あなたの感情はほんとうにあなた自身のものか?                     01/2/13編集



 社会的コントロールとしての感情/規範感情は解体できるか/感情支配からの自由/感情信仰の時代/楽しさの感情強制/感情の経済学/感情商品とマスメディア/




       社会的コントロールとしての感情     2000/3/13.


 感情というのは、人を悲嘆のどん底に追いやったり、あらぬ心配に駆り立てたりして、ときには個人を必要以上にさいなむものである。感情は害悪をもたらすほうが多いのではないか。では、なんのためにあるのか。

 社会規範を守らせるためにあるのではないだろうか。人々の行動を統制するには感情というのは有効な道具である。怖れや恥ずかしさ、いたたまれなさ、居心地の悪さといった感情は、じつに人々の行動を規範に合わせるために適した道具である。

 こういうすごいことを「感情社会学」という新しい社会学はいっている。感情というのは、近代社会にとっては理性的・合理的に行動できない要因としてかなり排斥されてきた。感情は合理的人間にとっては原始的で、野蛮で、封建的なものだったはずである。

 しかし喜怒哀楽のない人生はつまらないといった言葉が世間で交わされることは多い。感情は自然に発生するものであり、コントロールできない、という思い込みを多くの人はもっており、だからこそ「自分らしさ」や「個性」があらわれると人は思っている。

 不思議なものである。感情は原始的で野蛮なものだったはずが、いっぽうでは自分らしさや個性をあらわす重要なアイデンティティになっているのである。そして同時にその感情は社会規範に合わせるためのコントロール装置でもある。

 自分らしさをあらわす感情(好き嫌いなど)が社会のコントロール装置になっているとは皮肉なことである。だからこそ感情は合理的でない野蛮なものとしてかたづけられ、学問にもかえりみられなかったのだろうか。社会コントロールの道具として感情は隠蔽される必要があったのだろうか。

 わたし自身の経験からいって、社会趨勢に反抗的・批判的な行動や態度をとるようになると、悲しみや怖れなどの感情をより強く感じる経験をしてきた。だから感情というのは社会にコントロールされるための道具だという思いを強くしてきた。

 頭で考えた新しいことは感情という古い規範によくうちのめされるのである。頭でおかしいと思いながら、社会規範や社会コントロールに従わされるのはあまり愉快な経験ではない。だからわたしは規範による感情はできるだけコントロールできる知識を身につけたいと思う。

 論理療法などでは感情は自然に発生するものではなく、考え方や思考スタイルによって生み出されると考えている。だから感情はコントロールできるものなのである。ストア哲学や仏教などでも思考を虚構ととらえ、無思考にすることによって感情のコントロールを説いている。感情はコントロールできないものではないのである。

 ただし感情のコントロールはかんたんなものではないし、幼少期からつちかわれた感情の自然的な規範はちょっとやそっとでは動かせるとは考えにくい。新しい感情社会学といったジャンルがその感情規則から解き放たれる知識を提供してくれるよう期待していたいと思う。

 参考文献:山田昌広『感情による社会的コントロール』/『感情の社会学』世界思想社




      規範感情は解体できるか   2000/3/16.


 感情というのは自然に発生するものだと思われている。悲しいときには悲しくなり、さみしいときにはさみしくなるといったように。

 しかしこの感情を客観的にみると、規範や慣習にしたがっていない場合にそのような感情がわきあがってくることがわかる。つまり規範や慣習に従わない罰としての感情である。

 いぜんわたしはいろいろな慣習や規範といったものにことごとく反抗していた。大衆の画一的行動といったものにもかなりの目くじらをたてていた。しかし慣習に従いたくないとつっぱねても、どうも感情がいうことを聞いてくれない――慣習に沿わないと、悲しさやさみしさの感情にいつも襲われたのである。

 頭で考えたことに対して心(感情)はついてこないのである。ということでわたしは感情というのは規範や慣習を守らせるためにある道具だという思いを強くしていったわけである。(カミュの『異邦人』はそういうところをついているのだと思う)

 だから規範や慣習に流されないためには感情の解体というものが必要になる。また、たぶんこの規範感情というものから解放されることが、人間の究極の自由というものではないのかと思う。感情の奴隷になった人間はおそらく自由から程遠いのだろう。

