つぶやき断想集
天空と微小な世界




   トップ・ブランドの崩壊   00/7/13.


 雪印が食中毒をおこしたり、そごうが倒産したりとたいへんなことになっている。大きな会社であるとか、有名な会社だから大丈夫だ、安心だなというステレオタイプな言い方ができなくなって、私としてはこれが当たり前なんだと思う。

 そごうは借金棒引きだとか国に助けてもらうだとか信じられないことをいって、国民から猛反発をくらって倒産した。これが通ったら、ほんと「社会主義国」に逆戻りだ。

 どんなデカい会社も売れなくなったら倒産するというのが市場の常識というものだ。大企業もあっさりと倒れていって、日本の人たちもこれが市場主義だとわかるようになると、逆に自分の力で生きていこうとか、活気盛んになるんじゃないかと思う。

 会社に頼ろうとか、会社にきちんとまじめに勤めるのがエライというような社会主義的な勤勉な人生観も、そのような時代になって崩れてゆくのだと思う。それが会社主義社会からの自由というものである。

 雪印食中毒についてだが、企業とか社員とかの仕事に対するモラル・ハザードがかなりおこっているみたいである。勤勉観とか職業観のゆるみや弛緩といったものが、この事件の根底にあるのだろう。

 仕事がカネであるとか、世間体だとか、社会的地位だとかで測られてきたこの国では、とうぜん仕事自体に対する責任とか忠誠といったものは失われる。労働や仕事の意味づけや哲学がしっかりなければ、これからもかなりヤバくなる一方だろう。

 雪印工場の仕事のズサンさはリストラとかアウトソーシングとかも関係あるのかもしれない。だいたい大きな企業は下請けなどにほとんどの業務を任せていたりするから、私もそういうところで一度働いていたことがあるが、なんだかものすごく頼りなく、スカスカな感じがしたが、雪印工場もそんな雰囲気になっていたのだろうか。

 大阪ではO-157とか食中毒が多くなっているが、仕事自体のゆるみもあると思うが、細菌の力も巻き戻してきたというのもあるのだろうか。ネズミやゴキブリの繁殖力みたいなものである。逆によけいに強力になって帰ってきたのかもしれない。あるいは人間の免疫力が落ちたのかもしれない。

 まあ、いろいろたいへんな時代であるが、一昔前の会社中心社会が崩れ去ってゆくのは、個人的にはたいへん「まとも」な時代がやってきたと、私はほくそえんでいる。





   経済システムに合致した生き方       00/7/17.


 社会が必要とする仕事と、人々が生きたいと思う人生観や目標はかならずしも一致するわけではないと思う。

 世の中にはたくさん仕事の種類があるが、そういう社会の要請に合致した職業だけに、人の人生がうまく収まりきるとは思わない。

 人生の目標ややりたいことは多様である。しかし経済システムというのはある一定の職業しかない。かならずしも人々のすべてがこの経済システムに合致する生き方に魅力を感じるわけではない。

 商売や市場経済というのは、人々の生き方を社会の市場が必要とするサービスや業務だけに限定させようとする。つまり経済や市場が要請する職種だけに人生は限られてしまうのである。

 私にはおおかたの職業がつまらないように思える。果物を売ったり、パンを売ったり、機械をつくったり、そういう職業的な人生というのは、ほんとうに人生の目標なのかと思う。

 だから私は社会の要請にこたえた仕事になかなか合致することができず、遍歴をくりかえすことになる。社会が必要とする仕事と、私が目標とする人生と、どうもうまくマッチしないのである。

 といっても貨幣経済のなかではとうぜんカネを稼がなければメシを食えない。むりやり社会が要請する仕事につき、習熟してゆくことが必要になる。

 たいていの人は社会の要請に合致した職業人生観をつくりだしてゆくようである。だけど私はいつまでもたっても社会の要請に合せよう、スキルをつけてゆこうという真剣な気持ちになれない。

 思考の順序が逆なのである。ふつうの人は社会の要請から人生の目標をはめこんでゆこうとするのだが、私のばあいは自分の目標から社会の要請を探そうとしている。そして見つからない。

 まあたいがいの人は社会にあわせるべきだというだろうが、定職を決めかねるフリーターが増えているように、市場が必要とする職業に人生をはめこむ生き方を嫌っている人が増えている。

 人生は必ずしも社会が必要とする職業だけに限定される生き方がよいとは限らないだろう。社会の需要に要請される生き方だけが人生だというのはちょっとおかしい。

 経済を中心に、至上に考える社会というのは、多様な人間の生を職業の生だけに限定してしまう社会である。

 人間は職業のみに生きるべきか。やっぱり心の奥深くでそういう人生は違うと私は思っている。






   「実在」しない物質世界     00/7/17.


