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呟き断想集
失業・物語・メディア論



 答えのある生き方、答えのない生き方/失業は地獄か、楽園か?/海岸沿いのちゃりんこ野宿旅/物語を読むことについて/マクルーハン覚え書き/不完全なメディア/趣味人と仕事/




   答えのある生き方、答えのない生き方      01/02/25.


 学校で習った知識にはかならず答えと正解があった。問題もはじめから用意されている。答えや正解はどこかにかならずある、大人や専門家が知っているとされていた。

 こういう思い込みを、大人になってもずっともちつづけている人はことのほか多いそうだ。なにかわからないことがあれば、答えと正解をだれかに問えばいいと思っている。

 しかし、そんなことがあるわけない。世界や人生には正解も正しい答えなんてものもない。わからないことだらけであり、そもそも正解や答えがあるのかすら疑わしい。はっきりいえば、そんなものはないのだろう。

 答えや正解があると思っている人は、たんに他人がつくった既成の生き方や役割に慣らされてゆくだけである。答えや正解を真に受けるというのは、じつのところ、生き方を既成のパターンにはめこんでゆくことである。

 いまの世の中には安定した会社に入ったり、サラリーマンとして勤勉に生涯を過ごすのが「正解」であるという考え方が確固としてある。世の中には「正しい生き方」があり、そこから外れたり、落ちこぼれたりしたら、「間違い」であると赤バツをつけられると信じられている。

 戦後日本人の画一的な生き方は、正解と答えがあるという民主教育の結果でもあるのだろう。既成の正解と間違いが厳然とあると人々は信じてきたから、ひじょうにつまらない、小粒で、「正しい」人たちを大量に生み出してきたのだろう。

 でも人生や世界には正解も間違いもない。そもそも人生に正解や間違いなんてあるものなんだろうか。世界や社会についての正解も、むかしの人々が考え出したひとつの解釈や考え方に過ぎない。世界や人生なんて無数に何相にも解釈できるし、人それぞれの価値観によって天と地ほども違う。

 そういうことを伏せて、正解と答えを教えてきた教育やマスコミの功罪は計り知れないほど大きい。正解や答えを教えるということは、ひとつのものの見方に過ぎないものを、絶対や正統の名のもとに押しつける謀略である。

 人生や世界には正解も答えもない。そもそも問題すらどこにもない。われわれの人生の途上というものは、いつでもナゾや未知に満ちたものである。答えや正解があると思った者は社会や慣習の都合のよい生き方にはめこまれてゆくだけである。

 答えや正解はだれかに教えてもらうのではない。また問題もだれかに考えてもらうのでもない。問題は自分が感じ、発見し、生み出してゆくものである。

 マスコミや教育に教えてもらおうと思っている人たちには、正解や答えはいくらでも与えられるだろうが、たぶんそれは自分ひとりだけのための問題でも解答でもないだろう。

 人生というのは自分自身で問題を見出し、答えを切り開かなければならないものである。問題や疑問を感じ、解決しようとする力こそが人生に求められるものである。





    失業は地獄か、楽園か?      01/3/1.


 3月からまた失業です。今回は自分から辞めたのではなくて、事業所移転のためだから、なんとなく気持ちの整理がついていない。しばらくはのんびりしそうだ。

 私にとっての失業は、なにものからも解放される気持ちのいいものだ。いつまで寝ていてもいいし、どこに行こうにも自由だし、だいいちしんどい目にもツライ目に会わなくてもすむ。最近は貯金がちょっと貯まることもあって、休暇は長期のものになりがちだ。

 でもほかの人には切羽つまったものになるみたいである。生活できなくなるとか就職できなかったらどうしようとか心配がまず立って、いてもたってもいられなくなるみたいだ。

 もちろん私もそういう気持ちになる。だけどそういうときにはなにも考えずに頭を空っぽにすれば、追いつめられた気持ちは去ってゆく。心のテクニックである。そのことを考えなければ、心はいつもどおりの平安を保っていられる。

