つぶやき断想集
冬の散歩道




  なんなんだ、中国という国は!
   ユン・チアン『ワイルド・スワン』の感想
     00/11/24.

   

 私は親子三代の物語りというものが好きである。歴史に翻弄されたり、また親子関係の因果関係が現われたりする物語りに触れると、歴史の中の人間のちっぽけさや親子関係の皮肉さやつながりに呆然となってしまう。いわば大自然の中に身を浸すような感動が味わえる。

 そういう物語りと思ってこの『ワイルド・スワン』を読みはじめたが、どうも違うようだ。親子三代の物語りを語りながら、中国という国や社会でおこったことを、海外に告発や紹介するような本であるらしい。

 ひどい話だらけである。読み進むうちに中国という国はなんていう国なんだという思いを強くしてゆく一方だった。

 いちばんかわいそうな話は日本軍に支配された満州の時代に、母の学校の女ともだちが誤って武器庫に入ったために全生徒のまえで射殺される話である。とてもリアルで、涙があふれた。

 もうひとつは高級官僚にまで出世した父と共産党員の活動をしていた母が、とうとう文化大革命の時代に迫害されたり、虐待されたりして、労働キャンプに送られたことだ。中国では日常的に隣近所を告発したり迫害したりすることがおこなわれていて、うまく出世街道をつきすすんでいたに見えた両親もとうとうその毒牙にかかってしまったのである。

 毛沢東は人民をたがいに争うようにしむけ、しかも生かしておく、というのがねらいだったようだ。そしてどんな人間であろうと迫害されない保証はないと知らしめて、社会全体を恐怖におとしいれたのである。

 それはそれはほんとにひどい。私憤やうっぷんを晴らすために、あるいはノルマを果たすためにありとあらゆる人たちが告発され、監視され、迫害される。そんな疑心暗鬼の日常が、ずっとつづくのである。はじめは共産党以外の人間、そしてつぎにはその党で出世した権威や貢献ある人たちも迫害され、断罪されたのである。

 こんな社会に生まれなかったことを、凡俗な生き方しかしてこなかったけど、それでもこの日本のほうがマシに思えた。まわりの人みんながみんな批判したり告発したり迫害したりする環境におかれたら、私ならどうしていただろうか? 強いものに付いてたくみに弱者をいじめたか、それともまっ先に吊るしあげられたか、いずれにしても不安と恐怖と憤りにさいなまされていたことだろう。

 著者のユン・チアンは子どものころに教えられた、貧しくてみじめな資本主義のロンドンに現在暮らしている。中国を見限ったのだろうか。

 現在の中国は「改革開放」政策がすすめられていて、「豊かになれる者から先に豊かになれ」という時代になっている。近代的な豪邸のとなりは昔ながらの土で塗り固めたような貧しい家があるといった露骨な貧富の同居は、近代という時代のありさまをいやというほど思い知らせていて、とても感慨深いものがある。

 中国というのは宿命的にすさまじく激変する社会のようだ。この『ワイルド・スワン』を読んだおかげで、文化大革命の迫害、断罪というフィルターを通してしか、中国人というものを見れなくなったような気がする。





  夜の山奥で迷ってしまうコワさ     00/11/26.


 行けども行けども紀ノ川が見えない!――今日は高野山のふもとにある高野町石道を紀ノ川に向って下ってゆくハイキング・コースを選んだのだが、ガイド・コースをちょっと離れてしまったためにいつまでたっても高い山々に囲まれたまま、ふもとにたどりつけない。

 日が沈むのは冬では5時くらいだから、それまでになんとか市街地に出なければならない。もう4時だ。しかしいつまでたっても視野がばっと広がるはずの紀ノ川は現われず、どこまでいっても断崖のような高い山々が行く手をさえぎるばかりだ。

 おまけにガイド地図では思い切り逆方向にある480号線行きの標識がかかげられている。しまった、逆方向にきてしまったのか! 逆方向といえば、市街地からますます遠ざかり、とんでもない山奥に入り込んだことになる。ここ、和歌山の高野山以南あたりはもう電車の線路なんか一本もない。歩き疲れて、へとへとで、もう一山も二山も越える気力も残っていない。

 山底にまばらに人家があるていどのところである。バスも走っていない。もうすこしでまっ暗闇の山奥の山村にとり残されてしまうことになる。どっちを向いてもぞーっとするような高い山々ばかりで、谷底に閉じ込められたような地点にいる。もしまちがって逆方向の山奥のほうに迷い込んできたとしてしまったら、いったいどうしよう。。。

