つぶやき断想集
民主主義+社会保障=国民戦力化




    少年のころへの郷愁      00/9/26.


 40才の男が8才の自分と出会うブルース・ウィルス主演の『キッド』を観てきた。映画館に足を運ぶのはひさしぶりだ。

 この作品はテーマがよすぎる。大人になった人はだれでも少年のころの夢を見失ってしまっているものだ。そういう夢を思い出させるこの映画はこのテーマだけで名作だ。

 だから私としてはもっと感動させたり、驚かせたりしてくれるストーリー構成にしてほしかったと足りない部分に目がいきがちになってしまって残念だ。

 しかし40才の男が8才のころの時代に帰るあたりは涙モノである。なつかしい学校のグラウンドや、亡くなってしまった母との再会には涙があふれた。

 40才になった自分は、子どものころに描いていたパイロットにもなっていなかったし、家庭ももっていなかったし、犬も飼っていなかったし、「ムカつく奴」になりさがってしまっている。大人になった人はそういう自分に気づかないものである。少年の存在はそういう自分を垣間見させてくれる。

 だけど少年というのは夢や将来があったから幸福であったのではなくて、おそらくそんなものがなんにもなくても幸福な存在であったのだと思う。

 現代では夢や目的があるから幸福になれるみたいな常識があるけど、これは近代のイデオロギーのウソだ。少年のころはなんでもないことでも好奇心をもったり、感動したり、喜んだりできたから幸福だったのだ。そういう少年のころの心をとりもどせたらすばらしい。

 この映画では少年が現代にやってくることのできた理由の説明がいまいち弱かった。タイムマシーンでやってきたのではないし、魔法でやってきたのかな。40才から30年後の飛行機も家庭も犬ももっている幸福な自分が少年をつれてきたということになっていたみたいだが、いくら大人のファンタジーとしても納得しづらかったな。

 まあ、少年のころの心や、その時代への郷愁というものは、いつまでたってもわれわれの心に刻み込まれているものだ。そのことをこの映画はうまく引き出してくれた。だから私は思わず、あまり居心地のよくない映画館にひきこまれたのである。

 少年のころの私は無邪気で、物事を悪く思わない、よく笑う子どもだった。いまではすっかりひねくれて、批判的でネガティヴで、ちっとも笑わない、自分の人生をつかみ損ねている大人になりつつあるようだ。だからこそこの映画『キッド』は私の心をつかんだのである。





   自由・平等・人権は国民戦力化のごほうび     00/9/29.


 自由・平等・人権などのデモクラシーは人類の偉大なる進歩やすばらしき栄光だと思われているが、なんのことはない、国民総力戦という視点からながめると、たんに国民を戦力化するためのごほうびに過ぎないということがわかる。

 かつての戦争は貴族や雇われ兵のみの戦争であったが、近代になると国民を総動員する国のほうが強いことがわかってきた。フランス革命やナポレオンの時代のことである。

 階級や差別によって民衆を上から押さえつけ支配するよりか、国民に自由や人権などを与えたほうが、より戦力になりやすく、みずから国家のために犠牲になるような戦力としての「国民」をうみだすことができる。したがってデモクラシーや人権などの乱発が、近代以降におこってくるわけである。

 また国家の力は経済の力でもある。モノを大量に生産し、大量に流通させるには、工場や輸送路の確保と拡大が必要になる。こんにちの産業・工業社会は、全国を道路でつなげた工場と化した。あるひとつの目的――たとえば戦争遂行などの用途にぴったりである。

 デモクラシーや人権は人々の流血や惨劇とひきかえに国民は勝ちとってきたということになっているが、戦争や市場経済という点からながめると、人々をより「国民戦力化」してゆくためにはぜひとも必要な「恩給」や「給与」だったのである。「タダ」で手に入るものなんていうのは甘すぎる。

 われわれは「国民」となってしまった。国籍や人権、参政権があたえられ、自由や平等というボーナスまでもらえ、おまけに年金や健保のような福祉サービスまでもれなくついてくる。

 が、それゆえにわれわれは国家の恩に報いなければならない。国民として義務をはたさなければならない。ついでに国家の神格化の神話もおまけについて、国民戦力化の情熱と崇拝に駆られるというわけである。