 マスコミでは山一証券とかそごうの失業者には決まって暗い影をまとわす報道をする。これらマスコミとか大企業の人たちは終身保証が当たり前の一本道の生き方が頭にこびりついているから、そこからの脱落は恐怖以外のなにものでもないと思い込んでいるだけだ。

 中小企業とか転職を経験した人は失業はそんなに恐れることはないと知っているだろう。中小企業では中途入社や転職を経験した人が比較的多くいるからだ。まあ、そんなには珍しいことではない。

 失業というのは心の持ちようしだいだ。地獄になる人もいるだろうし、楽園になる人もいるだろう。「あなたがたの心の中に地獄があり、天国がある」ということである。悲観とか先行き不安を心に抱かなかったら、こんなに自由で解放された長期休暇はないと捉えたほうがハッピーである。

 解放されて、しばらく寝袋を抱えて紀伊半島でもチャリンコで一周してこようと考えていたのだが、3月上旬はまだあまりにも寒いし、天候もかんばしくない。寒空の下の野宿はちょっとこたえそうだ。読書でだらだらしようかなぁ。

 ところで3月下旬にユニバーサル・スタジオが桜島にオープンするが、私はこの二、三年ずっと桜島に通っていた。西九条からの桜島線は昼には一時間に二本の電車しかなかったローカルな線路だった。ガイジンを多く見かけたり、がらがらだった電車が座れなくなったローカル線とももうお別れだ。

 ここしばらくは仕事のことは考えないつもりだ。スクールに通おうとも思ったが、職が絶対に得られるわけでもないし、これから貯金で食いつなぐ身には痛すぎる出費だ。また、肉体労働とかバイトの職しか見つからないかもしれないが、まあそれもそれでいたしかたないだろう。仕事に生涯を捧げたくないと思った私が選んだ道なのだから。






     海岸沿いのちゃりんこ野宿旅       01/3/5.


 失業して長期休暇がとれたので、ちゃりんこで紀伊半島の海岸沿いを野宿しながら一周まわってこようと思っていた。寝袋だけなら、旅費はてんでかからない。ちゃりんこで10キロ程度は平気だ。和歌山の海岸線沿いの風景を楽しんで、串本と熊野あたりまで行けたらいいなと考えていた。

 大阪の海岸線沿いはぜんぜんおもしろくない。コンビナートとか工業地帯ばかりで風景はなにひとつ楽しめない。浜寺公園は昭和のはじめころまでは海水浴のリゾート地だったらしいが、いまは工業地帯だ。海水浴ができるのは二色の浜以南だ。電車でしか行けないと思っていたので、ちゃりんこで到達できたときはちょっと感激。

 関空のとなりにはマーブル・ビーチ(?)とかいって、コイの池に使うような真っ白い石をしきつめた人工的な海岸ができていた。趣味が悪い。だれが喜ぶんだろう。

 大阪から岬公園まででだいたい40キロくらい。ちゃりんこで来れるとは思ってもみなかったところだ。5、6時間かかったのかな。子どものころに来たことのある加太の海岸線沿いをちゃりんこで疾走できたのはうれしかったが、アップダウンの激しい山道にはたいへん疲れた。

 そろそろ日が暮れるころなので、今夜の寝床は和歌山市街に見つけることにした。寝袋で寝るのははじめてだ。寝袋で寝るのはけっこういろんな感情がいったりきたりするものだ。みじめさや気恥ずかしさもちょっとある。勇気がいる。

 和歌山城の石垣のうえにいいところを見つけて、そこで寝ようとしたのだが、なかなか寝つけなかった。人に見られたりしたらいやだなとか、突風にひっぱられてびっくりしたり。こういう時ってけっこう大事なことが考えられたりするものである。

 ようやくうとうとしかけたころ、雨によってたたき起こされた。駅を探すことにした。和歌山市駅で寝ようとしたが、ホームレスのおっさんがうろうろしていたりして、気が気でなかった。盆休みとかには旅行者も駅で寝ていたりして安心するのだが、この日はてんでいなかったので不安だった。