 山道ではたまにこういう不安にとらわれることがある。いつまでもたっても、目的地や標識に出会わないとき、迷ってしまったのではないか、とんでもないところに来てしまったのではないか、日が沈むまでに山を降りれるか、と不安になるのである。

 こういう恐れにとらわれたとき、むかしの人は、不安と緊張で、妖怪や幽霊に出会うような精神状態になったのだと思う。こんなパニックに近い状態で、しかも夜の闇が迫っているとなったら、妖怪や幽霊が近しいものになるのはまちがいない。縁起でもないが、低山でも遭難してしまうのは、こういう精神状態のためなのだろうか。

 もちろん私はそういうのはよけいな「とりこし苦労」だと知っているから、悲観的な考えはいっさい無視することにした。人生の大半は起こりもしない心配のために多くをムダに費やしてしまうものであるとロビンソン・クルーソーやカーネギーがいっていた。

 どうやら私は山すそに降りる道を大幅に迂回してしまったみたいだった。だから地図上の距離感ではとうぜん着くはずの山すそにたどりつけなかったわけだ。現在地を示す地図を見つけたときは、ほんとうにほんとうに、ほっとした。

 山すそまでにたどり着くのはあと少しなのだが、夜の闇がどんどん降りてきて、バス停を見つけた私はバスを待つことにした。バスが来るころにはあたりはもうまっ暗で、山中の国道では街灯さえない。

 今回の見所だった紀ノ川は夜の闇のためにぜんぜん見えず、展望のよい景色はひとつも見れずじまいだった。ただ、駅から見える夜の星は、大阪の夜空よりかなりはっきりと見えた。ずいぶん低いところにある星もあると思ったら、山の高いところにある灯りのようだった。あの星座に見えそうな星はなんていうんだろうと思いながら夜空をながめていた。そういえば、今年はオリオン座を見てないな。。。





  職業中心の人生観は終焉するのか?     00/11/26.


 21世紀には今世紀までの職業中心の人生観は崩壊すると大胆にいいきった野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか』(PHP新書)をよんだ。

   

 私は現在のような職業中心の人生なんか生きるに値しないとは思ってきたが、この社会は職業中心社会のままぜんぜん変わらず、あきらめかけていたから、21世紀にそれは崩壊すると宣言したこの本にはおおいに好感と共感をもった。

 かつての近代資本主義の時代では、一定の職業について勤勉に働くことが人生の義務であり、意義であると思われており、また人生の充実と幸福が手に入れられるものだと信じられていた。われわれのオヤジの世代はこういう信念にこり固まっており、その他の「流動的」な生き方は頑迷に否定するのが王道だ。この時代にはたしかにそれなりの見返りと充実が保証される時代経済があったのだろう。

 しかし現在グローバル化と技術革新の波はすさまじく、崩壊する大企業はあとを断たず、安定と計画はのぞむべくもなく、人生は投機性と偶然性のつよいものにならざるをえないものになった。

 このような時代にはかつての職業中心の安定した計画的な人生は立てることもできず、おおぜいの人はパートタイマー的な職業にとどまざるを得ず、したがって勤勉や忍耐が徳目でなくなり、「一億総中流」の時代は終わり、貧富の格差は広がり、貧しいその日暮らしな生活ながらも、人生を楽しむ日常倫理が必要となってくるということだ。

 ふたたび江戸時代の町人のような暮らしがもとめられるわけだ。かれらは貧しいながら、日常生活を楽しむすべを知っていたし、その日暮らしの毎日を悔やむよりか、おおいに楽しんでいた。しかしその代わりにかれには民主政治は与えられていなかったし、階級社会だった。そんな時代が21世紀のわれわれの人生モデルになりそうなのである。

 しかしすでに若者は片足をつっこんでいるといってもおかしくない。政治とか大きな状勢にはまったく無関心だし、刹那的な享楽を求めるし、勤勉な職業観をもっているかはかなりアヤシイ。あとは政治の道具をとりあげられる民主制の権利がなくなることと、貧富の格差とか階級社会という序列制度の経験があるかないかの違いだけだ。