 ミクロの電子というのはひじょうに奇妙なふるまいをする。電子は粒子でもあり、波でもあるのだが、たとえばひとつの箱に入れて中を区切ったとしたら、波の性質をもっていたら両方の区切りにのこるはずなのだが、人が箱をのぞいてみると、一方だけに粒子としてのこってしまう。

 人が観察してはじめて電子は物体としてまとまるのである。量子力学のミステリーである。

 波が一瞬にして粒になるというのは日常世界ではありえないことである。風や水の波が人間が見るたびに固体化するということはありえない。

 しかしミクロの原理が日常世界も貫徹しているはずだと考えるのなら、この世界の山や川もふだんは波動の性質をもっており、定まらなく、人間が見ると、ぱっと物質として存在することになる。

 日常の感覚ではまったく理解できないことだが、量子の世界ではそういう事実が観測されているのである。この世界の物質というのは人間が見てはじめて実在の姿をもつというわけである。

 われわれの常識では理解できないが、仏教では古来いってきたことである。「一切の現象は心が妄りにはたらくことから生じる」、「一切の形あるものは本来、心にほかならないから、外界の物質的存在は真実には存在しない」(『大乗起信論』)

 心が見るからこの物質世界は存在するというのである。この世界はだれも見ていないのなら、実在していないというわけだ。

 しかし量子力学や仏教がいくらそんなことを真実だといってきたとしても、ふつうの人間にはそんな理解が実感できるわけがない。物質は物質としてこのとおり実在しているし、人が見ていないあいだは実在していないなんてまったく理解できないのが当たり前だというものだ。

 ミクロの世界と人間レベルの世界はどうやってつながるのだろうか。人間はミクロの世界を見ることができるのだろうか、そしてそれを見たとき、悟りや神秘体験がおこるのだろうか。

 粒子としてまとまらない、ミクロの波の状態を、覚者がやってきたように、人間はどうやって認識できるというのだろうか。


 (参考文献としてかなりアヤシイですが、コンノケンイチ『死後の世界を突きとめた量子力学』(徳間書店)をもちいました。このくらい大ゲサに論理を飛躍してくれたほうがわかりやすい。)





   知覚がつくりだした物質世界     00/7/19.


 ミクロの世界を語った量子力学のことはまだまだわからないが、このジャンルでは観測者が物質の位置や存在をつくりだし、また物質の実体は十万分の一のスケスケのすき間だらけだということである。

 物体というのは人間の知覚がつくりだしたものということになる。人間が知覚する前は粒子やら電子やらが超高速で回転しているそうで、人間が知覚すると物体として位置や存在が定まるそうである。

 まあ人間は生命としてとうぜんまわりの世界を知覚しなければ生きてゆけない。ということで、スケスケの空っぽのものでも物質と知覚しなければならないし、動き回るものでも固定して、物体として存在していると見なしたほうが好都合のはずである。

 生存のために知覚世界は物体として創造されなければならなかったわけだ。ただ人間を長くやっていると、とうぜんこの物質世界は自分の知覚がつくりだした似像であるということにはまず思いいたらないことだろう。

 人間の知覚機能がつくりだしているというは思いもつかず、世界のありようは目に見えるとおりのもの以外ありえないと思い込むことになるだろう。知覚世界を「創造」しているというステップは人間には必要ないからだ。創造され、識別された世界があれば、生存は事足れるからだ。

 ただ人間によって創造される知覚以前の世界を、人間は認識できるかというと、ひたすら難しいことだろう。宗教者はそれを可能だとしてきたが、どういう通路でそれが可能になるのかはまったく不可解だ。

 まあこの世界は自分の知覚機能がつくりだした虚像であり、信用しないことを忘れないことが肝要なのだろう。これを世界「そのもの」だとは思ってはならない。あくまでも自分の目と意識の知覚機能がつくりだした像であると見なすことが必要なのだろう。

 言葉や思考で捉えた物事が絶対的な現実だと思っていたときにはそれが「虚構」や「解釈」であるということがわからなかったように、この知覚世界も同様のあやまちに陥っているのだろう。

 しかし知覚世界が虚像であるとわかるようになるのはいつのことやら。。。





   スカスカの物質と「空」      00/7/20.


