ツブヤキ断想集
セールス主義、軍事民主主義(デモクラティック・ミリタリズム)




   ベストセラーとマイブーム     00/10/16.


 HP作成者としてはHPはたくさんの人に見てもらいたいし、多くの反響を期待したいものである。しかし私のエッセイは自分の興味あること、好きなことに的をしぼって書いている。

 このHPは読者の人がどんなことを知りたいのかとか、どんな内容を期待しているのかといった読者側からの視点をほとんど想定していない。(すいません。)私に読者がどんなものを読みたいのかという想像力がないのもあるし、私はあまり一般的な嗜好をもっていないので、どうも多くの人が興味をもちそうなことがどんなものかもわからない。

 もともとこのエッセイ集は、インターネットがブームになる前から、ひとりでこっそりと書きつづけていたものである。自分でものを考え、本を読み、社会や心理のナゾや理由を解いてゆくのが私の趣味であった。だからそういう個人的な趣味がインターネットに移行しただけであって、読者の人の存在は当初から想定していない。

 私はあまりベストセラーを読まない。意識的に避けている部分も少しはあるかもしれないが、自分のそのつどの興味や関心を優先していたら、ベストセラーに興味をもったり読んだりする時間がないのである。

 HPの人気をあげようと思ったら、やはりベストセラーとかいまの話題とか流行りとかをとりあげるのが有効だと思う。小林よしのりの『ゴー宣』とか自虐史観とか、新書では売れている「ひきこもり」とか「パラサイト・シングル」、「不平等社会」だとか、または話題の時事問題なんかをとりあげるのがスジだと思う。

 でも私にはどうもベストセラーとか話題とか流行りに果敢にいどんでゆくのがどうも好きではないんである。みんながしゃべっているのなら彼らにまかせて私はしゃべる必要がないと思ってしまうし、話題の渦中にとびこんでゆくのにどうもテレがあるし、私はそういう社会の関心事より、自分の興味と関心の流れと維持のほうがもっと大事だと思ってしまうのである。

 興味というのは、他の人はわからないが私の場合、熟しているときを逃したら、ふたたびその情熱や好奇心をとりもどすことがなかなかできない。旬なときに旬なことをするのがベストなんである。醒めてしまえば、あれほど興味のあったことでも、すっかり廃墟を見るような気持ちになってしまう。だから興味のあるときには、興味のあることに集中して、その時期を逸しないように用心深くならなければならないのである。

 だから私にとってベストセラーより、マイブームのほうが重要なのである。ベストセラーや話題にうっかりと気をとられると、いまのマイブームが逸散してしまって維持できなくなるかもしれない。

 また世間の話題や流行にはどうも深くて強い興味をもつことができない。一般受けすることに顔をつっこむのが好きでないこともあるし、受動的な、ほかから与えられる関心や興味より、自発的かつ自己発信的な関心や興味に価値をおく考えもあってか、どうも世間の話題や流行に興味をもつことができないというのもある。

 ということで申し訳ありませんが、このHPは個人的なマイブームをこれからもずっと追究してゆくことになると思う。このほうが私にとって重要だし、私の知識欲は自分の生活や生きてゆくうえで必要となる知識や理解のためにおこなわれているので、これを手放すことはたぶんできないと思う。

 もっと多くの人にHPを見てもらいたいという欲もある。しかしやっぱりそれより自分の好きなこと、興味あることを追究してゆくことのほうが私にとってはもっと重要なことである。だから人気アップは二の次である。

 だけど読者の方がどんなことを知りたいとか、なにを読みたいとか、そういった読者側の興味を想定する訓練や勉強もある程度はやってゆきたいと思っている。ぜひとも読者の方々のご意見もおうけたまわりたいです。





    「売れる曲」は「いい曲」か?      00/10/17.