 おおむね私はこういう社会が来るとしても、楽観的に喜んでいるほうだ。職業に人生を捧げる一生なんかまっぴらだと思っているし、もしそれがとりのぞけられるのなら、貧富の拡大とか階級社会くらい大歓迎だと思っている。そのくらいの犠牲を払わないと職業人生からの脱却はのぞめないのであり、逆にいうと、民主制や平等は国家への自己犠牲がないと与えられないものである。二兎を得られない。

 さて、はたして職業中心の社会は崩壊するのだろうか。これまでの勤勉な職業観から脱け出す気楽な人生観が、社会的容認や賛美を得るような時代に早くなってほしいものだ。そのためには貧しさと不安定という生け贄は不可欠だと覚悟しなければならないが。





   風景はなぜ心を癒すのか     00/12/2.


 奈良の柳生街道の田園風景が気に入っていて、これでもう三度ほどいってきた。山あいに田んぼがえんえんとつづくような単調な風景なのだが、なぜか私のお気に入りだ。

 ひと山越えてかなり疲れたところにばっと広がる田園風景が気に入ったのか、それとも山あいにほとんど人家のない田んぼがつづくからなのだろうか。のどかで、ほっとする。

 私がはじめ山で気に入っていたのは、水の流れる渓谷や渓流だった。人がだれもいそうもない静けさとかはりつめた空気が好きだったし、ごろごろ転がっている大きな岩が、いかにも深山幽谷や大昔の山地といった感をかもしだしていて、とてもよかった。

 渓谷は山の中の閉ざされた空間や、閉じ込められた窮屈感を感じさせるが、それに比べて山あいの田園風景は広がりや展望を感じさせ、ほっとさせる。

 山のなかというのは鬱蒼としていたり、暗がりとなっている閉ざされた空間が多くあり、けっこう不安になったりするものだ。だから展望が開ける田園風景は心から気持ちをやわらげるのだろう。また山によってほどよく閉鎖された空間をかたちづくっているのも、それなりの安心感をもたらすものなのだろう。

 私はいま大阪市内に住んでいるのだが、近くの大和川の開けた展望もお気に入りだ。住宅街のなかではどこもかしこもコンクリートの家に囲まれていて、たいへん窮屈で、閉ざされた風景だが、大和川の土手や河川敷はゆいいつ、たいへん広がりをもった展望を垣間見せてくれる。だから心が解放されるのだろう。

 むかしの日本人も同じように感じていて、田畑を開拓するために川筋をたよりに山へ山へと溯ってゆくさい、閉ざされた山間を溯った奥に別天地がひらけるのではないかという期待感をもっていたようだ。そして谷が行き止まりになったとき、そこから先は霊が山に昇ってゆく「あの世」だと見なされたのである。(樋口忠彦『日本の景観』ちくま学芸文庫)

 人間は眺望や見晴らしがきく場所も好きだが、身を隠せるような場所も好む。動物の本能みたいなものである。だから人の住む場所も開けている土地でも山をうしろに家を建てたりしている。そういう場所が安心させるのである。広い空間でも隅に偏るのが人間の習性だ。

 前掲書でおもしろいことがとりあげられているのだが、大和の国もさいしょのころは奈良盆地の南端の山の辺にあり、最終的には北端の平城京に落ちついた。京都盆地においても南西端の長岡京からはじまり、最北端の山の辺、平安京にうつっている。

 このように山や風景を楽しむというのは、空間の感受性や情緒を味わっているといえるかもしれない。広い空間では解放感や清々しさ、うしろを遮断された狭い空間では安堵感や安心感といったように。入り組んだ山道というのはそういうスリリングな解放感と安心感を交互に味わわせるのだろう。

 私は広い空間と遮断された空間のどちらを好むのだろうか。でも時によって違うようで、ごみごみした狭いところに長くいると広いところに出たくなるし、広いところにいるとどこかに隠れたくなる。そのときの心理状態の逆の方向をのぞむようである。

 これは空間だけではなく、いまの自分が置かれている環境や精神状態にもあてはまるのだろう。縛られていると思ったら広いところに出たくなるし、無防備だと思ったらどこかに隠れたくなるのだろう。ということは、いまの私が好む空間は、私のいまの精神状態を空間によって示唆しているといえるのだろう。






   「新書」バクハツ!     00/12/5.


