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010611断想集



 カネとしての知識/怖がらせる男/女性は企業戦士をどう思っているのか/月並みで平凡な幸福/干潮があり、風は吹く/なぜ労働は「善」で、怠慢は「悪」なのか/





   カネとしての知識       01/06/11.


 いまは金欠でほしい本がぜんぜん買えない。追究したいテーマの本は高くて買えなくて、すこしでも興味ありそうな100円本ばかりで渇きをしのいでいる状態だ。

 金欠のときつくづく思うのが、知識とはカネなんだということだ。カネがなければ知識は得られない。ひとつのテーマを知りたいという深い執着心もたちまちしぼんでしまう。

 知識はカネでしかないというのはなんかおかしな気がする。知識はカネとまったく違うもの、もっと高尚な次元の話だと思いたがっているが、知識もやはりひとつの消費や商品でしかない。

 私はあえて避けてきた。物質的消費や金銭的商品の無意味さや無価値さはいつも批判視してきたが、知識もそれと変わりはないということだ。

 物質消費と違うと考えたかった根拠のひとつは、知識はファッションやモノと違って、内面的な豊穣さや知恵をもたらすということだ。かんたんに目に見えるモノで誇示したりしないから、物質消費とは違うというわけだ。

 でもやっぱり知識も商品にほかならない。私が批判視しているファッションやブランド品とほとんど変わらない。金欠のときにそれをつくづく思い知らされる。

 ファッションやブランド品を買うというのは、「私はカッコイイ」とか「私はブランド品のように価値がある」というメッセージや記号を買っているということだ。私にとってはそういう物質的な誇示にたよる浅はかなナルシズムが羞恥をもよおすのだ。

 知識も商品である。街を歩いて見せびらかすような大々的な誇示はないが、やはり「私は頭がいい」とか「知識を理解したり、洞察したりする能力がある」という満足やメッセージを買っているのだろう。他人向けではなくて、自分向けにである。

 ブランド品には人に見せる満足と自分に対する自己満足があるのだが、知識は自分自身に内閉する自己満足の要素が強い。人に見せなくても、「自分ってけっこう頭がいい」とか、「理解力がある」だのという自己満足の無限循環である。知識はかなりのところ自己満足の商品なのだろう。

 知識追究、またはカネ使いがとめられないのは、物知りというのはどこまでも他人との知識量競争があるからだ。知識で人に勝ったり、意見をいったりするためにはどこまでも知識を得なければならない。つまり湯水のごとくカネを使わなければならない。知識はカネや商品となんら変わりはなくなる。

 知識は知識のためにある、知識自体が目的だと思いこみたいところだが、カネがなければ知識が得られないという現状は、やはり知識は商品やカネに相当するものなのだろう。頭脳や能力の優越を買っている。ときには他人に優るための優越として購入されることもあるのだろう。

 知識は優越や競争である。仏教や老荘がいうように、私はいつこの消費競争から降りて、知識の囚われから自由になれるのだろう。そのためには知識の無意味さや欠陥、弊害が知られる必要があるのだろう。





   怖がらせる男――大阪小学生殺傷事件の犯人像       01/6/13.


 すぐケンカをしたり、怒りやすかったり、にらめつける、といった男はたいていどこにでもいる。そういう被害をうけた人はいくらでもいることだろう。

 人に恐れをもよわせたり、不快感を与えたりして、他人を怖がらせる。そういうことを目的にした男はできれば関わりたくはないが、いることはいる。

 価値観や人生観といっていいかもしれない。他人を怖がらせることによって自分の優位や安全をガードできると思い込んでいるのだろう。まわりの者はたまったものではない。

 大阪池田の小学校乱入殺傷事件の犯人はそういう人物ではないかと思う。経歴や人物像が明らかになってきたが、起きるべくして起こった犯罪の感を強くする一方だ。

 この人物は職場の数々で問題をおこしている。人生観の根底には自分の気もちや思いに忠実にならないと、攻撃してもよい、といった思考タイプをもっていたようだ。自分は正しく罰したのだという思いをもっているから、行く先々で人々を傷つける行動パターンを示すことになる。

