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▼テーマは童話の解釈 

 


2001年春のオデッセイ
童話の解釈と感覚の復権



 昔話と子どもの自立、大人の自立/自分の心を他人に見る/童話の心理学的解釈はおもしろい/古本屋行脚/自分のなかの残酷さや残虐性/『カバチタレ!』ほかのドラマ評/パソコン浦島太郎/ユニバーサルスタジオは映画に勝てない/失われた感覚と体験/




      昔話と子どもの自立、大人の自立       01/3/14.


 昔話を子どもの自立の話だと解釈すれば、あざやかに物語が見えてくる。松居友の『昔話とこころの自立』(99年 洋泉社)は目からうろこが落ちるような本だった。

 たとえば『三びきのこぶた』である。三匹のこぶたが狼に食べられそうになって、家をつくる話である。家をつくるというのは自立を意味する。ワラや木でつくった安易な家=希薄な自立心では狼に食べられてしまう。レンガの家をつくって食べられなかったぶたは自立心をちゃんと育んだということである。

 『ヘンゼルとグレーテル』は貧しい親に捨てられた兄妹が森の魔女に食べられそうになる話である。魔女というのは自立を阻む母親のことである。

 『三枚のお札』は小僧が和尚にもらったお札で山の鬼婆を追い払う物語である。鬼婆は弱さで子どもの自立を阻もうとする日本的な母親のすがたである。三枚の札はそれぞれ山、川、火となって鬼婆の追跡をかわすが、母親の執着はそれだけ凄まじいということである。

 『白雪姫』は子育てに人生を捧げ、容色が衰えてゆく母親の若い娘に抱く憎悪のなかで娘はどう自立をなしとげてゆくかという話である。若さに憎悪を無意識にでも抱かない母親はいないといってよく、子どもにとって母は魔女であり鬼婆である一面をもつわけだ。

 昔話が子どもの自立のステップをうたっていたとは驚きである。魔女や鬼婆が子どもの自立を阻もうとする母親の否定的な面であるというのも知らなかった。

 それらは外側の他人でもあるが、自分の内面にある自我の確立を壊す破壊力でもある。自分の内面の破壊的な感情の象徴や外部化でもある。だから魔女や鬼婆はやっつけなればならない。残酷でも攻撃的であっても悪役をやっつけないことには、みずからの自立を阻む心や攻撃欲をコントロールできない大人になるというわけである。

 過激なマンガやファミコンの熱中は、学校などで大人にいじめられているうさを晴らそうとしているということだ。大人に向かう憎悪を悪役をやっつけることで晴らし、またその心を飼い慣らす過程でもあるということだ。

 昔話で語られる自立を果たそうとする子どもの心の葛藤はひじょうに印象的であったが、大人の子どもからの自立も心に強く心に残った。親はいつまでも子どもを自分の手においておきたいもので、それは魔女や鬼婆として描かれるものである。

 子どもの自立はまさに親自身の自立の闘いでもあるのだ。『三枚のお札』の鬼婆は自立できない日本的な母親を象徴していて、真におぞましいものがあった。親は鬼婆や魔女としての自分の心ともういちど対峙しなければならないのである。昔話にこんな大人の自立をうながそうとするメッセージが込められていたなんて思いもしないことだった。

 親は子どもにやっつけられることによって、はじめて親子ともども自立をなしとげる。そういうことを語っていた昔話というのは偉大な知恵が込められていたんだなと改めて思う。





       自分の心を他人に見る         01/3/17.