 さいきん新しい新書の創刊ばかりがあいついでいる。角川新書に平凡社新書、文春新書、集英社新書、洋泉社新書、宝島社新書、ちくま新書、PHP新書と、怒涛のごとく創刊されている。新書ってそんなに売れるものなのかなと思う。

 新書は学術的なことの入門書でありながら、手ごろな値段で買えるということで、私も重宝している。学問的なひとつのテーマを知りたいとなったら、まず新書を探す。文庫では、講談社学術文庫とちくま学芸文庫以外はほとんど小説だから、新書と棲み分けられているのか。

 学問の入門書としては重宝しているが、私のかなり個人的な好みでは、新書の細長いサイズはあまり好きではない。文庫のサイズのほうがいい。それから新書というのは表紙のデザインをほとんどしていない。講談社現代新書以外はすべてのっぺらぼうのタイトルのみの表紙であり、もうちょっと遊んでもらいたいと思うのだが。

 新書でさいきんヒットしたのは、私の興味の範疇に入ってきた限りでは、『もてない男』(ちくま)や『社会的ひきこもり』(PHP)『パラサイト・シングルの時代』(ちくま)『不平等社会日本』(中公)『捨てる技術』(宝島社)『弱者とはだれか』(PHP)といったところか。

 文庫といえば、小説ばかりだったのだが、ここに来て、ノンフィクション系や学術系の読者層がいっきょにふくらんだことを出版界が察知したのだろうか。出版社の勇み足なのか、それともそういう読者層がほんとに増えたのだろうか。

 時代としては小説のような空想のことより、現実のことを知らなければやっていけないという段階にさしかかりつつあるのは確実である。「不マジメ」がカッコイイ時代から、「マジメ」がいいという時代に変りつつあるのだろうか。そりゃあ、総中流社会からぽろぽろと人々がこぼれ落ちてゆくシリアスで情け容赦のない時代に入りつつあるのだから、こりゃあマジメに現実を知らなければ、となって当然だろう。新書の創刊ラッシュはその現れなのか。

 新しくできた新書のなかで私が買うことの多いのはいまのところ、ちくま新書とPHP新書が多いかな。ちくまの本はかなりしっかりした研究書という感じだし、PHPは短期間でできあがったような本だけど、時代のテーマをしっかりとつかんでいる気がする。

 宝島社の『捨てる技術』がかなりのヒットのようである。でもかなり軽いカルチャー系の書ばかり出すので、私にとっては別冊宝島のようなおもしろみはないと感じる。

 『社会的ひきこもり』とか『パラサイト・シングルの時代』はさいきんの一連の事件から読まれたのだろう。ニュースと事件の背景をもっとくわしく知りたいという人たちが増えたわけだ。そういうテーマを多くあつかおうとしているのが、洋泉社のようである。

 まあ、出版社のカラーとか編集方針というのは私にはよくわからない。これからの時代を鋭く読み解く良著をどんどんと出していってほしいものだ。それから、表紙をのっぺらぼーにするのではなく、ちゃんとデザインの表紙にしてもらいたい、ぜひ。本にとっては、表紙のデザインの魅力というのもかなり強くあるワケだし。

 それと新書というのは膨大な本棚のなかからお目当ての本を探し出すのはかなりシンドイ。これからはテーマ・ジャンル別に分けてゆく必要もあると思う。





  ことし売れた本、気になる本     00/12/8.


 ベストセラーは本屋でチェックする程度である。ただリテレール別冊の『ことし読む本いち押しガイド2001』が手元にあるので、ちょっとだけベストセラーに口をはさみたい。

 文芸では五木寛之『人生の目的』とか天童荒太『永遠の仔』、『ハリーポッター』『朗読者』とかが売れた。五木の前作『大河の一滴』はタイトルがあまりにもよかったので読んだが、今回も同じようなもの、しめっぽすぎると思って読んでいない。『永遠の仔』はTVで見たが、つまらなかったし、トラウマものは私は信じていない。

 ノンフィクションものはいつも池田大作と大川隆法がつらなっているが、信者のみの大量購読なのか。新書では永六輔や五木『知の休日』、河合隼雄、『捨てる技術』などが売れた。『もてない男』『パラサイト・シングル』『ひきこもり』『不平等社会日本』という社会派の新書が売れていたのが印象的。

 リテレール別冊では専門家がベスト3をあげていたが、みんなスゴク偏っており、何人かが重なっていたのは宮内勝典『善悪の彼岸へ』とグリッサン『関係の詩学』、パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』くらいだった。宮内はオウムについて、パワーズは自動車がもたらした空間と時間の変化をあつかっているそうだ。