 たとえば音楽の話である。ミンリオンセラーを出した歌手の曲はよい唄だと自明のように思うのがふつうだろう。だけど、たまにこの唄がなんでヒット・チャートの一位になるのか、どこがよいのかまったくわからないという曲に出会ったことはないだろうか。

 ヒット・チャートというのは売れた枚数の順位にならべられる。これは売れた枚数であって、「いい唄」の順位ではない。混同している人もいるのではないだろうか。

 売れているからいい曲だという論理はおかしくはないだろうか。売れていることと、個人の好みや嗜好はまた違ったものである。かならずしもミリオンセラーの曲がすべての人にとっていい唄だとは限らない。

 売れるというのは多くの人に受け入れられることである。万人に受け入れられることはいい唄のひとつの基準にはなるが、すべての個人にもそれが当てはまるとは限らない。

 万人に受け入れられるということは、個人の好みや嗜好を平均化したり、普遍的な好みや嗜好を盛り込むことである。つまり万人にある均質化した好みや嗜好の琴線に触れるということである。

 これは大量生産・消費時代の論理である。大量に売れることを至上の目的にした時代の論理である。「大量に売れること=よいこと」が、「大量に売れること=よい商品・いい曲」だという論理になっている。

 大量生産の商品――たとえばテレビであるとか、車であるとか、洗濯機にたいする好みとか嗜好というのは、比較的に個人の差異がすくない。行為の利便性や用途には個人の差異はそんなに多くはないからだ。

 だけど芸術や文化となってくると個人の嗜好や好みはだいぶ変わってくる。万人に受け入れられるものはそんなに多くない。だれもが同じ気持ちをもち、同じ気分をつねにもっているとはとうてい言えないからだ。

 しかしこの大量生産の時代ではともかく大量に売れることがよいことである。大量に売ることが至上の目的である。大量に売れることが称賛されたり、賛美されたりする社会である。しまいには「売れているからよいものだ」という後追い理由ができあがる。少数の個人の大きな喜びや感動といったものは無視されてゆく。

 大量に売り、万人に受けいれられることを至上の目的にした音楽市場は、創作者の好みややりたいことを駆逐してゆく。一般受け、万人受け、大衆受けする均質化・画一化された、はじめから売れることを目的にした創作品がうみだされてゆく。創作者はかならずしもそれを創作したくなくとも。

 しかしおそらく人間はそんなに凡庸ではない。万人受けする、最初から大量消費を狙った商品に飽きを抱きだすだろうし、好きでもない商品をうみだす創作者はどんどん情熱と努力を失い、生産者も保守的にマーケットを守る姿勢に入り、この市場は過去のものとなってゆくのだろう。

 ミリオンセラーは必ずしもいい唄だとは限らない。あくまでも個人にとっての好みが大事なのであって、売れているからよい曲だという神話は信じないほうがいい。「自分にとっての」いい曲か、そうでないかという基準をもっと大切にすべきである。売れている曲より、他人が理解できなくとも、共感してくれないとしても、自分に「とっての」好きな曲のほうが大切である。





    売れることと、やりたいこと     00/10/19.


 売れる曲はいい曲かということだけど、まだ頭のなかでうまくまとまっていないし、案外、そういうことをのべた文章というのは見かけにくいので、ちょっと迷いながら書きます。

 音楽にしろ本にしろ売れることがやっぱり目標であり、評価されることであり、価値のあることである。しかし「売れるために」なんでもするようになったら、品質や品位は落ちるのではないだろうか。

 たとえば「純文学」の質なんていうのは、「売れないから」高いみたいところもある。売れているから、質やレベルが低いという捉え方もある。文化や芸術は売れる量では評価されないというわけである。

 といっても、まったく売れもせず、読まれもしないで、評価だけが高くなることはない。やっぱりいくらか読まれないと評価さえ与えられない。

 その対極として、はじめから「売れること」を目標にした音楽や本も最近では多い。たとえばジャンプ・システムやコムロやELTの音楽なんかそうではないだろうか。読者の望んでいることや売れるツボがしっかり押さえられている。

 レコード会社や出版社はやっぱりビジネスだからアーティストの意志より売れることのほうが尊重される。したがってアーティストは自分のやりたいことより、売れるためにレコード会社の意志を優先しなければならないことがしばしば起こる。

 だからインターネットはそういう売れることを目標にしない創作ができるメディアであったはずだ。自分の好きなこと、やりたいことを、売れる売れないの関係なしに創作・発表できたはずだ。