 いま童話解釈にハマっているが、心理学的な解釈によると童話の登場人物はおもに主人公の心の要素だと見なすのが一般的なようである。

 たとえば鬼や悪魔は子どもの心の中にある破壊的で暴力的な気持ちであったり、鬼婆や魔女は子どもの心の中にある自立を拒む気持ちの象徴であったり、言うことを聞いてくれなくなった否定的な母の姿であったりする。

 心を外面化、人物化しているわけである。人物やバケモノに象徴される心の衝動は、だからこてんぱんにやっつけなければならないわけである。それはじっさいの外界の人物を暴力的にやっつけているのではなく、自分の心の破壊的な衝動を治めているのである。

 物語はこのように読むようである。外部の物語に見出すものは、みずからの心のなかの否定的であったり、どう扱ってよいかわからない心の衝動であったりするのである。子どもは外部の物語に、自分の心の中の一部を発見するわけである。

 また悪役は自分にとっての身近な脅威や敵であり、それをやっつけることによってストレスを発散するということもある。身近な敵というのはいやな両親や大人であったり、教師であったり、嫌いな友達であったりするのだろう。心の一部は無意識のうちに醜い人物へと凝集されるのである。

 子どもたちは外部の物語に自分の心を見出す。でも大人になってもこれは変わりはしないのだろう。外部に自分の心を見出すのである。そしてたいがいの人は他人に、自分の心を見出しているということに気づかずに大人になる。

 自分の心を外面化していたり、人物化しているということにはかんたんには気づけない。他人は自分が思ったり、感じたり、見えたりするそのままに存在しているように思える。そこには判断したり色づけしたり自分の心が当人には見えない。

 子どもが心の一部を物語に見出したように、大人も他人や世間に自分の心を見出すのである。そしてこころの投影に気づかない。それがぜんぶ自分の心に発したものであるということに気づかない。心の存在はそれだけ見えにくいものである。

 世界に広げっぱなしにした心の網は、コンパクトに心の中に収めることも必要である。外部や他人に自分の心を投影しつづけていると、他人や外界のモノを動かし、支配しなければ心の安定は得られないと信じつづけることになるからだ。これはたいへんな災厄であり、成功することのない徒労である。

 他人や外界に見えるものが自分の心だと気づけば、支配すべきものはひじょうに小さなものになる。他人や外界のモノを動かす必要はない。ただ自分の心、他人や外界に投影されていた自分の心のみを治めたらよいことに気づくわけである。





      童話の心理学的解釈はおもしろい      01/3/20.


 童話の心理学的解釈の本をいくらか読んだので、なにかを書こうとしてもすごく難しい。ユング派とフロイト派の違いについて比べようとしても、てんで頭の中でまとめることができない。解釈の要点をここに載せるより、じっさいに読んでもらった方が数段楽しいと思う。

 童話解釈なら河合隼雄の文庫本がたくさん出ている。『昔話の深層』とか『ファンタジーを読む』(講談社+α文庫)とか。この人はユング派で、ほかの童話とか神話の比較や象徴とかがだいぶ出てきて話がややこしくなるのだが、本家のフォン・フランツよりだいぶマシで楽しめる。

 松居友の『昔話とこころの自立』(洋泉社)は、自立という切り口で昔話を読み解いていて、理解が俄然ひらけた。ユング派の影だとか個性化、元型とかの概念が出てきたら頭がこんがらがるけど、自立の話だと見なせばひじょうにわかりやすい。

 フロイト派のブルーノ・ベッテルハイムの『昔話の魔力』(評論社)は童話解釈の金字塔とよばれるだけあって、さすがにすばらしい本だ。まいどおなじみのエディ・コンとか性的解釈は多いにしても、昔話の効用や必要性などが説かれていたり、物語分析もどこをとっても重要な警句や指摘に満ちている。

 森省二という人は『名作童話の深層』とか『アンデルセン童話の深層』(創元社)でポピュラーな童話解釈をしていて楽しめる。

 政治学からの解釈として、フェッチャー『だれが、いばら姫を起こしたのか』(ちくま文庫)がある。あ、そうか、童話というのは保守的な生き方を刷り込ませるものだということに気づかせてくれたし、童話は資本主義とか政治的観点からも推察すべきものだとたしかに思わせるものだった。

 歴史学からは森義信という人が『メルヘンの深層』(講談社現代新書)からおこなっている。童話の主人公たちは犯罪者や殺人者、略奪者であるといううがった洞察は、たしかにそういう一面から人間の本性を理解することも必要なのだろう。