 それにしてもわれわれは感情というものを客観的に見ることはまずないし、感情こそが自分自身となってしまって、感情に支配されるのが多くの人のありかただといえるし、そもそも感情に対する知識や追究すらほとんど手つかずといった状態だ。

 なんでもわれわれの一般的常識からすれば、感情は原始的なものであり、人間は近代化ととも合理的な行動をするようになるそうである。それにしてもわれわれの身のまわりの人が感情を捨てて合理的に行動していっているようにとても見えないし、わたし自身も感情の怒涛のような毎日を経験しているし、世間一般では好き嫌いという感情が自分らしさや個性を表わす指標になっているのはどう説明するというのか。

 合理的行動どころから、感情に支配され、のっとられた道具になってしまったのがわれわれポスト近代人ではないのか。そして感情というのは人間を規範や慣習に従わせるための装置である。われわれは感情の奴隷であり、そしてそれによるコントロールを通しての社会規範の奴隷となっているわけである。二重に奴隷となっているわけだ。

 そこで感情は解体していったほうがいいと思うのだが、しかし感情がなければどうやって対人関係や世間との処し方を実行していったらいいのかと疑問に思わなくもない。感情はいろいろな状況に即座に対応するすべを教えてくれるひとつの指標ではないのか。これがなければ、われわれは状況への対応のしかたを誤ってしまったり、状況を読みまちがってしまうのではないか。

 しかしそんなことより大事なことは感情の支配から自由になることである。感情の奴隷になれば、規範や状況の囚人と化してしまう。われわれはまずここから自由になる必要がある。

 感情をコントロールする方法としては認知療法や論理療法、仏教の思考の消去などの知識がある。心理学やセラピーは社会順応の方法を説いているが、体制離脱の方法としても使用可だろう。





      感情支配からの自由    2000/3/17.


 感情から自由になる方法はいったいどのようなものがあるだろうか。感情に支配されることの多いわたしが知っている限りでは、感情を相手にしない、無視する、放っておくという方法がある。感情を客観的にながめて、それと同一化しないこと、また感情的になったところでなんの問題の解決にも解消にもならないと知ることである。

 わたしたちが感情的に激昂するのはそれがなんらかの解決をもたらすと期待しているからである。感情というのはじつのところ赤ん坊が母親に注意を向けさせるメッセージの道具だったのであり、大人になっても同じ用法で他人へのメッセージとして使用している。つまり「わたしは怒っている、悲しんでいるから、あなたは〜しなさい」というメッセージをもっていることだ。

 こういうメッセージの用法としての感情という側面を忘れると、怒りについてサルトルがいったように「魔術的試み」の効用を信じてしまうことになる。感情にはなにかの力があると思いこんだり、万能的な力があると思ったり、はては超能力的効果まで妄想されることになってしまう。

 感情というのは自分を怒りや悲しみの激昂手段として用いて、他人にメッセージや行動の悔い改めを迫るものである。いわば、自分の身体まるごとをもちいて怒る広告塔や悲しむ広告塔と化すわけである。広告塔の維持費や苦痛というのは自分にとってひじょうに高くつくので(ぴかぴかのネオン・サインみたいなものである)、安く抑えるに越したことはない。

 人が感情的になるのはやはりその効果を信じているからということになるのだろう。あまり解決も解消にもつながらないと理解するのなら、感情への期待も使用頻度もそう多くならないというものである。

 もうひとつ忘れてならないのは、喜怒哀楽のない人生はつまらないと思い込んでいることである。楽しんだり、喜んだり、悲しんだりしてこそ、人生は楽しいし、うるおいがあるものであり、自分らしさや自然体を生きられているという「感情信仰」をもっているのなら、われわれはよりひんぱんに感情的に生きようとするだろう。

 近代人の常識として合理的に生きることが人間の進化の道標であるという考えがあったはずなのだが、いつの間にか野蛮や動物的であると思われていた感情が、自分らしさや生きがいの指標となってきたのは意外なことである。