 さいきん、私はちょっと小説を読みたくなったが、そのためにこのリテレール別冊を読んだのだが、小説は二、三冊読んだだけでまたもや急速に興味を失った。選ぶのが難しいことと、テーマやメッセージが明確に文章化されていないから、価値が薄いように感じるのだ。よい小説には巡り合いたいとは思うのだけれど。

 心理学的な『話を聞かない男、地図が読めない女』とか『この人はなぜ自分の話ばかりするのか』とかもよく売れるみたいだが、精神的にもろい私は心理学の本はよく読んでいたはずなのだが、もういまは心理分析の本より、自己啓発とかトランスパーソナル系の本の方が得ることが多いと思って読まなくなった。人や自分を分析して自分をさいなますより、気分がよいことのほうがもっと重要だと思っているからだ。また人間を知るには、個人心理より社会を知る方がより適合的だ。

 あと気になった本として、ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』、ラミス『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのか』、田口ランディ『もう消費すら快楽じゃない彼女へ』、アンジュー『集団と無意識』、米本昌平『優生学と人間社会』が目をひいた。田口ランディはタイトルがよかったし、名前と続刊がなかなか興味をひかれるが、ネット・コラムニストということで、ネットで探したら、てっきり男と思っていたら女性であった。

 まあ、私はベストセラーはあまり読まない。自分の興味のあること、興味の流れの方が大事だから、ベストセラーに手を出しているヒマがない。嫌いというワケではないが、まあほんとのところはみんなが読む本はキライなのだろう。みんなと同じ本を読んでいたら、自分の「個性神話」が崩壊するのがいやなんだろう。

 いまはなんとなく読みたいテーマとかジャンルがないから、ベストセラーのガイドブックを読んでみたというしだいである。ハイキングとか自然を文章や本で楽しむ方法を探しているのだが、郷土史とか紀行文はなんかしっくりこないしなぁ〜。おかげでこの「つぶやき断想集」に描く材料がなかなか見つけられないよーっ。





   広告が批判精神を失わせた?     00/12/13.


 たしか「メディアの世紀」という雑誌で、「広告が批判精神を失わせた」といっていた。そのとおりの気もするし、それのみではないだろうという気もする。

 消費行為にたいする批判精神という点ではわれわれは完全に完敗だ。消費という行動に批判や憎悪を感じているという人はまわりにはまずいない。ほぼ肯定されている。これにたいする批判精神は完全に消去されている。

 マス・メディアはちっとも批判や否定をしないからだ。全面広告シャワーのマスメディアばかり見ていたら、消費に対する批判心などまず芽生えない。肯定と称賛だけだ。

 広告とまったく関係ないと思われているTV番組だって、雑誌内容も、すべて広告費によってなりたっている。そのような首根っこをつかまれているようなマスメディアに消費批判などできようか。批判精神は完全にシャット・アウトされている。

 だれもが消費のどこが悪いのだと思うことだろう。せいぜい環境問題から糸口を見出すていどだろう。私としてはそんなことより、消費の裏面には必ず生産と労働という人生の剥奪が待っていることにガマンならないし、優越や劣等というゲームを企業主導で踊らされる愚かさがキライだ。

 社会学書や哲学書を読めば、消費に対する批判やミジメさはいくらでも知り得ることができるのだが、こんにちの若者たちはほぼそんな本は読まないだろう。全面広告シャワーのマスメディアに浸かされて、ただあれがほしい、これがほしいと騒ぎまわるだけだ。人文書によって客観的に自分たちの愚かさを知るのはひじょうに大切だと思うが、そういう知見を与えてくれる良識ある人がはたしてまわりにいるだろうか。

 この社会ではなぜ広告は批判されないのだろうか。やっぱりマスメディアは広告によってなりたっているからだろうか。マスメディアは報道機関というよりか、広告産業といったほうがよいのかもしれない。それに増していちばん大きな理由は経済成長というモノサシが最大の目標になっているからだろう。経済を大きくするものは全面的に善なのである。

 よって消費を無条件に肯定・賞賛する広告や宣伝はこの国では大々的に流される。それにたいする批判や愚かさの自覚はまず流されない。経済成長を唯一の善にしてしまった国の人々は健全で、均衡のある認識をもちえているのだろうか。社会主義の党首崇拝のプロパガンダとさして違いがないと思える。対象が特定人物か、商品になっているかの違いだけだ。

