

 日本には古来仏教という伝統があり、仏教は無念無想を教え、それは感情の抑制やコントロール技術をもたらしてきたはずである。しかし現代になってこのような伝統は衰退し、感情コントロールの技術は世代間においても継承されなくってきていると思う。

 しかも学歴信仰や科学信仰により、思考や考えることの価値がますます高くなっている。仏教では思考は「妄念」だといわれて断たれてきたことが、現代では最高の価値になりつつある。

 思考に価値をおくと思考の世界に呑みこまれ、感情のコントロールを失う状態になってしまう。しかも日本は感情が抑制されることを暗黙に指示する社会である。

 仏教の感情コントロールの技術は失われ、感情を生む思考はますます価値を高められているのに、社会は感情を抑制する社会である。こういう狭間において、感情の現われる顔に問題が集中してこないかと心配である。

 感情をコントロールできない顔は人から隠したり、見せないようにするしかない。顔はますます難しくなっていると思う。コントロール技術の失われたところに、またつくり顔がよくないと思われているところに、感情の抑制が求められているのである。顔がコントロールの効かない「暴走特急」になりそうである。






   顔を消す、心を消す      02/2/13.


 ものを考えるとは顔を緊張させることである。心の活動とは目の緊張と口の緊張のことである。眼筋と発話筋が緊張することにより、心の視覚と言語はうまれる。

 ぎゃくにいうなら、目と口の緊張がなければ、心の活動はいっさいうまれないのである。

 私たちはものを思ったり、考えたりしているときには知らず知らずのうちにわずかに目と口の筋肉を緊張させているのである。そして私たちはいっときも考えることをやめないから、目と口の緊張は継続したままである。

 しかも顔は表情をつくるのに忙しい。表情とはむろん緊張のことである。さらにわれわれは怒りや悲しみを顔の筋肉でぐっとこらえたり、抑えたり、食いしばったりするので、なおさら顔の筋肉は緊張したままである。顔とは緊張の交差点、結束点みたいなものである。

 私たちは顔の緊張の解き方を知らない。自然にまかせたままなので、緊張は積もりに積もっていつしか自分で自分の緊張を解くことができなくなるのである。

 フランク・J・マクギーガンの『リラックスの科学』(講談社ブルーバックス)はそういった緊張のリラックス法を教えた驚きの書である。ただ実際のリラクセーションはめんどくさかったり、リラックスの感覚が自分でつかみにくかったりといろいろ難しいが、おそらくこの本は学ぶのにじゅうぶん価値のある本なのだと思う。

 目と口の緊張を解くにはまずそこを緊張させて緊張信号を感じてからリラックスさせる。リラックスさせるといっても感覚のわからない人はたぶん逆に力を入れてしまうのがオチである。

 私は感覚がなくなる感じをつかんでから、ようやく緊張の解き方がわかった。つまりリラックスが完全になされると、その身体の感覚がなくなるのである。身体というのは調子がいいときはその部位の存在を完全に感じないものである。緊張している部分もこのようにもっていったらいいのである。

 リラックスではなくて、「感覚がなくなること」「存在しないこと」「ない状態」「無感覚」をめざせばいいのである。これは仏教の修行でも瞑想が深くなると身体の感覚がなくなるといわれていることと同じである。『般若心経』の「感覚も、身体も、心もない」といっているのは何ら現実離れした絵空事ではないのである。

 目の緊張を解くにはまずその部位を緊張させる。額にしわを寄せたり、眉をひそめたり、まぶたをきつく閉じたり、目をつむったまま左右上下まっすぐに目を向けたりして、緊張信号を感じてからその緊張を解いてゆく。これらをそれぞれ三回おこなう。

 口はあごをかたく閉じたり、両あごを開けたり、歯を見せ、口をとがらせ、歯に舌を押しつけ、舌を上げ、緊張を感じてからそれを解いてゆく。

 緊張を完全にとりさってゆくと、心の活動もなくなってゆく。いやなこともつらいことも不安なことも悲しいことも、いっさいが消えてゆく。

 これは身体や緊張から心を消してゆく方法であり、身体を扱うのはいささか難しいものであるが、身体より心から消してゆく方がもっとパワフルで効果的なのは忘れるべきではない。緊張やこわばりというのはまず思考からうみだされているのである。思考とは緊張のことである







   肉体の恐れを解き放つ      02/2/17.