 合理的な生に対する反抗として60年代あたりから「セックス革命」とかともに「感情革命」がおこった影響のようである。そしていまでは感情や好き嫌いがすっかり自分らしさや個性を表わす指標になっているという断絶がおこっている。

 感情や好き嫌いが自分らしさ、個性だと思い込むようになると、人は感情的な価値を高め、その力を過信するようになるだろうし、その結果感情の奴隷となったり、自己は感情の荒波にほんろうされる小船になったり支配されてしまうだろう。感情にハイジャックされる人生が待っているということである。

 感情を批判的にながめるようになると、テレビ・ドラマや映画、小説などは驚くほどメロドラマ――つまり感情の埋没や没入を讃歌していることに気づく。感情の讃歌と感情的になるススメである。

 おそらくこれは商業主義や消費主義と関係があるのだろう。好き嫌いや好み、感情的に生きることによってもっと消費や贅沢をしなさい、モノやサービスを買いなさいという商業論理の要請なのだろう。われわれがより感情になり、感情が自分を表わす指標になったのはそういう事情があるからだろう。

 どうやらわれわれがより感情的になったり、感情の荒波にほんろうされたりする理由は、感情にこそ人生の生きがいがあり、およびそれこそが自分なのであるという「感情信仰」とでも呼ぶべき現象があるからなのだろう。感情を信仰し、崇拝されるがゆえにそれに同一化し、支配され、ふるまわされるというわけだ。

 こういう信仰を捨て去ったところに感情からの自由があるのだろう。しかし「感情のない子どもたち」といった本のタイトルがあるようにわれわれは感情がなくなることをロボトミーや病的形態と感じるような傾向ももっている。感情のない人生は死人の生であり、生きるはりあいや活力がなくなることなのだろうか。

 しかし老荘思想や仏教には枯木死灰の状態を理想とする思想もないわけではない。感情や欲望は人生を苦しまさせる要因だと考えられているからである。

 「感情信仰」の時代に生きているわたしとしてはどちらの立場のほうが正しいのかは早急には判断を下せないが、社会規範や慣習に盲目に支配されたり、感情の荒波に苦しめられるようなら、感情というのはできるだけ捨てるほうがいいのではないかと思う。感情から自由になることができたのなら、われわれはどんな幸福の地平を手に入れられるかわからない。





       感情信仰の時代     2000/3/18.


 感情に生きる喜びやはりあい、生きがい、自分らしさを求める時代である。楽しさや喜び、うれしさ、といった感情の経験をひじょうに大切にする時代である。

 そのようなすばらしい経験はぎゃくに、皮肉なことにそれらを得られない苦悩や疎外感、自責感をもたらすものである。「わたしはほかの人のように楽しんでいない、喜べない、うれしくない毎日を送っている」といって嘆くわれわれの苦悩をも生み出した。

 また喜びや楽しみを求める精神は、感情に支配され、ほんろうされる人たちをも生み出した。感情経験を自分の大切な目標や生きがいとするのならば、自己は感情の荒波にほんろうされるだけだろう。

 感情に生きがいをもとめる人生は感情のコントロール能力を失うことでもある。感情を崇拝してしまえば、自己は感情に支配され、操られることになってしまう。感情を経験することが唯一の楽しみになるということは、感情の生成に手をつけないということである。コンロール不能になる。

 テレビ・ドラマや映画はほんのささいなことで感傷的、メランコリーになる人たちばかりを出演させている。そういうムードや気分になることを推奨するかのようである。感情的に深く没入することがより深く意味のある人生を送れるかのようである。

 こういう思い込みをもつために人はより感情的になり、そのためによけいに感情のコントロール不能に冒される。感情を自己と思いこみ、同一化してしまうと、もはやコントロールできなくなってしまう。主体は思考や理性的な自分ではなく、感情となってしまうからだ。

 かつての時代はこんなに感情をもてはやしはしなかったのではないか。立身出世や合理的な人間、理性的になることが人々の目標であり、栄達や名誉であったのではないのか。

 それがいまでは瞬間的な楽しみや喜びの経験をもとめる時代になっている。べつに非難するつもりはないが、なぜなら長期的・将来的な拡大成長が見込まれる時代ではなくなったのだから、とうぜんの対応、適応であるわけだが、感情経験だけに喜びをもとめるようになると、感情にふりまわされる危険があることを指摘したいだけだ。