 どんな物質も実体は十万分の一以下のスケスケのすき間だらけだと量子力学ではいっている。

 たとえばふつうのスケールでいえば、原子核をフットボールと見立てて東京駅におくと、電子はパチンコ玉の大きさで小田原くらいをぐるぐる回っているということである。(コンノケンイチ『死後の世界を突きとめた量子力学』から)

 物質というのは超ミクロの世界では超スカスカなのである。チョ〜信じられ〜な〜い。

 しかしわれわれの目には物体は物体として強固に見えるし、てんでスカスカには見えない。

 ミクロの世界と日常の世界はどうつながるのだろうか。この間のところは、量子力学ではどう説明しているのだろうか。

 このスカスカの物体は仏教でいう「空」とひじょうに似ている。ただ仏教では縁起の関係から空を説いているから、物体自体を空っぽであるといっているわけではないと私は理解しているが。

 量子力学および超ミクロの世界というのはたしかに仏教がのべている世界のありようとほんとにオーバーラップするところがある。

 スカスカの空っぽもそうだし、量子は波の状態から観察すると粒子(物体)になるという性質は、唯識がいうこの世界は心がつくりだしたものであるということと同じであるし、量子力学の多世界解釈は、仏教でも無数の世界が毛筋の先にあるとかいっていることと重なる。

 短絡的に、だから先端科学と仏教は同じであるという結論に容易にとびつきたくないが、仏教僧はこの超ミクロの世界を語っていたのだろうか。

 それにしても、どうして、なんでと思うが、私にわかるわけがない! 量子力学の世界についてもほとんど知らないから、もっと本を読まなければならない。いまの私には何ともいえない。





    「生命保険」という発想      00/7/23.SUN.


 またもや奈良でわが子を毒殺するという保険金殺人が発覚したが、和歌山、埼玉、長崎とたてつづけにおこり、これはこのほかにも全国で数多く人知れず同じ事件がおこっていると考えざるをえないというものだ。

 これは犯人が異常というより、生命保険という発想そのものの性質ではないのかと思う。 生命保険というのは素朴に考えてみたら、ものすごくザンコクで恐ろしい発想を含んでいる。

 人が死んだら、かんたんには手に入らない大金が手に入るのだ。「いっそダンナが死んでくれればいい」、「死ねば大金だ」、という発想に転嫁しないわけがない。

 こういう商売がごく一般にふつうにまかり通っているということ自体が、私には不謹慎や非倫理的ではないかと前々から思ってきた。まわりの人がふつうに生命保険に入ることがどうも私には解せなかった。

 ひとつの生命が大金に化けるのである。だれかが死ぬことがめったに得られない大金というごほうびと引き換えになるのだ。これでは「死ね」「殺してやる」という悪意と表裏一体にならざるをえない。

 臓器売買や児童売買に似ているといえなくもない。これらは「悪いこと」や「犯罪」であるという認識が現在ではあるが、生命自体が賭される保険には「悪」や「犯罪」という認識はないようだ。

 たしかに信頼しあった家族や急死したさいの思いやる気持ちというものがあれば、生命保険はよいことなんだろう。しかしそれは昨今の経済苦のなかで保険金めあてによる自殺が増加しているように生命よりカネや責任を尊重する傾向をもうみだしている。

 経済不況のなかでこの国の本質が露呈したというわけだ。生命よりカネが尊重されるという、この国の実質である。

 保険金殺人が発覚するたび、マスコミは犯人像を報道するが、あまり保険自体が問われた意見を聞くことはない。保険会社は巨大な権力や既得権益になっているからだろうか。

 ひじょうに素朴な考え、子どもみたいに考えれば、生命保険という発想はものすごく恐ろしいことのように思えるが、世間一般の人たちはどう考えているのだろうか。





   自然科学の知のありよう       00/7/23.