 こういう人物は身近によくいるはずである。そしてなんでも他人のせいにする「他罰的」な性質が、精神障害者は罰せられないという法的な知識と結びついたときに、犯罪を容認する怪物ができあがったのではないかと思う。怪物は自己を正当化する隠れ蓑を見つけたわけだ。

 こんな危険な人物がバスの運転手や小学校の職員などの公務員として暮らしてきたというのが信じられない。犯人はなぜか国家とか政府の関係が好きだったようだ。安定や国家のトラの威を借りたがるタイプで、そこから脱落すると人生も終わりだと逆恨みする。

 結婚や離婚も四回も経験し、よりを戻そうと裁判もしている。ストーカー的な行為にもおよんでおり、前妻や親に被害を与えるために犯行をおこなったという自供もしている。

 なんでも他人のせいにする他罰的な人間は、憎悪の雪だるま状態に生きざるをえない。他人が自分の思い通りにならなかったら、憎悪はやまないからだ。そして自分を自分自身で痛めつけ、傷つけているということに気づかない。

 「復讐するはわれにあり」である。犯人は妄想ではなく、他罰的な思考パターンをもったがために自分をさいなまし、その回復をはかるために他人を憎悪し、懲罰しようとし、ますます自分を不快と怒りの地獄に追いこんだのである。怒りの火は他人を燃やしたのではなく、自分自身を燃やすのみなのである。

 これは妄想ではなく、思考パターンであり、世界観の問題である。われわれの社会はこの思考のパターンをチェックしたり、矯正したりする社会精神をもたない。思考のパターンはある方向に流れつづけ、とどまることを知らない。心理的な知恵はなぜか宗教嫌悪によって日常に流布しない。日常の社会にこのような知恵がないことは危険なことである。

 小学生の殺傷事件は神戸、京都とつづき、大阪におよんだ。関西ゆえんの事件なのか、それとも因果はないのか。不満の表出や解消方法に問題があるのだろうか。人生の不満や怒りはどのように解消されるべきなのだろうか。それらを吸収する機能はわれわれの社会にあるのだろうか。






   女性は企業戦士をどう思っているのか       01/6/14.


 女性たちは男を哀れに思っているのではないだろうか。朝から晩まで会社に人生を捧げる生き方を「ヒサンだな」、とか「よくやるよ」とか思ったりはしないのだろうか。

 あんな人生を送りたくないと思う女性は結婚や専業主婦の道を選ぶ。女性はまだ逃げる道があるからいいけど、男は逃げ道がない。

 もし逃げるとすると経済力のない男は見下げられ、失敗した人生だとして相手にもされない。女性は三高とかいわれた経済力のある安定した男性をゲットし、主婦生活を謳歌する。午前帰りの夫をかわいそうだなと思いながらも、経済力の見返りを期待する。

 そして子どももその夫のようによい学校に行かせ、よい会社に勤めさせ、企業戦士化させようとする。この企業社会の元締めはじつは女たちだったのだろうか。自分は激しい競争社会を避けておいて、安定した経済力だけをいただく。

 もちろんこうしたラクな生活の見返りには自由や自立、人格の尊厳や平等といった大切なものが女性からとりあげられてきたわけだから、一部の女性は自立やキャリアをのぞんできた。

 こういう流れがある一方、大半の女性は経済力のあるブランド男をゲットし、これまでの安楽な主婦の立場を手に入れようとする。どちらかといえば、こういう女性のほうが大半で、身近にもたくさんおり、主流ではないかと思うのだが。

 そのような女性に対応して地位と経済力をのぞみ、専業主婦タイプの女性を手に入れようとする男性もたくさんいる。男の主流もこのようなものだと思うが、私は女性を経済的にサポートしたいという気力は希薄だけど、そういう経済力のない男性は女性を手に入れる資格はないという思いこみも拭いがたい。

