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21世紀につぶやく断想集



 消費とカネで自信を買うこと/サブカルチャーはなにを語っていたのだろうか/保険と仕事はほんとうに必要なのか/虚構なのに虚構を愛す/老後恐怖症の洗脳と拡大/SFのベクトル、歴史のベクトル/




   消費とカネで「自信」を買うこと    2001/1/2.


 いらないモノまで、必要のないモノまでバカスカ消費してしまうのはなぜなんだろうか。「カッコよさ」を買っているだとか、「社会的認知」や「所属階層」を買っているだとか、「優越」や「賞賛」を買っているからだとかいろいろ言われているが、「自信」という感情を買っているといわれれば、なるほどと納得する。

 ジュリエットB・ショア『浪費するアメリカ人』(岩波書店)でこういっている。「現に金がなければ、剥奪感、個人的な落伍感、深い精神的苦痛が生じる」。逆に「私たちは多く持てば持つほど、力強く、自信に満ち、社会的に認められていると感じる」

 個人的にこの気持ちは私にもよくわかる。カネもあまりないし、消費もショッピングもかなり控えてる私にとって、百貨店やレストランのような店に入ること自体、ずいぶん気後れすることになった。カネをたくさんもっていたり、消費をたくさんしない者には、ふつうの店にすら社会的障壁というか心理的抵抗を感じるようになるものである。

 つまり自信喪失である。カネや消費はこの社会で生きる「自信」や「強さ」を与えるんだなとつくづく思う。

 このような感情を「相対化」し、「客体化」する方法はあるのだろうか。消費やカネの多寡によって心理的な優越や劣等を感じさせないですむ心理的方法はどんなものだろうか。

 たとえば消費がバカらしくなる方法は、私にとっては消費によって「所属階層」や「社会的優越」を買っているという見え透いた構造を指摘したかずかずの社会学的分析を読むことだった。この知識によって私は消費によって踊らされることをまぬがれたように思う。

 ちょっといまのところはいくつかのアイデアを出すことしかできないが、カネや消費で買われる、あるいは失われる自信というのは、「ままごと」みたいに感じたらいいというのもあるだろう。みんなが店員や客や商売という「ままごと」や「社会的役割」を演じているんだ、子どもの遊びにいちいち優越や劣等なんか感じる必要はないと考えることができる。

 買い物をする人はエライ、買わない人はミジメみたいな広告とか商業的な刷り込みは、みんなでつくった「共同幻想」だとか、みんなで演じている「物語り」に過ぎないと客観視することもできる。そんな「絵空事」の物語を虚構であるとか、上から降ろすような視点で眺めるのもいい。

 カネ持ちや消費を多くする人がとてつもなくエラくて、乗り越えられないもので、不動なものだという思いこみだけを固めてしまうのはよくない。この解釈を絶対のものにしてしまうから、私たちはしばしば劣等や落伍を感じざるを得ないのである。この解釈になんとか穴をこじ開け、ほかの解釈や見方を自分に固定化する必要がある。ものの見方なんてものはひとつの解釈にしか過ぎないのだから、ほかの解釈は何通りもできる。虚構にしか過ぎない。

 まあ、いまのところはこんな程度だ。カネのあるなしで劣等や落伍を感じる心理をもう少し客観的に、飛び越えてしまう洞察は、これからも自分の中につくる必要があると思う。それに負けてしまったら、浪費と働き過ぎの悪循環に自分の人生を喪ってしまうことになるだろう。





   サブ・カルチャーはなにを語っていたのだろうか    01/1/6.


 いまはサブ・カルチャーを分析しようと四苦八苦している。自分が親しんできた映画やマンガ、ドラマ、音楽などを改めて社会学的に分析したいと思っている。

 だいたい私が接してきたサブ・カルチャーの数々の作品は「よかった」とか「おもしろかった」、「感動した」などなどのボキャブラリーでしか後々語れないのである。後から反芻してみて、あの作品はなにをいいたかっだの、どのようなことを表わしていたのか、私には言葉でまとめることができないのである。

 だからサブ・カルチャーの社会学的な興味というのはずっとあったのだが、残念ながらサブ・カルチャーの社会学的分析というのはあまり見かけない。ずっと前に読んだ宮台真司他の『サブ・カルチャー神話解体』(パルコ出版)はとてもおもしろかった記憶があるが、そのほかに良著を見かけたことがない。

 批評や感想というジャンルならいくらかは出ているのだろうけど、求めているものとはちょっと違う気がする。しかし自分でもなにを問いたいのかよくわからない。時代背景や歴史との関わりか、テーマやメッセージか、あるいは社会学的な意味なのか。