 批判精神といえば、ほかに政治に対するものがあるが、いぜんはマルクス主義による資本主義批判という大きなイデオロギーがあったが、いまは政治家個人をバカにするのが批判精神の発揮と思われているようだ。体制や社会システムにたいする批判精神というのはたしかになくなったと思う。輪郭のはっきりした、わかりやすい社会認識やイデオロギーがなくなってしまったというのもあるだろう。

 社会体制にたいする大きな批判がなくなった時代というのははたしてわれわれは満足しているから批判心を失ったのだろうか。だとすれば、批判心が薄れたことは悪いことではない。しかし広告の洗脳によって満足心が植え込まれているとするのなら、われわれはいまのあり方や生き方を反省してみるべきなのだろう。





   広告消費社会のゆがんだヒエラルキー    00/12/15.


 この世ではカネを稼ぐ人間より、カネを勢いよくつかう人間の方がエライとされる。いまでは女性や若者の天下である。かれらは広告や企業のもくろむとおり、威勢よくカネをつかうためにいちばんエラく、はなばなしい活躍をくりひろげているとされている。

 それにたいしてこの社会の陰の立役者で、陰の「支配者」である生産者たる「オヤジ」たちはバカにされ、粗大ゴミあつかいされ、ついには操を誓った企業にもリストラされ、この世の冬を皮肉にも迎えている。

 ほんとうのところはかれらがいちばん強く、支配者であるはずなのだが、この「広告社会」においてはより多く消費する者が「勝者」なのである。いちばんエライのである。オヤジたちは世を楽しく活性させるような消費能力の開発に意をそそがなく、ただ生産能力のみを磨いた。ためにこの広告社会では「敗者」「敗残者」となったのである。

 かわりに自分は生産せず、他人に自分の糧を与えてもらう主婦や女性、若者が広告消費社会の「王者」としてのしあがった。みずから生活能力をもたない、他人から生活費をもらい、養ってもらう者が、その消費支出と享楽能力のために、この広告社会では「勝者」と「王者」となったのである。なんとも皮肉で、転倒していておかしな話だが、この広告社会でもてはやされ、誉めたたえられるのは消費を専門におこなうかれらである。

 若者が自立をせず、パラサイト・シングルとなって親と同居するのはこのような社会のヒエラルキーがあるためだろう。消費をよりおおくするものが「王者」なのである。いぜんは主婦となる女性の専売特許だったものだが、男の若者にもそのような傾向が広まっているということだ。

 なんだかこういう構造というのは農民から年貢をとりたてて働かずに暮らした武士の政権と似ているような感じがする。いまの官僚や国家も、国民から税金をしぼりとり、その必要性を顕示させるために役に立たない公共工事ばかりする時代遅れのものになりつつあるようだ。

 女や子どもはその無能力や必要という神話や常識のために養って支配していたつもりが、いつの間にか、搾取される逆の支配主体になってゆくというのは、なんとも皮肉な話だが、よくある歴史のくりかえしなのかもしれない。

 生産をバカにして、消費をほめたたえる心理構造をもった若者たちは、とうぜん生産社会にうまくなじめないだろう。広告社会というのは、生産して苦労してカネを稼がなければならないという生活の基本を見えなくさせるものである。広告社会の王者となるためにはますます稼がなければならない。生産と労働がどんどん厭わしく、ツライものになってゆく。クレジット会社は若者のいますぐにも消費したいという欲望につけこんで、ますます繁栄してゆく。

 カネを稼ぐ者より、他者のカネを利用してたくみにカネを使う者がエライ社会。マスメディアによる広告世界はますますそういう傾向を助長してゆくようだ。

 われわれは広告とマスメディアにたぶらさかれないようにしたほうが賢明なのだろう。広告社会のヒエラルキーなんか信じないほうがいい。そのヒエラルキーの頂点に立とうとすれば、ほしいモノのためにますます働かなければならなくなるし、ますますカネを無駄に浪費しなければならない。われわれの人生の目的というのは、広告と消費だけに費やされるのみだけにあるのではないだろう。人生を過つな。




ご意見、ご感想お待ちしております。
  ues@leo.interq.or.jp



  まえの断想集「秋のつぶやき断想集」

  「2000年冬の書評集」

  |TOP|断想集|書評集|プロフィール|リンク|

inserted by FC2 system