社会的感情論と隠蔽の断想集




       隠す恥ずかしさ、暴く快楽    2000/3/31.


 女の裸や乳房、性器、性行為は隠されるから、暴く快楽、性的欲望が生まれるといえる。むかしの日本や未開民族のように乳房丸見えがあたりまえのところでは乳房には性的意味合いはなかった。

 隠すから暴く快楽や陶酔が生まれ、知りたい欲望がうごめきだす。人間の社会はそういう隠すという行為によって、線引きや区別がおこなわれ、その線上にさまざまな快楽や欲望、羞恥などの感情が交錯するというわけである。

 隠さなかったら、もともとそこにはなんの意味も価値も、区別もなかったかもしれない。隠すことによって価値や欲望が増殖しはじめたのである。

 隠すことには恥ずかしさという感情がつきまとう。恥ずかしかったから隠したのか、それとも隠したから恥ずかしくなったのか、いったいどちらがはじめなのだろうか。『旧約聖書』のアダムとイヴでは知恵がついたから裸を隠すという順番になっているが。

 隠すというのはそこに大切なもの、大事なものがあるというひじょうに目立つメッセージになる。隠したためによけいに目立ち、逆に暴き、求める者たちを集めるというのは皮肉なことだ。目的がひっくりかえっているんだな。

 隠すことによって暴く快楽、陶酔が生まれる。そして暴かれる、見知られる恥ずかしさが生まれる。恥ずかしさはその隠すという行為の見張り番、看守になっている。

 われわれの社会は隠す恥ずかしさと暴く快楽のつなひきやかけひきによってぐるぐる回っているともいえるかもしれない。羞恥と快楽のとりひき形態である。もしかしてわれわれは意味や価値、境界のないのっぺらぼうの世界で、「虚構」や「砂の城」のお遊びや戯れに呆けているだけなのかもしれない。

 このような世界が無意味でバカげたことだと思うのなら、隠すことの境界をうみだす羞恥という感情から脱することが必要だろう。その羞恥をたんなる体の変化や興奮だとみなし、感情の「実体化」を避け、その継続に力を貸さない無視やないがしろにするといった方法がある。

 恥ずかしさというのは隠すからよけいに恥ずかしくなるという逆説作用がある。身体変化、感情変化を隠そうとするから、羞恥という感情変化はおこるのである。ふつうわれわれが理解している恥ずかしいから顔を隠そうとするのではなくて、隠そうとするから恥ずかしくなるといったように逆なんだな。

 隠す恥ずかしさ、隠す境界、暴く快楽といった世界からわれわれは脱したほうがよいのだろうか。




      なぜ隠されなければならないのか?     2000/3/30.


 人間の社会を隠すという行為でながめてみると、人はさまざまなものを隠している。排泄や裸はもちろんのこと、寝るという行為も隠すし、性行為もとうぜん隠されるし、家や壁、部屋というのも日常の行動を隠すために設けられている。

 この行為があまりにも当たり前な社会に生きているからなんとも思わないが、なぜ隠さなければならないのかという素朴な問いに立ってみると、おかしなものである。

 この社会では病気も病院によって隠されている。死も病院や墓場によって隠される。犯罪者は刑務所に隠され、精神病者も病院に隔離される。老いも老人ホームや定年退職などによって隠されている。労働も会社や工場、都市計画などによって隠されているといえるかもしれない。

 役割や職業によって隠される人格や本性といったものもある。たとえば教師であるとか、政治家であるとか、医者であるとか、警官とか、社会的に偉くて立派な人格や役割をもたなければならない人たちは、その役割にそぐわない行為や人格は隠される。

 個人意識が生まれるのも親や他人に隠し事をもちはじめてからということだ。他人に隠すことが、自分という意識の基底になっている。ホンネや本心、秘密をもらすかもらさないかが自他の境界になっているとも考えられる。

