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1997年版 

 


  BOOK REVIEW――思考のためのブックツール・ガイド

      社会は、「共同幻想」によって、                成り立っているのか                                            1997/Spring



 社会や世界観は、「虚構」によって成り立っているのでないかという、漠然とした疑いをもちながら、しかし、自分はいったいなにを知りたいのか、どんなことを知ろうとしているのかもわからず、それでも、とにかく共同幻想について知りたいと、一心に読みあさっていった本たちです。



 ロナルド・D・レイン『自己と他者』 みすず書房 2266円


 著者はイギリスの反精神医学者であるが、この本は「分裂病」という診断が、いかにまわりの人たちの「悪意」によって下されるか、ということを描いた、まわりの人たちの見解や評価といったものがどんなに恐ろしいものなのか、まざまざと思い知らせてくれる本である。

 緊密に結びついた家族や集団は、空想的体系によって「現実」を捉えており、それがかれらの世界「そのもの」、世界の「事実」となっているのだが、そこから脱出しようとする者、あるいは違った空想の体験をもつ者には、たわけ者、悪者、狂者としてのレッテルを貼られると、レインはいうのである。

 ここではじめて、わたしは社会や集団の「認識」や「世界観」といったものが、「空想」ではないのかという見解をあたえられたのだが、わたしはこのことがものすごく頭にひっかかり、だが、この本の中ではそれ以上の考察はおこなわれておらず、わたしはこのことをもっと理解しようと、多くの書物を探し回らなければならなかったのである。



 岸田秀『幻想を語る』 岸田秀コレクション6 青土社 1800円 

      

 「共同幻想論」といえば、この人で、すべては幻想であるという「唯幻論」、あるいは「史的唯幻論」を唱えている。

 わたしの理解するところでは、科学や知識、世界観、自己や経験、過去、家族、血縁や国家、ニュースや現実といったものはすべて「幻想」によって創造されており、それをもとにわれわれは社会的行為や人間関係をおこなうという考えが、「共同幻想」である。

 つまりわれわれは言葉によって世界を構築し、その幻想をみんなで演じている、というのが、共同幻想のありかたなのだ。

 われわれが捉えている現実、出来事、ニュースといったものはみな幻想であり、事実かそうでないかは関係ない。

 事実なんか存在しないと言い切ってもよいかもしれない。

 人間という価値判断の基準をもつフィルターを通す以上、事実なんて存在しない。

 価値判断がはさまれるということは、すでに好悪や優劣の判断が入り込んでおり、それは純粋無垢の事実ではない。

 その幻想が社会基準として、使用されるに値するかしないかといったことが、問題なのである。

 われわれが真実や事実だと思い込んでいたものは、じつは、共同幻想という、われわれの社会が承認したひとつの世界の捉え方、社会のルールでしかないのである。

 (これはあくまでも筆者のわたしの捉え方であって、岸田秀自身もこのとおりのことを言っているのか、筆者のわたしにはおぼつかない)

 この本は対談集で、柄谷行人や村上陽一郎、栗本慎一郎、伊丹十三、筒井康隆、といった人たちの対談がおさめられている。



 岸田秀『幻想の未来』 岸田秀コレクション 河出文庫 580円

 自我は支えや外部の根拠を必要としており、歴史的にどのような支えがもちいられてきたか、考察されている。

 神や世間、他人といったものの承認や、「真の自己」や「欲望」を支えとしてきたことが、どのように破綻してきたか、歴史的にのべられている。

 たとえば、日本では「対人恐怖症」が多いのは、自我を他人の承認によって支えているからであり、非合理に他人を怖れることになるのだが、欧米では神による自我の支えをもちいてきたから、神にたいする非合理な恐怖をもつというのである。

 現代人はたえず自我の自律性を願うのだが、それはかならず自我の支えを根こそぎ、もぎとろうとすることになり、激しい葛藤をひきおこすことになる。

 日本人は自律した強い自我をもとうとしたが、他人の承認によって自我を支えている以上、そこをつき崩そうとするのだから、自我は不安定とならざるをえない。

 しかしその不安定要因は、それを解消しようとして、文明は「進歩」するのである。

 ヨーロッパの神経症というのは、外界に客観的な事物が存在すると思い込むことに端を発しており、だからこそ、外界の改善や進歩は行われるのである。

 それはまた、外界を変えることができなかったり、外界にふり回されたりして、苦しみの多い道でもある。



 竹田青嗣『「自分」を生きるための思想入門』 芸文社 1300円

     