 雨はてんでやむ気配をみせず、天気予報を聞けば、大荒れのようす。おまけに雪がふる寒気がやってくるという話。レインコートではぜんぜん雨を防げない。雨ばかり降っていれば、自由がきかないし、公園でも寝れない。もう断念して、帰ることにした。野宿旅なんか天候とのたたかいだといってもよく、もうすこし対策を練るべきだった。

 雨に濡れてびしょびしょになるのはつらかった。気温もどんどん寒くなってゆくし。しかし孝子峠をこえて岬公園と行くにしたがい雨は小雨になり、関空あたりではほとんど空は晴れていた。でもびしょ濡れになったおかげでものすごく寒い。関空ゲートタワーであたたまることにした。なかに本屋があって、いつも本屋ばかり寄る私としてはひと安心。日曜だというのはここはがらがら。難波のOCATもそうだが、お役所のシゴトってお寒い。

 和歌山までの片道でだいたい7時間くらいかかった。5、60キロくらいだ。マラソンなんか2時間ほどで42キロを走るのだから、驚くほかない。あっさり一日であきらめてしまったのは残念だが、3月上旬はまだ寒すぎるかもしれない。雨つづきの予報も気持ちを萎えさせた。晴れつづきのあたたかい季節ならよかったかもしれない。

 もうすこし野宿旅について情報を仕入れておくべきだった。HPでいろいろ見てみたのだが、一冊マニュアル本みたいなものを見つけていたほうがよかった。HPでは下関から大阪までわずか5日くらいで行っているツワモノがいて、思わず私も行けるだろうとタカをくくっていたのだが、甘かった。

 予定距離の五分の一も行っていないし、目的の南紀の海岸線もぜんぜん見れていない。またいつか再チャレンジに挑んでみたいと思うけど、シンドイなぁ〜。もう、へとへと。家はいろいろなことで安らげることを痛感したしだいだ。





     物語を読むことについて      01/3/6.


 最近の読書は物語を読むというテーマで読み進めている。TVドラマやTVアニメ、マンガ、映画などを社会学や心理学的にどのようなことを語っていたのか読み解きたいと思ったのである。

 映画とかドラマの物語ってなにをテーマやメッセージにして語っているのかよくわからないことがある。そういう解説をした本を読みたいと思ったのである。

 しかしお目当ての本を探すのにすっかり疲れきってしまった。TVアニメやTVドラマを学術的に分析したような本はほぼないのである。あるのはアニメ・オタクやドラマ・オタクのためだけの本のようなものばかり。そんなのを読んでも深い洞察力や分析力は身につかない。感嘆するような鮮やかな物語分析とも出会えない。

 映画では女性学関係の分析とか、精神分析家による分析とかは何冊か出ていた。映画関係の本はたくさん出ているのだが、たぶん私の求めているものとは違うだろう。中学のときも私は映画の物語の意味を知ろうとして、映画雑誌を見てみたのだが、ほとんどアイドルあつかいしたスター雑誌だったりしてがっかりした覚えがある。

 マンガに関してはマンガ評論みたいなものがあったりするようだが、入手が難しいうえ、社会とか時代の関わりが薄そうで、マンガ世界に迂遠しすぎているようで、読解してゆくのはしんどそうだ。

 私はTV世代だから、子どものころに見たマンガやアニメ、またはTVドラマの社会学的、心理学的な意味やテーマを知りたいと思ったのだが、どうもまだまだ学術的なメスは入っていないようである。残念であるし、学者が解説・紹介するべきだと思うんだが、まだ時期が早すぎるのか、TV世代の学者が育っていないためなのか。

 これらサブカルに比べて童話分析は驚くほど充実している。フロイト派、ユング派、社会史学派、文学者などが入り乱れて、膨大な物語解釈をほどこしている。ついこないだまで「コワイ童話ブーム」というのがあったが、学者による豊穣な土壌がつちかわれていたんだなと納得。