 この秘密を共有するかしないかで、身内やよそ者の線引きがおこなわれたりする。親密な者や身内には秘密がばらされ、共有され、ほかのよそ者にはそれを教えなかったり、もらさずにいて、区別がおこなわれる。家族や恋人、集団やグループではそういう分け方がおこなわれている。

 ともかく人間はいろいろなものを隠す。隠すというのはおそらく人間に区別や分類、境界といったものを原初に教えたのだろう。なんの区切りもない無境界の世界に、分断という区別がうちたてられたのである。言葉の作用も同じようなものである。

 隠すことによって意味や価値が生まれ、暴きたい欲望や知りたい欲望、快楽や興奮がもたらされたといえるかもしれない。世界に区切りをいれて隠すことによって、人間の社会的欲望は生まれ、促進され、その磁場を中心に展開をつげていったのかもしれない。

 また人格の一部を隠すことによって社会的役割や秩序が営まれ、社会が機能的に動いているといえるかもしれない。

 隠蔽は隠されたものの価値を高め、暴きたい欲求を高める。女の裸体からエリートたちの不祥事、芸能人たちのスキャンダルといったものである。

 いじめは隠している本性や恥ずかしいことを暴く快楽や喜びのためにおこなわれる。隠蔽という社会の秩序からもれたり、露呈されることへの怖れや不安を暴くのである。

 隠すことには恥ずかしさや怖れ、不安といった感情が付帯している。その感情によって隠蔽の秩序は守られ、逸脱が防がれ、また区別や境界が切り込まれ、さらには意味や価値を高めているといえる。

 世界に区切りを入れる隠すことや恥ずかしさといった感情は、もしそれが自己に苦痛や問題をもたらしているとするのなら、それを客観的に理解したうえで、隠蔽=羞恥の感情=境界をのりこえるに越したことはないだろう。




        隠すという人間の根源      2000/3/29.


 隠すということは、人間のかなり根源的なことと関わっているようである。自分の秘密を隠すことによって子どもは自己意識をもちはじめるというし、秘密を隠すことによって集団のなかでの身内とよそ者の線引きをおこなったりするそうだ。

 隠そうとすることは秘密がばれないかという心配や不安を強める。その関心が意識の中心に居座ってしまうために、ますます不安は強くなる。

 隠すということは水のなかに発泡スチロールをむりやり沈めるようなもので、抑えれば抑えるほど反発力も強くなる。表情や顔から秘密や心のなかがもれてしまわないかと隠そうとやっきになると、緊張や不安がますます高まる。

 体臭恐怖のようなものも、においを隠そうとする注目が強くなるから、他人やまわりの視線や言動が気になり、噂しているとか、関連があると思い込むようになるのだろう。

 隠そうとする努力が裏目に出ているわけである。隠そうという努力をなくし、心配をないがしろにすれば、解消するたぐいのものかもしれない。

 社会的には隠すということは、裏の面からみると人々の関心や好奇心を高める役割を果たす。隠せば隠すほど人はそれに魅かれ、知りたくなり、暴きたくなるものである。

 禁止やタブーといったものも同じ機構であるといえる。禁じられるから破る楽しみがあるというわけだ。性欲や禁欲的な労働といったものも、隠されたり、怠慢や自堕落を禁止されるからその楽しみや快楽が倍加するというわけだ。

 こう見てみると隠すという行為は、人間の根源的なことに関わっているのではないかと思われる。隠すことによって自己が生まれ、自他の境界が引かれ、集団での線引きがおこなわれ、また人々のおこないはその線上をめぐって右往左往するようである。

 区別や分類といったものもこれによって生み出されたのだろう。隠すことには恥ずかしさや不安などの気持ちがついてまわる。これらの感情が世界に区別や線引きの原初をもたらしたのだろう。

 隠すということについてはもうすこし考えてみたいが、いまのところこのくらいしかわからない。




        秘密と自己の境界線   2000/3/28.