 人類はそれらの権利を血とひきかえに獲得してきたのではない。人類の進歩や達成なんかではない。戦争と市場経済で勝つためには、みずから国民戦力化してゆく人材が必要だったのであり、あるいは無意識な帰結だったのである。

 現在は擬似戦争であった冷戦構造が終わってしまった。国民総力戦システムの必要性が薄れ、目的も方向も定まらず漂流しはじめている。戦争のかたちは、経済や政治としてあらわれるその形態をどのように変えてゆくのだろうか。





   「経済総力戦」が終らないのはなぜか       00/10/2.


 この国では軍事的な総力戦は表立ってはなくなったが、経済的な総力戦はいっこうに終わっていない。国家をあげての経済総力戦システムはいまだにつづいている。

 日本国の経済が世界第何位だとか、トップの差はどれくらいだとか、そういった国家を基準にするモノサシはマスコミでしょっちゅう流されている。

 そしてわれわれ一般の市民はそれをわが事のように一喜一憂する。国民戦争の心性はいっこうに破棄される気配はない。

 われわれは「国民」であるかぎり――また一国の経済に一喜一憂するかぎり、総力戦のメンタリティの呪縛から逃れられることはないのだろう。「国民」として経済や政治の動向を気にするかぎり、総力戦システムは瓦解することはないのだろう。

 総力戦システムは個人が国家に同一化する心性によって継続させられている。または企業や地域、なんらかの共同体に同一化する心性も、総力戦に貢献することになる。

 そして総力戦のいちばんの根本を支えているのは、集団なり組織なり概念などの大きなものに同一化して優越や勝利を勝ちとろうとするわれわれ個々人の心性なのだろう。

 日常や世間のあいだにあるほんのささいな優越や勝利、そういったささいな心理的な競争心や虚栄心が、国家間の競争をまきおこし、ついには戦争にいたるのだ。

 集団や概念などの大きなものにすがって勝ちを得ようとしたとき、すでに戦争へといたる道筋はできあがってしまっているのだろう。

 勝ちや負け、優越や劣等、生活の安心と不安、守るもの――そういった心理的な防衛がつもりつもって総力戦のシステムをつみあげてゆくのである。

 こういう心理的特性は、じっさいに生活の危機や経済の危機といったものが襲ってくるわけだから、根こそぎ削除することなんてほとんどムリだろう。でもある程度はそういった防衛を減らしてゆくことは可能だろう。

 個々人の優越や勝利の欲望――ひるがえれば個々人の劣等や軽蔑される不安から総力戦システムはたちあがっている。戦争への反省はまず個々人の心の内部構造からおこなわれなければならないのである。





     交換の条件       00/10/4.


 恩恵や見返りが大きければ大きいほど、奉公や滅私を余儀なくされる。われわれが得ている恩恵やお得なものは、カネだけが動いているのではなく、その他の多くの精神的奉仕や崇拝を発動させられている。

 自由・平等・人権といった個人の尊厳を守る権利は、その見返りとして国家総力戦の奉仕と滅私、生命すらを要求するし、心情としての自発的奉仕や崇拝ををも要求する。

 そのうえさらに老齢年金や健康保険、介護保険といった生涯保障がつくと、奉仕や滅私、自己犠牲、崇拝や同一化といったものはもっと大きなものにならざるをえない。

 われわれ国民はただ無条件に人権や生涯保障が与えられているのではなく、外部にはちゃんと暗黙の交換条件がある。見返りとしてわれわれは自発的で自己犠牲的な国民にならなければならないし、崇拝や同一化も自発的に発動させなければならない。それは国際競争や国際戦争が激しくなった時代に必要とした国家の戦略なのである。

 国家と国民の関係と同じように、企業との関係も同じ自発的滅私を要求する。われわれは給料の見返りとして労働のみを捧げているのではない。生涯保障の見返りに自発的な滅私や崇拝、同一化も捧げている。

 家族の関係もそうである。家族はカネだけで動いているのではないが、終身保障や終身愛情、気づかいなどが与えられるから、それゆえにカネ以外の愛情や献身、滅私といった見えない見返りを多大に与えなければならない。