 それとやはり根本的に感情信仰は幻滅に終わるのではないかということも指摘しておきたい。感情を人生の目標や生きがいとしたって、感情なんてものは瞬間的・刹那的にしか味わえないものだから、ぜったいに永続的・持続的な喜びは得られないのに決まっている。こんな瞬間的なものに喜びをもとめるのはあまりにも苦しい、見返りのない選択ではないだろうか。

 現代はいつの間にか感情信仰の時代になっていた。このことに気づくことは大切なことだろう。無自覚に求めていたものは、すぐに幻滅に終わる性質のものであるかもしれないからだ。また喜びの裏面にはかならず悲しみがついてまわるものだということをわきまえておくことだ。ついでに感情にふりまわされる危険もついてまわる。





        「楽しさ」の感情強制     2000/3/20.


 バブル時代というのはレジャーや高級品の消費がものすごくさかんだったのだが、わたしはこの時代にひじょうに腹を立てていた。画一化や商業主義の強制というもっともらしい理由づけもできるのだが、「感情」という側面に注目してみると、「楽しみ」の強制があったからだということがわかる。

 バブルに狂奔した時代というのは「だれもがみな楽しまなければならない」という感情強制がまきあがった時代でもあったのだ。むりに楽しんだり、楽しいふりを強制されるのはものすごくだるく、うっとうしいものだ。だからこの時代、わたしは腹を立てていた。

 80年代は「ネアカ」と「ネクラ」という言葉が流行り、「だれもが明るくならなければならない」という感情強制がはびこった時代である。「ネクラ」は「犯罪者」なみのあつかいをうけ、だれもがバカみたいにはしゃぎ、うかれ回り、明るくふるまわなければならない時代だったのだ。

 90年代は打って変わって大不況になり、いたって平和で穏便な時代になった。「楽しさ」の感情強制への反動と非難がまきおこったのだといえなくもない。

 このように感情というものに着目してみると、わたしというのは、よそからの感情強制にひじょうに反抗していることがわかる。日常のいろいろな場面でもそうだし、社会的な選択や行動においても、感情強制のにおいをすこしでも嗅ぎとると、いっせいにかたくなな自分の感情に固執しようとする。

 日常の場面や社交では「つまらないのにおもしろいふりなんかしたくない」とか「しょうもないのに楽しいふりなんかできるか」と、楽しみを強制する場では、むりに楽しく装うのを極力避けている。会社なんかでは「やる気がないのにやる気を出せ」とか「忠誠心なんかないのに忠誠を尽くせ」とかをいわれるのがとてつもなくいやだから、なんとか会社から距離をおこうとしているのだと思う。

 テレビドラマなんかではある感情――悲しみや楽しさを作為で産出させようとするのがわかっているから、醒めた目で、感情を踊らされないように半ば白けながら見ている。

 このようにわたしは人や状況から特定の感情を強制されるのがとてつもなくいやなのである。他人からある感情に乗せられたり、そういう感情にもっていかれるのが、たまらなくいやなのである。

 こういう感情拒否がなせ起こったかと考えてみると、おそらく新興宗教批判やファシズム主義(集団主義)批判などのマスコミの影響によるところが大きいのではないかと思う。「崇拝や熱狂、陶酔などの感情には気をつけろ」というメッセージが戦後くりかえし流されてきたのではないのか。この影響は無視できないだろう。

 わたしのなかにある感情強制への拒否感というのはよいことなのか、よくないことなのかはいまのところ判断しにくい。ただ、自分の感情にこそ「自分らしさ」や「自分としてのアイデンティテイ」があると考えて固執しているとするのなら、わたしは感情により多く支配され、ほんろうされることになってしまうだろう。

 自然な感情こそが自分なのだと思うと、感情を崇拝してしまって、その聖なるものに手をつけられなくなってしまう。コントロール不能ばかりか、わたしは感情に首輪をかけられてひきずり回されるようなものである。悲しみやつらさに悩まされるのはあまりよい経験ではない。

 この感情拒否についてはどう考えればよいのだろうか。戦後の人たちは感情を拒否し、その感情を守ることで「個人の尊厳」や「自分らしさ」を守ろうとしてきたのではないだろうか。でも感情に自分のアイデンティティを賭してしまったら感情の苦悩にふり回されることになるし、けっきょくのところそれは、商業主義や消費主義の要請や必要ではなかったのではないだろうか。

 いまのところなんとも判別しかねるが、この感情の強制と拒否という捉え方はなかなかの鉱脈ではないかと思う。もう少し考えてみたい。




      感情の経済学     2000/3/9.