 秘密をもつことが自己の境界をつくりだす。それが自他の境界線をひくのである。目を広げれば、秘密を共有するかが、親密な内輪のものか、よそ者かの境界線をつくりだす。(小此木啓吾『秘密の心理』講談社現代新書)

   

 秘密には他人に知られる怖れや不安、暴かれたときの恥ずかしさといった複雑な心理が絡んでいる。この交錯する感情の線上に自己の境界、あるいは内輪とよそ者の線引きがひかれるのである。

 隠すことが自己意識をうみだす。この境界について疑ってみる必要があるようである。仏教でいうように自我から解放されることがよいことなら、自己意識をつくりだす境界というものに注目してみる必要があるだろう。

 この境界線づくりに失敗すると自我の発達が順調にいかなかったり、混迷したりする。子どものころには親は自分の心や考えのすべてを知っているものだと思い込んでいるそうである。秘密をもつにしたがって、親は自分の心のすべてを知っているわけではないと知って自他の境界線をつくりあげてゆく。

 そのような自分の秘密の世界ができず、自他の境界があいまいだと、自分の心や不安が他人にもれてしまう、ぜんぶ知っているという怖れをもつことになる。体臭恐怖や対人恐怖の心理にはこのような自分の秘密が人に知られてしまう恐れがある。

 秘密がもれる怖れが強いのである。その怖れが強ければ強いほど秘密が知られ、噂されていると思う妄想状態に近づくのである。自我の境界が失われ、線引きが壊れてしまうのである。

 これを逆にいえば、あけっぴろげで親密な一体感をもてる人ほど、自我の境界がしっかりとしていないことになる。隠したい秘密はすぐにばれてしまうので、境界はちゃんと育たない。たぶん母子一体化が強い日本人には多いことだろう。

 秘密や隠すことが自他の境界線をつくりだす。それは親密な内輪の者とよそ者というように延長されてゆく。この境界をめぐって人はさまざまな葛藤や不安、恐れを抱く。

 ある人は自分の心や不安などがもれないかとびくびくし、ある人は内輪かよそ者かの見極めにひじょうにデリケートになったりする。境界線上が問題なのである。怖いのである。

 解決策として自我の確立を図るか、それとも境界を捨て去るというふたつの方向があると思われるが、いまのところどちらがいいのか判別できない。





       「理想と現実」の法則    2000/3/26.


 「やりたいことが見つからないから就職しない」という若者が増えている。つい何十年か前までは職にありつけるだけでありがたい、仕事なんて選べないものだったそうだ。いまでは、わたしもそうだが、やりたい仕事につけなければフリーターでいいと思うようになっている。

 こういう自分の心性をわたしは「誇大自己」ではないかと思ってきた。満足できない職業につくのがいやだということは、自分の理想と現実をはきちがえることではないのかと。自分はそんな大それた人間ではないのに、社会が用意する職や地位には満足できないのである。

 この現象を個人の誇大自己という原因に帰することもできるが、これから社会が変わろうとしているということ、新しい職や仕事がわれわれの意識のうえにおいて必要になってきているということもできると思う。若者と職のミスマッチはどちら側に原因があるのだろうか。

 現状では新しい職種や業種が育っていない以上、誇大自己とよぶべき部分も少なくはないだろう。ただ現実からあふれ出た誇大自己が新しい社会や現象、発明を生み出してゆくともいえなくはないが。

 誇大自己はなぜ生み出されてきたかと考えると、商業主義や消費主義によって生産された結果によるところが大きいだろう。「あなたはちっぽけな存在ではないですよ、シャンプーや石鹸や車やクレジットカードを買えば、もっと大きなほんとうのあなたになれます」と洗脳されて、現実や自己をいともかんたんに蹴飛ばす心性ができあがったのだろう。買い物の理想は、同時に自我理想の肥大化である。

 社会を変えてゆくパワーを生み出すのならともかく、いまはこの誇大自己はただモラトリアムとパラサイト(親に寄生すること)をずるずるとつづけてゆく現状を生み出しているだけである。といってもフリーターやパラサイトをつづけざるをえない経済状況があるのも否めないが。生産主義や会社主義に批判的な若者もいるだろうし。