 だいたい物語を言葉で読み解くという習慣や訓練をやっていない。そのために感情的・情緒的な鑑賞感しか残らないのである。まあ、たいがいのサブ・カルチャーは「おもしろかった」だの、「感動した」などの感想だけで十分だろうし、鑑賞時に楽しめればそれでいいと思ってきたから、それ以上の言語化や分析はなされることはなかったのだろう。

 だけどやっぱりこれだけでは不足感がのこるし、自分の感情や思考をつくってきたと思われるサブ・カルチャーを言語化したり、相対化できないのは、ある意味では損失だろう。もしかして私は子どものころに見たこれらのサブ・カルチャーによって無意識に操縦されているかもしれないし、それに呪縛されているかもしれないのである。

 とはいえ、サブ・カルチャーを分析するのはむずかしい。そういう本があまりないのもあるし、分析するには資料もかなり必要となるし、これまで数冊の関連書を読んでみたが、魅力的な分析手法を見出せたわけではない。やみくもにむかし見たサブ・カルチャーの感想文でも書くしかないのか。記憶もない。

 TVドラマなんか時代の関連で捉えてみたい気がする。私はよくTVドラマは見るのだが、もっと時代とか社会のかかわりで捉えた分析を知りたいとぼんやりと思っていた。また、子どものころに見た特撮とかロボットマンガなんかの意味やメッセージも改めて読み解きたい気もする。

 まあ、たぶん、失敗する前に飽きちゃってしまっているかもしれないな〜。オソマツ。





   「保険」と「仕事」はほんとうに必要なのか     01/1/9.


 単純に考えれば、保険というものはものすごくもったいない気がする。たとえば健康保険なんて医者に行かなければ、ほとんど金を捨てているようなものだ。医者に行くたびに金を払う方がよほどお得な気がする。

 私はこういう発想をするのだが、世間一般の人は当たり前のように保険をかける。どうもそれが私にはわからない。将来の不安とか心配をあまりにも恐れ過ぎているというか、真に考え過ぎているというか、洗脳され過ぎているんじゃないかとも思ったりする。

 「もしも」のときの発想があまりにも強固というか、現実視し過ぎている感がする。たしかになにか悪いことが起こってしまえば後の祭りになってしまうが、先々から心配し過ぎるのもまた問題に思う。あまりにも将来や先々の心配に凍りつき過ぎている。

 現代人の特徴というのは、将来や老後の不安がばりばりに強く、頑ななことである。あたかも目の前に現存するかのごとく、若者でさえ、老後のことを心配している。こういう発想法の若者ってなんだろうかと思う。

 人類はもともとこういう将来の不安をいつも強くもっていたものなのか、それとも社会主義や福祉国家ができたがゆえに追加された不安なのだろうか。何十年も先の保障ができあがったがゆえに、それまでなかった未来という恐れがリアリティのあるものとなったのである。保障されることってほんとうによいことなのか、害悪をつけ足すだけなのか、わからなくなる。

 保険と同様、仕事につくという「当たり前」も私には疑わしい気がする。仕事なんて金が必要なときに必要な分だけ稼ぐのが妥当である。でもいまでは発想が逆になっていて、仕事があり、金があるから金をどう使うかという順序になっている。必要ではなく、はじめに「仕事ありき」なのである。そこに保険とか月々の支払いとかが絡まってきて、稼ぎの分だけ生活レベルは水増しになって釣り合いがとれるようになる。

 でも「何もすることがないから」仕事をやっているという人も多いみたいだ。与えられた時間の使い方に慣れてしまって、そのほかの時間や自由の使い方も発想もなくなってしまっている。発想の出発点がどうも根本的なこととか必要性という基礎の部分をまったくかえりみられなくなってしまっているワケだ。

 いまある社会の習慣や常識に染められてしまって、自動機械のようになり、まったく基本的な発想や疑問が欠如しているのである。生活の基本や基礎からラディカルに発想し直す必要が、われわれにはあるのではないかと思う。えらく無駄で徒労な生活習慣にハマっているという次第である。





    「虚構」なのに「虚構」を愛す     01/1/11.