 だけどインターネットも広告産業などが入り出して、アクセス至上主義みたいなところが出てきた。このメディアも大量生産の論理が浸透しはじめているということだ。

 個人HPでもそりゃあ多くの人に見てもらいたいというのがホンネだ。だけど、その前に自分がやりたいこと、好きなことを尊重し、優先することのほうがもっと大事ではないだろうか。インターネットは多くの人に見てもらうことより、自分のやりたいこと、好きなことを創作・発表できる場ではなかったのか。レコードや出版のように多くの資金や人件費が必要というわけではないのだから。

 アクセス・ランキングとかで多くの人に見られることを第一義にする価値観がとうぜんのようにあふれ出してきて、アクセス数を増やすことがなによりも大事だという考えに染められそうにもなるが、創作者としては、自分のやりたいこと、好きなことをもっと大事にするべきではないだろうか。

 大量の人に見られること、売れることは、二の次でいいんじゃないだろうか。せっかくこんなに安く自分の意見や創作が発表できるメディアなんだし、レコード会社や出版社関係の家族の食いブチなんか心配する必要もないんだし。





    CDラジカセを買った        00/10/22.


 むかし10年ほど前に16万ほどのコンポを買ったために、CDデッキが故障しても、カセット・デッキがうまく回らなくなっても、なかなか新しいものに買い換えることができなかった。高い買い物をしたために捨てるのがもったいなさすぎたのだ。

 もうながらくCDが聞けなかったし、古いテープは絡まったりして、かなり不便していた。こういう経験から、デッキは「消耗品」であると考えることにした。故障することを頭に入れるのなら安いにこしたことはない。また私はそんなに迫力ある音にこだわるわけでもない。

 コンポは私が買ったころみたいにデカクなくて、すごくコンパクトになっていて、5万くらいで買えるようになっている。カセット・デッキがなくてMDだけの種類も増えている。でも私にはむかし録ったテープが200本以上あるので、MDにはかんたんに移行できない。

 技術の変化と消耗品であることを頭に入れて、MDなしの3チェンジャーCDとダブル・カセットの2万くらいの安いやつを買った。MDがないのは困ると思うが、買い換えをしやすいように安いやつを買ったのだ。

 それにまあ私の音楽の青春はあるていどは盛りを過ぎてしまったということである。大人が音楽を聴かなくなるようになるのはレコードがなくなるような技術の変化のせいもあるのだろう。(もちろん興味と情熱が失われるというのもあるが)

 さあ、ひさびさにむかし買ったCDが聞ける。今井美樹とか竹内まりやとか浜田省吾をまっ先に聴いた。うれしかったし、なつかしかった。むかし買ったあと、あまり聞き込めなかったフランク・シナトラとか宗次郎とか、エニグマとか『リトル・ブッダ』のサントラを聴こう。

 (ちなみに私は浜田省吾のアルバムを全部聴いている筋金入りのファンである。以前書いたハマショーについてのエッセイが、YOさんのたちあげているHP「ESSAY SQUARE」に載せられているので、興味がひかれた人は見てみてください。)

 カセット・テープはだいたい同じものばかり聴いている。アート・ガーファンクルにカーペンターズにクリス・デバージに、ジェームス・テイラー、ヴァンゲリス、リンダ・ロンシュタットと飽きもせず、ほんとに同じテープばかり聴いている。ある時期から、チャートより何年も聴きこめるアルバムを探していたおかげである。

 ほんのたまに中学や高校くらいに録っていたテープも聴くことがある。なつかしさの極みみたいなものである。その音楽とともにむかしの記憶や情景、背景みたいなものが甦る。FMでエア・チェックをしていたという古いむかしの話である。カセット・デッキがなくなって、MDばっかりになると、このテープは聴けなくなるのだろうか。技術の変化は思い出を断絶させてゆくのである。

 この十年はもうアメリカのチャートも聴かなくなった。大好きだったMTVが民放でやらなくなったというのもあるだろう。J-POPのチャートは、TVでやっていることもあってたまに見ているが、やっぱりティーン向けばかりの音楽ばかりなので、30過ぎの私が熱中できるわけなどない。ああ、オトナの音楽を聴きたい。






    「総力戦」時代という不幸     00/10/24.