 ともかく現実に歩み寄るためには、また日常を生きやすくするためには理想や誇大自己というものには警戒したほうがよいのだろう。

 理想や期待と現実のギャップというものが人間の悲しみや怒り、怖れ、などを生み出す元である。これはどこかにある人間の理想像とか欲望だけにあてはまるのではなく、日常のいたるところに適用できる原理である。ほんと、あらゆるところをこういう目で見てみることをおススメする。

 われわれは理想や前提をもつから、起こる物事や出来事に我慢ならなくなってしまう。「こうあるべきだ」「こうすべきだ」という無意識的な前提や常識をもってしまうから、われわれはそこからさまざまな困難や問題を「発明」させてしまうのである。

 そういう理想や前提、期待をすべてとっぱらってしまえば、問題や不快といったものはなにも起こらなくなる。こういうことをずっといってきたのが、老荘思想や仏教、キリスト教であり、なるほどへたな理想や期待は抱かないほうがよいと思う。

 「あるがままに」「なすがままに」といったことだ。ただしそうなる前には数々の無意識に沈んだ理想や期待、前提といったものを洗い直す必要があるわけだが、これがむずかしいのはいうまでもないが、理想と現実のギャップという図式をもって考え方や出来事を注意して見つめるように習慣づけたらいいのだろう。




     感情は演じられたもの…か?    2000/3/24.


 感情は自然にわきあがってくるものだという常識や捉え方に縛られていると見えなくなるが、感情というのは「演じられた」ものではないかと思う。

 からだ全体をつかって演じているのである。そのようなからだ全体の状態や気分を感情とよぶ。感情が先にあるのではなく、身体の特定部分の筋肉緊張や呼吸の状態などによって気分や感情がつくりだされるのではないか。

 こういう無意識の筋肉緊張などを見ないから、感情は自然にわきあがるという考えが生まれるのではないだろうか。

 その感情自然主義に縛られると、今度はその感情の継続や保持に力を貸すことになる。無意識に感情というものはわたしは襲い、わたしはそれから逃れる術も、立ち向かう技能もないと思うことになってしまう。

 感情というのは身体の演技によってひきおこされると考えるのなら、感情をコントロールすることは可能である。感情はわけもわからずにとつぜんわたしを襲うのではなく、身体の状態がつくりだしたものであるからだ。

 怒りや悲しみ、恥ずかしさの感情を感じているとき、自分の身体はどのような状態で、どのようにあろうとしているだろうか。身体や表情の姿勢や志向がその感情を感じるように向かっていることがわかるだろう。身体はその感情を味わうように準備しているのである。

 身体が意識的に感情をつくりだそうとしていることに気づくのなら、わたしはその作用に力を貸さないように仕向けることも可能だろう。空気をいれかえて気持ちを新たにすることもできるし、感情の準備に向かう身体の力を抜くこともできるだろう。

 身体が感情をつくりだそうとする過程に気がつくことができたのなら、感情のコントロール法をわれわれは手に入れられるのではないだろうか。




     感情を「自己」と思わぬこと    2000/3/23.


 状況や他人から感情を強制され、かたくなに自己の感情にしがみこうとすると、自分のいまの感情を大事にする習慣をやしなってしまう。これを「自分らしさ」や「アイデンティティ」とみなしてしまうと、感情にもてあそばれることになってしまう。

 自分の感情を不動のものとみなし、その自然さを大事にするのなら、感情はわたしのなかで大手をふって暴れまくるだろう。

 われわれの常識として感情は自然に出てくるものであり、変えることができないものであり、また感情をいつわって違う表情をかたちづくることはよくない、ウソをつくことだという思い込みがある。

 感情を自然なもので、丸裸のままに表わさなければならないという社会常識によって、われわれは追い込まれてしまったのではないだろうか。感情が全面ガラス張りになるように。