 映画とかドラマは当然のように虚構である。どこにも存在しない、ウソっぱちの、つくりごとである。しかしわれわれは好きな映画やドラマにものすごく思い入れを強くしたり、没入したり、人生の一大事のごとく一喜一憂したり、深く強く愛したりする。「絵空事」であるはずなのに、人生のなによりも大切で重要なものになったりする。

 ある時期に虚構を虚構として茶化す転機がやってくる。たとえばドラマのNG集を放映したり、アイドル歌手が誕生するさまやオーディションを見せるようになる。プロレスでいえば、プロレスは八百長か真剣勝負かという問題より、八百長なら八百長であることをもっと楽しもうというようになる。(稲増龍夫『アイドル工学』ちくま文庫)

 虚構があまりにも強烈で現実味を帯びた時期があったのだろう。虚構を真剣に現実のように相対する時期である。たとえば、私に思い浮かぶのは力道山とか熱血学園もののドラマとか「赤いシリーズ」のドラマである。これらはあまりにも真剣に本気になって熱中されたもののように私の印象にはある。『あしたのジョー』の力石徹の葬式が行われたこともあった。

 そういう虚構への深い思い入れの時期から、虚構を軽く楽しむという時代に変わってきた。虚構に入れあげ過ぎるのはダサイ、もっといえば「アブナイ」と感じられるようになってきたのだろう。フィクションを外側から虚構として楽しめない人は敬遠したいという雰囲気になった。

 といっても人間は虚構が好きである。虚構に思い入れし、虚構に一喜一憂し、感動したり、涙を流したりするのが大好きである。それがどこにも存在しない、つくりごとの、ウソっぱちの物語であるとわかっていても、その気持ちを抑えることができない。

 われわれの頭のなかは虚構だらけである。映画にドラマに小説にゲームにマンガに音楽、すべてどこにも存在しない虚構ばかりである。私の記憶にある物語りたちはほとんどどこにも存在しなかった虚構であるということを考えてみれば、たいそうおかしな話である。捏造され、偽造された物語ばかりが頭のなかにあるワケである。霞みたいな記憶でいっぱいである。

 このおかしな状態はいったいどういうことなんだろう? 現実にあったことでも、事実としてあったわけでもない虚構の物語ばかりが私の頭のなかに山のように埋め込まれている。

 虚構の物語の効用はひとりの人生では体験できないさまざまな感情や思いを体験させることである。または思いや考え方といったものを新しく教えるものである。さまざまな人の人生や考え方や思いを、デパートのように集めて、たくさんの知識や感情として個人の知見に追加させてゆく。いわば人生の仮想売買である。そうすることによって、個人はますます知識を増やし、賢明な知恵を手に入れ、または細やかな感情や気配りをもてるようになる。

 思わず虚構を称揚する言葉がついて出てしまったが、虚構は虚構という、どうしようもない絵空事である。人間はどうしてこう虚構ばかりに囲まれてしまうのだろう。

 人間は虚構としかこの現実や物事を認識できない。われわれが知っている現実というのも、じつは「虚構」でしか捉え得ないものである。事実というのは、言葉になった時点ですでにもう「虚構」のものになっている。だからこそ、われわれは虚構の「レッスン」を施すのである。つくりものの虚構によって、われわれは虚構による現実認識のウデを磨くというワケである。

 しかし、虚構というのは空っぽの、すかすかの、まったくどこにも存在しないものである。





    「老後恐怖症」の洗脳と拡大    01/1/14.


 あえて「老後恐怖症」と意地悪に命名させてもらおう、なんでも「ビョーキ」にしたがる心理学者みたいに。

 われわれはみんな「老後恐怖症」にかかっている。就職や結婚をすすめるさい、だれもが「老後はどうするんだ」とか「老後一人はさみしい」だとかいって、不安からそれらを強制する。十代や二十代の若者からして、あと三十年も四十年も先の老後から現在の選択を迫られているのである。かなりイジョ〜でビョ〜的な事態である。

 たしかにこれはしごくもっともな「心配」かもしれない。「現実」に懸念されるものである。現実には存在しないと思われる恐怖に囚われる「恐怖症」の範疇とは違うものかもしれない。

 しかし何十年も先のことがだれにも予測できないように、老後のことも予測できるわけがない。目の前に現存する不安や心配と違うことからして、過剰でオーバーな恐怖ともいえる。

 これまでは「予定調和」の時代だった。学校を卒業して就職して課長部長と出世して定年退職を迎えるといった人生が、ある程度無難に送れると予測できた時代だ。だからいまの若者も人生のはじめから老後と現在をセットにする考え方を植え込まれていた。

 未来や将来から逆算する人生計画が当たり前のようにわれわれの頭に根づいた。これは国民年金や企業年金、健康保険などの老後保障が生まれたときからあったせいである。

 むかしの日本人や現在の世界の大半の人々は「今日食うや食わず」の生活をしており、明日の心配や保障なんかできないのが当たり前だった。

 200年前の産業革命、100年前のマルクス主義から事情は変わる。国家や企業が老後を保障するという思想と制度ができはじめる。人生は生誕のときから老後を守られ、計画されるものとなり、同時に人生は老後から束縛され、拘束されるものになった。