 グリムとかペロー、アンデルセンなどの西洋の童話ばかり読んでいたら、日本の昔話も読みたくなる。河合隼雄の『昔話と日本人の心』(岩波書店)がある。なんかひじょうにややこしい日本人の自我のありかたを検討した本だが、日本によくある動物の嫁さんの正体がばれて去ってゆく話は印象的だなぁ。

 だいたいこんな程度読んだが、あと、いろいろな学説を総合的に検討したマリア・タタールとか、フェミニズム的観点から読み解いた『眠れる森の美女にさよならのキスを』なんか読んでみたいな。ほとんどの本は古本屋で探し回って仕入れたのだが、なかなか見つからないな。

 心理学的解釈は積年のうらみ(?)である物語の意味を明確に指し示してくれて感嘆と驚きの連続であり、心理的成長とはなにかとひじょうに気になるのだが、物語の教訓やイデオロギーにそのまま訓化されるのもやはり問題だと思う。物語べったりの解釈ばかり頭に仕入れたから、こんどは批判的に読み解く視点もぜひとも必要だな。





      古本屋行脚         01/3/21.


 古本屋めぐりは労多くしてあまり得ることの少ない疲れるものである。地理的にもばらばらである。めあての本を探していて、ぴったり見つかることはそうない。

 ただ、さいきん童話の心理学的解釈の本を探していたら、コワイ童話ブームのあとだったからか、主要な本をほとんど見つけることができたし、新刊書店で見あたらないものも見つけることができたので、たいそうありがたかった。

 古本でいちばんありがたかったのは、ドラッカーの本を半額で仕入れることができたこと、フリードマン『選択の自由』、マクルーハン『人間拡張の原理』を100円で手に入れることができたことだ。いずれとてもよい名著であり、前々から手に入れたかったものであったりしてカン・ジュースなみの値段で手に入ったのはめっちゃラッキーである。

 ついでにブルデューの『ディスタンクシオン』とかドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』『ミル・プラトー』も100円でワゴン・セールしていたらいいんだけどなぁ。。夢かな。

 ビジネス書は二千円の価値はない。あんな薄っぺらい本は文庫本ていどの価値しかないと思う。文量が少ないのだから、それは推し量るべきだ。

 ここ大阪には大きな古本屋街みたいなものはない。せいぜい梅田のかっぱ横丁とナンバの球場跡(いまは南下してある)、日本橋に何件か固まっているだけである。

 メガ書店で肥えた目にはやはり不満である。おめあての本があるときはなかなか見つけられないし、ほしい本が定まっていないときはなおさら疲れるだけだ。たしかに安く仕入れられるのはとてもありがたいが、新刊書店のようにジャンルごと揃っているということが少ないので、やっぱり探し疲れということになってしまう。

 さいきんは郊外にできているブックオフとか古本市場という大型店には驚かされるものがある。あんなデカイ店ならおめあての本はいくらでも見つけられると期待するのだが、残念ながら私の好きな人文書とかの専門書は除外しているみたいだ。マンガが好きだったらこんなありがたい古本屋はないだろうし、ビジネス書や小説、文庫本も充実しているのだが、専門書めあての私はがっくりだ。

 インターネットの古本屋は私のパソコンが古すぎて時間がかかりすぎるのが耐えられないし、やっぱりじっさいに中身をたしかめないことには選ぶことなんかできない。いまのところ、ラファルグの『怠ける権利』という本だけはネット古本で見つけたいとは思っているが。

 まあ、これからも新刊書店と古本屋を適宜つかいわけてゆきたいと思っている。ブックオフも専門書をあつかうようになってくれたら、うれしいんだけどなぁ。それとも新刊書も価格破壊してゆくべきなんだろうか。このままでは古本の大型店に太刀打ちできないんじゃないかとも思うけど。文化は市場原理で守られるのか、それとも護送船団かな?





     自分のなかの残酷さや残虐性         01/3/22.