 世界像とは、言葉によって編み上げられたルールにしかすぎないと、ウィトゲンシュタインやフッサール、ニーチェの理論をひじょうにやさしく、かみくだいて説明した、頭の中をすっきりとまとめてくれる良著である。

 われわれはふつう、世界の真理や客観というものは、われわれの外側にあって、言葉によってそれを「写しとる」ことができるのだと思っているが、じつはそうではなく、世界像というのは、多くの人たちの意見の調整によって生み出され、それはわれわれの生きる上での社会のルールになるのである。

 このようなことは哲学の専門の人たちには常識のようになっているらしいのだが、専門的教育をうけたことのないわたしにとっては、このような見解に出会うまでに、ひじょうに紆余曲折をへて、この捉え方を確認しなければならかったのである。

 われわれのもっている世界観は、絶対的なものではなく、ある社会での、世界についての捉え方が多くの人によって承認されたものにすぎない、という見解は、わたしの心を深くつかみ、その確認を意地でもしたいと思わせたのである。



 竹田青嗣『現代思想の冒険』 ちくま学芸文庫 680円

 現代思想の問題が、ニーチェやデリダ、ドゥルーズとあげられてゆき、その問題を近代思想からのとらえ返しとして、デカルト、カント、フッサール、キルケゴール、ハイデッガー、バタイユらの説が検討されている。

 現代思想ならびに近代思想のおおよその流れを理解するには、このようにわかりやすく説明してくれた本はほかにあまりないと思う。

 この本のメイン・テーマは、「現実」というのは人間の理性によって正しく認識されるか、ということになると思うのだが、それを否といったポストモダンは、これからどこに行くのか、といったことがのべられていたと思う。

 かなり前に読んだので、不明瞭な解説で申しわけないが、この本は現代思想に興味をもっていた当時のわたしには、ドゥルーズやデリダといった先端の思想家たちの理論がやさしく紹介されていたので、とても興味をひきつけられて読んだ記憶があるが、ポストモダンの解決が、エロスによって与えられたのはなんだか抽象的で、不満だったように覚えている。

 でも正直なところ、よく憶えていない(理解していない?)のである。



 フリードリッヒ・ニーチェ『権力への意志 下』 
        ニーチェ全集13 ちくま学芸文庫 1450円 
        第三書 新しい価値定立の原理 T 認識としての権力への意志   

      

 真の世界というのは、虚構によって、でっちあげられ、権力と安全の感情をもっとも与えられるもの――つまり権力への意志を満足させられるものが、真と表示されるとニーチェはいう。

 精神も理性も思考も、意識も真理もすべて、役に立たない虚構であり、主体も原因も事物も、そんなものはありはしないのだ、とあいかわらず息咳きった口調で語られる。

 ものすごいことを言っているようなのだが、アフォリズムという形式は、すべてを一から十まで説明してくれるというわけではないし、いくつかはわたしの頭では理解できないところがあり、残念である。

 かつてわたしは全集を何冊か読んだりして、ニーチェのどこに共同幻想について書かれてあるのかと探し回ったが、この書のなかにいちばん収められているのではないかと思う。

 仏教思想の認識論あたりを読んだあと、この書を読み返してみたら、いくらか似ている部分があり、理解しやすいように感じられた。

 ニーチェは仏教思想をどれだけ読み、どれほど影響されたのだろうか。



 ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』
                         風の薔薇刊 白馬書房 2575円
     

 真理や科学といった近代のあらゆる<大きな物語>を解体しつくしたポストモダン思想の真骨頂。

 われわれのもっている真理や常識、科学、世界観といったものが、どんなに権威や言語ゲームといったものによって正当化されているか、あっさりと白日のもとにさらけ出してくれる本である。

 神話や民衆の伝承といった「物語的知」が、それを正当化する権威を必要とせず、ただ伝達のみによってみずからを信任することができるといったことや、プラトンやデカルトの科学というのは、「物語知」といったものに依拠しないと、正当化することはできないということ、科学的知は、科学固有の言表ゲームをおこない、そのなかでの論証と証拠により正当化されるのだ、といったことなどがのべられている。

 つまりわれわれの知が、いかにわれわれによって正当化されているのか、ということを、「絶対」と思いつめてきた知にたいして、その公認のされ方を、恥ずかしくなるほど、さらけ出すのである。

