つぶやき断想集
一滴のしずくの中の全宇宙




    道徳嫌いと宗教アレルギー     00/6/20.


 われわれが宗教家や慈善家の説く道徳をうさんくさく思ったり、信じられなかったりするのは、そういった道徳が支配の道具として利用されてきたからだ。キレイな道徳を説く輩は、その裏で人々を支配や利用しているに違いないとわれわれは思いこむ。

 善いことや人を悪く言わないことといった道徳は、一方では支配者にとってひじょうに都合のよい盲従者や従順な民衆をうみだす。道徳というのは支配者や権力者に都合よく貢献する支配のテクノロジーになってきたわけだ。戦時中の記憶もその反面教師となってきた。

 だからわれわれは人並み以上に善行をしたくなかったり、人を信じたくないと思ったり、道徳を説く宗教にアレルギーを感じたりして、そして人々は道徳を説くことをやめてアンチ・モラルでアノミーな社会をつくりだしてきた。

 反動としてはたしかにそのとおりだが、かといって道徳なき社会や人々がよい社会をつくれるとはとても思えない。ひじょうにむずかしいところだ。

 道徳や倫理が支配のテクノロジーとして利用されてきたのは不幸な歴史だ。「よいことをして」いたら、支配者に蹂躪されていたとは、だれもが道徳に不信をもつほかない。

 いまでは道徳を説く人は、人々を操り、支配する暴虐者と同義になった。これまでの歴史がそういう結果を招来させたのだ。道徳が支配のテクノロジーに利用されたのはものすごく残念なことだし、しかし道徳のなかには支配と服従のしくみが含まれているのは否めない。

 だが、かといってわれわれは道徳のすべてを捨て去るわけにはゆかない。道徳の教義が説かれなくなった社会はやはり人々は思いやりをもたず、ばらばらになり、したがって対立を増す。

 仏教やほかの宗教にも道徳というカーテンがなければ、ひじょうに鋭い哲学や心理学があることがわかるのだが、入り口の道徳によって人々はとびっきりの拒絶反応をおこしてしまう。

 また、宗教家が道徳的になれというのはじつは他人に思ったり、することはすべて自分の心の中のこと、すべて自分であるということだからなのだが、道徳嫌いの人にはこういうことが見えずに他人を嫌い、怒り、そのために自分を傷つけ、対立を深めているわけである。

 われわれはうち棄ててしまった道徳の中から、もう一度、支配と服従の道具に利用されない道徳を再発見してくる必要があるようである。

 道徳はエゴイズム観点からも自分のためにはよいものなのである。いきなり道徳を前面に出されると拒絶反応をおこすが、結果的にはよいものであるという説明が現代人には必要なのだろう。

 ただ支配と服従に利用されることは極力警戒するべきであり、その方法や予防策が確立されることが肝要なのだろう。





      道徳と暴虐     00/6/23.


 道徳的になれば、たいていの人は思いやりややさしさで返してくれる。しかし道徳的であることにつけこんで、悪意や暴虐の限りを尽くしてくる人もいる。

 いじめに見られるように怒らない人や弱いと見なされている人がそのターゲットになる。この中には道徳的な人も含まれるだろう。現代では道徳的な部分が狙われるのである。

 しかしこれはもちろん現代だけの問題ではなく、道徳的になろうとした人たちはそれを説く聖職者に利用されたり、支配されたりして、これに怒った人たちが近代という神なき時代を築いたといえるし、道徳的な国は他国の侵略にさらされただろうし、道徳というのは見方によっては弱さと愚鈍さをひきだしてくるようだ。

 宗教によって説かれた道徳は時の支配者や為政者にとって民衆を盲従させる都合のよいテクノロジーとなってきた。戦争中はお国のために死ねという道徳が説かれた。

 おかげでわれわれは道徳が大嫌いである。また道徳的であろうとすることはいじめられたり、利用・支配、搾取されることであり、弱くなったりバカを見ることになった。

 道徳と同義である宗教は、カネをむしりとられるか、頭を空っぽにした盲従者の巣窟であるとTVがしょっちゅう宣伝している。

 食うか食われるかである。なめられるか、なめるかである。いじめられるか、いじめるかである。世の中はこういうふうになってしまった。

 道徳的であることは、この強者と勝者の勝つ世の中では損な役割ばかり押しつけられる。

 道徳的・宗教的な人間はそれでもそれを忍耐の機会であるとか、忍苦の試しであるとかいう。どこまでも許し、水の流すのがよいことであり、それはたしかに心の平安には一理あるが、現代はこれにつけこんで増長する輩がうようよいる時代である。