 ひところ、純真無垢と思われていた童話は、じつは残酷な話のオンパレードであるという暴露本が流行った。なんでこんなものが流行るんだろうとそのときは思っていたが、遅ればせながら童話の心理学書を読むようになってちょっとはわかった気がする。

 心理学者によると、童話にたびたび出現する鬼や悪魔は子どもの心にある攻撃性や残酷さが人物化されたものであるという。子どもというのは思ったより攻撃的で残酷なものである。でも子どもはそれを親にも大人にもぶつけることができないから、童話のなかの悪魔や鬼にそれを仮託せざるを得ないし、またそれを成敗することによって自らの攻撃欲をコントロールすることになるということである。

 残酷さは子どもの心の投影であり、それをどうあつかってよいかわからない子どもは残酷な童話によってそのあつかいかたを学ぶというわけである。だから食べられたり、殺されたり、目ん玉をひんぬかれたりする罰則が、象徴的に必要というわけである。したがって童話は残酷で残虐性のオンパレードである。

 しかしわれわれの時代というのは残酷さや残虐性を極力、人々の目から遠ざけようとする社会である。とくに子どもにたいして、そういう攻撃性から目を覆ってやることによって子どもはその残虐性の影響から逃れられるだろうと思われている。狼に食べられるぶたは最期には狼と仲良くなりましたという話で粉飾される。これでは子どもはみずからの攻撃欲をどうあつかったらよいかわからないまま、とり残されることになる。

 心理学的な解釈ではこうなるけど、歴史的にいえば、昔話ができたころの人々というのはすこぶる残虐だった。自然や経済、飢餓などの状況が、やさしさを許さない時代でもあった。子は捨てられ、または成人するまでに死に、魔女狩りなどで殺され、あるいは短い寿命で終わり、飢饉、ペストなどでばったばったと人が死んでいった。残酷さや残虐さは時代の条件でもあった。昔話の残虐さがじっさいの人間とまったく違っていたというわけではないのである。

 それに比べて現代は自由や平等、博愛が説かれるように、思いやりとかやさしさの時代である。攻撃性や残虐さは社会の表面から葬り去られたかのようである。子どものときには残虐さから目を覆われ、攻撃性はたちまち切り落とされ、やさしさや思いやりだけが人間の全人格であるかのように教育・訓化される。

 残酷な童話ブームは行き場を失った攻撃衝動の発露であるといえるかもしれない。その前にはひたすら猟奇殺人者の心理分析といったテーマが流行ったが、人はみずからの頭がもたげてくる攻撃衝動(あるいは自分の内にあるかもしれないもの)とどう向き合ったらよいかわからなかったのかもしれない。

 穏やかで、思いやりがあり、やさしさで塗り固めた時代というのはやっぱりウソである。攻撃性や残虐性が社会の表面から拭い去られた時代というのはたしかにすばらしい、理想かもしれないが、人間の表面からそれがいくら隠され、隠蔽されようと、やっぱりわれわれの心の内に攻撃性は潜みつづける。子どもに残虐さがないと信じられるのは学校の教師か家庭のオバチャンくらいで、世の中というのはひどい残酷性に満ちている。

 問題はそれがあることを認められないことだ。あってはいけない、あるべきではないと意識から隠してしまおうとすれば、神経症的な問題がおこってくる。性的抑圧が厳しすぎる時代にフロイトが意識下の性的欲望を暴露したように、目に見えるところから隠してもむだなのだろう。

 攻撃性が隠されたやさしさの時代はアダルトチルドレンのような奴隷的な関係をつくりだしたし、内閉的な傾向もそうだろうし、攻撃衝動がコントロールできない子どももつくりだしてしまうのだろう。

 わが内なる攻撃性や残虐さを認めて、それをとりあつかう知恵と勇気を養う必要があるようである。どんな人の心の中にも攻撃性や残虐さは必ずある。否認するわけにはゆかない。






     『カバチタレ!』ほかのドラマ評        01/3/27.