 真理や科学に縛られ、そのために多くの問題や暴力に苦しめられてきたのなら、このような正当性の剥奪は、おおいにその力を発揮するだろう。



 エドマンド・リーチ『文化とコミュニケーション 構造人類学入門』 
               文化人類学叢書 紀伊國屋書店 1900円

 人類学というのは、あまり未開民族に興味をもてないのでよく知らないが、この本は記号論的考察をしており、出色である。

 人間の社会や世界というのは、すべて言語によって文節化され、それによって意味や価値が付与されるのだが、この記号やシンボルはふつう無意識になる。

 その無意識の枠組みをとり出されれば、だれだって驚くだろう。

 わたしは当時、このような分析を現代社会にこそ――われわれのまわりの日常やふだんの世界に対して適用したかったのだが、残念ながら、そのような本はみつからなかった。

 アルチュセールのような国家や企業、学校、まわりの町や警官、店や店員、にたいしてこのような分析がおこなわれてほしかったのである。

 このような記号論的分析こそ、日ごろ無自覚に生きているために、社会や人間関係にふりまわされたり、悲惨な目にあったりすることを避けるために、その意味や価値を知り、客観視するために、必要なのではないだろうか。  



 ベンジャミン・リー・ウォーフ『言語・思考・現実』 講談社学術文庫 960円

     

 われわれの世界が、他国のどこのだれとも同じであるわけではない、という新しい知識を開けてくれる、ひじょうにおもしろい本である。

 著者のウォーフという人は、「言語は世界観を規定する」といった、「サピア=ウォーフの仮説」の本人であるが、この本はその思想を、ひじょうに具体的な、日常的な表現をとりあげて説明している。

 われわれは言葉にたいして自覚的になるのはひじょうにむづかしいと思うのだが、その自然に流してしまう「言葉」といったものが、この本を読みすすむにつれ、どんどんひっかかり、ぶつかってきて、意識せずにはいられなくなるだろう。

 ウォーフが言語的分析をするようになった経緯もおもしろい。

 火災保険会社で火災や爆発の分析をしているうちに、どうも「言葉」がその原因をつくりだしていることに気づいたそうだ。

 この考えでだいじなことは、われわれの世界というものがかなりの程度、言語によって拘束されており、この外に出たり、外の世界をのぞき見たりすることは、できないのか、ということになるだろうか。

 われわれは知らず知らずのうちに、ことばによって縛りつけられている。

 ことばというのは、人工的で、人為的なもの――つまり「人工臓器」のようなものだ。

 われわれはこの人工臓器をとりはずして、「ありのまま」の世界を見ることはできないのだろうか。

 これらヨーロッパの言語学で残念なことは、言葉に感情や気分が付随していることを見逃している、あるいはとりあつかえないことだ。

 言葉に怒りや悲しみなどの感情はつながっている。

 このことをないがしろにすると、怒りや悲しみは直接、外部や物事からやってきて、われわれを振り回すと思い込んでしまう。

 言葉こそがわれわれに価値観や意味、感情をつくりだすのである。

 ヨーロッパの心理学では、認知療法や論理療法などが、このことに気づいているのだろうか。



 池上嘉彦『意味の世界 現代言語学から視る』 NHKブックス 860円

 おもしろい本である。

 前述のウォーフの本のように、言葉のズレや奇妙なところ、変なところ、といったものを日常のふつうの言葉からとりあげて、その違和感や奇異さをあぶり出している。

 たとえば日本語の青と英語のブルーの領域のちがいや、「富士山(フジサン)」を、日本語をちょっと知っている外国人が、「山田サン」などの敬称ととり違えていることや、だれでも覚えがあると思うが、「コブラガエリ」がヘビを連想させることなど、さまざまな言葉の奇妙なところがとりあげられている。