 道徳的な人間はどこまで耐えられるか。だいたい現代では怒りや態度が、暴力や暴虐の節度や抑制をうながすひとつの境界となっている。つまり怒りを目印に節度が決まってくる。だからどこまでも許す人間は節度を相手に知らせないということになる。

 道徳はたしかに自分の心にはよい結果をもたらすし、道徳にみたされた社会はたしかにここちよいだろうが、道徳の指標だけでこの世を渡ってゆくことはできない。

 器用な使い分けが必要なときもあるのだろう。道徳のルールが利く人と利かない人には別種の対応が必要なのかもしれない。かならずしもすべての人を傷つけたくないとか、いやな思いをさせたくないという一本気な道徳は、残念ながら通用しないのだろう。

 怒りや言葉という看板を掲げなければならないときもある。社会のある人は、道徳ではなく、怒りや態度を目印に行動を決め、律している人もいる。道徳的にあるにこしたことはないが、通用しないときにそれなりの対応が必要なのだろう。





     『華厳経』の世界観       00/6/25.


 「一つの毛穴に、無数の仏の国が美しく飾られて永遠に存在している。……一つの微粒子の中に、一切の微粒子に等しい数の小さな国土がすべて入っている」

 「微小な世界が広大な世界であり、広大な世界が微小な世界であり、……一つの世界が無数の世界であり、無数の世界が一つの世界であり……」

 「長い劫が短い劫であり、短い劫が長い劫であり、……無量の劫が一瞬間であり、一瞬間が無量の劫であり、……」(木村清孝『華厳経をよむ』から)

 『華厳経』ではこのような壮大な世界観が説かれている。「一の中に多があり、多の中に一があり、一も多も互いに相入し合って無礙自在であり、しかも一は一であり、多は多であり、それぞれがその本来のあり方を保っている世界が説かれている。」(小林道憲『宗教をどう生きるか』)

 どういうこっちゃなんだろう? すごい世界観が語られているようなのだが、まったく理解に苦しむ。理解したくて『華厳経』関連の本を読むけど、まだまだてんで理解が足りない。

 こういう万物はつながり、融合し、連続し、相互連関し合い、ひとつにつながった世界のことを「事事無礙法界」という。このことを岡野守也は「区別はできるが、分離はできないひとつながりの世界」であるといっている。

 われわれのふつうの世界観というのはモノや私、肉体といった固体として独立、分離したものに囲まれていると思っているわけだが、世界のありようはこのようなものではないという。ひとつに溶け合った世界がほんとうのありようだという。

 まあたしかにまわりの環境や世界を離れて私は存在しないし、どんなモノもほかから独立してあるわけではない。だけどわれわれの実感としては個々のモノはばらばらに引き離されて存在しているように見えるというのがほんとうのところだ。

 このバターのように融け合った世界をどうやったら理解したり、実感したりすることができるのだろうか。まったく仏教の世界観や自我観というのは人騒がせだ。てんで理解できない知識をぶらさげておいて、つまりナゾをかけておいて、なかなか理解に至らしてくれない。

 でもこういう融け合った世界観というものを自分に実感させてゆくことはとても大事なことなのだろう。ばらばらに分けてしまうと、その断片にしがみついて、同じ自分の一部を責めたり、怒ったり、傷つけたりして、みずからを苦しめることになるのだ。

 世界をばらばらのパーツに分けてしまうこと、ひきちぎってしまうこと、こういう世界の見方というのは改めるべきなのだろう。

 われわれは宇宙の果てのことはわからないが、「もし宇宙の彼方がないとすれば、日常的な状況は存続し得ないし、もし宇宙の彼方がもち去られてしまったら、われわれの空間や幾何学的形状の概念は、いっさい意味をなさなくなる。

 われわれの日常の体験は、きわめて細かいところまで、雄大な宇宙と密接につながっており、両者が分離していると考えるのは、もはや不可能に近い」と天文学者のフレッド・ホイルはいっている。(カプラ『タオ自然学』)





    区別のない、ひとつに融けあった世界      00/6/27.