 どうやら現代のわれわれの生き方や生活の根本を規定しているのは、国家間の総力戦のためであるようである。国家間戦争に勝つためには、あるいは侵略されないためには、あるゆる面で優れていなければならない。それは経済であったり、技術であったり、それを使う国民の頭脳や技能であったりする。

 民主主義や社会保障、国家による教育はそのために必要だったといえるし、経済的に豊かな国になるというのは、とどのつまり、軍事的に優れるということに直結する。経済的に、あるいは文明的に優れるということは、まぎれもなく戦争に強いということである。

 われわれは総力戦の時代を生きている。われわれの生や生涯は国家間戦争に捧げられているといっても過言ではない。

 表面上は戦争はおこっていないし、おこす気もないだろう。ただ現代を歴史的に根底から規定しているのは国家間の戦争であり、パワー・バランスである。

 明治政府は西欧列強に植民地化される恐怖からたちあがった「軍隊国家」であり、現在ではシステムがまるっきり変わったというわけではなくて、かなりの部分を継承していると考えられる。経済的・技術的に優れる、先進的になるということは、軍事的にも強くなることのなにものでもない。

 個人的に私はなんでいまの世の中はこんなに経済至上主義で、会社中心社会なのか、なんでこんなに働きつづけ、あくせくしなければならないのかと思いつづけてきたのだが、どうやらその根本には「総力戦時代」という大規定があるようである。われわれは他国に侵略されたり、支配されないために、生涯を、人生を、総力戦競争に捧げなければならないということである。

 そういう時代の大規定があるために、われわれは国家教育をうけ、企業で働き、どこまでも優れた頭脳と技能をもたなければならないし、がむしゃらに豊かにならなければならないのである。戦争に負けないためには、それをとめることもできないし、経済的・技術的に勝ちつづけなければならないのである。

 こういう国際的、歴史的な大規定を個人の力で変えてゆくことはほとんど不可能に思える。闘いをやめようといっても、人類の歴史上に戦争がなくなったためしはないし、条約や安全保障があったとしても、いつ破棄され戦争をしかけられるかもしれない。人類は総力戦システムからもう降りることはできないのだろうか。





    民主制は戦争が母       00/10/26.


 学校で教えてくれたのだろうか、民主制は戦争が母であるということを。私はいままで知らなかった。一般の人たちは知っているのだろうか。

 学校では民主制や平等はすばらしい、とてもよい時代にうまれたんだということを習った覚えがあるが、それは戦争の必要性から生まれたということを聞いたことがない。

 民主制というのは国民を戦争に駆り立てるためのなくてはならないモチベーションなのである。なんだかひじょうに幻滅したというか、絶望してしまう。市民権と従軍は同義語であり、アメリカの黒人が公民権を獲得してゆくのはベトナム戦争で死傷してゆく歴史と重なっているのである。人間の尊厳と権利を擁護しておきながら、一方では戦争で死ななければならない絶望的な矛盾。

 以下に猪口邦子『戦争と平和』(東京大学出版会)から要点だけを抜粋しておく。

 民主制は「軍事民主主義(デモクラティック・ミリタリズム)」を原形としてうまれた。古代ギリシャの重装歩兵密集隊とガレー船にさかのぼる。貴賎の関係なく同等の装備と同等の役割を必要としたそれらは平等化と標準化を促進した。

 ローマでは軍を維持するために、無産市民を軍務資格者たる有産市民にさせるために土地所有が必要であり、退役部隊にも植民土地が必要であり、土地確保が戦争の目的になる。ローマの戦争は市民の兵士化のためにおこなわれた。

 騎士や武士は重装備や馬をあつかうために熟練を必要として世襲階級と封建制をうみだしたが、小銃を使いこなすには数日でよい。騎士や武士は現代の技術革新によって用済みになる技術者やサラリーマンと同じように技術によって滅んでいったのである。騎士と歩兵が逆転したのはクレシーの戦い(1346年)からである。「マスケット銃が歩兵を生み、歩兵が民主主義を生んだ」ということである。

 市民的権利と従軍義務は一対のものであり、フランス革命の選挙権と義務兵は同時である。プロイセンでは農奴制を廃止し農地改革をおこし、自治制と内閣制度に移行した。義務教育もおこなわれ、国民皆学と国民皆兵は合せて進んだ。