 ある感情を相手から受けたら、お返しをしなければならないというのが人間関係の暗黙のルールとしてある。これは貨幣や商業、取引き、交換関係と同じものである。この貨幣関係をベースにして人間関係はだいたいなりたっている。

 たとえば、ある人から心を傷つけられたり、心ない仕打ちをうけたら、報復や復讐をしなければならないと多くの人は思っていたりする。またある人からお世話や恩義をうけたりしたら、恩や義理をお返ししなければならないと人は思うものである。

 さまざまな感情というのは貨幣のように人間のあいだを流通しているのである。感情の買い手は売り手に恩義であれ、報復であれ、お返ししなければならないということである。

 刑罰というのも、ニーチェが指摘するとおり、損害や被害をうけた感情はどこかに等価物があり、相手側にその苦痛分をあたえることによって報復が可能だと思われているものである。

 さまざまな感情や苦痛、損害、恩義といったものはどこかに必ず等価物があるはずだという考え方がわれわれの人間社会の根本的なベースになっている。商業の関係が金銭関係とまったく関わりのない人間関係においても貫徹しているというわけだ。

 だが、この感情の貨幣というのは混乱をきたしているというのが実状だろう。カネのように数字で割り切れるものではないし、一方的な取引き成立の思い込みだけで成り立っている売り手もいるし、主観的な思い込みやモノサシによってひじょうに雑多で多様な売買関係が交錯していたりするからである。

 この交換関係の失敗や読みとりミス、勘違い、一方的な思いこみ、無知といったものがさまざまな人間関係のトラブルをひきおこしているのだろう。感情の貨幣というのはあまりにも一方的な思いこみ、一方的な取引関係というものが多いのは人間関係のさまざまな行き違いや錯誤からうかがい知れるものである。

 われわれはこの取引関係の捉え方や行ない方を、その人の性格や人格、あるいは心理だと思い込んできたのではないだろうか。性格なんてものではなくて、感情の取引き形態をどのように認識しているかによって、その人の表われ方が異なってくるといえるかもしれない。

 他人に期待した感情の取引きのありかたは、そのまま自分の心の基準である。この基準からズレたり、もれたり、予想外の行為が返ってくるのなら、われわれは悲しんだり、怒ったりするわけだ。「わたし」という人格は感情という貨幣をとおしたいっしゅの「個人企業」や「個人商店」そのものであるといえるかもしれない。

 われわれはこの社会に生まれ落ちたときから、この感情のとりひき――人に苦痛を与えたら苦痛を与えられるものである――というルールを徹底的に親からたたきこまれる。親に怒られた子どもは、あやまったり、反省したりして、苦痛や苦悩という感情を末永く「所有」するように仕向けられる。こうしてわれわれは感情の取引関係に参入してゆき、個人商店の看板をかかげるようになってゆく。

 しかしながら、感情の取り引き形態はさまざまな人間間のトラブルや苦痛や苦悩をひきおこしてきた。多くの宗教では感情の取引関係を否定している。つまり感情にはどこにも等価物なんかなく、また時間とともに消え去る虚構であるといってきた。感情は取り引きできるものではなく、また時間がすぐに消し去るものなのだということを諭してきた。なるほどまったくそうである。

 心の平安、また人との平和な関係を築くには、感情貨幣の「個人商店」はたたんだほうがいいようである。だれかからうけた苦痛を報復や復讐というかたちで帳簿にのせておくのは、自分の苦痛の継続に一役買うだけだし、相手のトラブルをこじらせてよりいっそうの苦痛の拡大に加担するだけになるだろう。

 ただ、被害や虐待を含むような不平等関係において、どれだけ取引関係を発動させないでおけるかはむずかしいところである。流れる川は同じ水ではないといわれても、この取引関係が今後も継続するとするのなら、わたしはどうしたらいいのだろう? ねえ、おシャカさん。





     「感情商品」とマスメディア     01/2/12.