 この本の多くの例から、いかに人間がこの世界を区切り、みょうなところに線をひき、それを「実体化」しているかということがわかると思う。

 われわれはこの言葉の分類による世界がじっさいに存在していると思っているが、じつは、ほかの言葉や分類をつかう人たちには、そのような世界は存在しないのである。

 もしわれわれも世界観の下絵や背景がまったく違っていたり、まったく異なる言語を使っていたのなら、いまの世界とまったく違った世界に暮らしていたかもしれないのである。

 この本は日常的な言葉使いから、そのような世界を垣間見させてくれる。



 池上嘉彦『記号論への招待』 岩波新書258 580円

       『詩学と文化記号論』 講談社学術文庫 1000円

       『文化記号論』 講談社学術文庫 800円

 上記の作者の手による本であり、記号論についてのべられた本ということで紹介させてもらうが、記号論というのはわたしの手にはおえない。

 もうすこし文化的な分析がおこなわれていれば、おもしろかったと思うのだが、『文化記号論』にわずかばかり、「日常的な記号世界」の分析が行われているだけで、残念である。



 丸山圭三郎『言葉と無意識』 講談社現代新書871 600円

         『言葉・狂気・エロス』 講談社現代新書1002 600円

         『カオスモスの運動』 講談社学術文庫 740円


 丸山圭三郎という人は言語学者のソシュールの研究からはじめて、文化論へと広がっていったものすごい人であり、そのことはわかっても、うえにあげた三冊の本をひさしぶりに読み返しても、その言いたいことがよくわからなかった。

 竹田青嗣の説明によると(『現代思想・入門U』別冊宝島52)、言葉の世界による実体化を転覆させようともくろんでいたようである。

 つまり言葉の世界が「虚構」であるという、仏教でもいわれていることを、ヨーロッパの言語学や現代思想から、独自に導き出したのである。

 上記の三冊のいずれにも、仏教の唯識やアーラヤ識という語が出てくる理由もこれで納得できる。

 ただすぐに仏教思想にとびつかずに、ひたすらヨーロッパ思想――フロイトやラカンなどの理論を駆使して、考え抜いたところはものすごいと思う。

 しかし言語学やラカンの理論はやたらむずかしい。



 宇波彰『記号論の思想』 講談社学術文庫 960円

 記号論から現代思想――ドゥルーズやガタリ、ジャック・ラカン、ボードリヤール、バシュラール、ニーチェ、サルトル、フロイトなどを読みといた本であり、現代思想の状況がよくわかるのではないだろうか。

 しかしわたしにはいまぱらぱらと読み返してみても、なにが書かれていたのかよく覚えていないし、ということは、あまり感銘をうけなかったのではないかと思う。



 立川健二・山田広昭『現代言語論』 新曜社 1700円

 項目別に現代言語学の学者の思想や問題がならべられていて、現代言語学を知るにはひじょうにわかりやすく説明されているのではないかと思う。

 ソシュール、バルト、ウィトゲンシュタイン、あと著名な言語学者が何名かあげられている。

 言語学というのは現代思想にとって重要な問題であると思うが、ちょっとわたしには難解であり、社会の共同幻想を知りたいわたしにとっては、あまりにも煩瑣すぎるのである。

 ただこの本は現代言語学を知るには、マンガがとりあげられていたり、思想家たちの写真が多用されていたり、ブックガイドが充実していたりと、手軽な入門書として、あるいは辞書がわりとして、ひじょうによくできているのではないかと思う。



 山口昌男監修『解き語り記号論』 国文社 ポリロゴス叢書 2060円

 記号論が、日常や儀礼、舞踏、映画、商品(消費社会)、建築、都市とひじょうに大きな広がりをもって読み込まれている本である。

 期待をもって読んだと思うのだが、おそらくいくつもの論文が収録されているため、一編一編はあまり深い追究はおこなわれてなかったのではないかと思う。



 デズモンド・モリス『マンウォッチング 上下』 小学館ライブラリー 920円

 この本も記号論のカテゴリーに入れることができるのだろうか。

 デズモンド・モリスは動物行動学者であるが、この本の中で、人間のなにげないジェスチャーやディスプレイ、サインや信号、行動などに「意味」や「メッセージ」を読みとっている。

 日ごろ、無意識におこなっているこれらの行動がさまざまな意味やメッセージを含んでいることには、やっている本人が気づかないからこそ、驚きである。

 われわれはこのような文化的に規定づけられた行動を通して、自分の意志を無意識のうちに表明しているのである。

 これらも「共同幻想」が演じられたものだと呼ぶことができるだろうか。



 小坂修平他『わかりたいあなたのための現代思想・入門』 別冊宝島44 1010円

 現代思想を知るのにひじょうにお世話になった本であり、この本によっていっきょに、現代思想の展望が開けるようになった。

 このなかにソシュールの記号論がなぜ現代思想にとって大きな問題となったのかということがのべられており、ひじょうに理解しやすく説明されている。

 現代思想を理解するにはもってこいの本であり、わたしはこの本がとても好きである。

 おそらく現代思想家を「ヒーロー」あつかいしており、「ロック・アーチスト」や「俳優」「文化人」などに憧れてきたわれわれにとっては、なじみやすいのではないだろうか。


 吉本隆明『共同幻想論』 角川文庫 500円

       

 「共同幻想」そのものずばりの本だが、残念ながら、わたしはこの本の中から、なにかを学んだとは言いがたい。(読みこめなかった?)