 鉄道と兵器の高度化により、補給体制の質と兵器生産の効率が戦争の勝敗を決めるようになってゆく。後方体制が重要になるのはアメリカ南北戦争がその発端である。後方支援の主役は女性であるがゆえに工場進出とともに女性参政権も認められるようになってゆく。

 規格化された大量生産はフランス軍の制服にはじまる。17世紀オランダでは巨額な防衛コストをおぎなうために生命保険が考案された。

 現代では戦争とまるっきり関係のないこととして民主制や豊かさが語られたりしているが、それはすべて「戦争のため」に生まれ、「戦争のために」に生かされているといえる。戦争との因果関係で経済や社会をみたほうがよほど明快だ。

 なんだかあんなにすばらしいと教えられた民主制も、ほめたたえられる戦後日本の経済成長と豊かさも、全部戦争を起源と原因としてうみだされたというのは、ひじょうに呆然自失だ。

 「戦争の、戦争による、戦争のための」国民と社会であるということである。この事実に目をふさぐわけにはゆかない。





    民主制の逆噴射        00/10/28.


 民主制や社会保障が戦争動員の自発的動因となるのなら、これらはかならずしも「よいもの」とはいえない。それらをひきかえに、われわれは国家戦争や国家競争に自発的に駆り立てられることになるからだ。

 民主制や社会保障は戦争とひきなせない同一のものと見なすのなら、これらは「悪」だといえる。これらはわれわれに人権や参政権をみとめ、生涯保障するというすばらしいものにいっけん見えるが、戦争とセットで考えると、国民を国家規模の戦争や経済競争に駆りたてるための原動力にほかならないことになる。

 まんまとわれわれは国家戦争の策略にひっかかったというわけだ。たしかに民主制や社会保障が与えられれば、われわれは国家のために闘い、競争し、生涯を捧げ尽くすだろう。戦争こそはないが、現代のわれわれは国家のために経済戦争を闘い、生涯を捧げ尽くしているといえる。

 民主制や社会保障は国民を国家戦争に駆り立てる要因として、捨て去られなければならない「悪」と考えるべきなのだろうか。これらはわれわれを幸福にするものではなく、われわれを不幸にするものなのだろうか。国家と個人の利益は同一のものなのだろうか。

 われわれは民主制と社会保障を脱ぎ捨てたほうがよいのだろうか。そうすれば、われわれは国民として戦争や経済競争に駆りたてられることもないし、もうすこし自由で気ままな生き方ができるかもしれない。

 もちろん代償は大きい。われわれは誇大妄想的にその損失を知っている。(あるいは宣伝されている) 民主制がなくなれば専制君主に蹂躪され、人権を足蹴にされ、社会保障がなくなれば、失業や不景気になったり、病気や老人になったときには悲惨な目にあうことになる。国家から見放された個人は、目もあてられないさまを示すことになる。

 ということでわれわれは民主制と社会保障を欲す。しかしそれを求めれば求めるほど、われわれは国家に奉仕しなければならないし、暗黙には従軍も含まれる。

 われわれは「国民」にならないほうがいいのだろうか。「国民」にならなければ、戦争にも経済競争にも駆りたてられることもない。「国民」になったばかりに国家競争にわれわれはいやおうなしに巻き込まれるというわけだ。

 もちろん国家競争に勝たなければ、われわれの生活や経済は苦しいものとならざるを得ないし、他国に侵略される怖れも出てくることになる。

 ただ「国民」をやめた個人にはそんなことはどうでもいいことだ。政府や王が変わろうが関係ないし、国の経済が衰弱したとしても「無国民」には関わりがない。国家に守られたり、人権を付与されない代わりに、国家の政情や衰亡にはいっさいこだわらない。民主政治がはじまるまでの多くの民衆がそうであったように。

 現代の国民は、かつては王や政府、官僚たちだけが心配していた事柄をいっしょになって心配している。民衆たちにとってかれらのことはカヤの外の話だったのだ。

 もし民主制や社会保障が国家戦争とひきかえなら、われわれはそんなものを捨て去ったほうがよいのだろうか。国から与えられる権利や保障といったものの代償をあらためて考えなおさなければならない。これらを捨て去った基準や水準から捉えなおすことが必要なのかもしれない。




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