 童話分析が楽しいのは、子どものころに親しんだ物語にオトナの目を通してもう一度触れられることと、物語の意味や解釈がはっきりと示されることにある。あ〜、こういうことをいっていたんだなと、鮮やかな物語開示がうれしい。

 子供向けだからといってバカにはできない豊かな心理的意味が童話には含まれているのである。それならアニメやマンガにしても同様なはずである。

 ただ童話分析っていろいろな解釈があまりにもたくさんありすぎて、どれを信じたらいいのかわからない。でもどんな物事も無数の解釈が可能であり、どれもがもっともらしく、真実に思える、というジレンマにもまれるというのが、現実のありようというものなんだろう。いやぁ〜、困ったものだが、おかげで現実とのつきあいかたも勉強できたというワケである。






     マクルーハン覚え書き        01/3/8.


 マクルーハンの『人間拡張の原理(メディア論)』(65年 竹内書店新社)を読んだ。ややこしかったり理解できない箇所もいくらかはあったが、私なりにまとめたいと思う。

 ちなみにマクルーハンは昭和40年代くらいに竹村健一の紹介によりブームになったそうで、メディア論の古典だ。高くて手が出せなかった本を100円で見つけた。

 メディアや道具というのは人間の身体の拡張である。たとえばハンマーやかなづちは手や腕の拡張であり、車や電車は足の拡張、家や衣服は皮膚の拡張、写真や活字は目、ラジオやレコードは耳、といったように。ちなみに蜂は植物の生殖器官である。

 これまでの機械の時代には肉体を空間的に拡張した。しかし電信や電話、TVの電気時代になると外部拡張から、内部拡張へと変わった。身体の器官や部分の拡張から、大脳や神経組織の拡張になった。

 機械時代をもたらしたのは、活字文化であり、印刷文化である。なぜならそれは画一性、同質性、反復性、連続性をもたらすからだ。ここが驚きであり、深く理解したいポイントだが、同じモノを複数コピーできるという技術が大量生産の思考へと飛翔していったのだろう。

 国民が平等になるという共産主義もこの印刷文化に負っている。アメリカも画一的な規格品であふれているというということで共産主義であるともいえる。これもグーテンベルグのテクノロジーに内在する画一性と同質化の論理によるものだ。

 印刷文化や文字教養は視覚を王座に据え、感覚を分離し専門化する断片的な関わりを要求するものである。そして一面の相、ひとつの見解に固執させるものである。文字は分割し、分節し、分離するものであり、全体の関与から引き離す。

 それに対して電話やラジオ、TVは完全な参加や全面的な関与を要求する。文字教養人は感覚の統合に慣れていないので、全面的な注意に反発を覚える。全感覚を必要とするメディアの登場は、文字文化の画一性や反復性とまったく異なる嗜好や社会構造を生み出すだろうということである。

 ほかにも鋭い指摘はたくさんあったが、私の頭を整理するために重要なところのみまとめてみた。印刷文化が大量生産をもたらしたというのは意外である。画一化、同質化の根源がそんなところにあるとは思ってもみなかった。

 もうひとつ印刷文化による視覚の偏りには考えさせられた。あるいは言語−活字文化だ。これは聴覚や触覚などの感覚を排斥した断片的なものであり、関心の対象に全面的に関与できず、隔離させてしまうということだ。それに比べてTVや電話は多くの感覚を関与させ、ほんらいの人間の活動により近づくというわけだ。

 私はTVや映画で育ち、活字を読めない時期があったが、いまは活字のほうが好きである。言語ほど物事の構造を明晰に切り分けて見せてくれるものは、テレビや映画にはないと思うし、けっして劣っていないと思うのだが、たしかに感覚の全体関与というのも重要だと思う。目や耳を切り離したメディアのために人間ほんらいの全体性を喪失させられたもいえるからだ。

 この本の中でいちばん気にかかったことは印刷文化−活字文化と画一化−均質化の関係であり、そのつながりをもっと深く理解したいと思った。あと、感覚の統合・全体性は無意識や超越的合一と結びつけるものなのかと気になった。

 




      不完全なメディア      01/3/10.