 こないだから『華厳経』のひとつに融けあった世界のことを実感しようと四苦八苦しているが、どうもなかなか実感にいたらない。融けあっているいくつかの例をむりやりひっぱりだしてくるしかない。

 まずは私が立ったり、座ったりするためには床や地面がないとそうすることはできないし、地面は地球のあらゆるところ、深部につながっているし、私というのは地面や地球の深部がないと存在しえない、切り離すことができないということができるだろう。

 私が生きるためにはとうぜん空気が必要になる。空気がない私は生きることができない。ゆえに空気は私であるといえる。空気は私の中に吸い込まれ、血液や栄養分となって私のからだにとって不可欠の要素となる。

 空気は植物のうみだす二酸化炭素によってつくられ、ゆえに植物は空気と分かれてあるのではないし、植物は光や太陽によって光合成をおこなうので、それらと切り離されて存在できるわけではないのでひとつであるし、この地球上の大気のなかには人間のつくった化学物質やガスなどが含まれ、ときには放射能などがまきちらされ、一体化した不可分のありようをかたちづくっている。

 宇宙の果てはわれわれには知りようがないが、それがなければわれわれも地球も存在することができない。ゆえにわれわれは宇宙の果てと切り離されて存在するわけではなく、ひとつである。

 空間的なことを考えてみたが、時間的にも同じことで、私が存在するには親や祖父母がいなければ私は生まれることはなかったし、たくさんの祖先がいなければ、とうぜんわたしはいなかった。私一人が独立して、孤立して、ひとりで生まれて死んでゆくわけではない。

 こんにちのわれわれの文明生活はたくさんの先人の発明や創造によってうみだされたものであり、かれらなしにこの生活を享受できているわけではない。歴史上のかれらとわれわれは一体である。そして未来の人たちも同様だろう。われわれがいなければ、われわれが生き、子孫を育てなければかれらは存在しえないだろう。

 われわれは現代、ひじょうに孤立した、独立したモノに囲まれ、ほかのコトから孤立したような生き方をしている。ひとつのモノや私はまわりから切り離され、孤立し、ほかとつながりがなく、溶け合っていないような捉え方・考え方をしている。

 融けあっていたり、つながりあっている世界観を伝えられても、にわかには実感しがたい。モノはモノでほかからまったく独立しているし、私は私で、ほかの人や出来事とまったく関係のないように思い込んでいる。

 しかし世界のどれひとつとして、まわりからまったく切り離されて、孤立して存在できるわけではない。すべては他方がなければ存在しえず、つながっており、ひとつであり、分離できないといえるだろう。

 ひとつに融けあった境地を知ることが仏教では悟りというが、こういうつながりあった、ひとつの世界を実感することはとても大事なことなのだろう。





    一滴のしずくの中の全宇宙?      00/6/30.


 やっぱりわからない。『華厳経』でいわれる一滴のしずくの中に全宇宙が含まれ、一瞬の中に永遠が含まれるという話である。

 たとえば、まわりのどんなモノを見たって全宇宙が含まれるようにとても思われない。境界はなく、すべてはつながっているとしても、わたしに見えるのは知覚の限られた範囲だけである。

 一瞬の中に永遠があるといったって、われわれはいまの一瞬を見るだけで、過去も未来も見ることができない。

 たしかに私が存在するのは祖先や親がずっと歴史上につながってきたから存在しているといえるから、私の中には過去の永劫の時間が凝縮されているとはいえるかもしれない。

 しかし私が知りうるのは生まれてこのかたの記憶だけであり、永遠の記憶は私には思い浮かばない。全宇宙なんてとんでもない話で、私が見たり聞いたりすることができる範囲は知覚の限られた範囲だけである。