 これらの交換条件はいずれも貨幣的で明確な交換としてのかたちをとらない。交換やギブ・アンド・テイクとしてのかたちが見えにくい。心情的・情緒的な奉仕や崇拝、同一化としてわれわれの心にたちあがる。客観的に見ずに、主観的な奉仕や崇拝として、われわれの心にわきあがるものである。それゆえに盲目な愛情や崇拝、ときには神格化といった狂信的イデオロギーに変貌する。

 この世でタダで手に入るものはない。そしてカネだけの交換が支配しているのではない。その他の見返りや奉仕にたくさん覆われている。人権や生涯保障などのカネだけに還元できない恩恵は、われわれに多大な犠牲と奉仕を要求する。

 これが客観的に交換として見えずに、主観的な奉仕や崇拝としてわれわれの心にたちあがるから、われわれは盲目な自己犠牲や献身的奉仕をおこなってしまうのである。

 与えられたものは必ず返さなければならない。それがたとえカネやモノのようなはっきりしたものではなく、生得的と思われている人権や生涯保障のようなものでも、その見返りを返さなければならない。これは人間社会の基本的なルールである。

 われわれはカネ以外の多くの恩恵や権利を与えられている。そのために多くの見返りを返さなければならない。じつは人権や保障といったものは、個人の生涯が負うにはあまりにも、あまりにも、大きすぎる借金なのかもしれない。したがって、その見返りとして、われわれは生涯や生命をどこまでも国家や企業に捧げ尽くさなければならないのである。

 自由や平等・人権、または老齢年金といったものは人類が獲得すべき、すばらしき進歩なのだろうか。ただ多大な借金や負債を増やしているだけではないのか。国家というどでかい借金取立て人が手ぐすね引いて待ちかまえているだけである。

 欲は大きければ大きいほど、その見返りと犠牲を多く必要とするのである。なるほど、古来の哲学者や宗教者がいってきた欲望の危険性はこういうところにあるというわけである。(しかしはて、人権や保障は「欲望」なのだろうか……?)






   「民主主義」と「国民」という高い買い物      00/10/6.


 この社会はカネの交換だけでなりたっているのではない。社会のさまざまな制度やしくみはカネ以外の交換で覆われており、カネの取引ではないから見えにくいだけだ。

 人権や民主主義は、国民戦争や国民経済にとってひじょうに有利であり、なおかつ自発的な協力や崇拝を見込めるから、民衆に与えられているのである。一般民衆が必死に獲得してきた栄光なんかではなくて、交換が有益だから与えられているだけである。

 国家や企業の終身保障も、個人の生涯を保障する代わりにその生涯を国家や企業に捧げよという交換である。タダなんかではない。生涯を捧げなければ、保障されないのである。

 われわれは民主主義や社会保障という権利を得るために命を売り払わなければならなかったのである。それによって国家は力を増し、国民の生命と総労力を一手に集めることができ、他国との競争や戦争に打ち勝つことができる。

 哀れなことである。われわれはさまざまな権利や保障を要求したがゆえに、国家や企業に生涯を捧げなければならなくなった。タダでそれらを手に入れることはできない。われわれの生涯と命を捧げて、やっとそれらはわれわれの手中に入るのだ。しかしそのときには自らの人生と生涯は失われているというわけだ!

 男女の関係も同じである。女はセックスを売り、男は生涯にわたって彼女の生涯を保障する。保障される者は愛情と献身を生涯にわたって提供しなければならない。愛はタダなんかではない。多大な犠牲と献身を必要とする。そのために人生は失われる。

 国家、企業、男女の関係において、それが客観的に交換と見られることはあまりない。かわりに主観的な崇拝や支持、愛情として感じられるだけである。それゆえに自らの支払い能力の限界や不可能性といったものが見えなくなる。

 パンやビールなどの一日の食べ物の支払能力はわれわれにあるかもしれない。しかしそれが女性と子どもの生涯を買いとる能力は、生涯をかけてもむずかしい。さらに民主主義や人権、社会保障という買い物は、われわれの支払能力をとっくに超えている。したがってわれわれは膨大な負債を返すためにときには戦場で死んだり、企業で過労死したりしなければならないわけである。

 人権や民主主義、社会保障という「買い物」をすると、晴れてわれわれは「国民」のメンバーシップに迎え入れられる。しかしその高〜い買い物のためにわれわれは生涯を国家や企業に捧げなければならない。

 さて、われわれは「賢い買い物」をしたのだろうか……? それともあまりにも愚かな、愚かすぎる「悪魔との契約」をキャッシング・コーナーで結んだのだろうか……?