 自立と依存が奇妙に同居しているのである。自立をのぞむ女性がいる一方、是か非でも依存にしがみつく女性もいる。依存する女性がいるから、自立を叫ぶ女も信じられない。一方では依存と自立を両方都合よく手に入れようとしているんじゃないかと勘ぐってしまう。

 私としては女性は自立と自由を勝ちとってほしいと思う。それは「男の解放」につながる自立であってほしい。一方では男の犠牲のうえに築かれた依存を必要とするのなら、そんなのは自立ではないと思う。

 女性は自立して、男を企業戦士化される人生から、ぜひとも解放してほしいと思うのだ。そんな会社人間を女性は見限って、捨ててほしいと思う。そのような女性の自立は男の解放と自由をもたらすだろう。そして幸福になれない日本のシステムから解放されて、男女ともどもの幸福がもたらされると思うのだ。

 男を幸福にしない企業中心システムはもちろん女性の一方的な企みによってつくられたのではない。ただ支持や順応があったのはまちがいない。企業戦士に依存する女性がこのシステムを支持するかぎり、男は生涯を企業に捧げて幸福になれない。女性は不幸なこのシステムを下支えしているのだ。自立と自由をのぞんでいるのなら、ぜひともこの哀れな企業奴隷の男たちも救ってほしいと、私は女性に願うばかりである。







   月並みで平凡な幸福        01/6/16.


 月並みで平凡な望みをもてるほうが幸せなんだと思う。

 人はそれを軽蔑したり、バカにしたり、向上心がないとけなしたりするものかもしれないが、望みがかなわない不幸を背負わなくてもいい分、よっぽど幸せなんだと思う。

 月並みで平凡な望みをもっているとたいていはかなうし、競争やムリな努力をしなくてもいいし、欠如や欠点ばかりに目が向きがちになるということはない。

 月並みで平凡なことに幸福を見いだせる人のほうが、成功やエリートになることのみにしか幸福を見いだない人より、よほど羨ましいと思う。そういう人であったら、苦しむことも少なかっただろう。

 私は成功やエリートになる望みなんかはほとんどもたなかったが、軽蔑や批判ばかりを育んできたように思う。ブランドの会社や一流企業、安定した公務員になることを軽蔑してきた。

 エリートに反逆する意識は強かったが、裏返してみたらそれは主流のエリート志向とは違った傍流のエリート志向にほかならないんだろう。エリートコースをつっぱねることによって、違う優越や自尊心を手に入れることにほかならない。

 勝ったり、優越したりすることを望んできたわけだ。いまさらながら、自分の浅はかな望みに気づいたことが、われながら恥かしい。主流に対する軽蔑や反抗は、優越や勝利の望みだったわけだ。主流のように隷属的でラクなものなんか目にもくれない強さがあるということである。

 軽蔑することによって、自分をほかと違う高い位置におくというからくりである。いろいろな人や物事を軽蔑してきたから、平凡でささいなことに幸福を見いだない体質になってしまったように思う。

 われながら奇妙なからくりにはまったものだと思う。自分では主流的な優越志向は強くないと思っていたから、逆説的な優越志向にはなかなか気づかないものである。そしてそれが平凡な位置に不満や不幸しか見いだない原因をつくりだしたのだと思う。

 軽蔑や反抗が自分を高い位置におくというからくりは、なかなか気づきにくいものだな。そしてそれがますます自分を追いこんでゆくのである。

 優越心や自尊心をどこまでも育んでゆくと、どんな位置でも満足しないし、どこまでいっても不満と欠如をかこいつづけてしまう。

 軽蔑は成長志向と優越志向に火をつける原動力である。いろいろなことを人は軽蔑し、蔑んでみてしまうから、どこまでも上昇や競争をやめることができない。

 月並みで平凡な位置に満足し、幸福を感じる力というのは偉大である。踏みとどまる力も必要だろう。

 ましてや現代のように成長や上昇が重視される時代に、しかもそれが「軽蔑」や「みじめさ」に煽られる時代に、平凡なことに幸福を見いだしつづけられるのは容易なことではない。とどまりつづける力が必要なんだろう。

 優越や成長、上昇を自分のなかに組み込まれた人間はなかなか安住の地を見いだせないだろう。それこそが安住をはばむ原因なのだから。自分のなかの抜かりない優越心や自尊心に警戒すべきなのだろう。いいや、軽蔑するまなざしがいちばんの元凶である。






  干潮があり、風は吹く      01/6/17.