 肉体は精神がなくてもちゃんと機能する。むしろ精神があるほうが障害や故障がおこりやすい。精神は肉体にしがみついていないと不安のようである。

 眠っているときにはからだは完全に機能している。スポーツやなにかに熱中しているときは、ほとんど意識や身体の感覚すら忘れ去られている。からだは精神のないときのほうがちゃんと機能しているのである。

 そんな完全なからだに介入して障害をおこすのは、意識が一ヶ所に集中するときである。不快感や痛みを見つけると意識はそこにしがみつき、いっときも離れることなく、逆に不快感や痛みが増大されてしまう結果に陥ってしまう。まったく精神とはやっかいな代物である。

 武道や禅などでは、精神が一ヶ所にもとどまらず、身体全体に気がみなぎることが理想とされている。自分のかまえや勝つ意志、敵の動きなどの一ヶ所に気がとられてしまうと、スムースでなめらかな動きは妨げられてしまうのである。

 現代人はほとんど頭や目に感覚を集中させている。思考と視覚のみが「すべての私」であるかのようである。おそらくからだのスムースで自然な流れはここで分断され、欠如させられているのだろう。

 なぜこんなに頭と目に感覚を集中させているのだろう。たぶんそこに意識を集中させなければ不安だからだと思う。われわれはなぜか頭と目から意識が離れることを恐れるのである。

 ここで思い出すのは、近代に行き渡った理性と本能の考え方である。なにを仕出かすかわからない本能を制御するために頭はたえず重要な部位になったのではないかと思う。目はもちろん理性の賢明さをつけたす書物を読むために重要な器官になった。

 本能とは自然のことである。精神は自然が恐ろしいのである。そして自分の中の自然である肉体が恐ろしいのである。精神はだからたえず肉体を意識してなければならず、執着しなければならないのである。そしてその意識が自然の完全さを阻害し破壊してしまう。

 恐れが、ぎゃくに身体の自然な流れを阻害してしまうとはなんと皮肉なことか。精神が肉体にしがみつけばつくほど、肉体は調子をくずし、不調和をうみだすのである。

 手放させないのは、肉体への恐れのためである。そしてその心配や恐れが、ぎゃくに病気や障害をつくりだすのである。精神とは「結果」ではなく、「原因」であり、「創造」するものなのである。

 精神は一ヶ所にとどめないこと。恐れがあれば、なおさらそこにとどめないことが必要なのだろう。恐れは障害をつくりだす原因なのである。われわれは恐れを捨てて、精神をあちらこちらに行き渡らさせることが必要なのだろう。一ヶ所にしがみつく精神こそを警戒しなければならない。






   人間は肉体でないとどうして言えるのだろう?      02/2/23.


 神秘家や宗教家は、人間は肉体ではないという。とんでもない、明らかに人間は肉体でしかないと思うのがふつうの人の反応である。あえてここで人間は肉体ではないといえる理由を探しだしてみよう。

 まず最初に人間は肉体のみで生きられるわけではないことを考えてみる。魚が水から上がれば生きられないように、人間も空気のない真空では生きられない。だから空気と肉体とは不可分である。

 同様に水も食料も、地面も雲も雨も――地球上のあらゆるものがなければ肉体は生存することができない。つまり肉体のみの人間は存在することができないのである。人間は肉体のみであるは言い切れないだろう。

 だけど対象が私の肉体であるとは明らかに感じられないものである。どうしたって肉体が、水や空気や雲であるとは感じられないものである。

 ただ身体の感覚とは確固としたものではない。目で見ると常時あるのが当たり前に思える肉体だが、感覚としては常時消滅している。もの思いにふけっているとき、スポーツしたり、なにかに熱中したりするときはからだの感覚は消滅しているし、寝ているときにはさらに肉体や意識、私という感覚すら消えている。

 身体の感覚が消え去ってしまったとき、「私の肉体」はいったいどこに行ってしまったのだろう? 肉体は常時このような状態になる。肉体とはじつに希薄で、アヤシイ存在である。身体感覚が消え去ってしまったとき、私はいったい何者になるのだろうか? 人間をやめてしまうのだろうか。

 世界や身体はすべて「脳内現象」と考えることができる。眠っているときにはすべて脳に「収縮」されるのである。この世は脳の「夢」か、「まぼろし」かといったところか。

 これと反対の考え方になるのだが、聞こえるものも、見えるものも、私の身体の「外部」にある。私とはほとんど身体の「外部」であり、「環境」であるといえる。環境や外部世界のない肉体だけの私が存在できるわけがない。