 食うや食わずの人に将来の保障がないわけではなかった。家族や親類、地域社会などの福祉があった。しかしその福祉を国家や企業が担うことにより、家族福祉は崩壊してゆくことになる。

 ソビエトでの社会主義が崩壊したようにこれから世界での社会主義的発想というものもどんどん崩壊してゆくものと思われる。ふたたび市場主義の発想に戻りつつあり、しかし豊かさは以前と比べて破格に高くなった時代であるが、エスカレート式の市場拡大が見込めた時代は終わろうとしている。

 このような時代の老後逆算の人生はどのような運命をこうむることになるのだろうか。生まれたときから老後を守られていた若者は、逆に老後から拘束される人生を嫌う者も増えてきた。

 計画人生はこのまま延長することができるのだろうか、それともどこかでぽっきりとハシゴを折られることになるのだろうか。老後保障は少子高齢化によって財政的に破綻しつつあるし、市場の変貌はかつての計画人生を不可能なものにしつつある。

 このような時代に老後から発想する人生はただの「老後恐怖症」で終わることになるのか、それとも堅実な人生計画としてまっとうできるのかは今のところわからない。

 ただ気分としては、現在を老後から発想する逆算法はどうもフツーではない気がする。人生は老後を守るためだけに存在しているというのはどうもおかしすぎる。





    SFのベクトル、歴史のベクトル     01/1/16.


 十代のころ私はSF映画ばかり観ていたのだが、なぜ歴史ものではなくて、未来に興味が向ったのだろうかとつねづね思ってきた。答えが見出せたわけでもないし、なぜかそれを考えた文章を見かけたこともないけど、とりあえず考えてみたい。

 かんたんにいってしまえば、未来は「希望」であり、歴史は「郷愁」であるといえるかもしれない。希望のある時に未来は夢見られ、郷愁のある時に歴史にいざなわれる。

 といっても、SFの未来は必ずしもバラ色ではなく、かなりペシミスティックなものが多かった。「絶望」といってもよかった。絶望から現在は反省されるといった類が多かった。

 よく考えれば、私はSFの「異質なもの」に魅かれていたと思う。異質な世界にひきこまれるのがたまらなく好きだった。異質な世界に触れる衝撃というものが、子どものころだれもが感じていたこの世界の違和感と似ていたのだろう。

 それに比べて時代劇というのはダサさしか感じさせなかった。なんでこんな泥臭く、イナカっぽいものに人は魅かれるのかてんで信じられなかった。

 時代劇というのはだいたい江戸時代か戦国時代の話が多い。サラリーマンが戦国武将の活躍に自分を重ねる誇大妄想が大方だろうと私は見ている。これは歴史の物語なんかではなくて、まさに現代の「出世」物語であり、いささか誇大じみたサラリーマンの思い違いとヒロイックな妄想である。

 偉人や評価される人物というのは過去にしか生まれない。未来の偉人、これから生み出される偉人は、現代人には想像できない範疇だからこそ偉人になる。だから賞賛され、評価されるヒーローや偉人は歴史に範を垂れるというわけである。

 時代劇のベクトルというのはサラリーマンの名誉欲や出世欲から生み出されたものだといえるかもしれない。

 未来は異質性へのベクトル、歴史は評価欲のベクトルが原動力となっていると一応まとめることができた。

 時代劇ばかり批判したので公平を期すと、SFというのは現実への拒否や逃避をその原動力としているといえる。現実社会を拒否したり、批判したりするまなざしを増強するものである。

 それは科学技術や変革の精神をも生み出すが、逆にいうと、「後ろ向き」の発想でもある。現実を肯定できない精神というのは、ほんとうは未来とよばれるべきものなんかではなくて、現実の拒絶や逃避とよべるものである。

 未来のベクトルというのは、「現実の拒絶」といったほうがよいのかもしれない。未来とよばれているが、後ろ向きの発想ゆえに「過去」とよぶべきなのだろうか。

 SFも歴史ものも、じつは未来や歴史が問題となっているのではない。現在こそが問題であり、まさに現時点の物語である。未来や歴史なんてものは存在しない。現在の欲望の延長があり、現在の意識があるだけであり、果たされていない現在の願望があるだけである。そして未来や歴史の「仮構」へと向う精神のベクトルがあるだけである。

 精神の志向が未来や歴史を虚妄するだけである。「ここではないどこか」「いまの自分ではない自分」という不満が虚構の物語を仮構するのである。現在をすっかり充足しきった者には未来も過去の物語も必要としないのかもしれない。



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