 『カバチタレ!』は一回目がダントツにおもしろかった。芸者宿に売られそうになる常盤貴子を代書屋が助ける話である。代書屋というのは行政書士であるそうで、資格の講座で知っていたが、法的な立場でそんな強い力をもっているなんて知らなかった。

 人を信じることや、正義はだれのためにあるか、法的な力で窮状から脱け出すノウハウ、といったテーマが語られていたように思う。一般の人たちが法律の力を得る、あるいは知るというすこし啓蒙的なドラマであったかもしれないが、私としてはたいへんおもしろかったし、ベンキョーになった。

 一般の人たちにとって法律というのは遠い存在であり、自分を守ってくれるものであり、また自分の味方につけられるなんて思ってもしないことである。これでもわれわれはほんとうに法治国家に住んでいるといえるのか? 法的な権利が与えられているといえるのか。会社のなかの人権なんかほぼないも同然だし、憲法番外地であるのはまがいない事実である。

 法的な力がコンビニのようにわれわれの日常でかんたんに手に入れられるようになればいいと思うのだが。個人がそのような法的な力をふだんから意識できるようになることが、いまの日本に求められているのかもしれない。

 親のない親戚のたらい回しの少女時代とか、暴力夫から逃れる妻とか、トラック運転手の権利のなさとか、このドラマにはちかごろのドラマがとりあげようともしない、日常の深刻で悲しい現実が刻み込まれていたことも好感がもてた。ドラマはちゃんとこのような現実を描けと思うのだが、まず人気が出ないのはまちがいない。現実の日常を描こうとした『彼女たちの時代』はたしかになんにもなく、つまらなかった。

 『ロケット・ボーイ』もふつうのサラリーマンを描こうとして、見事につまらなかった。現実を描く必要性はあると思うのだが、だれもドラマの中に現実なんか求めないのかもしれない。現実は誇張されたほうがいいのか。30代男は現実にあきらめを見つけてゆくといだけの話だったのか。

 『女子アナ。』はなかなかよかった。仕事のなかでの成長や勇気などが語られていた。ミーハーで軽薄な話かなと思っていたが、けっこう硬質な、つくりのしっかりした楽しめるドラマだった。浮かれた、空騒ぎだけのドラマではなかったのがよかった。

 『ストロベリー・オンザ・ショートケーキ』の野島伸司はもうなにをやろうとしているのかよくわかんない。アバはなつかしかったけど、それだけ。『世紀末の詩』もジョンレノンの唄とともに印象深かったけど。

 『HERO!』は平均視聴率をつねに30%を超えていたというヒット作品だが、私にはひじょうにつまらない、見ていられないドラマだった。検察官があんなにヒーローぶっていて、天才ぶっているような話なんか見たくもなかった。キムタクが出ているだけで人気が出るということか。宇多田ヒカルの唄ももう少女チックすぎる。





     パソコン浦島太郎       01/3/29.


 私はパソコンの技術的なことには興味がないので、少々古いパソコンでも問題はないと思っていたのだが、さいきん(というか、かなり前から)、新しいソフトが入らなくなってきたのはたまらない。

 エクスプローラーの新しいヴァージョンももうハードディスク容量不足で入らなくなったし、このHPをつくっているホームページ・ビルダーもだいぶ前のヴァージョンどまりだ。べつに私のHPは文章中心なのでそんなには困らないが、たくさんのロゴとかフォントを使えないのはかなり不満だ。

 技術的なことにカネをあまり使いたくないというのがホンネだ。いぜんは技術的なパソコン雑誌も情報を仕入れるために買っていたが、さいきんはすっかり買わなくなった。コンテンツ情報ならほしいのだが、私の趣味に合った細分化された情報というのがまだあまり発達していない。

 ちなみに私がこのパソコンを買ったのは96年の頭くらいで、メモリが8メガ、ハードが500メガくらいしかない。さいきんの主流はメモリで128メガ、ハードディスクで40〜60ギガだ。単位が違う。まあ、あっという間にパソコンは古くなってゆくのはわかり切っていることだし、なけなしのカネをはたいて買ったパソコンをお払い箱にするのはあまりにも気が引けるからそのままにしていたら、やっぱり困ったこともちょっと出てきた。