 神秘体験では、肉体ではない「対象そのもの」になることができたり、空間を超越した体験ができるといわれている。肉体に完璧に同一化し、そのほかのありよう、知覚などいっさい信じられないわれわれには理解不可能の話である。

 観念的にはわれわれは「国家」や「家族」、「マイホーム」や「銀行通帳」「バッグ」などさまざまなものに「同一化」している。「私」は肉体ではない、さまざまな奇妙キテレツなものに同一化しているのである。しかしそれは神秘体験のような「対象そのもの」になっているわけではない。

 肉体や身体の五感を超えた体験はどうして可能になるのだろうか。神秘家にいわせると、世界から弧絶した肉体である私という信念にしがみついているから、肉体から離れられないということになるのだろうか。私は肉体のみではないと信じられるようになってから、私は肉体と五感の呪縛から解かれることができるのだろうか。それとも神秘家はただのマヤカシをいっているだけなのだろうか……。






   視覚・時間・物質     2002/3/3.


 人間の五感のうち、音やにおい、触覚などは一瞬のものである。視覚だけが継続した時間的なものを見せる。

 一瞬しか生起しない世界のなかで、視覚だけが動きのとまった、固定化されたものを見せようとする。音やにおいは時間とともに瞬間的に流れ、視覚だけが時間がとまったような永続的な世界をつくる。

 時間を切りとる。視覚によれば、世界は時間が永遠にとまった世界のようだ。視覚は静止画がたいそうお好きなようだが、この世界はすべて流れ、変化している。

 視覚は動きの早いものはもう見えない。扇風機のプロペラもしかり、自転車のタイヤやスポーク、振った手やペン、電車から見えるレールの小石などはもう見ることをやめてしまう。視覚は固定化されたもの、動きのとまったもの専門である。

 この生成変化を見せない視覚はたいそう困ったものである。なぜなら不断に変化する世界という認識を断ってしまい、変化を好まない、変化に順応しようとしないわれわれの心性をつくりだしてしまうからだ。

 視覚はまたモノの輪郭をつくりだす。どちらかといえばこの世界はつながりあい、とけあい、入り組み、変化する姿のほうが実状に近いようなのだが、輪郭はそういった認識を拒絶してしまう。視覚は孤立し、分離し、隔絶された物体という信念をたいそう好む。

 ミクロの世界では物質は波動や波、粒子の運動だと見なされているのだが、視覚には固定した物体と分離された輪郭という像しか見えない。視覚が当たり前と見なす像は錯覚だと見なしたほうがよいのではないか。

 視覚はおそらく過去を見ている。記憶を見ている。あるいは残像の蓄積を見ているのだろう。音やにおいの記憶が蓄積されて視覚のような世界をつくりだすことはわれわれには信じられないが、嗅覚や聴覚の発達した犬やウサギなどの動物にはもしかしてそのような世界を「見ている」のかもしれない。

 コウモリやイルカは超音波の反射した信号によって世界を把握するらしいが、人間は光の反射によって視覚像をつくりだす。こういった記憶の蓄積がわれわれの視覚像として結ぶのではないだろうか。

 過去の空間把握をしなければ未来への行動はおこなえない。音やにおいのように一瞬一瞬に消え去る世界では空間把握もつぎの行動もおこなえなく、情報の真空地帯が発生する。

 そこで視覚の記憶を展開化することにより、現在の空間や位置、世界を知り、つぎなる行動をおこなうというわけである。つまり視覚の過去は現在化されなければならなかったわけだ。

 だから視覚は固定化しており、物体化しており、輪郭をもち、時間のとまったような世界を構成しているのではないかと思う。つまり世界の空間把握をするためにはどうしても終わってしまった過去を活用するしかなく、したがって視覚はより静止した、時間のとまった世界を見せるようになったのではないかと思う。あくまでも仮説だが。

 たとえ視覚が静止した、分離した世界をつくりだそうと、われわれは瞬間瞬間の、つながりあい、とけあい、全体がひとつとなった世界に生きていると見なしたほうがいいようである。神秘家にはそのような世界が見えるそうだ。孤立や分離、物質という思いこみはわれわれにさまざまな苦しみや痛みをもたらす。視覚の思いこみは破ることはできるだろうか。




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