 さいきん量子力学とか宇宙論などの自然科学の本を読んでいるが、なぜこんなことを考えているのだろうかとか、数式になんの意味があるのかとわからないことが多い。

 だいたい私の頭は心理学とか社会学に適した嗜好をもっている。このジャンルの本は興味も強く、割合すらすらと頭の中に入ってくる。このジャンルの学者たちが問題にし、テーマにし、知ろうとしていることの方向性もよく理解できる。

 しかし自然科学の学者たちが知ろうとしていること、記述しようとしていること、数式で解こうとしていることの意味がよくわからない。

 基本的に私はこの世界とはなんなのか、この世界や数学の世界はどうなっているのかという鋭くて、深い興味をもっていない。ということはあまりこの世界自体にたいする違和感とか不思議に思う気持ち、ナゾを解きたいという気持ちが強くないのだろう。逆に心理とか社会にたいしてはそういう不安定さが強いといえるけど。

 私も以前は生物や古生物、宇宙などに興味をもっていた。しかしそういう興味をもってしても、自然科学が記述する言説にどうも興味を覚えない。

 私の興味と科学の分析される知の方向性がどうも違う。私は論理的・分析的・数学的にこの世界のありようを知りたいのではなく、そういう知を欲しているのではないようだ。

 たぶん私はどんな知にも人間自身のすがたや心を見出したいと思っているのだろう。生物や古生物にはやっぱり人間の優劣やら価値やらあり方を見出すことができる。つまり投影された人間の社会を、そういった知のなかに見出したかったのだろう。

 だから人間的な要素がまったくない自然科学にはどうも興味を覚えないというわけだ。私はいたるところに人間の匂いを探しているのかもしれない。自然科学や数学はあまりにも「人間的」ではない。

 ただ深く興味や疑問を覚えないかもしれないが、しばらくは自然科学について本を読んでみようと思っている。自然や世界のありようを知らないことにはやっぱり人間についてもわからない。読んでいるうちに興味や疑問がたくさん噴出してくる可能性もあるし、科学的言説に慣れるうちに科学の醍醐味もわかってくるかもしれない。




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   宇宙が存在する不思議   00/7/24.    


 野本陽代『ハッブル望遠鏡が見た宇宙』(岩波新書)を読んだ。

 ハッブル望遠鏡がうつしだす宇宙のすがたは驚くほどカラフルで、きれいであり、摩訶不思議である。夜空に見える点にしか見えない星が拡大されると、こんな異様で不思議な様相をしているなんて驚くばかりだ。

 しかし私の興味は子どものころのように素朴で好奇心満々というわけにはいかない。歳をとったのだろう。あるいは非日常的な想像力が枯渇しかかっているのだろう。日常や世俗に囚われて、こういう不思議がわれわれの天空に常にあることをすっかり忘れている。

 われわれの頭の上にはこんな不思議で壮大な世界がひろがっているのだ。しかしわれわれは世俗やカネや当たり前の毎日にとらわれて、不思議や謎は自分たちの世界にはないような顔をして暮らしている。

 こんな不可思議な宇宙が眼前にありながら、科学であるとか、非科学であるとか、オカルトであるとか、宗教であるとか、そういう分け方や断罪をしてしまって、なんてつまらないことをしているのかと思う。

 宇宙に目を転じてみると、わからないことだらけだ。てんで日常の常識や理解がおよばない世界がわれわれの世界を覆っており、また宇宙の大きさからすれば、われわれの世界は大海の微生物にもおよばない。

 宇宙がほんとうにわかるようになることはおそらくないだろう。いちばん近いアンドロメダ銀河でも光速で220万年もかかるのだから、人類はじっさいにそこに行って、知ることはできないだろう。

 宇宙は永遠に謎だろう。しかしわれわれはこの謎である宇宙とともに存在している。目的も理由もわからないまま、宇宙もわれわれも存在している。

 宇宙が存在していること自体がひじょうに不思議だ。世界があるということが不思議だ。世界があるということは、たとえ人類にはわからないかもしれないが、宇宙にはてがあったり、起源があったり、またその外に世界があるということになる。確実ななにかがあるはずである。でないと存在はできないだろう。

 われわれは絶望的なまでに不可思議な宇宙に囲まれていること、このことを忘れるべきではないのだろう。自明性や常識、当たり前などに縛られて、精神が枯渇する前にそのことを思い出すべきである。





   言葉が「世界」をつくるということ     00/7/26.