 そう追い込むことによって社会や他人は表裏のないその人間を自由に操ることができる。思っていること、感じていることは、丸見えのかたちで提示されているからだ。親は子どもの丸裸の感情を参考に容易に訓育できるだろう。

 また感情のあり方にこそ自分らしさがあると思い込むようになると、かたくなな感情はよけいに目立ち、判別する材料になり、「改善」される対象となるだろう。かたくなに感情にしがみつく心性をつくりだすことによって、社会は判別し、改善されるべき指標を手に入れられるのである。

 感情は手放すべきなのだろう。自然な感情に自分らしさをもとめるというのは、感情にしがみつき、同一化し、集中し、ふりまわされることでもある。怖れや不安により強く拘束される人というのは、感情に自我の基盤をもっているからより拘束されるのではないだろうか。

 自然な感情の状態により自分らしさをもとめれば、ある感情はずっと居座りつづけることになる。この感情こそが自分らしさの証しであり、アイデンティティであり、変えられないものであると思いこむと、感情は不動のままわたしを拘束しつづけるだろう。

 自分の感情に自分らしさをもとめるという裏面には、特定の感情の居座り状態を容認することでもある。感情を自我の基盤と思うのなら、それはどこまでもわたしにへばりついたままだろう。そしてわたしはある感情をずっと抱え込むことになる。

 感情は変えられないものでもないし、コントロールできないものでもない。感情は思考や考え方によって生み出されるもので、それを変えたり、捨てたりしたら、感情は消えていってしまう。感情はそれに同一化せずに放っておけば、去る性質のものである。

 こういうことは論理療法や認知療法、仏教などがいっている。仏教や禅なんてものはとくに思考を捨て去ることをずっと説いてきた。感情のコントロールを大昔からずっと教授してきたわけである。

 近代になってこういう知恵はすたれてゆき、自然な感情をあらわすことがよいことになったが、じつのところこれは社会が人間をコントールするためのテクノロジーであったのかもしれない。

 TVの新興宗教バッシングでは頭を空っぽにした盲従の信者という恐ろしいイメージが流布されるが、われわれ近代人だって「自然な感情」によって社会にコントロールされているのではないだろうか。どっちもどっちだ。手段や方法が巧妙で込み入っているだけだ。




        「楽しさ」の感情強制     2000/3/20.


 バブル時代というのはレジャーや高級品の消費がものすごくさかんだったのだが、わたしはこの時代にひじょうに腹を立てていた。画一化や商業主義の強制というもっともらしい理由づけもできるのだが、「感情」という側面に注目してみると、「楽しみ」の強制があったからだということがわかる。

 バブルに狂奔した時代というのは「だれもがみな楽しまなければならない」という感情強制がまきあがった時代でもあったのだ。むりに楽しんだり、楽しいふりを強制されるのはものすごくだるく、うっとうしいものだ。だからこの時代、わたしは腹を立てていた。

 80年代は「ネアカ」と「ネクラ」という言葉が流行り、「だれもが明るくならなければならない」という感情強制がはびこった時代である。「ネクラ」は「犯罪者」なみのあつかいをうけ、だれもがバカみたいにはしゃぎ、うかれ回り、明るくふるまわなければならない時代だったのだ。

 90年代は打って変わって大不況になり、いたって平和で穏便な時代になった。「楽しさ」の感情強制への反動と非難がまきおこったのだといえなくもない。

 このように感情というものに着目してみると、わたしというのは、よそからの感情強制にひじょうに反抗していることがわかる。日常のいろいろな場面でもそうだし、社会的な選択や行動においても、感情強制のにおいをすこしでも嗅ぎとると、いっせいにかたくなな自分の感情に固執しようとする。

 日常の場面や社交では「つまらないのにおもしろいふりなんかしたくない」とか「しょうもないのに楽しいふりなんかできるか」と、楽しみを強制する場では、むりに楽しく装うのを極力避けている。会社なんかでは「やる気がないのにやる気を出せ」とか「忠誠心なんかないのに忠誠を尽くせ」とかをいわれるのがとてつもなくいやだから、なんとか会社から距離をおこうとしているのだと思う。