 フォトショップとかイラストレーターのソフトを入れることができたら、もしかしてDTPとかデザイン系への仕事の道が開けていたかもしれないのに当然もう容量がない。ドリームウェーバーとかファイアーワークスのソフトがあったら、WEBデザイナーになれたかもしれないのに、ソフトを試してみることすらできない。宝の持ち腐れというやつだ。そして必要なときにはカネがないというやつで、ある程度は技術的なテンポにもついてゆく必要を感じた。

 こんなパソコンだから当然ネットの待ち時間もかなりのものだ。気にしないふりをしていたらなんでもないのだが、やっぱりその遅さは情熱と楽しみと根気を削ぐのにじゅうぶんな役割を果たしているのだろう。

 電話代節約のためにネットは一日一時間しかやらないと決めたことをかたくなに守っている。NTTの電話代はなんとかならないものかな。政府がIT先進国にするというのなら、まずこの料金の高さだろう。

 NTTにしても、われわれはコンテンツを見るために回線を利用しているだけであって、電話回線を見るためにカネを払っているわけではない。NTTの料金はまずはコンテンツに支払われるべきではないのか。電話回線はもう舗装道路と同じように税金でまかなわれるべき段階に来ているのではないか。古い技術と頭はほんとに役立たなくなってゆくという時代であるわけだ。





   ユニバーサルスタジオは映画に勝てない      01/3/31.


 ユニバーサルスタジオ・ジャパンが大阪にオープンした。ジョーズとかウォーターワールド、バックドラフトなどのアトラクションはおもしろそうだし、たぶん人気は継続することだろう。こういうテーマパークをゼロから考えて、実際につくり出した人の偉業には賛嘆する。私がする仕事というのは右から左へ流すような仕事ばかりなので、こういうことをする人たちというのは、ほんと私と同じ人間がやっているんかなと思うくらいだ。

 だがユニバーサルスタジオは映画には勝てないと思う。ああいうアトラクションとかショーというのは、映画の経験の質にはかなわない。映画は見せるところを見せて、話の筋にのせて、観客の心をぐっとひきつけ、離さず、没入させ、そのほかの経験から見事に切り離す。

 でも人間の経験というのはもっと散漫なもので、注意や注目はあちこちに移り、いろいな経験や感覚が注目をそらし、重要なことや着目すべき点に目が注がれるとは限らない。映画やTVにくらべて、現実の経験はあまりにものっぺらぼうで散漫である。映画やTVは重要さや要点を「編集」しているがゆえにたいそう劇的で、刺激に富み、飽きさせない。

 子どものときに遊園地などで催されたウルトラマンショーとか仮面ライダーショーにはなにかがっくりとくるものがあった。現実の場所で、そういうショーをやられても、ぜんぜん魅力とか興奮はないし、メッキは剥がれる一方だった。お化け屋敷もそうだ。あきらかに人形とわかるお化けが吊るされていると、興が削がれるばかりだった。

 野球もそうである。ひごろナレーターつきのTVに慣れていると、じっさいに野球場にいってみて、あの広がりとなんともとりとめのようのない鑑賞感にがっくりときた経験はないだろうか。遠くでだれか見知らぬ人がキャッチボールをしているようにしか見えない。TVはカメラによって注目すべき点がクローズアップされ、ナレーターにより試合の流れが解説され、重要な点と着目すべき点が見事に編集され、われわれに与えられる。そういう注目や着目、解説などの編集作業がひごろTVによって与えられるから、野球場の試合は散漫で、とりとめのない経験に思えるのである。

 つまり現実の体験というのはあまりにも多くの感覚や情報をうけとるがゆえにその世界に魅力や重要性を感じられないし、没入できないのである。しかし映画やTVは違う。映画やTVはほかの感覚を遮断し、目や耳、脳だけの情報に没入させ、非現実的な世界をつくりだす。感覚が遮断された非現実的な世界こそ、われわれが映画やTVを楽しむ経験の基盤と魅力をつくりだすのである。テーマパークにそれが欠けているのはいうまでもない。