 ふだんのなにげないひとことでも、「世界」をつくってしまう。攻撃的な言葉を吐けば世界は攻撃的なものになるし、悲しい言葉をいうと悲しい世界になってしまうし、ネガティヴな言葉ではネガティヴな世界になってしまう。

 言葉は世界を集約してしまう。あるいは限定してしまう。なにも意味がなかったり、なんでもないことであっても、世界をつくりあげてしまう。

 言葉や解釈をもたなかったら、そこにはなんの意味もないし、世界もない。

 しかしたったひとことの言葉で、私の世界は意味づけられてしまう。そしてそれが私の「それしかない世界」になってしまう。

 「サピア=ウォーフの仮説」という言語学の説があるが、これは言語によって認識する世界が違うという説である。たとえばエスキモーの言語をつかう人と日本語を話す人では認識する世界が違うということである。

 この仮説は外国語間だけに通用するのではなくて、個人間にも通用するものだと思う。個人個人も同じ言語をつかっていても、ふだん話す言葉やひごろ考えているパターンや習慣によって、認識する世界はまったく違ったものとなるだろう。

 こう考えると、悩んだり、激昂したり、ヤケになったり、煮詰まったりする人というのは、自分自身がつくりだした言葉によって、そういう状態に追い込まれていると見なしたほうがよい。

 自分自身がつくりだした言葉によって追い込まれたり、我慢ならない状態になったりしているのである。まったくヒドイ状態である。

 言葉によって世界をつくりだしているのも自分であるし、怒りや悲しみに煮えくり返させるのも自分なのである。

 言葉で言ったり、考えたりすることが、「解釈」にすぎなく、「絶対」でもなく、ひとつの「見解」であるということに気づかないでいると、エライ過ちを犯してしまう。そしてそういう世界をつくりだしているのも、「自分の言葉」であることに気づかないと、自らを自らムチうつ愚かな過ちにおちいってしまう。

 言葉というものを甘く見てはならない。何気ない言葉でも私の世界と環境を決定づけてしまうものなのである。





   過去である星空        00/7/28.


 夜空の星というのはほとんど過去のすがたである。光が届くのは有限であり、われわれが見る星の光は何万年も何千万年も前の光である。

 夜空には過去が混在しているとはふしぎなことである。大昔や太古が現在に混在しているのである。

 太陽の光すら8分20秒ほどかかっている。われわれは過去の太陽の光しか見ることができない。

 しかしこの地球上では、光の秒速は30万キロメートルなので、地球を七回り半するほどの速さだから、時差ができるということはない。

 だから光に視覚をたよる人間は過去の姿を見ることはないのだが、宇宙のスケールでは過去のすがたを現在みるという奇妙なことがおこることになる。

 音はTVの衛星中継でしょっちゅうあるように地球上でも時差がある。カミナリなんていうのも、稲光と落ちる音に時差がある。

 もし光が音のように遅く、この地球上でも時差ができるようだったら、どうなっていただろう。すぐ間近の距離でも光の時差があったとしたら、われわれは過去の歩く人や動く人を、現在のすがたとして見ることになるだろう。

 いま目の前を歩いている人が数秒、数分間前のすがたであるとはなんとも奇妙なことである。触ったり、ぶつかったりして、はじめてそれが幻であることに気づいたりなんかしたら、ひじょ〜にブキミなことである。

 われわれは光でものを見ているわけだが、光というのは決して絶対的な時間をさししめすのではない。距離がものすごく離れれば、過去のすがたを現在みることになってしまう。また現在のすがたは未来にしか見ることができなくなってしまう。

 もうこうなったらめちゃめちゃである。車にひかれた私は何分後かにやっと視覚にあらわれ、当の本人はとっくに成仏していたなんていうことにもなりかねない。

 光というのは現在だけをうつすのではない。写真や映像も過去である。光で見える世界を絶対的な現在であると見なすことはできない。光の世界では過去も現在も混在できるのである。





    電磁波が目に見えるということ      00/8/1.


 光というのは電磁波の一種である。電磁波にはその可視光のほかに紫外線とか赤外線、X線などがあるが、電波も含まれる。

 フシギである。目に見える光が、波長をもっと長くすれば、耳で聞くことのできる電波になるのである。同じ電磁波という波動が光になったり、ラジオになったりするのである。

 われわれが見たりする視覚や聴いたりする聴覚というのは電磁波や波動というのはよくわからない。どういうこっちゃなんだろう?