 自分の感情や感じ方というのは自分の思い通りにならないことがままある。ときには自分の思っていることを裏切って、不安や悲しみに射すくめられてしまうこともある。

 ではこのような感情や感じ方をかたちづくったのは何かというと、やはり子どものころに見たマスメディアが大きく作用しているのだと思う。私の感情の反応の仕方を大半影響づけているのはおそらくこれらのマスメディアだろう。

 だから子どものころに見たマスメディアを見直すということは、自分を規定づけているものとふたたび対峙し直すということになるだろう。あるいは「他人によってつくられた自分の感情」をとりもどすきっかけになるかもしれない。

 現代のマスメディア社会において感情はすでに「感情商品」や「中古品の感情」として大量に出回っている。われわれはすっかりその感情商品のパターンにはまり、無条件に反応づけられてしまっているというワケだ。

 子どものころに見たマンガやTV、映画は自分にどのような作用を及ぼしているのだろうか。たとえば私にとって印象深いのは『ポセイドン・アドベンチャー』や『エアポート××』といった一連のパニック映画である。これらでは極限状況における自己犠牲を描いていて私はえらく感動したものだが、思いやりといった感情はこんなところでつくられたのではないか。

 私には人より優越しようと見せたり、上下関係を誇示したりする気持ちに抑制が強いが、TVアニメなんかではけっこうエラそうにする人を批判するような場面があったように思う。冷酷であったり、鼻持ちならない役柄として叩かれていた。

 逆にどんくさくて、デキが悪いほうがみんなの主人公である方が多く、はたしてこのような道徳律を組み込まれたわれわれは、この競争社会で足カセになるのではないかと思わなくもない。デキの悪い、ダメな人間の方が愛らしいが、そんな人間により同一化してきたことはよいことだったのだろうか。

 自分の感情に抗えない最たるものは恋愛感情である。われわれは恋愛感情こそ自分の自分たるゆえんだと思っているが、はたしてそうなのか。「感情商品」によって刷り込まれたものではないのか。

 この社会では「恋愛感情の商品」にはまず事欠かない。音楽であれ、マンガであれ、TV、映画、これらはほぼ恋愛感情を大量に売っている。この商品は今世紀の陰の最大のヒットだろう。はたしてこの恋愛感情の起源は子どものころに見た恋愛もののマンガではなかったのではないか。思い出せば、『キャンディ・キャンディ』――。

 スポ根ものや学園ものはどのような感情や規範をわれわれに組み込んでいったのだろうか。『巨人の星』や『あしたのジョー』、『ゆうひが丘の総理大臣』『俺たちの旅』。情熱や感動――? あるいはカイシャでガムシャラに扱き使われるためのバッテリーみたいなものか?

 『ウルトラマン』や『仮面ライダー』、『ガッチャマン』『ガンダム』のような勧善懲悪的なものはどうなんだろうか。ユング派によるとどうも「悪」は「自我」がなりたつために必要な過程であったといわれているが、われわれはおかげで立派な自我をもつにいたったのだろうか。

 感情というのは自分独自のほかにはありえないものという感が強いが、じつは大半はマスメディアによってインプリンティング(刷り込み)されたものだといえる。ハイジャックされたようなものである。そしてそんなことをつゆとも知らず、刷り込まれた感情を自分独自のものと思いこみ、人生の判断をおこない、暮らしているともいえるのである。

 マスメディアに操縦された感情のまま生きるのもそれはそれでいいだろう。それは商品であっても自分の好き嫌いで選びとってきたこと事実もあるからだ。

 ただ自分の考えが変わったのに気持ちや感情がついてこないと感じたときには、自分のつちかわれてきた感情の起源や生成要因といったものを検討してみなければならないのだろう。慣習や規範、過去のメディアのドレイになるか、自由になるかは、自分の判断しだいだ。(そんなにかんたんには刷り込まれた感情や規範から自由になれるとは思わないが)




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