 メディアはいつだって不完全なものである。目に特化したメディア、耳に特化したメディアをつくりだし、全感覚を疎外、分断してきた。あるいは認識のありかたをゆがんだものにしてきた。

 たとえば言葉である。言葉は線的で、連続的で、時差的な認識をつくりだした。意識や感覚は一瞬にして全体的に把握するが、言葉はほんのわずかな一側面を線的にじゅずつなぎ的に、時間的にものごとを把握させる。一瞬にして把握した風景は、言葉では順番に時間的にそれを口述あるいは記述しなければならない。

 活字や印刷本は、聴覚や触覚を疎外し、遮断する。視覚に集中するさいにはそれらは不要である。印刷本は身体感覚を排除して、感覚の全体的な把握を拒む。

 本に集中するためには物音さえ邪魔である。私は本を読むときにはラジオの声さえ邪魔だし、邦楽も歌声や歌詞が気になって集中できなくなるし、せいぜい洋楽かイージー・リスニングを流す程度がちょうどいい。逆にある一冊の本にはそのとき聴いていた音楽の記憶とわかちがたく結びつくということもよくある。

 ラジオやCDは聴覚に特化したメディアである。視覚が排除されている。かつて音楽を聴くときにはナマで聞くのが当たり前であり、歌い手の顔や表情、身振りなどを直に見ることができた。

 ラジオやCDばかり部屋で聴いていると、視覚が排除されているのでたとえばアメリカのMTVなんかではじめて歌手の顔や体格を見て驚いたりする。私はコンサートに行くより部屋で聴くのが好きだが、多くの人は生身の歌手やからだごと音楽に包まれたり、ともに踊ったりするのが好きなようである。つまり耳だけではなく、全感覚で音楽を感じ、からだじゅうで踊りたい。

 電話も耳に特化したメディアである。相手の顔も表情も、身振りも、場所すらわからない。あとは想像になる。顔も表情もわからないこそ、伝えやすいこともあるが、逆に電子メールのように顔を知りたくなるということもあるし、不安な場合もある。

 TVは目と耳、あるいは諸感覚を統合するメディアである。情報量は印刷本やラジオよりはるかに多い。多くの感覚を動員するために、視覚を中心とする読書の狭められた感覚には合わない。だからTVで育った子は活字や教育になじめない。

 これまでのメディアというのはひとつの感覚に特化し、ほかの感覚を遮断するため、想像力による補強を必要としてきた。ほかの感覚が遮断されるからこそ想像力が飛翔し、そのために楽しみや喜びが生まれたり、隠れたり、姿を見せないで表現することも可能になった。

 人間はだいたい対象を全感覚で把握したいものである。たとえば雑誌やTVによるグルメ情報ではたくさんのおいしそうな食べ物が紹介されている。これは知識を得ることで終わりになるのではなく、じっさいに食べ物の味覚を味わったり、五感で楽しんだりして、はじめてこの行為は終わりになる。旅行情報もそうである。写真や紀行文だけで満足するのではなく、じっさいに行ってみて五感で感じてきたい。

 いっぽうアニメやアイドル歌手などは視覚や聴覚、あるいは想像力のメディアに閉じこもってそれのみで満足してしまうということもある。視覚・聴覚メディアができあがったおかげで、映像や声をながめたり、聴いたりすることで楽しみは終わってしまい、じっさいの女性との関わりを断ってしまうということも起こる。メディアの不完全さはいっぽうではそれに自足する人たちを生み出した。

 メディアは言語もそうだが、伝達にはひじょうに優れている。しかし断片的で、細分化された感覚に頼るため、全体的で統合的な感覚や関与を奪いとってしまった。それが集合的無意識の幸福な合一からの疎外をもたらしたとベルグソンはいっているが、メディアによって分断された感覚の全体を埋め合わせようとわれわれは今日も消費やメディアにそれを求めるというわけである。





       趣味人と仕事        01/3/11.