    スクールにでも通おうかな…      00/10/8.


 編集とかライターの仕事に憧れがある。でも私のやっている仕事はそれとまったく関係のない仕事である。こないだ、資格の雑誌を見ていたら、編集とかライターとかのスクールの存在を知って、がぜん行ってみたくなった。

 まあ私の年齢はかなりヤバイし、経歴もメチャクチャ!であるが、もしかしてスクールにでも通えばなんとか食いつなげるんじゃないかという甘い考えである。スクールにでも通わなければ、転職の手がかりすらつかめないありさまだ。

 もともと私はぼんやりと大学卒業時にマスコミを回ったことがあるのだが、就職活動がいやになり、サラリーマンになるのもいやだからということでフリーターに足を踏み入れてしまった。一度シンクタンクでワープロで作る雑誌の編集アシをしたり、経歴にもならない新聞社の「ぼうや」をしていたこともあるが、ほかはマスコミとてんで関係のない仕事ばかりだ。

 憧れがあっても、ごらんのとおり私の趣味はひじょうに特殊だ。あまり一般的な職種に活かされるような趣味ではない。だから編集の仕事なんかとはかみあわないのではないかと思う。それに私は人としゃべるのが得意ではないし、本や情報をつくり人に伝えたいという気持ちよりか、個人的に物事を探究してゆくのが好みである。どうも方向性が違う。

 ということで私は趣味と仕事をわけて考えることにした。でも自分の好きでもない、価値も意味もない仕事に人生を奪われてゆくことは、やっぱりじわじわと心を蝕んでゆくものである。求人情報なんか見るとやっぱり編集なんかいいなあと目を奪われてしまう。

 私は自分のやりたいことと仕事との兼ね合いをどう考えればいいのだろうか。といっても、仕事の選択性なんて自分にはほとんどないし、もっと現実を見すえるべきなのだろうけど。

 私は子どものころ、自作のマンガを二編ほど完成させたことがある(内容は支離滅裂だったが)。二十歳くらいには小説を何編も書いたが、けっきょく自分は小説を好きでないことに気づいた。まあなにかを創作したり表現したりする欲求が強いのだが、それを人に見せようとか評価されたいという欲求は、自信のなさと恥ずかしさからつい挫折しがちだ。

 あとは哲学とか社会学の本を読み、個人的にものを考えることをここ十年ほどの趣味としてきた。できれば、このような趣味をなんとか実益につなげられればいいと思うのだけど、実際の社会との接点はなかなか見出せない。

 自分の好みとぜんぜん関係のない仕事をやっていると、隙間隙間に不満や空しさが噴出する。そういうときにスクールの道というのを知って興味をもったのだが、どれだけ有効で、ためになることなのかかなり未知数である。

 インターネットでそういう個人の声を検索するのはなかなか難しい。スクールのパンフレットは何通か送ってもらったけど、なんだか目が回る。新たな人と出会えるということだけでも、よいことなんだろうか。ということでいろいろ迷っているが、私はどう考えればいいのでしょうか。。。





    高い買い物ができた時代      00/10/11.


 たとえばマイホームを買うと何十年ものローンを払わなければならない。一生働きつづけなければならないだろう。

 民主主義も終身保障もやっぱり高い買い物である。それを支払うには生涯を相手先に支払わなければならない。

 こういう生涯や命を払うローンが個人に可能だったのは、国家戦争と市場拡大があったからである。高い負債をかかえた個人は国家のために戦争に向わざるをえないし、終身を保障された個人は企業に滅私奉公せざるをえない。とっくに個人の支払能力をオーバーしているから、国家や企業はかれを自由にできるのである。