 現代社会の分析ではなく、民族学的なものであったからだと思う。

 あえてインパクトを与えたところを抜き出すと、表紙に書かれている

 「国家も共同の幻想である。風俗や宗教も法もまた共同の幻想である。

 ……さまざまな共同の幻想は、宗教的な習俗や倫理的な習俗として存在しながら、ひとつの中心に凝集していったにちがいない」というところである。



 加藤秀俊『情報行動』 中公新書306 680円

 著者は社会学者であるが、「つくりものの世界」や「想像力のかなた」といった項目からこの書こそ、わたしの知りたい共同幻想について書かれているかもしれないと思ったが、かなりの程度はそうだと思うのだが、かなりやさしく書かれているために深みや重みがなかったのが残念である。

 人間はシンボルの世界によって実在の世界から乖離してしまっている、

 このシンボルの世界とはどのように構成され、構築されているのか、そしてその世界は、「空想」や「絵空事」のカテゴリーに入るのか、おそらくわたしはこのようなことを解きたかったのではないかと思う。



 村上陽一郎『近代科学を超えて』 講談社学術文庫 700円

        『科学・哲学・信仰』 第三文明社 レグルス文庫73 700円

       

 科学もひとつの「共同幻想」にほかならないのではないかと思って読んだ本。

 科学というのはどんどん新しい発見がなされ、新しい世界観に書き換えられてゆくのだが、昔の人たちはその間違った科学観による世界像を「事実」のもの・「真実」として、その像を「世界そのもの」と思い込んできたのではないだろうか。

 現代のわれわれが信じている科学観や世界像も、のちの時代にはうち棄てられて、まったく用をなさなくなっているかもしれないのに、それは「世界そのもの」、「世界の事実」として信じ込まれているのではないだろうか。

 キリスト教の世界観もそうであり、仏教の世界観、イスラム教の世界観、社会主義の世界観、あるいは現代のマスコミによる世界観も、それらを信じている者には、世界「そのもの」になっているのではないだろうか。

 われわれの固く信じている世界像というのも、このように「共同幻想」にほかならないのではないだろうか。

 このようなことを考えるさい、これらの科学史の本は参考になると思う。



 ハーバート・バターフィールド『近代科学の誕生 上下』
                            講談社学術文庫 580円

 近代科学の歴史がコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、ダーウィン前夜まであげられている。

 科学学説誕生のドラマが、物語のように読める。

 だいぶ前に読んだのでよく覚えていないが、読んでいるときにはなかなかおもしろかったのではないかと思う。

 上下巻とも薄っぺらい本で、読みやすい。



 村上陽一郎編『現代科学論の名著』 中公新書922 540円

 ホワイトヘッド、クーン、ファイヤアーベントなど科学論の名著が紹介されている。

 この中公新書の「名著シリーズ」は、ほかに「世界の名著」や「社会学の名著」などがあって、どんな本を読めばよいかわからない者にとっては、ひじょうに重宝する。

 著者のかんたんな経歴や著書の位置づけなどが触れられているのがいい。

 「名著」とよばれるものなら、とりあえず読んでみても、ハズレはないかも?