 たしかにこの全世界がつながっているのなら、私の知覚できる範囲もこの全宇宙につながっており、その一端ではあるといえるが、私はやはり全宇宙を見ることも知ることもできない。

 『華厳経』や悟りの体験、神秘体験では全世界はつながっており、一体であり、全宇宙を見ることができるようなことをいっている。なぜそんなことが可能なのだろうか。

 これはとうぜん肉体のもつ知覚の範囲では捉えられない話である。知覚は一点の場所に釘づけられおり、それを中心にしてしか物事を知覚できない。人間にはこの知覚手段しかもちえないはずである。

 いったいどうやって世界との一体感を感じたり、全宇宙を知ることができるというのか。

 知覚には捉えられない世界を人間はほんとうに知ることができるのだろうか。記憶や知覚を超えた認識手段を人間はほんとうに蔵しているのだろうか。





    荘子の万物斉同説        00/7/2.


 華厳の世界観に似ているといえば、老荘思想である。荘子が説くところによれば、「かれ」という概念は「これ」から生じ、「これ」という概念は「かれ」という対立者から生まれ、たがいに依存しあい、これらはすべて相対的な対立にすきず、絶対的なものではないということである。

 こういう対立を消失した無差別の境地からみれば、「天地は一本の指であるといえるし、万物は一頭の馬であるともいえるのである」。(『老子・荘子』中公バックス)

    

 この境地からは有と無の差別さえ、その実在が疑わしいし、大小の差別など問題にならないという。

 「だから天下には、秋のけだものの毛さきの末より大きいものはなく、泰山は小さいものだとか、幼くて死んだ子どもがいちばん長生きをし、七百歳まで生きた彭祖は若死にをした、などという逆説も可能である」

 「さらにつきつめていえば、永遠の大地も、わがつかのまの人生とひとしく、かず知れない万物も、われひとりにひとしい、ということもできよう。このようにして、すべては一つである」

 この表現は華厳の一即多、多即一の思想とひじょうに似ている。華厳の一滴の水の全宇宙、一瞬の永遠、一念の三千世界という論理は、じつのところ荘子のように「逆説」の意味でいっているのだろうか。

 言葉なんて一方がなければ他方がなりたたず、他方がなければ一方はないといったように、たえず比較の上でしかなりたたない。そういう言葉の無意味さを悟らせるには大には小が含まれ、小は大であるといった言葉の破壊的な論理をもちだしてきているだけなのだろうか。

 華厳思想は実在の世界を語っているのではなく、あくまでもそれを語るさいの言葉を問題にしているのだろうか。これは世界観ではなく、言語学なのか。言語を破壊するための言語論なのか。

 世界の実在としてあまり真に受ける言葉ではなくて、言葉をうち棄てるための逆説なのだろうか。

 といっても言葉を捨てたところですぐに万物斉同の世界、「一」の世界があらわれてくるわけでは、やっぱりない。たぶん無意識のところにも世界を対立差別してしまうはたらきが深く根づいており、また物事を瞬時に分別してしまうはたらきも強くのこる。この習慣が消え去るのは容易ではない。

 それにしても華厳の世界観というのはただ言葉の破壊をめざしたものなのだろうか。だとしたら世界観の知識を追求する愉しみがなくなってしまう。私はもう少し言葉と観念で「戯論」を追究したい。







    「認識」はつくらないほうがいいのか?     00/7/7.


 われわれは日常のさまざまなことに見解や解釈、意見をもつ。好き嫌いやらこれはこういうことだとか、あの人はこうしたとか、いま私はこういう状態にいるだとか、さまざまな思いや考えをもつ。

 でも解釈や見解というのは、自分を苦しめたり、怒りや悲しみにおとしいれたり、傷つけたりする大元・起源になるものである。解釈や分別をすることによって、みずからをみずから苛むのである。

 というふうに考えるのなら解釈や見解を捨てるに越したことはない。見解や解釈がなければ、なんにも苦しめられることもないし、心は清浄である。

 しかしとうぜん解釈や分別なしで人が生きれるか、行為も選択もできないのではないかと疑問に感ずることだろう。

 でも、意外と解釈とか見解とかなくても、人は行為や判断をおこなうことができる。あまり考えなくても人はりっぱに生きていけるものだ。直観や自然な流れに任せてもよいのかもしれない。