 しかしどうも個人にそういうローンの資格がない時代がやってきたみたいである。冷戦構造も終わったし、市場の拡大も頭打ちである。

 まずは企業が終身保障を与えなくなった。国家が民主主義や人権を与えなくなるかどうかはわからない。これからなんらかの市場が拡大するさいには、平等や人権が、上等な客をつくるからである。フォードかやったように従業員の給与をあげないことには自社製品は売れないのである。

 まあわれわれが高い買い物をできた――民主主義や終身保障が与えられていたのは、戦争や市場という時代状況があってのことである。この時代が長い間つづいたためにわれわれの意識もこの状況に合うような考え方や常識をもちあわせている。

 たとえば長期勤務する正社員がエライだの安定しているだの、社会保障が与えられるのは当たり前だとか、年金のない老後はヒサンだの、人権は守られるべきだといった常識である。

 しかし時代と常識なんてかんたんに変わる。げんざいのわれわれは国家や企業にとって必要不可欠な上客というわけではない。交換の条件がなりたたなくなった。国家や企業は高い商品を売りつける必要がなくなってきた。国民戦争と市場拡大の可能性がだいぶ薄れてきたからだ。

 ふたたび国家と企業が交換契約を破棄するかもしれない。高い保障も権利も与えないから、好き勝手に生きて、好き勝手に死んでくださいという時代になるかもしれない。それは国家や企業が人々をどれだけ必要とするかという時代状況にかかっている。

 国家や企業が労力や兵力をふたたび必要とするのなら、高い保障や人権は与えられるかもしれないが、もし必要でないなら、それらは与えられないだろう。あくまでも交換契約なのである。

 さて、こういう時代状況になるとするのなら、われわれの意識や常識はどのように合致させてゆけばいいのだろうか。国家から見捨てられるのなら、高い買い物――つまり高い欲望や高い理想水準といったものはひきさげる必要があるだろう。生涯を保障されるだの、安定を保障されるだの、そういった人生設計や理想水準は、できればひきさげるか、破棄したほうがより苦しまずにすむ。

 かつての人たちは終身のみではなく、死後の世界まで保障されていたから、宗教組織や国家に身を捧げなければならなかった。現代では終身が保障されていたから、われわれは国民となり、死ぬまで兵力や労力として奉仕しなければならなかった。

 終身や死後を守られた支配と滅私の人生と、それらを守られないのたれ死にの人生と、終身計算としてどちらがおトクなのだろうか。多大な借金は目ん玉と腎臓を売り払ってでも支払わなければならないのである。





    『フリーター150万人』      00/10/12.


 NHKでやっていた『フリーター150万人』という番組をみた。フリーターが150万人という大きな集団をなしてきた、見過ごせない勢力となってきたということがショックなら、それなりに社会へのメッセージとはなるはずである。

 フリーターはこれまでの終身雇用や滅私奉公的なサラリーマンの生き方にたいするアンチである。これまでの企業社会を拒否する若者たちの気分である。そういう生き方をする若者たちが大きな集団として認知されるようになれば、社会もそれなりには自覚するようになるだろう。

 社会保障の失敗がやはり根底に横たわっている。社会保障のためにサラリーマンは企業や国家に束縛され、不自由な生を送らされてきた。だからフリーターはそれらをブッチする。

 しかしフリーターはさすがに保障がないことには不安である。この点が最大のひっかかりであるのだが、フリーターが拒否するサラリーマンたちもこの点にひっかかって拘束されたのである。これをどう突破するかがこれからの難しい問題である。老後保障なんか、食うや食わずのほかの社会では、考えられもしないゼイタクなのであるが。。。

 短期バイトはこれはたしかにたんに日雇い労働者のなにものでもない。情報誌による新しい日雇い労働者だ。しかしアメリカの作家のソーローが自由の究極はここにあるといったわけだが、金銭や保障面ではかぎりなく不安定である。(また見た目にも汚らしいものがあるし。。。)

 高度成長をささえた日雇い労働者たちはいまや若者のストリート・ミュージシャンとともに路上にたたずんでいる。なんだか皮肉な光景である。これは若者の未来の行く末のすがたなのか、それともともに産業社会や企業社会を拒否した、あるいは疎外された同類なのだろうか。若者と老人が路上に同時発生するというのは感慨深いものがある。