 「潮には干潮があり、風は吹く」――アン・バンクロフト『20世紀の神秘思想家たち』(平河出版社)にこういう文章がある。「だがその原因は私ではない」

 「それと同様に足は運ばれ、食物は食べられ、本は読まれる。しかし、そこに自己は関係していない」

 「行為者としての自己がないという感覚は、みごとな解放感をもたらしてくれる。不必要な重荷を捨て去った感覚だ」

 同じようにこうもいえるだろう。川は流れる。その原因は私ではない。

 雲は流れる。私が動かしたのではない。

 雨が降る。私が降らしたのではない。

 太陽は昇る。私の意志によるものではない。

 私という存在も、行為も、そのようなものだと見なせるだろう。





   なぜ労働は「善」で、怠慢は「悪」なのか     01/6/18.


 なぜ労働は「善」で、怠慢は「悪」なのか。労働は無条件に「善」であり、太陽が昇るから会社に行くみたいに自然なものだろうか。

 われわれはなぜ労働を無条件におこなうもので、「善」であると信じてきたのだろう。われわれは蓄えが少しばかりあるとカネを稼ぐ必要に迫られないわけだし、毎日毎日働いて得なければならない必要なものってそんなにあるものだろうか。

 そもそも労働って絶対的に「善」なるものだろうか。労働はみんなが評価し強制させるに値する、社会や自分にとって絶対不可欠で、神かがり的に「善」なるものなのだろうか。

 サギ商法まがいや押し売り販売的な労働も多いことだし、企業の利潤追求や売り上げアップがまさか他人のためになされるとは思えないし、人がおこなう労働の多くは人の不幸や弱みにつけこんだものである。

 なぜ労働は善的なものとして評価されてきたのだろう。もちろん個々人が生計を立てるためだったのだろう。しかし今はその範囲をはるかに超えて、「労働」と「会社」に囲われることが「正義」であり、「人間の条件」になっている。

 労働ではなくて、「会社」や「集団」に強制的に所属させられることが「善」になっている。むかしはそれが「戦争」であったりして、いまはそれがたまたま「労働」になっているだけかもしれない。

 かつては労働はできるだけ逃れたい悪であったはずだ。こんにちでは人生を捧げるに値する善だとされている。ホンマだろうか。会社に洗脳されたり、首根っこをつかまれているために仕方なくそう思い込んでいるだけではないのか。労働はできれば逃れたい何かではなかったのか。

 マイホーム・ローンや社会保険、教育費、車などのローンのために人々は労働から逃れられない。ステータス競争にまんまと捕まってしまった者が、逃れられない腹いせに労働善説を叩きこんでいるのだろうか。

 私は労働は善だとは思わない。社会の片隅にはめこまれたり、断片的な機能に同一化させられる不幸は救いがたいと思うし、人間は労働のほかにもっと大切なもの、文化であれ芸術であれ人生の哲学であれ、また人のつながりであったり、休息やゆとりであったり、もっと重要なものがあるように思える。

 ぜひとも労働が善であるという不文律は解体されるべきだと思っている。そこから人間らしさや人間としての幸福が生まれてくると思っている。労働と消費というサイクルのみに人生の目的や安寧のみを見つけようというのはまちがっていると思う。





モニター故障はなんとか免れていますが、
叩いて直す時間は長くなっております。
いつまでもつかわかりません。。。

ご意見、ご感想お待ちしております。 
  ues@leo.interq.or.jp




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