 分別や解釈、見解というのは、行為や生きてゆく流れとはまた別のものだという感じがする。生にとっては余計な傍流に近いものなのかもしれない。はっきりとは言い切ることはできないが、あんがい、そういうことも言えるのではないかと思う。

 分別や解釈というのはそれをもつとたちまち、自分を苦しめ、傷つけたりすることが多すぎるように思う。

 分別や解釈は感情と直結している。つまりそれらの見解をもつとたちまち怒りや悲しみなどの種々の感情がわきおこる。もしそれがマイナスの感情なら、いっそ見解などもたないほうがマシなのではないかと思う。

 解釈や見解をもつと、それを物語り化してしまい、現状を固定化してしまう認識をつくってしまう。捨て去れば存在しない「現実」が、そこでは、つき崩しがたい「現実」としてみずからに迫ってきてしまうことになってしまう。

 解釈や見解というのは、あくまでもひとつの考え方、捉え方にしか過ぎない。消してしまえば、存在しない、どこにもないものである。しかしそれを絶対の現実と思い込んでしまうとき、人はみずからがつくった「解釈の牢獄」、あるいは「心の牢獄」に閉じ込められてしまうことになる。

 心は心でその脱出と解決を計ろうとするが、たいがいは存在しないものを存在していると思いこむ悪循環にはまりこみ、泥を泥で拭いとろうとし、ますます汚れ、傷つくことになってしまう。

 認識なんかつくらないほうがいいのではないかと思う。

 ということで今日も私は「凝固」してゆく認識をなんとか葬り去ろうとして、悪戦苦闘している。物語りを固定化してしまったら、苦しむのは自分だからである。






     宇宙論と世界観の効用    00/7/8.


 『華厳経』のひとつながりの世界、一即多、多即一の理解はどうもどんづまりのようである。理解しようたってあまり文献もなく、あったとしても仏教というのは一方通行に「これこれはこういうことである」と「宣言」するだけで、それは「どうしてか」「なぜなのか」ということを説明してくれない。だから理解にゆきつかない。

 もうあきらめモードである。原典の『華厳経・十地経』(中央公論社)をいま読んでいるけど、たぶん新たな認識にはたどりつけないようである。

 今回はこれでちょっと世界観的なことの興味がもたげてきた。科学的な世界観でも読みたいかなと思っている。量子力学とか宇宙論とかちょっとかじってみようかなと思っている。(でも理科系の言葉というのはどうもニガテだけど)

 だいたいこの十年は社会論的なことに興味をもってきた。もともとは宇宙とか生物とかには興味をもってはいたのだが、この十年はなぜか社会的なことに興味をもってきた。

 世界観とか宇宙論にもすこしは関心をもちたいと思ってきたが、世俗的なことにかなりどっぷり浸かってきた。この世界とはなにか、宇宙とはなにか、という非日常的な関心からかなり遠ざかっていた。

 哲学とか社会学に興味をもつうちにそういう方向に流れてしまったということもある。哲学者でこの不思議な世界や宇宙とはなにかと考えている人はあまりいないのである。

 分野科学に分かれてしまっているから、哲学者は宇宙や世界については考えないようである。でも哲学者というのはこの世界とはなにかという根本的なことを考えるのがふさわしいという感じがするけど。

 ギリシャの哲学者はこの世界の根本物質はなにかという問いを発していたけど、現代科学を知っている者からすれば、なぜこんなことを考えなければならないのかといったワケのわからない議論をしていたように思う。

 あわよくば、宇宙論とか世界観とかの非日常的な世界に興味がもてればよいと思う。日常や世俗に縛りつけられた思考ばかりしていると、日常の悩みや苦しみに縛りつけられるから、非日常的なことに関心が向えば、けっこうそういうことも忘れられるのではないかという企みである。

 心が宇宙や世界とかに向えば、広い視野、もしくは現実逃避的な頭のスタイルができあがって、日常的な些事からは解放されて、心さわやかになれるかもしれない。よいことである。

 興味をもつにはさまざまな疑問や解けないナゾをもつに限る。そうすれば疑問は疑問をよび、関心が深まってゆくというプロセスをへることになる。

 宇宙や世界について考えてみるのも悪くない。たまにふっと「宇宙が存在しているということはめちゃくちゃ不思議なことだな」と思うことがあるが、そういう関心にどっぷり浸かれればいいなと思う。現代科学はそういう関心を満たしてくれるのだろうか。





    怒る人、けなす人、罵る人に囲まれて     00/7/10.