 この電磁波の波動の長短により色彩ができる。より短いものから紫、青、緑……となってゆき、長いものから赤、だいだい色、黄色となってゆく。

 可視光より短い波長は「紫」外線となり、長い波長は「赤」外線となる。波長の長短により色が決まるとは変な話だ。

 モノの色というのは、目に見える色以外は吸収されているということだ。吸収されない波長の色を見ていることになる。

 水が青く見えるのは波長の短い青のほうが、長い赤より錯乱されるからということだ。

 なんだか、もっと掘り下げてみないとよくわからないが、ちょっと光と色について興味をもったので、桜井邦朋の『自然の中の光と色』(中公新書)からいろいろ抜書きさせてもらった。






   しばらく自然科学しま〜す      00/8/1.


 これからちょっと自然科学系の本を読んでいこうと思っている。このジャンルはいままであまり興味もなく、さして知りたいとも思わなかったが、仏教の『華厳経』の世界観に触発されて、この物質界とはなんなのかという追究をしてみたくなった。

 しかし自然科学の本を読んでいると、めちゃくちゃ興味がひかれるというわけでもないし、すらすらと理解できるということもないし、数学が出てくるとまったくチンプンカンプンだ。

 でもなんとなく自然科学したい。物質やこの世界とはどんなものかという知識をのぞいてみたいのである。

 理解もあまり進まない。興味が強くひきつけられないということもあるが、だいたい私の頭は哲学のように疑問に疑問を重ねるような習慣をしているので、これが正解であるとか、正統であるといった知識をつきつけられても、実感や納得がともなわないと身につかないのである。

 やっぱり知識というのは実感や納得がないとだめだ。学校の教科書みたいにこれが「正解」だと知識を押しつけられても、実感や納得がなければ、てんでわかったという気持ちになれない。私にとってはその一点がひじょうに重要なのである。

 自然科学は説明はしてくれるけど、実感や納得はなかなかともなわない。自然科学の本を数冊読んだだけでは連関や全体的な展望が見えなかったりするから、よけい理解がともなわないということもあるのだと思う。

 哲学も同じだ。読みはじめのころはわからなかったことでも、のちのちになって哲学書をたくさん読んだあとではだいぶ理解ができるようになっていたりするようなものである。私には自然科学のジャンルはまだまだ最初の一歩なのである。

 それにしても私の興味というのはてんでひとつのジャンルにとどまっていないものである。十年前ほどは社会学や現代思想などに興味をもっていたが、そのあとにビジネス書を読みあさり、自己啓発書とか仏教とかにも触手を動かした。

 自分の興味あるものを読むのがいちばんだが、節操がないとか、一ジャンルに深く精通するということがないといえるし、興味をなくしたジャンルの醒め方もはなはだしい。

 まあ、知識というのはわかったり、理解してしまったら、おもしろくなくなったり、興味を失っするのはとうぜんなことである。知らなかったり、わからなかったりするから、知りたくなるからである。

 興味本位にまかせてきたから、かなり多くのジャンルに接することができたのもたしかである。興味あることをしていたら、結果的にいろいろなジャンルを知る事ができたのである。

 学生のとき、私は得意な科目しか理解が進まないタイプだったため、すべての科目ができるという人は信じられなかったが、私の場合は得意なジャンルからほかのジャンルにつながるという段階的な理解が必要だったのだろう。

 知識というのはこういうものかもしれない。興味あるものを掘り下げてゆくうちにほかのものにも連鎖的に興味を広げてゆくというわけである。いきなり最初から全科目を理解するというのは、むずかしいんじゃないだろうか。(人によっては違うだろうけど)

 まあ、ということでしばらく自然科学しま〜す。だけどこのジャンルは始めたばかりなので、なかなか文章を書くということがむずかしい。わからないことが多すぎるから、うかつにものを書けない。

 哲学みたいに正解とか正統な見解とかを気にせずに、縛られずに、自由に書けないのが窮屈である。そういう点ではおもしろみがないといえる。でも疑問や好奇心が知識にはいちばん大事なので、まちがっていることでも、理解できていないことでも、じゃんじゃん書いていこう!と思う。 スンマセン。




    植物と生命        00/8/2.