 廣松渉『世界の共同主観的存在構造』 講談社学術文庫 1000円

 たぶん、「共同幻想」に近いことをいっている本だと思うのだが、おそらく、「物象化」という言葉を使っていたりして、もしかして、わたしの知りたいことや関心領域とひじょうに近いのではないかと思うのだが、熟語が難解すぎて、なにを言っているのかよくわからない。

 あまりこういう熟語にひっかからないで、前後の脈絡から読めば、意外とわかりそうなのだが、いつか読み返そうと思いながら、それが果たせないうちに、わたしの関心はほかのものに移ってしまっていた。

 わたしにとって、「惜しい」本である。



 養老孟司『脳の冒険』 知的生きかた文庫 三笠書房 500円
 養老孟司・立川健二他『脳・心・言葉』 光文社 カッパ・サイエンス 890円

       

 著者はNHKなどにたまに出ているしゃべり方のシブイ人だが、共同幻想にかかわる「脳化社会」については、後にあげたカッパ・サイエンスの本がくわしい。

 都市や社会は、自然にたいし、予測や制御をおこなうとする脳のはたらきが、外部化されたものであるといい、それを「脳化社会」とよんでいる。

 つまりわれわれのまわりの都市や社会というのは、すべて脳によって創造されたものであり、もともとは「虚構」であったものが、現実に出現させられたものであり、われわれはその脳のなかの「虚構」の世界に住んでいるといえる。

 これは都市や建築だけにあてはまるのではなく、国家や企業、学校、病院や店舗、あるいは社会人や学生、店員や顧客、親や子ども、警官や市民、などの社会の役割にもすべてにあてはまるものだ。

 われわれは予測や制御のできる世界だけにとり囲まれて安全に暮らそうとし、江戸時代以降、制御不能の自然を排除してきたと著者はいう。

 この自然はわれわれの身体自身もそうであり、そのために裸や死体、病気などがわれわれの目の触れないところに隠されてきたという。

 著者はまた、数字や国家、神、またはカマキリの一種など、それを信じたり、知っている人以外には、存在しないといっている。

 つまり、言葉がその実在性をつちかっているのだと指摘しているわけだ。

 このようなことは、わたしの関心とぴったり一致するのだが、この人の著作は日常のいろいろなことのコラムやエッセーが多く、ひじょうにおもしろいものの見方や指摘をして愉快なのだが、「脳化」をテーマにもっと深く掘り下げてほしいと思う。





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 BOOK REVIEW
 「トランスパーソナル心理学は、恐怖や悲しみを終焉させることができるのか」へ

 「共同幻想」のつぎには、「自我」や「思考」も幻想ではないのか、という問いに結びつけなければならない。

 このページはその問いに答えてくれるであろう書物についてのべています。

 「仏教・インド哲学は世界を実体なきもの、「空」と見なすのか」へ

 視覚や物体、そしてわたしの身体にすら、実体はないのか。

 仏教はこのことを理解させてくれるだろうか。

 「現代人はなぜ、「みんな」と同じ生き方しかできないのか」へ

 現代人の画一性は、共同幻想によって規定されているのではないか。

 だれもが同じ生き方しかできない現代人の貧困さを探ります。


















■共同幻想論


『自己と他者』 レイン みすず書房










『幻想を語る 岸田秀コレクション』 青土社



































『幻想の未来』 岸田秀 河出文庫
























『「自分」を生きるための思想入門』 竹田青嗣 芸文ライブラリー 5























『現代思想の冒険』 竹田青嗣 ちくま学芸文庫
















『ニーチェ全集〈13〉 権力への意志(下)』 ちくま学芸文庫























『ポスト・モダンの条件』 リオタール 風の薔薇刊 白馬書房

























『文化とコミュニケーション』 リーチ 紀伊國屋書店


















『言語・思考・現実』 ウォーフ 講談社学術文庫











































『意味の世界』 池上嘉彦 NHKブックス











記号論への招待

詩学と文化記号論―言語学からのパースペクティヴ

文化記号論―ことばのコードと文化のコード



『言葉と無意識』 丸山圭三郎 講談社現代新書

『言葉・狂気・エロス』 丸山圭三郎 講談社現代新書

カオスモスの運動




記号論の思想






現代言語論―ソシュール フロイト ウィトゲンシュタイン










説き語り記号論 新装版










『マンウォッチング〈上〉』 モリス 小学館ライブラリー










『わかりたいあなたのための現代思想入門』 小阪修平他 別冊宝島 (44)








『共同幻想論』 吉本隆明 角川文庫ソフィア















『情報行動』 加藤秀俊中公新書








『近代科学を超えて』 村上陽一郎 講談社学術文庫


科学・哲学・信仰






















近代科学の誕生 上 (1)








『現代科学論の名著』 村上陽一郎編 中公新書






『世界の共同主観的存在構造』 廣松渉 講談社学術文庫







『脳の冒険』 養老孟司 知的生きかた文庫

脳・心・言葉 なぜ、私たちは人間なのか





   
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