 私が仕事を批判するのは、自分の好きなことや趣味ができなくなるからだ。自分の好きなことができない人生ってやっぱりつまらない。だから自分のために生きられない仕事は、私にとっては人生を剥奪するものなのである。

 それなら世の中には趣味に没頭する人や趣味に生きる人たちというのはたくさんいるはずである。かれら趣味人は仕事のことをどう考えているのだろうかと気になる。かれらは仕事をやめて趣味に没頭したいとか、仕事は人生を奪う強盗のように思っているのだろうか。

 趣味をやるにはお金がかかる。こんにちではどんな趣味も商業化が入り込んでいてしこたま金が必要になる。だからそのために働いている、仕事が楽しめる、我慢できるものになっているという人もいるだろう。

 むかしは、あるいはこんにちでもそうだが、女という趣味のために金をかける人がたくさんいた。その延長には家庭や子どもやマイホーム、(あるいは愛人)があった。むかしは比較的こういう人がたくさんいて、それが世間の規範に叶うものであり、人生の常識でもあったのだろう。

 しかしこんにちでは楽しみが他人を含むものから、自己完結型のものに変わってきた。個人主義的で、利己的な趣味に埋没するようになってきた。自分の楽しみが人とつながらず、自分のみの楽しみに終わってしまうものである。女とかセックスとか以外の楽しみがあまりにも増え過ぎたのである。

 中高年には趣味がなくて、仕事だけが趣味という人がたくさんいるそうだ。かれらの時代には仕事以外の楽しめるものがあまりなく、あるいは経済成長がうまくいっているときであったり、貧乏で仕方なく働いているうちに仕事以外のなにものもなくしてしまったというのもあるだろう。こういう人たちはご勝手にそのまま定年までつっ走ってくれればいいのだ。

 問題は趣味に生きたい人が仕事とどう両立するかということである。趣味をとことん楽しむためには時間がいくらでもいる。しかしそのための金も必要だし、生活するための金も必要になる。時間はほしいが、カネがなければ生活も趣味もできない。こんどはカネをたくさん稼ごうとすれば、趣味を楽しむ時間が奪われてしまう。ジレンマである。

 解決するのは趣味を仕事にしてしまうことである。これはハッピーだろう。好きなことをできて、しかもお金まで稼げる。趣味人には理想の生活である。

 ただこんにちの自己完結型の趣味では、他人のためのサービスである仕事から満足を得ることはむずかしいことである。自分の趣味と、他人へのサービスはやっぱり違う。仕事というのは他人に奉仕することであり、他人の楽しみを提供することであり、自分の楽しみとはやはりベクトルが異なる。またたいていの人は自分の趣味を仕事にできるとは限らない。

 それでは趣味と仕事をきっぱりと分けて、あくまでも仕事は金を稼ぐための手段であると割り切ってしまうと、こんどは休みがとれなかったり深夜まで残業があったりして、趣味の時間が確保できなくなってしまう。こうして若いころ趣味があった人も長く会社に拘束されるうちに趣味なしの会社人間に育て上げられてしまう。アーメン。

 だからげんざいの多趣味の時代には会社や仕事はもっとウェイトを減らさなければならないと思うのである。趣味に生きる人はもっと自分の人生を生きたいのである。また趣味に生きるというのは消費を華々しく行うということであり、この消費不況の時代では会社にとっても有益なことである。

 日本人はもっと好きなように生きる人に寛容になったり、許容したりする意識や規範をもつべきなのである。さもないとつまらない大人ばかりになった社会は活力の枯渇を招き、けっきょくのところ、自国を崩壊させるのみである。



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 2001年春の書評集「物語を読む――童話分析」

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マクルーハン

『メディア論―人間の拡張の諸相』 マーシャル・マクルーハン みすず書房
   
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