 ふと思ったのだけど、植物というのは人間のように自由に動き回れない。どこかに遊びにいったり、からだを自由に動きまわして楽しむということができない。

 人間が一般にもっている楽しみや喜びを植物はもっていない。

 なんのために生きているのだろうと思った。でもこれはもちろん人間から見た勝手な判断にしか過ぎないわけであるが。

 それでも植物はずっと生きつづけている。また生命なんていうのはやっぱりいつかこの宇宙の無限の時間のなかでは滅びてしまう可能性があるし、そのような運命が宿命づけられているとしたら、生命をつなげてゆく意味とはいったい何なのかと思った。

 生命をつなげていって、なんの意味があるのだろうか。

 べつに生命は意味や価値のためだけに生きているわけではないから文句をつけても仕方がないし、生命は生きつづけるだろうし、生命の無意味さを嘆くのは同じ生命としての人間にとってもあまりよい考えではない。

 生命はいま存在することに喜びを感じ、生命をつなげてゆくこと自体に意味があるのだとよいように捉えることにしよう。

 じつのところ、こういう疑問は対象としての植物の問題であるというよりか、そういう疑問を抱く自分自身の問題、心の投影ともいえるから、つつしむべきだろう。





    水と光と     00/8/4.


 水というのはとてもきれいだ。とくに川の水なんか見ているととても気持ちがなごむ。また水というのは不思議なものである。

 水それ自身は透明なものであり、光の反射と波の影が水のすがたをかたちづくっており、つかみどころがないものである。

 不思議なものであるが、見ているだけで気持ちがとても爽やかになる。また光のきらきらとした反射はすばらしいものであるし、水面がうつす地上のすがたもとてもきれいだ。

 さいきん水とはなにか、光とはなにかといった自然を考えているので、見れば見るほど不思議なものであり、身近なものでありながら、こんなにワケのわからないものであるとは思ってもみなかった。

 川の水の美しさを表現したいのだが、どうも私には詩的な賛美の表現ができないようである。またなぜ見ているだけで気持ちがよくなるのかもわからない。

 自然科学では水を原子とか粒子で構成されているとか説明されているが、どうもそういう説明がほしいのではない。自分でもどういうことが知りたいのかもわからないが、水の美しさや、それが何であるのかというのを知りたい。

 自然界に満ちあふれており、構成されている水と光とはいったいなんなのだろうかということを知ることができればいいのだが、しばらくはこれらを凝視してみたいと思う。





   サイエンス、知ってどうなる?        00/8/9.


 知識の理解を拒むものはけっして頭のよさ悪さではなくて、興味のあるなしだと思う。理解できないのは「そんなことを知ってどうなる?」、「なぜ知りたいかもわからない」といった端緒からつまづいている。

 さいきん私は量子力学とか物理学の本を読んでいるけど、つくづくそう思う。これらのサイエンス系の知識というのは、私にとっては「そういうものを追求して何になる?」、「なぜこんなことを知ろうとしているのかわからない」といった記述が多い。

 とうぜん理解はとどこおることになる。私の興味ある社会科学系の知識だって、ほかのふつうの人から見れば、「そんなことを知ってどうなる?」といった類の知識だろう。

 ふつうの人にとって学問知識というのは、学校を卒業してから「そんなことを知ってどうなる?」というレベルになる。理解できないのではなくて、理解したいと思う気持ちすらわからないという次元になる。

 「そういうことを知りたいと思う人の気が知れない」というわけだ。だから知識というのはある人たちにとってはバカにされるか、軽蔑されるものになる。知識というのはかならずしも賛美されたり、賞賛されたりするとは限らないものである。

 興味をつくりだすものはなんだろうか。これはかなり実存的な部分が関わっていると思う。生存の根本的な部分から興味や好奇心というのは発していると思う。

 文系の知識にひかれる人と理系の知識にひかれる人というのは、興味の根本的なところが違っている。情感にひかれることと論理・分析にひかれる違いだろうか。

 生きてゆく羅針盤やアンテナが違う方向に働くわけである。世界の掘りさげてゆく方向が違えば、興味のあるなしもかなり変わってゆく。

 物理学や量子力学といったものはこの世界はどうなっているのかということをとことん追究する学問である。私にはそういうこの世界のありように不思議さや謎、疑問をいだく興味のベクトルはすこし弱い。

 だからどうしてもこれらのジャンルの追究する知識の意味や価値が深くは理解できない。根本的な実存レベルの興味がないようなのである。

 といってもこの学問を知る意味はまったくないとは思わない。やっぱり私の興味ある人間や社会についても深くつながっている事柄である。そういう連関からこの世界を知らなければ人間や社会について知ることもできないだろう。

 私には自然科学にたいする深い興味はないかもしれないが、人間のことを知るにはこの世界のありようを知ることも欠かせない。こういう連関から、自然科学に興味をもち、追究することも大切だと思う。





    世間は盆休み       00/8/13.