 テレビドラマなんかではある感情――悲しみや楽しさを作為で産出させようとするのがわかっているから、醒めた目で、感情を踊らされないように半ば白けながら見ている。

 このようにわたしは人や状況から特定の感情を強制されるのがとてつもなくいやなのである。他人からある感情に乗せられたり、そういう感情にもっていかれるのが、たまらなくいやなのである。

 こういう感情拒否がなせ起こったかと考えてみると、おそらく新興宗教批判やファシズム主義(集団主義)批判などのマスコミの影響によるところが大きいのではないかと思う。「崇拝や熱狂、陶酔などの感情には気をつけろ」というメッセージが戦後くりかえし流されてきたのではないのか。この影響は無視できないだろう。

 わたしのなかにある感情強制への拒否感というのはよいことなのか、よくないことなのかはいまのところ判断しにくい。ただ、自分の感情にこそ「自分らしさ」や「自分としてのアイデンティテイ」があると考えて固執しているとするのなら、わたしは感情により多く支配され、ほんろうされることになってしまうだろう。

 自然な感情こそが自分なのだと思うと、感情を崇拝してしまって、その聖なるものに手をつけられなくなってしまう。コントロール不能ばかりか、わたしは感情に首輪をかけられてひきずり回されるようなものである。悲しみやつらさに悩まされるのはあまりよい経験ではない。

 この感情拒否についてはどう考えればよいのだろうか。戦後の人たちは感情を拒否し、その感情を守ることで「個人の尊厳」や「自分らしさ」を守ろうとしてきたのではないだろうか。でも感情に自分のアイデンティティを賭してしまったら感情の苦悩にふり回されることになるし、けっきょくのところそれは、商業主義や消費主義の要請や必要ではなかったのではないだろうか。

 いまのところなんとも判別しかねるが、この感情の強制と拒否という捉え方はなかなかの鉱脈ではないかと思う。もう少し考えてみたい。



      感情社会学の翻訳の壁     2000/3/19.


 いま、感情社会学という70年代アメリカからはじまった社会学に興味があるのだが、このジャンルの翻訳はほとんどなされていないようで残念だ。

 感情社会学のおもなところはケンパー、ホックシールド、コリンズといった人たちだそうだ。『感情の社会学』(世界思想社)の巻末の文献リストをみると、これらの人の著作はほぼ翻訳されていない。

 70年代末から80年代前半にかけてケンパーの『感情の社会的相互作用理論』(1978)やシェフの『治療,儀礼およびドラマにおけるカタルシス』(1979),ショットの「感情と社会生活ーシンボリック相互作用論的考察」(1979),ホクシールドの『操作された心』(1983),デンジンの『感情の理解について』(1984)(中川伸俊「社会構築主義と感情の社会学」参考)といった文献が発表されたそうだが、これらも翻訳されていない。

 早く読みたいと思うのだが、翻訳が出ていないのならどうしようもない。わたしは英語の読解能力がないし。ただ英語なら少しばかり読もうと努力しようかなと思えるだけマシで、これがフランス語やドイツ語圏の著作だったらもうお手上げだ。

 わたしの読書範囲ではほとんど翻訳の壁にぶちあたることはない。だいたい翻訳されているもので満足することができてきた。

 翻訳の壁を感じたのは少数の例があるくらいで、たとえばトランスパーソナル心理学というのはある程度の翻訳は出ているけど、それ以上の本は出ていないのか、ちょっと著作の数は少ないと思ったことがある。補えない知識欲は仏教古典でおぎなおうとした。

 ずっと前、もう十年も前になるけど、アメリカの最新若手作家に興味があったのだが、期待される作家の翻訳はほとんど出ていない状態だったので、惜しい思いがしたことがある。こういう落差を利用して英語の本を読もうと努力すれば英語力がつかないわけではないが、わたしにはそこまでの情熱はないようだ。(ヘミングウェイとか遠藤周作のペーパーバックなんかを読んだりしたのだが、だめだった。)