 フリーターはたしかに産業論理に利用されているところがある。自由とかやりたいことを探すだとか言っても、企業に安く、必要なときだけ利用されているだけである。弱く、危うい立場である。しかし保障を求めると、不自由と拘束という皮肉なパラドクスが待ちかまえているのが難しいところだが。

 フリーターはぜひとも「文化」をつくってほしいものだ。「失業文化」であれ、「町人文化」であれ、企業や経済の論理だけでは動かない人間の文化だ。それでこそ、フリーターとして生きる人たちの価値や功績があったというものである。

 社会や公に貢献する生き方が日本人には抜け落ちているというのたしかだが、若者のミーイズムよりむしろ団塊世代の拝金主義と会社主義のほうが公に貢献したとはいいがたいのではないだろうか。もし若者が金銭論理からはなれた文化をつくろうとしているのなら、公というよりか、人間らしい生き方の筋道をつくってくれるという点で、われわれ人間に貢献するのではないだろうか。これまでの時代はあまりにも「産業機械」みたいな生き方しかできなかったのだから。

 まあ保障や安定といった点ではあまりにも不安が大きいが、そういう問題を少しずつでも克服しながら、自由で、金銭や保障だけに縛られない、文化をつくってゆくようなフリーターが増えてゆけばよいと思っている。常識や世界観といったものをビルド&スクラップしながら。

 保障や安定はあるには越したことはないが、あくまでも副次的なもので、人生の目標はそれのみにあるのではないと私は考えたい。それを目的にした人生はあまりにも本末転倒で、専業主婦的、中流階級的である(悪い意味で)。






     「戦争は語るな!」      00/10/15.


 行為の禁止は知の禁止に転がり落ちる。戦争行為の禁止は戦争を語ったり、知ったりすることの禁止や忌避に転嫁しているように思われる。

 わたしの体験では学校教育や社会教育などで、「戦争は悲惨だ」「二度とくり返してはならない」と何度も教えられてきた。こういう教育というのは、じつのところ、私に戦争を語ったり、知ったりすることの忌避や禁止だけをつちかってきたように思う。

 行為というのは知の禁止によって防げるのだろうか。一面的な知(戦争の悲惨視)だけで、戦争を防げるのだろうか。

 戦後教育の完了によって私は戦争について知りたいとも、語りたいとも思わなくなっていたが、どうやら現代の社会システムは戦争時のシステムをそのまま継承しているらしいことを最近知って、戦争の知識について無関心でいられなくなった。

 私がいちばんに問題にしている現在の経済至上主義とか会社中心主義みたいなものは、どうも戦争の「総力戦システム」によってかたちづくられ、継続しているようなのだ。現在の平和な社会においても、戦争システムはさまざまな領域で、または日常の空間でも強力に作用しているとなったら、ぜひとも戦争というものに問うてみなければならないのは言うまでもない。

 戦争時の社会システムは、まさに現代のわれわれの生き方や社会の問題なのである。

 戦後の一面的な戦争認識では、この社会の起源やなりたち、メカニズムを解明し、変えてゆくことは不可能である。われわれの現在の社会の問題は、戦争――とくに総力戦システムによって起こったといえるのである。

 したがって私には戦後の戦争観はほぼ関心がない。戦争責任とか自虐史観とか、戦術論とか兵器論というものには、これまでどおりあまり語りたいとも、知りたいとも思わない。

 現在の社会システムをかたちづくり、規定している戦争・総力戦システムというもののみに関心がある。過去を問うているのではなく、現在の、まさに日常の問題を問うているのである。

 現在の社会を知るには総力戦抜きには知ることができない。日本が近代化した理由は、もともとは西欧武力の脅威であったように、この国の起源は戦争からはじまっている。戦争を抜きにしてこの国や社会は語れない。そしていまなお強力な総力戦システムがこの社会やわれわれの生き方や常識を規定してることを無視して通れない。

 なんでも社会学や経済学すら、戦争を主要問題としてとりこんでいないようである。戦争こそが現代の社会や経済を規定づけ、動因させているともいえるのにである。戦争の知が禁止されたままではこの社会を知ることができない。




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