 怒りっぽい人や言葉のキツイ人にはたいへん参る。私のいる業界は(だいたいは運送関係だが)その業界ゆえか、かなり荒々しい人たちがたくさんいる。倫理とか自粛とか、いたわりとかやさしさだとかをほとんど知らないんじゃないかと感じる。

 個人の問題か、それとも業界の問題、あるいは業界がそのような人格をつくらせているのではないかと勘ぐることもあるが、この業界ではほかの業界では通用しないようなビジネスの範疇をこえたようなあきれるほどの荒っぽさがある。

 私はできるだけ人に怒ったり、悪口をいいたくないと思っているから、だから逆に他人のそういうところがよく見え、がまんできないと思ったりする部分もあるのだろう。

 すぐ怒ったり、悪口をいうような人になりたくないと思うからこそ、ことさら他人のその部分をクローズ・アップして見がちになるというわけだ。

 こんなヒドイ人たちの中から脱け出したいと思っている。しかしどうやったらこの問題は解決できるのだろうか。

 こういう暗い気持ちになったときに清らかな心になるにはトマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』という本がたよりになる。

 ぱらぱらとめくっていたら、すでにすっかりと忘れていた解決法がいくつもある。キリスト教ではやっぱり忍苦することに価値をおいており、また世の中にはもっと苦しみ多い人がいるということを説いていたりする。

 ふっと考えついたのだけど、怒りっぽい人やヒドイ人というのは、あくまでも自分の基準であり、自分の解釈である。つまりそれは絶対的な人物像ではなく、あくまでも自分にとっての無数にある中の一つの「解釈」にしか過ぎない。

 ヒドイ人というのは私の「解釈」であり、「基準」であり、つくられた「仮像」である。もしかしてヒドイ人というのは私のつくりだした「捉え方」であり、どこにもない存在しないものであり、そういう捉え方をしているがゆえに自らを苦しめ、傷つけているといえるかもしれない。

 キリスト教が忍苦や受難を感謝し、利益だと見なせというのはこういうワケがあるのかもしれない。つまり頭でつくりだした「像」を、どこにも存在しないもの、虚空であると知りうるチャンスだといっているかもしれない。

 ヒドイ人や怒りっぽい人というのは天地や自然の視点から見るとそんなものは存在しなく、たんに自分の基準によって捉えられた解釈像に過ぎないというわけである。

 怒りっぽい人などどこにいるのか? 私の頭の中だけである。地球上のどこにも存在しない。

 ケンピスは何度も自分を愛することが苦悩の根源だといっている。「私」というのは言葉の上のみで編み込まれた継ぎ目みたいなものである。観念の中の模像である。これを守ろうとするから、観念は苦しむことになる。それは「私」が苦しんでいるのではなく、「観念」が苦しんでいるのだといえる。

 まあ、こういうこともいえると思うが、私自身はどこまでそういう捉え方に耐えられるかはそうとうアヤシイと言わざるをえない。私はやっぱり観念の中の私をどうしても守り、愛しもうとしているのである。アーメン。

 (それにこういう忍苦の方向というのは、深い理解がないとキレちゃう方向にいってしまうキケンもなきにしもあらずである)





    「関係性」を見ろ       00/7/11.