 要は編集作業である。散漫でとりとめのない世界が、編集によって重要や魅力的な要点だけがあつめられる。だから編集の完成品である映画やTV、雑誌などはたいそう中身がつまっていて、楽しいのである。観光旅行の情報なんてとくにそうだ。現実の観光地はのっぺりしていて、だらだらしていて、散漫で、色褪せているように見えるものだ。

 だからといって、現地に行きたくないとは限らない。じっさいに現地にいかないことには、その経験は完成しないのである。経験はそうしないと自分の「所有物」にはならない。目と耳、鼻、皮膚、そして足と触覚の感覚をすべて味わって、はじめてその体験は自分に「所有」されたことになる。「場所」を占有してはじめて、「私のもの」となるのである。

 映画やTV、雑誌はわれわれの経験上ではまだ「欠けている」のである。関与の度合いが低すぎるのである。皮膚や足、触感の感覚を味わって、はじめて私はそれを体験し、完成したことになる。

 はっきりいえばTVや雑誌はほとんどの情報を与えているので、その経験をもって「完成」してもいいばずなのだが、まだ「足りない」。なにが足りないかというと、メディアは人間の全感覚で体験する経験の全体に達していないということである。その場所の広がりや距離感、風やにおい、地面を歩いた感覚はそこにいかないと体験できないし、これらを経験しないことには情報の体験は終わりにはならないのである。これらが欠けているがゆえに私たちはじっさいにそこに行かなければならない。(カネを払って)

 ほんとうのところ、TVや雑誌によってかなりの情報や経験は完成しているはずである。ここで満足して、終わってもいいはずである。しかし人間は動きたい。歩いて、体験して、風を感じて、手でさわってみて、ほかの人と体験を共有し、楽しみ、時間を充実させたい。

 しかしTVや雑誌、映画は人を座席に固定させる。動けない、さわれない、行為できない、参加できない。家や室内にこもり、人間関係はできないし、暗いし、ときには陰鬱であったり、空しくあったりする。人は行動して、参加したいのである。だから行動をともなうテーマパークや観光地は固定し、閉鎖された情報関与のストレスを解消させ、私たちの人とのつながりや楽しみの共有を促すのである。

 ユニバーサルスタジオは映画を楽しむという点ではとうぜん負けるだろう。だが、映画を見ることでの行動や参加の欠如をおぎなうことで、映画に勝つ。あるいは映画の経験を完成させる。メディアによってうみだされた体験や行動の欠落は、メディアの継子によっておぎなわれるのである。その欠落をうみだしたのは当のメディア自身である。





      失われた感覚と体験         01/4/3.


 メディアは魅力的である反面、欠落をもたらした。目や耳の感覚に偏重と過重をもたらし、そのほかの嗅覚や触覚、皮膚感覚の抑圧や蔑視、忘却をひきおこした。感覚の変貌は認識世界の変質ですらある。

 たとえば本のことを考えよう。私は本が大好きである。本は優秀で先鋭的な人たちの思想にふれられることができるし、空間や時間のへただりをこえて、かれらの思考に出会うことができる。偉大な人たちの思想が近くの本屋に行くだけで得られるというのはたいへんすばらしいことである。

 本ができる前は優秀な人たちの思想にふれる機会は直接かれに会いに行って聞くしかなかった。もしその人が遠い外国にいたら聴講の機会はまずなかっただろう。何百年もまえに死んだ人ならなおさらである。本はそんな不可能を可能にした。

 本ができる前、人は直接おおぜいの人に会って自説を紹介しなければならなかった。各地を旅しなければならなかっただろうし、思想を必要とする人を探し出すだけでもたいへんな苦労だっただろう。むかしの学者はこんにちの大道芸人のように漂泊や放浪者の一群たらざるを得なかったはずである。かつての仏教者がそうであったように。