 世間では盆休みということだが、私には休みがない。いまは食品関係の仕事についているからほぼ年中無休だ。

 世間の喧騒とはまったく断たれている。しかし私はこのほうが好きだ。帰省ラッシュだとか連休だとかレジャーだとかの騒乱に巻き込まれるのなんていやだからだ。

 ふつうの休みだって、土日曜日が休みよりか、平日休みのほうがいい。まわりの雰囲気にのまれるより、みんなが働いている平日の休みのほうがよっぽど気持ちがラクだ。

 土日休みというのはなんだか「遊ばなければならない」とか「ウキウキしなければならない」という雰囲気を感じてしまって、どうも好きに時間を過ごせない。

 平日休みはそういう雰囲気がまったくないから、自由気ままに時を過ごせる。山に登ったり、緑の公園で昼寝したり、まわりの町をサイクリングなんかしてとても気持ちいい。

 働いている人を横目にちょっといい気分を感じたりするのだが、でもまあこれは休みが終わったらすぐに逆転してしまうわけだが。

 電車はかなりすいている。盆に近づくれにつれ子ども連れの主婦や家族なんかよく見かけるようになったが、私も盆が休みだったら、ほかの人がそうであるように「出かけなければならない」というプレッシャーを感じているんだろうな。

 私にはいつもと変わらないただの通勤電車である。電車で本を読んで、いつもと同じように職場に出かけ、帰ってくるだけのSame Daysである。休みに感じるようなウキウキとか感情の揺れとかブレなんかまったく感じない機械的な通勤時間である。

 でもそっちのほうがいい。私も盆休みだったら、みんなと同じような休みのプレッシャーを感じてしまって、たぶんあまり楽しめないと思うのだ。

 いつもと変わらない毎日である。盆休みの喧騒なんかに巻き込まれたくなんかないから、いつもの毎日として過ぎてゆくほうが私にはいい。





    物理学はちょっとね。。。    00/8/14.


 量子力学とか宇宙論とかの物理学をさいきん読んでいたが、どうも貪るような好奇心もわかず、興味も失せてきた。

 このエッセイもおかげであまり書く題材を見つけられなかったし、考えたいというテーマもなかなか見つけられなかった。どうも物理学は私には合わないのかもしれない。

 もともとこれらの本を読もうと思ったのは、仏教の華厳の世界観を、現代的な科学観から探ろうとしたのだが、もちろん華厳をサイエンスから説明した本はない。(カプラの『タオ自然学』は近いといえるけど)

 興味の足場を量子力学が考えているテーマにうつそうと企てようともしたけど、興がわかなかった。どうも私は物理学が考えていることに強い興味をもてない頭のつくりをしている。

 量子力学の森で迷子になっているうちに、しぜんに華厳の世界観の興味のみではなく、知識欲自体も失せてきた。やっぱり自分の好きでない知識をあさろうとしても、私にはムリのようだ。

 自分の好みや趣味に忠実であったほうがいい。さもないと知的欲すら失せてしまう。

 量子力学だけではなく、ほかの生命科学やサイエンスにも触手をのばてみようと野望も抱いてみたのだが、そういう興味もいまは希薄になった。

 また自分の好きな心理学とか社会学とかに戻るほうがいいのだろう。でもいまはなにかを知りたい、ひとつのテーマを探りたいという気持ちがすっかりと失せてしまった。

 サイエンスの森で迷子になっているうちに知的欲の種すらどこかに落してしまったようだ。まあなにか漠然とおもむくままに本を読んでいるうちに興味あるテーマを見出せることだろう。

 う〜ん、物理学の壁は私には厚かった。。。 また再度、ちがった脈絡から興味をもてるようになればいいのだけれど。




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