 この世界を見るときには、孤立した事物を見るよりか、そのあいだの「関係性」を見る見方をしなければならない。(といってもまだ頭のなかの整理ができていないけど)

 人間の言葉や認識というのはどうしてもまわりから切り離された事物だけを浮き上がらせて見がちであるし、関係性や相互作用、つながりといったものはみな除外されてしまう。

 たとえばパソコンを見るさいにはまわりのデスクや壁は見えなくなっているし、時計を見るときは腕や身体、地面なども意識の外である。

 人間の意識のはたらきには注目や注意のように、まわりを排除した一点への集中がおこる。そのためにどうも事物をまわりから孤立した事物であるかのように思ってしまう。言葉のはたらきはさらにそれに輪をかける。

 「私」というのもやっぱり関係性の網の目の一点にすぎない。私は親や家族、まわりの社会によって育まれているし、「私」が勝ったり負けたりするのは他人との比較によってである。

 「私」というのは関係性の結束であるのだが、「私」という言葉はどうもそういう関係性から孤立した私があたかも独立に存在しているかのように思わせてしまう。

 私であるとかモノであるとか、そういった孤立した事物に焦点をあてるよりか、関係性といったものにひたすら注目することが必要のようである。

 物理学とか自然科学の分野でもそういったパラダイムに移行しつつあるようである。近代科学はあまりにも事物――環境から孤立したモノに注意を与えつづけた。

 関係性に注目しなければならない。たとえば私のまわりのモノは独立したモノであるというよりか、私にとっての「用途」のことである。時計は時間を見るもの、TVは画面を見るもの、といったように用途としての関係のことである。

 モノというのは用途のことである。私と無関係にある孤立したモノではない。私との関係性が名づけられているわけである。事物が孤立してあると思っていると、そういう関係性という根本が忘れられてしまう。

 孤立した事物を見ることに慣れきっているわれわれは関係性を見るということがひじょうにむずかしい。しかし事物というのはそのモノ自体より、排除され、切り離された背景や関係にこそ、それの意味や秘密が含まれているのではないだろうか。

 むずかしい観方だけど、排斥されたそのほかの大部分に注目する必要があるようである。





     華厳の世界観と量子力学    00/7/12.


 仏教の華厳の思想では、一滴のしずくの中に全宇宙が宿り、一瞬の時間に永遠の時間が含まれているといっているが、現代物理学でそれと近いことをいっているのはホログラフィーである。

 ホログラフィーとは立体像をつくるための方法論・技術のことだそうだが、記録された干渉縞のフィルムのどこを切っても全体像を再現できるということである。部分が全体で、全体が部分であるわけだ。

 こういうホログラフィー宇宙モデルを提唱したのがデビッド・ボームで、だからかれの名前はトランス・パーソナル心理学やニュー・サイエンスのなかに出てくることになる。

 私自身はそんなに物理学とか量子力学に興味があるわけではない。華厳経の世界観を現代科学的な理論で説明したらどうなるのかという興味はあるが、この世界のミクロはどうなっているのか、現代科学的な世界観とはどんなものかという、それだけの興味はちょっと薄い。

 私は仏教や神秘思想でいう山河大地との一体感、宇宙との一体感はどうして体験することができるのかということを、現代物理学や量子論から説明してもらいたいと思うだけである。仏教というのは説明してくれないからだ。

 量子力学や物理学ではそういうことを説明できるのだろうか。しかしケン・ウィルバーはそれを戒めているが、なぜなら量子の世界がいくら相互浸透の関係にあるとしても、超ミクロの世界のことであって、神秘家のいう岩や木の日常的領域とはあまりにも段階がかけはなれているということだ。(『空像としての世界』)

 まあ、世界観とか宇宙論への興味を、かなりむりやりだか、つなげてゆきたいと思っている。観念的・分析的な世界観が世界との一体感につながるには程遠いかもしれないが、こういう方面への興味をのばしてゆくことに意味があると思っている。

 世界との一体感についていま思うことだけど、部分が全体を含んでいるというのは、それらは切り離して存在できるわけではないので、全体であるといえるかもしれないということだ。

 モノや私というのは、世界からまったく切り離されて存在するわけではなく、やっぱり全世界とつながっており、切れ目を入れることができない。いくら世界の片隅の部分であるとしても、やっぱりそれは全世界と不可分である。

 部分を見つめすぎて、排除されたそのほかの大部分が忘れ去られ過ぎているのである。部分を注目したさいには、ほかの大部分が忘れられているということを顧みるべきなのだろう。



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