 本はいっきょにその問題の解決をもたらし、さらに思考の蓄積や深まりを何倍にも拡大した。個室でおおぜいの人の本を読み、文章を書くということは、思索をさらに深めたことだろう。空間や時間、テーマ検索の障害や手間をいっきょに省いたのである。

 本は思索に必要とされる目と脳の機能への最大限の搾り込みをおこなった。すばらしい反面、五感で得られるフルの情報を削減しなければならなかった。本を読むさいには耳や鼻、手や皮膚などの感覚は抹殺される。

 もし直接人に出会い、話を聞けば、五感からの情報はもっと多くの知見を与えたことだろう。本はそういう機会を奪い、ほんらいなら情報の集約であったはずの実際の人に出会うという機会すら価値の薄いものにしてしまった。人は魅力の座を本に奪いとられたのである。また行動や対面すること、会話することの価値も低めて、さらに不必要さすら感じさせるにいたった。

 じっさいに会ったら、顔はもっと多くを教えただろう。表情や身ぶり、話し方、声の質はもっと多くの意味や情報を知らせただろう。においや触覚、皮膚感覚もさまざまな知見をつけ加えたことだろう。しかし思索の価値からいえば、そんなことはたいして重要なことではない。そうして目や耳、鼻、手、皮膚の感覚をもちいなくなる。じつは人間はこれら捨て去った感覚からじつに多く豊穣なる知見や情報を得てきたのだが、それは忘れられてゆく。

 メディアは最大限の必要な集約をおこなうが、同時に諸感覚の排斥と疎外をももたらすのである。ひとつの感覚への磨きかけは、ほかの感覚の擦り減りをもたらす。用いられなくなった感覚は弱まり、あるひとつの感覚への強化と同一化は、おそらく人間の全体性への疎外と障害をもたらすことだろう。断片に同一化した自我は全体の感覚を忘却し、おそらく私たちに断片の苦悩と苦痛をひきおこす元になるのだろう。

 本はながらく社会を支配してきたが、耳の拡張であるレコードが生まれ、ラジオが生まれた。人間はひとつの感覚の専横だけに満足できないのである。全感覚をとりもどしたいのである。しかしレコードやラジオの耳の情報は、視覚やほかの感覚を疎外するかなり偏ったメディアである。すがたかたちが見えない音というのは考えてみたら、未開民族が驚いて当然のじつに偏った、ヘンな装置である。

 TVは目と耳の集約をおこなった。じつに人間の感覚に近い機械になった。目、しかも想像によっておぎなう活字本にくらべたら、じつに進歩と飛躍である。耳を排斥したり、視覚のほんの少ししか活用しない活字本とは破格に違う感覚の活用をもたらす。あまりにも多くの感覚を用いるため、視覚に集中した活字教育にはもどれないといわれるくらいだ。情報があまりにも多すぎて、活字からほそぼそと想像する情報なんかやってられないということだ。

 視覚文化、活字文化というのはわれわれに気づかれない、しかしひじょうに重要な感覚の欠落をわれわれにもたらしてきたのだろう。認識の歪みや偏りはわれわれにかなり甚大な影響を与えてきた。世界観や世界のありようすら異なったものになっていたと思われる。

 視覚・活字偏重の人間にはそれすら気づかれないし、価値すらあるのかと疑いたくなるものである。しかし人間の諸感覚というものは活字以上の情報や知覚を得られるものかもしれないし、眠っていることを好まない。全体的な感覚を味わい、全体で物事を感じとりたいのである。メディアの発達と歴史がそれを物語っている。ヴァーチャル・リアリティによって嗅覚や触覚、皮膚感覚を満足させることがおこなわれている。われわれはからだの全感覚やその深い能力をもういちど思い出し、活用すべきなのだろう。




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  2001年春の書評集「物語を読む――童話分析」

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『昔話とこころの自立』 松居友 洋泉社





















































































































『昔話の魔力』 ブルーノ・ベッテルハイム 評論社


『グリム童話』 マリア・タタール 新曜社


『絵本と童話のユング心理学』 山中康裕 ちくま学芸文庫










































































































































『カバチタレ!(4本組)』

   
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