 フランス語圏とかドイツ語圏の思想家なり哲学者なりに興味をもつと、やっかいなことになる。気に入った思想家の著作をもっと読みたいと思っても、これらの言葉を理解することはまずむりだ。過剰になった好奇心をそぎおとすしかない。あるいはこの欠如を利用して、みずからの思考力を高めるという有効利用もないわけではないが。(ほんとうのところ、これがいちばん大事なのだが)

 まあ、感情社会学の翻訳がないのは残念だ。ネッケルの『地位と羞恥』(法政大学出版局)という本は読んだが、けっこうむずかしかった。理解を広げるために早くほかの本も翻訳されてほしいものだ。

 わたしの興味とか関心というのはほんとうに一時的なもので、なかなかその情熱を継続させることはむずかしいし、興味が過ぎ去ってしまえば、恐ろしいほど無関心と冷淡になってしまう。旬なときに興味のあるものを読みたいのだが、こういう状況ならいたしかたないということだ。




       感情信仰の時代     2000/3/18.


 感情に生きる喜びやはりあい、生きがい、自分らしさを求める時代である。楽しさや喜び、うれしさ、といった感情の経験をひじょうに大切にする時代である。

 そのようなすばらしい経験はぎゃくに、皮肉なことにそれらを得られない苦悩や疎外感、自責感をもたらすものである。「わたしはほかの人のように楽しんでいない、喜べない、うれしくない毎日を送っている」といって嘆くわれわれの苦悩をも生み出した。

 また喜びや楽しみを求める精神は、感情に支配され、ほんろうされる人たちをも生み出した。感情経験を自分の大切な目標や生きがいとするのならば、自己は感情の荒波にほんろうされるだけだろう。

 感情に生きがいをもとめる人生は感情のコントロール能力を失うことでもある。感情を崇拝してしまえば、自己は感情に支配され、操られることになってしまう。感情を経験することが唯一の楽しみになるということは、感情の生成に手をつけないということである。コンロール不能になる。

 テレビ・ドラマや映画はほんのささいなことで感傷的、メランコリーになる人たちばかりを出演させている。そういうムードや気分になることを推奨するかのようである。感情的に深く没入することがより深く意味のある人生を送れるかのようである。

 こういう思い込みをもつために人はより感情的になり、そのためによけいに感情のコントロール不能に冒される。感情を自己と思いこみ、同一化してしまうと、もはやコントロールできなくなってしまう。主体は思考や理性的な自分ではなく、感情となってしまうからだ。

 かつての時代はこんなに感情をもてはやしはしなかったのではないか。立身出世や合理的な人間、理性的になることが人々の目標であり、栄達や名誉であったのではないのか。

 それがいまでは瞬間的な楽しみや喜びの経験をもとめる時代になっている。べつに非難するつもりはないが、なぜなら長期的・将来的な拡大成長が見込まれる時代ではなくなったのだから、とうぜんの対応、適応であるわけだが、感情経験だけに喜びをもとめるようになると、感情にふりまわされる危険があることを指摘したいだけだ。

 それとやはり根本的に感情信仰は幻滅に終わるのではないかということも指摘しておきたい。感情を人生の目標や生きがいとしたって、感情なんてものは瞬間的・刹那的にしか味わえないものだから、ぜったいに永続的・持続的な喜びは得られないのに決まっている。こんな瞬間的なものに喜びをもとめるのはあまりにも苦しい、見返りのない選択ではないだろうか。

 現代はいつの間にか感情信仰の時代になっていた。このことに気づくことは大切なことだろう。無自覚に求めていたものは、すぐに幻滅に終わる性質のものであるかもしれないからだ。また喜びの裏面にはかならず悲しみがついてまわるものだということをわきまえておくことだ。ついでに感情にふりまわされる危険もついてまわる。



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